第28話 怒りの焔
コジョンドが、御堂のどこにもいない。
チャーレムとキマワリの話によれば、起床時には既に姿を消していたという。
門下生から話を聞いたキュウコンは、険しい顔のまま僧堂を歩いていた。
眉間には通常よりも皺が寄せられ、苛立ちを隠せていなかった。優雅さを重視する彼女にしては珍しく、一歩歩くたびに、ドスンと大きな足音が響く。九つの尾も、振り子のように落ち着きなく揺れていた。
思えば、ここ最近のコジョンドは、不審な点が目立つようになっていた。
春の祭りの初舞台。それからというものの、コジョンドは何かに心を奪われているように、ぼうっとしているのを見かけるようになった。
日を追うごとに、コジョンドは集中力を散漫させることが多くなっていった。特に最近は、この寺に来てから、余計にひどくなっている。
それだけではない。花火大会での挙動も、疑惑が拭いきれなかった。
確かに稽古場に帰った時、コジョンドは自分たちを出迎えていた。留守番役は務めていたようだが、それならば何故、広場で彼女を呼ぶ声が聞こえていたのだろうか?
(私の予感が、外れていればいいのだが……。)
コジョンドが度々、現を抜かす理由。それに関して、キュウコンは何となく想像がついていた。
もっとも、キュウコンにとって、それは最も望まない結果ではあるのだが。
(いずれにせよ、確かめなければなるまい。)
そう思い、キュウコンは足を止めた。
ここは、僧堂の台所。寺で仕える者が毎日、皆に出す食事の用意をする場所である。
台所の奥では、1匹のポケモン――ブリガロンが、食事の準備をしていた。
既に机の上には、バクフーンとブリガロン、そしてキュウコンたちの分の食器が用意され、あとは料理を分けて木の実を盛り付けるだけとなっていた。
「もし、そこのお方。」
キュウコンが、調理中のブリガロンに声をかける。
先程まで調理をしていたブリガロンは、そこでぱっと顔を上げて、キュウコンの存在にようやく気付いた。
「おや、これはキュウコンさん。こんなところまで、どうしたんです?朝ごはんなら、もうすぐ……。」
「門下生のコジョンドが、今朝からいないのです。どこに行ったか、心当たりはございませんか?」
お前と雑談している暇はない、とでも言わんばかりに、キュウコンはブリガロンの言葉を遮って訊ねた。
キュウコンの無愛想な態度に、ブリガロンは思わず一歩身を引いたが、思い出すような素振りを見せた後、彼はキュウコンに答えた。
「えっ、コジョンドさん?……うーん、今朝は見てないっすね。」
「……そうですか。」
幸か不幸か、当てが外れたことに、キュウコンは複雑な心境でいた。
もし僧堂にコジョンドがいて、何か間違いでも起こったら……と、キュウコンは内心不安であったが、どうやら違っていたようである。
もっとも、この予感が当たっていれば、コジョンドは戒律破りになってしまうため、見当違いであるほうがマシなのだが。
それでも、コジョンドが失踪したのは、心配である。
もう少し周囲を探そうと、キュウコンが後ろを振り向こうとした、その時だった。
「あぁ、そういえば、昨晩遅くにお逢いしたっすよ!」
ふと思い出したブリガロンが、口を滑らせる。それと同時に、キュウコンの両目が、カッと見開いた。
踊り子の戒律を知らないブリガロンにとっては、コジョンドがバクフーンに逢いに行くことを、特に悪いことだと思っていなかったので、そのまま素直に喋ってしまったのである。『冷たき焔』の異名に似つかわしくない、動揺の色を浮かべながら、キュウコンは即座にブリガロンの方へと振り向いた。
「何やら切羽詰まった様子だったっすね。夜中にも関わらず1匹で僧堂に入り込んで、兄弟子を探していたっす。そんで、オイラが兄弟子の部屋を教えて……ひっ!?」
それ以上の言葉を、ブリガロンは続けることができなかった。
キュウコンの全身の毛が、憤怒で逆立っている。熱を帯びた気が、彼女の周りを包んでいた。
両目は剣のように鋭く光らせており、その姿はまさに、炎に包まれた妖狐そのものであった。
「コジョンドが、バクフーン殿の部屋へ向かった、と……。間違い、ありませんね?」
妖しい光を宿した眼が、ブリガロンを覗きこむ。
ガタガタと体を震わせながら、ブリガロンは声を絞り出した。
「は、はは……はいっ!!お、お、オイラに兄弟子の部屋の場所を聞いた後、いい、急いでそっちのほうに……ぎゃあっ!!」
高熱の気が、キュウコンから一気に放たれる。
ブリガロンの証言を聞いているうちに、キュウコンはふつふつと怒りが湧き上がり、ついには『ねっぷう』でその怒りを爆発させてしまった。
熱を帯びた気をまともに喰らい、ブリガロンは吹き飛ばされる。正直に答えてしまったのが、かえって命取りになったようである。
「うう……なんで、オイラがこんな目に……。」
強力なほのおタイプの技をまともに受けたブリガロンは、そのまま気を失ってしまった。
『ねっぷう』を繰り出した後も、キュウコンの目の光は、消えていなかった。
「戒律を破ったあの子を許すわけには、いかない……。」
倒れたブリガロンに目もくれず、キュウコンはゆっくりと歩きながら、その場を後にした。
―――――
「うーん……。」
僧堂の一室。外では雨が降る中で、寝床から微かに発せられる声。
横になったままの体勢で、コジョンドはゆっくりと目を開けた。
彼女の視界にまず入ったのは、黄色のふさふさとした毛並み。自分の目の前で、バクフーンが穏やかな寝息をたてて、眠っていた。
彼の手が、自分の首の後ろに優しく触れている。それがまた心地よくて、もう少しこのままでいたいと思えるほどだった。
初めて過ごした、2匹の夜。
自分に課せられた戒律を破ることと知りつつも、衝動的な想いから、意を決してバクフーンのもとへと足を運んだ。
コジョンドにとっては、その危険を冒してまでもなお、逢いたい方だった。
(……。)
コジョンドの視線が、徐々に上へと移る。
そこには、バクフーンの穏やかな寝顔があった。
すやすやと、寝息を立てる無防備な彼。それが、コジョンドにはとても新鮮に思えた。
起きている時の彼は、あれだけ甘く囁いて、時々意地悪してくるから、ムッとすることもあるけれど……。
今の彼を、突然驚かせたら、どんな顔するだろう。くすっと、コジョンドは思わず、微かに笑ってしまった。
(このままずっと、傍にいられたらいいのにな……。)
かつて、夜が明けることを、これほど恨めしく思ったことがあるだろうか。
既に明るくなった外へと視線を向け、思わず目を細めた――その、瞬間だった。
どすん。廊下の方から、足音が聞こえる。
それに合わせて、コジョンドは体を、びくりと震わせた。
地響きがするほどの音ではない。足音の主は、大柄な者ではないだろう。
どちらかというと、華奢な足でありながらも、廊下をしっかりと踏み込んでいるような感じの音である。
一歩、また一歩と、足音は段々こちらの方へ近づいているようだ。
(誰かが来る……!どうしよう、隠れなきゃ!)
コジョンドの顔が、一瞬にして青ざめる。
とっさに彼女は辺りを見渡した。すると、部屋の奥の方に、1匹が隠れることのできそうな屏風を見つけた。
(ここなら、何とかなりそう……!今は、この場を凌がなくては。)
慌ててコジョンドは、屏風の後ろへと回り込んでいった。
廊下から聞こえる足音が、部屋の戸の前でぴたりと止まる。障子戸の前には、何者かが立っているのだろう。ぼんやりと、暗い影が映し出された。
「バクフーン殿、いらっしゃいますか?」
障子戸から、声が響く。
張りのある強い、聞き覚えのある声。それは、怒りを押し殺しているように重く響いた。
そして、戸から感じる異様な熱気。戸を開けずとも、声の主は明々白々だった。
(お師匠様……!)
屏風の後ろで、コジョンドは青ざめながら、小刻みに体を震わせていた。
よりにもよって、一番顔を合わせたくない相手が、もうすぐそこまで来ているなんて……!
「んん?……誰だ?朝っぱらから。」
戸口からの声で、ようやくバクフーンが目覚めた。
事態をよくわかっていない彼は、寝ぼけ眼のまま、よろよろと入口へ向かう。そして、部屋の障子戸を、すっと開けた。
案の定、そこには『冷たき焔』――
コジョンドの師である、キュウコンが仁王立ちしていた。
いつまた『ねっぷう』を繰り出してもおかしくないような熱気を、体中から発している。キュウコンは、明らかに怒りの籠った目でこちらを見ていた。
「誰かと思えば、キュウコンさんか。随分とひどい剣幕だが、こんなところに何用で?」
ただならぬ雰囲気を感じたバクフーンの眼に、光が灯る。
キュウコンは、表情一つ崩さぬまま、威圧的な態度でバクフーンに訊ねた。
「そちらに私の門下生がいると思うのですが……部屋の中を拝見して、よろしいですね?」
バクフーンの表情が、少し険しくなる。
こちらの都合も考えず、一方的に要求を通そうとするキュウコンの態度を、バクフーンは快く思えなかった。
「……何故、そんな必要が?キュウコンさんの門下生なぞ、ここには用がないだろう?」
「こちらには、確たる証言があるのですよ。隠そうとする理由が分かりかねますが、無駄というものです。」
バクフーンの返答を待たず、キュウコンはそのままお構いなしに部屋の中へ入っていった。
部屋の奥にある屏風が、キュウコンの視界に入る。彼女はそちらへゆっくりと歩み寄り、屏風を乱暴にはたき落とした。
「!」
がたん、という音を立てて、屏風が外される。
姿が露わになり、コジョンドはその場で体が固まった。
――とうとう、自分がバクフーンの部屋に忍び込んだことが、露呈してしまった……!
鋭く目を光らせるキュウコンの周囲から、小さな紫色の火が舞い始める。
それは、ゆらゆらとキュウコンの周囲で揺らめいていたかと思うと、やがてコジョンドの手の方へと飛んで行った。
相手に火傷を負わせる技、『おにび』である。だが、舞に支障のないように、威力はやや弱めに加減されていた。
「つっ…!」
それでも軽いやけどを負い、コジョンドは思わず顔をしかめ、目を強く瞑った。
ゆっくりと目を開けると、そこには――鬼よりも恐ろしい二つの眼が、こちらを見下ろしていた。
(怖い……!私、どうしたら……!)
体に、力が入らない。
コジョンドは魂を吸い取られたかのように、その場で立ち尽くしてしまう。彼女の心は、完全に恐怖で支配されてしまった。
キュウコンはコジョンドを睨みつけながら、追い討ちをかけるかのように低い声で、コジョンドに問いただした。
「これは……どういうことですか、コジョンド?」