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それは、その研究所が朝を迎えて少ししてからのことだった。
アルフの遺跡に併設されたその研究所には、考古学の専門家、そして、タマムシ大学の学生を含む関係者達が、次々と足を踏み入れる。
彼らの目的は『アンノーン手稿』だった。
半年ほど前に突如無から生み出されるように出現したそれは、優秀な頭脳を持った考古学者や学生、もしくは、未知のものに対する興味心が人より強いように出来ているいわゆるオカルト好きな人々を興奮させていた。
大きめの辞書のような見た目とそのとおりの重量を持ったその本は、そのページの殆どが、シンボルポケモン、アンノーンの姿で構成されていた。これまで、アンノーンと古代文明の文字との関係性がほとんど真相に近い噂として囁かれていたものの、それを証明する古代文字が使用された物は存在していなかった。
故に、その『アンノーン手稿』の発見は、考古学業界としては珍しく一般のニュース番組に取り上げられるほどの盛り上がりを見せた。そして、その一部が液晶を通して一般に公開されると、一部の人々は一斉にそれの解読に取り掛かった。無論、アルフの遺跡に併設された研究所に足を踏み入れる権利を持った人間は、それよりずっと前からそれに取り組んでいたことは言うまでもない。
人々がそれを急ぐのには理由があった。誰も知らぬ情報を誰よりも早く知り、そして、その頭脳の明快さと閃きを評価されたいと言う欲はもちろんだが、誰もが『アンノーン手稿』の解読は時間の問題で、その競争に参加したいのならば、かなりの駆け足にならねばならないだろうと思っていた。
かつて、ホウエン地方に存在するいくつかの遺跡に存在した六つの点をベースにした古代文字は、研究者達によってその意味をなんとなく解読されるまでに至った。コンピューターネットワークを中心とした情報化社会は、探求におけるいくらかの手間を省かせていた。
たとえその意味がわからなくとも、それが文字である限り、何らかの規則性の中で利用されているに違いない。そのような逆算的な暗号解読方法は、この世に存在するいくつもの暗号と呼ばれるものを解読してきた。
故に、『アンノーン手稿』がその意味を解読されるのも遠くはないと思われていたし、特に考古学に詳しくもないのにしたり顔のコメンテーターたちも、それらを理由に「いつか解読されますよ」と言っていたのだ。
互いの挨拶もそこそこに、パソコンや分厚い文献にかじりつき始めた研究者達は、嬉しさと苛立ちと悲しみを足して三で割ったような表情を見せていた。
『アンノーン手稿』が発見されてすでに数ヶ月が立つというのに、彼らは未だにその解読の手がかりも掴めないでいた。正しいかどうかが分からないのではない、真意が定かではなくともまずはロケットスタートのように飛び出すある程度の予想、指針すらも、彼らには思いついていなかった。
優秀な頭脳がどれだけ考え、時にはお互いの考えを包み隠すことなく公開し合うこともした。それなのに、その文章になんの規則性も掴めない。あるようにも見えるし、無いようにも見える。
パソコンに取り込んだ『アンノーン手稿』のそれぞれのページを眺めながら、研究員の一人は頭を抱えた。もはやその殆どの画像は、脳裏に焼き付いている。強烈な興味は、時として信じられないような記憶力を呼び起こす。
それでも何も思い浮かばないということは、紙面上の問題ではなく、『アンノーン手稿』そのものに仕掛けがあるのではないかと、その研究者は一瞬考え、すぐさま首を振った。
そのような思いつきは、その殆どをがすでに実行されていた。例えば日に透かしてみるとか、冷やしてみるとか温めてみるとか、奇抜の局地的なもので言えば、アンノーンとリンクして何らかの新たな文字が浮かび上がるのではないかと実行されてみたが、それもてんで駄目であった。
その原本、オリジナルは金庫の中に厳重に保管されている。なにか新しいことを言ってその実行のために取り出すことは出来るだろうが、その新しいものが思い浮かぶわけでもない。
インターネットで一般公開されたその一部を手がかりにしている身分問わずオカルトマニア達も、それらの解読の手がかりを掴めないでいた。彼らの母数は研究所に籠もっている研究者の数をはるか凌駕する、集合知が時により高度な知性を生み出す事をいまさら疑うものはいないだろうが、それでも、それは成せていない。
オカルトマニアの中では『アンノーン手稿』の信憑性そのものから疑う声も上がり始めていた。そもそも文字である限りそこに規則性が見られないのはおかしいとか、そもそも突然アルフの遺跡に現れたものが本当に古代文明のものである信憑性が薄く、質の悪いイタズラではないのかとか、いや、むしろ現代人のイタズラであるならばそれこそ文字列に規則性がないのはおかしいとか、規則性あるだろ、とか、ないだろ、とか、そんな感じであった。
インターネット上で行われたその喧々諤々に参加をしたこともあるその研究員は、はあ、とため息を付きながらコーヒーカップに手をかけた。糸口は見えないが、意外とスポンサーは多い、もう少し時間をかけることは出来るだろうと思っていた。
その時だった。
突然に研究所のドアが乱暴に開かれた、否、開かれたというよりかは、蝶番ごとふっとばされたと言ったほうが良いかもしれない。
研究者達がそれの驚くよりも先に、今度は窓ガラスの殆どが同時に割り砕かれ、そこから何匹ものゴルバットが研究所内に侵入して、人間たちを威嚇する。
その研究者も低空飛行のゴルバットに襲われ、思わずコーヒーカップを指から滑り落とした。
床に落下して割れたそれは、その研究員のベージュのスラックスを黒く濡らした。
だが、その熱さに研究員が悶える声は、他の研究者たちの悲鳴と、ぞろぞろと研究所の中に侵入してきた黒尽くめの男たちの怒鳴り声にかき消された。
「騒ぐな!」と、黒尽くめの男の一人が言った。
無茶言うなよ、と、その研究員は怯えながら思う。本当に騒がれたくないのならば、静かに扉を開き、不快感を感じない程度の声量で挨拶をし、できれば片手で食べることのできるお土産などを持参して、それでいて手短に要件を言えばいい。そうすれば、自分たちはとりあえず騒ぎはしないのだ。
だが、研究員にそれを言う義務も権利もあるはずがなく、ただただじっと、その黒尽くめの男たちに怯える一人となる。
その研究員の願いが通じたのかどうかはわからないが、かつて扉と呼ばれていた壁に空いた穴から、今度は統一感のない、否、もし乾いた泥にまみれていることを統一感と呼ぶのならばある意味統一感のある集団が、今度は静かに入ってくる。
その集団は黒尽くめの男たちと目配せをした後に、扉から入ってくる誰かを迎えるように並び、ひざまずいて手を組んだ。
黒尽くめの男たちは、それに冷たい目線を投げかけていた。そのような感情に疎い研究員達も、彼らの間になにか大きな認識の違いがあることがわかる。
研究員達がその理由を考えようとしたとき、彼らの知らぬ、経験したことのない声が聞こえる。
「やぁ、やぁ、やぁ」
それと同時に、かつて扉だったその空間から、ぬるりとその大男が侵入してきた。
それを待ち構えていたであろう集団と同じく、その大男の服や外套も、泥とホコリにまみれている、縮れ毛の長髪と黒々と顔を覆うヒゲも同じだろう。
研究員にしては珍しく社会情勢に興味のある何人かの者は、その大男の正体を理解していた。
『教皇』クワノ一世。
シンオウ地方の価値ある遺跡や建造物を襲撃し、つい先日にはカントー地方シオンタウンの慰霊施設『たましいのいえ』を襲撃した集団の主犯格、その行動に政治的な意図があるかどうかがわからないためにメディアではまだそう言われていなかったが、その行為を知る殆どのものは、テロリズムを想像するだろう。
研究員達は身構え、中には、すでに悲観的な考えに至っている者もいる。
クワノは言った。
「ゴルバットを鎮めてはくれないか」
黒尽くめの男たちは、渋々といった風にそれに従った。トレーナーの忠実なる相棒であったゴルバット達は研究員達を威嚇するのをやめ、とまれる所にとまって体を休める。
研究者たちの心境を知ってか知らずか、クワノが続ける。
「心配することはない、かつて最終兵器の引き金を引いた愚かな王と私は違う。神と神の子がそれを望まぬ限り、私は誰も殺めぬ」
その言葉に安心したものは、果たしてどれだけいるだろう。もしその言葉で身の安全を確信するような人間がいたならば、彼は世界でもそうそうお目にかかることの出来ない大馬鹿者だろう。
「ここの長は誰かね?」
クワノの問に、一人の男が恐る恐る、それでいてしっかりと立ち上がり「私です」と、はるか上に存在するクワノの目を見据えながら答えた。
研究員達もそれに異を唱えなかった。少し白髪の混じった髪を持つ彼は、間違いなくその研究所の責任者であった。
「なるほど、精悍な顔つきだ。さぞ素晴らしい功績と、知識を蓄えているのだろう。それがこの汚れた世界で使われたことを虚しく感じるがね」
クワノは、大きな体を揺らしながら責任者に歩み寄った。安価な床材を重量感のあるブーツが叩く音が、静寂の研究所内に響く。
責任者を見下ろしながら、クワノが言う。
「私の要求を、聞いてもらおうか」
低く、重力に乗せて叩きつけるような重みのある声だ。
しかし、責任者はそれに怯まず「なんでしょうか」と、クワノを見上げながら答えた。その長い人生の中で、ポケモンや肉体を使った闘争に身を投じたわけではなかったが、その長い研究業の中で積み重ねた尊敬は、彼に人間としての格を与えている。
「やぁ、やぁ、やぁ」と、クワノは嬉しげに言った。責任者から感じる威厳を、余裕を持って受け止め、それに感嘆を上げる余裕が彼にはあった。
「君と出会えたことを、私は心より嬉しく思う。この穢れた世界の中にも、健気に咲く美しい花の存在を見つけるのが、私は嫌いではない」
そして一瞬沈黙し息を吸い込んだ後に、言う。
「『アンノーン手稿』を、こちらに渡してもらおうか」
やはりか、と、責任者を含む研究員達全員が思った。むしろ、この簡素な研究所に、それ以外に価値のあるものなんて存在しない。
渡してしまえ、と、過半数の研究員は思っていた。全てのページはすでにデータ化している上に、これ以上原本から情報は得られそうにない、それで黙ってこの恐怖の集団が立ち去るのなら、従うべきだ。
だが、数で負ける残りの研究員達は、絶対に渡すなと思っている。脅しの前に、知的好奇心が敗北することを、彼らは良しとはしない。
責任者も、概ねそのような考え方だった。乾いた泥でまみれた服を着ている連中にそれを渡して、果たして『アンノーン手稿』がその形をいつまで維持することができようか、確実な本物と確定したわけではないが、確実な偽物と確定したわけでもない。それをこの世から失わせるのは、あまりにも惜しい。
だが、責任者は一瞬歯を食いしばり「わかりました」と一言答えた。過半集の研究者は安堵を、そして、残りの研究者達は僅かな怒りを覚える。
しかし、それは懸命な判断だっただろう。今ここに集まっている研究員達の身の安全は『アンノーン手稿』一冊よりも重いと、責任者は判断したのだ。
責任者は少し恐れながらクワノに背を向け、研究所奥の金庫に向かった。
ダイヤルを合わせ、現れた鍵穴に彼だけが持つキーを差し込み、回す。
責任者がそれを開くと、両手で『アンノーン手稿』を取り出した。
黒尽くめの男たちと、クワノたちの集団は、それに釘付けとなる。
大きめな辞書ほどあるその本は、古めかしくも、新しくも見える不思議なデザインだった。
それを手にしたままクワノの前に戻った責任者は、やはりしっかりと彼の目を見据えながら言う。
「一つだけ、質問させていただきたい」
研究所の中がざわめいた、それは研究員たちの戸惑いもそうだし、侵略者たちのざわめきも同じだった。
クワノの信者であろう泥まみれの一人が、半歩身を乗り出してそれを咎めようとした。彼から見れば、研究員達は汚れた世界の住人、それが『教皇』であるクワノ一世に何かを問うことが、彼には許せなかった。
「よいのだ」
だが、クワノはそれを制した。
「構わぬ、問いたいことがあるのならば何でも問うがいい。最も、私の答えをキミが理解できるかどうかは、新たな世界とこの穢れた世界の親和性によって左右される他ない。だが、それは私がそれを受け取ってからだ」
両手を差し出したクワノに、責任者は同じく両手を差し出して『アンノーン手稿』をクワノの巨大な手の中に収めた。
そして、彼は一つ息を吸ってから問う。
「クワノ教授、一体、何があったのです? こんな悪党まがいのことをせずとも、貴方が相手なら私はそれを手渡しました」
片手に収めた『アンノーン手稿』を胸に当てながら、クワノは目を見開いてそれに答える。
「ほう、以前の私を知るかね?」
「私のもとで歴史学を学ぶ生徒たちは、まずは貴方のシンオウ神話学についての書籍を読むことから研究者としての一歩を歩むのです」
責任者は、クワノ一世がかつてシンオウの神話学者であったことを知っていた、というより、その世界で長く生きていれば、いずれ必ずクワノの神話学に触れることになる。
責任者のその言葉で、かなりの数の研究員が驚くこととなった。彼らも、シンオウ考古学の権威の一人であったクワノ教授の存在は知っている、だが、それと目の前のクワノ一世とでは、あまりにも風貌が、そして、彼らの思うあまりにも理知的ではない態度が、自然とそれらを乖離させていたのだ。
そして、クワノはため息を付いた。
「以前の私なら、それを嬉しく思っただろう。だが、もはや私はその言葉に憐れみと、怒りと、憂いしか感じることがない。今の私にできることは、それらは全て嘘偽りであったと、君たちに伝える他ない」
クワノの返答に責任者は悲しみを覚えた。神話など、それが実際にあったかどうかなんてどうでもいい、そこに至るに至った当時の住民たちの生活様式、何が驚異で、何が仲間で、何が恐怖だったのか。それと文化とを結びつけることの壮大さが、その学問の最も興味深いことであると、かつてのクワノならば言ったであろう。
もはや、目の前の男に、かつてのクワノは存在していなかった。
責任者の目線は、クワノの胸に抱えられた『アンノーン手稿』に向かった。巨大な男であるクワノが抱えるそれは、かつて自分たちが持っていた印象よりも小さく見えた。
「あなたは、その本の価値を、理解しているのですか?」
不意に漏れ出した言葉だった。いい切った後に、責任者ははっとしてそれを後悔する。
考古学への敬意が、一瞬、目の前の恐怖に勝ってしまったのだ。
過激なテロリストである『教皇』クワノ一世に対して、その姿勢を挑発するような発言だった。実際にクワノ一世の治世がどうかと言う話ではない、たとえそれが正しくとも、狂人を怒らせれば、何が起きてもおかしくない。
事実、信者達はそれにざわめいた。あるものは立ち上がり、あるものは責任者に怒りを向けた。
黒尽くめの男は、同じく責任者相手に怒りの感情を持ったが、それはクワノが侮辱されたことが原因ではない。
めんどくさいことすんなよ、と、彼らは思っていた。
素直にそれを渡し、素直にクワノを刺激しなければ、それだけで終わる話なのだ。それだけでクワノ達は満足し、それでこの任務は終了。
そんな事も満足にできないようでは、自分たちが上に男と言われるかわからない。
黒尽くめの男達が信者を抑え込もうと一歩踏み出そうとしたその時だった。
「価値と!」
『教皇』クワノ一世が、その長身から地面に叩きつけるようにそう言った。
その声は研究所内に響き渡り、信者も、そして、黒尽くめの男達も、内臓に響くそれにうろたえ、動きを止めた。
そして、クワノが続ける。
「ならば問うが、君たちはこの本の価値を理解しているのかね? 否、価値だけではない。そもそも君たちは、この本が何なのであるかという事を理解しているのかね?」
研究員達は口をつぐんだ、まるでそれは、若い学生が、ベテランの教員に怠惰を指摘され、押し黙るような光景だった。
その光景をぐるりと眺めてから、クワノが続ける。
「だが、それは仕方のないことなのだ。そもそもこの本は、君たちの理解の範疇にあるものではない。この本こそは、新たな世界を作る真の神話の中に存在するものそのものであり、私とて、この本の価値を全て理解しているわけではないのだ。この本の価値を全て理解しているのは、おそらく神そのもののみであろう」
当然、それは責任者を含む研究員たちには理解の出来ないことだった。だが、責任者は歯を食いしばることでしかそれに対する不満を表現することが出来ない。『アンノーン手稿』が何なのかを解明できていない以上、クワノの言葉を否定することが出来ないのだ。
「質問には答えた。では、これで失礼する」
クワノは責任者に背を向ける。
そして、信者達の間をすり抜けようとしたその時、思い出したように足を止め、言った。
「『だいばくはつ』」
その瞬間、轟音と、地面を揺らす地響きが、研究所を襲った。研究員達はかがめていた身を更に屈める。
そして、砂埃をまとった強い爆風が、割れた窓から研究所に逃げ込んでくる。それらは割れた窓を更に砕き、砂煙とともに舞う。
黒尽くめの男たちはそれに驚いた。それは、彼らには伝えられていない、彼らの知らぬ行動だった。
「野郎……!」と、黒尽くめの男の一人がクワノを睨んだ。自分だけではない、自分のパートナーであるゴルバットが、それに巻き込まれたらどう責任を取るというのか。
だが、クワノの信者達がクワノを守るようにそれに立ちふさがった。彼らもそれらで無事なわけではない、砂埃や砕けた細かいガラスが目や鼻に入ったものもいるかも知れないし、それによって血を流しているものも存在しているかもしれない。
ただ、信者達はその痛みや怒りをクワノにはぶつけない。彼らにとって『教皇』クワノ一世のなすことは全て正義であり、それで自らの身が危ぶまれることがあっても、それはクワノが制裁すべき間違った歴史が悪いのだと、こころより思っている。
研究員達は、その爆発が『アンノーン手稿』の見つかった場所『アルフの遺跡』で起こったことを確信していた。クワノが神話や文化を敵視することを考えれば、それは当然のことだろう。
「やぁ、やぁ、やぁ。ごきげんよう、愚かな賢者たちよ。神とその子が作り出す新たな世界でまた出会うことがあったならば、そのときには、君たちは我々にとって有意義な存在であることを、心から願う」
クワノは、研究所を後にしながら続ける。
「追うのだ、我らを導く、ことわりの会話を」