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キッサキシティでは、季節外れの雪が吹雪いていた。
春の訪れを告げる強烈な風がはるか遠方からそれらを運び、雲の隙間から薄く照る日が、キラキラとそれらを弄んでいる。
その光景は、キッサキの最深部に存在するキッサキしんでんの前でも同じだった。そして、それは特に珍しいことではなく、人々もそれには慣れ親しんでいる。
だが、何人もの警察官、ポケモンレンジャー、そして、キッサキジムのジムリーダーであるスズナが神殿を囲むその光景は、人々の知るところではない。稀に神殿から迷いでたポケモンをスズナが少し懲らしめて神殿に追いやることはあったが、それにしてもここまでの規模ではない。
キッサキの住人は、それを分厚いガラス越しに眺めるしか無かった。警察とレンジャーは住民に避難勧告を発令し、住居が神殿に近いものはキッサキジムへ、そうでないものは家屋への避難を義務付けていた。
なにかとんでもないことが起きている。
住民たちはそう確信していたが、それが何なのかは掴めない。
人が多く避難しているキッサキジムでは、ああでもないこうでもないと真実や偽りが囁かれていたが、そのどれもが、住民の確信を得るものではなかった。
キッサキジムリーダーのスズナは、警察とジムトレーナーに目を配りながら、不安げな表情で神殿を眺めている。普段の明るく快活な彼女のイメージとはかけ離れているが、吹雪であるのにスカートから生足を覗かせるスタイルはそのままだった。
キッサキしんでんを前に、スズナがそのような表情を見せることは、実は少ない。彼女は、若くしてキッサキしんでんに入ることを許されている数少ないトレーナーの一人であるし、野生のポケモンに遅れを取ることはほどんどない。
だが、彼女は悪を持った人間に対する対処に対してはまだまだ経験が足りてはいなかった。悪意もなく、ただ気まぐれに神殿を出てきてしまったポケモンへの対処と、悪意を持つ人間の対処は当然違う。
そして、今彼女が目の当たりにしている状況は、まさにそのようなものだった。
しかし、警察やレンジャーに任せておけばいいという問題でもない、悪人に対する対処に優れた彼らも、ポケモンに対する対処がスズナと同等かそれ以上に優れているとはとても言えないからだ。今想定される『悪意を持ち、なおかつ世界でもトップクラスに優秀なトレーナー』に対して優位に立てることはないだろう。
それぞれが自分の専門分野に自信を持ちながら、対処すべき相手に完全なる自信を持つことが出来ない状況だった。
だが、そこに救世主が現れる。
「代わりは無い?」
そう言ってスズナに声をかけたのは、シンオウリーグチャンピオン、シロナだった。その口ぶりこそ余裕を携えたものだったが、その節々にはやはり多少の緊張が見えた。
「シロナさん!」
だが、スズナはそれを気に留めなかった。悪人に対する対処を持ち、更にチャンピオンとしての風格を持つシロナの到着に、彼女以上に喜んだ人間はいないだろう。
神殿入り口の前に陣取る警察やレンジャーも、シロナの登場を快く迎え、緊張ばかりだった現場に、多少の余裕が戻っているようだった。
「状況は?」
説明を求めるシロナに、スズナは彼女のためにまとめていた情報を提示する。
「今朝、何らかの集団が、キッサキシティを訪れたんです。そして、彼らはキッサキしんでんに無理やり押し入りました」
「集団であることに間違いはないの?」
「間違いありません、神殿を警備していたポケモンレンジャーが確かに確認しています」
「となるとやっぱり」
集団、押し入り、そしてキッサキしんでん、それらスズナの情報から、シロナは自らの脳内にあるある情報を思い浮かべる。
同じことを思っていたのだろう、スズナもそれに頷いて答える。
「『教皇』クワノ一世とその信者達で間違いありません」
その言葉で、シロナは目を伏せた。
『教皇』クワノ一世を自称する男と信者達。それらの存在について、シロナとスズナはよく知っている。
否、シロナやスズナに限らず、シンオウに生活拠点を置く人々は、意識せずとも、その名を聞く日々が続いている。
彼らは『教皇』クワノ一世を中心に世界の真実をあらわにする事を目的とする宗教色の強い武装集団で、ギンガ団残党やアウトローを吸収し巨大化、いぶんかのたてものやロストタワーなど、信仰に関わる施設を襲撃し、破壊し続けていた。
「やはり、狙いはレジギガスでしょうか?」
「ええ、おそらくはそうでしょうね。彼らはシンオウ神話に敵意を持っているから」
シロナの脳裏に、変わり果てた故郷の姿が甦った。
クワノはシンオウ神話と、それに基づく遺跡を明確に敵視しており、シロナの故郷であるカンナギタウンも、その毒牙にかかったのである。幸い住民に被害はなかったが、それでも、歴史的に価値のある遺跡の一部が失われた。
「ここで終わらせるわ」
シロナは、顔を上げてキッサキしんでんを睨みつけてそう言った。彼女は、ここでその集団を捕縛し、それまでの騒動に決着を付けるつもりだった。
その宣言を聞いて、スズナも、その周りにいた警察やレンジャーも、彼女を頼もしく思った。彼女がそう願うのならば、それは確実に叶うのだろうと、彼女らは思っていた。
だが、シロナは再び目線を下げた。雪をきらめかせる陽の光が眩しかったからだけではない、彼女はまだ揺れ動く気持ちを制御しきれていなかったのだ。
もう一度顔を上げ、まだ誰もいないキッサキしんでん入り口を見つめて彼女はつぶやいた。
「クワノ先生、どうして……」
☆
その巨大な体が石張りの床に擦れ、そのポケモンはそのまま地下室の壁に激突する。
あまりの衝撃にその遺跡全体が大きく響き、天井から塵や埃が音を立てて降り注いだ。
だが、松明を片手に地下室に集まったその集団は、それに何一つ動揺してはいなかった。彼らはフードや帽子に降り注いだ塵をうっとおしく思うこともなく、そのポケモンと、そのポケモンを吹き飛ばしたトレーナーをただ一心に見つめている。
トレーナーは、ポケモンをボールに戻す。
松明に照らされて伸びる影と同じように、その男は人並み外れて巨大な男だった。それでいてボロボロの服と外套をまとい、顔を覆う縮れた髪とヒゲには、泥と土埃が付着し、とてもではないが清潔とは言えない。
だが、松明を持った集団はその不潔な男に尊敬の念を込めた感嘆を上げた。その集団が、その男を尊重していることは、誰の目にも明らかだった。
「その目に焼き付けるといい!」
男は、その巨体に見合う大声を張り上げ、その集団にポケモンをみることを促す。
そのポケモン、レジギガスは体をゆっくりと起き上がらせると、石畳を踏みしめながら男のもとに歩む。
集団は今度は恐怖の声を上げた。彼らの知るレジギガスは、大陸を引いてシンオウ地方北に移動させた伝説のポケモンであり、シンオウ神話に登場する神のひとりでもある。それが、ポケモンをボールに戻し無防備になっている男に向かって距離を詰めているのだ。
だが、レジギガスはその男を横切った。彼はそのまま元々自分のいた場所に戻ると、動きを止め、おとなしくなる。
それまで激しく点滅していた六つの目のようなものからは、完全に光が消えた。
男は、それを鼻で笑ってから、集団に体を向ける。
「これが、神と呼ばれるものの真実なのだ!」
その声は、地下遺跡の壁を反響し、独特の雰囲気を持って集団に届けられる。
それまではその光景に数々の声を上げていた集団は、一斉に口をつぐんで、その男の次の言葉を待つ。
その男、『教皇』クワノ一世は、それを確認してから両手を大きく広げて続ける。
「古のときより語られ続けていた教えを、私は今、それが人の手によって無より生み出された恥ずべき偽り……真実を知らぬ憐れな子供たちを手中に収めるための道具としての物語であったことを証明した!」
集団、『教皇』の信者たちは、松明を振り回しながら歓声を上げてそれを歓迎した。
クワノは、それに調子づくように更に続ける。
「かつてこのポケモンが大陸を引いたなど、どうして信じることができようか! 私達がその目で確認したのは、我々から逃げ惑うただただ無様なだけのポケモンだ!」
信者たちは、それぞれの同意の言葉を紡ぎながらそれに答える。地下遺跡を反響するそれらは、やはり大きな力のうねりとなって彼ら自信を鼓舞する。
「我らの立つこの地、シンオウの神話など、恥を知らぬ異端の穢れによって作られた、真実からの逃避でしか無い! アグノムもユクシーもエムリットも、ディアルガもパルキアも、そして、アルセウスやギラティナすらもただのポケモンであり、その根本はムックルやビッパとかわりはしないのだ! 恥を知らぬ異端の穢れは、かつて教えられたその虚構にすがり、今日この日まで、明らかな真実から、いびつに目を背けてきた!」
それは、シンオウに住む人々からすれば、かなり大胆な、それこそ神をも恐れぬ発言だった。
事実、現代を生きるシンオウ人全てが、シンオウ神話全てを鵜呑みにしているわけではないだろう。だが、たとえ神話をばかにするようなシンオウ人でも、ディアルガやパルキア、そしてレジギガスのように、人智を超えたはるかな力を持っていると考えられる存在を、ムックルやビッパのようなポケモンとさして変わりはしないと言われ、それを純粋に肯定することが、果たしてできるだろうか。
だが、信者達は松明を振ってそれを肯定する。そこには、否定や困惑などかけらも存在しなかった。
彼らは、自分がシンオウやその近辺の地域の中でも数少ない、神話の真実を、本当の感覚を知っている人間の一人だということに、心の底から酔いしれいていた。彼らは目の前の『教皇』がこれから自分達にそれを提示し続けてくれることをかけらも疑っていない。事実、クワノ一世は神の一人であるはずのレジギガスを子供扱いし、完全なる敗北を与えたのだ。
満足気に響き渡る歓声を感じていたクワノは、一つ表情を悲しげなものに変えてから、両手で信者たちのそれを制した。
「かつて、私もそうだった」
それを聞いた信者たちは、再びボルテージを上げる。クワノ自身が過ちを認めるそれは、それから先に紡がれるさらなる興奮への序曲であることを、信者である彼らは知っているからだ。
「かつての私も、シンオウに伝わる神の物語が偽りであるかもしれない恐怖から目をそらすことで、シンオウの教えの導師として生きていた。神の物語を偽りだとただ純粋に信じるには、私達にとって神の存在というものが、あまりにも遠い存在だった」
更に続ける。
「だが、私は神を知ったのだ! 神が生み出した神の子の力を私は目の当たりにし、神の子の手足になることを誓った!」
なんの証明もなければ、根拠もない言葉だった、だが、シンオウの神がただのポケモンであることを知り、それが偽りだと知った信者たちにとって、その言葉は限りのない真実だった。
「皆にも、神の加護を与えよう。神の子が持つ力の恩恵を、私と同じように迷えるだけの存在だった君たちに与えることが、私に与えられた神の使命なのだから!」
信者達はそれ以上無いほどの歓声を上げながらそれに同調する。それを当然のように受け入れながら、クワノはその演説を締める。
「神の子のため、我々はカントーに向かう!」
おお、おお、と、信者たちは腕を上げ、それを肯定し、その共同体を奮い立たせることを目的とした声を上げる。
クワノは膝を付き、両手を広げたまま遺跡の天井を眺める。不揃いな両の瞳は、その先に神がいることを疑っていない。
「追うのだ、我らを導く、ことわりの会話を」
☆
吹雪は、止んでいた。
警察隊の責任者の声が、スピーカーで拡散され、その集団に届いていた。
曰く、君たちは完全に包囲されているだの、おとなしく投降しろだの、大体そのような言葉が、彼らの耳には入っているだろう。
だが、信者たちは、それに耳をかそうとはしなかった。彼らにとって耳を貸すべき価値のある言葉はクワノ一世のものだけであり、それ以外の言葉などなんの意味もなしてはいなかった。
「愚かな」
信者たちをかき分け、神殿入り口に姿を表したクワノは、一言そう言って、不揃いな両の瞳で、ぐるりと彼らを見回す。
やがて彼は、自分達の正面に陣取るスズナとシロナに気がついた。
「やぁ、やぁ、やぁ」
シロナと目を合わせたクワノは嬉しげに笑うと、胸ほどにまで伸びた縮れたヒゲを撫でた。
それと相反するように、シロナは険しげな表情をクワノに見せる。
「愚人よ!」
クワノは大声でそう言って、警察隊の責任者を方で制するようなジェスチャーを取る。
「少しの間だけでいい、その聞くに堪えない稚拙な叫びを止めてはくれないか。私は、あのお嬢さんと話がしたい」
その巨体にふさわしいハリのある大声は、スピーカーを通した警察隊責任者のものより大きく、彼は、スピーカーを持つその手を、その声を、思わず止めてしまった。
それほどの威圧、パワーが、クワノの声には宿っていたのである。
「やぁ、やぁ、やぁ」
挨拶だろうか、それとも笑っているのだろうか、スズナは、クワノ一世のその声に身震いする。
だが、シロナはその声が、彼が機嫌がいい時に発せられるものだと知っていた。
彼女は、先陣を切る。
「クワノ先生! 一体あなたに何があったのですか!?」
その場にいた人々はそれに驚いた。
クワノ一世がかつてシンオウで立場のある人間だったことはすでに有名だった。だが、考古学者として、そしてトレーナーとして有名なシロナが、先生と敬称をつけて呼ぶほどの人間だとは思っていなかったのである。
それは、クワノの信者達の前ではあまりいい効果のあるものでなかった。やはり、自分達の信じる『教皇』は、あのシロナに先生と呼ばせるほどの人物なのだと、その狂信に、さらなる根拠を与えるものだった。
だが、クワノはそのような小さなことを気にする様子はなかった。
「憐れなシロナ君、私は何も変わらないさ」
「そんな事はありえません! あれほど熱心にシンオウ神話や他地方の文化に精通していたあなたが、どうしてこんな酷いことを」
シロナの記憶の中にあるクワノは、その巨大な体格に見合わず優秀な考古学者だった。複雑でいくつもの解釈が存在するシンオウ神話を専門に、各地方の神話にも精通した最も尊敬すべき学者の一人だったのだ。
そして、その巨大な体格に見合う優秀なトレーナーの一人でもあった、歴史を守る番人として、ギンガ団がシンオウ地方を蹂躙しようとしていた時、先陣を切ってそれに抵抗しようとした勇敢なトレーナーのひとりでもある。
だが、今のクワノにそのような面影はなく、おそらく本人にも、そのような自覚はないのだろう。
「やぁ、やぁ、やぁ……酷い、とはね」
クワノは笑った。人を小馬鹿にする、呆れを強調した笑い。
シロナは歯を食いしばった、そのような笑い、以前のクワノは絶対にしなかった。
「酷いのは、偽り神話を作り出した過去の人々のことを言うのだ。彼らが作り出した神話がそのまま文化となり、かつての我々の生活に根付いていた。神の名を語った偽りの物語、忌むべきものだ」
一泊置いて、シロナが何も返してこないのを確認してから続ける。
「我々は今、本物の神話の中にいるのだ。本物の神と、その子が作り出す本物の神話の、その中に」
「何を馬鹿な」
「私は本物の神を見たのだ!」
突如目を見開いて叫んだクワノに、あたり一面は一斉に声を失う。
「私は、人生の大半をシンオウ神話に費やした! そこにある神の物語が、尊重すべき威厳に満ち、ポケモンとは一線を画す神聖なる生物たちの物語だと信じていただからだ! だが、現実はそうではなかった。神の物語とされていたものは、その全てが作られたものであり、私が神だと信じていたものは、ただのポケモンだった。私を裏切ったのは、シンオウ神話なのだ! 本物の神に出会った今、作り物のシンオウ神話は忌むべきものでしか無い! それを後世に伝える遺跡もまた同じなのだ!」
シロナは、クワノのその言葉に、なにか論理的に答えようとしたが、だが、それはできるはずのないことだった。
クワノの言葉を否定するには、シンオウ神話の存在を真のものとして証明しなければならない。だが、当然それができる訳がない。
もはや説得は不可能なように思えた、かつてのシロナの知るクワノはもうそこに存在せず、そこに存在するのは、シロナの知らぬ『教皇』クワノ一世でしかない。
「先生!」
だがシロナは、それでもクワノを説得できないものかと思考を巡らせた。ここで犯罪者として捉え人生を終わらせるには、クワノの知性と実力は、あまりにも惜しいものだった。強さと知性を兼ね備えるシロナと、精神的に同格に付き合うことのできる数少ない人物だった、故に、彼女はまだ、クワノの精神面を信じていた。
だが、彼女の願いは叶えられそうになかった。クワノの賞賛すべき精神性はある意味でその強さをそのまま持ったまま、『教皇』クワノ一世を作り出している。
クワノは、シロナの叫びを無視して言う。
「残念だ、もし君が我らと共に新たな世界に身を投じる勇気さえ持っていたならば、私は快くそれを受け入れようと思っていたいのに」
そして、彼は腰のボールに手をやって、それを神殿入り口を囲う警察やレンジャーたちに向かって放り投げる。
彼らは、本能的にボールを投げてポケモンを繰り出した。それが、ポケモンを使う凶悪な犯人に対するマニュアルであり、トレーナーとしての本能でもあった。
クワノ一世が繰り出したのは、三体のポケモンだった。それぞれが岩、氷、鋼の肉体を持ち、六つの目のようなものは激しく点滅している。
「防御を!」
それがレジロック、レジアイス、レジスチルであることを見抜いたシロナは、全体に向かってそう叫んだ。
だが、それはもう遅く、ポケモンを繰り出したトレーナーの多くは、すでに攻撃の命令を出している。
シロナはトゲキッスを繰り出し、それに備える。
クワノ一世の声が、届く。
「『だいばくはつ』」
その瞬間、現れた三体のポケモンは、一瞬カッと光ったかと思うと、けたたましい音を立てて激しい爆音と衝撃を生み出した。
あまりの爆風に、シロナとスズナは体が浮き上がるのを感じ、次の瞬間には背中から地面に叩きつけられる。
一瞬、彼女らの肺はその機能を忘れ、膨らんで息を吸う事も、縮んで息を吐くことも出来ず、彼女らに永遠とも思える苦しみを与えた。
しかし、シロナはいち早くそれから回復して迎撃の体制を取らなければならないと焦っていた。クワノ一世によるその次があるかもしれないからだ。
素早く繰り出したポケモンによってそれに対応した彼女たちですらそうなった。他にもポケモンを繰り出して彼らを守ろうとしたとは言え、警察とポケモンレンジャー達がどうなったかはわからない、だが、全くの無事というわけではないだろう。
「やぁ、やぁ、やぁ。ごきげんよう」
衝撃によって生まれた土煙の向こう側から、クワノ一世の笑い声が聞こえた。
「追うのだ、我らを導く、ことわりの会話を」
☆
トキワシティ、トキワジム。
休日らしく朝はのんびりしていようと考えている住民たちがまだ浅い眠りを繰り返している頃、その対戦場では二人のトレーナーと、二匹のポケモンが向き合っている。
「『ひっかく』!」
トキワジムトレーナーのコウタは、相棒であるサンドにそう指示を出した。
サンドはカイリキーの向かって飛び上がり、爪を振りかざす。よく手入れされたその爪で攻撃されればタダではすまないだろう。
「『ビルドアップ』」
グリーンの指示によって、カイリキーは上体に力を込めた。血流を送り込まれて膨らんだ筋肉が攻撃に備える。
鍛え上げられた胸板にサンドの爪が突き立たてられたが、浅い傷跡しかつけられない。
体制を崩さなかったカイリキーは、すぐさまに攻撃の準備を整える。右上腕が振りかぶられていることに、コウタもサンドも気づいた。
「『まるくなる』!」
「『からてチョップ』」
危機を感じたコウタの指示が一瞬早く、サンドは体を丸めて柔らかい腹を守った。
硬い外殻にカイリキーの手刀が叩きつけられる。その硬さにカイリキーは一瞬顔を歪め、グリーンはコウタの判断の速さに感心したように頷く。
コウタがトキワシティのジムトレーナーになってから初めての朝練、初めての手合わせだった。コウタも気分が高揚し、より集中できているのだろう。本当にトキワジムに挑戦してくるようなトレーナーと遜色のない判断だった。
「『ころがる』!」
カイリキーの攻撃を防いだことに気を良くしたのだろう、コウタは更に指示を続ける。
サンドは丸まったまま床を転がって勢いをつけると、カイリキーに向かって突っ込んでいく。
カイリキーはそれをかわさない、むしろ両足で地面を踏み込み、それを迎撃する体勢を取る。
飛び込んできたサンドを、カイリキーが胸と四本の腕で受け止めた。
コウタとサンドはそれが会心の攻撃だと思っていた。だが、カイリキーはそれに表情を歪めることなく、ぽーんと、ボールになったサンドを宙に放り投げた。『ころがる』攻撃は失敗に終わる。
真上に放り投げられたサンドは、軌道を変えることが出来ない。彼はそのまま重力に従い、素直にカイリキーの思うままに落下する。
グリーン側に戦況をコントロールされていることをコウタはすぐに察した。
「『ずつき』!」
急な指示だったが、サンドはすぐにそれを受け入れた。遊び場の一つであるウバメの森で、木の上にいるポケモンを落とす遊びのために散々繰り返した慣れ親しんだ攻撃だった。
だが、カイリキーはその上方からの攻撃をニ本の腕でガードした、コウタはそれに驚くが、そのような強行はグリーンからすれば見慣れたもので、真っ先に警戒すべきものだった。
「『じごくぐるま』」
カイリキーは残った二本の腕でサンドを掴み、そのまま体を大きく反ってサンドを地面に叩きつけた。
サンドはすぐさま起き上がって戦闘態勢を取ったが、コウタはその一連の動きに動揺してしまい次の指示を出せない。
そこで、鳴き声とともにピカチュウがそれに割って入った、両手を広げ両者を制する。
「このあたりで終わっておこう」と、グリーンが同じように両手を広げて言った。
サンドはまだ戦えると言った風にステップしてそれに抵抗してみたが、コウタは「わかりました」と、悔しげにいいながらそれを受け入れる。
カイリキーの『じごくぐるま』がその威力をセーブされたものだったことは誰の目にも明らかだった。
「前に比べればだいぶマシになってる」
ジム内の回復施設室でサンドとカイリキーを回復させながら、グリーンはコウタに言った。
「はい」と、コウタは少し複雑そうな表情で答える。マシになっていると言う部分では喜ぶべきだが、前回と比べると、と、つけられると素直に喜べない。
「よく勉強したんだな」
コウタの表情に気づいたグリーンは、自身の口調に反省しながらそう言ってコウタの細い髪の毛をくしゃくしゃっとかき回した。
ようやくそれで、コウタの表情に笑顔が浮かぶ。
誰でもあんたのような天才肌やと思うなや、と、アカネに耳にタコが出来るほどに聞かされた助言を、彼はまだ徹底しきれてはいなかった。
若くしてポケモンリーグを制したグリーンの才能と、標準か、もしかすればそれにやや劣るかもしれないコウタの実力と成長のバランスを上手く取るのは、彼が思っていたよりも難しかった。
成長はしているし、間違いなくそれは彼の小さな努力の積み重ねの賜物なのだろう。だが、グリーンの思う理想とは、まだそれはあまりにもかけ離れている。
「だが、知識をひけらかすような戦いをするな」
グリーンの言葉に、コウタは首を捻った。何かを咎められていることは理解が出来るが、それが何を指しているのかがわからない。
音楽が鳴り終わった回復装置の安全ロックが外される。
グリーンがそれに反応するよりも先に、足元のピカチュウがぴょんとそれに飛び乗り、二つのボールをそれぞれにトレーナーに手渡した。
二人がそれぞれピカチュウに礼を言ってから、グリーンが続ける。
「『まるくなる』からの『ころがる』は意識してやったろ?」
「はい」
コウタはそれに頷く。
「その方が威力が上がるので」
『ころがる』という技は、その名の通り地面を転がる勢いで攻撃するもので、当然ポケモンが球体に近ければ近いほどよりスムーズな攻撃に移行することが出来る。つまり『ころがる』攻撃の前に『まるくなる』事ができれば、その威力を増すことが出来る。コウタの故郷であるコガネシティのジムリーダー、アカネが得意としている戦術に一工夫を加えた有力な戦術だった。
だが、グリーンはそれに首を振る。
「駄目だ、カイリキーと『ころがる』は相性が悪い。確かに『まるくなる』からの『ころがる』は強力な連携だが、しっかりと相手を見て使わないと行動を縛られるだけになる」
グリーンの指摘は、ある程度のレベルがあるトレーナー達の中では正しいものだった。
『ころがる』は岩のような突進力を持つ攻撃だが、岩を砕く肉体を持つ格闘タイプのカイリキーには相性が悪い。『まるくなる』によって威力が底上げされているとはいえ、いい選択肢ではなかった。
さらに、『ころがる』という技の弱点は、勢いに任せる攻撃であるために、相手の行動を見てからの柔軟な対応が難しくなることだ。事実、先程の手合わせに置いてサンドとコウタはカイリキーの動きに対応することが出来なかった。
「戦略の豊富さを含め、知識は大事だ。だが、知識に状況を合わせるようでは駄目、状況に知識を反映させるんだ」
コウタは不安げに首をひねった。グリーンの説明の意味がいまいちつかめないのだ。
「まずはトレーナーと戦うことに慣れろ」と、グリーンはコウタの方に手をやりながら続ける。
「全てを経験してまずは慣れるんだ、戦うことに慣れてくれば、知識を使う余裕もできる」
今は慣れろ、との言葉に、コウタは「はい」と答えた。その先のことはわからない、グリーンを信じる他ないのだ。
だが、彼は不思議そうにもう一つ続ける。
「グリーンさん、どうしてサンドしか使っちゃ駄目なんですか? 俺は格闘タイプ相手にはオニスズメを考えていました」
それはコウタにとって当然の疑問だろう。手合わせの前、グリーンはコウタにサンドを繰り出すように言い、コラッタやオニスズメを繰り出すことを禁止していた。格闘タイプにはオニスズメのような飛行タイプのポケモンが相性が良いことを彼は知っていた。
グリーンはそれに答える。
「サンドは今のお前と一番相性がいいんだ。コラッタやオニスズメじゃトレーナーのスピードについていけないだろうが、サンドはある程度スムーズにお前の指示を守る。まずはサンドとの連携でポケモンと共に戦う感覚を覚えるんだ」
「なるほど」と、返事ではそれを肯定したが、コウタは小さくないショックを感じていた。
ポケモンと共に戦う感覚を覚える。コウタはそんな事を考えたことがなかった。彼はこれまでオニスズメやコラッタと共に戦っていたと思っていたし、それを疑ってはいなかった。だが、そのグリーンの言葉は、コウタはそれら二匹の相棒とはこれまで共には戦っていなかったのだとハッキリと宣告するものだったのだ。当然、腑に落ちるものではない。
本人がそれを意識しているわけではないが、グリーンはまだ優れた教育者ではなかった。
うつむいてしまったコウタのそのような気持ちを知る由もなく、グリーンは彼の肩を叩いて言う。
「今日はこの後ヤマブキの方に行こう。ちょっと用事を一つ済ませて、その後にいい肉食わせてやる」
現金なものだが、コウタは少しだけ表情を明るくさせた。
☆
かつてのシオンタウンを知る者は、ここ数年でのシオンタウンの変わりように驚いているだろう。
町の象徴であった慰霊施設ポケモンタワーがラジオ局を含むメディア施設に改装され、流行の発信地となりつつある。心なしか空が明るくなったような雰囲気となり、数年前までは幽霊騒ぎが起こって当然の真実として語られていた町からは脱却しつつある。
「少し自由にしててくれ」
ある施設の前で、グリーンはコウタにそう言った。
「あまり、気分のいいもんじゃないだろう」
コウタは『たましいのいえ』と刻まれたその施設と、グリーンの片手にある大人しめの花束を見比べて小さく戸惑った。ジョウト地方、コガネシティ出身の彼は、シオンタウンがかつて大規模な慰霊施設があった場所であることを知らず、その施設を目の当たりにする瞬間まで、グリーンの用事がそのようなことだとは微塵も思っていなかった。
「あの」と一つ呟いてから、コウタは言葉を詰まらせる。その施設とグリーンを前に、次に何を言えば良いのか分からなかった。
その様子から察し、グリーンが答える。
「ポケモンだよ」
「ポケモン、ですか」
「ああ、ポケモンだ」
「ポケモンの、お墓ですか?」
「ああ、そうだよ。ちょっと前までは、あの塔全部がそうだった」
そこからでも見えるシオンのメディア施設を眺めて、グリーンが感慨深そうに言う。
「随分と変わったんだよ、ここは」
ピカチュウを肩に乗せ、たましいのいえに入ろうと背を向けたグリーンにコウタが「あの」と、声をかけた。
「俺も、ついて行ってもいいですか?」
それがグリーンの気分を損ねるかもしれない、その後のいい肉がフイになるかもしれない言葉だということは、コウタも理解している。
だがそれ以上に、殿堂入りトレーナーグリーンと、ポケモンの墓というものが、コウタの感覚からはあまりにもミスマッチだった。
興味がある、と言ってしまえば聞こえが悪い。だが、その時のコウタの心境を最もよく表そうとすれば、そうなるだろう。
グリーンは、一瞬返答に悩んだ。コウタの提案に悪意を感じたからではない。こんなのについていっても面白くないだろうにと、彼はそれを不思議に思っていた。
だが、別にそれを断る理由もない、用事の後にコウタを探す手間を考えれば、むしろその方が良かった。
「別にいいけど、あまり面白いもんじゃないぞ」
「大丈夫です」
「じゃあ、まあ、良いけど」
不思議そうな表情をしながら、グリーンは『たましいのいえ』に足を踏み入れた。