第一話:狂犬・ジャック
空は曇天、道は枯れ果てた木々で埋め尽くされていて、時折吹き通っていく寒風が、枯葉を乾いた音で鳴らしていく。
太陽の光が届かない雲の下を、一匹の黒い犬が歩いている。
黒が半数を占めた灰色の毛並みを備えたその目には、暗い赤眼二つがある。
グラエナたる彼、ジャックは、焦燥し切った心を抱いていた。
「……」
腹の虫が鳴き声を上げて、手短に落ちていた艶のないリンゴを拾い食いする。
手ぶらである彼には、それしか食事の算段がなかった。
しかし、それらのことは、たとえ自身の命が消えそうな状態であっても、どうでもよかった。
目的もないのに、なぜ生きているのか。
死ねれば話しはそれで早いのだが、かといって今すぐ死ねる気にもなれなかった。
だからこそ、このような焦燥感に塗れた人生を泥沼のように続けている。
「タウンへは、トレジャータウンはまだ先か」
光の宿っていない眼が、どこか遠いところへ向けられた。
光が宿っていないのは、別段盲目に陥っているというわけではなく、もっと別の、病気よりももっと厄介なもの、精神的なことに関係している。
「別に生きてる必要性なんか感じないんが……でも、まだ死にたい気分でもないんだよな」
ぶつぶつと呟き続け、道なき道を一人、孤独に進んでいく。
その途中で、なにかにぶつかる。
前方をよく見ていなかったための、不注意であった。
「おい、オヤジさんよぉ。しっかりと前見とけよ」
目の前には案の定というべきなのだろう、ハスボーの進化系、今しがたぶつかったハスブレロと、一歩後ろにいるドガースの進化系マタドガスが立ち塞がっていた。
二人を一瞥してみたジャックは、すまんな、と一言だけ言ってそのまま通り抜けようとするが、言葉遣い通りらしいハスブレロが彼の横っ腹を掴んだ。
「待てよ。あれだけで許すと思ってんのか?置いてくもん置いてけや」
「そうそう。例えば、カネ」
チンピラといったところか、口調と人相通りの輩であるらしく、素人目から見ても彼らはあまりにも人格が崩れていることがわかる。
だが、海の奥深くで暗い渦を巻いているかのようなジャックの精神に比べれば、それはまだ足元にも及ばないものだった。
「スマンな…見た目通り無一文なんだ」
彼の喋り方はどこまでも暗く、言葉と認識できるのが不思議なほど気味が悪い。
その不気味さといえば体中を虫が這いずるような、生理的に受けつけないくらいの凄まじさであり、何よりも一言言葉が吐かれるだけでも頭に奇妙な頭痛が走る、それぐらいのものだった。
彼の容姿、表情から目つき、何から何までがあまりにも気味が悪く、近寄りがたい存在であることを今知ったがために、ハスブレロとマタドガスは背を向けて小さく囁き合った。
「なんだよこいつ、気味悪すぎだろ」
「選んだ相手が悪かったんだよ。なんでテメェこんな乞食に目つけたんだ。見た目の効果で不気味さが3倍増しじゃねぇか、どうしてくれんだ…!」
「どーするもこーも、こうなったらいつも通り蹴飛ばすしかねぇだろ。どうせ体は弱いだろうよ、適当にボコればいい。それでストレス発散、どうだ」
ハスブレロの提案にマタドガスは、酷く嫌そうな顔をして反論を取り上げた。
「……正直やるのも嫌なんだが」
「あぁ?いつから腰抜けになったんだテメェはよ。この間までは通りかかったカップルをからかってボコボコにして、戦利品を分かち合った仲だってのによぉ。まさかこの後に及んで情けなんてものを――」
ハスブレロは突然言葉を遮り後ろを振り返ると、続いてマタドガスも同様に振り返り、そこを見た。
気づけば、そこには先ほどまで立っていたグラエナの姿が忽然と消えていたのだ。
「クソ!気配が消えたと思ったら、やっぱりいなくなってやがった」
「お、おい。オレらの金と荷物、何時の間にか無くなってるぞ!」
「はぁ!?マジかよざけんじゃねぇぞ…。全財産が飛んでってるじゃねーか!あれがねぇと寝床どころかメシも食えねーってのに!」
「探すぞ…。チクショー、大金持ちに成れると思った矢先にこれかよ!あれが無くなるといよいよオレらも餓死しちまう!」
蜘蛛の子を散らすようにして、その場から去ったチンピラがそれきり姿を消した所で、適当に立っていた木の影、チンピラのいた箇所の死角からジャックはその場へ再び現れ、盗み取った物品を地面に転がしてそれらを眺めた。
現金に引き換えられそうな宝石の装飾品がいくつかと、約5000ポケが盗品であり、なるほど確かにカップルを襲ったらしいという事実が、そこに物語られていた。
そしてそのカップルはただの庶民ではないらしく、恐らくはどこかの名家の出であるらしいことがわかった。
その証拠は何よりも、装飾品の中にある一つのリング、腕輪がそうであり、『ダイアナ家4代目当主、フレン=ダイアナ』と、名が刻まれていた。
さらにそのフレン=ダイアナとやらは炎タイプのポケモンであることが推測でき、腕輪の全面に炎を表した装飾が施されている。
「チョロイ奴らだ…。良いカモだったな。が、こいつはまずい」
腕輪を手に持ち、それをゆっくりと回し、その全体を眺めて思いふけった。
ただ単に金と安い道具を盗った場合は大して気にする必要はないが、宝石類や高い装飾品を取ってしまうとなると、リスクが高くなってしまう。
なぜならば、財政に大きな余裕を持つ裕福層というものは皆、こうした物を身だしなみとして身に着けているため、その量と価値の高さで相手の大きさが変わってくるのだ。
特に、堂々とその家の名が刻まれている物を持つ相手というのは、大抵が周辺の街や政界を牛耳っている可能性が高く、従ってその家の者――ましてや当主の身に何かが起きたとなれば、その家が総力を挙げてその者を捕らえ、潰しに掛かるだろう。
そう、ダイアナ家があのチンピラ二人を捕まえ、腕輪や装飾品の行方が不明になった事情を聞き出し、やがてジャックの元に辿り着くのだ。
恐らく、自分の目の前には恐ろしく強い何者かが現れるだろう、その何者かとは恐らく。
「腕利きの探検隊が俺を嗅ぎつけるのも時間の問題か…まあいい」
それはそれで別に良い。
逃げてはいるものの、いつ捕まって牢獄に放り込まれて朽ち果てるかなど、彼にはどうでもよかった。
どちらにしろ、生きてる意味も、楽しさも無いのだから、己はただ空気のように漂い、自然に受け入れるだけ。
もっとも、彼を捕まえられた者などこれまで誰一人そしていなかったのだが。
彼は他所ではあまり見られない、奇妙な戦い方をする。
それのせいで、今までジャックと面と向かって立ち向かった探検隊は、無残な負け方をしてきた。
だが、今回でそれを打ち破られることになるとは、彼自身思ってもいなかっただろう。
ちっぽけな、鋼の名を持つ小さな探検隊に、それは破られたのだ。