第41話 若き翡翠、風斬りとなりて 後編
ザッ、ザッ、ザッ……。
近づく足音が、頭の中で強く響いてくる。
その音に合わせて、誰かがこちらへと近づいてくる。
喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。
迫り来る彼の顔は、どの感情も感じ取ることができないほど、恐ろしく無表情に見えた。
両目にも、光は見られない。あるとすれば、ただ1つ――禍々しく溢れ、見る者の背筋を凍らせるような気迫。それだけが、強く感じられた。
「うぅ……。」
だからこそ、怖い。足が、一歩も動かない。
救いを求めるワルビルの目が、左に、右に揺れる。
視界に入るのは、上司の2匹――ガバイトとカブトプスであった。
しかし、彼らも動く気配は全くない。目の前から迫りくる彼によって斬り伏せられ、気を失っていたのである。
(お、親分!!いつまで寝ているんですか!?早く……早く、起きてくださいよ!!
あ、あぁ……だ、旦那!俺、どうすりゃいいんですかい!?ねえってば、旦那!!)
念じても、2匹の体は、ぴくりとも動かない。
まさに、絶望――ワルビルに刻み付けられたのは、その2文字であった。
「……さて。」
前方から響く、低い声。
焦点を合わせるだけで精一杯のワルビルの目が、恐る恐る前方に向けられた――その時。
風を斬る音とともに、翡翠色の刃が向けられる。その刃先は、ワルビルの喉笛を捉えていた。
感情を押し殺した声で、刃の主――ジュプトルが、ワルビルに問う。
「聞かせてもらおうか。何のために、俺たちの村を荒らした?……貴様らの目的は、何だ?」
「あ……えっ……?」
質問の意味が、分からない訳ではない。
だが――何も、考えられない。
思考回路を回そうとしても、恐怖で支配された頭では、空回りするばかりである。
ワルビルの頭は、ますます混乱する一方であった。
そのまま五秒……十秒と、無為に時間が過ぎていく。
「……っ!?」
急に、首元に負荷が掛かり、ワルビルの目が見開いた。
ふと下を見ると――喉元に突き付けられていた刃身が、顎の下にぴたりと触れ、顔を持ち上げていた。
刃先も首に密着している。今ここで腕を引かれれば、刃は喉元を抉る――命に関わる事態になることは、想像に難くなかった。
「さっさと答えろ。これ以上、俺を苛立たせるな。」
ジュプトルの顔に、怒りと不快の色が、一際強く表れる。
もはや、これ以上時間は、かけられない。黙したままでも、自分は無事で済まないだろう。
何か、喋らなければ。
この状況を切り抜けるには、何か喋らなければ――!
「……お……。」
極限の恐怖の中で、ワルビルが言葉を発し始める。
ジュプトルの目が、狙いを研ぎ澄ますかのように、細くなった。
乾いた風が、ひとしきり吹いた――その直後。ワルビルの目が再び、カッと見開く。
大粒の涙を流しながら、ジュプトルに向けて、大声で叫び始めた。
「俺の意志じゃねえんだ!全部、そこで倒れているあいつらが決めたことなんだ!!
目的とかそんなの、俺は何も知らされてなかった。こんなことになるまで、分からなかったんだよ!!」
「……ほう?」
ワルビルの話を聞くジュプトルから、感情の一切籠らない相槌が漏れる。
既に怒りの色は隠れ、再びジュプトルの表情は、無となっていた。しかしワルビルは、ジュプトルの反応を伺う間もなく、必死に叫び続ける。
「俺はただ、無理やり従わされていただけなんだ!本当は俺だって、こんなことしたくなかったんだよ!
けど相手は『大悪党』の息子だぜ?逆らいでもしようものなら、俺の首が飛んじまう。だから嫌々でも、従うしかなかったんだ!」
「……。」
ジュプトルは話を遮ることなく、表情一つ変えることなく、ただ何も言わずに聞いていた。
通常ならば、反応が無さ過ぎて、相手の様子を不審に思ってもおかしくない程である。
だが、今のワルビルに、そんな余裕は全くなかった。
感極まり始めたワルビルは、リーフブレードを突き付けるジュプトルの腕を、縋りつくように掴む。
そして彼は、上目遣いのまま、涙ながらにジュプトルに訴えかけた。
「なぁ、頼む。信じてくれよ!俺だってこんなとこで、くたばりたくねえんだ。生きていたいだけなんだ!
生きたいって思うのは当然だろ?誰だって同じだろ?……なぁ、そうだろ!?」
「……くっくっく。あっはははは!」
それまで何の反応も見せなかったジュプトルが、突然、高笑いを始める。
これにはワルビルも、ぽかんとして見つめることしか、できなかった。
「そうか、そうか。よくわかったぞ。」
そう言いながらジュプトルは、ワルビルの首元に突き付けたリーフブレードを、ゆっくりと外した。
ワルビルの視線が首元に移る。身の安全を脅かす物がようやく除かれ、彼にも安堵の色が現れ始めた。
ふっと、ジュプトルは口元を軽く緩め、笑ってみせる。その様子にワルビルの顔が、ぱっと明るくなった。
「そ、それじゃあ……!」
だが、綻ばせた顔で正面を向いた時。
既に目の前に、ジュプトルの姿はなかった。
(……?)
何が起こったのか理解できず、ワルビルが戸惑っていた――数秒後。
「つまり貴様は、救いようのないクズ野郎だということだな。」
「えっ?」
少し離れたところで、再びジュプトルが現れる。その両腕には、翡翠の刃が露わとなっていた。
ワルビルが素っ頓狂な声をあげた瞬間――悲劇は、起こった。
「あ、あぁ、ぎゃあああああ!!」
体全体を、激痛が駆け巡る。
腕から、腹から、足から……体中で、痛覚を激しく刺激され、思わずワルビルは悲鳴を上げた。
一瞬の出来事であった。気が付くと、ワルビルの体には、無数の傷口が刻まれている。
痛みに耐えられず、彼はそのまま、どさりと倒れ込んだ。
「……聴くに堪えんな。これでも、意識が飛ばない程度には加減してある。喚き散らすな。」
「なん、で……どう、し、て……??」
赦された、と思った直後に散々な目に遭わされ、ワルビルは身だけでなく、心も傷だらけになっていた。
再び、ワルビルの目から、無念の涙が流れ始める。うつ伏せになりながらも首をもたげ、ジュプトルを見上げていた。
「それが分からないお前に、俺の怒りは理解できないだろうな。」
ぎろり、と背後を睨むジュプトルの目には、殺気が込められていた。
その鋭い視線に、ワルビルは心臓を握られる感覚を覚える。かなしばりにあったように、ワルビルの体は硬直した。
「下らん話だ。こんな有様になるまで乗り気で付き従っておいて、目的も知らなかっただと?その程度で、俺を騙せると思ったのか?
挙句に何だ?『生きたいと思うのは、誰だって同じ』だと?……ふざけるな。俺たちの仲間を散々傷つけた貴様らに、そんなことをほざく資格があるとは、到底思えんな。」
容赦なく浴びせられるジュプトルの非難が、次々とワルビルの胸に突き刺さる。
もはや、立つ気力すら、彼には残っていなかった。
「貴様は、斬る気も失せる。そこで無様に、生き地獄を味わうのがお似合いだ。
……ほら、どうした。お望み通り生かしてやったぞ?もっと、喜べよ。」
「いや、だ……痛い……おね、がい……た、す……けて……。」
なおも救いを求めて、手を伸ばすワルビル。しかしジュプトルには、なおもそれが目障りに感じられるほどだった。
(――恥というものを知らんのか、こいつは。)
眉をしかめ、不快の色が露わになる。
ワルビルと話をする気も起きないジュプトルは、突き放すように言い捨てた。
「二度とその面を、俺に向けるな。その情けない声で、俺に話しかけるな。
――次会えば、容赦はせんぞ?」
「う、うぅ……。」
くるりと、ジュプトルは背を向ける。
泣き崩れるワルビルに二度と目を合わせることなく、彼は去っていった。
(村の外には、こんな下らん輩も、ゴロゴロいやがるってのか。一刻も早く、あいつを見つけ出さなければ……。)
ジュプトルにとっても、この悪党たちの出会いは、悪い意味で衝撃であった。
もし、こんな奴らが、コジョフーに接触して狼藉でも図ろうものなら……考えるだけでも、恐ろしい。
ふと、ジュプトルの足が止まる。
彼の視界の先には、目を閉じて穏やかな寝息をたてている、ガルーラがいた。
――思えば。
もっと早く戻っていれば、バシャーモを救えただけでなく、ガルーラおばさんも傷付かずに済んだかもしれない。
ジュプトルは、自責の念に駆られ、頭を抱え始めていた。
『あの子を――コジョフーちゃんを見つけたら、あの子の助けになっておくれ。怯えているあの子の、支えになっておくれ!それが、あたしの唯一の、心残りなんだよ。』
ガルーラから託された、望み。
すがりついて自分に頼むおばさんの声が、頭の中で反響する。
せめて今、ガルーラおばさんにできることが、あるなら――。
そう思わずには、いられなかった。
(おばさん……。今度こそ、約束は果たす。
あいつを見つけたら、おばさんにも逢わせてやる。だからそれまで、無事でいてくれ。)
辺り一面の、曇り空。
天を仰ぐジュプトルの視界は、依然として暗い。だが、ジュプトルの目は、尋常でないほどの決意が籠った、光を宿していた。
彼は一言だけ呟いた後に、どこへともなく、住み慣れた村を去っていった。
「コジョフー。どこに隠れていようとも、俺はお前を見つけ出してみせる。……必ずな。」