さようなら、自分の道標。
 太陽の光も月の光も当たらぬよう土の中で永住すべきだという声もろくに聞かず、彼らはこの古ぼけた屋敷の一階で、幾何学模様のきの字もないバラバラな陣形で突っ立っていた。
 厳密に言うとこの屋敷は別に古くはない。かつて大富豪が建てたものの、殆ど使われないまま無残に捨てられたのが、およそ十五年前のことであった。いつしかこの場所はスカル団が占領するようになり、周囲から『いかがわしき屋敷』と蔑称されるまで品格が下がった。
 選ばれしブルジョワの象徴でもある、宝石を埋め込んでいるのかと見紛う程光を放つ筈のシャンデリアは、無残にも冷たい床に叩きつけられていた。もうその体に光は宿らない。 
 金属膜がコーディングされた高い断熱性能を誇る窓ガラスは、とあるポケモンのドラゴンクローで見事に砕け散っていた。ポケモンの技は人類の叡智よりは劣っているが、ガラス職人の叡智は軽く凌いでいる。
 木の壁には無数の落描きが施されている。木目は、完全に存在感を奪われた。落描きの中でも一際目立つのが、島の神である『カプ・コケコ』の絵に、bold&redのバツ印が付けられているものだ。この絵は屋敷に入ったときに必ず目に付くよう、階段の後ろの壁にでかでかと描かれている。
 酷い有様である。スカル団の方々の、長年の憂さ晴らしの結晶がここには存在する。この惨状は『古ぼけた』という少々お洒落な言葉でも使わない限り、とても誤魔化しきれないのであった。 
 この屋敷はもう、堕ちたのだ。

 スカル団という自分らの組織名の由来すら知らない骨のない若者達は、かれこれもうニ時間近くこの屋敷で待機を強いられていた。とにかく暇で暇で辛かった。自分達よりも相対的に煌びやかな服を纏った幹部の到着を、彼らは愚直に待っている訳であるが、一向に屋敷の扉は開かれる気配がなかった。
 なんでも良いから暇を潰すことをやりたい所だ。しかし彼らの中で暇潰しの何かを発案する者は、一人たりとも現れなかった。そもそも発案以前に考えてもいなかった。考えることで己の脳味噌を働かせて疲れるくらいなら、暇な方が幾分かマシだという思考を持っていた。
 ここにいる連中は現在待機を命じられている訳であるが、彼らはこの後、自分達が一体何をする予定なのか全く把握なんぞしていなかった。そんなことは幹部から一切教えられていないし、誰も興味を持っていないので誰も質問をしなかった。彼らの大多数はとにかく、暴れられればなんでも良かった。
 彼らは次第に隣にいる人と雑談を開始するようになっていった。何もすることがないときはやはり適当に喋っているのが一番楽で良い。他愛もない話で屋敷全体が盛り上がっていく。屋根の上ではヤミカラスが一匹止まっていた。
 そんな彼らの中で一人、誰とも喋らず、時折周囲をきょろきょろとしながらも、電信柱のようにその場できちっと立っている青年がいた。待機=黙ってそこに立っていることという固定概念に囚われている彼は、階段の後ろの壁に描かれたカプ・コケコの絵を、なるべく無心で睨むようにしていた。
 そんな彼の名前はフォールと言う。フォールは、自分以外のスカル団の連中に対して、つくづく学が皆無であると呆れ果てていた。入団当初からずっとフォールは周りを下に見ていて、そしてなるべく周りとの接触を避けてきていた。彼は孤高の存在になりたく思っていた。だが、常に独りだということを不審に思われていないかという不安が働き、今もなお周囲を時折キョロキョロしていた。非常に情けなく思う。 
 真面目にやらないから駄目だとか、そういうのではなくて、なんというか周囲は人間としてのレベルが低いなあと思っていた。けれども、レベルが低いなんて、そんな偉そうなことを述べて良いのかという気持ちもチラつく。だから、心の中で自らの思いを復唱するときには、もっと適切な言葉がないか、いつも探し求めていた。
 いつの間にかとある一人が、まだ十一時だというのに昼食を取る準備を始めていた。屋敷の流しまで向かって、ヤカンに水を入れコンロに火を付けている。お湯が沸騰したらそいつは、火を消してカップの焼きそばにお湯を注ぎ、投げ捨てるかのようにヤカンを流しに置いた。
 二分十五秒くらいしか経過していないが、そいつはもうお湯を捨てようと蓋を開けていた。次の瞬間そいつは、赤いギャラドスの怒りの咆哮かと思う程、どでかい叫び声を上げていた。叫び声に反応し、フォールの体が過剰にビクッとなった。どうやらそいつは、焼きそばのソースを、お湯を入れる前に麺にかけてしまったらしい。屋敷にいる人達全員が、そんなことで一々叫ばないでくれって思ったに違いない。
 仕方なくそいつは、ソースが混じった水を捨てており、恐らく味なしで食べるつもりだろうか。フォールは笑みを浮かべつつ、「ソースがかわいそう」となるべく嫌らしく聞こえるような声で、誰にも聞こえないようなボリュームで呟いた。
 だが彼の知らない所で、他のスカル団の人が、全く同じことを全く同じタイミングで喋っていた。

「カプ・コケコが丸くなった姿っておっぱいに似てるよな」
 ルート二次元ずれたような恐ろしく突拍子もない発言が、フォールの近傍から余りにも唐突に耳に突撃してきた。この声には彼は良く聞き覚えがあった。
「黒い嘴の部分が丁度乳首にあたるな」
「いや全然似てないだろ。あいつ黄色いし」
「黄色いおっぱいだってあるかもしれないだろ」
「ないからそんなの」
「Cカップ・コケコ」
「変な改名をするなよ。カプに殴られるぞ」
「まてよ。あの大きさだったらZカップはある」
「Zカップか」
「ゼンリョクのおっぱいだ」
「ハハハ、なんだそりゃ」
 二つの意味でいかがわしき場所と化したこの屋敷の屋根に、先程まで止まっていた漆黒の毛を身に纏う一体のカラスは、そろそろと羽を広げどこかへ飛び去っていった。
 罰当たりとか、不謹慎とか、そういうレベルの物を超越したエゲツない会話に、この独り身な青年は笑いを懸命に堪えていた。ここで我慢できず吹き出すのは低能のすることだと思った。嘲笑を浮かべることすら、愚かであると考えていた。ここはただひたすら、無関心を装うのが良い。話を全く耳に入れないのがベストだが、あいにくそれはもう手遅れだ。だからせめて、興味がないように振る舞わないといけない。だがどう頑張っても意識がそっちへ向いてしまう。これでは愚か者の仲間入りコースまっしぐらだ。以前にも似たような話を聞いたことがあった気もしたが、それでも笑いを堪えるのは至極困難だった。

「俺の鉄板の愚痴を聞いてくれないか」
 と、そのとき彼の先輩から話かけられたことで、なんとかあの会話の呪縛から逃れることができた。
 鉄板の愚痴、とは。「ただの愚痴だろ」って突っ込まれる前に予めこれは愚痴であると宣言するのは卑怯、って言いかける口を、彼は懸命に殺した。フォールは「ええ、いいですよ」とまるで好青年のような喋り方で答えた。
「俺はなあ、全然努力してもバトルで勝つことができなかったんだよ。どんなにバトルのことを研究しても、全然勝率は上がりやしなかった。俺のポケモン達もなあ、頑張ってくれたんだけどなあ。やっとの思いで大試練に挑戦することができたときは歓喜したが、その喜びも一瞬で終わった。俺は完封負けしたんだ。そんでもって、落ち込んでいたそのときにだよ、お前はまだまた努力が足りないって、島キングに言われたんだ。俺の日常を何も見てないくせにだよ。なあ、どう思う?」
「なあ、どう思う?」と正解がない問いを相手に尋ねる場合は大概、相手から自身を肯定する意見を引き出したいときだと、フォールはこれまでの人生経験で知っていた。
「僕は、そういうことは言わない方がいいと思います。鬱の人に『頑張れ!』って励ましてはいけないのと同じことで、落ち込んでいる人に、努力が足りないなんて言ったら駄目でしょう。逆効果です。自分だったら更に落ち込んで二度と立ち直れなくなりますね」
 すると男は途端に嬉しそうな目をした。それを見たフォールはうっかり安堵の表情を浮かべないよう心掛けた。片方は自分の心を表に出し、もう片方は自分の心をひた隠す。
「だよなあ。そうだよなあ。だよなあ。まったくあいつらは。これだから島巡りに失敗する人が増えていくんだ。それ見ろ。今年だって何人スカル団に入ったことか」
「まあ先輩みたいに凄い人ですら厳しい世界ですからね」
 フォールはいかにも後輩が先輩に言うべき自然で真っ当そうなお世辞を言った、つもりだった。だが。
「は?」
「え……」
「いや俺が凄い訳ないじゃん」
 マッチに火が付いた瞬間だった。
「あ、いえ」
「なんで俺が凄いの? なんで俺が才能あるの?」
「……」
 フォールはたった今失態を犯した。
 この人間は、才能があるとか能力が高いとか、元々生まれ持った能力の方を賞賛されると、逆に怒るタイプであった。それは今までの話からも推察できることであるし、フォールに至っては前々からそれは知っていたのに、話の流れでついついそのようなことを言ってしまった。
 才能の方を評価されると、自分がやってきた努力を丸々否定された気持ちになる。彼は努力ができない人間はもはや人間失格であるという考えを、心の一番目立つ部分に楔で繋いでしまってあるのだ。その手の人に才能があるって言えば怒るし、天才だって言えば殴られる。
「才能あったら島巡り成功してるよ。あんだけ努力してたんだから」 
 そして、この手の人に努力が足りないだけですよって言ったら、バトルで敗れた後よろしく目の前が真っ白になる。
 先輩は話を終えた後未だに怒っている表情を浮かべて、他の人の所へ行ってしまった。
 フォールは、自分が他のスカル団よりも頭が良いと思っているけれども、時折他の人でもしないミスをやらかすことがある。先程だって少し考えればあれは言っていけないと分かる筈なのに、つい流れに任せて口走ってしまった。
 彼はこのような失敗をしたとき、毎度の如く、このように自分に言い聞かせるのだ。
 ――今のは、脳のリソースが追い付かなかった。

 スカル団の活動内容は多岐に渡る。島巡りをしている人に無理矢理バトルを申し込んだり、試練の場所を荒らしに行ったり。スカル団に邪魔をされて島巡りを断念した人もそれなりにいる。この集団は、こういうことを目指そうという具体的な目標がないため、とにかく憂さ晴らしになることであればなんでも行うのだ。

 ようやく幹部が屋敷に到着し、下っ端の連中に、次に何をするべきか指示を出した。ここは別に株式会社や有限会社という訳でもないので、この上の命令にどれだけの強制力があるのかは分からないが、なんやかんや大概言うことにしっかり従った。速やかに目的地へと向かおうと準備を開始する。
「次の目的地をセットしたロ」
 フォールが持っている『ロトム図鑑』が、彼が屋敷の外へ出た瞬間鞄から出て一人でにそう言った。『言った』というより『音を発した』という言い回しの方が幾分適切であろうか。
 ロトム図鑑のボリュームが些か大き過ぎて恥ずかしく感じ、フォールは咄嗟にボリュームを一番下まで下げた。バイブモードにしても特に不都合はないが、そうすると偶に、中身のロトムが怒り出して電撃を放出するのだ。
 ロトム図鑑の画面には、ウラウラ島全体が描かれている地図が表示されていた。本日の目的地である『スーパー・メガやす跡地』の箇所には、赤い旗のマークが点滅して表示されていた。そこまでの最短ルートが直ぐに分かる。
 ロトム図鑑には、次の目的地を自動的に把握し、地図にセットしてくれる機能が備わっている。このあまりにハイテクで便利な機能のおかげで、彼は未だ、人に聞かずとも道に迷ったことがない。
 ロトム図鑑はロトムが図鑑に入り込むことによって完成する最新型の図鑑である。人工知能が搭載されており、使用者が何を求めているのか把握して前もってそれを用意してくれる。アローラ地方でこれを所有している者は殆ど見かけない。ロトムというポケモンは珍しく、しかも別地方にしか生息していない。しかも、図鑑に入るのを嫌がるような捻くれた個体も一部いる。よってあまり大量生産できなくて、この図鑑は貴重なものとなっている。  
 手に入れられる者は一部の『優れた』人間か、あるいは何か偉業を成し遂げた人とコネクションのある者くらいだ。
 ロトム図鑑には、目的地の正確の場所を教えてくれる機能の他、様々な場面で使える物が備わっている。
 カメラ機能も付いており訪れた町の風景を写真に収めておける。撮った写真を即座に全世界に公開して閲覧者の感想を求めることも可能だ。
 
 目的地までバイクに乗って集団で移動する。バイクの免許を持っていない者は二人乗りをさせてもらう。決してライドポケモンの手は借りない。バイクの免許を取得して一年以内は二人乗りが禁止されているが、そんな一般市民でも守らないようなことを彼らが守る筈がない。そもそもそんなルールは知らない。
 フォールも皆と同じようにバイクに乗って移動する。バイクは最近購入したものであったが、ナンバープレートが直角以上の角度で折り曲げられており、下二桁の数字が若干見えにくくなっていた。
 島巡りの試練をする場所には本来キャプテンがいるが、夜中にいる訳もなく。勿論試練の場所にはキャプテンがしつけた主ポケモンが奥の方で構えているのだが、彼らは所詮野性のポケモンであり、見張り役を完璧にこなすのは難しい。人間社会について不案内な主ポケモン達はスカル団の連中が悪党だと気がついて倒しに向かった頃には、もう彼らは去る準備をしているのである。
 フォールが周りを見回すと、スカル団の人数がだいぶ減っていることに気が付いた。移動中にこっそり逃げ出した人が何人かいる。
 逃げた理由は恐らく、ここの試練の場所が『カプの村』の近くであるからだろう。神の逆鱗に触れることを彼らは恐れたのだ。
 なお先程『Cカップ・コケコ』等と宣っていたあいつは、ちゃんと凛然とした表情でこの場にいる。

 この試練の場所にはかつて『スーパー・メガやす』という名の店が存在した。だが守り神が暮らしている場所に勝手にスーパーを建設したとして、『カプ・ブルル』というポケモンの手によって、木っ端微塵とまではいかないが破壊されてしまった。
 清掃すら罰当たりという考えがあるのか、このスーパーの中は誰も現在手を付けず、破壊されっぱなしの状態となっている。一応生の食材は回収されているみたいだが、壊れたレジ打ちの機械が床に投げ捨てられ、ダンボールが積み重なったままになっていた。
 そしてどういう経緯なのか、現在ここは試練の場所の一つとなっている。
 もう既に荒れている場所を荒らすのであれば、多少なりとも罪悪感は薄れる。フォールは静かに笑みを浮かべた。
 かつて守り神が破壊した罪深き場所を、今度は自分達がもう一度破壊する。自分達のこの行為を批判する者は、まずカプのやったことを批判するべきだ。そう考えることも一応不可能ではなかった。

 この試練の場所にいる主は、ミミッキュというゴーストタイプのポケモンである。噂ではこのミミッキュは非常に強いと言われ、ここの試練でつまずく者は多いらしい。
 それはともかく、このミミッキュというポケモンは非常に変わった性格をしている。
 ミミッキュは、人間と仲良くなりたいという、野性のポケモンらしからぬ思考を持っている。児童文学に出てくるポケモンさながらの綺麗な性格だ、とよく言われていた。
 元々ミミッキュは人間から酷く嫌われていた。不気味な見た目と暗い場所を好んでいるという性質から、悪いイメージを持たれていた。
 悲しく感じたミミッキュは、人間と仲良くなるためにピカチュウに似せた布を毎日被ることにした。ピカチュウは人気がとてもあるポケモンだ。ピカチュウと同じような見た目になれば、自分も人気者になれるという考えがあった。
 ただお世辞にもピカチュウに似ているとは言い難く、むしろ余計に不気味な見た目となってしまっていた。
 だがこの、人間と仲良くなるためにピカチュウのモノマネをするという健気さが、人々に受け入れられた。かわいいという声が多く挙がった。そして、ミミッキュは不気味な見た目とは裏腹に、いつしか人気のあるポケモンとなっていた。
 しかしフォールは、このミミッキュというポケモンがあまり好きではなかった。
 理由は若干複雑ではある。ミミッキュは、嫌われ者である、という立場でありながら、その弱い立場を利用して同情を得ることで、逆に巧いこと人気を得ているような感じを抱いていた。 
 今のミミッキュは、本当は全然嫌われてないのだ。それなのに「自分は嫌われている」という固定イメージを売りにして人気を得るということをしている。これはちょっと狡くて不条理ではないだろうか。
 最もミミッキュ自身はこんなこと考えている筈もないが、どうもそんな思いがチラついてしまって好きになれなかった。だからミミッキュの住居を荒らせるということは少しだけ嬉しかった。



 さて、フォールは現在スカル団に入って色々と悪事を働くことに喜びを抱きつつ、同類を心の中で冷ややかに見ている歪な人間であると紹介してきた訳であるが、彼が小学校に入っていた頃は、先生の言うことを非常に良く聞く、所謂『良い子』として知られていた。
 先生らからの評判が天を越えていた。俗に言う優等生であった。保健室の若い女性の先生は、君はとても綺麗な目をしている、きっと心の綺麗さが写し出されているのねと、優しく包み込むように彼に話した。
 フォールは、自分がそんな優等生だなんて、入学当初は欠片も思ってなかった。しかし自分の倍以上生きている立派な人達から、この子はカプに選ばれる者だ、それぐらい優秀だ、等と至る場面で大絶賛されていく内に、次第に、自分でもそう見做すようになっていった。
 フォールが優等生と言われる所以は、殆どただ一つのことに終結する。
 彼は、先生達の言うことを、まるで蛇口を捻れば必ず水が出るように、さも当然な感触で聞くのである。必ず指示に従うのである。
 そして、彼のその特徴が最も良く表れているのが、「授業中ちゃんと静かに聴いている」ということであり、これを彼は主に評価されていた。殆どこれだけで優等生という地位まで上り詰めたと言っても良い。
 彼は授業中、基本的にはトランセルのようにじっと動かす椅子に座っていた。先生に「分かりましたね?」と聞かれたときは、(例え何を言っているのかさっぱり理解していなくても)元気良く返事をした。
 先生が肝心めいた話をしているときは、翌日痛みで軽く喘ぐくらい、ぶんぶんと上下に激しく首を振りながら聴いていた。
 腹が痛いときはトイレにいかず必死に我慢をしていた。あくびは口を開かぬよう器用に噛み殺す、という社会人が習得しているスキルを、もう既に出来るようになっていた。眠いときは体を引っ掻いて目を覚まそうとした。それでも駄目な場合は口の裏側を噛み千切った。血の味で口の中が気持ち悪くなった。
 彼はこのように、授業中真面目にやっているという素振りを見せるための努力を怠らなかった。
 これを小学校通して行うのはもはや狂人の領域と評すべきことかもしれないが、幼き頃のフォールがここまでしていた理由はたった一つで、そして実にシンプルなのである。
 フォールは、ただ先生から怒られたくなかったのだ。
 怒られたくないという感情自体は、子供であれば誰でも持っている健全な物だ。だが、彼のその感情は他の子供の物よりも遥かに大きく、そして大きいだけで、その感情は極めて悪質なものと化す。

 ある日教室の中がいつもよりもがやがやしているときがあった。先生はチョークを動かす手をそこだけ静止画になったかのようにピタッと止めて、教室全体を、キャタピーを狙うピジョンの如く鋭い目で見回していた。それがもう少しで怒鳴るというサインであることは、怒られることに敏感なフォールから見れば余りにも明らかであった。
 このときの彼の心臓は生きの良いコイキングのように跳ねていたし、顔はもう青いポケモンに例えることができない程酷く青褪めていた。 
 今もなおだがフォールは『連帯責任』という言葉を心から憎んでいた。全く喋っていない自分まで一緒に怒鳴られるなんて、果てしなく理不尽だと思っていた。どうか、今喋っている人にだけ聞こえるように怒って欲しい。
 先生は未だに何も言わない。チョークを一旦置いた。怒るならさっさと怒ってしまえば良いのに、と思っていた。ビクビクするのはもう嫌だった。ただでさえ少年のときの長い時間が余計長く感じられた。時計の秒針の動きをじっと見ているときに匹敵するくらい時間が長かった。
 先生の眉がピクピクと何回も動いていた。もう風船が破裂するまで残り僅かであろう。
 かと言って彼には、今この状態の教室を自らの手で変えてやろうという気概はなかった。教室が煩くなっていると、よく優秀な女生徒が「静かにして!」って呼びかけたりするものだが、この脆弱な少年にはそのような真似は絶対にできなかった。
 結局先生が怒鳴り散らかす前に授業が終わった。先生は何事もなかったかのように「号令が良いから黒板消しといて」と言って教室から抜け出していった。
 彼はマグマックの住処から抜け出したような思いになった。今日この日は普段の授業の何倍も疲れ果てた。だが、このような日は何回もあった。
 フォールはこのように、怒られることに過剰に怯えて生活していた。
 彼は怒られたくないが故に、頑張った。授業中は静かにしていたし宿題もきちんと提出した。だからそれなりには勉強ができるようになった。ポケモンに関わる知識も他の子達より豊富だった。しかし本当に『それなり』でしかなかった。
 フォールは怒られないための、努力しかしてないのでトップクラス程の学力には程遠かった。期末テストの結果は毎回あまり良くなかった。漢字の小テスト等では一応九十八点を取ることができた。
 それでも素行が良かったから、彼は優等生とされた。

 またフォールは、「君は優秀だ」と言った類の先生の発言は信じてきたが、「君は真面目だ」と言う類の発言に関しては間違っていると思っていた。むしろ自分は捻れくれているとさえ思っていた。
 ある日の昼休みの最中、クラスで最もリーダー的な存在の子が教室にいる生徒全員に向かって叫んだ。校庭の裏にある良く分からない白い小屋みたいなもの(ようするに百葉箱)から、セレビィが出たと。
 大半の子はその子が叫んだ内容を鵜呑みにし、セレビィが時渡りしてしまわぬよう急いで教室を出ていった。
 しかしフォールは一歩も動こうとはしなかった。机に座ったまま窓から、校庭に出た一番足の速い子を冷たい視線で見つめていた。
 彼はセレビィを見たと言っていた子を全然信用していなかった。幻のポケモンがそんじょそこらの百葉箱なんかにいてたまるか、と思っていた。
 この後先生が教室に戻ってきて、窓から微笑ましく生徒の様子を見ていたとき、これは見に行くのが正しいのだ、と思ってフォールはようやく席を立った。
 またあるとき、フォールはポケモン図鑑の本をパラパラと眺めていて、あるポケモンの説明文が目に止まった。それは、ヒドイデというアローラの海に棲むポケモンの説明文だった。

かいていや かいがんを はいまわる。 サニーゴの あたまに はえる サンゴが だいこうぶつだぞ

 このように、説明文の最後が『ぞ』になっているものを読み上げるとき、フォールは「幼稚だなあ」という感想を毎度抱いた。『ぞ』で文が終わる図鑑の説明文を彼は嫌った。そう書かれているポケモンまで幼稚なイメージが纏わり付いた。
 また、学校の先生が何かを主張していたら、必ずその主張に対して巧みに反論している自分を、家に帰ってから想像していた。
 フォールは自分のことを捻くれている人間だと紛れもなく思っていた。そして更に、ただそうであると思うだけでなく、捻くれているということに対してひっそりと自負を抱いていた。捻くれていることが、格好良いと考えるようになっていった。

十歳となったフォールはこの国のルールに則り義務教育を卒業した。「なんだか中途半端だなあ」と感じながらまた一年間学校に通い、十一歳になったとき、この島の通過儀礼に則り、『島巡り』というものを初めることになった。
 島巡りに関して、このときは特に、やりたいとも、やりたくないとも感じていなかった。
 ただあの、教室が煩くて先生が怒るタイミングを見計らっている時間とサヨナラできることを、フォールは一番歓喜していた。そのことばかりを楽しみにしていた。
 学力が一番高い訳ではなかったが、優等生と見なされていたフォールは、校長先生から直々に、とある貴重な物を授与された。
 それが、ロトム図鑑だった。
 現在別の地方で多忙を極めているらしい島のとあるポケモン博士から、「一番優秀な生徒に託して欲しい。どうか頼むよ」と、丁重なメッセージが送られてきたとのこと。
 持っている子供が殆どいない図鑑を自分の物にできたこと自体は、例え捻くれているフォールでも素直に喜べた。だが同時に心に不安の渦潮も発生した。ロトム図鑑という便利な道具をプレゼントされてしまった以上、ましてやあの偉い博士から託された以上、そして、優等生という立場がある以上、絶対に島巡りを成功させなければ、という強迫観念的な思いがあったからだ。詰まるところ、プレッシャーを感じていた。

 さて、彼が島巡りに成功するか否かアンケートをここで取ってみたら、恐らく、九十%以上の人が成功しないと答えるのではないだろうか。実際その通りで彼は呆気なく挫折した。
 まずフォールは、初歩的な問題に直面した。相性が分からないとか特性を知らないとか、そんなハイレベルな話ではない。彼は滑舌がとても悪く更には声も小さいので、ただでさえ戦闘のことで気を取られているポケモン達が、ちゃんと聞き取れないことが良くあった。なるべく一字一句ゆっくり話すように心掛けていたが、緊張や焦りが込み上げているときはやはり早口になってしまった。
 ポケモン達はよく不安げな表情をしてトレーナーの方を振り向いた。当然敵はその隙をついて攻撃してきた。
 それでも指示が伝わるときは伝わったので、フォールは笛を用いたりして合図を出すという、有力な方法に手を出さなかった。笛を使うというのはいかにもアローラ民族らしい方法で、実際にやっている人も見たのに、なんとなく億劫だった。これが後々響いてきた。
 またフォールはロトム図鑑という便利なアイテムを持っていた訳であるが、それ故の問題も発生した。
 ロトム図鑑は画面上に、目的地の場所を旗マークで自動的に表示してくれる。だから、確かに目的地までは容易く最短ルートで向かうことができる。
 だがこの少年は「行くべき場所はここだ!」と示されると、一目散にそこへ走ることが絶対的な真理であり、そこ以外へと向かうと何者かから引っ叩かれるような気がし、また、絶対的に真理に従えば、背筋をピンと伸ばして歩いているときのように自分が堕落していないという安心感が生まれる、ような気がしていた。
 フォールはどこにも寄り道をしない。町の中も草むらの中も探索しない。一直線に旗を目指す。
 フォールは、行く先々の情報を何も得られない。この先の森には強いキテルグマがいるとか、休憩できるポイントがあそこにあるとか、そう言ったことを何も知らないで突っ込んで言った。結果手持ちが全滅して逃げてくることが何回かあった。運が悪ければ死んでしまったような場面にも直面した。というか良く生き残れたものだ。
 ロトム図鑑は正しい道、進むべき道を教えてくれる、港に聳え立つ灯台のような役目を果たす。だが、その町の詳細な説明は教えてくれないし、周り道をした場所に興味深い何かがあっても、決して伝えてはくれなかった。
 ロトム図鑑の言う通り『正しい方向』へ進むことが、決して『正解』という訳ではないのだ。
 フォールは小学生時代の、なるべく真面目に見えるようにやろうとしていた癖を引きずっていた。例え誰も見ていない場所でも、身についた癖は中々抜けず、無意識にそうしてしまうのだ。本当は真面目な性格でもなんでもないのに。
 
 この、真面目な癖が抜けてないが故の弊害は他にもいくつか存在し、彼を至る所で苦しめた。
 フォールは手持ちのポケモンをちゃんと六匹揃えた。そして六匹全てをかなり均等に育てていた。
 それは一見良いことのように感じられる。だが本当は三匹ぐらいを厳選して育てた方が、(チートじみた某装置を持っている場合は置いておいて)、旅立ってそんなに日が経っていない頃は特に一匹の面倒を見られる時間が増えて効率的なのだ。
 他のトレーナーらは殆ど二、三匹しかバトルで出さない。何故六匹全てを均等に育てないのかフォールは至極疑問に思っていた。数が多い方が有利だと考えていた。
 しかもこの真面目な癖が抜けない人間は、一匹のポケモンのレベルが一つ上がったら、違うポケモンのレベルを一つ上げ、そしてまた違うポケモンのレベルを一つ上げ、そうして全てのポケモンのレベルが一つ上がったら、もう一度最初のポケモンに戻って、またレベルを一つずつ上げていく、というローテーションを組んで育成を行っていた。
 こんなやり方では当然、次の試練の主ポケモンに相性の良いポケモンを優先的に育てる、等といったことができない。とても非効率的で臨機応変ではない方法だ。
 こういうことはせめて島巡りを三週くらいしてからやるべきことである。


 フォールはやがて島巡りに行き詰った。最初の試練はなんとか乗り越えたが、二つ目の試練が非常に困難で何度も挑戦をするハメになった。何度でも試練に挑戦できるという規則はむしろ残酷であると思った。
 そしてある日のことであった。いつもの通りロトム図鑑で地図を見ようとしていた。だが、中々画面が地図モードに変わらない。フォールはずっと、スリープモードの状態で画面を押していたことにようやく気が付いた。画面を一旦付けてからじゃないと反応しない。彼はこれまで同じミスを何度も繰り返していた。そして今日もまたやった。
(自分はいつもこうだ)
 走馬灯の如く今までの旅の散々な記憶がいっぺんに思い浮かんで、そして完全に膝をついた。次に思い返されるのは、学校の先生達の笑顔。
 何故皆自分を優等生だと今まで口々に口々に口々に言ってきたのか。
 フォールは、これまで自分を褒め称えてきた者達を、恨んだ。それは逆恨みだろとも思ったが、例え逆恨みだとしても、この恨みは正当化されるものだと思った。
 皆が、自分が優秀だとあまりにも言うものだから、本当に自分が優秀な人間なんだと勘違いしてしまった。自分はきっと島巡りも容易く成功できる人間なんだと思いこんでしまった。
 しかしこのザマである。本当は自分なんか優秀な人間でも何でもなかったのだ。
 これなら、あなたは悪い子です、って言い続けてくれた方が、遥かにマシだった。そうしてくれれば、こんな思いをせずに済んだのに。
 旅立った当初はまだ、島巡りに成功する可能性の方が、遥かに高いと思っていた。
 旅立った当初は良く眠る間際に、小さい頃毎週見ていた能力バトルアニメの、オープニングのサビの箇所で、主人公とその仲間が必殺技で敵を薙ぎ倒しているシーンを、自分の手持ちのポケモン達に置き換えたりしていた。深夜まで眠れずにテンションが上がっていたときは、自分自身と置き換えることもしていた。何の能力も持っていない者が炎とか電気を出すという、途端にただのシュールアニメと化した。
 ふと思い立って自分の手持ちが入っているボールを鞄から取り出した。ボールの中に入っている、ポケモン達の姿をまじまじと見つめる。
 彼は突然こんなことを考え始めた。自分はトレーナーよりポケモンの方が向いているのではないか。先生の指示に従っているときは上手くいっていたが、旅立って自分で考えなくてはいけないようになってから、途端にこの有様。すなわち、トレーナーの指示を聞いて動くポケモンの方が、自分は合っているのでは。
「ポケモンになりたい……」
 彼はアスファルトの地面に向かって、とてもとても弱々しくそう呟いた。
しかし一月前、バトルで負けて大怪我を負い、回復マシーンでは治療は難しいということで包帯まみれになっていた自分の手持ちのコラッタを見て、ここまで傷つけてしまって申し訳ないという気持ちと同時に生まれた、余りにも正直すぎる感情を思い出した。
「痛いのはなあ」
 彼は結局、ポケモンにはなりたくないと思い直すのであった。
 


逆行 ( 2017/08/06(日) 23:33 )