第40話 若き翡翠、風斬りとなりて 中編
信じられなかった。
重傷を負い、視界も虚ろになっていたガルーラには、目の前で起こっていることを、信じられずにいた。
苦戦を強いられ、自分だけでは抑えきれなかった悪党どもが、たった1匹のポケモンによって薙ぎ倒されていく。
翡翠の刃を翳すその姿は、見覚えのある者だった。
(本当に……本当に、あんたなのかい、ジュプトル?)
深緑の葉を靡かせ、悪党を2匹斬り伏せた者が、駆け寄ってくる。
自分の顔を覗きこむ彼は、ひどく心配そうな目で見つめながら、体を揺すってきた。
「おばさん……おばさん!しっかりするんだ!!」
聞き馴染みのある、この声――間違いない。
薄れかけていた意識を、どうにか保ちながら、ガルーラはゆっくりと視線を上げた。
ガルーラの半開きの両目が、ジュプトルの顔を捉える。同時にジュプトルは、何かが入った袋を、目の前に差し出した。
「喜んでくれ。『ふっかつそう』なら、手に入った。これでおじさんを助けられるんだ!
……おじさんは、どこだ?どこにいるんだ!?」
目を輝かせながら、ジュプトルは必死に問う。だが、ガルーラにはむしろ、胸がつぶれるような気分であった。
さりとて、事実を隠す訳にもいかない。ガルーラは重い口を開き、擦れた声で話し始めた。
「遅かったじゃないか……。あんた、どこをほっつき歩いていたんだい?」
「なっ……。」
ガルーラの話を聞くや否や、ジュプトルは絶句してしまった。
彼の顔が、みるみる青ざめていく。輝いていた目も、光を失っていった。
「遅かった、だと?それじゃ、まさか……。」
力の抜けたジュプトルの声が、ガルーラの胸に刺さる。彼女は顔を気まずそうに背けながら、視線を後方へやることしかできなかった。
ジュプトルも、それにつられて目を動かす。そこで彼はようやく、ガルーラの背後にある、1つの石に気付いた。
手に抱えて持てるほどの大きさをした、丸い石。その上には、数本の花が添えられていた。
だが、今の話の流れならば、あの石はどう考えても――
「なぁ、おばさん。……何かの、間違いだよな?」
固まった表情のまま、ジュプトルは目の前の事実を否定するかのように、首を横に振り始める。
しかし、ガルーラから力無く告げられたのは――認めたくない、現実だった。
「ちょうど、昨日からさ。おじさんの寝床は、あの石の下になったんだよ。」
――ガツン!
翠色の拳が、地に振り下ろされる。
鈍く、しかし虚しい打撃音が、2匹の間で鳴り響いた。
「嘘だっ……嘘だろ!?違うと言ってくれよ、おばさん!!」
目を血走らせながら、なおもジュプトルは地を叩き続けていた。
熱を帯び、拳が赤く滲む。それでも彼は、やり場のない想いを発散させるかのように、何度も虚しく、振り下ろす。
「くそっ!!こんなのって、あるかよ!?俺の旅は全部、無駄だったってことかよ!?
俺は何のために……こんな……。」
地に降ろされた腕が、止まる。旅の終わりに彼を待っていたのは、激しい虚無感だった。
怒りは哀しみに変わり、拳を振りかざす気力も失せ、体を震わせながら、その場にうずくまっていた。
(――何という、ことだ。)
あと1日……たった1日だけでも早く戻ることができれば、救えたかもしれないのに。
自分のせいで、おじさんは去って、村もこんなことになって――!
「……?」
気が付くと、自分の頭に何かが触れている。
悲嘆にくれる自分を、優しく包み込んでくれるように。
「でも……あんたが無事で、よかったよ。」
「……えっ?」
ジュプトルが顔を上げると、ガルーラが彼の頭を優しく撫でていた。
傷だらけにもかかわらず、ガルーラの表情は驚くほど穏やかだった。体中が痛いのに、菩薩のような微笑みを浮かべられるものだろうか。
「みんな、傷付いていって……村も、ぼろぼろになって……。好きだったものを全部壊されながら、孤独に倒れてしまうのかと思うと、怖かった……。
そんな時に、あんたが来てくれた。それだけで、あたしゃ嬉しいんだよ?」
ガルーラの目にも、うっすらと涙が浮かび始める。
彼女の瞳は、美しく澄んでいた。母親が我が子を見つめるようなその目に、荒んだ心が浄化されていくような心地になる。
「よく、戻ってきてくれたねぇ……。」
「おばさん……っ!」
込み上げてくるものを堪えられず、吸い寄せられるように、ジュプトルは自分の身をガルーラに預けた。
荒れた風が吹く中で、2匹は涙を流しながら、しばらく抱き合っていた。
「あぁ、これでコジョフーちゃんも、無事だといいんだけどねぇ……。」
「何?そういえば、コジョフーは何処に行ったんだ?」
何気なく漏らしたおばさんの独り言に、ジュプトルの目の色が変わる。
ふっと軽く笑いながら、ガルーラは言葉を続けた。
「あたしが逃がしたんだよ。今頃はもう、この村を遠く離れているだろうさ。
……ジュプトル。あんたに、1つ頼まれてもらっても、いいかい?」
救いを求めるように、ガルーラは手をジュプトルの双肩に添える。
ジュプトルは、黙って首を頷いた。
「あの子を――コジョフーちゃんを見つけたら、あの子の助けになっておくれ。怯えているあの子の、支えになっておくれ!それが、あたしの唯一の、心残りなんだよ。」
幼子のように頼りない目をして、こんなにも助けを求めてくるおばさんを、見たことがあっただろうか?
弱り切ったガルーラの様子に、ジュプトルは驚かずにはいられなかった。
(俺に、できるだろうか……。おじさんを救う役目も果たせなかった俺に、コジョフーを護ることなど、できるだろうか……?)
言葉に詰まり、思わず迷いの色が現れてしまう。
その時、ガルーラの手を握る力が、少し強くなった。
「頼むよ……。もう、頼めるのは、あんたしかいない――いや、あんたじゃなければ、できないことなんだよ!」
――そうか。
この望みを聞けるのは、自分しかいない。コジョフーの心の支えになることができるのは、俺しかいないんだ。
あいつは、独りでずっとおじさんの側にいて、支えになり続けていた。今度は、俺の番ということか。
ジュプトルは顔を上げ、真剣な目でガルーラに向き直った。
「もとより俺も、そのつもりだ。
おばさん、安心してくれ。あいつは俺が、幸せにしてみせる。」
それを聞いたガルーラの、口元が緩む。
一息ついた彼女は、遥か遠くを見つめているようだった。
「そうかい……それならよかった。もうあたしには、思い残すことは……。」
「待て!頼むから、そんなこと言うな!おばさんは、ここで倒れちゃだめだ!!」
目を閉じかけたガルーラを慌てて揺すり、意識を保たせる。
せめて、ガルーラだけでも助けたい。その一心でジュプトルは、手に持っていた袋を探る。
彼が掴んだもの――それは、旅の道中で手に入れた『ふっかつそう』だった。
(もう、これに賭けるしかない……。瀕死のおばさんを助けるには、これしかない!)
硝子の瓶に『ふっかつそう』と、数種類の木の実を入れ、それらを木の枝で潰し始める。
『ふっかつそう』は、確かに瀕死の者にも活力を与える効果はあるが、味が悪いのが難点であった。そこで、他の木の実と混ぜて、口に入れやすくしたのである。
(終わらせはしない……!おばさんだけ惨めな想い、させてたまるか!!)
いつ意識を失ってもおかしくないガルーラの傍らで、即席で薬を作り始めるジュプトルの目は、必死そのものだった。
「頼み事だけして俺たちを置いていくなんて、そんな無責任なことするな!幸せになって欲しいって言うのなら、せめてその目で見届けてくれ!!」
薬を作り上げたジュプトルは、必死の思いで硝子の瓶を、ガルーラの口に傾けた。
ごくり、と音をたてて、薬がガルーラの喉を通っていく。
「……うっ!げほっ、げほっ!」
木の実で中和したとはいえ、それでも苦い。多少荒っぽく口に押し込まれたこともあり、ガルーラは咳き込みながらも、どうにか薬を飲み切った。
疲れ切ったような様子で、ガルーラはジュプトルに向き直る。
「うぅ……何だってこんなに不味いんだい、この『ふっかつそう』ってやつは……。まったく、もうちょいと怪我人をいたわっておくれよ、ジュプトル。」
「す、すまない……だが、少しはマシになったようだな。」
表情こそ世辞にも良いとは言えないが、おばさんの声に、活力が戻り始めている。
早速、効果が現れ始めたのだろう。ジュプトルは、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「もう大丈夫だ。おばさんは、ゆっくり休んでいてくれ。」
「はぁ……感謝するよ。それじゃ、お言葉に甘えさせてもらおうかねぇ。」
ガルーラが、ゆっくりと目を閉じる。彼女は安心しきったかのように、穏やかな寝息をたてていた。
傷は癒えきっていないものの、これならば最悪の事態は、避けられるだろう。
眠りにつくガルーラを見届け、ジュプトルは腰を上げた。
―――――
「……さて。目障りな邪魔者が、もう1匹いたんだったな。」
気が付けば、ジュプトルの口元から、笑みが消えていた。
声にも、先程のような穏やかさを全く感じられない。ガルーラに接していた時の彼とは、まるで別者のようであった。
「おい、そこのお前。」
ぐるりと、ジュプトルの首が後方へ向けられる。
彼の表情は、復讐を心に決めた者そのものであった。ガバイトたちを斬り伏せた時のように、無慈悲で鋭い2つの視線が投げかけられる。
「ひっ!?」
十歩ほど先。1匹のポケモンが、その視線に体をびくりと震わせて、釘付けになる。
ガバイトの配下の1匹、ワルビルであった。
しかし、主は自分の目の前で無残にも斬り伏せられ、恐怖のあまりその場を動けずにいた。ようやく落ち着きを取り戻し、震えながらも逃げようとした――その矢先。悪魔にも思える低い声が、ワルビルの体を再び硬直させる。
(い……嫌だ!いやだ、いやだ、いやだ……!!俺は、あんな目に遭いたくない!!頼む、このまま見逃してくれ!俺のことなんか、ほっといてくれ……!)
全身から冷汗が溢れながら、ワルビルは強く念じていた。
だが――そう期待通りに動くほど、甘くは無かった。
ジュプトルは表情一つ崩さないまま、こちらに近づいてくる。
一歩、また一歩、重い足取りで距離を詰めてきた。
「う……ああ……。」
既にジュプトルは、自分の目の前にまで迫っている。ワルビルの顔が絶望の色に染まり、声を出すことすら、ままならない。
ワルビルが茫然と立ち尽くしていた、その時――無言のまま、ジュプトルの片腕が、ワルビルの首元に迫ってきた。
「ひぃっ……!」
翡翠の刃が、真正面から首元に突き付けられる。
ジュプトルは、感情を殺した低い声で、ワルビルに訊ねた。
「聞かせてもらおうか。何のために、俺たちの村を荒らした?……貴様らの目的は、何だ?」