想いは篝火となりて








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第6章 晩秋 ―禍つ流水、狂乱せり―
第50話 影に呑まれて
冷たい。
生き物の指というものは、こんなにも冷たいものなのだろうか。

「……。」

ただ、触れられているだけなのに――息が詰まるように感じるのは、何故だろう。
いつの間にか背後をとられ、自分の首筋には、悪魔の手がぴたりと吸い付いている。

こいつのことだ。いつ首を折りに来ても、おかしくないだろう。
あと数秒後には、自分もこの手ほどに……いや、それ以上に冷たくなっているのだろうか。

「ふふ……。」

すぐ側で、ゲッコウガの笑い声が聞こえる。
子供のように笑っているだけなのも、それはそれで恐ろしい。

命を握られる、というのは、こういう感覚なのだろうか。

「怖いの?……足が、震えているよ。」

その言葉に、はっとしたジュカインは、思わず足に力を入れようとする。
だが――いくら踏ん張ろうとしても、力が入らない。

(なんだ……?俺は、怯えているのか?こんな奴に……。)

恐れを抱いていることを、否定しようとしても――
今のジュカインには、それはできなかった。

死神のように、背中に張り付くこの悪魔は、一体何を考えているのだろう。
どんな顔で、今の自分を眺めているのだろう。

だが、振り向いて悪魔の顔を拝む気にもなれない。
ジュカインはその場で硬直するしか、できなかった。

「君さ、悲しげな眼をしているよね。辛いことでもあったの?」

そうこうしているうちに、今度はゲッコウガがこちらを覗きこむ。
彼は、背後から少し身を乗り出し、ジュカインの表情を伺い始めた。

「ふうん……。」

肩に手をかけたかと思えば、くるりと体を回し、真正面に立ちはだかる。
興味津々、といった感じで、ゲッコウガはジュカインの顔を覗きこんだ。

「な、なんだよ。近いぞ……!」

思わず、ジュカインが体をやや後ろへのけぞらせる。
無理もない。親しくもない者に――不信感すら抱いている者に、顔を覗きこまれ、良い思いをする者は、そうそういないだろう。

まじまじと自分を覗きこむ、ゲッコウガ。
虚ろな瞳が、自分の奥底にある何かを覗き見られているようで、気持ち悪い。たまらずジュカインは、ふと顔を背ける。

「ボクね、こう見えても勘はいいんだ。君の悩み、当ててあげようか?」

ふと、子供のように、ゲッコウガは無邪気に笑って見せる。
だが、ジュカインにはそれが、薄気味悪くてしょうがない。

「何を、急に……。」

冷汗を流しながら、戸惑うジュカイン。
しかし、そんな彼に構うことなく、ゲッコウガは顎に手をあてて、得意そうに言った。
あたかも、探偵が皆の前で、名推理を披露するかのように。

「何か、自分の思い通りにいかず、苦しんでいるような……。大方、欲しいものがあるのに、誰かに邪魔されて手に入らずにいる、ってとこかなぁ?」
(なっ……!?)

ジュカインの目が、カッと見開く。

この時彼は、ゲッコウガに対して、心の底から戦慄する感覚を覚えた。
無意識か、あるいは最初から知っていて計算されたことなのか。
何故にこうも、ものの見事に心中まで的確に言い当てられるのだろう。

「どうやら、図星みたいだね。えへへ、すごいでしょ?」
「……お前には、関係のないことだ。」

ゲッコウガの満面の笑みが、これ以上ないくらいに憎らしい。
なおも強がろうと言葉を絞るが、震えが声にも表れてしまう。やはり流石のジュカインでも、恐怖まではひた隠しにできなかったようである。

「……ねぇ。」

しばしの間、ゲッコウガは黙っていたが――
やがて、何かを思いついたかのように、パッと顔を明るくする。そして、再びジュカインに向き直るゲッコウガの口から出た言葉は、意外なものだった。

「ボクが、手伝ってあげようか?」

「……はぁ?」
最初、ジュカインは何を言われたのか、わからなかった。
いきなり現れて、先程まで、命がけの仕合をした相手が、今度は突然協力すると言い出したのである。
――全く関係ないことのはずなのに、何のために?

「ボクが手伝ってあげる。君の欲しいものを、取り返してあげる。」

だが、ジュカインの困惑にはお構いなしに、ゲッコウガは言葉を続ける。
そして、彼はニヤリと口元を吊り上げ――

「ボクが、邪魔なものを消してあげるよ。」

「……お、お前は……。」
ジュカインの目に映る、ゲッコウガの笑顔。それはまさに、悪人の歪んだ笑みだった。
さすがのジュカインも、思わず口を噤む。しかし、ゲッコウガはそのまま畳みかけるように、言葉を続けた。

「もちろん、ボクを利用するか否かは君次第さ。でも、利用した方が得だと思うけどなぁ。ボクの実力は、しっかり見てくれたでしょ?」
「だが、それは……」

友を手にかけ、傷付け、無理にでも取り戻すということだ。
欲しい者――コジョンドを奪おうとするバクフーンは、恩人でもあり、友でもあった。
そんな彼に、恩を仇で返してまで、コジョンドを取り返すというのは――

「あれぇ〜?気乗りしないの?……なら、今のままでいいのかな?」
「……。」

悪気のない無垢な声に、思考を遮られる。
子供のようなゲッコウガの一言が、煽りにしか聞こえない。

「君さ、ダメだよ……そんなんだから、いっつも損ばっかりしちゃうんだよ。」
「何だと?」

さらに煽る彼の顔を、ジュカインはぎろりと睨んだ。
通常の者なら、その剣幕に怯えることだろう。だが、ゲッコウガに怯む様子は、全く見られない。
それどころか、くすくす笑い出す始末だ。

「本当に欲しいものなら、貪欲でなくっちゃ。つまらないことに拘って、ぐずぐずしているから、欲しいものも奪われる。気が付いた時には、手元に何も残らない。
……君はそれで、満足なの?」
「ぐっ……むう……。」

こいつにしては、正論を言ってくれる。
現に、自分の大切な者――コジョンドは、バクフーンに奪われようとしていた。
寺で偶然見かけた手紙で、それをまざまざと見せつけられた。このまま放置すれば、結ばれるのも時間の問題かもしれない。

迷いの色を見せるジュカインに、ゲッコウガは彼の顔を下から覗きこんできた。

「機を逃せば、もう戻らないんだ。
 邪魔者に奪われて、ずっとそいつの許に……それで君は、耐えられるの?」

そのゲッコウガの一言で、ジュカインにある光景が思い浮かぶ。
自分の目の前で、バクフーンとコジョンドが愛し合う姿。何年も想い続けていた者が、友と思っていた者に奪われるのだ。

「……。」

屈辱だ。
自分の大切な者をあっさりと奪い、のうのうとしている奴など、もはや友とは思えない。
それならば、始末してやればいい。悪魔の手を借りてでも――

「……くくっ。はははは……」

あぁ、こんなにも、簡単なことだったんだ。
躊躇う必要なんて、何処にもないじゃないか。
もはや、迷う理由はない。あとは、行動に移すだけ――

「……ゲッコウガ。」

乾いた笑いを浮かべた後、ジュカインは『影抜きの流水』に言い放つ。

「お前の力を使わせてもらうぞ。今日からお前は、俺の『影』になれ。」

にぃっと、歪に吊り上がる、ゲッコウガの口元。
それは、彼が今までで見せた中で、一番の喜びようだった。まるで、餌を今か今かと待ちわびて、長い「待て」の末にようやく主人から食事を許された、子犬のようである。

「待ってたよ、その言葉。……これからよろしくね、ジュカイン。」

いつの間にか、夜の帳はとうに下ろされていた。
影に呑まれた翡翠は、夜の暗闇に閉ざされ、さらに暗さを増す。

かくしてジュカインは、突如現れた『影抜きの流水』、ゲッコウガと手を組むことになった。

―――――

日を追うごとに寒さは増し、気付けば粉雪は舞い始める。
不穏な空気が漂う中、季節は冬を迎えようとしていた。


■筆者メッセージ
どうもこんにちは。ミュートです。
ようやく第6章が終了。そして、何とか50話まで辿り着きました。
それにしても、この真夏でホントに暑い時に、秋〜冬の話を書くともなると、感覚がおかしくなってしまいそうです。

そしてジュカインさん、見事に闇堕ちでございます。
真面目で一本気な者ほど、方向性を誤れば闇落ちルートに引きずられる可能性高い気がしますな。
ミュート ( 2016/08/01(月) 22:14 )