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その日、ワカバタウンのウツギポケモン研究所には来客があった。
「うん、いつもどおり健康だね、肌ツヤもいいし牙も綺麗だ。よく手入れしているね」
彼を含めてたった二人しかいないその研究所の所長、ウツギ博士は、目の前のおおあごポケモン、オーダイルの体の隅々をチェックしながら、満足げに笑って言った。オーダイルもまた、並のポケモンならば睨まれただけでひるんでしまうであろう強面を緩ませて、それに身を任せている。
その様子を、来客である赤い髪の少年、シルバーは無言で眺めていた。彼は未だに、時折自分に向かって微笑んでくるウツギ博士の神経というものが理解できていない。
かつて、シルバーはウツギ研究所に盗みに入った。それは紛れもない事実で、否定など到底することが出来ない過去である。
紛れもなくシルバー自身の意志で行われたそれは、驚くほど鮮やかな、自身の血筋をなにか含むようなものさえ感じさせるほどの成功だった。窓から侵入した彼はすばやく一つのモンスターボールを手に取り、ウツギ博士を一つ突き飛ばすように振り払って研究所を後にした。その時に盗んだモンスターボールの中に入っていたポケモン、ワニノコが、今こうやってオーダイルへと進化している。
その後、シルバーは精神的な成長の後に、その行動を悔い、その罪を償うために再びウツギポケモン研究所を訪れた。
すべてを精算したかった。ある少年との出会いと交流を得て、自らの過去を精算したくなった。
当然、覚悟はしていた。法的な贖罪は勿論のこと、ウツギ博士からの罵倒も、非難の目線も、当然あるだろうと、そして、今や最も信頼のできる相棒となったオーダイルを手放すことも、どれだけそれが耐えられないことであろうと、それもまた当然と思っていた。
だが、ウツギ博士はシルバーが想像すらしていなかった決断を下す。彼はシルバーのボールから現れたオーダイルをひと目見た瞬間に、シルバーからオーダイルを引き離すと言う考えをすべて捨てたのだ。
ウツギは、ある条件付きでシルバーの罪を見逃すことにした。そして、シルバーは今日この日までその条件を守り続けている。
その条件とは、月に一度、オーダイルの検診のためにウツギポケモン研究所に訪れる、というものだった。
なんてことのない条件だった。
未だに戸惑いの残るシルバーの目線を感じながら、ウツギは微笑んでいる。
一目そのオーダイルを見たその時から、彼はシルバーという人間を信頼することを心に決めた。そのオーダイルがシルバーを見る目に、悪人に対する怯えはなかったからだ。当然、それはオーダイルもいわゆる悪に染まっていたからだと考えることも出来た、だが、ウツギはそうは思わず、そして、そう思わなかった自身の感性を信頼した。おとなしそうな見た目だが時にして信じられないほどに大胆、そんな男でなければ『ピカチュウはすでに進化したポケモンである』という仮説は建てられないだろう。
「最近、仕事の方はどうなんだい?」
突然投げかけられた質問に、シルバーは慣れない敬語で答える。
「別に、特になにかがあるわけじゃありませんよ、こいつがいれば負けることはありえませんし」
シルバーは、フリーのポケモンレンジャーとして活躍していた。腐れ縁のドラゴンつかい、ワタルの紹介してくる仕事は難しいがやりがいもあり、何より、生活に困らない報酬がある。相棒のオーダイルと一緒ならば、どんなに困難なことだって苦しくはない。
「そう、それは何より」
ウツギは笑った。定期検診のたびに、オーダイルも、シルバーも、健康な姿を見せることが嬉しかった。
シルバーは居心地悪げにウツギから目をそらし、うまいこと考えたもんだよな、と、ウツギの策略に感心する。
定期検診のたびに、そのような光景がウツギポケモン研究所では見られている。
だが、その日は違った。
その幕開けは、無遠慮に蹴り開けられたドアの音だった。
ウツギとシルバーがその音に驚き、状況を把握するよりも先に、ウツギ研究所唯一の助手である研究員の悲鳴が響く。
「騒ぐな!」と、助手ではない男の声が轟き、蹴破られたドアからぞろぞろと黒尽くめの男たちが侵入する。
シルバーは、その集団に見覚えがあった、否、見覚えどころではない、彼らは、シルバーにとっては因縁の存在。
「ロケット団」
静かに、それでいて強く威嚇するようにシルバーは低く唸った。それに同調するように、オーダイルも口端から牙を見せて唸る。
その黒尽くめの男たち、その胸元には大きくプリントされたRの文字、一見ありえないほどに間抜けな格好にも見えるが、彼らが最も勢いを持っていた組織であった頃は、そのマークはこの世で最も恐ろしいものの一つであった。
突然のことに声を失いながら、同時にウツギは戸惑いを感じていた、彼らロケット団が自分たちを襲撃する理由が何一つ見当たらないのだ。
同じようなことをシルバーも考えていた、世話になっていることを贔屓目に見ても、この研究所にロケット団が狙うようなものがあるとは思えない。
「おっと、動くな」
そのリーダー格であろうか、後ろの集団とは少し目つきの違うその男は、助手の腕を片手で極めながらシルバーたちとの距離を詰める。
気がつけば、研究所の照明には一匹のゴルバットがくり出されている。そのゴルバットは鋭い目つきで助手とシルバーたちを視界に捉え、臨戦態勢を取っている。
「携帯獣研究者のウツギだな?」
男の問いに、ウツギは少し震えながら頷いた。大胆な発想と行動を取ることができるとは言え、それはあくまで研究と私生活での話、ロケット団という悪を目の前にしてそれができるわけではない。
シルバーは、ウツギと助手を交互に見比べながら、なんとかロケット団のスキを見つけようと彼らをにらみつける。だが、たった一人のシルバーに対して、ロケット団は多勢、それだけの視線の中にスキは見当たらない。本来、シルバーとオーダイルの存在は彼らにとっては想定外であったはずであろうに、数でそれを制圧していた。
「なに、俺たちも手荒な真似をしたいわけではない。素直に要求に従ってくれれば全ては穏便に済ませる」
まさか、と、シルバーはその言葉を信用しなかった。
「じゃあ」と、男が続ける。
「まずはポケギアを出してもらおうか、あんたも、ガキも、お前もだ」
最後に腕をひねられながら指名された助手が痛みに呻く。
「そうすれば、彼を開放してくれるか?」
大胆にも、丸腰のウツギはロケット団相手にそう切り出した。
ロケット団は一瞬その提案にざわめいたが、挙げられた男の右腕とともに訪れた一瞬の沈黙の後に、男が答える。
「それはそちら次第」
それ以上は無かった。
「シルバーくん」と、ウツギは白衣のポケットからポケギアを取り出しながらシルバーに目配せした。相手の目的はまだわからないが、ここはひとまず従うべきだろうと彼は考えている。
ウツギとロケット団の男とを交互にみやりながら、シルバーもポケギアを取り出した。
助手の男も、掴まれていない方の手でポケギアを取り出す。
「床に放り投げろ」
男の指示するところを理解して、彼ら三人はポケギアを床に放り投げる、違和感のある行動だった、精密機械であるポケギアを床に放り投げるだなんて。
「『エアカッター』」
それらが動きを止めるよりも先に、男の指示によって動いたゴルバットがそれぞれのポケギアを真っ二つに分断した。『エアカッター』が鋭い切れ味を持つことを考えても、そのゴルバットの実力の高さがわかる。
「話が早い」
ひとまず目的を達成した男は、そう言って笑いながら助手を突き飛ばした。バランスを崩した助手は驚きの声を上げながら足元をふらつかせ、真っ二つになったポケギアを下敷きにするように突っ伏す。
その間抜けな光景に一瞬目を取られたロケット団の男のスキを、シルバーは見逃さなかった。
「『アクアジェット』」
オーダイルはその指示を待ち望んでいたかのようにすばやく反応した。すぼめた口から鋭い水流を放ってゴルバットを叩き落とす。
「後ろに!」
ウツギと助手を守るように立ち位置を取ったシルバーとオーダイルは、ロケット団をにらみつける。数では負けているが、シルバーはロケット団を恐れない。むしろ群れることを弱さの象徴と考えている。
撃ち落とされたゴルバットはまだ体力に余裕があったようで、濡れた羽を震わせながらオーダイルを睨みつけている。
だが、ロケット団の男はそれ以上を望まなかった。彼はポケットから小さなボールのようなものを取り出して、笑いながら言う。
「撤収!」
シルバーがその言葉に驚いているスキに、男はそのボールを床に叩きつけた。途端、研究所は煙に包まれる。
「はあ!?」
ウツギらと壁を背にするように後ずさりながら、シルバーはロケット団の意味不明な行動を訝しんでいた。
勿論、相手が煙玉を投げたからと言って脅威が去ったわけではない。その向こう側からゴルバットが不意打ちをしてくる可能性は十分にあるし、それに備えてもいる。
だが、煙の向こう側から驚異の気配は感じない。
「『こごえるかぜ』」
ウツギらの安全をしっかりと確認した後に、シルバーはまだ少し残っている白煙を処理しようとした。
深く息を吸い込んだオーダイルが冷気を纏った風を吹くと、破壊されたドアから煙が抜ける。
その先は、あれほどいたのが嘘であるかのように、誰も存在していなかった。
一瞬、シルバーはその光景に面食らった、そして、突然思い出したかのように背後の窓に振り返り、それを開けてその向こうを確認する、かつての自分と同じような悪巧みを、ロケット団もしているかもしれなかったから。
だが、そこにも誰もいない、窓から首だけだしたその状況が、あまりにも無防備で危険であることにシルバーが気がついたのはその後だった。
「ふざけやがって!」
怒りを顕にしたシルバーはオーダイルをボールに戻してロケット団の後を追おうとした、煙玉を使ったからと言って、たったあれだけの時間でそう遠くまで行けるわけではないだろう。
「警察に連絡を」と、そこまで言いかけて、シルバーは自分たちのポケギアが破壊されていることに気がつき、それを不気味に思った。まるでその状況を予測していたかのような。もし彼らがそれをしようとすれば、隣の家まで足を運ばなければならないだろう。もしそれがロケット団の思惑通りだったとすれば。
シルバーはモンスターボールを三つ放り投げた、くり出されたのはレアコイル、フーディン、ゲンガーの三体。
「お前とお前はこの二人を守れ」と、シルバーはレアコイルとゲンガーを指さしながら言い、残ったフーディンには「お前はこの研究所を守れ」と指示を出してから、彼は駆け足で研究所を後にした。
二十九番道路。
ワカバタウンを西に少し進んだそこで、シルバーはロケット団達の手がかりを失っていた。それは、ロケット団の撤退が徹底的な計画のもとに行われたことを意味している。
「意味がわからねえ」と、息を切らしながらシルバーが呟く。
シルバーは混乱していた。ロケット団の目的が全く読めないからだ。
まず、何の目的でウツギポケモン研究所を襲撃したのかがわからない、そして、何らかの目的があって襲撃したのだとすれば、あそこまで簡単に人質である助手を開放する理由もわからない。人質がいなくなれば自分達が多少の抵抗に出るかもしれないことは、強さというものに敏感なロケット団ならばわかりそうなものだ。
シルバーの脳裏に、ラムダの言葉が思い浮かぶ。
新たなロケット団はかつてのロケット団とは全く違う組織である。
あるいはそれは、そのとおりなのかもしれない。だが、仮にそうだとしても、やはり彼らの目的がわからない。アンノーン手稿を奪うことと、ウツギポケモン研究所を襲撃することに、一体何の関連があるのだというのだろう。
深みに嵌りそうになっていたシルバーの思考は、ある声によってかき消される。
「許してやってくれんかのぉ」
少し低めの女性の声に不釣り合いな、強烈な訛りのある言葉が、シルバーに投げかけられた。
許してやってくれ、それが誰に対して誰のことを言っているのかを理解した彼は、ボールに手をやりながら声の方向に振り返った。警戒しなければならない相手だった。
その目線の先には、一人の女がいた。若いがシルバーよりかは年上で、青い目が彼を見据えている。短髪というわけではないだろうが、浅くかぶられたキャップの中に、髪の毛を押し込んでいるようだった。
「あいつら、雑魚で馬鹿で根性無しじゃがのぉ、その性根までねじ曲がってるわけじゃないんよ」
あいつら、というのがロケット団を指していることは明白だった。シルバーはそれを鼻で笑ってからそれに反論する。その女が何者であるのかはその時は考えなかった、ロケット団の方を持つ時点で、敵だろうから。
「性根はねじ曲がってるだろうよ、弱いくせに群れて粋がってるんだからな」
シルバーは女の腰元を確認する、そこには傷が多いボールが三つほどあった。
はん、と、今度は女が鼻で笑う。
「ずれとるのぉ、弱い奴らが群れるのは自然の摂理なんよ。性根がねじ曲がっていないからこそ、生きることに素直だからこそ、己の身の丈を理解して群れるんじゃ。むしろ、弱いくせに一人でいるやつのほうが、虚勢を張っとるし、性根がねじ曲がっていると思うがのぉ」
女は笑っていた。その逆に、シルバーは表情をこわばらせる。それは、シルバーという人間の生き方そのものを、根本から否定しかねない考え方だった。
「それでも、弱いくせに粋がるよりかはマシだ」
同じことを、強調して言う。
だが、女はそれを受け流すだけ。
「ほんなら、弱いやつは何もせず弱いままで、何も出来ず波に飲まれることだけが、運命なんか?」
「違う、強くなればいいだけだ」
「なら、強いってのはどういうことなん? どうなったら強い? 誰より強くなったら強いんや? 誰が強いんや? チャンピオンか? ジムリーダーか? それ以外のトレーナーはすべて弱いんか? たった一人が生き残るまで戦えば良いんか?」
質問の連続に言葉をつまらせるシルバーに、女は追い打ちをかける。
「そんで、立派なことを言うあんたは強いんか?」
シルバーは、それに何も返せない。自分は強いのだと、ハッキリと口にすることが出来ない。ゴールドに、そして、ワタルに負けた経験がそれを言わせない。
だから彼は、論点をずらすことしか出来ない。
「ロケット団は、人に迷惑をかけている」
それは、ロケット団がロケット団である限り、絶対に否定することのできない、この議論においてそれを繰り出すことが卑怯だと感じられるほどの正論だった。正論のはずだった。ロケット団の肩を持つ女が、言葉をつまらせる魔法の旋律のはずだった。
だが、女は止まらなかった。
「それが違うんよ」
諭すように、笑いながらそういう女に、シルバーは目を見開く。
「この世ってのはのぉ、善と悪が存在するわけじゃないんよ。この世は正義と正義、もっとわかりやすく言えば自我と自我、エゴとエゴのぶつかり合いこそが、この世を仕切る厄介な壁なんよ」
シルバーは、沈黙をもってその続きを求める。
「生きるってことは、生き抜くってことはの、誰だって誰かに迷惑をかけとるし、恨まれてもおる。ただ、それがこの社会における正義か、そうではないのか、それだけの差なんよ」
「そんな屁理屈で、あいつらの存在を正当化できるとでも?」
「正当化するも何も、ロケット団の存在は消せんよ。あるいは『新しい世界』の中でも、ロケット団は生まれるじゃろう」
「何を馬鹿な」
「馬鹿もなにもないわ、世界ってのはの、すべての人間を救うわけじゃないんよ」
一歩だけ、女がシルバーとの距離を詰めて続ける。
「ロケット団が悪とされたのは、それがこの社会における正義にとって都合が悪かったからなんよ。ロケット団がポケモンでヒトより上に立とうとすることと、チャンピオンが人の上に立つことになんの違いがある? この社会の人間はの、ロケット団員のすべてが悪で、チャンピオンのすべてが善であると盲信しとる。それがこの世界の正義じゃから。じゃから、ロケット団は世界を変えようとする、それは、すべての人間に与えられた権利じゃろうし、この世界に生きる人間にも、それを阻止する権利がある」
じゃがの、と、もう一歩距離を詰めながら、女が言う。
「あいつら、やっぱり悪にはなりきれんのよ、その証拠に『ガキに手を出さなかった』ボスの教え通りにの」
一瞬、シルバーは女の言っていることの意味がわからなかった。だが、彼女の言う『ガキ』が自分自身を指していることに気づいたその時、彼の頭にカッと血が上る。
シルバーが一歩女に近寄るのと、牙をむき出しにして威嚇するオーダイルがくり出されたのは、ほとんど同時だった。
「あーあ、出したのぉ」と、女はため息を付いた。
「あいつらと違って、私は悪いからのぉ、ガキが相手でも手加減はできん」
女は更にもう一歩シルバーに近づき、ボールを投げる。くり出されたのはキックポケモンのサワムラー。
シルバーは、サワムラーの左腕に小さなカバンのようなものが巻かれていることに気がついた、それは、トレーナーがポケモンになにか道具をもたせるときに使うもの、戦略を幅広くするための用意。
気がつけば、お互いのポケモンが接近戦を挑むような間合いにまで、二人と二匹は近づいている。
二メートルを超える体格のオーダイルは見下すようにサワムラーをにらみつける、だが、少年ほどの体格しか無いサワムラーもまた、オーダイルを見上げるようにしながら、その視線を外さない。
「お前ら、何が目的なんだ」
「は、それが知りたきゃ勝ち取ることじゃの」
オーダイルが動いた。
だが、サワムラーのほうが速い。
右手を振り上げようとしていたオーダイルの目前で両手を叩いて一瞬視界を奪う。そして、そのスキを突いて右足を狙って蹴りを放つ。
「右!」
オーダイルは視界を奪われながらもシルバーの指示を理解し、右足を上げて『まもる』体勢を取った。
だが、その蹴りは来ない。
代わりにオーダイルの表情を少し歪めさせたのは、左脇腹へのボディーブローだった。
ダメージを貰ったオーダイルは一歩下がり、サワムラーも距離をとって間合いを取る。
はん、と、女が鼻で笑う。
「浅いのぉ」
シルバーは、女を睨みつけながらも、その言葉を否定はしなかった。
『ねこだまし』からの『ローキック』、それがシルバーが想定していた連携だった。『ねこだまし』で視界を奪った後に『ローキック』で足を痛めつけ、その後の手数で優位に経とうとする相手の戦略を、シルバーは『まもる』を使うことで無効化しようとした。
だが、サワムラーの『ローキック』はダメージを狙ったものではなかった。その動きを見せることでオーダイルの動きを引き出し、そのスキを突くための『フェイント』。ダメージこそ小さいかもしれないが、左脇腹へのボディーブローこそがサワムラーの本命であり戦略だった。
シルバーはそれを食らった。『ローキック』を見切り迎撃をしていれば、結果としてはいたいダメージを与えられるはずだった。
あるいは、サワムラーという種族が持つキックという特性に意識を持っていかれていたのだろうか。
「戻れ!」
オーダイルを手持ちに戻し、新たなボールを放り投げる。
敗走のようだが仕方がなかった、攻撃を当てたサワムラーが望んで取った間合いは、彼の伸びる足が一方的にオーダイルを蹂躙することのできる有利な間合い。
くり出されたゴルバットは、すぐさま上空にポジションを取った。地面を這うかくとうポケモンには取ることの出来ない高さという概念を有利に使おうとする。
「『ちょうおんぱ』!」
「遅い!」
まだ陽は高い、それによって『あやしいひかり』の効果が落ちることを危惧した『ちょうおんぱ』だったが、それはいとも簡単に見切られ、サワムラーは姿勢の低いステップでそれをかわす。そしてその低い体勢はその次に活きる。
「『とびはねる』」
バネのように伸び縮みする足を活かし、サワムラーは宙に飛ぶ。
地を這うしか無いはずの格闘タイプは、難なくゴルバットを攻撃圏内に捕らえ、両腕で抱えるように彼を捉えた。後は重力に任せるのみ。
「『ちきゅうなげ』」
真っ逆さまに、サワムラーとゴルバットは地面に激突する。毒とひこうタイプを持つゴルバットにはキックでの攻撃は効果が今ひとつだと理解した上での地面を、重力を使った攻撃。
「『どくどくのキバ』!」
シルバーは『ちきゅうなげ』がその見た目に反して勝負を決めるほどのダメージを奪うものではないことを知っていた。まだゴルバットに体力は残っていると考え、その離れ際に攻撃と『もうどく』を打ち込むことのできる攻撃を指示する。
だが、それよりも先にゴルバットは吹き飛んだ。己の意思以外の力で中を舞い、シルバーの足元に音を立てて落下する。
戦闘不能となったゴルバットをボールに戻しながら、シルバーはサワムラーの握られた拳を睨んだ。固く握られた拳での弾丸のようなスピードでの攻撃『バレットパンチ』に彼が気づいたのは、あまりにも遅い。
「あまりにも遅いわ、この場に出して良いポケモンじゃないのお」
その女の言う通り、この一対一の場面だけを考えれば、ゴルバットはあまりに無力だった。鍛え上げられたレベルの差は歴然。
だが、シルバーはそれに何も返さずに次を繰り出す。ゴルバットが良いようにやられたのは間違いないが、それによって、最も嫌うべき間合いから離れることは出来た。この間合いならば、あいつを自由に暴れさせることができる。
くり出されたオーダイルは、牙を見せながらサワムラーと女を威嚇する。
だが、サワムラーも、女もそれには怯まない。むしろ女はその姿に口角を上げる。
「まあ、良くも悪くも、勝負にしようと思ったらそいつを出すしか無いよのお」
そのオーダイルのレベルの高さを、女も認めているようだった。だが、それを恐れている風ではない。むしろ、その出現を喜んでいるようですらあった。
オーダイルとサワムラーは、お互いに視線を合わせながら少しづつ移動を始める。
当然、サワムラーは今の間合いを嫌う、足を伸ばすことこそできるが今のかなり離れた間合いではかなり無理をしなければ攻撃を通すことが出来ない。強力な打撃を当てることが出来ないのはオーダイルも同じであったが『ハイドロポンプ』などのような遠距離の攻撃を通すことができる分、彼のほうが有利だろう。
しばらく静かな位置取りの攻防が繰り広げられた後に、オーダイルが動いた。
「『まわしげり』!」
それを見るや否や、サワムラーが大きく一歩踏み込み、体を回転させる。
サワムラーが振り向くように正面を向いた時、すでにその右足はオーダイルの腹部を捉えようとしていた。
見慣れぬ動きから相手を強襲する後ろ『まわしげり』、戦闘に慣れ、そして、それを捉えるスピードを持ち合わせていなければ、それを見切ることは出来ない。大きく踏み込んで距離を縮めてからの一撃、それはオーダイルを仕留めるはずだった。
だが、その巨大なワニを仕留めて戻ってくるはずだった右足は、戻ってこない。
オーダイルは、強かに腹部を打ち付けたその『まわしげり』を、両手で受け止めていた。
女とサワムラーはその光景に一瞬だけ目を見開く。そして、その次を考えるよりも先に、オーダイルがその怪力でサワムラーを引き寄せる。攻撃を受ける寸前に『りゅうのまい』によって引き上がられた集中力と瞬発力は、サワムラーの強襲を捕らえ、力比べで引き寄せるのに十分。
伸ばした足が戻ろうとする力にサワムラーは抗えない。伸びた足を捉えることによって、オーダイルは不利な中距離を無視してそのまま近距離戦に持ち込もうとする。
最初は片足を踏ん張ってそれに抗おうとしていたサワムラーが、ついに力比べに負ける。
一気に距離の縮まる二体のポケモン。
「『アクアブレイク』!」
シルバーの指示とともに、オーダイルは右腕を振り上げ、そして、水を纏った右腕で、サワムラーを張り倒す。
低レベルなポケモンたちが生きる平和な道路に不釣り合いな地鳴りと地響きが同時に起こる。その衝撃に、オタチ達は一斉にそこから遠く遠くにあろうと草むらを揺らし、ポッポ達もまた、その脅威から逃れようと一斉に空に逃げ出した。
手応えのある一撃だった。近距離からの『ちからづく』な『アクアブレイク』大抵のポケモンは沈めることができる。
だが、女はサワムラーをボールに戻さない。否、それどころか、女はまだ笑っている。
「甘いんよのお」
オーダイルが足元に違和感を感じたのと、シルバーがそれに気づいたのは、ほとんど同時だった。
叩き潰されたはずのサワムラーが、オーダイルの懐に潜り込み、それを持ち上げようとしている。
女が言う。
「人の懐に潜り込むってことはの、それだけ相手の攻撃範囲に入るということなんよ、接近戦に持ち込みたかったんわ、あんただけじゃなかったんじゃのお」
大技の反動でまだ周りの見えないオーダイルの巨体が、ふわりと浮かび上がる。
シルバーはその光景に驚く、あれだけの攻撃を食らったサワムラーのどこにそんな力が残っているというのか。
「ワレはの、勘違いしとるんよ」と、女が続ける。
「ワレは、この世界だけに自分だけが存在しとると思っとるんよ。自分だけが特別頑張ってると思っとる。自分だけが特別強いと思っとる。自分だけが特別高貴じゃと思っとる。そんで、自分だけが特別に、闇を背負っとると思おとる」
歯を食いしばるサワムラーの口元から、一滴の汁が垂れていることに気づいた時、シルバーは彼女らの戦略のすべてを理解し、そして、その結末も予感する。
気がつけば、サワムラーが腕に装備していたバッグの口が開いている。おそらくそこには、一時的に筋力を増強させる『チイラのみ』が仕込まれていたのだろう。
オーダイルの『アクアブレイク』を『こらえる』サワムラーは、残る体力を振り絞ってそれを口にした。
ならばその次は。
「『きしかいせい』」
最後の力を振り絞り、サワムラーがオーダイルを地面に叩きつける。受け身もクソもない、頭からの落下。
体力が残り少なければ少ないほど威力を増す『きしかいせい』、本来ならば瀕死になっていたであろう『アクアブレイク』をギリギリのところでこらえたサワムラーのそれは、たとえそれがレベルの高いオーダイルであっても一撃で仕留める威力を持っていた。
どこからだ、と、シルバーが歯を食いしばる。
どこからが、あの女の戦略なんだ。
『アクアブレイク』を撃ち込まれるその寸前か、それとも『まわしげり』を受け止めたあのときか、それとも、オーダイルを繰り出したその時からなのか。
一体どこから、あの女は自分を見下ろしていたのか。
オーダイルをボールに戻し、次のポケモンを繰り出す。
だが、そのポケモンに指示を出すよりも先に、サワムラーがそのポケモンに襲いかかる。
「『マッハパンチ』」
きのみを使い身軽になったサワムラーの『かるわざ』からくり出される『マッハパンチ』は的確にニューラを捉え吹き飛ばす。
あくと氷タイプのニューラに対してチイラのみで筋力を引き上げたサワムラーの『マッハパンチ』、ニューラがどうなったかは見なくともわかる。
シルバーはすべての手持ちを失った。後は相手に背を向けて逃げるか、良いようにされるか、弱者に残された道はそれしか無い。
「期待はずれじゃったのお」と、女はため息を付いてつぶやく。
「あの人の血を継いどるんじゃけえ、もっとやるかと思ったんじゃがのお」
その言葉は、限られた人間しか知られていないシルバーの血統について言及するものだった。
シルバーはそれに声を上げようとした、それに触れられることに対する不快を主張し、その女がそれを知っていることへの異議を唱えようとした。
だが、それは出来ない。
持ち得る戦力すべてを失った今、シルバーに異を唱える権利は存在しない。何を言っても、それは抑止にはならないだろう。倒れているニューラをボールに戻すスキを見せる権利すら、今の彼には存在しないのだ。
「そんなんじゃ、なーんもできんよ」
その状況を揶揄するように言い、女はさらに続ける。
「親友を救うことすらできゃーせん」
その言葉に、シルバーは目を見開いた。そして、自らの立場も忘れて女に吠える。
「ゴールドに何をした!」
シルバーの刺すような目線を、女は鼻で笑うだけだった。当然。
「言うわけなかろうが、そんな義理もなけりゃ、それができるほどの強さがワレにあるわけでもない。じゃがの、場合によっては考えてやらんでもない」
シルバーが何も返さないのを確認してから続ける。
「ワレ、私らの仲間になれ」
それは、半ば脅迫のような含みを持っていた。
だが、シルバーは「誰がそんなこと」と答える。
「じゃあ、死ぬしか無いの」
サワムラーが踏み込む、ほとんど体力が残っていないはずなのに、その動きのなんと淀みのないこと。
迫りくる拳をゆっくりと捉えながら、シルバーは女の言葉を思い出していた。
なにもできない、そう、何もできず、何もできなかった。自分だけが救われ、自分が救うことはできない。
それは、弱いから。弱いから、何もできなった。
じゃあ、強かったら何ができた。
強いって何だ、弱いってなんだ。
その先を考えようとしていた時、シルバーはサワムラーの拳が寸止されていることに気づく。
「良くないくせじゃ」と、女はキャップを脱いで頭をかいた。キャップに押し込まれていたくせのある赤毛が、肩まで下りている。
「どうも、弱いやつには非情になりきれんのよのお」
女はサワムラーをボールに戻し、そして、もう一度シルバーに目を合わせる。
「まあ、ワレの気が変わりゃあの、いつでも仲間にしたる。私は強いけえのお、弱いやつを守る義務ってもんがあるんじゃわ」
風に揺れる赤毛をキャップで押さえ込みながら、女はシルバーに背を向け、続ける。
「弱いやつはの、誰かに頼らにゃしゃーないんよ。弱いのに孤高を気取れば、そいつは何も成せずに死ぬだけじゃ、今のワレみたいにの」
シルバーに一切の警戒を持つこともなく、女はその場から去った。
シルバーが倒れるニューラをボールに戻すことができたのは、その女が彼の視界から完全に消えてから少し経ってからだった。
その緊張感から解き放たれた時、彼の心の中にいくつもの感情が堰を切ったように流れ込む。
その感情の中に安堵があることに、シルバーは気づいていた、そして、彼はそれに鼓動を早くする。
「クソが」
自分自身に向けられた悪態は、彼の中に虚しく響く。
自分自身の弱さを噛み締めいていた。
あの女の言うことは、正しい。
何もできなかった。
強ければ、もっと力があれば、あるいはゴールドを救うための情報を、あの女から引き出せていたかもしれない。
だが、現実は、打ち倒すべき敵に情けをかけられた。
救えない。
ゴールドは自分を救ったのに、自分はゴールドを救うことすらできない。
「どうすればいいんだ」
その屈辱は、一人で生きてきた少年を追い詰めるのに十分だった。
だが、その屈辱は、誰にも頼らず一人で生きてきた少年に、また別の道を歩ませることを考えさせてもいた。