第26話 僧堂に忍ぶ
十六夜の月が、天高く上る頃。
稽古場の者たちが、早々と眠りにつく中。御堂でただ1匹身を起こしている者がいた。
彼女は、ゆっくりと周囲を見渡していた。
既に御堂の灯りは消え、皆は安らかな寝息を立てていた。この様子だと皆、深い眠りに落ちているだろう。
(……よし、大丈夫。今なら行けるわ。)
はやる気持ちを押さえ、寝ている皆を起こさないように、その者は物音を立てずに御堂の戸へ近づいた。
微かに手を震わせながら、戸に触れる。そして彼女は、ゆっくりと戸を開けた。
月の淡い光が、彼女の顔を照らす。
彼女の視界の先には、僧堂――寺で修行する、バクフーンとブリガロンが寝起きしている建物が、そびえ立っていた。
(ブリガロンさんの話では、住職のコータスさんは、今日帰らないと仰っていた。
バクフーン様にお逢いするならば、今日しかない――!)
失敗は、許されない。
コータスが留守とはいえ、まだキュウコンがいる。僧堂に忍び、バクフーンに逢おうとしたことが露呈すれば、待ち受けるのは最悪の結果だ。
恋などという、特定の者に心を捧げる行為は許されない。この踊り子の戒律を破った罪で、自分の立場が危うくなるのである。
そうなれば、コータスの耳に入るのも、時間の問題。修行に打ち込む者が異性に逢い、現を抜かしていたとなれば、バクフーンにも火の粉がかかるのだ。
御堂で立っていた、そのポケモン――コジョンドは、今一度己が決意をその目に籠らせる。
そして、再度御堂を振り返り、誰も起きないことを確認すると、御堂の戸を静かに閉めた。
―――――
御堂から庭を挟み、30メートル程離れた先。
造りは御堂よりもやや小さく、寺で修行する者が寝泊まりする、僧堂があった。
コジョンドはその僧堂の廊下へと、足を踏み入れていた。
些細な物音も許されない。このまま静かに僧堂を進み、誰にも気づかれないようにバクフーンに逢い……
(あれ?そう言えば、バクフーン様のお部屋って、どこだったかしら?)
そこまできて、コジョンドはようやく気付いた。
バクフーンの部屋がどこか、コジョンドは知らなかったのである。そうでなくとも、普通は寺の者が休む部屋に立ち入る理由はそうそうないので、どこにあるか訊ねもしていなかった。
(……探さなくては。)
自分の詰めの甘さに、辟易するほどであったが、落ち込んでばかりもいられない。
誰かに見つかる危険を冒してここまで来て、退くわけにもいかなかった。
コジョンドは手始めに、目の前にある部屋の戸を開けた。
ここは、誰かの部屋なのだろうか。
寝床も机も用意されている。しかし、灯りは消されており、部屋の中に誰かがいる様子ではなかった。
――こんな深夜に、どこか出掛けているのだろうか。
蝋燭を消した時の、煙の臭いを感じる。先程まで誰かがいて、出かけて間もないようだ。
誰かの部屋ではあるようだが……では、一体誰のだろうか?
そう、コジョンドが考えていた時だった。
「!!」
突然、背後から自分の顔の横に、火を近づけられた。
コジョンドは驚いて身を引き、火の方を見やる。
幽霊のように揺れる火に一瞬驚いたが、よく見るとそれは、松明に灯された火だった。
(……ということは。)
松明を持つ者が、近くにいる、ということだ。
コジョンドがその場で振り向く。そこには、怪訝そうに自分の顔を覗きこむ、松明の持ち主が立っていた。
「誰かと思えば、コジョンドさんじゃないっすか。何故、こんなところに?」
人影の正体に気付くと、松明の持ち主は、気の抜けた声でコジョンドに話しかける。
灯りに照らされ、コジョンドも持ち主の顔が見えた。側にいたのは、夜に寺の見回りをしていた、ブリガロンだった。
(びっくりした。ブリガロンさんだから、まだいいけど……。)
コジョンドは胸を撫で下ろしたものの、正直なところ、複雑な気分でいた。
ひとまず、稽古場の者ではないので、一安心ではあった。仮に、バクフーンの前に万一誰かに出くわすとしても、ブリガロンならば一番安全なほうである。
だが、最悪の事態には至らなかったものの、それでも自分が僧堂にいるのを見られるのは、あまり良い状況ではなかった。
「その……バクフーン様に用があって……。」
言葉を濁そうとしても、やはり顔に動揺の色は隠せなかった。
目線が自然と、ブリガロンから離れてしまう。言葉もぎこちなさが見て取れるほどだった。
「こんな時間に、ですか?」
「……。」
案の定、よくわからないという風に、困ったような表情でブリガロンが聞き返す。彼にとっては、無理からぬ反応だった。
コジョンドは必死で言い訳を絞ろうとするが、何も浮かばない。冷汗は止まらず、口を噤んだまま黙ってしまった。
「もう夜遅いっすよ?なんなら、オイラが明日、兄弟子に用件を伝えておき……」
彼女のことを気に掛けつつ、ブリガロンがそう言いかけた時だった。
「……えっ?」
突然のことに、思わずブリガロンは言葉を失う。
コジョンドが急に、両腕を掴んできたのである。棘の無い、人間で言えば二の腕にあたる部分に手を触れ、懇願するように、こちらを見上げてくる。
「お願いです!どうかこのまま、何も聞かずにバクフーンさんの居場所を教えてください!
今夜。今夜じゃないと、駄目なんです!どうか、お願いします!」
一体、何があったというのだろう?
こんなにもコジョンドさんが必死な様子なのも珍しい気がする。兄弟子と、何かあったのだろうか?
コジョンドとバクフーンに何があったのか、ブリガロンには想像すらできなかった。
だが、この尋常でない様子を見ていると、このまま足止めをするのも、良くないかもしれない。
ブリガロンは、少し悩んだ末に、一心に視線を投げかけるコジョンドのほうへ再び向いて、口を開いた。
「兄弟子なら、この角を曲がって、3つ目の部屋でお休みに……。」
そう、ブリガロンが答えるや否や。
コジョンドは即座に手を振りほどき、足早に去っていった。
「あっ、ちょっと!?……一体、何なんっすか??」
何も言わずに去っていくコジョンドを、ブリガロンはただ茫然と見送ることしかできなかった。
―――――
「ん……。」
紅い2つの瞳が、ゆっくりと開く。
目の前には、燃え続けて短くなってもなお、明かりを灯す蝋燭。机の上に無造作に散らばる、数枚の紙。
(あぁ、そういえば。俺、返事書こうとして、そのまま寝ちまったのか。)
先程まで机に突っ伏していたバクフーンは、重たそうに身を起こす。
いつの間にか、月は先程よりも高く昇っており、青く淡い光が部屋の隙間から差し込んでいた。
机に散らばる紙の1枚を、バクフーンは何気なく手に取った。
それは数刻前まで書いていた、コジョンド宛の、書きかけの手紙だった。
先程まで書き綴っていた自分の文字を、目でなぞっていく。その時は必死になって書いていたつもりではあったが――
(……ダメだ。こんな駄文、あいつに見せられるもんじゃねえ。)
改めて見返しても、どうやら気に入らなかったのだろう。彼は首を横に振ると、書きかけの手紙を机の脇に投げ捨てた。
(今日は調子悪いみたいだし、もう、横になるか。)
そう思い、バクフーンが自室内の寝床へ向かおうとした――その、瞬間だった。
スッ、と音を立てて、バクフーンの部屋の戸が開く。
涼しくなり始めたばかりの風が、バクフーンの毛をなでた。
(……?)
こんな夜更けに、誰か来たのだろうか。バクフーンは反射的に、部屋の戸の方へ視線を向けた。
そこには、開いた戸に手をかけて、立ってこちらを見ている者の姿があった。
逆光で顔はよく見えないが、体はしなやかで美麗な曲線を描き、手には振袖のように、ふわりと体毛が垂れかかっている。
口元からしなやかに伸びる毛が、秋風に揺らめき、見る者に儚げな美しさを感じさせるようだった。
「誰だ、あんた……?」
部屋に突如現れた者に、思わずバクフーンはそう訊ねる。
彼が声をかけた瞬間、目の前にいる影が突如、バクフーンの目の前で伏せ始める。体を前屈みにして、深々と頭を下げていた。
バクフーンが呆気にとられていると、影がゆっくりと顔を上げる。机に静置された蝋燭で、その者の顔が照らされた。
「無礼をお許しください、バクフーン様。」
「――っ!?」
聞き覚えのある、清楚な声。
灯りに照らされた顔は、まぎれもなく、コジョンドその者であった。