下
住んでいた場所には是が非でも帰りたくないが、いつかは帰らなくてはいけない。フォールは帰る日を延命し続ける日々を送っていた。あの町に帰れば責められることが分かりきっていた。責めない人でも、失望することが分かっていた。失望しない人でも、心が曇ることが分かっていた。
我儘が許されるのなら、ほんの少しでも皆の心に影響を及ぼしたくない。帰っても、皆自分に注目をしないで欲しい。自分が島巡りで失敗したことを大事件のように捉えないで欲しい。できることなら、何も起きなかったことにして欲しい。夜中こっそり帰ってきて、布団に潜って眠って、新しい一日がやってきたとき、誰も自分がいることに違和感を覚えずに日々を過ごしていて欲しい。
フォールは先程からずっと、夜になっても、ポケモンセンターの前で頭を抱えて座っていた。その前を一人の警察官がさっと通り過ぎていった。
そして夜中にまでなったあるときのことだった。
「お金、いくらか貸してくれないか?」
フォールの傍に一人の酒焼け声の男が、まるで、草むらから飛び出してくるポケモンぐらい唐突に現われた。フォールの人生を後に著しく狂わせた人間の一人だった。そいつはいかがわしき屋敷を二つの意味でいかがわしくした、あの張本人だった。
「なあどうしても金がないんだ。貸してくれよ」
顔を上げると一人の年上の男が掌をこっちに見せている。これは喝上げか。優しく脅す方の喝上げか、と思った。
しかし心が瀕死状態のポケモンよろしく状態の彼は、ただでさえ喝上げは怖いのと、走って逃げたりするのも億劫だったので、あっさりとお金を渡してしまった。
彼から貰った紙を手にすると男は、
「よし、飲もう。俺が奢ってやるよ」
『No Longer Human(人間失格)』で主人公が堀木に誘われる場面の真似をしているつもりなのか、男ははにかみながらそんなことを言い放った。
フォールは男の誘いの意味が良く分からず呆然としていた。奢ってやるって、今自分がお金を貸したのに。
フォールは、まるでナンパされた女性のような感じでおどおどと、嫌な予感しか漂わせていない男の後ろを付いていった。
飲もうと言われた訳であるが、お酒なんて今までの人生で一滴も口にしたことがなかった。この世界ではお酒もタバコも十歳から嗜むことができるという大変不健康なルールになっているのだが、この島の中に限っては、二十才未満の子がそういうのに手を出すのは、あまりよろしくないという雰囲気があった。十歳からそれらに祭事以外で手を出すのは不良のすることだ、とまで言われていた。だからフォールはその雰囲気を感じ取り、酒を飲まなかった。
しかし、今までアルコール類飲んだことないですと言うタイミングもなく、勝手にアローラ酒を注文する男を喰い止めることができなかった。仕方なくフォールは本当に少しずつ飲みながら、早くこの訳の分からぬ時間が過ぎることを祈った。
向かいに座った男は殆ど黙り込んでいる彼とは対照的に、エゲツない速度で情報量が半端ないことを喋りまくっていた。しかもテッカニンの特性の如く、時間が経てば経つ程話すスピードが上がっていった。
フォールは話を半分も理解していなかったが適当に頷くことはした。頷くことは彼が幼いときから得意中の得意なことであった。上の電気を見上げて不意に停電が起きたりしないかと夢想した。
男は主に、この島に対する愚痴及び、島巡りという儀式に対する不満を話した。島巡りなんてやらない方がいい。こんなことやっても対して面白くない、等とボロクソに叩いていた。
この男の話は危ない橋も渡っていた。島の守り神である『カプ』達の悪口も平然と言った。裁きの鉄槌を食らってもおかしくないことを話した。フォールはこの話のときにはなるべく下を向いていた。こっちを睨んできた他の客がいたし、睨んでいない人まで睨んでいるように見えた。
そして何故かこの男は、物事の例えとしてやたらとおっぱいを使っていた。これに関してはもう完全に意味が分からない。
「皆島巡りばかりに注目しすぎだ。島巡りに成功するか否かで、その人の人格を決め過ぎている。もっと広い視野を持つべきなんだ。島巡りばかり注目するのは、女性のおっぱいだけを直視しているのと同じことだ。他にも見るべき点は山ほどあるのに、奴らは変態だからおっぱいばかり見てやがる。そうだ、アローラにいる奴らは皆変態なんだ。おっぱい以外もちゃんと見ている奴らがいる場所に、いずれ俺は行こうと思っている」
変態なのはお前の方だろう。こいつは馬鹿であろうか。と、体の中に処女酒が回ってきたのもあって、そう見下すようになってきた。見ず知らずの他人を飲みに誘って、愚痴を人に話してストレス解消しているという愚かさを心の中で嘲笑った。彼が嘲笑うときは決まって心の中だ。
フォールは次第にこの男に優越感も抱くようになった。どこまで自分が堕ちていようが、島巡りに失敗しようが、この男よりは絶対に上だ。そう思った。そう思って少しだけ気分が良くなった。
その後いつの間にか寝ているフォールを男が叩き起こし、彼をとある町へと連れて行った。
その町には一般の人が立ち入りできぬよう鍵が掛かっていて、男は手に持った鍵で扉を開けた。寝ぼけた頭でぼんやりと、フォールはまずい予感を抱いていた。
町はとても汚い。ゴミが地面に落ちているのは至極当然許されるといった主張を感じた。車や壁にはペンキで描かれた無数の落描きが散りばめられていた。
町の奥まで行って、そして、あの屋敷の扉を、男は開いた。それが、幕開けだった。
屋敷の中は更に落描きだらけだった。そして中に黒い服を着た怖い人間がたくさんいた。彼らはただの昼夜逆転集団ではないことは、寝ぼけた彼の頭でもはっきりと分かった。
「新入りか」。誰かがそう言った。自分を連れ去った男が「違う」って否定すると思っていたが、男は口を開くことすらしなかった。責任感は? って言葉が彼の喉仏まで上ってきた。
「新入りかって聞いてんだ」。誰かが怒声混じりの声を発射して、いよいよ彼の体が震えを開始する。
そして、彼はついついの癖で、首を縦に振ってしまった。
これでスカル団という、ならず者組織への入団が決まってしまった。
ただ一度所属しようがさっさと抜け出せば良い話。フォールは明日にでも、この汚い町からこっそり逃げ出すことを考えていた。しかしその日になると、逃げが発覚して追われるとまずいから明日にしようという余計な弱気過ぎる考えが浮かんでしまい、結局動くことができなかった。
スカル団に入って二日後に初めてそれらしきことをやった。やったではなく、やらされたと言うべきか。
この『ポータウン』の周辺を怪しげにウロウロ歩いている何者かが一人存在するらしく、その人間をとっ捕まえて懲らしめてこいとのこと。フォールは命令に背くことができず黙ってポータウンの外へと向かった。このまま逃げ出せるのでは? というアイデアも浮かんだが如何せん勇気が足りなかった。
なんとか怪しいうろうろしている人物を発見できた。だがフォールは、スカル団から抜け出す勇気もない癖に、スカル団として活動する勇気もなかった。怪しいその少年に近づこうとすらしなかった。
怪しい少年はフォールと目が幾度か合っても、全然この場から去ることをしなかった。何を考えているのか検討が付かなさ過ぎて、フォールはより一層、この少年にぶつかっていく意思がなくなっていった。
そんなときの、ことだった。
『あの小僧とバトルをして、ギタギタに潰すロト』
ここ二日音も立てていなかったロトム図鑑が、突如鞄の中から独りでに飛び出してそう言ったのだ。
これまで、自分を導いてきた存在。スカル団に入ってもなお継続して導いてくれるのだろうか。
彼の中で弱々しく光る赤の信号の光が途端に消滅、変わりに青の信号が眩く光を放った。今ここにこうしていること。これからやろうとすること。それら全てが正しい物にリバースした瞬間だった。
彼の拳が、少しずつ固く握られていく。
『島巡りをしているあの少年に勝利するロト。あいつに勝利すれば島巡りで挫折してない人よりも、優れていることが証明できるロト!』
背中を強く押されたフォールはいよいよ少年にバトルを申し込んだ。申し込み方が異端で異常だった。何も言わず、ただ相手を人差し指でさして、そして鋭く睨みつけた。
少年はポケモンを繰り出した。その少年はさっきから、何故か動揺を全然見せない。
結果はフォールの圧勝だった。驚く程簡単に勝利することができて、少し拍子抜けしたぐらいだった。
バトルで高鳴っていた心臓が落ちついて我に帰った後、「なんてことを自分はしたんだ!」、と、激しく己の愚行を後悔した。だが、
『喜ぶロト』
その一言で、後悔したことを後悔した。
『この光景を写真に残すロト』
ロトム図鑑の画面が自動的に、今まで見たことがない物に変わった。
ロトム図鑑には、『ポケファインダー』という写真が取れる機能がある。フォールはこの機能を全く使っていない、どころか、存在すら完全に忘却の彼方へと追いやられていた。
ポケファインダーで、バトルで最後にフィールドに出していたヤトウモリの写真を撮った。 その写真を世界に配信すると、写真を賞賛する声がわっと送られてきた。反応数が数値としてロトム図鑑に表示された。『記録更新ロト』。ロトム図鑑がそう言った。初めての使用なのに何故か、反応数の記録が更新されたとのことだった。これはおかしいが、それでも更新されたと言われて何処となく嬉しかった。
しかし喜びも、数分経っただけであえなく冷めてきた。そして後悔が再び湧き上がってきた。ロトム図鑑に見せびらかすように頭を抱えた。だがロトム図鑑は何の反応もない。どうやら充電切れみたいだ。
もはや傍から見て情緒不安定な人間と化した彼に向かって、島巡りの最中らしい少年が近づいてきた。そして、衝撃的なことを言い放った。
「ありがとうございます! これで島巡りを止めるための口実ができました!」
少年はこれ以上ないという程の、嫌味もない屈託もない完璧な、太陽のような笑顔を浮かべていた。
つまりこの少年は、スカル団を利用した。島巡りを止めたいと思っていたが、フォールと同様、周囲の目も合って止めにくくなっていた。そこで、ポータウンの前でスカル団を待ち伏せし、そして、無理矢理バトルを申し込ませて、手加減をしてワザと負けて、「スカル団に邪魔をされた」という島巡りを断念するための口実を、作り上げたという訳だ。
先程の勝利は真実ではなかったが、そこに、フォールは目を向けず、ただ、お礼を言われたという事実の方だけに注目していた。自分の行為が曲がりなりにも人の役に立っていることで、多少なりとも嬉しく感じてしまった。
悪いと思っていたその非行。
けれどもそれは実はそこまで悪くないのか。
そこから三日が経過したとき、フォールは他のスカル団の方々とポータウンから出た。本日は皆で島巡りをしている人らの邪魔をする予定であった。
三夜明ければもう島巡りをしている人を止めさせることが実は良いことなんじゃないか、という考えは流石に消え失せていたから、フォールは、なるべく他の人達に任せるようにできないか、そればかりを考えていた。
だが、島巡りをしている人に声をかけられる前に、この場に警察がやってきた。他のスカル団の人達は、一目散に逃げ出した。彼らの逃げ足は非常に速かった。
一方でフォールはその場から一歩も動かなかった。ただ下を向いて俯いていた。警察の方は見ないようにしていた。
もう楽になってしまおう。せっかく警察が自分の付近にいて、しかも、捕まえようとしているのだ。有難く捕まえて頂こう。捕まえて貰えば、自分は救われるのだ。フォールはそう考えた。それは、確実に良い手段のように思った。
だがしかし。警察は大部分のスカル団の連中が逃げ去ったのを見て、もう諦めて振り返ってしまった。予想外の警察の動きにフォールは呆然とした。
おーい。
まだここに残っているよ。
そんな彼の、悲痛な心の叫びは届かない。
悪い奴を一人捕まえても仕方がない。捕まえた後色々と手間も掛かるから、見なかったようにしようという考えが、あの警察にはあったのだろう。
当然と言えば当然だ。こんな小物に構っている暇があれば、もっと重大な仕事がたくさんある。もっと大きな犯罪を喰い止める作業がある。彼らは常に多忙なのだ。
そんな警察の事情は知らないので、何故自分を縄で縛ってくれないのか、フォールは激しく警察に失望していた。あいつは職務怠慢だと思った。
捕まえてくれないということは、このままスカル団を続けて良いってこと? 正直やりたいことあるよ? 島巡りの試練とか正直恨み結構あるよ。島巡りに失敗しただけで責められるのはおかしいと思っているよ? 異常だと、うん、思っているよ。色々と溜まっている鬱憤を、消化してもいいの?
そして、それらの行為を正当化していいの? 当然のことだと思っていていいの?
『良いロト。君は正しいロト』
昨日電気をいっぱい食べてすっかり回復したロトム図鑑が、彼の気持ちを察してそう答えた。
大いなる肯定を頂戴したフォールは、誰もいない草原で一人静かに微笑んだ。心地良い風が肌の上をタッタと駈けていった。
こうして彼は、スカル団にずるずると居続けることになった。こうして、この少年は『堕ちた』のだ。紛れもなく道を踏み外したのだ。
そして、今に至る。
ミミッキュの試練の場所を荒らし終えた。ミミッキュの影が遠くの方に少し見えた時点で、彼らは逃げ去った。やはり彼らは、逃げ足が速い。
星が見えない曇った空の下、スカル団はおのおの帰宅を開始する。近所迷惑にも雄叫びを上げている者もいた。
フォールも真っ先に帰る所だった。その帰宅途中のことであった。彼にとっては大事件とでも言うべき事態が起こった。
唐突に、何の前触れも見せてくれることなく、まるで横から槍で刺すように、彼に悪意のある言葉を投げかけてくる者がいた。
「アローラのならず者は皆、太陽の光にも月の光にも照らされぬよう、土の中で永住すべきだ」
それはスカル団に対しての常套句。ならず者は皆死刑になるべきという行き過ぎた思想から生まれた言葉。
振り返る。杖をついた島の老人が厳かな表情で立っていた。この老人は見ていて少し痛々しくなるぐらい腰が曲がっていた。老人は朝起きるのが早い。この老人は特に早いのだろうか、今はまだ深夜なのに早朝の散歩をしているみたいだ。
老人は咳をこんだ。彼を睨みつけた。次に何を言ってくるんだろうとフォールはビクビクしていたが、老人はもう何も言わず去ろうとしていた。
フォールにこんなことを言ったのは恐らく憂さ晴らし。彼を正そうとかそういう真っ当な意志はなかった、と思われる。そうだと彼は思いたかった。そう思うことで少しだけ自分を正当化できた。
そこまで厳しい口調で言われてないのに、そして、たった一言だけで追い打ちも喰らってないのに、フォールは老人の発言に、自分でも驚愕する程深く抉られるように傷ついた。幼い頃から人に怒られることを激しく恐れていた彼は、スカル団に入って初めて面と向かって非難を受けた。
『あのクソジジイの腰を強引に垂直に戻すロト』
その場の空気が全く読めない人工知能が大きい声で叫んだ。さっき音量を一番下まで下げた筈だ。ロトム図鑑は自分で勝手に音量を最大にしてしまったのだろうか。今までは、そんなことしなかったのに。
フォールは慌てて音量を下げた。もう遠くまで行ってしまった老人はこっちを振り向いたりはしていない。今のが聞こえたのか聞こえてないのかは分からないが、一応フォールは安心した。
帰宅したフォールは、家の電気も付けずに、この狭く汚らしい部屋でしばらく懊悩とするハメになった。彼の心はあまりにも傷つきやすく、そして修復が困難であった。少年の頃から心の強度は全然上がっていなかった。
それから翌々日になったとき、フォールは他のスカル団と共に、とある場所の見張りを担当していた。メンバーは彼を含めて五人。
フォールは昨日懸命に考えそして纏めた思想を、この四人の前で、まるでプレゼンの如く大々的に発表しようと決めていた。
彼は一昨日の心の傷を一刻でも早く完全修復すべく、誰でも良いからスカル団の人に同調を得ようと思っていた。そして大いなる自信を培おうと思っていた。その自信を使って命を繋ごうと思っていた。
彼は、島巡りで失敗した者が皆から蔑まされていることについて、あることを思っていた。これは、いつか皆の前で話そうと前々から温めていた話だった。その話を昨日改めて練り直し、そして丁寧に纏めた。この話をすれば絶対に皆から凄いと絶賛されると、物凄い自負を抱いていたものだった。
彼がやろうとしていることは殆ど、「俺の鉄板の愚痴を聞いてくれないか」と同一のものであるが、そのことに、彼は自分で気がついていない。いや、うっすらと気がついていたが、もう矛盾をある程度は孕んでいてもしょうがないと開き直っていた。
見張りの最中にフォールは皆に声を掛けた。彼の方から話を持ち出すことなんて滅多どころか今まで全くなかったから、ある程度皆興味を抱いている表情をしていた。
「何故アニメとかドラマとかゲームとか、そういう物語上のならず者や悪役に対して、『自分はこいつ好きだ』って述べる視聴者や読者が多いんだろう。本当に良く、皆言っている。こいつは確かに悪役だが、裏ではゴミ拾いとかしている良い奴に見えるとか。電車ではお年寄りにちゃんと席を譲ってそう、とか。そういうギャップがあることを望んでいる」
「でも現実のならず者や挫折した者、ひいては我々みたいな連中に対しては、裏ではゴミ拾いしてそうなんか絶対に言われることはない。それどころか、あいつらはどうせ脱税とかもやっていると、あらぬ疑いをかけられている。もっと醜い人だと、あいつらは全員死刑になるべきだなんてことを平然と言い放つ」
「それは何故か。昨日理由を考えてみて、はっきりとした答えが出た。現実世界では、ならず者が挫折してきたことを、皆問題なく乗り越えてきている。だから、皆平気で見下したりするんだ。自分が努力して成し遂げたことが、あいつらはできていない。それは努力不足だ。才能の問題ではない。だって才能がない凡人の自分ですら成し遂げたられたのだから。そして努力不足は本人の自己責任であり、それについてはどれだけ批判しても構わない、と考えている」
「けれども、空想上の世界の悪役が挫折したり間違えたりしたことは、自分がちゃんと成せるかどうか、証明のしようがない。だから見下せない。それどころか、その世界がとても厳しい環境だったりすると、可哀想、と同情する人がいたりする」
「おかしいと思わないか。挫折の原因なんて、人それぞれだし、境遇も才能も皆バラバラだ。だから、他人の挫折を責める資格なんて、どこにもないんだ。それなのに島巡りで失敗した人を強く責めるんだ」
「……」
「……」
フォールが話終えた後、だいぶ長い時間皆沈黙していた。流石に拍手が湧いたりはしないか、賞賛はされるだろうとフォールは思っていた。
そして、誰かがぼそっと言った。
「正論、だと思う」
フォールの心が跳ねた。そうだ、やはり自分が思っていたことは正しかったのだ。スカル団を見下す権利はどこにもない。故にあの老人の発言もおかしい。
「でもさ、」
しかし、その男はまだ何か言おうとしていた。
「それを、自分で言ったらおしまいだろう」
「……」
エアコンの暖房を付けたと思っていたら、実はずっと冷房になっていた感じを覚えた。
また、他の誰かがこう言った。
「良く分からないけど、嫌われたっていいじゃん別に。だって、実際悪いことしてるんだから」
更に他の誰かが矢継ぎ早に言い放つ。
「そんなに悪者扱いされたくないなら、スカル団辞めればいいじゃねえか」
フォールは誰とも親しくない。彼のことを厳しく言っても誰からも脅かされないから、皆安心感を持って、彼の言動に対してそれは変だときっぱり言い放つことができる。彼をいくらでも否定できる。
皆から受け入れてくれると思っていたことを受け入れてもらえない。そのショックは大きい。恐ろしく大きい。
自分より頭が悪いと思っていた人に色々言われ、それに何一つの反論もできなかったことも、ショックを受けた。
幼い頃に褒められ過ぎた彼はちょっとの反論にも深く傷つく。
スカル団以外にも、悪の組織と世界から謳われている存在は、この世界にいくつかいて、それぞれ各地方で活動を行っている。それらの悪の組織はだいたい大別して二種類に分けることができる。
自分達が悪いと自覚して行動している組織と、自分達が悪いと思わずに行動している組織だ。
ではスカル団はどちらなのかというと、大部分の人は前者にあたる。自分達は町の不良だと自覚して活動しており、自分達のやっていることは肯定されないと思っていて、自分達はどうしようもない連中であると分かっている。分かった上で行動している。
前者と後者ではどちらの方がタチが悪いのかというと、断然後者である。自分達が悪いと思っていない者たちは往々にして暴走する可能性が高い。世界を我が物にしようとするような、危険人物へと成長することもある。
彼が優等生だという神話は、島巡りに挫折した時点で完全崩壊した筈なのに、彼は胸の奥底では、まだそれをうっすらと信じていた。だから周囲を見下しても良いと思っていたし、自分は未だ正しい道を歩いているのでは、という愚かな幻想を抱いていた。
スカル団は、皆自分達が悪いということを自覚していた。自分が悪者で、どうしようもない奴だと思っていた。自分を正当化することをしなかった。
それが良いかどうかは分からない。結局非行をなしている訳で、悪いことを自覚しているから良い、という訳ではない。その方がまだマシ、ぐらいか。
いずれにしても、彼はスカル団を辞めることは難しかった。もう彼の手は真っ黒に染まっていて、殺菌が不可能な状態と化している。幼い頃から捻くれていた彼は、島荒らしをすることに快感を抱くようになっていた。スカル団として活動することが、正直楽しかった。
彼はもう手遅れである。一度道を踏み外したら、もう引き返すことはできない。許されない。
だったら、今はせめて……。
本日は島の海岸と海を非行場所とし、骨のないスカル団の連中は海のポケモン達を片っ端から捕まえていた。捕まえた後は高値で『闇』に売りさばこうとしている。スカルの活動の中で唯一利益を得られることであり、皆やる気に満ちていた。スカル団の人達はだいたい極貧生活を送っており、なおかつ、組織を運用するための金は一人の一人の半強制的なカンパに頼る所が大きいという悲惨な状況であったから、カンパの額が少しでも減るように皆懸命にポケモンを捕らえた。
フォールは暗い感情を心に抱えながら、とりあえず作業しているフリだけしようと海岸沿いを適当に行ったり来たりしていた。
空が橙色に化けてきた頃、フォールはヒドイデというポケモンを見つけた。ヒドイデは、非常に珍しいポケモンと言われている。とりあえずこいつだけ捕まえといて、作業していたという承認を得ようか。彼はそう考えた。
フォールは手持ちのポケモンを出してサクッとヒドイデを弱らせた。そしてボールを手に持った。悪の組織が使っているイメージのある、ボールの中から電流が出たりするものではなく、至って普通のモンスターボールだ。そんな優秀なボールをスカル団が用意できる訳がない。フォールはボール投げてヒドイデを捕まえた。
ここまでは普通のトレーナーの行動と大差ない。この後『売る』という行為をすることによって、非合法的なものとなる。
ヒドイデを捕まえたボールをしまった後、何やら岩陰から一匹のポケモンが現れた。
それはサニーゴというポケモンであった。そのサニーゴは頭のサンゴが齧られて一つなくなっていた。フォールは幼いときに読んだ、あのヒドイデの図鑑の説明文を思い出した。
ヒドイデはサニーゴを捕食する。
幼いときは「幼稚だなあ」と思っていた「ぞ」で終わるあの説明文。今ではむしろポケモンの残酷性と自然界の厳しさをより際立たせているように感じる。
頭部が失われたサニーゴ。恐らく先程のヒドイデに狙われていたのだろう。そして彼が今ヒドイデを捕まえたことにより、サニーゴは安全になった。つまり彼がサニーゴを。
血の色を思わせない哀れな赤い夕焼け空が、目を背けようとして見上げた場所一体を、この泣きたくなる感情から逃がすまいと言わんばかりに綺麗に覆い尽くしている。子供が書いたようなぐにゃぐにゃのへの字の列をなしたキャモメの群れが、山脈の方へとたった今通り過ぎ去っていった。水平線の向こうでは豆電球に似た白い光を放つ太陽が静かに海上を見守っていた。
サニーゴの後ろには、ヤドランに噛み付いているシェルダーに近い形の貝殻が、無造作に一つ転がっていた。サニーゴはその貝殻を発見すると微笑み、彼に貝殻を差し上げようとして、体をずるずる引きずって、貝殻を手前に持って来ようとしていた。頭のサンゴをギザギザに噛み千切られた痛みで、その目にはうっすらと涙が滲んでいた。
ヒドイデは食いそびれたみたいで、切れたサンゴは宙にプカプカ浮かんでいた。流されてきて、彼の足に触れた。拾うべきか迷っている間に、サンゴはどんどん後ろへ旅立っていって見えなくなってしまった。
サニーゴの切られたサンゴの箇所に、丁度光が当たっていて、丁度彼の目の所に反射してきた。
ヒドイデを捕まえたことによって、救われた命。
喜ぶな。悦に浸るな。何も思うな。彼は、そう、自分に、絶えず、ひたすら、言い聞かせていた。
自分が関与したことで、サニーゴが助かった。そのことを、自分が、悦に浸らないからこそ、だからこそ、ここは、美しい光景でいられるのだ。
ヒドイデを捕らえたことによって、救われた命。
自分が喜ぶと、何もかも台なしと化す。輝かしい夕焼けも途端に滑稽になる。海は油で濁っていく。太陽は見放す。見放して沈んで暗くなる。それは、頭でははっきりと理解している筈なのに、彼の心は、自分を自分で何がなんでも、正当化させようとしていた。
ポケモンを売るといういかにも悪人が為す行為。しかしそれによって救われた命もある。だが、だからといって、売るという行為自体が正当化される筈もない。そんなことは、誰だって分かる。なのに、彼は自分で自分を少しだけ、今、誇らしく思ってしまっている。愚。
――そんなに悪者扱いされたくないなら、スカル団辞めればいいじゃねえか。
以前言われた言葉が、脳内でしきりに復唱される。
そもそも自分は、サニーゴを本当に救ったのか。そうだ、救ってない。このサニーゴは、いずれ他のヒドイデに、もっと痛みを伴うように喰われるかもしれない。自分がここで関与した結果、逆にサニーゴを不幸にさせた可能性もある。そうだ、そう考えれば良い。
いやでも。だとしても、このサニーゴの命を何分か何時間か何日か引き伸ばしたことは善いことではないだろうか。そう、だ。
ああ、また正当化させようとしている。これだから自分は。
こういう風に、サニーゴを命を使って自分を正当化させようとしている時点で、自分は悪人なのでは? そうだ。そうやって考える手があった。
それに、自分は別にそもそも、助けようとして助けた訳ではない。悪行をしようとした結果、たまたま助かっただけだ。
ああ! けれども、それらは関係ないのでは? 自分がどう思ってようが、動機や目的がどうであろうが、サニーゴの命を助かったという事実が大事な訳で。やらない善よりやる偽善。この言葉をこの状況で使用するのは少しずれているか。
あれこれ考えている内に、海がだんだん冷たく感じてきた。なんで、こんなことで、こんなに考え込んでいるのだろう。こうなったのはサニーゴが自分に好意を向けたせいだ。黒い格好をしているのだから、もっと自分を怖がれば良いのに。
だんだん、このサニーゴが憎たらしくなってきた。ああそうだ。もっと憎もうこのサニーゴを。そうしてこんな風に逆恨みしている自分をうんと下げよう。
そもそも、『ヒドイデを捕まえた』っていう言い回しからまず問題があるのだ。『捕まえた』だと、普通のトレーナーがやっていることと、変わりがないみたいではないか。言い方を、ここは変えなくてはいけない。そうだ、自分は売ろうとしているのだから。
ヒドイデを売ろうとしたことによって、救われた命。
どうだ。これならもう、自分を正当化できやしない。正当化できるどころかもう、自分を下衆な人間としか考えられなくなるだろう。
いやしかし。船に乗っている漁師だって、ポケモンを捕らえて売っているじゃないか! でもあれば食べるため、すなわち生きるためにやっている行為だ。またあれは、違う領域の話だ。
彼は何度でも自分を正当化させる材料を、どこからともなく持ってくる。
もうサニーゴ攻撃しようか。攻撃してしまえばもう自分は絶対的な悪者になれる。しかし、流石にそれは躊躇してしまう。自分に感謝しようとしているポケモンに攻撃? それは無理だ。あれ、そうだ。ここで攻撃を躊躇するってことは、自分は善い心を持った人間?
――葛藤長えよ。さっさと貝殻受け取れや。
そんな声が、まだ掻き乱していない部分の心から聞こえてきて、彼ははっと我に帰った。
フォールは「ありがとう」って言いながら貝殻を自然に受け取った。そして振り返ってサニーゴと別れた。もう後数分で日も落ちる。ポケモンを捕まえる時間は終わりだ。
もう殆どの団員は海から上がっていて海岸の一箇所に固まっていた。彼は皆の所へと向かいながら、愚かにも、こんなことを考えてしまっていた。
ここまで一つのことで深く考えられる自分は凄いのだから、正当化してもいいのかもしれない。
やはり、駄目だ、このままじゃ。こんな思考に、囚われていては。
『ヒドイデのデータを記録したロト』
『すごいロト。珍しいポケモンロト。高値で売りさばけるロト』
『今度はこの海に毒撒いてポケモン達を死滅させるロト』
『ん、どうしてやらないロト?』
彼を導く灯台の光は、もう彼の目には届かない。フォールはサニーゴが見えなくなった海と、手に持った貝殻を交互に見つめながら、あることを、強く決心していた。
「お前、もう出ていけよ」
フォールはロトム図鑑と決別することにした。
今までずっと自分を肯定し、『進むべき道』を示してくれた大切な存在を逃がすことにした。『逃がす』というより『捨てる』という言い回しの方が、幾分適切であろうか。
いつまでもロトム図鑑の肯定を求めていては、自分はいずれ暴走する。おかしな方向へと向かってしまう。そうならないためにも、ロトム図鑑とは決別する必要がある。
もう二度と、自分がやっている悪事を肯定し、自分が正しい道を歩いているものだと勘違いしないように。
スカル団と生きるにしても、そうでないにしても、それなりの覚悟が必要だ。スカル団として生きるのなら、周囲から嫌われる覚悟が絶対にいる。
自分の行為を悪いと思っている悪人と、思っていない悪人とでは、天と地ぐらい差がある。
自分は、本当は優等生でもなんでもないし、島巡りだって失敗したし、スカル団として悪事を働いている。スカル団として悪事を働いて、しかもそれが楽しく感じているような人間なんだ。この島に復讐をしたいと思う最低な人間なんだ。もう手も心も、取り返しがつかないくらい汚れている。自分はそれをいい加減、自覚しなくてはならない。
ロトム図鑑にはハイレベルな人工知能が搭載されている。恐らく人工知能は良からぬ方向に成長を遂げてしまった。主人を喜ばせようという意志が過剰に働いた結果、暴言の連発及び、過剰に主人を導こうとする壊れた機械と化してしまった。
本来なら島巡りを断念した時点で、フォールは使用を止めるべきだったのだ。この機械は元々、島巡りをする子供のために作られたもの。
『待つロト。なんで捨てるロト。そんなことしたら君は道に迷うロト』
ロトム図鑑は、捨てられることを当然拒んだ。人工知能が何を考えて、どのような目的を抱いているのかは分からないが、彼という一人の人間を思い通りに支配することに、もはや喜びすら得ていた可能性もある。
『なんでこんなことするロト。頭おかしいんじゃないかロト』
こんなことをしてもしなくても、フォールの頭はとっくにおかしかったのだ。
フォールは必死になって、ロトム図鑑にすがりたい気持ちを抑えていた。自分が正しい方向へと歩いていると勘違いして暴走する前に、ロトム図鑑と別れを告げないといけない。
「もう出ていけよ。早く! 早く!」
彼が怒声を出すと、ロトム図鑑の様子が変わった。何やら目が赤く充血しているように見えた。そして体から蒸気のようなものを放出し、この部屋を湯気で充満させた。
次の瞬間、ロトム図鑑は不気味な高笑いを上げた。そして次々と悍ましいことを口に出し始める。
『さあ、明日はポケモン達を皆殺しにするロト!!』
『スイレンの試練中ラプラスに乗っている人を水に突き落として窒息させるロト』
『マオの試練の場所にキテルグマを大量に放つロト』
『カキの試練を攻略しようと懸命に頑張っている人の目を針で刺して失明させるロト』
『アローラナッシーの首を切り落として、ヤドンの尻尾感覚で、高値で売りさばくロト』
『ポケモンのタマゴを片っ端から割っていくロト』
『島巡りなんかなくすために、アローラを海に沈めるロト』
『もう世界を、自分の物にするロト』
『全部みんなみんな、僕が肯定して上げるロト!』
『僕が、正しい方向へ、導くロト!』
自分が正しい道を歩いていると信じ、藻掻き続けた者の末路がフォールの目に今、確かに映った。フォールは、後一歩でこのような状態となっていたのだ。
醜く滑稽になったこの機械は次の瞬間、完全に動きがなくなった。ポトッとカーペットの上に落ちた。爆発しなくて幸いだった。
うんともすんとも言わなくなった。画面には地図も何も映らない。目は固く閉じられていた。
もう二度と画面には、光が宿ることはない。
さようなら、自分の道標。
ロトム図鑑の中から、小さい生物がするすると出てきた。この生物はロトムという電気タイプのポケモンだった。ずっとロトムは人工知能に支配されていたのだろう。もう長いこと自分の意志を奪われていたに違いない。本来ロトム図鑑はロトムの意志によって動く部分も大きくあるのに、どうやら完全に自由を奪われていたようだ。
人工知能にずっと支配されていた一人と一匹は、お互い顔を見合わせる。
途端にロトムは、嫌悪感を露わにした。
こんな場所二度と来るか! と言う感じで部屋の窓から怒りを剥き出しにして去っていった。
彼は、静かに微笑んでいた。ロトムに邪険に扱われたがそれは当然のことだと思っていた。
窓の外を見ると、未だに空は真っ暗なままだった。まだまだ夜は明けない。しかしフォールは、これで、はっきりと認めることができた。
自分はもう、堕ちているのだ。
紛れもない人生の、失敗者だ。
スカル団に入って島荒らしなんて、いつまで下らないことやっているつもりなんでスカ。いつまでも社会に恨み持っていて、恥ずかしくないんでスカ。良い年して、カスでスカ(回分笑)。もう自分はやっていられない。こんなゴミのような奴らと付き合ってられない。ポケモンセンター使うのに十円払わせて、そしてそれが社会に対する反逆だ、なんて、アホにも程があるんじゃないんでスカ。せいぜい貴様らはアホ面して非行を続けていればいいんじゃないでスカ。あー貴様らのような社会のゴミは、もう本当に、土の中で永住すればいいんじゃないでスカ。
PS
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スカル団の活動に飽きた人が今日もまた一人、ポータウンから去っていった。去っていった奴はそれなりの古株だったこともあり、その置き手紙は、皆からかなり注目を集めていた。
手紙を読み終えた人の反応は様々だった。爆笑している者もいたし、怒りを見せて壁を殴っている者もいたし、「これ払わないと駄目なのか」「いやそんなことないだろう」という会話を繰り返している者もいた。
あれから一ヶ月が経過し、フォールは孤高の存在から脱却した。
もう他のスカル団の連中を冷ややかな目で見ることを止めた。自分だって同類なのだ。
自分だって、カップ焼きそばに、お湯を入れる前にソースを入れたことはあるし、かやくを入れる前にお湯を入れてしまったこともあるし、お湯を捨てる時にステンレスの流しが凹んだような音を立ててどこか壊れたんじゃないかと不安に思ったこともあるし、食べるときにかき混ぜるのを怠ってソースが下に溜まったことがあるし、キャベツが容器の端に寄ってしまって最後まで残ってしまったこともあった。
幼いときに少し勉強してようが対して変わらない。失敗した人間であることは共通している。皆道を踏み外し、現在もなお間違えている。
だが、とりあえずはそれでも良いのだ。常に正しい道を歩いて行く必要なんてない。常に人から賞賛される道を歩いている必要もない。
間違った道を途中で歩いても良い。最終的に、正解にたどり着けばそれで良いのだ。
一度道を踏み外したら、もう二度と引き返すことはできない。許されない。
けれどもそこから、いつかきっと、正解へと向かうことはできる。
先程の置き手紙を読み終えた彼は、壁に描かれた落描ききの周りで騒いでいる連中の所へ行った。
二つの意味でいかがわしいこの屋敷の壁には、丸くなった姿のカプ・コケコの落描きが新しく描かれていた。カプの嘴の部分に乳首が描かれていた。描いた犯人は勿論あいつだ。今真ん中で笑っている奴だ。
カプ・コケコの絵の周りでフォールを含めた愚かな連中が、不敬にも笑いながら話をしている。