第39話 若き翡翠、風斬りとなりて 前編
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
駆けた。
ただ、ひたすらに駆けた。
バシャーモを救うため、『ふっかつそう』を探す旅に出てから、1週間は過ぎただろうか。
あの時の俺――ジュプトルは、走ることしか頭の中に無かった。頭部から伸びる葉を靡かせ、脚で地を強く蹴りながら、飛ぶように走り去って行く。
周りの景色など、眼中に無かった。ただ、一刻も早く、村に戻りたかった。
(やっと、やっと手に入れた!これで、おじさんを助けられる!!
コジョフー、寂しい想いをさせて、済まなかった。今すぐにでも、戻ってやるからな!)
掴んだ希望――『ふっかつそう』をようやく手に入れ、俺は天にも昇るような気分だった。
村に戻ったら、もう一度おじさんの優しい顔を見られるだろうか。コジョフーはどんな顔をするだろう。そう思うだけで、自然と顔が綻んでくるものだった。
だが、この時の俺は、全く知らなかった。
俺の住んでいた村が、絶望的な状況になっていたことに――。
―――――
「うぅ……。」
痛い。
体中が、痛い。
暗雲の空の下。建ち並んでいた家は焼け落ち、無残な姿と化した村。
そこでは、1匹のポケモンが、満身創痍となりながらも膝をついていた。
メスでありながらも、がっしりとした体躯で、頭は強固な外殻で覆われている。
村の住人、ガルーラであった。かつて、この村では「ガルーラおばさん」と呼ばれて親しまれていたが――今や彼女をそう呼ぶ者は、もういない。
激しい戦闘をした、直後なのだろう。体には切り傷がいくつもできており、息も絶え絶えになっていた。彼女を支えていたのは、僅かに残る気力と根性だけであった。
(あたしは、まだ戦える。倒れるまでは、絶対にここを譲るわけにはいかない……!)
ガルーラの後ろには、粗末に置かれた1つの石。そこには、しおれかけた赤い花が数本添えられている。
それは、かつて『無双の炎脚』と称えられ、共に村で過ごしたバシャーモの墓であった。彼女はその墓の前に立ちはだかり、傷だらけになりながらも、前方を睨みつけていた。
ガルーラの視線の先には――
この村を襲った張本人である、悪党共が立っていた。
「けっ。どこまでも、しぶとい奴だぜ。」
目の前にいる、悪党の親玉が悪態をついた。
二足歩行の、鮫のような姿をしたポケモン。両目からは鋭い眼光が睨みを利かせ、口からは鋭い牙が見えていた。両手の先は、凶器と化した爪が伸びている。
必死の抵抗を見せるガルーラに、苦戦したのであろう。その者もまた、体中に傷を受け、息を荒げていた。
この世界で『大悪党』として名を馳せたガブリアスの息子、ガバイト。
彼は、配下のカブトプス、ワルビルと共にこの村へ襲来し、拠点を得るとともに、父の仇である『無双の炎脚』の墓を暴き、復讐を果たそうとしていた。
ガバイトは、ようやく膝をついたガルーラの前に立ちはだかり、彼女を見下ろしていた。
「俺に許しを請うってんなら、命だけは助けてやらんでもないぞ?」
「はん!くだらないね。寝言をほざくのも、大概にしな。」
強情なガルーラの態度に、ガバイトは思わず眉をしかめた。
それに合わせて、ガルーラの口元が吊り上がる。彼女の目は、まだ輝きを残していた。
「言ったはずだよ。あたしゃ、命を捨てる覚悟でここに来たってね。あんたに命乞いして、おめおめと生きるくらいなら、潔くここで散るほうが百倍マシさね。」
「ちっ……ままならん奴だ。」
ガルーラの、清々しいくらいの眼差しが、ガバイトには不快でしかなかった。
ガバイトからすれば、絶望を与えて怯えさせながら終わらせるつもりであった。しかし、このような状況下でもなお、折れないガルーラの様子に、彼は苛立ちさえも覚えた。
鋭く伸びたガバイトの爪が、妖しくぎらりと光る。
彼が伸ばした手の先には、ガルーラの胸元を捉えていた。
「そこまで言うなら、望み通りにしてやる。恨むなら、己の非力さと不運を恨むんだな。……遺言があるなら、さっさと言いな?」
この爪が振り下ろされれば、もはや自分の体も持たないだろう。
ガルーラはそっと目を閉じながら、この村で共に過ごした者の顔を思い浮かべていた。
(あたしは、何も恨みはしないさ。自分の娘も、この村も護れなかったけど……
ただ、あの子だけでも――コジョフーちゃんだけでも逃げのびてくれれば、それでいい。あの子さえ、無事で生きてくれるなら、あたしがここまで頑張った意味も、あるってものさね。)
やがて、ガルーラの目がゆっくりと開く。
ガバイトの瞳の奥に語り掛けるように、彼女は重い口調で言い放った。
「せいぜい、いい気になってな。悪い子はね、それに見合う罰を受けるのが、当然の理ってもんなんだよ。」
「……くくく、はーっははは!!最期に何をほざくかと思えば、ただの負け惜しみか!!」
廃墟と化した村に響く、悪党の高笑い。ガバイトはただ、ガルーラの一言を一笑に付すのみであった。
彼の心には、響かなかったのだろう。それどころか、嘲笑を浴びせる始末である。
「阿呆くさいったら、ありゃしねえぜ!そんな偉そうなこと言って、状況が変わる訳でもねえってのによ!本当にお前は、どこまで俺を笑わせりゃ気が済むんだ!?
……そうか。こんな時だってのに、そんなことしか思いつかなかったんだろうなぁ。つくづく、哀れな奴だぜ。」
嘲笑が、猟奇的な笑みに変わった。
再び、凶器と化した爪が、禍々しい光を宿す。ガバイトの腕は、今にも振り下ろされそうとしていた。
「くだらんおしゃべりは終わりだ……覚悟しやがれ!!」
ガバイトの爪が、ガルーラの胸元に、急速に迫る。
(あたしも、ここまでなのか……皆、何もできないあたしを、許しておくれ……!)
強く目を瞑るガルーラ。一筋の涙が伝い、彼女の頬をなぞった時。
――ぐさり。
刃物で身を抉る音が、村中に響いた。
(――??)
おかしい。
今頃、自分はもう、ガバイトの爪で刺されているはず。
なのに、痛みが無い。――いや、こうして意識もある。生きている。
恐る恐る、ガルーラは目を少しずつ開けていく。
そこには、信じがたい光景が広がっていた。
「なっ!?」
驚きのあまり、ガルーラは目を見開く。
そこには、何者かに刃物を鳩尾に深々と刺され、必死に痛みを耐えているガバイトの姿だった。
「ぐっ、うう……何だ、てめえは……。」
腹部を押さえながら、ぎろり、とガバイトの目が背後に動く。
そこには、何者かが鋭い目つきで悪党を睨みながら、姿勢をやや低くして立っていた。
頭部から、柳の如く、深緑のしなやかな葉が揺れる。
翡翠色の、蜥蜴のような姿をしたその者――ジュプトルは、殺気の籠った目でガバイトを見据えていた。
右腕から伸びる翡翠の刃が、ガバイトの体に向かって、一直線に伸びている。
「ただの……しがない、村の住人だ。」
ジュプトルは無造作に右腕を引き、ガバイトの体から『リーフブレード』を外した。
再び、耐え難い激痛が彼を襲う。
「ぐああっ!!」
悲痛な叫びをあげながら、ガバイトは体制を崩す。
瞬間、ジュプトルが強く一歩踏み込み、ガバイトに飛びかかる。既に、両腕には翡翠の刃が露わとなっていた。
(は、速い!?)
ガバイトがそう思った時には、もう遅かった。
次の瞬間、彼は再び、『リーフブレード』の餌食となっていた。非情な1対の刃が、彼の体を容赦なく斬りつける。
「……!」
あまりの痛みに言葉を発することもできず、目を見開いたまま、ガバイトはその場に、どさりと倒れ込んだ。
「若殿!」
「お、親分!!」
配下のカブトプスとワルビルが、ガバイトの元へ駆け寄る。
だが、彼らの親玉の息は、既に途絶えようとしていた。ガバイトは、僅かな気力を振り絞り、手を伸ばしていた。
霞む視界の中に見えるのは、仇の墓。あと十歩もあれば、届きそうな距離ではある。しかし、もうこれ以上、体が動かない。近くに見えるはずなのに、彼にはそれが、途方もなく遠く感じた。
「ち……く、しょう……あと、少しだってのによ……俺の、夢が……俺の、復讐、が……。」
それが、ガバイトの発することのできた、精一杯の言葉であった。
やがて、彼の目がゆっくりと閉じる。意識は途切れ、体も動かなくなった。
「くっ……よくも若殿を!貴様は、生かしておけん!!」
忠義に篤いカブトプスが、主の仇であるジュプトルに向かって突進した。
流れるような動きで、瞬時にして距離を詰める。
一方、ジュプトルは、カブトプスが迫っているというのに、背を向けたままで身動きする素振りも見せなかった。
「若殿の仇め!お命、頂戴致す!」
カブトプスが、1対の鎌を振りかぶる。彼の得意技の1つ、『きりさく』の合図だ。
鎌を振り下ろし、仇の体を無残にも痛めつける――はずだった。
瞬間、ジュプトルが右足を1歩後退させる。振り向きながら、彼は右腕を薙ぎ払った。
鞘から刀を引き抜き、瞬時にして敵を切り裂く居合術のように、研ぎ澄まされた斬撃が繰り出される。
「があっ!!」
成すすべもなく、カブトプスは崩れ落ちる。
みず・いわタイプの彼にとって、くさタイプの技『リーフブレード』は致命的な一撃である。強力な一撃をまともに喰らい、カブトプスは即座に意識を無くしてしまった。
動かなくなったカブトプスに、ジュプトルは不快さを露わにした目つきで、容赦なく言い捨てた。
「俺たちの住処や大事な者を奪っておいて、何が仇討ちだ。馬鹿馬鹿しい。」
「ひ、ひいっ!!何だコイツ、化物か!?」
冷血なまでに、一瞬で2匹を切り伏せたジュプトルに、ワルビルはすっかり怯えきってしまった。
体はガクガクと震え、足で立つこともままならない。ただ、その場にへたり込むことしかできなかった。
そんなワルビルに、一瞥をくれることすらなく、ジュプトルはガルーラに近づいた。
「おばさん!しっかりするんだ!!薬なら手に入った。おじさんはどこだ!?」