30 昇格
観客達というものは、決して阿呆ではない。
彼らはポケモンリーグというものがおとぎ話のような世界ではないことを理解しているし、勝負の世界というものが流動的で、一時代を作ったトレーナーと言えどいつかは敗北することも理解している、そして、それを楽しみにすらしている一面もあるだろう。誰かの敗北は誰かの勝利であり、時代の敗北というものは、また新たな時代の幕開けと同義なのだから。
だが、それほどの彼らを持ってしても、今このとき、シュートシティはシュートスタジアムの光景を素直に受け止めることが出来ている者は、決して多くない。
あるいは『チャンピオン決定戦』よりも人生がかかっていると言われている『入れ替え戦』での出来事であった。
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ポケモンリーグが主催する最大の興行『ジムチャレンジ』多くのアマチュアトレーナーがジムをめぐり、すべてのジムリーダーに認められたトレーナーはジムリーダーを含む『チャンピオン決定トーナメント』に駒を進める権利を得る。惜しくもこの年はチャンピオンの交代は起こらなかったが、明確な実力を持つジムリーダーと、無名だが実力のあるアマチュアが同じチャンスを得ることのできるその興行は、参加する人間にとって、参加しない人間にとっても熱く盛り上がる事のできるシステムだった。
そして、その後にもう一つ重要な興行がある。
『ジムチャレンジ』に参加することのできるジムリーダーの数は八名だ。しかし、ガラルに存在するジムリーダーの数は、ポケモンのタイプと同じく十八名、つまりどうあがいても十人程の『補欠』が出てくる。
彼らは『推薦状』の発行権限こそ持つものの、『ジムチャレンジ』に参加することは出来ず、当然ジムをめぐることも出来ない、優れた実力を持つトレーナーでありながら、アマチュア以下のチャンスしか無いと言うのが彼らの境遇であった。
その十人、いわゆる『マイナーリーガー』は、決してその全てがその地位に甘んじているわけではない、あるいは『名誉』のために、あるいは『スポンサー』のために、またあるものは『地元への恩』のために、それぞれの思いを胸に込めながら、メジャーへとのし上がろうとしている。
当然、ガラルリーグが彼らを冷遇するわけはない、メジャージム機構の腐敗を防ぐために、年に一度メジャーとマイナーのリーダーを入れ替える『入れ替え戦』が行われる。
単純な話だ、メジャージムの中で戦績の芳しくなかった二名と、逆にマイナージムの中で目覚ましい活躍をした二名がそれぞれ戦い、勝利したほうが翌年のメジャージムリーダーとなる。ただ、それだけ。
だが、その勝敗の意味するところは大きい、メジャーからマイナーに落ちるジムリーダーは明確に『力不足』であるということになるし、逆にマイナーからメジャーに昇格するジムリーダーは『注目株』となる。トレーナーを支援する『スポンサー』というシステムが存在する以上、この格付けは無視することが出来ないだろう。
『ジムチャレンジ』が『人生の華やかさを表現する興行』であるならば、『入れ替え戦』は『人生の苦味を表現する興行』であった。
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エンジンジムリーダー、カブがぼうっと虚空を眺めるようなその光景は、観客たちにとって衝撃の大きいものだった。
確かに、ここ数年のカブは精彩を欠いていた。数年前のチャンピオン決定戦でアスチルに惨敗して以来、カブは本来の戦い方を見失い、手段を選ばぬということを手段として戦いに望んでいるようだった。何も知らぬ観客たちですら、彼の戦い方からそう思ったのだ、同業者たちはよりその思いを強めているだろう。
だから、カブが負けるという光景自体が信じられないわけでは無かった。元より、現チャンピオンのアスチル以外のトレーナーは、勝敗のアヤから逃げることなど出来ないのだ。
だが、観客たちはまだそれを受け入れきれていなかった。
カブというトレーナーは、エンジンシティ出身でもなければ、ガラル地方にルーツを持つトレーナーでもなかった。ガラル地方から遥か東の果て、ホウエン地方出身であった彼は、ほのおタイプを極めるために単身ガラルに渡り、慣れぬ土地に交わりながら、歴史ある名門ジムであるエンジンジムリーダーとなったのだ。ガラルのトレーナーたちがカブに寄せる尊敬を込めた好意は大きかった。
対して、その対面に立つ少女を、観客達の殆どは知らない。まだSNSは愚か、インターネットというものが一般的にはほとんど認知されていないような時代だった。
十九歳という年齢は、若き天才ジムリーダーと呼ぶには遅すぎる。そして、ティーンエイジャーのようにしか見えないその小さな体格には風格というものがない、さらに、突き刺すように対戦相手を睨みつける鋭い視線も、その風貌に不釣り合いであった。
もっと言えば、ラーノノジムが、ノーマルタイプがこのような『表舞台』に現れることなど何年ぶりだろうか。若いファンはそれを知らず、古いファンも記憶を探らなければならないだろう。
ノーマルタイプのエキスパート、ラーノノジムリーダー、ノマル。彼女は彗星のごとくこの世界に現れた。
わずかの情報源から彼らが知ることは、彼女がまだジムリーダーになって一年ほどだということ、わずか一社、大銀行シュートバンクがスポンサーであること、そして、べらぼうに強いということだけだった。
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黒いリボンでまとめられたポニーテールを揺らしながら、ノマルはヨルノズクをボールに戻した。
それにようやく我を取り戻したのか、カブも対戦場に倒れるマルヤクデをボールにもどす。だが、何処かその動きはぎこちなく、心ここにあらずと言った風。全力で戦い、負ければ膝をついて全力で悔しがるかつての全盛期の姿とは程遠い。
彼はフラフラとおぼつかない足取りで対戦場中央に向かう、ガラル地方には珍しい彼の黒い髪は、汗でじっとりと濡れている。
同じく対戦場中央に向かったノマルは、カブとは対照的に涼し気な表情のままに右手を差し出す。
「ありがとうございました」
「あ、ああ、ありがとう」
交わされた握手、カブのそれは力ない。
その二人の対照的な様子は、観客達もよく理解できていた。
カブに覇気はない、まるでこの世の終わりのような、二度と立ち上がることの出来ないような悲壮感がある、ホウエン地方人らしい黒の髪は、明日にでも白髪になってしまいそうだ。
方や、ノマルの涼し気な表情は、すでにこの先を見据えているように見える。
「これからが大変だろうけど、頑張って、困ったことがあればいつでも相談にのるよ」
無理矢理に笑顔を作りながらそう助言をするカブ、彼をよく知るファンがその表情を間近で見れば、あまりの痛々しさに心を痛めただろう。すでに若くはない、悔しさというものを全力で表現することは無粋だと思っているのだろう。
幸いなことに、ノマルは彼のファンではなかった。
「気にかけていただきありがとうございます。ジムチャレンジについては何も心配なさらないでください。私は私のやり方でやってみようと思います」
否定ではなく、肯定でもなかった。受け入れもせず、跳ね除けるわけでもない。
にこやかに笑う少女に、カブはそれ以上何も言うことが出来なかった。
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ガラルのマスコミにとって、新たなメジャージムリーダーであるノマルはあまり面白くのない存在だった。
彼女には、例えばジムチャレンジに置いてどれほどの成績を残したか、というわかりやすい実績があるわけではなく、それでいて破天荒なキャラクターがあるわけではない、十九歳の少女にしては落ち着き払った態度でマスコミの質問をかわすその姿は、とてもではないかこれから人気になると言った風ではなかった。良く言えばストイック、悪く言えば馬鹿真面目、降格したカブもそのようなトレーナーであったが、それならばまだ積み重ねのあるキャラクターであった彼のほうが愛らしさというものがあっただろう。生真面目さは積み上げて好意を得るもの、すぐには効いてこない。
誰も知らぬその背景、ガラルの歴史に久しいノーマルタイプのメジャージムリーダー、それらの珍しい要素がないわけではなかったが、それらに関しても、彼女は面白い返答は返してこなかった。
マスコミの波が引いていくは早かった。昇格の喜びよりも、降格の悲劇のほうがより華やかな記事になるだろう。
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くだらない質問をうまくいなしたことを自覚しながら、ノマルは廊下を歩く。
記者に気に入られることが強さにつながるのだというのならば喜んでそうしただろう、だが、残念ながらチャンピオンというものは記者投票によって決まるものではない。人気で勝敗が決まるのならば、今日自分はカブに勝てなかったはずだ。
脚光を浴びるためにジムリーダーになったわけではない、必要なのは実績だ。
黒いリボンにまとめられたポニーテールを揺らしながら、彼女は個人の控室の扉を開いた。
すると、個人の控室から聞こえるはずのない挨拶があった。
「ごきげんよう」
彼女を待ち受けていたのは、一人の淑女であった。汗の似合わぬであろうお召し物を身にまとい、似合わぬスポーツベンチに腰掛けている。
その淑女に、ノマルは驚かなかった。
「マツムさん」
むしろノマルはそう彼女の名を呼んで、おそらくこのスタジアムに入って初めての笑顔を見せる。マツムと呼ばれたその淑女がノマルと知った仲であり、ノマルが心を許していることは明白だった。
彼女はマツムの直ぐ側に腰掛け、彼女の言葉を待つ。
「昇格、おめでとうございます」
マツムがノマルに微笑みかける。彼女もまた、ノマルに心を許していることは明白。
「カブと言えば、私でも知っている有名なトレーナーです。対戦が決まったときから私は心配していました」
「仕方のないことだと思います、私以外、彼の勝利を疑っていなかったでしょう」
「私も信じていましたよ?」
フフ、と、マツムはいたずらっぽく笑った。
「私はバトルのことはわかりませんが。この試合、私には終始あなたがリードしているように見えました」
その意見はマツムだけのものではなかったし、カブの狂信者のようなファン以外の殆どが思っていたことだろう。彼女はノーマルタイプの強みの一つである器用な戦略で戦局をリードし、試合中盤の突然のダイマックスにより試合を決定づけた。終盤に回されがちなダイマックス戦略の新たな使い方として研究が進むだろう。
ノマルは賞賛の言葉に一瞬頬を緩めたが、すぐにそれを引き締めて答える。
「うまくいかなければならない試合でした。私はこの一年が勝負の年、カブさんはどう見ても本調子ではなかった。もし彼が土壇場で全盛期の力を出すことがあれば……」
そう言って、ノマルはハッとしたように顔を上げる。そしてニ、三度頭を振った後に続ける。
「いえ、たとえカブさんが全盛期の力を出そうと、私は勝たなければなりませんでした。『全盛期のカブ』に勝てないようでは、私達の悲願には届かない」
ノマルはマツムの手を握り、その強い視線で彼女の目を見つめながら更に続ける。
「すべて、マツムさんのサポートのおかげです」
マツムはその言葉を否定はしなかった。
しかし、やはり彼女も優しい微笑みを崩さずに答える。
「いいえ、種のない鉢に水をやっても花は咲きません、ノマルさん、あなたの努力あってのものなのですよ」
しばらく、お互いは頭の中をめぐる感情の余韻に浸っていた。
単純な喜びだけではない、壮大な決意と、それに伴う責任がそこにはある。
やがて、決意するようにもう一つギュッとマツムの手を握ってから、ノマルが言った。
「この一年が勝負です、この一年は私の全盛期になるでしょう。裏を返せば、この一年を逃せば、きっとチャンピオンには、なれない」
あまりにも悲観的な予測であったが、マツムはそれを否定しなかった、否、本当は何度もそれを否定しようとしてきた、だが、勤勉と努力によって実力を得たノマルは、自身の能力についても悲しいほどに理解している。
スタートも遅く、才能にも乏しい、それがノマルというトレーナーの彼女自身の評価だった。
「この一年に、私はすべてをかけます。そして、必ずワイルドエリアを封鎖してみせます」
その言葉に、マツムが頷きながらも一瞬だけ複雑そうな表情を見せたが、ノマルはそれに気づかなかった。