第29話 迷い火、焔を揺るがす
怖くて、動けない。
縛られて動きを封じられている訳でもないのに、一歩も動けない。
「これは……どういうことですか、コジョンド?」
バクフーンの部屋にいるところをキュウコンに見られてしまい、コジョンドは恐怖で硬直していた。
怒りの炎に包まれた師匠の眼が、こちらを覗きこむ。コジョンドにとっては、万事休す、と言っても過言ではなかった。
ありのままに事情を話せば、もはや無事では済まされないだろう。
追い詰められ、コジョンドは目を強く瞑る。その目から、涙が一筋流れ始めていた。
「おい。ちょっと、やり過ぎじゃねえか?」
横から挟まれた声に、キュウコンの視線が、ようやくコジョンドから外れる。
視線の先には、先程まで腕組みしながら様子見していた、バクフーンがいた。
バクフーンの顔に、ふざけたような笑みは無かった。彼は自分の口を一文字に結んだまま、キュウコンを睨んでいた。
一方で、キュウコンも忌々しそうに首を少しだけこちらに向け、水を差してきたバクフーンを、軽くあしらっていた。
「これは、我々の戒律に関わる話です。貴方には関係ありません。
失礼ながら、口を挟まないでいただけますか?」
「無関係ではないぜ?なにせ、こいつには恩義があるんでな。そんな奴を、放置するわけにはいかない。」
ぴくり、とキュウコンの眉が微かに動く。
不審に思ったキュウコンは、問いただす矛先をバクフーンに向け始めた。
「恩義、ですか。コジョンドが、貴方に何をしたと?」
それを聞き、バクフーンの口角が、にっと吊り上がる。
彼は不敵な笑みを浮かべていた。あたかも、自分が蒔いた餌に魚が食いついたかのように。
「昨夜、俺は高熱にうなされてな。そんな折、偶々俺の部屋を通りかかったコジョンドが気付いてくれて、一晩中看病までしてくれたのさ。こいつが俺の部屋にいるのは、そういうことだ。」
(えっ……?バクフーン様、貴方何を言って……??)
コジョンドは彼の話を、首をかしげながら聞いていた。
勿論、彼の話は即興で思いついた嘘方便である。しかしバクフーンは、さも本当であるかのように、堂々と語ってみせた。こういうことは、彼の得意とするところである。
そしてバクフーンはすかさず、戸惑うコジョンドのほうに振り向き、軽い調子で声をかけた。
「わりぃな。夜中に咳き込んだりしていたから、ろくに寝ていないだろ。おかげさんで体調も、大分持ち直したぜ。世話かけたな。」
未だに狼狽えているコジョンドが、バクフーンの方へと顔を向ける。
そこで彼は、キュウコンに気付かれないように、小さく頷いて見せた。
(大丈夫だ、俺を信じろ。今はとにかく、俺に合わせてくれ。)
2つの紅い目が、コジョンドに訴えかける。
意図を察したコジョンドも、小さく頷き返した。
「……お気に、なさらないでください。困っているお方を、見捨てることはできませんから。」
目は伏せがちで、ぎこちなさが抜けきらない演技。
しかしコジョンドは、確かにそう言った。それを聞いたバクフーンは、満足そうに再度頷いてみせる。
(上出来だぜ、コジョンド。)
彼は、勝利を確信したかのように得意げな表情で、再びキュウコンに向き直った。
「これで分かったか?こいつがここにいることに、何の不自然もないだろう?
戒律だの何だの、抜かしているようだが、コジョンドにどこにも疾しいことはない。そうだろう?」
反論できないキュウコンは、ただその場で顔をしかめながら、バクフーンに眼光を飛ばすことしかできなかった。
そんな彼女に、バクフーンはさらに畳みかけた。
「今時こんなやついないぜ?あんた、素晴らしい門下生を持ったもんだな。そいつにあんたは、今みたいに火傷でも負わせて虐めてんのか?
ははっ、天下に名高き『冷たき焔』の舞妓さんがこのザマとは、お笑いだな。」
「ぐっ……!」
キュウコンの表情にはさらに怒りが籠り、憚らず歯ぎしりを始める。彼女の犬歯が、むき出しになるほどであった。
バクフーンにここまで笑い種にされて、キュウコンは彼を炎で黙らせてやりたかった。しかし……
(この寺に世話になっている立場上、こやつに手荒な真似をすることはできない。こんな奴に手も足も出せぬとは、なんて腹立たしい……!)
苦虫を噛み潰したような表情で、沸き立つ感情を抑えながら、キュウコンは静かに言った。
「……朝から稽古を始めますゆえ、コジョンドは連れ戻させていただきます。」
「そういうことならば、どうぞどうぞ。」
素直に引き下がるバクフーンであったが、その顔には、キュウコンの論をくじいて有頂天になっている様子がはっきりと伺える。
それがキュウコンの苛立ちを、余計に加速させていた。
「何をしているのです、コジョンド。さっさとついてきなさい。」
苛立ちを少しでも紛らすように、角が立つ師匠の声が、コジョンドに向けられる。
やや足早に去っていくキュウコンに続き、コジョンドが一歩踏み出した時だった。
「……あぁ、そうだ。」
わざと聞こえるように、やや大きな声で、バクフーンが呟き始める。
瞬間、コジョンドとキュウコンは、歩みを止めた。コジョンドは反射的にバクフーンのほうへ振り向いたが、キュウコンは奥を見つめたままで、首をこちらへ向けなかった。
バクフーンは、意地悪そうな笑みを浮かべながら、そのまま言葉を続けた。
「ついでに、その稽古とやらがどんなものか、『見学』させてもらいますぜ。こんな機会は滅多にありませんからなぁ?」
彼はキュウコンのほうを向きながら、『見学』という言葉に特に重きを置いて、煽るような口調で話していた。
コジョンドはその意味を図りかねて、呆然としていたが……
「!?」
突如、背後から異様な熱気を感じ、思わず後ろを振り向いた。
見ると、キュウコンが再び、全身の毛をぶわりと逆立てている。彼女の周囲は熱気が渦巻き、近づくだけで吹き飛ばされそうなほどであった。
顔はこちらへ向けていないままであったが、恐らく想像を絶するほど恐ろしい表情になっているのであろう。
バクフーンは『見学』と言っていたが、それは稽古の最中に、キュウコンが変に手を出さないか見張る――つまり、『監視』するという意味であった。
キュウコンが激怒したのも、その意味を悟ってのことである。
(おのれ、生意気な火鼠め!!ここぞとばかりに、つけあがりおって……!!)
顔は見えないものの、キュウコンの怒りがひしひしと伝わるようであった。
その様子にコジョンドは、恐怖で体を震わせて、あたふたしていたが……
しばらくすると、逆立っていたキュウコンの毛が、落ち着きを取り戻してゆっくりと下がっていった。
「……お好きに、どうぞ。」
キュウコンが、言葉を絞り出す。
激昂しても意味がないのはわかりきっていたため、無理にでも怒りを抑えつけようとしたのだろう。
だが、口調こそ冷静ではあったものの、言葉が少し震えている。キュウコンの周囲にある熱気も、完全に収まりきってはいなかった。
「感謝しますぜ、キュウコンさん。さすが、お師匠様は心が広い。」
深々と頭を下げ、おどけたようにバクフーンは答えてみせたが、キュウコンはついに彼に一瞥をくれることなく、無視してそのまま去っていった。
コジョンドもまた、戸惑いながらもキュウコンへとついていった。
―――――
この日は雨だったため、御堂内で公開稽古が行われていた。
キュウコンの指導の下で、コジョンドを筆頭とする門下生が、一糸乱れぬ動きで舞ってみせる。御堂は、立ちどころに花が舞っているかのような光景となった。
その花畑の近くに引き寄せられるように、バクフーンが御堂の廊下から、稽古を見守っていた。
回転する動きに合わせて、1つの花がこちらを振り向く。それは、彼の最も気に入っている花であった。
華麗に1回転したコジョンドが、ふと顔を上げる。稽古を見守っているバクフーンと、目が合った。
バクフーンが屈託のない笑顔を向けてくる。コジョンドはそれを認めるも、次の動きは体を屈めて手を覆い隠す動作。腕によって、彼女の顔は隠れてしまった。
しかし、コジョンドは屈めた体を起こし、少しずつ顔の前にあった腕を掃い始める。
徐々に、コジョンドの顔が、明らかになっていった。
(バクフーン様。今日は、本当に助かりました。感謝しております……。)
手に抱えた花弁を放り投げるかのように、両腕を持ちあげながら横へと伸ばす。
眩しい程に輝くコジョンドの笑顔が、バクフーンの心を捉えて離さなかった。
(あんたのその幸せな笑顔、俺が護ってやる。――いつまでも、な。)
かつてないほどの、胸の充実感。
目を閉じながら、バクフーンはそれを噛みしめる。満ち足りた表情で、彼は胸に手を当てていた。
――そんなバクフーンを、忌々しそうに見つめる、2つの眼。
(浮付いた心根の風来坊め……。あの者の存在は、コジョンド――いや、門下生にとって、害悪でしかない。)
キュウコンは、蠅でも見るかのような目つきで、御堂の廊下にいるバクフーンを睨んでいた。
彼女にとっては、門下生の風紀を乱しかねないバクフーンの存在が、邪魔で仕方なかったのである。キュウコンは一刻も早く、バクフーンを自分たちから引き離したいと思っていた。
(新しい稽古場の建設、急がせねばなるまいな。取り急ぎ、仮住まいだけでも早めに建ててもらい、ここを離れなければ……。)
―――――
その後、ブリガロンは意識を取り戻し、コータスも無事に寺へ帰還した。
再び僧堂も賑やかになる一方で、寺での舞の稽古もしばらく続き――
瞬く間に、月日は流れていった。