305 彼女の好きなもの
早朝、ラーノノジムの事務所にて、ノマルは万年筆を動かしていた。
手慣れた報告だ、初心者教室の成功、そして、寄贈されたピッピ人形への感謝。また、ラーノノタウンに存在するボルド自然公園内での事故が今月はなかったことを記入する。
後は封筒にこれも手慣れた住所を記入し、『ガラル遺族協会本部 御中』と書いて封をすれば完成、といったその時。だった。
不意な爆音が、ジムリーダー室に鳴り響いた。
鳴り響く重低音に内蔵を揺らされるような感覚を覚えながら、ノマルは「もう!」と立ち上がった。
その爆音について、おおよその目星はついている。
暗闇の中、その一点にのみ集中するスポットライトを浴びながら、その男達は汗を流していた。
『愛してぇぇぇぇぇぇるのぉぉぉぉぉぉぉ!』
真ん中の男はスタンドマイクを振り回しながら、叫ぶように歌っている。その度に染め分けられた黒と白の髪が揺れ、その声は広い広い空間を反響し、独特の音色となっていた。
ドラムはこれでもかというほどにスティクを振り回し、エレキギターはアンプを揺らす。たった一人おとなしく見えるベースの少女も、低音をマイペースに自己主張させている。
さながら四人の自己中心人間の楽器を声帯を使った大喧嘩のように見えなくもないが、驚くことに、彼らはある一つの思想を共有していた。
『エールをぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!』
クリエイターと観客を分ける柵の向こう側では、色とりどりのペンライトが振られていた。
はっきり言って数は少ない、だが、それが彼らの熱意を下げる理由になどなりはしない。
『あげぇぇぇぇぇぇぇるぅぅぅぅぅぅ!!!!!!!!!』
灼熱の時だ、いつまでも終わりそうにない。
しかしその時、機械音と共に暗闇に終焉が訪れた、照明が彼らとその舞台を照らし、現れたのは少し寂れたジムチャレンジ場と、整備された人工的な草むら、その真ん中に、間抜けなほどに簡易的なステージらしき段差に乗る彼ら。
さらに天窓のカーテンも機械によって開かれ、まだ少し朝日の残る日光が降り注ぐ。
『ちょっとちょっと、雰囲気が台無しですよ』
日光の眩しさに目を細めながら、ラーノノジムトレーナーであるミスミは恨めしげに言った。それをマイクが拾って、やはりジムチャレンジ場内に響く。
「時間を考えなさい!」
小走りにステージとの距離を詰めるノマルは、半ば呆れるように言った。
「私のポケモンまで巻き込んで!」
見れば、ミスミ達の前には何匹かのポケモンがいた。
一体はミスミの手持ちであるタチフサグマだ、両手と口に器用にペンライトを咥え、それを振り回していたようだ。
そして、さらにノマルの手持ちが二匹。
「とりあえずエレさんは明かりを落としなさい!」
そのうちの一匹、エレさんことエレザードはまるで戦闘時のように自慢の襟巻きを広げてミスミ達に明かりを照りつけていた。スポットライトの変わりである。照りつけるそれの眩しさと温度に慣れるのは、実は結構馬鹿にできない練習でもある。
ノマルの指示に、エレさんは少しシュンとしながら襟巻きを畳んだ、久しぶりの明かりの出番に少し浮かれていたことは確かだし、はしゃぎすぎていたことも理解していた。
「チラっちも!」
もう一匹、チラっちことチラチーノも同じくノマルの手持ちだった。
しかし彼女はそれに悪びれることもなく、少しむくれながらノマルを煽るように高速でペンライトを振ってみせた。
『別に問題ないでしょ、今日もここを使う予定はないんだし』
やはり彼女に抵抗するようにマイクを通して発言するミスミに、ノマルはついに簡易ステージに乗り上がり、思いの外安定の悪いそこに「おっとっと」とバランスを崩して、直ぐ側にいたベースの少女に手を引かれながら答える。
「練習なら他所でやりなさい!」
状況的に理解できるだろうが、ミスミはバンドを組んでいる。
その名も『ノーマルエールパワーズ』スパイクタウンのミュージシャンであるネズの徹底的なオマージュバンドだ。
当然ながらバンド活動というものには練習であったりとかリハーサルであったりというものが必要不可欠であって、このジムチャレンジ場というものは、広さ、反響、防音性という観点から演奏にはぴったりであった。
尤も、ジムリーダーであるノマルがそれに良い顔をするはずがなく、ミスミもそういうところが分かっているのでひっそりと実行したわけであるが、それでも演奏の熱量に妥協をすることは出来ないというのが『あくタイプの天才』ネズへの憧れから集結した『ノーマルエールパワーズ』の選択であったのだ。
『こんな時間に開いてるスタジオなんてあるわけ無いでしょうよ』
調子乗りのドラムが、ミスミの反論にタカタンシャーンとドラムを叩いた。
「こんな時間にこんな音を鳴らしては近隣に方々に迷惑がかかります!」
『ここジムチャレンジ場ですよ? 防音バッチリでしょうよ』
「それでも万が一ということがあります!」
『大丈夫ですよ、何度かやってますけどクレーム来たことないです』
「何度かやってる!?」
知らぬ情報に、ノマルは頭を抱えた。
『俺らも馬鹿じゃないですからね、事前に音漏れがあるかどうかはチェックしてますよ』
彼はドラムの男を指差して続ける。
『こいつの実家このジムの裏ですけど全然大丈夫だって話でしたよ。ほら、いつもラムのみおすそ分けしてくれるところの』
タカタンシャーン。
「あ、その節はいつもありがとうございます」
意外な人間関係にノマルは一度彼に頭を下げてから、うーんと悩み込んだ。
別にミスミの趣味自体に文句があるわけでもない、たしかにあの爆音には驚いたが、近隣の住民に被害がないのならば、特にそれを厳しく咎める必要はないのかも知れない。
「わかりました」と、ノマルは顔を上げて言った。
「ですが、練習にかまけて今日の講義に遅れることは許しませんよ」
『それは大丈夫ですよ、だからこんなに早くから練習してるんですし』
「それならよろしい」
そう言って彼女は体勢を崩さないように努力しながらミスミに近づく。
「そのかわり、これを……これを……」
彼女はミスミのマイクスタンドとマイクを握りしめてそれを取ろうとしているらしいが、その機構を知らぬのが原因かそれとも生まれついての不器用が原因か、なかなかそれが出来ないでいる。
見かねたミスミが変わりにマイクを取って手渡すと、彼女は「ありがとう」と一つ礼を言ってから続ける。
「そのかわり、これは預かっておきます!」
「えぇ! そんなご無体な!」
タカタンシャーン。
こればっかりはノマルの知的戦略の勝利であった。
マイクを奪ってしまえばミスミの声が張り上げられることもなく、そして相対的にエレキギターのアンプも音を小さくされるだろう。
ノマルはベースの少女の手を借りながら簡易ステージを降りる。
「あなた達は好きにしなさい」
ポケモンたちに向けられたその言葉に、エレさんは歓喜の声をあげ再び襟巻きを開き、チラっちもペンライトを振ってそれに応えた。
「ありがとうございます!」と、ミスミはノマルの背に叫ぶ。マイクは奪われたが、練習場まで奪われたわけではない。
「ついでに照明を落としてもらえると嬉しいんだけどなぁ」という小さなつぶやきは、幸運なことにノマルの耳には入らなかった。
☆
ラーノノタウン中心部、ラーノノユニバーシティは大講義室。
数百人に対応できるその教室にて、ナックルジムリーダー、キバナはその数百人の視線を一身に受けている。
しかし、それでも堂々と教鞭を振るう彼は、今日はいつもと違ってスーツ姿であり、やんちゃな風貌でしか彼を知らぬ人間は、スーツに映えるやたらに長い足を彼の新たな魅力として映しているだろう。
だが、大講義室に所狭しと並ぶ聴衆たちは、彼のそのような風貌にはあまり興味を示してはいなかった。仕方のないことだ、彼らは抽選を勝ち残ってこの講義を受ける権利を得た人々である、キバナそのものよりも、その講義の内容に興味がある。
「御存知の通り、ドラゴンつかいという集団についての伝承は、ガラル地方だけではなくカロス地方にも存在します」
熱烈な視線を物ともせず、彼は講義資料を映し出す端末を操作しながらその内容を語っていた。
別段声を張り上げているわけではない、だがそれでもこの大講義室全てに響く声を出せるというのは、さすがポケモンに指示を伝えるプロのトレーナーと言ったところだろうか。
「しかし、同じようなドラゴンつかいの伝承は、ガラルから遠く離れたジョウト地方、イッシュ地方にも存在します。彼らの多くがドラゴンポケモンをパートナーとしていることは、我々と同じだと考えることができるでしょう」
ラーノノユニバーシティはガラル地方の中で最も書くと歴史のある学府の一つである。流石にナックルユニバーシティには一歩遅れているというのが客観的な評価ではあろうが、それでも、ラーノノユニバーシティ主席卒業者であり、同学府の客員教授を務めるキバナの講義を真面目に受ける程度の生徒の質はあった。
「しかし、ジョウト地方に存在するドラゴンつかいの伝承とガラル・カロス・イッシュのそれらとの違いは『ドラゴンタイプ以外のポケモンを龍としているかどうか』というところが最も大きいでしょう。例えばカントー・ジョウトリーグのプロトレーナーであるワタル氏は、ドラゴンつかいとしてリザードンやギャラドスなどのポケモンもパートナーとしています」
一年に一度招待されるキバナの公開講義はかなりの人気だ、成績上位の生徒しか聴くことは出来ないし、一般人も厳しい抽選のもとに選ばれる。
その最前列で、ノマルはぴしっと背筋を伸ばしながらそれを聞いていた。関係者として毎年その講義を受けることができる、彼女がラーノノジムリーダーである利点の一つだった。
「彼らは携帯獣学的なカテゴリではなく、より人間にとって脅威であったポケモン、現象を『龍』という概念で捉えています。それはジョウト・カントーがフェアリーの研究において一歩遅れた要因の一つでもありますが、同時に、ドラゴンつかいという概念が古典携帯獣学より以前から存在しており、彼らが世界で最も古い『トレーナー』という概念の一つであっただろうという仮説にも繋がります」
講義が一区切りとなり、キバナが水差しを傾けたのを確認しながら、大きくなったもんだなあとノマルは思った。
もちろんそれは類まれなる彼の体格のこともあるだろうが、それよりも、教壇での堂々とした立ち回りが、彼を初めて目にしたときに比べれば考えられないようなものだった。尤も、彼女がキバナと初めてあったのは今から十年も前、彼がジムチャレンジに挑戦している本の子供であったときなのだが。
☆
「とりあえず基本的なことはこれに書いておきましたから」
ラーノノユニバーシティ来客室。講義を終えてネクタイを緩めたキバナは、手にした分厚い冊子ノマルに差し出した。
ノマルにSNSの基本を教える事を覚えていたキバナは、SNSを初めたいというノマルの意思を尊重しつつも、SNSの再講習が開かれぬように最新の注意をはらいながらそれを制作した。
『インカメの存在も知らぬ人間にポケスタグラムを使いこなせること』を最終目標にキバナが編纂したその冊子は、後に高齢者のSNSの入門本として爆裂的な支持を得ることになるのだが、それはまた別の話。
うーん、とノマルはそれらをめくりながら唸った。勉強が苦手なわけではない、だが、一つ残念だったのは。
「じゃあ子供達の写真は投稿しない方が良いのね」
「ええまあ、今肖像権とかめんどくさいですし。あ、オレサマは肖像権フリーなんでいくらでも撮っていいですよ」
その返答にノマルはがっくりと肩を落とす。早速第一の目的が失われたわけだ。
「とにかく注意するべきなのは、著作権と肖像権に気を配ること。プライベートを公にしすぎないこと、政治とスポーツの話題は避けることが大事ですね。まあスポーツは地元チームの応援くらいなら大丈夫だと思うんだけどなー」
「なんか色々決まりがあるのね、もうちょっと自由な場所だと思ってたんだけど」
「自由なんですよ、だからいろいろなやつがでてくるし、そいつらから身を守らなければならない」
「ふーん、ワイルドエリアみたいなものなのね」
その例えを彼女から切り出したことに、キバナは少しホッとした。その端的な例えは当然聡明な彼の脳裏にも浮かんではいたが、それを彼女相手に切り出す事ができないでいたのだ。
「まあ、そんな感じです。ノマルさん個人は、まあ、強い人なので何言われても大丈夫だと思うんですけど、ラーノノジムの代表としてSNSをするなら、ラーノノタウンそのものの評価にもつながってきますからね」
一拍置いて続ける。
「フォロワーを増やしたいなら宣伝しても良いんですけど、ノマルさんの場合はあまり爆発的にフォロワー増やすよりも少しずつやっていきながら感覚掴んだほうが良いと思うんでもう少し後のほうが良いですね」
なるほど、と彼女は頷く。
「初期画面行きました?」
「まって、今説明読んでるから」
ノマルの手に昨今のスマートフォンは大きすぎるようで、彼女はそれを両手で操作している。
講義の後完全フリーにしていてよかったなとキバナは鼻を鳴らした。これじゃいつまでかかるかわからない。
彼が一つ伸びをして、更に大きなあくびをかまいたその瞬間だった。
「あ」
カシャーとスマホの初期音そのまんまのシャッター音が響いたかと思うと「これでよし」というノマルの声。
「これを投稿すればいいのよね?」
キバナは賢い男である。彼はダンデと戦うときのように集中力を発揮し、その状況で彼女が何をし、そして何をしようとしているのかはすぐに理解した。
「ちょっと」と、彼はノマルの腕を掴んだ。
一応大の男に手を掴まれるという状況であるのだが、ノマルは一切それに恐れること無く「なにか問題でも?」といいたげに首を傾げた。
「何アップしようとしてんすか」
「え? だって『最初の一枚を』投稿してみましょうって言われたから」
「なんでそれが俺なんですか」
「え? だってキバナくんは肖像権フリー……」
「いやそうですけど、格好いいのだけですから、あんな気の抜けきったヌメラみたいなのありえないんで」
キバナはノマルからスマホを取り上げるとすぐさまその投稿の消去に走る。幸いにもそれは投稿される前であり、彼はその投稿を下書きも残らず消去した。
彼はそれをノマルに返しながら言う。
「ポケスタグラムは写真の質が大事なんで、あまり思いつきで投稿するのはよくないです。後は投稿する数は絞ったほうが本当に見せたいものを見せることが出来ます。それに、一番最初の投稿が俺ってのもちょっと」
彼はネクタイを締め直し、ソファーに投げかけられていたジャケットに袖を通しながら続けた。
「ひとまず撮り方は俺が教えるんで、ノマルさんが撮りたいものを撮りに行きましょうよ。最初の投稿から考えていきましょう」
「ほんとに!? ありがとう!」
ノマルにとってその提案は渡りに船だったようで、ぴょんと跳ね上がるように立ち上がりながら言った。
☆
「ここが噂の占い付きキッチンカーか〜」
野外市場の中心部、少し開けた開放式の休憩所のような場所にあるそこに、ノマルとキバナはたどり着いていた。
それまでの間にいわゆる『映える』スポットがなかったわけではない。ラーノノユニバーシティに大聖堂、町を流れるニューマス川にかかるアーチの石橋、野外市場の人々、キバナの監修のもとに『映える』ように撮影されたそれらはポケスタグラムユーザーにも受け入れられるものであったが、ノマルはまだそのどれを最初に投稿すべきかということに悩んでいた。この町を愛する彼女にとって、それらは順序付けることができるものではなかったのだ。
「プレミアムミルクティーを一つ」
ノマルはトレーに紙幣を置きながらそれを注文する。いつまでも決まらぬ投稿すべき写真について、彼女は藁にもすがる思いであった。
「SNSに投稿する写真に悩んでいるんですよね」と、ノマルは独り言のように言う。
「どれもいい写真なんですけど、どれもいい写真だから悩んでしまうというか」
彼女がそう言い終わってから、店主はそれを作り始める。
「それだけ?」と、キバナは両手を上げて訝しみながら問うた。
キバナの両腕には幾多もの紙袋をぶら下げられていた。
彼がハメを外して爆買いをしたわけではない、彼がノマルの客人であると知っている人間や、もしくは彼がノマルの善き人であるのではないかと勘違いした人間たちが、それぞれのできる範囲の『お土産』を彼に持たせていたのだ。
「結構当たるのよ」と、ノマルは何故か自分が誇らしげに言った。
「講習会の日もこの占いのおかげで電話を忘れたことに気づいたの」
「いやそれは……講習会の日にスマホを忘れること自体がちょっと……」
キバナがもうちょっとノマルに苦言を呈そうとしたタイミングで、プレミアムミルクティーがノマルの前に置かれた。
「どれどれ」と、彼女は手を伸ばしてそれを確認する。
「『近くの人間を頼れ』ですって」
彼女は首をひねって続ける。
「これってキバナくんのことかしら」
「まあ、状況的には」
ふうん、とキバナは鼻を鳴らしてから、二、三度頷いてから言った。
「じゃあ俺もプレミアムミルクティーを一つ」
キバナも占いに興味が湧いたようだ。
そして、独り言を待つ店主に彼が続ける。
「そうだなあ、じゃあ今後の身の振り方でも教えてもらおうかな」
その質問に、ノマルは目線を上げてキバナの表情を見た。彼女はそれに、自虐的な意味を感じたのだ。
そして、その感覚は正しい。
かつて絶対的なチャンピオンであったダンデが新たなチャンピオンに敗れて以来、彼は自分自身の立ち位置というものに関して少しばかり考えることが多くなった。あるいはSNS講習が開かれる原因となった炎上騒ぎも、そのような精神状態が関連していたのかも知れない。
絶対的なチャンピオンを追うライバルであるという立場であったのに、そのライバルが一方的にドロップ・アウトしてしまった。この十年間の積み重ねというものが、あるいは無駄なものだったのかも知れないと、心の隅で思ってしまってもおかしくはないだろう。
あるいは、それをこうやって冗談のように言えるだけでも、彼の中では何かが整理でき始めているのかも知れない。と、彼女は思った。
しかし、両手しか見えぬ店主は、最強のジムリーダーであるキバナの存在意義を問うような質問にも元気よくサムズアップで答え、手慣れた手付きで準備を始める。
「キバナくん」と、ノマルは彼に声をかける。今更になって、このようなことに付き合わせてしまった罪悪感というものが生まれてしまっていた。きっと彼も大変な時期だろうに。
だが、キバナは彼女がその先を続けるよりも先に「大丈夫ですよ」と笑顔で返した。
「もうガキじゃないんで」
店主は手慣れた手付きを維持したままサラサラとカップにペンを走らせ、それをキバナの前においた。
「どうも」と、彼は紙幣をトレーに置いてからそれを手に取って書かれている文字を読む。
「『めぐり合わせを恨むな、努力を恨むな』だってさ」
彼はそれをノマルに見せながらいたずらっぽく笑った。言葉にこそしなかったが、それっぽいことを言うこの占いに対する少しばかりの皮肉的な意味合いがあった。
☆
広場に備え付けてあるベンチでそれらを楽しみ。伸びる足の長さからキバナを知覚した女子のファンたちの声援にだいたい答え終わった後、彼らに声をかけるものがあった。
「あれ、リーダーにキバナさん」
よく知った声にノマルが視線を返すと、ラーノノジムトレーナーであるミスミが彼らに歩み寄ってきた。練習の時のメイクは落とされ、白黒の混じったヘアスタイルのみがネズを連想させる。
「おー、ニセネズ」
キバナは長い手を伸ばしてそれに答える。もちろん『ニセネズ』というのはその小生意気なジムトレーナーに対して皮肉と愛着を込めたあだ名であったが、今の所彼がそれに怒ることはなく、むしろ喜んでいるフシすらあった。
その証拠にミスミはそれに全く憤ること無くむしろ微笑みすら浮かべて「なんかあったんですか?」と彼らに問うた。
「ちょっとね、SNSに投稿する写真に悩んでて」
何気ないその返答に、ミスミは「ええっ!」と驚いた。
「SNS始めるんですか!? 無謀ですよリーダー一人じゃ電話帳も開けないじゃないですか!」
「え? じゃあノマルさんどうやって電話かけてんの?」
「失礼ね、電話番号は全部手帳に書いているから大丈夫です」
呆れた返答に、キバナは目の前にお婆ちゃんがいると思った、思っただけで良かった。
そして、ひとしきり驚いた後にミスミはノマルとキバナの両方を見比べながら「ああ、なるほど」と頷く。
「だからキバナさんがいるわけですか」
「ま、そういう事。俺もノマルさん一人でポケスタできるとは思わねーし」
「あ、ポケスタなんですか」
ミスミはポケットからロトムフォンを取り出しながら続ける。
「フォローするんでアカウント教えて下さいよ」
その言葉に、ノマルとキバナはほとんど同時に跳ね上げるように背筋を伸ばした。
「ポケスタやってんの!?」
その驚きようにミスミは逆に首をひねる。
「そりゃまあ、一応バンドの宣伝とか、友達と話したりとかするためにやってますよ」
「え、アカウントどれだよ俺知らねーぞ」
「これですよ」
ぐいと目の前に差し出されたロトムフォンの画面を確認してキバナが頭を抱える。
「俺の個人ファッション垢よりもフォロワー多いじゃねえか」
「そりゃまあ、一応ネズさんのコピバンやってるんで」
ミスミのアカウントのフォロワー数は、流石にキバナやナックルジムの公式のものに比べれば少なかったが、それでもかなりの人数だった。しかもキバナがちらりと確認した感じでは、炎上している感じではない。
アカウントだのフォロワーだのと先ほど覚えたばかりの言葉をスラスラと使われることに少しショックを受けていたノマルに、ミスミが続ける。
「フォロワー欲しかったら宣伝しますけど、リーダーの場合あまり爆発的にフォロワー増やすよりも少しずつやっていきながら感覚掴んだほうが良いと思うんでもう少し後にしますね」
一拍置いて続ける。
「とにかく注意するべきなのは、著作権と肖像権に気を配ることと、プライベートを公にしすぎないこと、政治とスポーツの話題は避けることが大事ですね。まあスポーツは地元チームの応援くらいなら大丈夫だと思いますけどね」
言った覚えのある的確なアドバイスに、キバナは全身の力抜けていくのを感じた。ズルズルとベンチの背もたれに預ける体重が増えていく。
「オレサマの頑張り……」
キバナがもう少し恨み節を続けようとした時、彼は先程の占いを思い出した。
『めぐり合わせを恨むな、努力を恨むな』
「あの店すげー」
一人感心するキバナをよそに、ミスミは更にノマルに問う。
「ところで、なんで投稿する写真に悩んでるんですか?」
「やっぱり一番最初だから好きなものを投稿したいなって」
「ああ、なるほど、わかります。俺も一番最初は好きな写真あげましたもん」
「ちなみに何なんだ?」
「ネズさんとのツーショです」
「お前ほんとブレねえな」
ミスミは「ちょっといいですか?」とノマルのスマホを手に取る。
そして撮られた写真を確認してから言う。
「良く撮れてるじゃないですか」
「そりゃあ、オレサマが監修してるからな」
「私もよく撮れてるとは思うの、でも、どれを最初にするかとなると……」
あーなるほど、と、ミスミはそれにうなづく。
「リーダーのこの町好きですもんね」
溶けかかっているキバナの横にミスミも座り込み、彼らはしばらく考え込んだ。
「この町のことで」
「ノマルさんが納得する」
「私の一番かあ」
やがて、ノマルが「そうだ!」と立ち上がったのはそれから少しして、夕刻を伝える聖堂の鐘が鳴った頃だった。
☆
『ここはラーノノタウン、来る者拒まぬ透明な町』
ラーノノタウンの入り口にあるその看板は、ラーノノの住人殆どすべてが知っているものであったが、それ故に、住人の殆どがその前に立ち止まるようなことはないものだった。従って、ノマル、キバナ、ミスミの三人がその前に立ち止まっている光景は珍しい。
「なるほどな」と、キバナはそれを眺めて頷く。それを見るのはジムチャレンジの時以来だ。
「たしかに、ノマルさんが一番好きなものとくればこれだわ」
「まあ、とりあえずこれで良いんじゃないですか?」
聖堂、自然、野外市場、それらすべてを含めてのラーノノタウンだ。その象徴であるこの看板を最初に投稿すれば、彼女のアカウントの方向性も固まるというものだろう。
「じゃあ撮るね」
「俺も撮っちゃおっと」
「俺も久しぶりに」
三人が三人ともレンズを構えそれを写真に収める。まるで初めての海外旅行で何でも写真に収めようとするカントー人のようだった。
「これで、皆にラーノノのことを知ってもらえると良いんだけど」
何気なくそうつぶやいたノマルに、キバナは小さく頷く。
彼女がこの町と、そしてガラルのトレーナーたちを愛していることは彼もよく知っている。
ある意味で、彼女は理想的な教育者であった。
「じゃあ、俺はそろそろ失礼しますわ」
キバナはボールからフライゴンを繰り出す。目立つ長身にブランドのスーツ、両手には幾つもの紙袋とくれば、とてもではないが公共交通機関での帰宅はできそうになかった。
「後はマニュアル見ながら頑張ってみてください。何かあれば相談に乗りますけど、大体ニセネズが知ってると思います」
「キバナくんありがとう! また今度ラーノノのチョコレート送るからね!」
チョコレートはラーノノタウンの名産品の一つだ、そして、彼女が知り合い達に配る交易品でもある。
そして、キバナもそれが嫌いではない。
「ラーノノチョコレートもらえるなら来てよかったですよ!」
彼は何処からか取り出したフライゴンとおそろいのようなゴーグルを付けて空に飛び立つ。
段々と小さくなっていくフライゴンとキバナに、ノマルはいつまでも手を振っていた。
「俺も帰りますね」と、ミスミも言う。
「代わりに投稿しましょうか?」
「いいよ、あとは家に帰ってからやる」
ミスミはそれを悪く思うことはなかった。後は文章を考えて投稿するだけだ、ノマルは文章には強いし、そこは問題ないだろう。
「じゃあまたジムで」と、彼は手を振った。
☆
『はじめまして、ラーノノジムリーダーのノマルです!今日からポケスタグラムでラーノノタウンのことやジムの活動についてつぶやいていこうと思います!記念すべき一枚目は、私の一番好きなものを撮ってみました!』
最初の投稿としてはまあまあ悪くないその文章とともに投稿されている写真に、ポケスタグラム界隈は騒然とした。
そのなんでも無いような文章とともに投稿されていたのは、ソファーに身を預け、伸びをしながら犬歯を見せつけるようにあくびをしているナックルジムリーダー、キバナの姿であった。しかもネクタイを緩めたスーツ姿というおまけ付き。
当然それはノマルの意図するところではない、彼女は『何故か選択する写真を間違えて』それを投稿したのだ。もはや天文学的な機械音痴である。
だが、それを受け取る側がそのような珍現象を考慮に入れるはずもなく。見る人間からすれば『匂わせ』どころが『激臭』であるその写真には、サラリと考えられるだけでもあらゆる要素があった。ノマルが独り身であるというところもこれまた最悪な偶然であった。
『一番好きなものがキバナ?』
『こないだの自撮りの子じゃん』
『キバナ油断しすぎだろwww』
『ラーノノのジムリーダーは基本ポンコツだから……』
『キバナ(ヌメラの姿)』
『匂わせが酷すぎる』
『もはや匂わせですら無い』
『これはアローラナッシー』
『キバナ年増趣味なん?』
『いやキバナはメロンとノマルを怖い人だって言ってたから違うだろ』
『キバナくんまた私以外の女の人と会ってる……』
『ちょっと!!!ノマルさん写真間違えてますよ!すぐに消してください!!!』
『リーダーwwwwwwwww』
当然キバナとミスミはノマルに連絡を取ろうとしたのだが、キバナの講義中に失礼があっては悪いとマナーモードに切り替えたつもりでサイレントモードに切り替え、そしてそれを解除することを忘れていた彼女がそれに気づくことはなく、彼女は一人だけこの大掛かりなミッションをやり遂げたのだという満足感から、普段よりも早く床についていた。
結果、この騒動は被害者であるキバナの朝方に至るまでの釈明ライブ配信にて沈静化したが、彼女のアカウントは一時期トレンドに乗るほどの勢いを見せ、誰もが想像していなかったほどのスタートダッシュを切るのであった。
そして、翌日ようやく事の重大さを理解した彼女が、必死にマニュアルを読み込んで得たリプライの知識でキバナに送った文章がこれだ。
『キバナくんごめん!写真間違えちゃった!あの時消しとけばよかったね!迷惑かけてごめんチョコレートいっぱい送るね』
次のSNS講習まで、そう時間はかからなそうだった。