36 ジムチャレンジ開幕
ラーノノタウン、ラーノノスタジアム。
中年と言うほどではないが、青年というほどでもないといったその男は、ジムチャレンジのユニフォームがあまりにも少年的なデザインであることを少し不満に思いながら、ジム挑戦の手続きを終えようとしていた。
妙な光景ではあるが、彼の周りには何人かカメラを手にした記者が待ち構えており、受付を担当した前ジムリーダーのフッツと彼とを画角に収めた写真を撮影している。
その男はジムチャレンジマニアの中では少し名のしれた男であった。実力的にチャンピオンには程遠いであろうが、どういうわけかジムチャレンジに対する熱意は人一倍あり、すでに複数回ジムチャレンジに挑戦しているリピーターだ。当然、子供や一度目のチャレンジャーにありがちな戸惑いや緊張とは最も遠いところにおり、更に彼本人が『チャンピオンになる』という最も大きな目的を放棄していることから、かなり気楽な立場であった。
故に、彼のジムチャレンジ消化のスピードは早い。尤も、ジムチャレンジというのは期間内にどれだけクリアできるかというものであるので、それが早かったからどうかというものではないのだが。
ラーノノジムは、ノマルをリーダーとする体制となってからは初めてのジムチャレンジ参加であった。当然、その内容には前例というものがない。
つまり、彼はラーノノジムに挑戦するチャレンジャー一号であり、ラーノノジムのジムミッションに飛び込むこの世でたった一人の人物であったのだ。
ここまでわかれば、ジムチャレンジに関心の高いこのガラル地方で、彼の挑戦が注目される理由もわかるというものだろう。
☆
ミッションフィールドをひと目見た男は、何だ、所詮は新人ジムリーダーの考えるものらしく、まとまってはいるがつまらないものだなあと思った。
まばらに敷き詰められた草むらを模した人工芝に、バラバラに配置された二人のトレーナー。一人はほんの子供、もう一人は先程受付を担当した前任ジムリーダーのフッツだった。
大方、草むらで野生のポケモンを相手しながら、時折ジムトレーナーを相手にするつまらないミッションなのだろうと男は考えた。
「それでは、ラーノノジム、ジムミッションについて説明させていただきます!」
スタート地点に陣取っている公認の審判員が、つまらなさそうに鼻を鳴らした男をたしなめるように咳払いしてから続ける。
「このジムミッション中、チャレンジャーがポケモンを繰り出すことは禁止となっています」
「は?」と、男はついそう漏らしてしまった。
「禁止って、じゃあどうやって戦うんです?」
「このジムミッションでは、ポケモンバトルも禁止となっております」
「は?」
首をひねる男に、審判員が続ける。
「つまりこのミッションは! バトルを避けながら目的地まで進むことが目的となっています!」
そう言われ、男は再びフィールドをぐるりと見回した。
なるほど確かに、草むらにはところどころに空きがあり、うまく進めば草むらに足を突っ込まなくとも良いような構造になっているようにも見える。
だが、その前提を聞いてしまえば。
「めんどくさいミッションだ」
このミッションの印象が百八十度変わった。
理論的には、クリアそのものは簡単かもしれない。
草むらを避け、道がなくなったら引き返して新たな道を探す。途中二人いるトレーナーの視線をうまくかいくぐることにさえ気をつければ、時間をかければクリアできるだろう。
だが、自分たちトレーナーとは、そのような根気のある作業を求められたことなど殆どなかった。自分たちトレーナーにとって、草むらを避けるという選択肢は、それこそワイルドエリアの最も奥地でしか使わないものだろう。
ただひたすらにめんどくさく、爪痕を残したい新人トレーナーの、行き過ぎた考えだろうかと少し思った。
はたしてこのミッションで、何を得ることができるというのだ。
☆
どうしてもこらえきれなくなり、ポケモンに出会わないことを祈りながら入った草むらからイーブイが飛び出してきたことが二回、目ざといミスミという子供のジムトレーナーに見つかること一回。男はようやく我慢に我慢を繰り返しながら、そのミッションのゴール地点へと向かうことができた。
肉体的には大したことがないが、精神的にはかなりの疲労感があった。そこにはポケモンを持っている自分がどうして草むらに入ってはいけないのだという憤りも多少はあったし、ポケモンの目、人の目を考えなければならない緊張もあった。
ミッションのクリアを称えるアナウンスと、こころなしか量の少ないスモークが吹き出されたのちに、ある声が男にかけられる。
「ミッション突破おめでとうございます!」
見れば子供らしくピッピにんぎょうを胸に抱えたジムトレーナー、ミスミが男に向かって駆けてきた。
「クリアの記念に、これをどうぞ!」
ミスミは抱えていたピッピにんぎょうを少しも惜しむ様子もなく男に差し出した。
驚いた男は「ああ、ありがとう」とつぶやきながらそれを受け取る。
そこでようやく自分がこのミッションをクリアしたのだという実感が浮かび、これはしめたものだ、と、ピッピにんぎょうの柔らかさを腕に感じながら思った。
新品のピッピ人形だ。店などで買おうと思ったらモンスターボール五つ分ほどの値段になるだろう。クリア記念の粗品としては悪くない、気が利いている。
「どうだったかな?」
ミスミの後から腰をさすりながらゆっくりと歩いてきたフッツが、笑顔を見せながら男に問うた。彼はその男がジムチャレンジのリピーターであることを知っていた。
男もまた、フッツのその質問が、自分がこれまで経験してきたジムミッションとこのミッションとを比較してのものだということを理解していた。リピーターという立場上、そのようなことを問われることは多かったのだ。
「初めてのパターンでした。みんな戸惑うと思いますよ」
少しため息交じりにそう答える。彼はフッツがどのような考えを持ったジムリーダーであるのかは詳しくは知らなかったが、このような前例にないミッションが少なくとも彼の発案ではないだろうことになんとなく確信を持っていた。
「そうだね」と、フッツはやはり笑って答える。
「でも、たまには戦わないのもいいだろう」
「まあ、そうですが……」
渋い顔を崩さぬ男に、フッツは更に続ける。
「そのピッピ人形は、ジムリーダーとの戦いにも持っていきなさい」
☆
わけがわからない。
小さいが小さいなりに満員となったラーノノスタジアム対戦場をピッピにんぎょう片手に歩きながら、男は流行り戸惑っていた。
基本的に、ジムミッションではジムのスタッフの意見は聞かなければならなし、それに逆らうようなことがあれば最悪の場合失格となることもある。
だが、基本的に彼はこれまでスタッフに理不尽なことを言われたことはなかったし、人間として、トレーナーとしての倫理に伴った行動さえシていれば問題がなかった。たまにされる注意に関しても、それを変だと思ったことはない。
だが、ピッピにんぎょうを抱えたままジムリーダーとの対戦を行えとは何事か。さっぱり意味がわからない。
対戦城の中央には、すでにジムリーダーであるノマルが待ち構えていた。黒いリボンにまとめられたポニーテールは全く揺れること無く、直立不動で相手を待ち構えている。当然、ピッピにんぎょうなどは抱えていない。
観客に気圧されていないその様子を、男は特に不思議には思わなかった。新人のジムリーダーかもしれないが、ガラルのすべてが注目したと言っても過言ではないカブの降格戦の相手をきっちりと務めた彼女を、彼は見くびってはいない。
「ラーノノジムへようこそ、私がジムリーダーのノマルです」と、ノマルは男が真正面に立ったことを確認してから告げる。そこに笑顔はなく、小さな体から目いっぱいに男と目線を合わせている。
何人ものジムリーダーとジムチャレンジとして手を合わせてきた男は、その目線の異質さにすぐに気づいた。
なんて怖い目なんだ。
ジムリーダーというものは、チャレンジャーよりも遥かに強いものだ。ジムチャレンジの中で、彼らはその強さからくる慈愛を持って、チャレンジャーに胸を貸す。ジムチャレンジというものはそういうものだ。
だが、この少女の目はどうだ。まるで自分自身を敵であるかのように突き刺すような目だ。
男はピッピにんぎょうを抱える腕に力が入ったことに気づいていた。
それを知ってか知らずか、ノマルは不意に目をぎゅっとつむって、今度は笑顔のようなものを作りながら続ける。
「私との対戦では、特殊なルールで戦ってもらいます。もちろん、すでにリーグには許可をとっている公式なものです」
男はそれに頷いた。特殊なルールでのジム戦は前例がないわけではない、例えばアラベスクジムのポプラなどはバトル中にクイズを出してくるが、それを咎める存在など無い。
男の無言を了承だとしてノマルが続ける。
「私とのバトルでは、二つのバッジ取得条件を設定しています。一つは、私に勝利すること」
そして、と続ける。
「もう一つは、そのピッピ人形を投げることです」
ノマルの目線が男の腕が抱えるものに向けられる。
「え?」と、男は思わずつぶやいた。
「投げる? これを?」
「はい、そのとおりです」
「しかし、これは野生のポケモンから逃げる道具のはずで……」
「特殊なルールです、あまり気になさらず」
男は戸惑った。まるで想定していないことだった。
「どのような状況でもいいんですか?」
「はい、どのような状況でもピッピにんぎょうを投げればバッジを贈呈します」
「例えば、僕のポケモンがほとんど瀕死の一匹だけで、あなたの陣営には無傷のダイマックスしたポケモンがいたとしても?」
「はい、大丈夫です」
「例えば、僕のポケモンが猛毒状態で、数秒後に瀕死になるような状況でも?」
「はい、大丈夫です」
「なら、今投げても?」
あまりにも信じられなくて、つい口からそのような皮肉めいた軽口が飛び出してしまった。男はしまったと表情を歪める。
だが、ノマルはそれにも頷いて答えた。
「問題ありません。賢明な判断だと、私はその意志を尊重します」
捉えようによっては、それは挑発めいた悪意のあるユーモアに聞こえただろう。だがその返答には、真っ直ぐに目線を合わせるの丸の表情からは、悪意やユーモアなどはないように思えた。
投げられるものか。
ぐるりと満員の観客席を見回しながら、男はピッピにんぎょうを抱える腕に力を加えた。
それを投げることは、敗北を認めることだ。
トレーナーとして、対戦相手に背を向けることは恥ずかしいことだと学んできた。それこそがトレーナーとして生きる者が持つ数少ない倫理の一つだ。
これだけの衆人環境の中で、そんな事をしている自分を想像できない。
「記録はどうなるんです?」
結論を先延ばししたいように、男は不意に浮かんだ質問をノマルに投げかけた。
その問いに、ノマルは少し目を伏せて答える。
「申し訳ありませんが、記録の上では私の勝利となります。しかし、バッジの贈呈には問題がありません」
別に不思議な解答ではなかった。そりゃそうだろうな、と男は頷く。
「他の質問はありますか?」
「いえ、ありません」
問いたいことはまだまだあった。だが、その全てに納得の行く解答があるわけでもないだろう。
その特殊なルールについて、男は「とにかく勝てばいいのだ」と理解した。
「それでは、対戦を行いたいと思います」
一つ頭を下げてから、ノマルは男に背を向けて距離を取る。背番号の『60』番と、黒いリボンにまとめられたポニーテールが揺れるのが印象的だった。
☆
「動くべきは今! 戦いにセオリーなどありません!!!」
それは突然であった。
男のポケモンを一体戦闘不能にしたタイミングで、ノマルはフィールドのイエッサンをボールに戻した。
それが何を意味するのか、観客たちは感覚では理解していたが、それを受け入れるよりも先に、彼女が正解を提示する。
巨大化したモンスタボールを、彼女は無言で後方に放り投げる。
現れるのはダイマックスしたイエッサン、規定の高さギリギリであったラーノノスタジアムからはみ出しそうになった彼女は、対戦相手の男を見下ろす。
宣言通り、セオリーにない行動だ。
ダイマックスはラストを任せることのできるエースにこそ必要な戦術であるというのがガラルでのセオリーであった。
それをこの、試合で言えば中盤に切るというのは、例えば彼女がジムリーダーという立場になく、それを裁くのが頭でっかちな批評家であれば、即座に否定され、ともすれば彼女のトレーナー歴や性別、生まれなどの人格を否定される可能性すらあるような行動であった。
しかもそのダイマックスしたポケモンもセオリーにない。
彼女の出世試合であるカブとの入れ替え戦において、彼女がダイマックスさせたのはヨルノズクだった。それを見ていたものは彼女のエースが彼であることを疑っていなかったし、そのような紹介の仕方をしたテレビ番組もあった。
男は入れ替え戦で彼女が試合中盤にダイマックスをしたことを研究して知っていた。故にそれ自体に驚くことはなかったが、ダイマックスされたポケモンがイエッサンであったことは予想の範囲外であった。
だが、大丈夫だ、と、男は頷く。
ノーマルタイプへの対策はしている。岩タイプと格闘タイプは他のポケモンよりも集中的に鍛えているし、もしものときのために鋼タイプのポケモンもパーティに組み込んでいる。
だが、イエッサンというポケモンがほのお、エスパー、くさタイプの技を操ることのできる『アンチアンチノーマル』戦術を扱えることを、彼はまだ知らなかった。
☆
ラーノノジムを後にした男に、数人の記者がインタビューを試みていた。
珍しくない光景だ、新人ジムリーダーのミッションを初めて経験したトレーナーに、その程度の注目を受ける権利はある。
例えばそれがまだ年端も行かぬ少年少女トレーナーであれば記者たちも遠慮をしたかもしれないが、それが顔なじみの成人であればその遠慮も薄れる。
「ミッションは難しいです。ポケモンのレベルやバトルの能力は問われませんが、それよりも根気が必要です……いえ、頭脳は必要ありません、ミッション自体は根気があれば子供でもクリアできるでしょう」
それらのインタビュに―答えながら、男はやはりどこか腑に落ちないような感覚を覚えていた。
彼の腕にピッピにんぎょうはなく、その代わりにジムバッジがある。それはつまり、ジム戦において勝利したのはノマルであったことを意味する。
屈辱的な体験でなかったと言えば嘘になるだろう。あれだけの衆人環境の中、明らかに不利な状況から、ほとんど負けを認めるようにピッピにんぎょうを投げることに抵抗はあった。
だが、男はそれを投げた。
戦いの途中で相手に背を向けること、それはトレーナーの倫理観に反した行為ではあろうが、男にとって、それはジムバッジ取得という目的を反故にしてまで守るべき倫理ではなかった。あるいはすでに成熟していた彼の打算的な考えというものがそれを可能にしていたのかもしれない、数回ジムチャレンジに挑戦するあたり、彼は少し考え方に、よく言えば柔軟なところがあった。
観客たちも、それを受け入れていた。明らかに彼は負ける寸前であったし、その特殊なルールについてはすでに説明されていた。気の難しい観客はブーイングを送ったかもしれないが、それはかき消されていただろう。
「あなたの判断を、私は誇らしく思います」
バッジを手渡されるときに投げかけられたその言葉が、強く印象に残っていた。
挑戦者に負けを認めさせる、考えようによっては非常にサディスティックな選択をさせたにもかかわらず、彼女はその選択を心から受け入れ、祝福しているようだった。
「不思議なジムでした」と、男は記者の質問に答える。
「なんというか……勝たなくてもいいと言うのは……これまでの人生で初めての経験だったかもしれません」
☆
「邪魔するよ」
夜、リーグに規定されたジムチャレンジ時間外に、アラベスクジムリーダー、ポプラはラーノノジムに現れた。
時間外になってしまえば、一般人がジムを訪れる理由など無い、すでにロビーに一般人はおらず、受付でフッツが軽作業をしているだけだった。
「やあ、どうも」と、フッツは手を上げてポプラに挨拶した。
フッツの方が年下であり、トレーナーとしての実力もポプラのほうが一枚上手であったが、年齢や戦いの格のみで人間関係の序列が決まってしまうような若い付き合いではない。
「まだ仕事中かい?」
「いえ、もう終わりましたよ」
フッツはそう言って受付を離れると、自動ドアの電源を切ってからカーテンを下ろす。これでもう誰かがジムに気をかけることはないし、間違って入ってくることもないだろう。このラーノノで一日中明るいのはポケモンセンターくらいだ。
「心配で見に来たんだよ」と、ポプラは傍にあった椅子に座って言った。
「あんたが事務仕事ができるかどうかね」
ははは、と、フッツはそれに笑いを返しながら机を挟んでポプラの対面に腰を下ろした。
どこから持ち出してきたのかその両手にはグラスと酒瓶が持たれており、ポプラの意見を聞くこともなくそれをテーブルに並べる。
「不良だね、ジムに酒瓶持ち込むとは」
「仕事はとっくに終わってますよ。嫌いじゃないでしょう?」
「……まあね」
よく飲むのは紅茶だが、アルコールが嫌いなわけでもない。それに、ポプラは年下の男に紅茶のマナーを期待していなかった。
「ジムリーダーはどうしたんだい?」
「ノマルならリーダー室にいると思いますよ、今日のフィードバックを行っているはずです」
「仕事熱心だね」
その日、ノマルは初めて挑戦してきた男を含めて二人の挑戦者を相手にしていた。まだまだ少ない、もっと多くの挑戦者を相手にする日もあるだろう。
「呼びますか?」
まさか今更ポプラが後輩のジムリーダーに挨拶をさせろなどと言うはずもないことを理解しながら、フッツはいたずらっぽく笑いながら問うた。随分と年を取り、このように世界観の主導権を握らせることのできる話し相手は随分減った。
「いや、いいさ。あたしは新入りをイビる趣味はないよ」
グラスを傾けながらポプラが答えた。あたしという部分に力を込めることから分かる通り、二十を前にしてジムリーダーになった小娘が世の中からどのような扱いを受ける可能性があるのかということは彼女はよく知っているし、そうならないように色んな所に釘を打ち込みはした。
「そりゃ良かった。リーダーは酒に厳しい」
酒を口に含むようにしながらフッツが笑う。若い頃から健啖家ではあったが、相変わらずそうだった。
その様子を皮切りにポプラが切り出す。
「その様子だと、どこか体を壊したってわけじゃなさそうだね」
「まあ、どこかが痛いってことはないですね」
「あたしはてっきり、あんたは体が動かなくなるまでこの仕事をやり続けると思ってたよ」
その言葉に、フッツは小さくグラスを傾け、それをわざとらしく音を立てるようにテーブルに置いた。
「らしくないですよ。聞きたいことがあるならズバッと聞けばいい、それがピンクってもんでしょう?」
はあ、と、ポプラはため息を付いた。付き合いが古く気の許せる相手であることに不満はなかったが、フッツには『魔術師』の魔法は通用しないようだ。
「どうしてジムリーダーを引退したんだい? あんたはあたしと違ってこの仕事が好きだったろう?」
その質問は、フッツが後任にジムリーダーを譲ったと聞いてから、ポプラがずっと疑問に思いながらも、それでいてそれを問うことができないでいた質問だった。
彼女の知る限り、フッツという男はメジャーリーグに昇格することのできる実力こそ無かったが、トレーナーの技術を、否、それよりも根底の存在するトレーナーとして生きる楽しさのようなものを他人に伝道することのできる、ある意味ではその役職において最高の資質を持った男であった。
その質問を想定していたのだろう。フッツは特に戸惑うこと無く答える。
「好きだったし、今でも好きですよ……だからこそ、老眼鏡を片手にしながらの受付業務だって何の苦でもない。ポケモンを知らぬ……恐れてすらいた子供たちが、人生のパートナーを見つけることができる瞬間に立ち会うことは、何事にも代えがたい幸福だと今でも思っています」
「ならどうして、老眼鏡が幸福を曇らせるわけじゃないだろう?」
その言葉に、フッツは少し目を伏せて、酒の入ったグラスを指で弄ぶ。ポプラのその指摘があながち間違いではなく、フッツもその指摘を否定し切ることができないことの証明だろう。
やがて、その意見が受け入れられないかもしれないという不安を小さな声で表現しながらフッツが言う。
「……教育者として、彼女を受け入れなければならないと感じたんですよ」
「ノマルのことかい?」
「ええ、そうですよ」
「今日の試合、見させてもらったよ……ありゃ強い。調子が悪かったとはいえ、カブが手も足も出ない訳だ」
一戦だけならば、噛み合わせとかめぐり合わせとかで一気に勝負がつくこともあるだろう。あるいはノマルとカブの一戦だって、ノマルが極端に運が良かったとか、カブの運が極端に悪かったとか、そういうことが作用していることだって十分にある。
ポプラはカブへの贔屓目からそう言っているわけではない、運や偶然、運命を否定するのは戦いにおいて必要な能力ではあるが、どれだけそれを排除しようとしても、最終的にそれらの要素で決着がついてしまうこともあるということは、大ベテランであるポプラこそが理解できる領域であった。
その上で、今日のノマルの試合を見れば、彼女の実力というものが、運や偶然ではなく、マイナーリーグだから通用したとか、落ち目のカブだから勝てたとか、そういう領域ではないということがよく理解できたのだ。
「あんたが仕込んだのかい?」
ポプラの知る中で、フッツという男は勝負の厳しさを表現できる男ではないが、バトルの理屈を理解はしている男だった。少なくともマイナーリーガーである彼がその気になれば、若い頭脳にそれを詰め込むことはできるだろう。
だが、彼は「まさか」と、首を横に振った。
「初めて手を合わせたときから、彼女に修正すべきところなんてありませんでしたよ。知識も、実力も、彼女は僕のはるか上」
「じゃあ、あんたは教育者として何を教えたんだい?」
「まだ何も教えちゃいませんよ……僕は彼女に機会を与えているだけ」
「機会?」
「ええ、彼女はチャンピオンになることを求めている、そのためにジムリーダーの立場を求めることは自然ですよ。ジムチャレンジという手もあるが、彼女はそれよりもこっちのほうが近道だと思っているらしい」
彼女が他のジムリーダーに比べて『チャンピオン』というものに執着していることは、ポプラも風の噂で知っているし、そこにはチャンピオンの権利を用いた目的があることもなんとなくは理解している。
だが「わからないね」と、ポプラは一度だけ天井を見つめてから続ける。
「あたしが言うのも何だが『チャンピオンになりたい』という目的のためにジムリーダーという立場を求めるのは不純だよ。そんなに簡単な立場じゃないことはあんたが一番良くわかってるはずじゃないか。それを、大好きな仕事をやめてまで受け入れる理由がどこにある?」
フッツはそれに押し黙った。ポプラの言葉はその全てが正しい。チャンピオンになりたいというエゴを満たすために、教育者としての側面を持ち合わせるジムリーダーになることは、よくない立場の使いかたの一例だ。尤も、チャンピオンという立場ですら、教育者としての側面を持たなければならないというのに。
「なんかあんのかい?」
押し黙るということは、その言葉に反論がないということだ。
フッツは馬鹿ではない、彼は理知的に行動するタイプの男であるし、人生を左右するようなその決断を、思いつきでやるような男でもない、だからこそ、ポプラは彼を買っているのだ。
故に、ポプラは不穏なものを感じていた、フッツは理知的だが同時に優しい男でもある。なにか弱みを握られているとか、そういう黒い部分があるのではないかと、彼女はほんの少し疑っている。
しばらくしてから、フッツは口を開く。
「ガラルは、彼女と向き合わなければならないんですよ」
ガラル、というのは、ポプラが想定していない主語の大きさだった。
「ガラルが?」
「ええ、ガラルリーグだけじゃない、このガラル地方すべてが、彼女と向き合う義務があるし、彼女にはガラルと向き合う権利がある。そう思ったんですよ」
スケールの大きすぎる話だ、彼女にしては珍しく、ポプラは混乱した。
「あの子は何者なんだい?」
フッツはグラスを握り、一気にそれを傾けてから答える。
「このガラルの『愛と後悔の象徴』ですよ」