33 戦いの始まり
エンジンシティ、エンジンスタジアム。
そこを主戦場とするカブはマイナーリーグに降格してしまったが、それでもそこがガラルにとっては歴史と伝統あるスタジアムであるという事実は変わらない。
ガラルポケモンリーグにとって最大の祭典の開会式を生で見ようと、当時は世界的に見ても最大のスタジアムであったはずのエンジンスタジアムは、立ち見が発生するほどの満員の観客で埋め尽くされていた。まだ彼らの注目を一転に集め、共通する話題があるはずではないのに、彼らそれぞれの期待の雑談が、信じられないうねりとなって対戦場に響いている。
一人の男が、対戦場の中央に向かっていった。その男は見るからに高そうなスーツを身にまとい、特徴的に整えられた口ひげが目を引く。それに気づいた観客達からの歓声を、彼は余裕を持って受け止めている。
ガラルポケモンリーグ協会の委員長、ローズはまだ就任して日が浅いが、一人の炭鉱夫から世界でも屈指の大企業を作り上げた才能とバイタリティをポケモンリーグの舞台でも遺憾なく発揮し、ガラルリーグに成功とダイマックス戦術をもたらした。
彼がガラルのカリスマであることに異論のある人間はほとんど存在しないだろう。たまに逆張りで彼を否定する人間もいるかも知れないが、彼らとて、ローズがこの世界に持つ影響力を否定することは出来ない。
やがて、対戦場中央にたどり着いた彼は、ぐるりと観客席を見渡して自身の存在を知らしめた後に、大きく手を広げて言った。
胸元に付けられたピンマイクが、その声をスタジアム中に、世界中に届ける。
だが、本当はそんなモノ必要ないのではないかと考える人間もいるだろう。ローズという人間が持つ勢い、それはそう思わせるに十分なものだった。
『レディースアンドジェントルメン! わたくし、リーグ委員長のローズと言います!』
今更その自己紹介が必要な人間などほとんどいないだろう。
『お集まりの皆様も、テレビで御覧の皆様も、本当におまたせしましたね!』
大きな手振りで、全世界に向けてジェスチャーを行う。
『いよいよ! ガラル地方の祭典、ジムチャレンジのはじまりです!』
その号令に、観客達は大きく湧いた。その興奮を共有するために集まったのだ。それがマナーというものなのだろう。
『八人のジムリーダーに認められ! 八個のジムバッジを集めたすごいポケモントレーナーだけが、最強のチャンピオンが待つチャンピオンカップに進めます!』
そのルールも、今更解説するほどのものではない。だが、その説明によって、チャンピオンカップというものが、その先に待つチャンピオンというものの存在を神格化される。
一息ついて、ローズは少し頭に手をやってから続ける。ここまでは毎年変わりのない挨拶であったが、ここからはまだどうするべきかというセオリーが決まっておらず、毎年少しずつマイナーチェンジをおこなっている。
『それでは! チャンピオンカップの先に待つチャンピオンを皆様に紹介しましょう!』
その言葉を合図に、花火とスモークが片方のゲートから炊かれ、一人の青年が不服そうな表情を隠そうともせずに現れた。
陶器のように白い肌に、スラリと長い手足を強調するようなスキニーパンツ。癖のある明るめのパープルの髪が、スモークを撹拌させる風に揺れていた。
紹介が真実であるならば、ポケモンリーグチャンピオンであるはずの彼は、その肩書が冗談のように思えるほどに端麗な青年だった。
だがどうだろう、観客達が彼に向ける歓声というものは、その肩書や容姿を考えるとあまりにも小さい。
観客に女性が少ないわけではない、むしろワイルドな男性ジムリーダーや、希望に満ち溢れる少年少女トレーナーに心奪われる女性は多い、同じように男性がバトルに心を奪われていることを考えても、観客の性別比は半々と言っていいだろう。
歓声を煽るようにローズが手を広げて彼を紹介する。
『彼こそが『サイキック一族最強』ガラルの未来を見通すことのできる男、チャンピオン、アスチルです!』
ローズの横についたアスチルは、やはり不満げな表情のまま目線を下げている。そして、握手するように差し出されたローズの右手を気だるそうに握った。
☆
エンジンスタジアム、もう片方のゲート。
他のジムリーダーたちと共に並んでいるノマルは、すでに退場したアスチルと同じように不満げな表情だった。
多少の緊張はあった、周りのジムリーダー達はテレビやメディアでよく見る顔であったし、彼らがあまりにも緊張していないものだから、反対にピリついている。
だが、不満の大きな要因はまるでアイドルのように扱われる事にもあった。
拒否できるものならば、拒否してしまいたかった。
だが「どうせなら」とそれをすすめるフッツと「僕も観客席から見てます!」と目を輝かせていたミスミの期待を裏切ることが出来なかったのだ。
『それでは! ジムリーダーの皆さん、姿をお見せください!』
拡声器を通したローズの声を合図に、ジムリーダー達の列が動く。
新参者らしく一番端に彼女は並んだ。
一歩スタジアムに姿を見せれば、地鳴りのような歓声と、照りつけるようないくつもの強いライトが浴びせられる。
それに対するジムリーダー達の反応は様々だ。
手を振ってそれに答えるもの、そんなモノ関係ないとばかりにまっすぐに前を見つめるもの、列のスピードから遅れることを恐れずにマイペースに進むもの。
ノマルは早足に列を先導するように歩いていた。緊張がないわけではなかった。しかしそれ以上に、観客が自分たちに向けている期待が、羨望が、肯定が、これまでの彼女の人生からはあまりにもかけ離れすぎていて、心が落ち着かなかった。
出てよかったかもしれない。
フッツのアドバイスが有効であったことを彼女は感じ始めていた。この熱気は、狂気は、入れ替え戦のそれを遥かに超えている。将来を見据えるならば、慣れておいたほうがいい。
ポニーテールをまとめる黒いリボンに、果たしてどれだけの人数が気づいているだろうか。一瞬、そう考えた。
拡声器から、ローズのものではない女性の声が響く。
『まずはファンタステックシアター、フェアリー使いのポプラ!』
女性アナウンサーによる、各ジムリーダーの紹介が行われる。どのような順番で紹介を行うのが最も優れているのか、これもまだセオリーが決まっていない。
『ジ・アイス、氷タイプの使い手メロン!』
その後も次々とジムリーダーの紹介が行われた。やがて、紹介が行われるよりも先に規定の位置にたどり着いたノマルの紹介が行われる。
『ノーマル・ビューティ、ノーマルタイプの申し子、ノマル!』
ノーマルビューティ! と、ノマルは自らの二つ名を頭の中で復唱した。
なんともへんちくりんな名前だ。そもそもそれが褒め言葉であるのかどうかすらわからない。
だがまあ、代わりに自分がなにかいい二つ名を思いつけるのかと言えばそうではないし、まあ、仕方がないだろうな、と、彼女は照りつける照明に目を細めながらため息をつく。
『彼らこそが、ガラル地方の誇るジムリーダーたちです!』
一列に並んだ自分たちに歓声を向ける観客達、そして、それを満足気に眺めるローズをちらりとみやりながら、ノマルは思った。
これだけの、否、テレビを通せばこの数倍の人数を、今から自分達は敵に回すのだ。
☆
開会式も無事に終了し、それぞれのジムリーダーが着替えやシャワーを終えて大部屋控室に戻ってきていた。
予定のあるものなどは挨拶のためにそこに訪れていたし、予定のないものは顔なじみと雑談に花を咲かせている。
戦う者の集団とは思えないような朗らかな空間だった。
ノマルは、やはり少しばかり気持ちをピリつかせながら、扉のない開け放しのそこに足を踏み入れた。
本来ならば、そこには寄らないつもりだった。だが、開会式前に持ち込んでいた手帳をそこに忘れていたことに、今になって気がついたのだ。
「失礼します」
一瞬、彼女に視線が注目したが、ジムリーダー達はすぐに雑談に戻った。冷たくしようとしているわけではないが、成人の中年が多いこの世代のジムリーダーたちにとって、二十歳前のノマルには声をかけづらかった。
だが、ノマルもそれになにか思うわけではない、むしろ余計な詮索が入らないことにホッとすらしていた。
自分が腰掛けていたロングベンチに目を向け、その周りを探す、
しかし、間違いなく持ち込んでいたはずの手帳はそこにはなかった。
「あれ、あれ?」
周りを見渡しながら、ノマルは段々と焦り始めていた。アレだけ散々探しても無かったのだ、それがここにもないとなれば、もう心当たりがない。特別貴重なものであるわけではないが、記入されている個人情報を考えれば、ほうぼうに迷惑をかけてしまうかもしれない。
少しめんどくさい展開が脳裏に浮かんだ瞬間だった。
「あんたが探してるの、これかい?」
少し低い女性の声が、ノマルを呼んだ。
その方を見れば、先程自分と同じくジムリーダーとして紹介されていた女性。キルクスタウンのジムリーダー、メロンだった。白いセーターに身を包み、同じくジムリーダーのポプラと雑談中だったようだ。
ひらひらと振られる右手には、イーブイがプリントされた可愛らしい手帳。見覚えしか無い、ノマルの手帳だった。
「……そうです」
少しばかり沈黙をもってから、ノマルはそう答えた。まだメロンのその行動の真意を掴みきれていなかったのだ。
一歩、二歩と警戒しながら近づくノマルにメロンは手帳を差し出す。どうやらそれを渡すことに交換条件は必要ないようだった。
「ありがとうございました」
「かまやしないよ。まあ、見た目であんたのだってわかってたからさ。あたしが管理しとかないとオジサン共が何するかわかったもんじゃない」
ジロリと、他のジムリーダー達に目線を変えたメロンに、中年のジムリーダー達は「メロンちゃんはきついなあ」と笑い混じりに答えた。それがどこまで本気のやり取りなのかノマルにはわからなかったが、少なくとも自分に比べれば、メロンは他のジムリーダー達と良好な関係を築いているように見えた。
「今更だろうけど、あたしゃキルスクのメロンだよ」
「……ラーノノのノマルです」
差し出された手を握り、ノマルはポプラの前にもそれを差し出す。
「よろしくおねがいします」
「ああ、よろしく」
ポプラはそう言って何も続けず、会話の主導権は再びメロンに握られた。
「あんたの試合見させてもらったよ、基本に忠実で判断の思い切りが良い試合だった。あんたみたいな子がジムリーダーになってくれるなら安心だ、あたしの子供達にも教えてほしいもんだね、世辞じゃないよ」
「ありがとうございます」
「それから、あんたジムチャレンジの経験ないだろう?」
その言葉に、ノマルは再び緊張を感じた。
「どうして知ってるんです?」
「どうしてって、あたしが知らないからさ」
返答に、ノマルは一応納得する。
単純だが明快な理屈であった。二十代の頃からメジャージムリーダーであったメロンは、それ以降マイナー落ちを経験していない。ジムリーダーがジムチャレンジ挑戦者を把握するというシステム上、ノマルのように若い世代のジムチャレンジ挑戦者は必ず彼女の目を通る。例えば自分が戦ったトレーナーしか覚えていないようなジムリーダーならば違ったかもしれないが、ノマルがジムチャレンジに参加したことがないと断言することのできるということは、メロンが優れた教育者であることの証明だろう。
「……トレーナーになったのが遅かったので」
「別に責めてるわけじゃないさ、あたしゃあんたの実力をかってる」
メロンは笑って続ける。
「ジムチャレンジについて、これからわからないことも色々出てくるだろうと思うけど。わからないことがあったら何でも聞きな、これ、あたしの電話番号だよ」
手渡されたメモを受け取り手帳に挟んでから「ありがとうございました」と、ノマルは頭を下げ、その会話を終わらせようとした。
これ以上、探られるような質問をされたくなかった。彼女らとは、いずれ戦うことになる。
だが、そのような空気を感じたのだろう。黒いリボンでまとめられたポニーテールがくるりと振られるよりも先に「あのね」と、メロンが少し眉を傾けて言う。
「確かにあたし達は見ようによっちゃあ敵同士かもしれないけどさ、同時に仕事仲間でもあり友人でもあるんだ。なにか困ったことがあったら、あたしゃ必ず聞いてあげるから、何でも相談するんだよ」
その言葉が、単純に彼女の優しさからくるものなのか、それとも狭い社会の中で生きるために協調性を強要するものなのか、ノマルは考えないようにした。
ただ「失礼します」と言ってから、彼女はそこを後にしようとする。
「待ちな」と、それが引き止められる。その声はポプラのものだった。
「一つ言わせておくれ」と、彼女は続ける。
「応援してるよ、世界を変えるのは難しいかもしれないが、動かなきゃ、世界は変わらないんだからね」
ノマルはそれを純粋な応援だと受け取っただろうか。
否、ノマルは激励のように聞こえるその言葉を喜べなかった。
『魔術師』に見透かされ、憐れまれているように感じたのだ。
「ありがとう、ございます」
彼女は礼を区切って言うことしか出来なかった。
☆
「いいピンクだね」
ノマルが控室を後にした後、跳ねるポニーテールを思い出しながらポプラが呟いた。
「すこし、思いつめてるように見えましたけど」
メロンはそれを否定はせずともその意見に対して疑問を投げかける。ポプラの意見を真っ向から否定することなどない。相手は六十年近くジムリーダーの職につく教育者としての大先輩であるし、女性としても一周りも二周りも大きい尊敬できる人物であったし、何よりメロンを含めジムリーダー達はポプラのいう『ピンク』という言葉の概念をまだ掴めないでいる。
「それも含めてピンクというものさ。いいじゃないか、真っすぐで、それでいてよく悩んでる」
はあ、とため息を付いて続ける。
「フッツにゃもったいないよ」
「引き抜いちゃいますか?」
笑いとともに出てきたメロンのその返答は受け取りようによっては物騒であったが、彼女らの中にそのような感覚はなかった。メロンはフッツがポプラにとって可愛い後輩であったことを知っているし、ポプラが『引き抜き』のような行為をするようなことのない人格者であることも知っている。
「いや、辞めとくよ。あの子はあたしの手には負えないだろうからね」
彼女はそのまま杖を手に取ると、メロンに軽く挨拶をしてから控室を後にする。
「じゃあ、あたしはお先するよ。坊や達、新人いじめるんじゃないよ」
最年長のその言葉に、中年のジムリーダー達は苦笑した。自分たちを坊やと言う彼女に、一体誰が逆らえようか。
☆
エンジンスタジアム、チャンピオン控室。
その部屋がチャンピオン専用に控室として作られたわけではない。元々は数ある控室の一つだった。
だが、長きにわたるガラルリーグの歴史から、行き来に他の控室の人間と顔を合わせる確率が少ないことや、大部屋控室とは真反対の方向にあることから、その部屋がチャンピオンの控室にふさわしいという風潮が出来上がった。他のジムリーダーと顔を合わせることが苦ではなくとも、チャンピオンと顔を合わせるのは落ち着つかないと言うジムリーダーは多い。
「アスチル君、今日のようなことがあるとリーグとしては非常に困る」
ガラルポケモンリーグ委員長、ローズは、ロングベンチに座って俯くアスチルの正面に立って苦言を呈していた。
「そりゃあ既存のファンたちは君のキャラクターというものを認知しているかもしれないけれど、テレビをザッピングした新規層が目を留めることもあるんだ。君の行動はポケモンリーグ全体の品格に関わるんだよ?」
ローズが咎めているのは、開会式でのアスチルのふてくされたような態度だろう。確かに既存のファンならばそのような彼の行動を「まあ、彼はそういう人だから」と済ませるかもしれないが、何も知らない人間が見れば失礼な若者だと写ってしまうかもしれない。
ローズの苦言は、ポケモンリーグを興行として発展させたい彼の思想からすれば至極まっとうな意見だった。
アスチルは大きく、わかり易いほどのため息を吐いてから表情を上げ、ローズを視界に収めてから答える。
だが、それはとてもローズの意見に答えているとは思えないものだった。
「ローズ委員長、私はあなたが委員長に就任したその日に「私の正面に立つな」と言ったはずです。いつになったらその約束を守ってもらえるんです? あなたは私とのマインド・ゲームを有利に進めたいと考えているのかもしれないが、この助言はあなたのためでもある」
更に彼は額に手を当てて答える。
「私はあなたの未来を見たくはないのです」
「未来が見える……ですか」
呆れるように言うローズに、チャンピオンはペースを崩さない。
現チャンピオンにして元エスパージムリーダー、アスチル。
彼はガラルに代々伝わるサイキッカー一族の出身であり、超能力『人に対する未来視』における前代未聞、不世出の天才であった。
「本来私はこの開会式に出るつもりはなかった。エキシビションマッチの取り消しを条件に参加はしたが、愛想を振りまくほどのサービス精神はありませんよ」
「……そのエキシビションだって、随分と苦労してカントーからトッププロを派遣してもらえるように頼んでいたんだよ?」
「私はそんな物を頼んだ覚えはない、どうせ私が勝つのだから」
「なぜそう言えるのかね?」
「私の負ける未来が『まだ』視えないからですよ。私の見る未来は変わらない、それは私が最もよく知っている」
あまりにも大胆な宣言を、アスチルは何でも無いことのように言った。
彼は続ける。
「これ以上、私は人の未来を視たくない。人の未来が『視えてしまう』ことの苦しみなんて、あなたは一生理解できないでしょう」
不世出の天才であるアスチルのサイキッカーとしてのただ唯一の弱点、それは研ぎ澄まされすぎた『未来視』を彼自身がコントロールできないところにある。つまり彼は未来を見ることができるが、未来を見ないことが出来ない。視界に入ったもののある程度の未来というものが、強制的に視えてしまうのである。
「それなら、今君には何が視えているのかな?」
堂々と彼の視界に入りながら、ローズが問う。アスチルと同じく大胆な発言だった。
だが、彼はそれに首を振る。
「何を言ったとて、あなたはそれを信用しない。そんなものは私の『テレパシー』を使わなくともわかる。強いて言うならば、私に時間を取りすぎないことです」
「もう一つ付け加えるならば」と、彼は続ける。
「あなたのような凡人が、視えもしない未来を憂いるのはオススメしませんよ」
その言葉に、ローズは一つ大きく息を吸い、吐いた。
それが比喩であるのか、それとも自身の奥底に眠る壮大な不安をくすぐるものであるのか、その判断がつかなかった。
ローズの反応を合図に「それに」と、彼は更に続ける。
「私に未来が視えようと視えなかろうと、エキシビジョンを拒否することはできる。なぜならば、私はチャンピオンなのだから」
そうだ、それこそは揺るがせようのない事実。
アスチルの超能力が本物であろうがブラフであろうが、とにかく彼がガラルリーグのチャンピオンであるという事実は揺るがしようがない。
そして、チャンピオンというものはある程度融通のきく、端的に言えばいくらでもワガママを言っていい立場であるのだ。それは彼らが尊敬されているからとか、権力があるとかそういう一部分だけの問題ではない、そういう面を含め、彼らにはどうりを引っ込めさせるだけの力というものがある。
たしかに彼はエキシビジョンを拒否した。だが、ガラルリーグ、そのトップクラスのトレーナーたちの人間性から考えれば、むしろアスチルというトレーナーはおとなしいとすら言っていい人間だった。私生活に問題を抱えず、考え方に悪意がない。ローズですらそれは認める。
恐怖を押し殺し、再びため息を付いたローズが二、三言続けようとした時、控室の扉がノックされた。
不意なそれに扉の方に目を向けたローズと対照的に、アスチルは「どうぞ」と、なんでもないことのように答える。
「失礼します」と、扉の向こうから現れたのは、ラーノノジムリーダーのノマルだった。
「ノマルさん……?」
「だから言ったでしょう? あなたは時間の管理が下手だ」
そう指摘するアスチルに、ローズはようやく腕にはめられた金ベルトの腕時計を見やり「しまった」と頭をかく。
ローズとノマルはその日、ある事項について確認を行う予定だった。そして、その時間はとうに過ぎている。
アスチルの指摘通り、ローズはチャンピオンへの説教に夢中になりすぎ、ノマルとの待ち合わせの時間を失念していたのである。
ノマルガいつまでも現れぬローズにノマルがしびれを切らし、彼を探した結果ここに行き着いたことは、聡明なローズはすぐに理解できる。
「いやぁ、ノマルさん申し訳ない」
伏し目がちに頭を下げた。時間管理の雑さは彼の明確な弱点だ、秘書の募集も行っているのだが、なかなかいいめぐり合わせがない。
ノマルはローズに近づきながらそれに答える。
「いえ、私は確認ができればそれでいいので」
「そうだね、それじゃあ場所を変えようか」
「混み合う話なら、ここですればいい」
不意なアスチルの提案に、二人は揃って彼に目を向けた。
だが彼はそれを意に介さずに続ける。
「今、このスタジアム内はマスコミで溢れている。あなた方が二人きりになれる場所などありはしない。手間と時間をかければ隣町で見つかるかもしれないが、議題の内容とその結論からして、今ここで話したほうがいい。なに、私がいるが気にしなくてもいい、委員長が私の前に立ったときから、議題の内容は理解している」
ノマルはキッ、とアスチルを睨みつけた。当然、彼女は彼の強さや能力というものを、信じるか信じないかはともかくとして、理解している。能力が本当かどうかはともかくとして、チャンピオン就任以来負け無しの化け物。
「すまない、今彼は機嫌が悪くてね」
「いえ、私は委員長さえ良ければここで確認を行ってもいいと考えています」
ノマルはアスチルを睨みつけたまま、ローズの返答を待つことなく続ける。
「チャンピオンによるワイルドエリアの封鎖を、ポケモンリーグは許可していただけるのですか?」
それもまた、大胆な発言だった。なぜならば彼女は、アスチルと言うチャンピオンを目の前にして、その座を奪うことを明言、宣戦布告をしたのだから。
ローズは二人の扱いづらい若者に眉を傾けながらそれに答える。
「ああ、ファンの感情をコントロールすることまではリーグでは出来ないが、物理的な封鎖に関しては、私達リーグが行うことができる。もしチャンピオンがそれを望めばね」
「ありがとうございます、ひとまず安心しました」
アスチルを見やるローズに、彼は笑って返した。
「今更そんなことを言われたくらいで怒りはしませんよ。口に出すわけではないが、ジムリーダーにしろチャレンジャーにしろ、この『興行』に参加するトレーナーはすべて、彼女のようなことを考えている。もう慣れた」
彼は珍しく自らノマルに視線を動かしてから続ける。
「それを叶えることのできるものは『まだ』現れないですがね」
その言葉が、彼が『未来』を視て言ったことなのか、それとも自らの実力に絶対的な自信を持って言ったものなのかは、彼にしかわからない。
自らの存在を軽んじられたことによる怒りと、そこしれぬアスチルの発言の不気味さから、ノマルは「失礼します」と、ローズにのみ頭を下げて控室を後にする。
「期待しているよ」と、その背中にアスチルの言葉が投げかけられた。