第48話 双刃、交わりて 前編
太陽は見る間に沈んでいき、夕焼けはその色を増していくようであった。
明るかった空は、次第に宵闇の色を帯び、影はその暗がりに溶け込んでいく。
色彩が消えゆく森の中。僅かな陽光に照らされ、2匹のポケモンの姿が映る。
1匹は、新緑の色を帯びた蜥蜴のポケモン――この世界で、『風斬りの翠刃』の異名を持つジュカインである。
彼の首には、蒼い細腕が伸び、掌がぴたりとくっついている。ジュカインは、至近距離にいるその腕の主を、じっと睨んでいた。
「ボクね、退屈しているんだ。君となら、楽しい時間を過ごせると思う。だからさ……。」
蒼き腕の主が、ふふ、と軽く微笑みかける。
忍者を彷彿とさせる佇まいで、蛙のような姿をしていた彼は、『影抜きの流水』こと、ゲッコウガである。
睨みつけるだけで精一杯なジュカインに対し、ゲッコウガはどこか余裕のある素振りであった。緊張感の無い糸目で、会ったばかりのジュカインに、親しげに話しかけてくる。
だが――
「ちょっと、付き合ってよ。」
その笑みも、一瞬で消えた。
ぱちり、と虚ろな瞳を開き、不敵な笑みを浮かべている。
――いつの間に仕込んだのだろうか。首に触れていない左手に、『みずしゅりけん』が隠されている。
ざっと、一陣の風が通り抜ける。
ざわざわと揺れる木の葉に、穏やかさは無い。ただならぬ気配を感じ取ったのか、強風に煽られた木々が、怯えているようでもあった。
風が、止んだ――その瞬間。
「――っ!!」
2匹の目が、見開いた。
同時に、翠と蒼の左腕が同時に動く。
僅かに赤焼けた光が差し込む森の中、蒼い閃光が弧を描き始める。
『みずしゅりけん』を持ったゲッコウガの腕が、目にも留まらぬ速さで、ジュカインの首元へ――。
――ドンッ。
だが、響いたのは斬りつける音ではなく、軽い打撃音だった。
ゲッコウガの胸元に、衝撃が走る。
「うっ!」
微かに、ゲッコウガが声をあげた。
思わず目を瞑り、体をぐらつかせ、2,3歩後退させる。
胸元を襲った軽い衝撃は、意表を突かれた彼の体勢を崩すには、十分であった。
ようやく、ゲッコウガが目を開いた時。彼は気付いた。
――手前に突き出される、新緑の腕。ジュカインに、自分の胸元を掌で突かれたのか。
「はあっ!」
息をつかせる間もなく、ジュカインは体を回転させながら、かけ声をあげて後方へ跳躍した。
―――――
しなやかな曲線を描きながら、翡翠が宙に舞う。
ジュカインの顔が、僅かな陽光に照らされる。その目元は、どこか憂いをおびたような、冷めた目付きであった。
狩人が獲物を狙うかのように、ジュカインの目が一瞬細くなる。同時に、彼は両腕を一度払った。
刹那――両腕には翡翠の刃が露わとなる。ジュカインの技の一つ、『リーフブレード』で応戦するつもりなのだろう。
半回転したジュカインの体が、軽やかに地面へ着地した。
相手と間合いを取りつつ、自らも武装する。この状況を切り抜けるには、まずはそれが優先だと、判断した結果であった。
「貴様と付き合っている暇は無い。さっさと失せろ。」
腕から伸びる『リーフブレード』を前方に突き出し、睨みつけながらジュカインは言い放つ。
ああ言ったものの、ゲッコウガがそれで大人しく退いてくれるとは、到底思えない。停戦を呼びかけつつも、ジュカインは戦闘態勢をとっている。
案の定、それで怯むゲッコウガではなかった。虚ろな瞳を向けながら、ふっと軽く鼻で嗤っている。
「やだよ。だってボク、退屈してるんだもん。それにさ……。」
瞬時にしてゲッコウガの瞳に、闇の色が濃く現れる。
意地悪そうに口元をにっと吊り上げ、ニヤニヤと笑いながら、ジュカインの心に揺さぶりをかけた。
「あのまま独りでいたら、気でも狂ってたんじゃないかな?」
――不快な、笑顔だ。
これほどまでに挑発的な笑顔を、見たことがあるだろうか。
瞬間、ジュカインの口元に力が込められる。苛立ちからか、ギリギリと歯ぎしりのする音が、聞こえてくるかのようであった。
「……貴様に俺の、何が分かる!?」
頭に血を登らせたジュカインが一歩踏み込み、ゲッコウガの元へと力強く切り込む。
目の前で、一閃。だが、その一振りは空を斬った。
そのまま振りかぶること、二つ、三つ――だがこれも、ゲッコウガに軽くかわされる。
「くっ……!さっさと、おとなしく斬られ……どわっ!?」
さらに一振り、『リーフブレード』を振りかぶろうとした瞬間。
ばしゃり、と目に液体がかかる。突然のことに、ジュカインは思わず姿勢を崩した。
――水しぶきで、目くらましか。
「……ふふっ。」
笑うゲッコウガの両手には、いつの間にか水が渦巻き始めていた。
水は徐々に実体を帯びていく。ジュカインが体勢を立て直した頃には、ゲッコウガの手に1対の小太刀が握られていた。
「いいねぇ、その表情。さぁ、一緒に“遊ぼう”か。」
好敵手を目の前にして、口元が狂喜に歪む。
瞬間、蒼い閃光が、こちらへ向かってのびてきた。
「……ちっ!」
とっさに、ジュカインはリーフブレードで受け止める。火花と共に、研ぎ澄まされた音が、鼓膜を震わせた。
だが、ゲッコウガはその手を緩めない。こちらに迫りながら、次々と小太刀を振り下ろしてきた。
一つ、二つ。やや間を置いて、三つ、四つ。
流麗な動きで、ゲッコウガはこちらに迫りながら、激しく攻める。一方でジュカインは、受け止めるだけで、精一杯だ。
(逸るべきではない。今は、機を伺うべきか……。)
揺れる振り子が止まり始めるかのように、徐々にジュカインの目が落ち着きを取り戻す。
技を受け流しながら、彼はゲッコウガの様子を冷静に観察し、虎視眈々と機を狙い始めていた。
――程無くして、機は訪れる。
ゲッコウガが次の一撃を繰り出そうと、体を半回転させた時。ジュカインの目が、きらりと光った。
「隙あり!」
すかさず、ジュカインが身を屈めた。頭上を勢いよく、水の小太刀が掠める。
「……!」
空振り。気付いた時にはもう遅い。
屈めると同時に、ジュカインは地に手を付き、体を回転させる。
遠心力の後押しを受けて、深緑の太い尾が、鞭の如く迫ってきた。
「わっ!?」
――かわせない。
尾は容赦なく、ゲッコウガの足元を強く薙ぎ払った。
蒼い体が、宙を舞う。
星明かりが見え始めた空に、数秒浮かんだ後、ゲッコウガは地面に叩きつけられた。
「いったいなぁ。尻尾使うなんて、反則じゃない?ボク、そんな便利な物なんて無いよ……。」
不満そうに、ゲッコウガが頬を膨らませている。
糸目をこちらに向けながら、不平を言う彼の声には、明らかに困惑の感情が籠っていた。
「ふん。持っている手札を、使ったまでだ。文句を言われる筋合いは無い。」
そんなゲッコウガを、冷徹な目付きで見下ろす、翡翠の風斬り。
地を這う蛆虫でも見るかのように、ジュカインは不快な目を向けていた。
「……あっ、そう。なるほどね……。」
再び、糸目は消え、暗い2つの瞳が開かれる。
よく見ると、先程よりもその目は鋭く、より一層闇を秘めているようにも見える。だが、太陽はとうに沈み、宵闇の色が濃くなり始めた中で、それに気付くのは至難の業であろう。
「密林の中で俺を相手にしたことを、後悔させてやる。今度は、こっちから行くぞ。」
形勢が傾き始め、勝負を仕掛けるジュカイン。
彼ですらも、ゲッコウガの僅かな変化には、気付いていないようである。
「俺の速さに、ついていけるか!?」
闇に包まれ始めた森の中を、高速で駆け巡るジュカイン。
その一方で、ゲッコウガは微動だにせず、ただ薄笑いを浮かべていた。