310 彼の知る彼女
週末、ある昼下がりのラーノノタウン。ラーノノ駅。
朝夕に比べれば人の少なくなったそこで、ラーノノジムトレーナー、ミスミは人を待っていた。
「遅えだろうよ……」
彼の機嫌は良くはなかった、スマホで時間を確認しながら苛立ちげにそう呟き、右足はリズムを刻んでいる。待ち受け画面にはアーティストであるネズのブロマイド、その胸にぶら下げられている時計が指し示す時刻は、待ち合わせの時間を十分程過ぎていた。
もちろん、たかが十分待ち合わせに遅れただけでそこまで露骨に不機嫌をあらわにするというのはあまりにも短慮だろう。そして、普段のミスミはそのような少年ではない。
その態度はつまり、彼にとってその人物が、たかが十分程待ち合わせに遅れてしまった程度でも不快になってしまうような人物であるということの証明だった。
それからさらに十分ほど経っても、ミスミの待ち合わせ相手は現れなかった。電車の到着時間が必ずしも彼らの待ち合わせ時間とイコールではないであろうことを差し引いても、少なくともその相手が順調であることはもうありえないだろう。
「ありえねえよ……」
彼は苛立ちを隠さない、子供の使いではないのだ、相手はそれなりの立場であるし、自らも歴史と伝統あるラーノノジムからの使いとしてそこに立っているはずである。大物であるとか、性分であるとかで片付く理屈ではない、ルールを押し付ける側の人間が最低限のルールすらも守れないなどあっていいだろうか、いやない。
苛立ちながらも、ミスミはどうすれば良いのかと考えた。それが常識で考えられることであろうがなんだろうが、待ち合わせの相手がここに来ず、自分と相手は連絡先を交換していないことは確かなのだ。
「とりあえずリーダーに連絡するかあ」
彼は再びスマホを取り出し、ネズのブロマイドを撫でる。
現れたアプリ一覧から、滅多に使うことのない『電話』コマンドを選択しようとしたその時、傍で切符を買おうとしていた二人の女子学生のやたらに甲高い会話が彼の耳に入った。
「まだいるかな!?」
「まだいるっぽいよ!!!」
彼女らはスマホを片手に会話を続ける。
「今皆にサインしてるんだって!」
「マジ!? 私も欲しい!」
「今なんて書くんだろうね。もうチャンピオンじゃないわけだし」
若くはつらつな彼女らの会話は、それ以上ミスミの耳には入らなかった。
なぜならば彼は、すぐさまにアプリ一覧からSNSを選択し、素早い片手フリック入力でワード検索をする作業に没頭したからだ。
『ダンデ』
そう検索をかければ、たちまちのうちにいくつものつぶやきが検索画面に現れた、ダンデといえばかつてのガラルリーグの絶対的チャンピオンにして元ポケモンリーグ委員長でもある、当然だ。
広告や対戦結果のまとめのような拡散されているものをうっとおしく思いながら、彼はそれを最新順にソートし直す。
またたく間にいくつも現れたいつぶやきを眺め、ミスミは彼が何故か隣町に降り立っている事を知る。発達しすぎたSNS社会、著名人にプライベートは無いようだった。
「あんの馬鹿野郎!」
周りに迷惑をかけぬように、それでも怒りを隠さぬように呟き、彼は駆け足で駅構内を飛び出した。
「出て来い!」
宙に放り投げられたボールから、ゆうもうポケモンのウォーグルが繰り出された。彼は晴天を堪能するようにぐるりと旋回してから、ミスミのもとに降り立つ。彼はタチフサグマと並ぶミスミの二枚看板の内の一匹だった。
「隣町まで、大至急だ」
何処からか取り出したハーネスを手早く取り付けながら、彼は大声で不満をぶちまけたい感情を抑え込んだ。
待ち合わせ相手のダンデが、自由で奔放で、それでいてそれが許されるほどに強いことを当然彼も知っている。
だが、彼がまだそれを受け入れきれていないということもまた、事実だった。
☆
同日、ラーノノジム。
その日は、ラーノノジムリーダー、ノマルによる親子講習が開かれていた。
尤も、一日を費やすような大規模なものではない。初心者講習でイーブイを得た子供たちとその家族が気になることがあれば気楽に通えるようなものだ。
「はい! それでは今日はこのくらいにしておきましょう!」
昼に差し掛かる少し前、ノマルはジムチャレンジ場にて練習に励む数人の子供たちにそう声をかけた。
子供たちは元気よくそれに返事し、パートナーであることに慣れ始めていたイーブイを抱えあげるなりボールに戻すなりした。
彼らの相手をしていたノマルのパートナー達、イエッサンやエレザード、チラーミィ達はそれぞれが使っていた柔らかいバランスボールを用具室に戻す。それを見た子供たちはそれを手伝うよう二の丸のポケモンたちに歩み寄っていった。
練習、といってもそれはポケモンたちとの手合わせではなかった。ノマルのポケモンたちはそれらのバランスボールを子供たちに放り投げ、イーブイと子供たちはそれをかわすというもの。ノマルが子供たちに与えたイーブイは相手の技を『みきる』ことに長けているのが特徴だった。
「とにかく、進化についてはもう少し時間を置いて考えてみてください」
子供たちが自発的に片付けの手伝いを初めたことにご機嫌になりながら、参加した子供の両親に言った。
「確かにイーブイはいくつもの進化の可能性があるポケモンです。ですが、まだポケモンそのものにも慣れていない状態でノーマルタイプ以外のポケモンを触らせることはおすすめしません」
彼らはノマルに対し「イーブイを何に進化させるべきか?」と質問していた。
子供がポケモンを持つことに多少の理解のあったその両親は、彼らなりに得た知識でイーブイが多属性に進化する可能性のあるポケモンであること知ったのだろう、あるいは無責任なメディアが書いた『早めに進化させたほうが得』というような記事を真に受けたのかも知れない。
「確かに早いうちから将来性を考えるほうが良いという考え方もあります。ですがそれはある程度トレーナーとして生きるレールのある子どもに限った話であり、本当の意味での初心者はまずはノーマルタイプのポケモンで『生き物をパートナーにすること』ということの難しさを感じてからのほうが良いと私は思います」
ノーマルタイプのポケモンの強みの一つは『共に生きていきやすいこと』にある。
例えばこおりタイプやほのおタイプのポケモンには環境管理が必ずついてくる問題だ、もちろん今は技術の革新が進みある程度簡単になっているとはいえ、ポケモンバトルを志すのならば避けては通れない道だ、初めてポケモンを持つ子供にその重荷を背負わせるのは時期尚早だろう。
みずタイプやじめんタイプのポケモンにも環境的な問題は避けて通れない、比較的付き合い方が簡単だと言われているくさタイプやむしタイプのポケモンですら、剪定や毒針に対する対処の問題がでてくる。
それらに比べ、ノーマルタイプのポケモンは人間の生活環境を大きく変えることがない、当然鋭い爪やキバに注意を払わなければならないのは確かだが、それでも突然火を吹いたりするわけではない。特にイーブイなどは共に生きやすい種族だろう。
両親はその言葉にある程度納得したようだった。
「もちろんイーブイがお子さんになつくことでエーフィやブラッキーに進化したときには祝福してあげてください。それはお子さんがイーブイに認められたことの証明なんですから。その時はご一報ください、育て方のマニュアルをお送りいたします」
幸いなことに、ノマルはすでにいくつもの家庭にそのマニュアルを送っていた。
「ポケモンと共に生きることとポケモンバトルをすることは同じではありませんし、お子さんがトレーナーとして生きることも本人が決めることです。最近は色んな情報が錯綜していますが、いつでもご相談には乗らせていただきますので、お気軽にご連絡ください」
そう言って笑顔を見せるノマルに、その両親はホッとしたようだった。
☆
「先生」
終わりの挨拶後、大体の子供たちが両親とともにジムを後にした後、一人でその教室に参加していた少年が、イーブイを胸に抱えてノマルに声をかけた。
ワイルドエリアでの初心者講習にてノマルに助けられたその少年は、やはりポケモンの扱いには慣れているらしく、抱えられたイーブイは満足げだった。
その少年はノマルに続けて問う。
「攻撃は、いつ教えてもらえますか?」
それは、その少年らしい質問だった。
トレーナーである兄を持ちながら、その兄を「センスがない」と断言することができるその少年は、たとえそれが年齢からくる威勢のいいものであることを差し引いても、優れた才能の持ち主であるように思えた。事実、その少年はバランスボールを交わす訓練を難なくこなしていた。その次の段階として『攻撃』を求めることは不自然ではないだろう。
「基礎をしっかりと覚えてからですよ」と、ノマルは微笑んで答える。
「相手を『攻撃』することには大きな責任とリスクが伴います。たとえ君が『かわす』訓練に苦労をしなかったとしても、だからといって攻撃をしていい理由にはならない。隠れる訓練と逃げる訓練をこなして、攻撃はそれから」
それは少年の望む答えではなかった、しかし、彼はうつむきながらもそれを受け入れた。ワイルドエリアでの一件以来、彼はノマルをつまらないジムリーダーとは思っていなかった。
その少年がモチベーションを失わぬように彼女が言葉をかけようとしたその時、ジムの扉が開く音と「リーダー」と彼女を呼ぶ声。
「連れてきましたよ」
少年は少し嫌な思い出のあるその声に顔を向け、そして、心臓が跳ね上がるのでないかと言うほどに驚いた。
ラーノノジムトレーナ―であるミスミの後ろに立っていたのは、かつてのガラルリーグチャンピオンにして現ガラルリーグ委員長、ガラルを代表する英雄の一人である男、ダンデだった。
「遅れてしまって申し訳ありません」
ペコリとダンデはノマルに頭を下げる。事情を知らぬ少年は更にそれに驚いたが、それ自体は別に不思議なことではない。待ち合わせの時間を守れなかった社会人としては当然の行動だ。尤も、ダンデという男はそのような社会的な縛りを一方的に放棄できる立場ではあろうが。
「こちらこそ、直接あなたを迎えることが出来なかった失礼をお許しください」
そう返したノマルは、苦虫を噛み潰したような表情で突っ立っているミスミに視線向けると、少年の肩を持って言う。
「あなたは彼を家に送ってあげなさい」
「えっ」と、二人は殆ど同時に声を上げた。
少年からすれば嬉しい提案だ。煩わしい電車待ちを経験せずにすむし、空を飛ぶタクシーよりも高く速いと噂されるミスミのウォーグルに乗れるのだから。
驚いたのはミスミだ。
「しかしリーダー」
彼は横目でダンデをちらりとみやってそれに異を唱えようとした。
だが、ノマルは微笑んだままにそれを遮る。
「もう若いわけでもなし、何も心配することはありません」
ぐいと少年の背を押して続ける。
「お客様に失礼は許しませんよ」
ミスミの目を見て放たれたその言葉は、その含む意味をミスミとダンデに気づかせるに十分だった。
しばらく沈黙した後に、ミスミは一つ唸ってから答える。
「わかりました。そら、帰るぞ」
彼は一つダンデを睨んでから彼らに背を向け、少年を連れてジムを後にした。
「随分と嫌われているようだ」
ミスミがジムを後にしてすぐ、ダンデは軽く笑いながらそう呟いた。
確かにダンデは抜けているところがあるかも知れないが、鈍感なわけではない。ミスミが自らに向けている攻めるような視線に気づかぬはずがない。
だが、それを特別に不快に思っているわけではなかった。元々ガラルリーグのトップとしてそのような感情を向けられることは少なくは無かったし、何より、今回に関して降りるべき駅を一つ間違えたという明確な落ち度もある。
「申し訳ありません」と、ノマルは頭を下げる。
「私情を挟むなといつも強く言っているのですが……」
「いやいや、大丈夫。今回はこちらに否がある。駅を一つ間違えたんです」
あははと少し笑った後に続ける。
「久しぶりに会いましたが、いいトレーナーになっていますね。リザードンも楽しそうでした」
隣町からラーノノタウンまで、彼らはお互いに手持ちのひこうポケモンに乗って移動していた。電車でまた騒ぎを起こすよりかはそのほうがいいだろうというミスミの判断だ。
先導という役割がありながら、ミスミとウォーグルは遠慮すること無く彼らのできる最高速度で飛んだ、もちろんそれは好かぬ相手へのあてつけの意味もあっただろうが、同時にダンデとリザードンの能力に対する信頼もあった。
そして、ダンデ達もそれに遅れること無くついていった。だが、先を行くウォーグルを追う久しぶりの感覚にリザードンが喜んでいることをダンデは感じ取っていたのだ。
同時にそれは、彼自身も。
「厳しくしつけてます。ミスミくんはいずれ立場のあるトレーナーとなるでしょうから、恥ずかしくないように」
はにかみながらもはっきりと言い切る彼女に、ダンデはほっと胸をなでおろした。
「おかわり無いようで、安心しました」
「そうかな? 随分と変わったつもりだったのだけど」
一拍置いて彼女が続ける。
「ダンデくんは随分と変わったね。大人になった」
「そりゃあ……あなたの知っている俺はもう十年も前です」
「そうね、いつもそれを忘れそうになる」
もちろん、彼らの再会は十年越しではない。むしろかつてのチャンピオンとジムリーダーという関係上、毎年顔を合わせている。
だが彼女がそう思うのも仕方ないことだ、彼女にとってダンデという存在が最も強く記憶に残るのは、その十年前の姿なのだから。
「仕事の話は部屋でしましょう」
そう言って背を向けたノマルに、ダンデはついていった。
大事な話があった。
☆
ラーノノジム、談話室。
彼らは机を挟んでソファーに腰を掛けていた。鍛え上げられた肉体がソファーに沈みこんでいるダンデとは対象的に、ノマルはちょこんとそれに腰掛けている。
ジムリーダーとガラルリーグ委員長としての面談は、特に問題が起こること無く終了しようとしていた。
当然だ、ラーノノジムはメジャーでこそ無いが、トレーナーの育成と普及に関しては実績がある伝統あるノーマルジムであり、それはノマルがジムリーダーを引き継いでからこの十年間も変わらない。
幾多もの少年少女をポケモントレーナーというものに憧れさせたのはダンデであろうが、その彼らに手ほどきを施したのはノマルを始めとするジムリーダーの面々だ。カリスマとジムリーダーは決してその片一方だけが利益を享受するだけの関係ではなかった。
「キャンプ講習の備品に関しては、リーグから補助金を出すことも考えています」
ラーノノタウンの特産であるハーブティに口をつけながらダンデがそう言った。
ラーノノジムが主導しているワイルドエリアでの初心者講習は、業界内でも評判が高い。資金を増やし、規模を大きくすることは協会内でも出てきている意見だった。
しかし、ノマルは首を横に振ってそれを拒否する。
「結構です、キャンプ講習の予算に関しては有志からの寄付とガラル遺族協会からの出資で十分に賄われています。それに、これ以上規模を大きくすると、私の目の届かない子ども達が生まれてしまう。お恥ずかしい話ですが、先日も私の不手際から子供たちを危険にさらしていましました。今の規模でもギリギリなんです」
先日の不手際というものが何なのかダンデの耳には届いていなかったが、その言葉を疑うこと無くそれに返す。
「人員を増やす事は考えていますか? ノマルさんが希望すれば俺が信用できるリーグ職員を派遣することもできると思いますよ」
「いえ結構、私は私の目の届く範囲でやりたいと考えています」
それに、と続ける。
「リーグ職員は『逃げる』事を教えないでしょう?」
含みのある発言だった。
「あなたの方針に従うように言うことはできる」
「でも、本心ではない」
これ以上は討論になってしまうことを感じ取ったダンデは「考えておいてください」と、その話題を切った。別に絶対に必要な内容ではない、初心者講習は協会が主導で別のものを開くことだってできる。
それに、彼が今日どうしても通したい話は別にあった。
「委員長としての話は以上です。」
彼はまだ熱の残っているハーブティーを飲み干してから言った。
「これからは俺個人の話をしたい」
「どうぞ」
「俺は、ノマルさんにバトルタワーに参加してほしいと思っている」
ノマルはその単語にカップを持つ手を止めた。
バトルタワー。
それはダンデが支配人を務めるバトル施設。
ポケモンのレベルをフラットにする特殊な技術を用い、ポケモンの強さよりもコンビネーションや戦術を重視するその施設は、ガラルのトレーナーたちのレベルを底上げしたいというダンデの理念の城であった。
ダンデがオーナーであるのだから、彼からのその単語が出てくることは不思議ではないだろう。
だが。
「スカウトする相手を間違っているわね」
ノマルはガラルリーグ二部中位、オーナーが直接ヘッドハンティングをするような成績でも無ければ実力でもない。それは彼女が最もよく理解しているだろう。
だが同時に、彼女はダンデが自らをスカウトする理由がわからないでもない。
「ダンデくんも私と同じ」と、彼女は続ける。
「あなたの知っている私は、もう十年も前なのよ」
「ですが、十年前、たしかにあなたは俺の前に立っていた。あなたの力で」
「そうね、そして、あれが私の全盛期だった」
「あの熱意を、あの技術を、もう一度ガラルのトレーナーたちに伝えて欲しい」
ノマルは一つため息を付いてから続ける。
「私はジムリーダー。ダンデくんがポケモンリーグ委員長として命令すれば、バトルタワーにも顔を出しましょう」
それが彼の望みではないことを知りながら、そう言えばこれ以上の会話が生まれないことを知りながら。ノマルはそう言った。
そしてその思い通り、ダンデはそれ以上ノマルの説得は試みなかった。
ただ一つ。
「あなたの技術が埋もれるのは惜しい」とだけ呟く。
「その言葉だけで、私は満足ですよ」
ノマルは微笑んでそう言った。
十年前、彼女は全盛期だった。それは否定しない。
十年前、彼女はダンデの前に立った。それも否定しない。
そこには才能を超えた知識も技術も熱意もあった。それも否定しない。
だが、それはもう戻っては来ないだろう。十年前の全盛期から力は落ちる一方だ。
そして、まだ記憶の片隅に残っているかも知れないそれらの技術を、今更伝えようとも思わない。
そうならぬようにと、彼女は戦ったのだから。