42 似かよう
ジムチャレンジンは、そろそろ序盤戦を抜けようかというところで、気の早いエリートやジムチャレンジのリピーターなどはすでに中位のジムを抜けようとしていた。
その中で、ラーノノジムリーダー、ノマルの成績は異常であった。
バッジの贈呈は問題なく行われている、理不尽な設定で挑戦者の詰まりが起こるわけではない、むしろバッジの贈呈率は高いくらいだ。
だが、未だに彼女に対する『勝利者』は存在していない。つまり、彼女がバッジを与えたチャレンジャーは、その全てが『投げた』トレーナーである。
ジムチャレンジャーに対するノマルの勝利数は驚異的な数値を記録しつつあり、それははるか数十年前、ポケモンバトルの概念すらも曖昧であったかもしれない時代の、そのあまりにも非現実的で破天荒な記録を更新する勢いであるのだと、過去を遡るのが得意なタイプのオタクたちが密かに話題にしていた。
だが、だからといって、ノマルがそのまま全てに勝利したままシーズンを終えると考えているファンは一人もいない。
ジムチャレンジをクリアした速度と、後世に名を残すような結果を出すこととの相関性はあまり高くない。優れたトレーナーは使える時間を目いっぱいに使って自身の弱点や性分などと向き合うものだし、いち早くジムをクリアしたいというせっかちさは、必ずしも優れたトレーナーの資質とは言えないだろう。
そして、ジムチャレンジというものは後半になればなるほど情報が共有されてジムリーダーが不利になる。
ただただトレーナーたちがジムリーダーに勝利することが条件であったジムチャレンジにおいて、ノマルのシステムには批判が多かったが『誰がノマルに勝利するのか』という付加価値のつく面白いエンターテイメントだと感じているファンも少なからずいた。
☆
「あまり、複雑なことを言っているつもりはないのだがね」
シュートシティ、ガラルポケモンリーグ協会、会長室。
放漫な新会長であるローズの性格から普段はあまり使われないはずであったそこに、ラーノノジムリーダー、ノマルは呼び出されていた。彼女はその小さな背筋を堂々とピンと伸ばし直立不動だ。
いかにも高そうな机を挟んで対面には、ローズが組んだ指で額を支えるようにわかりやすく悩んでいる。
ローズは未だに秘書を採用しかねているのだろう。その場には二人以外存在しなかったが、ローズがなにかに頭を悩ませているのは目に見えて明らかだ。
「しかし、委員長のおっしゃることは私に手を抜けということです」
「手を抜けと言っているわけじゃないよ、せめてある程度戦略を固定して流動性をだね……」
「ですから、それこそが手を抜くことだと言っているのです」
見ての通り、議論は平行線だ。
ノマルをこの部屋に呼び出したのはローズであるし、彼女に進言をしているのもローズだ。
ローズは、ジムリーダーノマルの戦略があまりにも多彩であり、勝利者がまだいないことをやんわりと指摘し、その修正を願っている。
だが、ノマルはそれを受け入れない。
はあ、とこれみよがしにため息を付いてからローズが言う。
「君は勘違いをしている。ジムチャレンジの主役はチャレンジャーたちであって、ジムリーダーではない」
「お言葉ですが、私は目立つために戦っているわけではありません。私はスタジアムにカメラが無くても、観客が一人もおらずとも、同じように戦い、同じような結果になるように心がけているつもりです」
「しかしね、ジムリーダーには教育者としてチャレンジャーを成長させる義務があるんだよ? 『再戦するたびに戦略が変わっている』のではチャレンジャーの成長につながらない」
「委員長や他のジムリーダーの方々がどのようにお考えかは知りませんが。私は組み上げられたシステムを暗記して勝利することがチャレンジャーの成長につながるとは考えておりません」
「君にとっての成長とは『ピッピにんぎょうを投げること』だということだね?」
その問いに、ノマルは強く頷いて「はい」と答える。
「私はピッピにんぎょうを投げることこそがチャレンジャーの成長につながるのだと信じています」
はあ、と、ローズはもう一度息を吐く。
「埒が明かないね。君がルールを犯して無い分、余計に」
ローズの言う通り、ノマルは少なくともジム戦においてはリーグが規定するポケモンレベル制限を忠実に守っているし、例えば『さいみんじゅつ』の連打のような悪質と規定されている戦法をとっているわけでもない。『監視役』の役割が存在するリーグ公認の審判員すらそこは問題にしていない。
しばらく黙り込んでから、ローズが切り出す。
「いいかい? はっきりというが、君はガラルリーグに所属するジムリーダーであり、私はガラルリーグ委員長。立場的には君の直属の上司にあたり、ガラルリーグの殆どの権利は私に集約されている……そして、今のラーノノジムのジムミッションは一部からは非常に評判が悪い」
ローズの指摘はごもっともだった。
『ピッピにんぎょうを投げる』それは対戦において逃げることと同じだ。勝負の最中に背中を見せることはトレーナー倫理に反すると考える人間は当然いるだろうし、ある意味でそれを強要させるているようなノマルのやり方は『悪趣味』と捉えることもできるだろう。尤も、ノマルを批判する人間のどれだけが、本当にチャレンジャーのことを考えているかはわからないが。
ローズがその気になればノマルに何かを強要することができる。
ノマルは、それに抗う言葉を放とうと覚悟を決めていた。ノマルはノマルなりに主張できる利はある。
だが、ローズは彼女の思うものとは違う言葉を続けた。
「私はその気になれば君に命令することのできる立場だが、その権利を今は行使するつもりはない……私の進言を受け入れる気がないのなら、もう少し、君の思うようにやってみなさい」
それは、まさかの受容だった。
「いいんですか?」と、彼女は緊張感を持ったまま思わず問う。
「ああ、構わないよ」とローズが続ける。
「勘違いしてほしくないんだけど、私はできるだけ君の感性を尊重したいと思っているし。教育者として、君は類稀なる人材だと信じているよ……君の過去を知ってからはね」
その言葉に、ノマルは一瞬目を見開いた。だが、すぐさま自身を落ち着かせて元の凛とした表情に戻る。
「わざわざお調べになったので?」
「調べた、というほど大層なものじゃない……いや、過去を探ったのだから大層なことだね」
一度、背もたれに体重を預けてからさらに続ける。
「批判者達はまだ君の過去には行き着いていないし、私がそうはさせないつもりだ。大人のつまらないやっかみがジムチャレンジに水を指すことなんてあってはならないからね」
「……それは、同情からですか?」
意味のない質問だった。たとえそれが権力者であるローズの気まぐれであったとしても、それを頭のいい彼が自ら公言することはないだろう。
「まさか」と、ローズはある意味当然の答えを放つ。
「言っただろう。私は教育者として君を類稀なる人材だと信じている。そりゃあ君がある程度戦略を固定してくれればそれ以上のことはないけれど、君がそうしたくない以上、それを強要はできないよ」
彼は椅子から立ち上がり、ノマルに右手を差し出す。
「その代わり、君に忖度はしない。同情しているわけじゃないからね」
「……ありがとうございます」
ノマルは彼の右手を握り頭を下げた。
一気に緊張が溶けたような気がした。気を張ってはいたが、委員長のローズとの衝突があまり良いことではないことは理解している。
「失礼しました」
彼女がローズに背を向けて少し歩き、会長室の扉に手をかけようとしたその時だった。
その扉が、彼女がノブを握っていないにもかかわらずひとりでに開いた。
その向こう側には、陶器のような白い肌に、長い手足を強調するようなスキニーパンツ、視線を上げれば、癖のある明るいパープルの髪が揺れる。
「やあ」
それは、ガラルリーグチャンピオン、アスチルだった。
「まさか先客がいるとは思わなかったよ。私の未来視も、流石に見えないものまでは見えないようだ」
視線が合っている。
その表情は微笑みであるが、特徴的な薄いブルーの瞳は、覗き込むようにノマルを写している。
「……私は失礼するところでした」
「そうかい、そりゃあ都合がいいね」
「失礼します」
礼儀的に頭を下げてから、ノマルはいつもよりゆっくりとしたペースでアスチルの前を横切ろうとする。
なにか言いたいことがあるのならば言えばいい。
だが、アスチルは彼女に道を譲るだけで何も言いはしなかった。
☆
「君が私を尋ねるとは珍しい」
ノマルが去った会長室、アスチルは机を挟んでローズを対面に捉えていた。
「なに、いくつか聞きたいことがあったんでね」
「ほう、未来と人の心を見ることのできる君がかい?」
「今あなたの心を読んだところで、私の知りたい答えを持っているわけではない。だからあなたに問う」
アスチルは一歩ローズに踏み込んで問う。
「君が、ダンデ少年を選んだ理由を知りたい」
その言葉に、ローズの脳裏にはいくつもの言葉が、無意識のうちに箇条書きとなって現れた。そして、自らを探ろうとするアスチルの意図を予想する言葉も同じく箇条書きされ、それらの言葉を覆い隠すように、強い意志による『読まれてなるものか』という意識が芽生えている。
「結構」と、アスチルは頷く。
「返答は必要ない。目的は達成された」
背を向けようとするアスチルに、ローズが問う。
「待ち給え、私にその質問をした意図は何かね?」
アスチルはローズに背を向けたまま答える。
「あの少年の試合を見てね……ヒトツキを見たときにピンときたんだ。あれはあなたの息がかかったポケモンだろう?」
ローズはその言葉に驚いた。それは紛れもない真実だったからだ。
「君はそこまで視えるのか?」
「まさか、多少ポケモンを知っていれば、あのヒトツキが『垢抜けている』ことはひと目だろう。特にトレーナーやリザードと比べればね……後はダンデ少年を推薦したのがあなただと知れば、そのくらいの『仮説』を建てることはできる」
その意見に、ローズは押し黙るより無かった。アスチルの言葉が正しいのならば、彼がその特異な能力だけでチャンピオンという立場を手に入れたわけではないことがよく理解できる。
「疑っているね」と、アスチルは鼻で笑う。
「私に言わせれば、私以外のトレーナーは観察力というものが不足している……あるいはそれが、誰も私に勝つことのできない理由の一つかもしれないな」
ああそうだ、と、彼は体を返してローズを視界に捉えながら問う。
「件のダンデ少年は、随分とラーノノジムで苦戦しているらしいが……今、彼女が会長室から出てきたことと、関係はあるのかな?」
彼の言う通り、ダンデはラーノノジム最初の敗北から、未だに再挑戦を行っていない。その間にも何人ものチャレンジャーが『投げて』ジムバッジを手に入れている。
「何を馬鹿な!」
ローズはその問いにデスクを叩くようにしながら立ち上がって激昂した。
当然だ、その質問はローズのリーグ委員長としての資質を問うものであり、ひいては彼やダンデに対する侮辱と取ることもできた。
めったに怒った姿を見せない男の激昂であったし、その気になればこのガラルという地方を自由に操ることのできる力を持つ男の激昂でもあった。
だが、アスチルはそれに動揺することはない。彼もまた、ローズがガラルを操ろうがどうでもいいと考えることのできる力を持つ男であった。
「素晴らしい」と、アスチルは目を細める。
「マスタード氏をめぐる八百長騒動以来、どうも背広組の人格を疑っているところがあってね……だが、安心した。リーグ委員長によるえこひいきがあったとなれば、チャンピオンとしては見逃せないだろう?」
心配することはない、と続ける。
「あなたが懸念しているようなことは起こらない。ダンデ少年がラーノノジムでチャレンジをリタイアすることはなく、彼は今季の台風の目となる……あなたの発掘力は大したものだ、いずれ、私を打ち倒す『斥候』を手に入れることができるかもしれませんね」
ローズとの会話の興味を失ったようにそう言い放って会長室を後にするアスチルに、ローズもまた、それ以上何も問わなかった。
☆
ラーノノタウン、町を流れるムスム川が湖となっているボルド自然公園は、ワイルドエリアほどではないが野生のポケモンが闊歩するほど野生の残る場所であり、ラーノノタウンがいまいち近代化に乗り切れていない原因とも要因と呼ばれている場所であった。
野生のポケモンが闊歩するということは、当然トレーナーたちが彼らと出会うこともあるということだ。近年まであまり野生のポケモンと戦うことの需要はこの町にはなく、もっぱら観光が主であった。ラーノノジムがメジャージムに昇格しても、ノマルの方針から初挑戦でジムバッジを取得するチャレンジャーがほとんどであり、あまりトレーナーの修行場としての機能は果たしていない。
だが、ここ数日、ボルド自然公園は随分と騒がしかった。
その少年、ダンデは、ラーノノジムを攻略するその日まで、ボルド自然公園で自身を鍛えることに決めていた。ラーノノジムリーダーであるノマルの柔軟な戦略感は、この自然公園で培われたものだろうというのがダンデの理屈であり、そうなれば、この地を修業の場所とすることに彼の中でなんの不思議もなかった。
もちろん、彼の幼馴染であるソニアが言ったように「それってあんまり関係ないんじゃないの?」という言葉も一理ある理屈であろうし、そもそもノマルの生まれはシュートシティであるし、彼女はあまりボルド自然公園に足を踏み入れたことがないというのが真実というものなのだが、大抵こういうものは行動するための動機づけが最も重要であり、ダンデが成功者となれば破天荒なエピソードとなり、ダンテが失敗者となれば、失敗者が失敗者となるべくしてなったエピソードになるだけである。
ボルド自然公園に存在するポケモンたちのレベルは、ワイルドエリア序盤よりは強く、ワイルドエリア終盤よりかは弱いと言った程度、中盤のジムであるラーノノジムを目安にするのならば、丁度いいレベルだった。
☆
ラーノノ大聖堂に付属する学校の生徒たちで構成される聖歌隊の歌声は、不意に聖堂に現れた泥だらけのダンデを拒絶することなどない。
「まいったぜ」と、キャップのつばをいじりながらダンデがつぶやいた。
「また迷っちまった」
ボルド自然公園で練習をしていたらいつの間にかラーノノ大聖堂に迷い込んだ。
それは、ラーノノの住民からしたらありえないようなことであるのだが、現にこうして彼は迷い込んでしまっているのだからしょうがない。
特に、修行のためだとソニアと一旦別行動になってからダンデのそれは顕著であった。疲れたリザードがモンスターボールに入っているからなおさらである。
「まあ、いいか」
ダンデはキャップを被り直した。
すでに日は遅い、ホテルに帰るには十分な時間だろう。このようなトラブルがなければ休まない、ダンデはそういう少年であったし、そういう青年になるだろう。
それに、聖歌隊の歌を聞くのは久しぶりの、否、もしかしたら初めての経験かもしれなかった。ダンデの興味はすでにそこにある。
耳は抜群にいいほうだ、彼はそこに立ったまま耳を澄まし、その歌の意味を感じ取ろうとした。
「あれ?」
しかし、彼は首をかしげる。
ダンデは歌を知らない方ではない。だが、その歌はダンデの記憶に無い、否、もしかすればかすか遠くにあったかもしれないが、その意味はわからない、そのような歌だった。
ダンデがもっとよくそれを聞こうとしたとき、彼を呼ぶ声があった。
「僕ちゃん、こちらへいらっしゃいな」
優しい声であった。そして、その声に「僕ちゃん」と呼ばれることのなんとくすぐったいことだろう。
見れば、一人の婦人が長いすに座ってダンデに手招きをしていた。
田舎育ちのダンデでも彼女がただの中年女性ではないことを理解できた、彼女の身なりは非常に良かったし、それをひけらかすような装いでもない、身につけるものがたまたま良いものであるという風な品の良さを感じた。
「僕ちゃん、お名前は?」
促されるままに彼女の横に座ったダンデに婦人が問うた。
「ダンデです」と、彼はすぐに答える。知らぬ人間に名前を言ってはいけないと母親やソニアに散々聞かされていたのだが、その身なりの良い婦人が悪い人間だとは思えなかったし、何より、今後「僕ちゃん」と呼ばれ続けることを考えれば安いリスクだろうと思ったのだ。
ついでに、ダンデはおずおずとキャップを脱いでそのままの跡がついた髪の毛を晒した。室内では帽子を脱ぐというマナーを彼が忠実に守るタイプではなかったが、何よりその婦人の雰囲気が彼にそうさせたのだ。
「そう、ダンデちゃんはジムチャレンジ中なの?」
ダンデの服装を見れば、彼がジムチャレンジの最中であることは容易に理解できるだろう。
「はい」
「どこから来たのかしら?」
「ハロンタウンです」
「あら、ずいぶん遠くから来たのね」
彼女は自分の胸に手を当てて続ける。
「私はマツム、シュートシティから来たのよ」
「シュートから? どうして?」
「人と待ち合わせをしてるの」
へえ、とダンデが相槌を打ち、彼女に質問する。
「この歌、なんて歌なんですか? 聞いたことがあるような無いような」
その問いに、マツムは一瞬沈黙を作ってから答える。
「これは安息を願う歌よ。ダンデちゃんはきっと聞いたことがないでしょうね」
マツムの言う通り、安息を願う歌と言われてダンデにはピンとこない。
「ジムチャレンジは楽しい?」
話題を変えるようにマツムが問うた。
「楽しいぜ!」
ついつい敬語を忘れる。そして彼は聖堂にふさわしくない大声を出してしまったことに気づいて少し顔を赤くした。
「ここにいるということは、次はラーノノジムに挑戦するのかしら?」
「いや、ノマルさんには負けちまったからここで修行しているんだ」
「ノマルに負けた? ピッピにんぎょうを投げればバッジはくれるんじゃありませんでしたか?」
「らしいけど、俺は投げたくない」
「どうして?」
「だって、投げたらノマルさんに勝てないじゃん」
ダンデの言葉に、マツムは小さく笑った。
「だけど、ノマルは強いでしょう?」
それに、ダンデはぱっと表情を明るくさせる。
「強かった。あんなところでダイマックスを使うなんて全然予想してなかったし、最後のヨルノズクも強かった……ハロンにはあんなトレーナーはいなかった」
「それでも、ノマルに勝つつもりなんですか?」
「勝つぜ、絶対に勝つ」
そうですか、と、マツムは微笑んだ。
「応援してますよ。ですが、あまり無理はしすぎないように」
更に続ける。
「あなたにもしものことがあれば、必ず悲しむ人がいるのですから」
気がつけば、聖歌隊の練習は終わったようで、指揮役の年配の老人が楽譜を片付けるのと同時に、歌っていた子供たちもバタバタと騒がしくなる。
「マツムさん」と、静かに聖堂に入ってきたノマルが彼女らに声をかけたのはその時だった。
「ジムリーダー!?」
声に振り返ったダンデはノマルに驚き、マツムは微笑んで彼女を迎えた。
ノマルはダンデにさして驚くこと無く問う、ここで会うのは二度目だ。
「ダンデくん、一体ここで何をしていたのですか?」
「道に迷ってしまったようですよ。ボルド自然公園から」
マツムが変わりに答え、ノマルはため息をつく。
「ボルド自然公園からここに迷いますか普通」
呆れるノマルにダンデは気まずそうにしたが、マツムが「聖歌隊の歌に誘われたのでしょう。練習とは言え、今日も素晴らしかったですよ」とフォローした。
「ワイルドエリアに比べれば平穏とは言え、ボルド自然公園にいる野生のポケモンたちも危険ではないわけではありません。暗くなってから……今から入るようなことはないように」
わかりました、と、ダンデは少し小さな声で答える。
「じゃあ俺、ホテルに戻ります」
「待ちなさい」
ノマルはダンデを引き止めボールを投げた。繰り出されたのはイエッサン。
「また迷ってはいけません。ホテルまでは私のポケモンが送ってあげましょう」
「この子、俺と戦ったときのポケモンですか!?」
深々と例をするイエッサンにダンデは目を輝かせる。
「ええそうですよ。ダイマックスした子です」
「すげえ!」
ダンデはイエッサンの頭を撫で回す。
「暗くなります。早く送ってあげなさい」
イエッサンがダンデの手を引く。
ダンデは慌ててマツムの方を向く。
「マツムさん、ありがとうございました!」
「いえいえ、私も楽しかったですよ」
マツムと手を振りあった後に、ダンデはノマルの方を向いて言った。
「ノマルさん! 俺、絶対に勝ちますから!」
☆
「ローズはなんと言っていましたか?」
聖歌隊のいなくなった聖堂、声を響かせないように小さく、マツムがノマルに問うた。
「もう少し、自由にやっていいと言っていました」
ノマルも同じく小声でそれに答える。
別に誰かに見られて困る組み合わせではない『ガラル遺族協会会長』と『ラーノノジムリーダー』が会話をしてはいけない決まりなど無いし、それを縛る倫理も存在しない。
だが、やはりその二つの勢力は、世間的に見れば水と油のように思えるだろう。
「ローズもただのワガママな成金ではないということでしょうね。私達の関係にも気づいているでしょうに」
マツムの口調は優しいままであったが、そこにはローズに対する強烈な嫌悪があるように思えた。
その話題はそこで終了したのか、二人の間に少し沈黙が流れた後に、マツムがふふっと笑う。
「元気な子でしたね」
「ダンデくんですか?」
マツムとダンデがどのような会話をしたのかノマルは知らないが、話の流れからして、その子がダンデのことを指していることは容易に想像できる。
はあ、とため息をついてノマルが続ける。
「元気過ぎます」
「苦労しそう?」
「私は全力を尽くします……ですが、ジムチャレンジ中のジムリーダーには手持ちレベルの制限があり、どうしても限界はあります」
「ジムリーダーのあなたでは止められないと?」
「おそらく……あの子は天賦の才能があるでしょう」
ノマルはダンデとの試合を思い出しながら続ける。
「手持ちとのコンビ―ネーションは当然として。判断力、決断力。そのどちらもズバ抜けているから行動によどみがなく、理論か感性かはわかりませんがその行動も間違いは犯さない……私が勝利したのは試合途中のダイマックスという彼の理屈の外の行動をできたからでしょう」
ノマルはダンデとの試合に勝利できたことをそのように分析していた。ダンデの才能はこれまで戦ってきたどのチャレンジャーよりも抜きん出ており、ポケモンバトルというものが年齢による経験値というものだけのものではないことを物語っている。
「なるほど」と、マツムは頷く。
「わたくし、思わず彼を応援してしまいました。あの子によく似ている子でしたから」
マツムのその言葉に、ノマルは少しうつむくように沈黙した。
それは、ノマルの中にもあった感情であった。
だが、マツムの前で、少なくとも彼女よりも先にそれを言うわけには行かなかったのだ。
「……だからこそ、です」と、ノマルが呟く。
「だからこそ、彼にピッピにんぎょうを投げさせることが必要なのです」
「わかっていますよ……何か困ったことがあればいつでも相談してくださいね。ローズと戦うのならば、私にはその準備もあります」
ノマルがそれに何かを返そうとしたその時だった。彼女らの背後からパタパタと上履きが跳ねる足音が近づいてきた。
「リーダー!」
見れば、ラーノノ大聖堂に付属する学校の制服に身を包んだミスミが、同学年であろう女の子の手を引いて駆けてきていた。
ミスミは聖歌隊の一員であり、つい先程まで聖堂で歌の練習を行っていた。撤収する寸前にノマルが聖堂に入ってきたのが見えたから、急いで着替えてきたのだろう。
「聖堂を走ってはいけませんよ」と優しく注意するノマルに「ごめんなさい」と頭を下げ。マツムにも「こんにちわ!」と満面の笑みで言ったミスミは、女の子の手を引いて言う。
「あのねリーダー! この子にポケモン見せてあげて!」
女の子は少し怯えながらノマルを見上げ、ペコリと頭を下げた。
「聖歌隊の子ですか?」
「うん! この子歌うまいんだよ」
「私も聞いていましたよ、高音がキレイでしたよね」
マツムがそう褒めると、女の子は少し顔を赤くした。
「いいですよ」と、ノマルは腰のボールに手をやりながら答える。
「特別です、ミスミくんのガールフレンドですものね」
今度はミスミのほうが顔を真赤にしてその手を離したが、すぐに女の子の手は埋まるようになる。
現れたポケモン、スカーフポケモンのチラチーノは、突然の使命であるにも関わらずに変わらぬ毛並みの美しさを女の子に披露した。
「かわいい!」
先程までの緊張はどこに言ったのだろうか、女の子はフリーになった両手でチラチーノの体毛を撫で回す。チラチーノもまんざらではないのか彼女の好きにさせていた。
「良かったですね」と、ノマルはミスミ、女の子、チラチーノそれぞれに言った。
だが、ミスミの欲求はそれだけでは無いようで、彼は顔を赤らめたまま少しもじもじしてノマルに言う。
「あのねリーダー、この子、自分のポケモンが欲しいらしいんだけど……リーダーなら良いポケモンを知っているでしょう?」
ははあ、と、ノマルとマツムは微笑ましく思った。
女の子の前で得意げにノマルのことを喋っていたミスミの姿が目に浮かぶ。
「考えておきましょう」と、ノマルはミスミの頭をなでながら言った。
「今は忙しいですから、ジムチャレンジが終わったらね」
二人は目を輝かせた。