2.
それは、周りと比べて小さな墓石だった。欠けていたり、薄汚れていたりするわけではない、ポケモンの本格的な墓標というものを初めて目の当たりにするコウタでも、綺麗にしているんだなと思えるほどに。だが、その墓石は、周りと比べて小さかった。
その小さな墓の前に、グリーンとその手持ちのポケモンたちが並んでいた。サンダースはともかく、最終進化系であるピジョットとフーディンが並ぶと、その墓石の小ささがより引き立つ。
グリーンは花束を解いて、それぞれ一輪づつ、ポケモンに手渡していた、ピジョットとサンダースはそれを加え、フーディンは二本のスプーンを一旦右手にまとめて左手にそれを持ち、それぞれその墓石の前にそれを備え、少しだけ静かに目をつむった後に、ボールの中に戻っていく。
「お前も」と、グリーンはまだ余裕のある花束の中から一輪、ピカチュウに向けて差し出した。
「あいつも、喜ぶだろうから」
ピカチュウは、一つ小さな鳴き声を上げてからそれを受け取った。そして、サンダース達がそうしたようにそれを備え、少しだけ目をつむり、何かを思った。
「三番目の、相棒だったんだ」
残った花束を再びまとめながら、グリーンはどこかに投げかけるようにそう呟いた。
それは当然、彼らの一歩後ろにいるコウタに向けられたものだろう。休日だと言うのに『たましいのいえ』には人がまばらで、グリーン達の周りには他の利用者はほとんどいなかった。
「グリーンさんの、手持ちだったんですか?」と、コウタは少し声を抑え、それでも驚きを含めながら答えた。
「そうだよ」
ぐるりと周りを見渡してから、更に続ける。
「元気のいい、ラッタだった」
ラッタ、という単語に、コウタはピクリと体を反応させた。自身の手持ちであるコラッタの、進化系であるポケモンだった。
「どうして」と、コウタが問う。
「ポケモンは、瀕死になっても回復できるじゃないですか」
「生きていればな」
グリーンは少しうつむいて続ける。
「いくらポケモンセンターでも、死んだポケモンを甦らせることは出来ないんだよ」
そんな事くらい、コウタだって分かっているだろう。彼が知りたいのがその先であることは、グリーンも理解している。
そして、彼は遠くを眺めるような視線を飛ばしたのちに、その先を続ける。
「イーブイやピジョン、ケーシィと違って、コラッタとラッタは、生物としての成熟が他の種に比べて早い上に、前歯での攻撃が強力だ。虫ポケモンはそれと同じかそれ以上に成熟するが、ラッタに比べると有効な攻撃手段を持たない」
コウタは、その説明がそれとどう繋がるのかがわからない。だから、沈黙で次を促す。
「だから、アイツに頼ることが多かった。少しでも戦況を悲観的に感じれば、すぐにアイツを繰り出して、その前歯に頼った」
無理をさせすぎたんだ、と、グリーンは続ける。
「アイツの元気に、アイツのハートの強さに、頼りすぎていた。気がつけば、アイツは冷たく、固くなっていて、ポケモンセンターに連れ込んでも、首を振られた」
コウタは、それでも信じられないと行った風に、グリーンを見ていた。彼の中でポケモンというものは、どれだけ傷ついても、どれだけ弱ろうとも、ポケモンセンターの回復装置に入ればすぐに元気になる。そう考えること自体は道徳や倫理に反することを理解していても、実質的には、そのような存在だった。
そんなポケモンを、本当に冷たくなってしまうまで疲弊させてしまうだなんて、コウタには想像することが出来なかった。どれほどのレベルの戦いを、そして、どれほどの数の戦いをこなせば、そうなってしまうのだろう。
「全部、俺が悪いんだ」
そう言ってから、グリーンははっとしたように顔を上げた。その言葉が滑り出してしまったことに驚いていた。
それは、彼が何度も頭の中で考えながら、しかし、誰にも打ち明けたことのない感情だった。グリーンの周りにいる常識的な、不躾とは最も離れたところにいる友人や知り合い達は、そのことについて誰も触れなかったし、もしそれに触れてくるような不躾な人間を、グリーンは軽蔑し、本心では語らなかっただろうから。
参ったな、と、グリーンはため息を鼻から抜いた。付き添いがいることで、思った以上にナーバスになっているようだった。
だが、グリーンはそれより先を続けた、それを言うことで感じる痛みなんて、比べればなんてことがないと思った。
「俺達は、トレーナーだ」
それをコウタがしっかりと耳に入れていることを信じながら続ける。
「もし、自分の限界を越えようとしているポケモンがいれば、たとえそいつに恨まれようとも、もしそれで戦いに負けてしまおうと、引くべき時がかならずあるんだ。なりふり構わず向かっていくことじゃない、それを受け入れることが、強いトレーナーなんだ」
コウタにそれが届いていることを感じながら、しかし、グリーンは歯を食いしばる。
それは、あのときの自分にこそ言うべき言葉なのだ。あるいは、今の自分にも。
「俺は、あいつを失って初めてそれに気づいた。遅すぎたんだ」
「そんなことは、ありませんよ」
それは、グリーンの背後から聞こえてきた声だったが、彼はそれがコウタのものではないことをすぐに理解した。否、迷いもしなかった。
その年齢を重ねた声は、グリーンにとって世話になった声であったからだ。
「お世話になってます」
振り返ったグリーンが頭を下げた先には、一人の老人がいた。頭は禿げ、真っ白な口ひげが顎を覆う。
コウタは、突然として現れ、そして、不意にグリーンに語りかけたその老人に戸惑っていた。彼は老人というものが時折そのようになんの関係もない話に割り込んでくることがあることを知っていたし、無いより、彼の生まれであるコガネシティは、そのような老人が特に多い土地柄であった。だから、その老人が全く関係がないのにグリーンに語りかけてる可能性を感じたのだ。
だが、グリーンはその老人を自分のスペースに招き入れ、コウタに彼を紹介する。
「この施設の管理人の、フジさんだ」
それに合わせて頭を下げた老人に、コウタも慌てて頭を下げる。もう一度顔を合わせれば、禿に口ひげとではあったが、細くなっている目は、優しげだった。
「こいつはコウタ、トキワジムトレーナーです。今日は付き添いで」
「そうですか。グリーン君がここに人を連れてくるのは珍しいことだから少し驚きましたよ」
ピカチュウが、鳴き声を上げながらフジ老人の足元にすり寄った。彼はそれに気づくと、曲がった腰をさらに曲げてピカチュウを撫でる。
フジ老人は、そのピカチュウの正体に気づいているだろう。自分にも、レッドにも、関わりの深い人物だった。
「まあ、いろいろありまして」
コウタとピカチュウのこと、まとめてそう説明した。
「あなたが、全てを背負う必要はないのですよ」
腰を上げながら言われたその言葉は、グリーンの言葉を否定した続きだった。
「ラッタと貴方の絆は、あなたを立派なトレーナーに成長させた。ラッタの魂も、それを喜んでいるでしょう」
それは、グリーンに肯定的な意見だったし、間違っている意見にも聞こえなかった。同じくそれを聞いていたコウタも、それに頷いて肯定した。それがあまりにも美しい意見だったからだ。
だが、グリーンはそれに笑う。
「そうだと、良いんですがね」
それが愛想混じりの苦笑いであることは、コウタにだってわかった。だが、その理由まではわからない。
残った花束を供え、静かに目をつむったグリーンの脳裏に浮かぶのは、よく見知った幼馴染の顔。
フジ老人の言っていることは、間違ってはいないのかもしれない。
三番目の相棒の死をキッカケに、一回り成長した。その経験があったからこそ、殿堂入りトレーナーとしての自分があり、今の自分もある。そう考えることも出来なくはないし、それが自然で美しい。
だが、その経験なく頂点へと駆け上がった幼馴染の存在は、その美しい意見を受け入れるには、あまりにも大きかった。
無駄死にではないか。
それを考える度に、グリーンはそう思ってしまう。そして、それを考える度に、ラッタの死が重くのしかかる。
きっと知らないだろう。
レッドは、この感情を知ってはいない。
だが、それでも、あいつは駆け抜けた。
☆
「墓、小さかったろ?」
シオンタウンから西に少し歩いた八番道路。ピカチュウを肩に乗せ、今はまだ人気のないそこをコウタと並んで歩いていたグリーンは、照れを隠すように笑いながらそう言った。
「えっ」と、コウタはそれに驚いて目をパチクリさせる。
正直なことを言ってしまえば、その墓石は小さかった。周りと比べて、あまりにも。
その後に並べる言葉に悩んでいるコウタに少し笑って、グリーンはそれを肯定と捉えて続ける。
「有り金全部突っ込んだとはいえ、所詮は子供の小遣いの範疇だからな。あまり豪勢なものには出来なかった。今ならもっと良いものに出来るかもしれないが、どうもその気にはならなくてな」
その説明にコウタは納得した。最も、後半のグリーンの気持ちまで理解できていたわけではない。グリーンも、あえてそうボカしている。
推測ではなく、今のグリーンの経済状況ならば、ラッタの墓をもっと厳かで豪勢なものにすることは可能だろう。それを許されるだけの社会的な格も、グリーンは持ち得ている。それに、それこそが、ラッタの霊に対する最大の敬意だと感じる人間だっているだろう。グリーンだって、それを思わないわけではない。
だが、それをして、ラッタの死が『過去のもの』になってしまうことを、彼は恐れていた。みそぎを済ませたと一瞬ですら思ってしまえばもう、そこにラッタへの敬意はない。
ある意味、罪悪感に心痛めるこの状況こそが、一番いいのではないかとすら思う。
そこまで考えて、どうしてそのようなことを言ってしまったのだろうかと、遅く後悔する。そもそもあの時、コウタがついてくることを拒否していれば、こんな事を考えずに済んだかもしれないのに。
はあ、と、気持ちを切り替えるためのため息を吐いてから、グリーンは一度だけ天を見上げて、今度はふう、と息を吐く。
そして、話題を切り替えた。
「ここをずっと進むと、ヤマブキシティに行けるんだ」
コウタはカントー地方の地理感はないが、それでも、それは理解していた。この後ヤマブキシティに行くと言っていたのはグリーンだし、その彼がこの道を行くのだから、それはそうなのだろうと思っている。
「今から行く鉄板焼き屋のステーキは絶品だぞ、でかい肉をな、目の前で切ってくれるんだよ」
それに元気よく返事をし、嬉しげな笑顔を見せるコウタに、グリーンも同じように笑顔を見せながら続ける。
「この道をもう少しいけば、段々とふっかけてくるトレーナーが増えてくる。この道路はトレーナー達のいい練習場なんだ」
「なるほど」と、コウタは脳天気に言った。確かにこの道路ならば、人通りも多くなく、自然も程よく残っている、自分が縄張りにしていた三十四番道路と同じような条件だ。それならば、トレーナーも多いだろう。
そして、グリーンがその次を続ける。
「お前には、そのトレーナー達と戦ってもらう」
ええっ、と、思わずコウタは叫んでしまった。突然の宣告だった。
「まあ、心配するな。もう無理だなと思ったら俺が止めるし、相手がたちの悪い奴でも俺がなんとかしてやる。せっかく高い肉食うんだ、腹をすかせていこうじゃねえか」
「そんなあ」と、コウタは珍しくその外見らしく可愛らしい悲鳴を上げた。その突然の宣告は、トキワに来て以来緊張しっぱなしであった少年の素を引き出すほどの衝撃だった。
「いろんなレベルの相手と戦うことが重要なんだ。まずは平凡な相手に有利に立てるような基本のセオリーを体に染み付かせ、その後にセオリー破りを考えるんだ」
コウタは自信なさげに、そして少しふてくされたように「はい」と返事をした。グリーンは彼のそのような様子に安心する。ジムトレーナーになって以来彼にあった硬さが少し取れてきているような気がする。
「それじゃあ、行ってみようか」と、グリーンがコウタの肩を叩いたその時だった。
シオンタウンの方向から、大きな爆発音がした。
それに一番早く反応したのは、グリーンの肩に乗るピカチュウだった。彼はすぐさまにグリーンの方から飛び降りると、小さく何度も鳴いて、それが普通のことではないことをグリーンに伝える。
グリーンとコウタも、その音と遅れてきた地鳴りに驚き、一様にシオンタウンの方向を見た。それがシオンタウンの日常ではないことを、彼らはピカチュウがいなくても理解しただろう。
「行くぞ」
それだけ言って、グリーンはシオンタウンに向かって駆け出した。
「待ってください」と、コウタもそれに続く。
ピカチュウは、その瞬発力でグリーンを追い抜くと、彼らを先導するようにかけていった。
シオンタウンの外れ。そこからでも、シオンタウンのざわつきが理解でき、そして、これまで見たこともないような、触れれば掴めるのではないかと錯覚してしまいそうなほどに密集し、どす黒く空に巻き上がる黒煙が、確認できる。
だが、彼らが足を止めたのは、その光景が理由ではなかった。
グリーンもコウタも、その男の出現に立ち止まり、コウタはそれに怯え、グリーンはそれを睨みつけている。
先導していたピカチュウは、頬の電気袋から電撃をほとばしらせながら、その男に敵意を向けていた。そして、その男は、その敵意にひるんではいなかった。
見上げるような巨大な体格、乞食ですら手放しそうなボロボロの服と外套に身を包み、癖のある髪とヒゲは乱雑に伸び、顔の半分を覆っている。
ひと目見ただけで、異様な雰囲気を持った男だった。
そしてその男は、グリーン達のように爆発のあったシオンタウンの中心に足を急ぐわけでもなく、爆発に生命の危機を感じて命からがらにシオンタウンの中心から駆けて逃げようとしているわけでもなく。雄大に、シオンタウンの混乱を背中に受けて満足気に歩いている、とてもではないが普通ではない。
「ピカチュウ!」
グリーンが叫ぶと、ピカチュウはそれに短く鳴き声で返事をし、すぐさまに警戒なステップで、グリーンの一歩後ろでその男に怯えるコウタの前に立つ。
「そいつを守れ!」
その言葉に、ピカチュウから一拍遅れて「はい!」とコウタが返事をするが、当然グリーンとコウタの間には認識の違いがあっただろう。
「やぁ、やぁ、やぁ」と、その男は大きく口を開けて言った。不揃いの両の瞳は、その男が何を見ているのかを分からなくさせていたが、嬉しげに細められている瞼が、かろうじてその男の機嫌の良さを表している。
「神の啓示を受けているわけではないだろうが、それでもここまでの行動を取れるということは、精神世界の中で強く足を踏みしめ、それでいて、傲慢な自意識に陥ってはいないということだろう」
グリーンは、それに何も返さない。だが、いつでもボールからポケモンを繰り出すことが出来るように準備をしながら、その男をにらみつける。
男は続ける。
「神というものは、時に残酷であり、時に祝福も与えるが、仕方のないことなのだ、神の絶対的な意志の前に、私達は、あまりにも力を持たぬ泥人形なのだ。君が神に仇なすモノでなければ、新たな神話を紡ぎ出すここではない新しき概念の中に生誕し、神話の中に生きるべき存在というのは、君たちのような若き少年達であることが、恐れ多くも私が神に乞う願いの一つであったというのに。あぁ、悲しい、なんと悲しきことなのだろう」
「あんた、なにもんなんだ」と、グリーンが一時もその男から目を離さずに問う。だが、それについて明確で納得のできる答えが帰ってくるとは思っていなかった。その男の言うことが、今の段階でも何一つ理解できないというのに。
そうしている間にも、シオンタウンの喧噪は広がりを見せ、黒煙はその質量を増し、何かが崩壊する音が聞こえ、緊急時に出動する車両がその存在を主張するサイレンの音が鳴り響いている。
男は、両手を広げ、グリーンとコウタの疑問を受け止めるようにしながらそれに答えた。
「我が名は『教皇』クワノ一世。恐れ多くも、穢れを知らぬ神の子が、穢れ多きこの世界を探るがための指先」
やはり、言っていることの意味が何一つわからない。
「何をした。これは、お前の仕業だろ?」
「やぁ、やぁ、やぁ」クワノが笑う。
「聡明なる少年よ、あるいは君ならば理解が出来るかもしれない。私が導く子羊達は、それを理解するにはあまりにも聞き分けが良すぎるのだ」
クワノは、大きく息を吸い込んでから続ける。
「ポケモンの亡骸を川に流せば、やがてそれは肉と皮を身に付け、再び戻ってくる。シンオウ地方の、愚かな神のまがい物を信じた愚人の言葉だが、これ自体は、間違った考え方ではない。元来、ポケモンの魂は神のみの理解の範疇の中にあるものなのだ」
故に、と、更に続ける。
「ポケモンの魂を、人間がその手に収めようとすることは、神の持ち物を奪わんとする、反逆にほかならない。たとえ神が大いなる慈悲の心でそれを許そうとも『教皇』である私は、それを許すことが出来ぬ。否、私が『教皇』であり、暗闇を探る神の子の指先である限り、それを許さぬことこそが、私の使命なのだ」
当然、クワノの言うことの意味は一つもわかりはしない。
だが、グリーンは、クワノの演説から、一つの可能性を感じ、そして、あわよくばそれがただの可能性で、ただの思い過ごしであることを願いながら、問う。
「『たましいのいえ』なのか」
クワノは、グリーンを気に入ったように笑顔を浮かべて答える。
「やぁ、やぁ、やぁ。感のいい少年だ。否、聡明な頭脳によるひらめきを感と片付けるのは、あまりにも敬意に欠ける」
そして続ける。
「さよう、私は『たましいのいえ』に鉄槌を下した」
その言葉をすべて聞き終わるよりも先に、グリーンはボールを地面に叩きつけるように素早く投げ、エスパータイプの最上格、フーディンを繰り出した。
「『サイコキネシス』!」
同じく、フーディンが繰り出さられると同時に放たれた指示を、彼は忠実に守って実行した。
得も言えぬ感情が、グリーンを支配していた。人間に向かって技を放つ指示など、これまでの記憶の中に無い。
フーディンならば、それが間違いにならないように、ある程度手加減をしながら、それでいて相手を上手く拘束するような攻撃位を放つことが出来るだろう。だが、そのような保険的考えは、その時のグリーンにはなかった。
だが、間違いは起きなかった。それは、フーディンが手心を加えたからではない。
グリーンが動いたその瞬間、クワノも同じく身を翻し、外套の中からボールを放り、繰り出されたポケモンが、フーディンの前に立ってその技を受けたのだ。
その動きの的確さに、グリーンとコウタは思わず目を見張った。
彼らは、クワノが優れたトレーナーであった過去を知らない。頭のおかしな破壊者が、トレーナーとして素晴らしい動きを見せたことが信じられない。
そして、繰り出されたポケモンの異質さも、彼らの思考を一瞬止めた。
無機質なポケモンだった。
太く大きな胴に、短い手足がついているだけのようなポケモンだった。その半透明に透き通った様子と、そのポケモンの周りに纏わり初めた冷気が、そのボディが氷でできていることを予感させる。
顔に当たるかもしれない部分に埋め込まれたいくつもの点のようなものは、音楽を鳴らしているときのオーディオ画面のようにせわしなく点滅していた。
「レジアイス」と、グリーンは呟いて、クワノとレジアイスの動きに集中する。
その言葉を、コウタは知らなかった。それが、今自分の目の前に現れたポケモンのようなそれの名であることかもしれないことはわかるが、彼はその名を知らない。
彼を守るために電撃の準備をし続けているピカチュウも、そのポケモンの正体を知らなかった。だが、あのフーディンの『サイコキネシス』をまともに食らって、少しもたじろぐ様子がないことから、かなりの脅威であることだけを理解する。
「ほう、このポケモンの正体を知るか」
クワノは感心したように頷いて続ける。
「聡明で知識も持ち得る。更に勇気と、実力を持ち合わせるとなれば、我々に歯向かうその心意気も理解できる。神の子が作る新たな世界に連れて行けぬことは世界の損失だが、最も、君の恐れを知らぬ聡明さは、この下らぬ世界に、ほんの少しだけ彩られた美しい花のようなもの、おいそれと我々に同調するような短絡な生命であるならば、私はそれを美しいとは思わないだろう」
「フジさんはどうした」
「悲観的な主義は、焦りを生み、時として君のような優秀な人間を愚人に変貌させるようだ。何も心配することはない、我々は誰も殺さない。それが、神と神の子の意志である限り」
グリーンに親しみ気な笑顔を投げかけたクワノのスキを突き、グリーンは新たにボールを放り投げ、カイリキーに交代する。
彼は、おおよそこの世に出回っているレジアイスについての情報は理解していた。こおりタイプで、特殊防御力に強みがある。フーディンを確認してからこのポケモンを繰り出したクワノの判断は、何も間違ってはいない。
だが、こおりタイプという条件上、格闘タイプには弱みがある。だからこそのカイリキーだった。
「『クロスチョップ』!」
カイリキーの使える格闘タイプの技でも一、二を争う大技だった。
しかし、それより先にレジアイスが動く。クワノは、グリーンがポケモンを交換し、レジアイスを攻撃してくることを読み切っていた。
レジアイスの動きを察知したピカチュウが、自身の意志でグリーンの前に飛び出した。
「『だいばくはつ』」
カイリキーの手刀が届く寸前に、その指示は敢行された。
巨大なエネルギーが、レジアイスを中心に爆散される。
グリーンとコウタの体は浮き上がり、小さく中を舞って地面に叩きつけられた。
瞬間、彼らは息苦しさを覚えた。内に入り込んだ衝撃が、肺が膨らむのを阻害している。
ゆっくりと、呼吸を取り戻そうとしていたグリーンは、それでも、自分たちへの被害が最小限で終わったことに気づいている。
レジアイスの『だいばくはつ』が巻き起こるその寸前に、自分たちの前に飛び出したピカチュウが『リフレクター』でその威力を考えられる最小限にまで抑えたのだ。
巻き上がる砂煙の向こう側からの攻撃に備え、ピカチュウは電撃をほとばしらせながら、その先をにらみつける。
呼吸を取り戻したグリーンが、膝を付きながら体を起き上がらせ、そのサポートに回る。
だが、砂煙の向こう側から聞こえてきたのは。
「やぁ、やぁ、やぁ」
『教皇』クワノ一世の笑い声であった。
「追うのだ。我らを導く、ことわりの会話を」
クワノは、姿を消した。
晴れつつある砂煙の向こう側には誰もおらず。ポケモンもいない。
「コウタ!」
それを確認してから。グリーンは倒れて苦しそうに呼吸を続けるコウタに駆け寄り、上体を起こした。
「大丈夫か」
コウタは一つ二つ咳き込んでから答える。
「大丈夫です。少しびっくりしただけです」
もう二、三咳き込む。
「今のは」
「わからない」
「ありがとうございました」
コウタも、ピカチュウが『だいばくはつ』の威力を抑えたことに気づいていたようだ。
「俺じゃない、ピカチュウだ」
グリーンはピカチュウを手で呼ぶと「よくやった」と褒めながら頭をなでた。
「ありがとう」
コウタも素直にピカチュウに礼を言って頬を撫でる。
素直にそれを受け入れるピカチュウの表情は、どことなく誇らしげだった。
あいつが頼るわけだ、と、グリーンは素直にそう思った。
☆
質量を持っているかのような黒煙は、『たましいのいえ』から天に登っていた。
消防隊や水ポケモン達が、『たましいのいえ』を喰らい尽くそうとする炎を消そうとする度に、それはより力を増して、ごうごうと鳴き声を上げているかのようだった。
「フジさん!」
メディアセンター以外娯楽無き街で、久々に起きた事件に沸き立ち群れる野次馬をかき分け、グリーンは『たましいのいえ』の前でその消火活動を見つめるフジ老人を見つけた。
野次馬の足元をかき分け、鳴き声とともにピカチュウもそれに続いた。野次馬の向こう側から「グリーンさん! グリーンさあん!」と名を呼ぶコウタの声も聞こえていたが、それに手を差し伸べるには、野次馬の数が多すぎた。
フジ老人は、グリーンの声に気づいていなかった。ただただ呆然と、黒煙を吹き上げる『たましいのいえ』を眺めている。グリーンの声も、野次馬の興味津々な話し声と同じ元に聞こえていたのだろう。
「フジさん!」と、今度はフジ老人の肩をたたいた。老人は、ようやくグリーンの存在に気づいたようだった。
「グリーンくん」
フジ老人は、そういって言葉を詰まらせた。グリーンが現れたことを、まだ受け入れられてはいないようだった。
そして、しばらくグリーンの瞳を見つめた後に、フジ老人が口を開く。
「すまない」
それは、謝罪の言葉だった。見ればフジ老人は、表情も、体も、今にも崩れ落ちそうであった。
グリーンは、初めそれが何について謝っていることなのか分からなかった。だが、フジ老人の次の言葉でその理由がわかる。
「君とラッタの繋がりを、失ってしまった」
フジ老人は、『たましいのいえ』に祀ってあったポケモンたちの墓石や捧げ物の数多くが、この火災の中で失われてしまうだろうことを謝罪していた。
「そんな」と、グリーンは首を振る。
「あなたが無事で良かった。墓はまた作ればいい」
心が傷んだ、それは心の底からの本心ではない。
そして、それをフジ老人も見抜いている。
「元には戻らない。もう、元には戻らない」
たとえ新しい墓を、前よりも豪勢な墓石を作り直したとしても、今までにあった思い出まで作り直せるわけではない。それを、フジ老人も知っている。
グリーンは話題を変える。
「一体、何があったんです」
「わからない。巨大な男と数人が現れて、私を引きずり出した後に家に火を放った。ただそれだけだった」
要領を得ない説明だった。ほとんどの人間は、その説明で事件の全貌を掴むことは出来ないだろう。
だが、グリーンはそれを理解することが出来た。むしろ、それ以上無いほどにわかりやすい。
「俺も、そいつらに会いました」
「大丈夫だったのかい」
「ええ、こいつのおかげで」
グリーンは足元にピカチュウを指さした。
「彼らは何者なんだ」
「わかりません。ただ、神がどうとかと喚いていました」
「神」
フジ老人は一つそう呟いてから、勢いを失いつつある『たましいのいえ』の黒煙を眺めた。
グリーンは、それに沈黙を合わせる。
やがて、フジ老人は思いつめたように口を開く。
「かつて、私は神に背いた」
グリーンは、突然飛び出したその言葉に驚いた。ポケモンタワーの墓守、『たましいのいえ』の慈愛ある管理人にはふさわしくない告白だった。
「最強のポケモンを、作ろうとした。そのために、多くの犠牲も費やした。だが、当時の私は、それは必要なものだと思っていた。最強のポケモンを作り出すための尊い犠牲だと本気で思っていた。魂の重みには、大きな差異が存在すると、私は思っていた」
かつてのフジ老人は、世界の求める理想に手を届かせることが出来る可能性を持つ優れた研究者だった。グリーンは、それを知らない。
だが、当時の彼を知るものならば、彼の言葉を、否定しないだろう。
「最強のポケモンに、一つの霊が宿った時、私は、その考えが間違いであることにようやく気づいた。だが、それは、あまりにも遅すぎた。最強のポケモンの宿る魂を奪えたとしても、それまでに私が奪ってきた魂は戻りはしない」
フジ老人を下から見上げるピカチュウが、その言葉に少し反応を見せた。だが、それに聞き入っていたグリーンは、それに気づかない。
「だから私は、シオンタウンに移った。たとえ過去の過ちは消えなくとも、ポケモンの魂を看取ることが、私の残された人生の使命だと思っていた、なのに」
フジ老人の頬を、涙が伝う。
「神は、私をお許しにならないのか」
「それは違う!」と、グリーンはそれを強く否定する。
「あんな奴が、神を知っているはずがない! 自分の行為を正当化するために神を語る奴なんてゴマンといる。貴方の過去に何が会ったのか俺は知らないが、あんな奴らのことなんて真に受ける必要はありません!」
過去は知らない。だが、フジ老人のやったことは、崇高なことであったと彼は思っている。
ただ、その崇高さが、圧倒的な狂信と暴力の前に、無力だっただけなのだ。
暫くの間、二人は沈黙した。
段々と、グリーンは怒りがこみ上げてきた。それはようやくと言っていいかもしれない。これまで起こってきたことに、グリーンの体が、ようやくついてきた。
その理不尽な暴力に、ようやく怒りが湧いてきた。もし、後ほんの少しでもいいから、『たましいのいえ』に居座っていれば、こんなことにはならなかった。
俺がいれば、そんなことにはならなかった。
沈下されつつある『たましいのいえ』を眺めながら、グリーンはようやく、ラッタと、それに手向けた花のことに考えが向かった。
俺のせいだ。
一瞬、彼の脳裏にそう浮かんだ。
草むらに生き、同種と子供を残し、草むらに死ぬ、そのような一生を歩めば、あり得なかったのだ。死してなお、このような卑劣な破壊衝動に巻き込まれるなんて、あり得なかったはずなのだ。
俺のせいだ、と、彼はもう一度思った。それが悲観的な考えであることは知っている、怒りを向かわせるべき対象は、クワノであることもわかっている。
だが、この悲しみを向かわせる対象は、自分であるような気がしてならない。
フジ老人が呟く。
「魂は、どこに向かえばいいのか」
グリーンも、それを知りたかった。