想いは篝火となりて








小説トップ
第4章 立秋 ―災禍の炎、転じて―
第21話 災禍の炎
バシャリ、と水の弾く音が響く。
稽古場の庭に置かれた井戸のそば。桶に水を汲み、そこでコジョンドは顔を洗っていた。

花火大会の日から、一ヶ月程経った頃だった。
暦は立秋を過ぎて数週間。つまり、時期としてはもう秋だと言ってもおかしくないはずなのに、どうして残暑は一向に収まる気配がないのだろう。
この日の昼間は日差しが強く、暑さで頭がぼうっとなりそうな程だった。生温くとも、時折風が吹いてくれるのが、まだ救いである。
少しでも暑さを紛らすため、コジョンドはここしばらく、昼休みに井戸の水で涼むのが日課になっていた。

「ふう……。」

井戸水を含んだ手から顔を離し、コジョンドが首を左右に振る。
透明な雫が、コジョンドの周辺で舞い落ちる。気持ち良さそうに溜息をつきながら、コジョンドはゆっくりと目を開けた。
視界の先には青く澄んだ空が広がっている。ところどころ白く浮かぶ鰯雲が、それとなく秋の色を仄めかしていた。

「コジョンド〜、その水、あたしにもちょうだい〜。」

すっかり暑さで滅入ったチャーレムから、気の抜けた声をかけられる。

「はい、これ。」

コジョンドはチャーレムのほうへ振り向くと、水の溜まった桶を差し出した。体を引きずらせながら、チャーレムがこちらに近づいてくる。
次の瞬間、おもむろに両手で桶を掴んだかと思うと――

チャーレムが無造作に、頭上で桶を逆さにした。
ザバーっと大きな音をたてて、チャーレムの体全体に水が振りかかる。

「ちょ、ちょっとチャーレム!?何やってんのよ!!」

まさかチャーレムが、大胆に水浴びを始めるとは思わなかったので、コジョンドは、驚いて思わず大声をあげてしまった。

「はぁ……。こうも暑けりゃ、こうでもしないとやってらんないわよ。」

チャーレムは、さも当然といった口調で答えつつ、忌々しそうに上方を見上げる。
視線の先には、暦で秋を迎えたにもかかわらず、容赦無く異常に照りつける太陽があった。

「ちょっと〜、おてんとさん〜。いい加減大人しくしてくれませんかね〜?」

ジト目のまま、チャーレムは太陽に向かって、戯けて叫んでみせた。
やれやれ、とコジョンドは溜息をつくが……

(まっ、冗談言っている余裕はあるみたいだし、大丈夫か。)

やっぱり、この子はこうでなくちゃね。
チャーレムがいつもの調子であることを見届けると、少し安堵感を覚え、不思議と笑ってしまうのだった。

「さてと……もう少しで午後の稽古だったわね。頑張りましょ!」
「はいはい。でも、こんな暑い中でやるのは勘弁だわ。」

―――――

午後の稽古に備えて、コジョンドたちが稽古場の中へ一旦戻ろうとした、ちょうどその時。

カンカン、カンカン!
街中に、甲高い金物の音が響く。街の中心部に置かれた、鐘の音だ。
私達の街でこの鐘が鳴らされたということは、街に緊急事態が起こったということだ。

コジョンドとチャーレムの顔に、緊張が走る。
部屋で休んでいた他の門下生や、お師匠様も、続々と部屋から顔を出し始めた。

「きゃー!きゃー!大変ですわー!!」

黄色い声とともに、門下生の1匹であるキマワリが、私たちの元へ駆け込んできた。
彼女は普段ですらも、今と同様に甲高い声で話し、興奮すると「きゃー!」と叫ぶのが口癖だった。彼女のテンションの高さは、私達にはもう慣れっこだったが、今回は鐘が鳴っているのもあり、キマワリの騒ぎ声に皆が注目した。

「何事です、騒々しい!貴方には節操というものが無いのですか!?」

だが、いつものこととは言え、お師匠様は必要以上に騒ぎ立てられるのが大嫌いだった。
明らかに不機嫌なそうな表情をして、威圧するかのように、お師匠様はキマワリに訊ねる。

「お師匠様!これが落ち着いていられませんわ!近くで、大火事が起こったんですもの!しかも、風で街全体に燃え広がっていて、みんな避難し始めていますわ!
じきにここも危なくなりますわ。早く逃げないと……きゃー!」

街で大火事発生。それを聞いた皆は、顔が真っ青になった。
どうしよう、早くなんとかしないと、などと門下生が口々に騒ぎ始める。皆、冷静さを失い始めていた。

一方でお師匠様は、相変わらずキマワリが騒がしいままなので苛立ってはいたものの、火事と聞いて黙ってはいられない。

「皆、落ち着きなさい。狼狽えてはなりません!」

お師匠様の一喝が、稽古場に響く。その声に、門下生たちの動きがぴたりと止まった。

「本日の稽古は中止です。皆、急いで避難の準備に取り掛かりなさい!」

―――――

コジョンドたちが準備を済ませ、外に出た時。すでに火の手は街の半分ほどを飲み込み、稽古場に迫ろうとしていた。
コジョンドたちの街ではこういう時、鐘が鳴った時点で消防隊が動くのだが、今回の火事は強風と相まり、消化活動も難航していた。
火が間近まで迫っている以上、稽古場を離れて安全を確保するのが一番である。

「もはや一刻の猶予もありません。私に続くのです!」

そう言って、お師匠様は皆を先導した。他の門下生も、遅れまいと必死についていく。
コジョンドも皆とともに急いで避難するが、その道中、彼女はふと後ろを振り向いた。

街は既に朱色に染まり、パチパチと音を立てて火の粉が舞い上がる。
赤い斑点のように見えるそれは、音を立てながら空へと登っていった。

「火の色って、こんなに綺麗だったかしら。まるで、あの日の花火のような……。」

コジョンドは、この状況にもかかわらず、一ヶ月ほど前のことを思い出していた。

誰にも知られていない秘密の場所で、次々と打ち上げられる花火に見惚れていた、あの日。
そして、自分の隣には……

『あんたが夜空で花火を咲かせるなら、俺は月となって、間近で見守りたい。……駄目か?』

あの、耳を撫でるような、無邪気で優しい声。
今、あの方はどうしているのだろう……。

そこまで考えた時。コジョンドは不意に、右手を強く引っ張られる感覚を覚えた。

「なに、そんなところでぼうっとしてんのよ!?丸焦げどころじゃ済まないわよ!!」

振り向くと、そこには必死の形相でコジョンドの腕を掴む、チャーレムがいた。コジョンドが火に飲まれていく街で、歩みを止めているのに気付き、急いで戻ってきたのである。

「ご、ごめん、すぐ行くから……。」

なんで私、こんなところで思い出にふけっていたんだろう。
自分でも先程の行動を後悔しながら、チャーレムに引っ張られるがまま、コジョンドも走り始めた。

―――――

避難を始めて数十分ほど。コジョンドたちは、小高い丘の上まで来ていた。
丘の前に広がるのは、真っ赤に染まった街。
火事による火の威力は、想像以上だった。

「あぁ、私たちの稽古場が燃えているわ……。」
「ちょっと!お師匠様もいるってのに、そんなこと言っちゃ駄目だって!」

コジョンドの横で、門下生がそう会話しているのが聞こえる。
見ると、かつて自分たちが訓練をしていた稽古場は、すでに炎に飲み込まれていた。近隣の建物とともに赤く燃え上がり、跡形も無くなっているのが、ここからも見えていた。

もともとこの稽古場は、お師匠様によって建てられたものだった。それだけに、思い入れも強く、一番辛い思いをしているとすれば、それはお師匠様のはずだった。

「お師匠様、その……大丈夫ですか?」
門下生の1匹であるリオルが、お師匠様に声をかける。
お師匠様は、かつて稽古場があった所をじっと見つめていた。リオルに声をかけられても、視線を外さないまま、顔色も変えずに言い放つ。

「……そのような心配は無用です。それよりも、皆が無事であることを喜ぶべきではないですか?」

お師匠様は、抑揚のない声で答えた。
……いや、抑揚を押し殺した、と言ったほうが正しいだろうか。
その様子に、リオルも思わず、かける言葉を失う。

確かに、『冷たき焔』と呼ばれるお師匠様が取り乱すのも、想像できないが……。
それでも、師というものは、どんなに計り知れないほど辛いとしても、それを露わにすることも許されないのだろうか。
疑問に思いはすれども、配下のコジョンド達には知りようもないことだった。

「お師匠様。これから私達は、どこに向かうのでしょうか?」
間を置いて、リオルが再び訊ねた。
思案しているのだろうか、お師匠様が一度目を閉じる。

「……そうですね。」

五秒程経った頃、再びお師匠様は目を開けて、指示を出した。

「かつて、私が世話になった師を頼るとしましょう。ここから北にある寺を目指します。」

■筆者メッセージ
こんにちは、ミュートです。

第3章の最後で、拍手コメントをいただきました。まことに有難うございます。
非常に励みになるので、嬉しいです!このまま、完結まで頑張っていきます。

さて、今回から新しい章の始まりです。
火事のため街から避難することになったコジョンドたち。この先、どんな運命を辿ることになるのやら。
ミュート ( 2015/08/01(土) 23:09 )