322 彼女の訪問者
ラーノノタウン、その象徴的な建築物といえば、町の中央にそびえ立つラーノノ大聖堂だろう。
それは尖塔の高さ、そしてそのものが持つ歴史の古さ共にガラル地方の中でトップクラスであり、野外市場と共にラーノノタウンの歴史を象徴するものであった。しかし石造りのそれが未だに町にとけ込み残っているのは、ラーノノがガラルの近代化から一歩遅れたことの証明でもあるだろう。だが、それを疎ましく思う住民はいない。
「いや〜、君がいてくれて助かったよ」
その大聖堂内に存在する礼拝堂、ガラル地方で最も古いとされるステンドグラスを見上げながら、ガラル地方携帯獣学の若手博士であるソニアは、傍に立つミスミの肩を叩いていた。
ミスミはそれに満更でもなさそうだったが、少し苦い顔をしながらそれに答える。
「どうしてアポ取らないんですか? そういうところばっかりダンデに影響されちゃ駄目ですよ」
「面目ない、ふと今朝これが浮かんだものだから……」
携帯獣学者でありながら、ガラルの歴史研究家でもあるソニアは、かつて『ブラックナイト』と呼ばれた大災厄の際に、ある強力な力を持ったポケモンが人間に力を貸していたという説を唱えている。新たに発掘された歴史的資料を根拠としていたそれは意外と説得力のあるものであり、出版した本はベストセラーとなっていた。
彼女がラーノノ大聖堂のステンドグラスに伝説のポケモンに対する新たなヒントが有るのではないかと彼女が気づいたのは、その日の朝のことであった。思いついたら即実行が大事だということを最も付き合いの古い友人、ダンデから学んでいた彼女は、すぐさまに荷物を整えラーノノに飛んだのである。
ところが、タイミングの悪いことにその日は礼拝堂が閉められている日であり部外者の彼女は入れないという。
しかし、インスピレーションを無駄にしたくない彼女は、それが迷惑であることを知りながらノマルに連絡をとった。ノマルはかつてジムチャレンジで戦った仲であったし、それ以前から祖母であるマグノリア博士の客人としての付き合いがあり、親戚の姉のような存在であったのだ。
「今日ノマルさんなんなの?」
「わからないですけど、今日はずっと前から休みだったんですよ」
タイミングが悪いことは重なるもので、その日ノマルはオフを取っていた。そして、彼女の代わりに派遣されたのがジムトレーナーのミスミであった。
ラーノノ大聖堂に併設されている学校の卒業生であり、かつて聖歌隊の一員であったミスミは、礼拝堂の管理者と顔なじみであり、そして信頼もされていた。
「いやほんと、君がいてくれてよかった〜。おかげでまた新しい発見ができそうだし、ありがとね〜」
ソニアは今度は撫でるように手を伸ばしてミスミの頭を撫でる。ノマルと付き合いが長いということは、ミスミとも付き合いが長い。彼女がその様に少し柔らかい態度を取ることは自然であったし、ミスミがそれに少しうっとおしそうな様子を見せるのも自然だろう。
「話を聞いても、俺には何も変わらないように見えるんですけどねえ」
彼はステンドグラスを見上げてそうつぶやく。
今ではほとんどありえないことだが、言葉のわからぬ人間が過半数を締めていた時代に、彼らに『教え』を伝えるために利用されたのがステンドグラスだ。材質こそ違えど、その目的はターフの巨大な地上絵やナックルシティのタペストリーと変わらないだろう。
ラーノノのステンドグラスには、二匹のポケモンと二人の人間が並んでいるデザインが合った。ミスミ達はそれを『共に暮らしていくパートナーの大切さ』を説いているものだとこれまで疑ったことがなかったが、ソニアに言わせればそれはあの『ブラックナイト』からガラルを救った英雄かもしれないというのだ。
「デザインというのはそういうものだからね」と、ソニアは背伸びをする。
「今度時間をとってここの書物を確認できるように頼んでみようかな」
可能性はあった。後はこの地に伝わる伝説の中に自らの仮説を証明するものがないかどうかを確かめる。
「手伝ったら論文の共同著者にしてくれます?」
「生意気言うな坊や」
グリグリと頭を小突いてから続ける。
「まあでも今日は助かったからご飯でも奢ってあげるよ……まあ……それなりに……空気を読んでは欲しいけど……肉は、ムリ……」
財布の状況を思い出しているのか、その語尾から段々と頼もしさというものが消えていく。
しめしめ、とミスミはほくそ笑んだ。最近駅前に気になるパスタ屋が出来ていたのだ。流石にパスタ屋が若手博士の財布に大ダメージを与えることはないだろう。
う〜ん、といかにも悩んでからそれを答えるような演技をしようとした時、彼のポケットからネズの歌声が鳴り響いた。神聖な礼拝堂にお世辞にも神聖ではないと言える歌が響いていたが、ミスミにとってはその曲こそ神聖なものなので何も問題がない。
ソニアに一礼してからその音の主であるスマートフォンを手に取る。
「はい、もしもし」
向こう側から聞こえてきたのは彼が組んでいるバンド『ノーマルエールパワーズ』のドラムからであった。
焦っているのだろうか、向こう側から聞こえる声は震え、やたらに息が切れているような気がする。
だがミスミは特にそれを気にしなかった、一のことをまるで十のことのように伝える、ドラムの男はそういう男であった。
「うん、うん……うん……は?……はああああああ!!!!!????」
突然放たれたその大声に、ソニアは驚き、実はずっと彼女の足元でうたた寝をしていたワンパチは「ヌワン!?」と跳ね起きた。
☆
野外市場、その日、そこはいつものざわめきとは別にざわついていた。
ノマルが歩いていたからだ。
いや、それだけでは言葉が足りないだろう。ノマルがそこを歩くのは日常だ。今更それに驚くことも動揺することもない。
ただ、その横にミスミ以外の男がいるとなれば話は別だった。それもただの男ではない、彼はとびきりの美丈夫であった。
肌は白く、整った顔立ちにあるパッチリとした瞳は青く美しい、まだまだ若そうな彼を美人と称さないのは、彼の身につけているスーツと靴が、見る人間が見れば感心してしまうようなブランドのものであるからであった。
「ここの占いは本当によく当たるんですよ」
スラリと背の高い、ブロンドを纏めたその男を引き連れながら、ノマルは馴染みのキッチンカーに立ち寄る。
「プレミアムミルクティーをくださいな」
仕切りの向こう側から手だけが見えている店主は、彼女らの登場に一瞬だけ手を止めた後にサムズアップをしてそれを作り始める。
「ゆっくりでいいですからね」
「それで占えるものなんですか?」
男は不思議そうに、それでいて興味深そうにその手を覗き込みながらノマルに問うた。流暢なガラル語であったが、若干の不自然な訛りがあるようにも聞こえる。
「ええ、後はそうですね……私達の将来について教えて下さいな」
「またそんな……」
ノマルの言葉に男は少し表情を崩しながら微笑みを浮かべる。
それが見えているのか見えていないのか、店主は少し強めの筆圧でサインペンを踊らせると、カバー付きのカップをノマルの前に差し出す。
カップカバーには『未来は明るい』と書かれていた。
☆
「……あれ誰?」
野外市場、馴染みの木の実屋の客に扮しながら、ミスミとソニアはキッチンカーを訪れるノマルと男を遠目に観察していた。
「いや、知らねえ」
いかにもそのラムの実に興味がありますという風に物色しながら、ミスミはソニアの問いに首を振る。
「坊主が見たことねえってことはよ、全くの部外者ってことかい?」
木の実屋の店主も彼らの目的というものをすぐさまに理解し、いかにもそれを勧める店主であるように努めながら問うた。ノマルが子どもでない男を連れていることに驚きおののいているのは、ミスミやソニアだけではない。
「ジムの関係者じゃねえだろうし……リーダーの親戚にもあの手の男はいないはず……」
「じゃあ彼氏じゃないの?」
ソニアの純粋にして何気ない意見に、ミスミは大きく首を振った。
「いやいやいや、ありえねえ。よりにもよってあの人に彼氏だなんて」
「いやいやいや、ノマルさんもいい大人なんだからさ、彼氏の一人や二人くらいいてもおかしくないって」
「ノマルちゃんに彼氏? そりゃ考えられないよ」
店主もその意見には否定的であった。周りの店の人間もそれに同意だったようで、ウンウンと頷く声がいくつも重なって聞こえる。
だが、ちょうど他の客の勘定を終えた店主の妻はソニアに同意する。
「ちょっとあんたらそりゃノマルちゃんに失礼だよ」
「そうは言ってもよお、そんな昨日今日でノマルちゃんに彼氏ができたなんて考えられねえよ」
「あの人夜の九時には眠くなる人なんですよ? ありえないでしょ」
「ばかねえ、そのほうが都合がいいってこともあるでしょうに」
年配の女性特有の反応しづらいシモネタにミスミが苦笑いを返していると、不意に店主が「隠れな!」と、彼らを店の奥にある棚の隅に追いやった。
カップを片手に、ノマルとその男がこちらの方に移動してきたのが見えたのだ。それも、機嫌良さげに手を振っている。
「よう」と、店主は二人が隠れたのを確認しながら手を振ってノマルに挨拶する。
「こんにちわ!」
ノマルと男はその店に近づく。
「いい男を連れてるじゃないか」と、店主の妻が遠慮すること無く言った。
「そうでしょ!」
ノマルはそれに機嫌が良さげであったが、男の方は「お上手ですね」と、それに微笑むのみだ。
その表情があまりにも柔らかいものだから、店主の妻は思わずドキリとした。消して彼女は浮ついた女ではない、だが、その男の顔のあまりの出来の良さに圧倒されていた。
「いいラムが入ってるよ、オレンも少しある」
店主はその様子に少しだけ機嫌悪そうにしながらも、ノマルのお気に入り商品であるそれを勧める。
「本当ですか!」
ノマルはそれらを手にとった。
男もそれに釣られるようにラムのみを手に取る。
「それならラムとオレンを十個ずつください」
「はいよ」
未だにポーッとしている妻を小突きながら、店主はそれらを袋に詰めた。
その間に、男がラムのみを掲げるように眺めながらつぶやく。いつの間にかその目は真剣になっていた。
「私もラムを一つ頂きたい」
「はいよ」
「失礼ですが、ここで一切れいただいてもよろしいですか?」
店主はその提案に少し驚たがすぐさまに「ああ、いいよ」と答えた。別にそれを断る義理はない。
「ありがとうございます。ナイフを借りても?」
「はいこれ」
間髪入れずに店主の妻から差し出されたそれに「ありがとうございます」と笑みを返しながら。男はそれで器用にラムのみの皮を剥く。
ラムのみといえばそれを口にするのに手こずるポケモンがいるほどに硬いことで有名であるのだが、男は器用にそれをバラバラにした。
そして、本来ならばポケモンが口にすることが多いその実を、何のてらいもなく口にした。
二、三度粗食し、果実からあふれる汁を飲み込んでから彼は言った。
「これは……素晴らしいラムですね。手頃な大きさで栄養状態も良い」
驚く店主に反応すること無く、男は剥いたはずの皮を口にして続ける。
「うん、ラムの実なのに皮が柔らかい……これ、どこのものです?」
「カロスのもんだよ」
「そうですか、失礼ですが、農園の名前をお伺いしても」
店主はその男の行動に戸惑うが「ああ、いいよ」と、それをチラシの裏に書いて手渡す。
「ありがとうございます……よろしければ、ここにあるポケモン用のきのみを一つずつ、産地と一緒にいただきたいのですがよろしいですか?」
ニコリと笑う男に、店主の妻はすでに納品情報を眺め、メモにとっている。
「あんた、詳しいのかい?」
「いえ……そんなわけでは」
「彼はいくつも農園を持っているんですよ!」
それを否定しようとした男に、ノマルがかぶせる。
へえ、と感心した店主に、男は苦笑いして頬をかく。
「別に大したことはないんですが……職業病みたいなものです」
「ノマルちゃん、幸せになってほしいねえ……」
ノマルと男が大きな袋を抱えて店に背を向けたことを確認してから、ミスミとソニアは店の奥からひょっこりと顔を出した。
すでに手を組んでポ―っと二人の行末を願う店主の妻を一先ず置いておいて「いやいやいや」と、ミスミがつぶやく。
「そんなわけねえ、そんなにうまくいくわけがねえ」
ミスミは未だにそれを疑っているようだ。仕方がない、今まで彼が付き合ってきたノマルという人間に対して、あの男は次元が違いすぎる。
そもそもノマルに男の影を感じたことがこれまで一度もなかったのだ、それが不意に、しかもあのような男であることに戸惑いしかない。
「家柄的にはありえるんじゃねえか? ノマルちゃん結構良いところの出だろ?」
「そりゃまあそうですけど……」
「良いじゃないかい、家柄の結婚だとしても本人が楽しそうならさ」
「いやー……」
ミスミは頭を抱えた。店主と店主の妻はすでに男の方を持っている。男に仕入れたきのみをべた褒めされたことがよっぽど嬉しかったのだろう。
「信じられねえ……そんな空気は欠片も感じなかったのに」
「子供だねえ、それが大人の女ってもんなのさ」
店主の妻の言葉に、ミスミは絶句する。すでに頭は混乱し、彼らしい聡明な考え方は出来なくなっている。
「……急にインターネットに触れたからか?」
更に考え込もうとするミスミにソニアが「あのさー」とオレンのみをかじるワンパチを抱えながら更に話をややこしくする。
「多分だけど、君が考えているようなこと起きてないと思うよ」
ミスミはその言葉に顔を上げる、なぜかはわからないが彼女は自信ありげであった。
「なんでそう思うんです」
「だってさあ」
☆
ラーノノタウン、ラーノノジム、対戦場。
本来ならば『スタジアム』と称して良いはずのその施設が町の人間に『対戦場』と称されるのは、そう呼ぶにはあまりにも古めかしい設備に対しての愛着であった。
「カントーのものに比べたら大したものじゃないでしょう?」
照明に照らされたそのど真ん中に二人で向かいながら、ノマルは恥ずかしげに言った。
男はそれに微笑んで返す。
「いえいえ、カントーやジョウトにも老朽化したスタジアムなんていくらでもありますよ。それに、新しいだけの施設よりもずっと良い、歴史や愛着が見えてね」
男はぐるりとそれを見回して続ける。
「何も不自由はしないでしょう」
二人は対戦場の中心で向き合う。
そして、男がもうニ、三言続けようとした時に、その大声は響き渡った。
「ちょっと待ったぁ!!!!!!!!!!!」
その声の方向を二人が見ると、一人の男、ミスミが猛ダッシュで近づいてきている。
さらに、上空から滑空してきたウォーグルがノマルと男の間に割ってはいり、大きな羽を広げてノマルをかばった。
「このクソ野郎が!!!」
「ミスミくん!?」と驚くノマルの声を無視して続ける。
「ノマルさんをたぶらかすだけならまだしも……お前、お前」
彼は声を震わせ、男の左手を指差して続ける。
「お嫁さんのいる身でそんな事するたあ、いい度胸じゃねえか!!!」
男は自身の左手を見る、その薬指には銀色に輝く指輪。まあ、普通に考えれば結婚指輪だろう。
「ちょっとちょっと! それ絶対勘違いだって!!!」
ミスミの後を追うように、ソニアがワンパチと共にかけてきた。
「ノマルさんごめんなさい! 説得しようとしたんだけど駄目だった」
ノマルは未だに意味がわからずウォーグルの羽を掴みながらオロオロとしている。
ソニアが男の結婚指輪に気づいたのは博士らしい聡明さ、というよりも、普通に考えたらそこを見るだろ、というのが彼女の主張であった。最も、ミスミと木の実屋店主夫妻はそれには気づかなかったらしいが。
結婚しているのだからノマルとそういう関係になりたいわけじゃないだろう。とソニアは伝えたかったのだが、すでに全てに懐疑的になっていたミスミはそうは受け取らなかった。
妻子のある男がノマルをたぶらかそうとしている。狭く深くしか物事を考えられなくなったミスミが出した結論はそれであった。
そうなれば、まあ、怒るのは当然だろう。
「彼は?」
男は特に驚いたり怯えたりすることもなくノマルに問うた。
「ごめんなさい! うちのジムトレーナーです!!!」
ノマルはウォーグル越しにそう答える。
ふうん、と男が考えるよりも先に、ミスミは新たにボールを放り投げてタチフサグマを繰り出した。
タチフサグマもまた厄介なことにひどく興奮している。
「だからやめなって! 絶対そういうんじゃないって!!!」
ソニアの忠告を無視してミスミが叫ぶ。
「さあ俺と戦え! 化けの皮はいでやる!」
男はそれぞれの登場人物をみやりながら、そして、非常に客観的な自身の評価を踏まえて考えた。
彼は聡明であった。すぐさまにその答えをひねり出して「あー、なるほど」と苦笑い。
「ああ、いいよ」
凄むミスミに、男はあっさりと答えた。
彼はジャケットの内ポケットから素早くモンスターボールを放り投げ、ポケモンを繰り出す。
現れたのはペルシアン、スマートでしなやかそうな東の個体だった。
今度はミスミが驚く番であった。
彼の想像する女をたぶらかすやつというのは、その大体が軟弱で度胸がないというイメージであったのだ。
だがこの男はどうだ、まるでこのような状況に慣れ親しんでいるかのように、なんの動揺もなければためらいもなくポケモンをくり出した。しかも現れたペルシアンは、まっすぐにタチフサグマとミスミとをみやりながら男の指示を待っている。
手練だ。
「こちらから行くよ!」
男がそう言うやいなや、ペルシアンが地面を蹴ってタチフサグマに襲いかかる。
だが、ミスミもそれにはうろたえない。
「『ブロッキング』!」
タチフサグマは腕を交差させガードを固める。相手がそれに触れてきたらその攻撃を跳ねとばし、相手にスキを作る技術だ。相手はペルシアンである『ねこだまし』を警戒した選択だ。
彼の腕にペルシアンの前足がかかる、すぐさまにそれを跳ねのけたが。
その先にあったのはペルシアンのもう片方の前足であった。
「『フェイント』」
最初の攻撃はおとり、その次の攻撃こそが本命であった。
首元に前足で攻撃されたタチフサグマはぐらりと揺れた。その攻撃で戦闘不能になるほど弱卒ではない。だが、その攻撃は想定していたよりも重い。
それはペルシアンの特性が『テクニシャン』であることも関係していたかもしれないが、何より、そのレベルが高いのだ。
次の攻撃を考えながら、何者だ、と、ミスミはその男の実力に驚いている。
だが、その男との対戦において、その考えは不純物であった。
☆
「ほんっっっっっっっっっっっっっっとうに!!!!! 申し訳ありませんでした!!!!!!!!!!」
場所を変えずラーノノジム対戦場のど真ん中。
ノマルは両手でミスミとソニアの頭を力いっぱいに押さえつけながら、自身も信じられないくらい深々と頭を下げていた、もはやお辞儀ではない、折りたたみだ。
「なんで私まで……」
ソニアからすれば完全にとばっちりであった。そもそも彼女に落ち度はないはずであるのに。しかしノマルのあまりの剣幕にその意見を言えないでいる。
代わりに未だに不満たらたらなのはミスミであった。納得行っていない上にタチフサグマもやられている。
「いや〜っはっはっは、構いません構いません。私も久しぶりに楽しかった」
男は随分とご機嫌にニコニコと笑いながら手を振っていた。
「いや〜、ああいう戦いは久しぶりでした。もう一線からは引きましたが、やっぱりバトルは良いものですねえ」
まあまあ頭を上げてください、と、男は三人に言ってから続ける。
「ジムトレーナーの実力も申し分ない。そして、ジムリーダーであるあなたも街の皆様から慕われ、愛されている。私と歩くと何事かと感心が集まるくらいにね」
その言葉にノマルはキョトンとした。どうやら男は、ラーノノの住民たちの反応を敏感に感じ取っているようだった。
「あの〜」と、ソニアが恐る恐る手を挙げる。
「結局、あなたは、誰?」
「人に名前を聞くときには、まずは自分から!」
ノマルにそう怒られ、ビクリと背筋を伸ばしながら「私はソニアです!」と彼女が答える。
「あなたも!」
「……ミスミです」
ふてくされているミスミを気にせず、男はソニアに目線を向けて問う。
「ソニア、ソニアと言うと、君はソニア博士かい?」
「え、ええ、そうですけど」
「やはりそうか!」
男は一歩二歩と彼女との距離を詰めてその手を取る。
「ソニア博士、いつか機会があれば会いたいと思っていたんです! あなたが編纂したあの本、ガラル地方の伝説をわかりやすく纏めながらポケモンと人間の関係にも言及があり、非常に興味深かった! 私、友人にも何冊か配らせて頂きましたよ!」
ブンブンと振られる両手に「あ、ありがとうございます……」とソニアは動揺のままに答えた。
「それで、結局誰なんだよ」
「ミスミくん!」
やはりぶーたれながらそう言ったミスミをノマルは叱るが、男はそれにも怒ること無く答える。
「ああ失礼、私はこういうものです」
彼は懐から取り出したケースから名刺を取り出し、三人に丁寧に手渡す。
ミスミらはそこに書かれている幾多もの経歴にクラクラとしたが、最も目を引いたのは。
「カントー・ジョウトポケモンリーグ協会理事……クシノ?」
カントー? と、クシノとソニアは首をひねった。
もちろん、その地域については知っている、はるか東にある、伝統あるポケモンリーグを有する地方である。そういえば、男の言葉からほんのり感じられる訛りは、東の方の訛りのような気もする。
だが、その男の白い肌に青い瞳、セットされたブロンドは、彼らの思うカントーとはあまりにもかけ離れていた。
それに、それとこのラーノノタウンが全く結びつかないのだ。
「クシノさんは数年前までカントー・ジョウトリーグで活躍されていたプロトレーナーです! 今では引退され後進の育成に努めています!」
「活躍と言っても、この地方で言うメジャーリーグには上がれませんでしたがね」
その言葉にようやくミスミはクシノの強さに合点が行った。それでも悔しいものは悔しいが。
「あの、なんでその人がガラルに?」
「そうだ、その説明がすっかり遅れていたね」
クシノは姿勢を正して続ける。
「実は、私の弟子を一人研修生としてラーノノジムに派遣したいと考えていたんだ」
「そういうことです!」
クシノよりも大声でノマルがそう叫んだ。
「今日クシノさんとはその話し合いのために会っていたんです。大事なお客様ですよ!!! それを……それを!」
「まあまあ、仕方ありませんよ。状況が状況でしたしね、それに、私の心は変わりません」
彼は一歩ノマルに踏み込んで深々と頭を下げる。
「ノマルさん。ぜひとも、私の弟子に、ジムについて、教育についてのご教授をお願いしたい」
その言葉を受け、ノマルは一度ミスミに睨みつけるような視線を飛ばした、彼がバツが悪そうに視線を外すと、それを承諾と受け取ったのだろう、それに答える。
「喜んでお受けします。数あるジムの中からラーノノジムを選んで頂き、非常に光栄に思っております。あなたのお弟子さんだけではなく、我々も学ぶものの多い機会となるでしょう」
それを受けて、クシノはニッコリと大きく笑った。
「いやー、よかったよかった。私の妻も喜ぶでしょう」
ありがとう、ありがとう、と、彼はソニア、ノマル、ミスミの三人と無理やり握手を交わして続ける。
「細かな調整はまた後日書類をお送りします。いかがでしょう? この後お時間あればみんなで食事でも? ごちそうしますよ」
ソニアとワンパチはその提案にピクリと反応したが、ノマルは微動だにせずそれに答える。
「いえ、私はこの後この子達と話すことがあるので、またの機会に」
クシノに見せる表情は朗らかだったが、ソニアとミスミに見せるその後姿には、肌にビリビリと感じるような恐ろしい威圧があった。
ソニアは殺されると思った。幼馴染のダンデを呼ぶかどうか、本気で考えている。
ミスミもそれに恐怖はしていたが、ここに来てようやく頭が冷えてきたのか、流石にこれは自分が悪いとも思い始めていた。何よりノマルは礼儀に厳しい。
「あー、あまり強くは言わないであげてくださいね。あなたを思ってのことだったんですから」
やはりノマルはその言葉に首をひねった。自分自身がどのような扱いを受けていたのか、彼女はこれから知ることになる。
アポをちゃんと取ればよかった、と、ソニアは思い出したように後悔していた。