第9話 花火と月
思いつきもしなかった。まさか、あの方とここで逢うなんて。
初舞台の日に助けてもらい、ずっと気にはなっていたけど、どこの誰かすら分からなかった。
逢うことはできないだろう、と半ば諦めていた。でも……
こうして、再び逢うことになるとは。
広場を離れた、夜の森の中。コジョンドは、目の前の光景を疑わずにいられなかった。
彼女の目の前にいるのは、紅き眼の火鼠。『迷い火の風来坊』であった。
風来坊は、倒れているコジョンドの前で身を屈め、手を差し出した。
「立てるか?」
あの時と同じ、曇りのない優しい声。
甘く囁くように撫でるその声に、コジョンドも無意識に手を伸ばしていた。
しかし、少しだけ近づけた後にコジョンドは手の動きを止め、首を横に振る。
「……いえ、大丈夫です。自分で立てますから。」
既に一度、このお方には助けられている身だ。二度も手を煩わせたくない。
そう思い、コジョンドは両手で地を押さえ、自力で立とうとした。しかし――
「いたっ!」
打ち所が悪かったのか、思ったより足の痛みが強い。
走って疲れ切ったのもあり、手にも力が入らず、思うように立てない。
(うう、こんなみっともない姿を、また見せてしまうなんて……)
その様子を、目の前で恩人にじっと見られている。
だが、コジョンドはその場でへたりこむことしかできず、情けなさでしょんぼりしていた。
(やれやれ、手のかかるお方だ。)
そんなコジョンドの様子を、風来坊は始終ニヤニヤしながら眺めていた。
そして風来坊は、ふっと笑ったかと思うと、コジョンドに一歩近づいた。
「無理するなって。俺が助けてやるから。」
そう言うと風来坊は、コジョンドの足と背中に手を添えたかと思うと、そのまま自信のみを起こし、コジョンドを抱きかかえた。
いわゆる、「お姫様抱っこ」の状態である。
「な……!?お待ちください!そんなことをなさらなくても、私は……!」
これにはコジョンドも思わず慌ててしまった。
顔を赤くし、珍しく大声になってしまうコジョンド。しかし、風来坊は笑って答えた。
「はっはっは。本当は、こうして欲しいんじゃなかったのか?」
「そんなことは……。」
……あれ?何故私は、答えに詰まっているんだろう。
こんなの恥ずかしいに決まっているし、今すぐにでも降ろしてほしいはずなんだけど。
「俺がいいとこに連れてってやるよ、お姫さん。」
コジョンドがすっかりおとなしくなったのを見て、風来坊は、彼女を抱きかかえたまま森の奥へと進んでいった。
夜の森。それは子供には勿論のこと、成長した大人ですらも安全とは言えない場所である。
宵闇は密集した木々で更に深みを増し、ならず者が潜むには絶好の場と化す。
そんな危険な森の中を、風来坊はコジョンドを抱きかかえたまま、どんどん奥深くへ進んでいく。これにはコジョンドも、落ち着いていられなかった。
「あの……どこへ行くつもりです?だ、大丈夫なのですか?」
思わずコジョンドは尋ねた。声も震え、明らかに不安が表れている。
しかし、風来坊は不安な顔を何一つ見せず、それどころか余裕の表情を見せながら答えた。
「怖いか?ははっ、大丈夫だって。俺を信じろよ。万一何かあっても、俺も一緒だ。」
あまりにも自信満々な様子だったので、コジョンドは不安を拭えずにいたものの、それ以上訊かないことにした。
「さぁ、着いたぞ。」
しばらく先を進んだところで、風来坊は歩みを止めた。
先程まで風来坊の方を向いていたコジョンドは、前へと目線を移す。目に映る光景に、コジョンドは思わず驚いて、目を見開いた。
そこは、森の奥深くにあるとは思えない、空き地であった。
周囲は木々が密集し、先も見えないほどであるというのに、どういうわけかこの場所だけ木がなく、円形に草原が広がっていた。
見上げると、藍色の夏の夜空がパノラマのように広がり、星と満月の光が広場に降り注ぐ。
「こんな開けた場所が、森の中にあったなんて……。」
コジョンドは、ただただ目を丸くして茫然としていた。
「驚いただろ?俺は広場でより、ここで花火を見るのが好きなんだ。何故なら……」
風来坊が抱きかかえていたコジョンドを降ろしながら、得意そうに話しかけた、まさにその時。
ドーン、ドーン。
2匹の背後で突如、大きな音が鳴った。
振り向くと、夜空のパノラマに花火が打ち上げられていた。一筋、また一筋と光が伸び、一瞬消えたかと思うと、色とりどりの花が次々に咲く。
「綺麗……。」
思わず、花火に見とれてコジョンドが言葉を漏らす。
「俺だけの秘密の場所だったんだが……誰かとここで花火を見るのも、悪くないもんだな。」
風来坊は、草原にごろんと寝転がりながら独り言を呟く。
コジョンドは、彼がここを秘密にしていたことに再度驚き、彼のほうへと顔を向けた。
「えっ?では何故、私をここに連れてきてくださったんですか?」
「え?……あっはっはっは!」
コジョンドの問いに、風来坊は戸惑ったかと思うと、暫くした後に急に笑い出した。
呆気にとられていたコジョンドに風来坊は、にっと口元を綻ばせながら、子供のように笑って言った。
「わかんねぇや。なんか、あんたなら教えてもいいかなって、何となく思っちゃってさ。」
『何となく』。もうちょっと気の利いた言葉でも選べなかったのだろうか。
しかし、偽りを感じさせない無邪気な笑顔でこうもあっさりと言われると、コジョンドは悪い気どころか、不思議と可笑しくなって吹き出してしまうのだった。
―――――
一しきり笑いあった2匹だったが、徐々に収まり、次々と打ち上げられた花火に見とれていた。
花火の色鮮やかな煌めきと、満月の穏やかな光が、2匹を照らす。
「もう、痛みは治まったか?」
沈黙を破ったのは、風来坊であった。
花火に見とれていたコジョンドは、そちらの方に向き、優しく返す。
「ええ。二度も助けていただき、ありがとうございました。」
「ん、二度?前に助けたこと、あったっけな?」
風来坊は顎に手をやり、コジョンドの言葉の意味を少し考えていた。
コジョンドが説明しようとしたが、その前に風来坊は思い付き、にやりと笑った。
「あぁ、思い出したぜ。初舞台でズッコケたお姫さんを、俺が華麗に助けてやったんだったなぁ。」
「あぁ……まぁ、そうですけど……。」
思わず苦笑するコジョンドであったが、内容は間違っていなかったので、否定もできなかった。
「まだ名前も伺っておりませんが……貴方は、誰なのです?」
コジョンドは気をとり直し、ずっと気になっていたことを風来坊に訊ねた。
「俺が誰か、か……そうだな。」
風来坊は、また少し何かを考えた後、ふっと笑って勿体付けたように答えた。
「諸大陸を歩き回る詩家で、旅先で様々な詩を書いている。俺が一度筆を振るえば、そこから溢れる言葉で、心を動かさない者はいない、との評判だ。皆は俺を……」
勿論、明らかに冗談である。しかし、そんな風来坊の口が、ふと止まった。
目の前には、自分を見つめる2つの目。
それは、騙されることを知らない赤子のように、純粋で綺麗なものだった。
これには、わざとホラを吹いた自分が、逆に恥ずかしくなってくるほどである。
(そんな無垢すぎる目で、見ないでくれよ……)
風来坊はまた少し笑い、一瞬目を逸らして肩をすくめながら、軽い調子で言う。
「わりぃ、今のは冗談だ。」
「なっ……ちょっと!私が貴方のことを知らずにいるからって!」
先程から茶化される一方で、コジョンドもついにふくれっ面をしてしまった。
はっはっは、と風来坊は大笑いしつつ、コジョンドに声をかける。
「あんた、そんな顔もするんだな。そっちのほうも、かわいいぜ?」
「馬鹿にするのも、いい加減にしてください……。」
風来坊にとっては、初対面の時から、そして2度目の今ですらも、終始丁寧なコジョンドの表情を、崩してみたかったのである。
もっとも、コジョンドにとっては、ただ単に遊ばれているようにしか映らず、不貞腐れてしまっていたが、風来坊にとっては、それもまた可愛らしく見えるのであった。
「……まっ、昔から色んなところを見て回っているのは、本当だけどな。」
再び風来坊は、自分のことを語り始める。今度はおどけた様子は無く、コジョンドをしっかりと見つめながら話した。
「この近辺を歩いていた時に、寺の住職に拾われ、今じゃ居座らせてもらっている。けど、籠ってばかりってのは、楽しくないからな。こうやって街に出て、どんな奴がいるのかを見て、様々な物に触れたい。この身で、多くのことを直に体験したいんだ。」
最初は適当に聞いていたコジョンドだったが、今回は風来坊も目を逸らさず、真剣そのものの様子で話しかけてくるため、徐々に彼に引きこまれていった。
「街の奴らは俺のことを、『迷い火の風来坊』とか抜かしてやがるがな。だが、あんたにはちゃんと俺のことを呼んでほしい。バクフーン、ってな。」
再び、ドーンと音を立てて、花火が打ち上げられる。今日一番の、大輪の花火であろう。
それに合わせてバクフーンは、コジョンドに体を近づけ、顔をそっと撫でながら言った。
「あんたが夜空で花火を咲かせるなら、俺は月となってそれを間近で見守りたい。……駄目か?」