第43話 闇に降り立つ悪魔
見渡す限りの、闇。
新月の夜。頼りになるのは、微かな星の瞬きだけである。
だがここは、木々がうっそうと茂る森の中。星の輝きすらも、木々に遮られていた。
「……。」
暗く静かな森の中で、丸い黄色の光が2つ、灯される。
木の隙間をすり抜けた僅かな光により、その光源のシルエットが、ぼんやりと浮かび上がった。
しなやかな体のライン、蝙蝠のような容姿に、大きな翼。
黄色の眼をゆっくりと開けたオンバーンは、気配を殺すかのように、静かにその場で佇んでいた。
さっと、夜風が吹く。木々の葉っぱが擦れ、カサカサと音をたてた――その直後。
「――っ!!」
オンバーンの両眼が、さらに大きく開かれる。瞬時、オンバーンの体が、ふわりと宙を舞った。
――ドーン!!
1秒もしないうちに、先程までオンバーンがいた場所で、轟音が鳴り響く。まるで隕石でも落ちてきたかのように、何かが地を揺るがしていた。
数歩先でオンバーンは華麗に着地し、音のした方を振り向く。そこには、どこかから出現した紫色の拳が振り下ろされていた。
恐らく、何者かが「シャドーパンチ」を繰り出したのだろう。
「成程。さすがは『華麗なる何でも屋』ってとこだな。ケケケッ。」
意地悪そうに笑う、不気味な声。それとともに、何者かがこちらへ近づいてきた。
紫色の体をしたモンスターで、その目は赤く邪悪な光を宿している。悪人のように吊り上がった口元は、彼の性根の現れなのだろう。
「何のつもりかしら?依頼主から手を出されるなんて、心外なんだけど。ゲンガーさん?」
「ケケッ。お前の実力を、改めて試したくなったのさ。実績があるとはいえ、今回の依頼は、確実に成功してほしいからな。中途半端な実力じゃ、困るもんでね。」
先程の振る舞いを詫びる様子もなく、ゲンガーと呼ばれたポケモンが、ケタケタと笑い始めた。
その様子を見て、はぁ、とオンバーンは溜息をつく。
(依頼を請けた時も思ったけど、やっぱりこいつ、気に食わないわ……。でも、これでも今回の仕事をくれた依頼人だし、仕方無いわねぇ。)
相手がどんな者であろうと、契約を交わした仕事は、きっちりとこなす必要がある。
オンバーンは気を取り直して、依頼の確認から始めることにした。
「依頼って、貴方の配下のゴルダックを討ち取って、手荷物を回収すればいいんでしょ?これでもアタシ、この手の依頼は数多く請けているの。舐めてかからないで頂戴。」
「勿論あんたのことは、よ〜く知っているさ。けど、頼みにする武器が刃こぼれしていないかってぐらいは、確かめなきゃダメだろ?」
この世界のゲンガーは、表ではあまり知られていないものの、闇の世界では名の知れた悪党の1匹であった。
手を染めた悪事と闇取引は、数知れず。彼のことを、『影の支配者』と呼ぶ者もいる。
ゴルダックはそんなゲンガーに仕え、手足となって動いていた1匹であった。当初彼は、何も知らないままゲンガーの指示を遂行していたが、ある時ゲンガーの素性を知ることとなった。衝撃を受けたゴルダックは、悪事の証拠を取り揃えて白日の下に晒すため、出奔を決意したのである。
だがその動きも、間もなくゲンガーの知るところとなった。
「やられる前に、やる。」これは、闇の社会の掟である。早速ゲンガーはオンバーンと接触し、ゴルダックと、彼が持ち出した証拠物品の始末を依頼した。
そして、今に至る――。
「っていうか、アタシが信用できないなら、貴方が直接手を下せばいいんじゃなくて?貴方、それなりに強そうだし。」
「わかってねえなぁ。そんなことしたら、オレの名に傷がついちまうだろ?あくまでも、直接手を下すこと無く、秘密裏に奴を消したいのさ。だからこそ、隠密行動が得意なお前に任せたいって、前にも言ったはずだぜ?ケケケッ。」
「……すっかり闇に染まった貴方に、体面を気にする必要あるのかしらね。こっそりと誰かを消すのも、お化けの貴方なら、余裕だと思うんだけど。」
憚ることなく、オンバーンはうんざりとした表情を、ゲンガーに向けていた。
『影の支配者』と称されるほどの者だ。まともな御仁では無いだろうと思っていたが、予想以上に、手口が汚いものである。
――いや、だからこそ、ここまで悪党を貫けるのだろうか。だが、いずれにせよ自分のやることは変わらない。相手が誰であろうと、任務は任務である。
「まぁ、いいわ。アタシは報酬がもらえるなら、それに従うから。既に前金の2000ポケもいただいていることだし、今更断るなんて野暮なことはしないわよ。」
「それでいいんだよ。くれぐれも、しくじらないように頼むぜ。ケッケッケッ……。」
そう言いながら、ゲンガーは不気味な笑い声を残し、消えて行った。
姿が消えても、耳障りなゲンガーの笑い声が、なおも耳の奥で反響する。
「……やっぱ、いけ好かないわね。ずる賢いというか、何というか。アタシの好みのタイプじゃないわ。」
やれやれと言わんばかりに、オンバーンはそう呟いた。
―――――
「ぜぇ、ぜぇ……!」
何者かが潜むやもしれない暗闇の森を、1匹のポケモンがひたすらに駆けていた。
全速力で、ずっと走り続けていたのだろう。彼の息は荒く、肩で息をする程であった。
走り続けて疲れたのであろう。速度を落とし、目の前にある木の大きな幹に、寄りかかる。
そこは、やや開けた場所であり、木々の葉の間から星明かりが零れる。辛うじてその者の姿を、認めることができた。
アヒルのように伸びた嘴。手足には、鋭い爪と水かき。
額に赤い宝石のような器官を持つ、青いポケモン――彼こそが今回の標的、ゴルダックであった。
「証拠もこれだけ揃えれば、あのゲンガーの悪事も、明らかにできる。奴に見つかる前に、早く逃げないとな。
街まで出られれば、ゲンガーも追っては来れないだろう。あとは、この森さえ越えられれば……うぐっ!?」
ゴルダックが、息を整えていた、その最中。
何者かの牙が、深々と肩に刺さる。
「ぐっ……あぁ……。」
体から、力が抜けていく。血を吸われているようだ。背後から、『きゅうけつ』を使われているのだろう。
程無くして、その牙が抜かれる。じわりと肩に痛みを感じながら、血を抜かれて虚脱感に襲われていた。
ただでさえ暗い中、目の前の視界はぐらつき、さらに曇る。安定しない視界の中、ゴルダックは手で肩を押さえながら、後ろを振り向く。
「だ、誰だ、おめえは……!?」
暗い所為もあり、姿が良く見えない。
だが、ばさりと羽を広げる音が聞こえる。どうやら自分を襲ったものは、空を飛べる者なのだろう。相手にするには、厄介そうだ。
「アタシの名前は、オンバーン。私怨は無いけど、とある方の頼みで貴方を仕留めるように言われているの。本意ではないけど、覚悟してね?」
「ちぃっ……ゲンガーの手先だな。奴め、刺客を用意していやがったか……うわぁっ!?」
メスの口調で語られる、低い声が止んだかと思うと――
気が付くと、ゴルダックは胸倉を掴まれ、空中に投げられていた。
宙に舞う体は、自由が効かない。無防備な体では集中砲火を喰らうか、そうでなくとも無残に地面に叩きつけられるだろう。
「こっ、こんなところで終われるか!『アクアジェット』!!」
決死の思いでゴルダックは、後方へ強力な水流を繰り出す。
ジェット機にも勝るほどの水流の力で、オンバーン目がけて特攻を仕掛けてきた。
――ドカーン!
驚異的なスピードで突っ込んできたゴルダックが、地面に激突する。
これだけ強力な一撃が決まれば、ひとたまりもないだろう。ゴルダックがそう確信した……その時だった。
「いくら先制できても、当たらなければ意味がないのよ、坊や。」
「なっ、何!?」
頭上から響く声に、驚いてゴルダックは、慌ててそちらを振り向く。
そこには『アクアジェット』をかわし、既に上空へ飛んでいたオンバーンの姿があった。
オンバーンが、翼を強く一振りさせる。同時に、無数の空気の刃が、ゴルダック目がけて振り下ろされた。
「『エアスラッシュ』!」
「ぐあぁっ!?」
とっさに反応できず、ゴルダックは技をまともに喰らってしまった。
刃が容赦なく、ゴルダックの体に次々と刺さる。痛さのあまり首を垂れ、がくりと膝をついた。
「……!」
不意に、あごの辺りに感じる、爪の感触。
垂れた首が、くいっと持ち上げられる。気が付くと、オンバーンが自分の目の前に迫っており、持ち上げられた自分の顔をまじまじと覗きこんできた。
「惜しいわねぇ。貴方よく見たら、素敵な顔つきをしているじゃない。こういう形じゃなかったら、もっと良い関係になっても良かったんだけど……。」
怯んでいるゴルダックの目の前に、黒い悪魔が妖艶に微笑みかける。同時に迫る恐怖に、ゴルダックの体は固まってしまった。
「ふふ、怖がることなんて無いのよ?今、楽にしてあげるから。」
「や、やめろ……やめてくれ!俺はまだ、やるべきことが……!」
一歩も動けずにいるゴルダックの目の前で、オンバーンは躊躇することなく、気を溜め始めていた。
「これで終わりよ!『りゅうのはど……』」
オンバーンがとどめを刺そうとした、その時。
ぐさり、とゴルダックの体に何かが刺さる。
「ぐはっ……。」
胸を貫かれたゴルダックは、その場にぐったりと倒れ、動きを止めた。
「えっ……何?何が起こったっていうの??」
突然の出来事にオンバーンは驚き、技を中断した。
見ると、ゴルダックの体には、何かが刺さっている。四方の先端が鋭利に尖っており、投擲できそうなくらいの大きさであった。恐らく、暗器の類であろうか。
だが奇妙なことに、それは水でできているようであった。暗器は徐々に形を崩し、やがて原型をとどめることなく、ただの水へと変わっていく。しかし、ゴルダックの傷口が、塞がることはなかった。
「いや〜、ゴメンねゴメンね〜??無様な獲物が、視界に入っちゃったからさぁ。」
横から、子供のような無邪気な声が響く。
それに合わせて、オンバーンも顔を向けた。
暗い森の中で、姿はよくわからないが、どうにか何者かの影を認めることができた。
自分と同じくらいの背丈だろうか。比較的細身の体で、2足歩行をしているようだ。
だが、この声は初めて聴く。ゲンガーともゴルダックとも、全く違った者であることは確かだ。
「君も意地悪だね。無駄な口上なんて要らないからさ、黙ってさっさとやっちゃえばいいのに。」
「アタシの仕事を奪うなんて、良い根性しているじゃない。貴方、何者……っ!」
オンバーンが、そう訊ねた直後――
数歩先にいたはずの影が、いつの間にか間近に迫っている。首元には既に、水でできた匕首を突き付けられていた。
「皆はボクを、『影抜きの流水』って呼んでるよ。もっともボクにとっては、そんな呼び名なんて、どうでもいいんだけどさ。」
『影抜きの流水』と名乗る者が、ふっと微笑を浮かべてみせる。
オンバーンはというと、一瞬たりとも気を抜けないまま彼を睨みつけるのが、精一杯であった。
「アタシを、斬るつもりなの?」
「ん〜、どーしよっかなぁ〜。このままお陀仏にしても、いいんだけどさ〜……。」
目の前で、頭をぼりぼりと掻く音が聞こえる。
ここまで緊張感の無い暗殺者は、いるものだろうか?
「……やめた。君、何でも屋さんだよね?利用価値がありそうだし、今は泳がせておいてあげるよ。」
「待って。貴方まさか、アタシのことを知った上で近づいて……!?」
慌ててオンバーンは、目の前で笑う者に問いただす。
しかし、その瞬間――ドロンという音とともに、『影抜きの流水』が煙に包まれた。
「けっ、けむりだま……!」
「機会があったら、また逢おうね。……それじゃ。」
気が付いた時には、『影抜きの流水』の姿は消えていた。静かになった森の中で、あざ笑うかのような無邪気な声が、響き渡る。
闇に溶け込み、見えなくなった彼を、オンバーンは無言で送り出すしか術がなかった。