4.
繰り出された小さくも強力なドラゴン、ジャラランガは、生まれ持った攻撃性を全てに見せるけるような雄叫びを上げながら対戦場に降り立った。そして、すぐさまに排除すべき敵に目を向け、そして、地面を蹴った。サンダースは迎撃の体勢を取る。
「『メガトンパンチ』」
ジャラランガの拳がサンダースを捉え、サンダースは地面に叩きつけられた。地面はその衝撃を逃し切ることができず、サンダーズは出来損ないのゴムボールのように鈍く跳ねる。
手応えがあった、ジャラランガは全身の鱗を震わせて刃物が擦れ合うような歓喜の音色を奏で、グリーンはサンダースをボールに戻す。
運が、こちらに振れていると、サケイは神の祝福を感じていた。
ジャラランガがどれだけ瞬発性のあるポケモンであろうと、すべてのポケモンで考えても最速の部類に入るサンダースをなんの補正もなしに抜けるはずがない、事実、サケイは『でんじは』や『どくどく』などの技を食らってしまうことを必要経費として割り切っていたのに。
だが、ジャラランガは一方的にサンダースを潰した。考えられるのは唯一つ、『いばる』による混乱だ。
グリーンは動揺を見せずにボールを対戦場に投げ込んだが、内心とんでもない動揺があるだろうというのがサケイの読み。
そして、対戦場に現れたグリーン最後のポケモン、ピジョットを確認するや否や、彼はその舞いを始める。ジャラランガはすでに鱗を擦り合わせ、それの準備を始めている。
気がかりなのは、グリーンが三体目のポケモンをひた隠しにしていることだった。『スケイルノイズ』をベースとしたジャラランガのZ技最大の弱点は、ドラゴン技を無効化するフェアリータイプのポケモンとの対面では意味を成さないこと。もしグリーンが自分達の連携を封じる意味合いでフェアリータイプのポケモンを隠し技として選択していたのならば、それをする意味がない。
だが、グリーンが三体目に繰り出したのは飛行ノーマルタイプのピジョットだった。格闘タイプでもあるジャラランガにとっては決して相性のいい相手ではなかったが、そんな問題は、些細なことでしか無かった。なぜならば、この一撃で、ピジョットを仕留めるのだから。
「ゼンリョクで、行くぞ!」
サケイにとって、ダンスは儀式であり、戦いであり、娯楽ではない。
腕輪に装着されたクリスタルが光り輝き、ジャラランガの胸にぶら下げられたそれも、負けないほどに光り輝く。
昨日のように『すなあらし』に覆われていない対戦場は、その光をダイレクトにグリーンに見せつける。
ジャラランガの対面に立つ者にとって、その光は、力と、恐怖の対象であるはずだった。
だが、グリーンはそれに怯まない。
そして、その技が放たれる。ジャラランガを中心としたその波動は、対戦相手のピジョットを撃ち落とそうとする。
「『まもる』!」
その指示を待っていたピジョットは、両方の翼で風を起こした。本来ならば、その技術で大抵の技ならば、例えば四天王のポケモンが繰り出す大技のようなものであれば、完璧に身を守ることが出来る。だが、グリーンとピジョットは、サケイとジャラランガが放つその技も、それらと同じだとは考えていなかった。ピジョットは体を捻り、なるべくそれから離れようと努める。
そのZ技はジム全体を揺らし、グリーンもその威力に体力を消耗させる。
強大なエネルギーが放たれ終わった対戦場には、まだピジョットが地面の上に立っていた。
「捕らえろ!」
サケイはそれに驚くことなく指示を出した。そして、それが届くよりも先に、ジャラランガは地面を踏み込んでいる。
生半可なポケモンであれば、たとえ『まもる』をしていてもその上からZ技で叩き潰すことが出来る。自分達のゼンリョクに対し、そのようにして抵抗しようとした愚かな連中を彼らは数多く知っている。
だが、グリーンとその相棒ならば、それから生き残っても不思議なことではないと、彼はこの戦いの中で評価を改めていた。
しかし、だからといって体力を全く消耗しないわけではない。ジャラランガの高速タックルからマウントポジションに捕らえてしまえば、あとは造作もない相手。
「上に!」
地面を蹴ったジャラランガが、まさにピジョットを射程圏内に捉えようとしたその時、グリーンの指示とともに、ピジョットは空へと舞い上がった。ジャラランガのタックルは、ピジョットの羽を掠めるだけの不発に終わる。
「飛んだか」
サケイは、ピジョットの体力が思っているほど消耗していないことに今度は驚いていた。衰えを知らない視力で空のピジョットを観察すれば、首元に紐のようなものが見える。おそらく、グリーンがオボンのみを持たせていたことだろう。
「飛べ!」
地を這うドラゴンに対し、とんでもなく突飛なように思える指示を、サケイが叫ぶ。
だがそれは、怒りや驚きに任せた無茶な注文ではない。
彼らは、空を飛んで自分達の射程から逃れようとした相手を数多く知っている。そして、鍛錬の後に、彼らは空をも射程圏内に引きずり込んでいた。
ジャラランガは一度だけ浅くしゃがみこんだ後に、バネ細工のように地面を蹴って跳ね上がった。強く地面を蹴っての爆発的な移動、やっていることは高速タックルとそうは変わらない。否、むしろこの空への攻撃を横に応用したのが高速タックルという戦術なのだ。
「『フェザーダンス』!」
しかしグリーンは、彼らが見せた裏芸に動揺することなく、ピジョットに指示を出す。そのようなアイデアを持っていたのは、アローラのトレーナーたちだけではない、数は少ないが、カントーやジョウトにだってそのような攻撃を目指すものはいた。
ピジョットは羽ばたきの中で自身の羽毛を抜き飛ばし、向かって来るジャラランガに対して羽の煙幕を作り出した。当然、ジャラランガの視界は白く染まり、ピジョットを確認できなくなる。
だが、ジャラランガはまだ攻撃をピジョットに当てる気満々だった、空は、自由に見えてその実不自由なフィールド、浮遊することで空中を維持しているわけではない鳥ポケモンが相手ならば、その軌道はある程度想定できる。
同じことを、サケイも考えていた。自分とジャラランガの鍛錬の延長は、それを可能にすると、信じていた。
「『スカイアッパー』!」
ジャラランガが、羽の煙幕を突き抜くように拳を振り上げる。その途中に、わずかに何かを擦った感覚が残る。
だが、ピジョットの顎を捉えるはずだったその拳は大きく空振りした。
しかし、ジャラランガはまだ諦めない。むしろ二の手三の手、その次を放とうと鱗を鳴らす。
避けられたとしても、微かに手応えはあった。まだ空に残っている相手に『スケイルノイズ』を打ち込めば、十分に勝機はある。
羽の煙幕を抜けたジャラランガは、上にいるはずの、もしくは同じ目線にいるはずのピジョットを探した。
だが、それはいない、それは確認できなかった。
「下だ!」
サケイの呼び声にようやく気づいたジャラランガは、体を捻って地面を見る。
そこには、地面に立ってこちらを見上げているピジョットの姿が見えた。
下、どうして。
ジャラランガは一瞬困惑した。自分が空から鳥を見下げ、鳥が地面から自分を見上げている。全く経験のない異質な光景、これではいつもとあべこべではないか。煙幕を撒いて、わざわざ地面に逃げるなど見たことがないし考えたこともない。
そして、ジャラランガがピジョットを捉えるまでの、そして、その状況を飲み込むまでの時間は、確実にスキとなっている。
それはサケイも同じだった。彼はピジョットが地面に降り立つのをジャラランガよりも速く確認していたが、その意味がつかめず、一瞬ではあるがスキを作っている。
そのスキを埋めるために、サケイ達は即断した。相手が空にいようが地面にいようが関係なく、もともとのプランで突き進む。
跳ね上がったエネルギーが重力に負け始めていたジャラランガは、体を捻って攻撃の体勢を取る。
それに合わせるように、ピジョットも翼を大きく広げて攻撃の体勢を取った。
「『スケイルノイズ』!」
「『ぼうふう』!」
ジャラランガは空から音波を、ピジョットは地上から風を巻き押してそれぞれ攻撃する。
相性だけで言えば、ピジョットのほうが圧倒的に有利だった。だが、生まれ持った能力を考えれば、その威力は五分五分といったところ。
サケイは、その打ち合いに自信を持っていた。彼とジャラランガが打ち出すZ技は、その威力以外にも、全身の鱗を研ぎ澄ますことですべての能力を引き上げる複合的な効果もあった。それにより、自身の『スケイルノイズ』はより強く、そして、相手の『ぼうふう』はより弱く受けることが出来る。
その証拠に、音を叩きつけられたピジョットは、対戦場に跡を作りながら吹き飛んだ。
その様子を、ジャラランガは空から見下ろしている。
そう、見下していた。
ジャラランガは、それができていることの違和感にようやく気がついた。
本来ならば、そろそろ地面に着地する頃合いだった。だが、自身の目線はいつまでも空にあり、地面はいつまでも近づいてこない。
否、それどころか、どんどんと離れていっている。
サケイは、それを信じられないといったふうに眺めていた。
サイズこそ小さいが、ジャラランガの肉体に詰まる筋肉は、その体重を、見た目よりもずっと重くしているはずだった。
それが、こんなにも簡単に吹き飛ばされている。
おそらく、ジャラランガが地面で踏ん張ることができれば、それに耐えることができたかもしれない。だが、空中という状況は、踏ん張るための地面を失わせる。
そして、技を打つ際に地面で踏ん張ることができ、さらに、自分達の戸惑いによって生まれた僅かなアドバンテージが、ピジョットにこれほどの威力の『ぼうふう』を打つ要素を与えた。
そのためのあべこべな配置、そして、そのための『フェーザーダンス』による煙幕、そして、そのための『そらをとぶ』、そして、そのための『まもる』、そして、そのためのピジョットという選択。
ジャラランガとピジョットの対面から今に至るまでを思い返せば、全てはグリーンの意のままのように感じた。さらに言えばその状況を実現させるための前二体の戦いも、もしかすればグリーンの手のひらの上だったのかもしれない。
実際にはそうではない、グリーンはサケイがペルシアンを所持している事を確信はしていなかった。だが、サケイの思考からそれを抜け落とさせるほどに、グリーンの戦略にガッチリと嵌っていたのである。
丁寧に舗装されているジムの対戦場と違い、ジムの天井は、他の施設と同じように、鉄筋がむき出しの乱雑なものだった。それは、高く設定されているジムの天井は、ポケモンバトルに影響を及ぼさないだろうという予想のものだ、
だが、鈍い音と共に、ジャラランガの背中が、天井に激突した。薄く作られた天井がきしみ、予想外の威力に彼は呻く。
しかし、それで終わりではなかった。
風によるその攻撃が収まるその直前に、今度はけたたましい音と共に、腹部から胸にかけて鋭い痛み。
痛みによって体が動かないことを自覚しながら、ジャラランガはようやく重力に従順に落下を始める。もちろん、そのまま地面に叩きつけられることは避けたく、受け身のことを考えなければならない。このようなときにどのような受け身を取ることが最善であるか、彼はトレーナーであるサケイとの鍛錬の中で学んでいた。
だが、それ以上に、その技を受けてしまったことの動揺のほうが、彼の中では大きかった。その攻撃は、鳥が使える攻撃では無いはずだった。当分食らうことのなかったその痛みは、数限られた自分の同胞にしか打たれたことのない痛み。それは、自分のように鋭く特殊な鱗を持つドラゴンしか扱えることのできない技だった。
「『オウムがえし』か」
サケイは、そう呟いて苦い表情を見せた。『オウムがえし』は鳥系のポケモンの一部が扱うことの出来る特殊な技で、自分が食らった技をそのまま相手に返すと言う能力を持つ。
ピジョットが『ぼうふう』の目的はジャラランガを吹き飛ばすことだけではなかった、その真の目的は、風によってジャラランガの『スケイルノイズ』を『オウムがえし』する事にあったのだ。
あそこで『スケイルノイズ』を選択した自身の判断が大きく間違っていたことをサケイは痛感していた。否、そうではない、あの場面、あの状況ならば、おそらく何十何百回でも『スケイルノイズ』の判断を下していただろう。グリーンの戦術感が、その状況を作り出し、それを最大限利用しただけのこと。
「受け身を」と、サケイは自然落下を見せるジャラランガに言った。
しかし、ジャラランガはいまだ動かず、重い頭が下へ下へと傾き始めている。サケイは、彼が動揺と混乱の中にいる事に気づいた。
「受け身を!」と、彼は声を張り上げてもう一度言った。
トレーナーの声は強い、ジャラランガはその声でようやく自分を取り戻すと、空中で体を捻りながらなんとか背中から地面に落ちようと試みる。だが、落下までの僅かな時間は完璧な軌道修正を許さず、ジャラランガは左腕を地面に振り下ろすようにしながら不格好に着地を試みた。
鈍い音、肉が地面に叩きつけられる鈍い音。
ピジョットも、ジャラランガも、共に地面に突っ伏している。二階席でピカチュウを抱えていたナナミは、勝負が引き分けに終わったことを確信していた。
だが、サケイはそうは思っていない。確かに、この試合においてグリーンは素晴らしい戦術感を、勇気を、強さを、ゼンリョクを発揮した。今思い返せば、自分がコントロールされる側だったことも間違いないだろう。すでにこの戦いは、カプ・コケコに捧げるに十分すぎるほどの格がある。
だが、それでも、勝利したのは自分達だ。
右腕に力を込めながら、ジャラランガが体を起き上がらせる。受け身をとった左腕にはまだ痛みとしびれが残り、使い物になりそうになかった。
ドラゴンとして生まれもった体の強さは、重力の衝撃に打ち勝っていた。なんとか、ギリギリ、そして根性で、彼は戦う姿勢を見せる。
そして、それは対面のピジョットも同じだった。白い羽毛を土埃で汚しながら、立ち上がる。
「『かえんほうしゃ』!」
痛みを覚え始めた喉を更に使いながら、サケイは荒ぶる声で指示を出した。
当然、まだピジョットが動けることに対する驚きはあった。いくら『まもる』とオボンを駆使したからといって、Z技に『スカイアッパー』そして『スケイルノイズ』やりすぎと言っても良い攻撃だ、とてもではないが耐えられるはずがない。
だが、考えるのは後にすることに決めた。グリーンのゼンリョクは、すでにサケイの想像の中にいるトレーナーを遥かに超えていた。
気づかぬうちに、サケイはグリーンというトレーナーを大きく見上げる立場にあった。それを自覚してもなお、彼らは目の前の相手が倒れるまで戦う。すべてのトレーナーを見上げる立場にあるときから、彼らはそうであった。
同じく目の前の相手を倒すことだけにすべての知性を費やすことを決めたジャラランガは、喉の奥につかえている血反吐を一息で吐き出すと、大きく息を吸い込んでから『かえんほうしゃ』を放つ。遠距離からでも攻撃が可能なその技は、近距離戦を得意とする彼の裏芸の一つだった。
「『まもる』」
ピジョットもまた『スケイルノイズ』で地面に叩きつけられたことによって傷を負っていた。左の翼が思うように動かず、羽ばたくことができない。
それでも、ピジョットは右の翼を大きく振ることによって『かえんほうしゃ』から身を守った。特殊攻撃とはいえ、その攻撃をまともに食らってしまえば力尽きてしまうだろう。
そして、振り払った炎の向こう側から、ジャラランガが猛然と迫ってくる。
サケイ達は『かえんほうしゃ』が振り払われることを当然のように予測していた、それを食らって敗北するような位置にグリーン達がいないことを理解していた。故に、彼らは、その大技を相手の視界を一瞬だけ奪う煙幕として使ったのである。左腕を犠牲にしてまで守った両足は、まだ十分な爆発力を持っている。
二度目の高速タックルは、空へと逃げられないピジョットを確実に捉えた。肩口で突き刺すようにピジョットを抱え、半ば押し倒すようにテイクダウンを取る。
その胆力に、グリーンは息を呑んだ。動かぬ左腕、痛むであろう全身、プライドの高いドラゴンならば、トレーナーの指示よりも自己の判断を優先しても何ら不思議のない状況だった。それなのに、彼はこの状況でほとんど完璧な素晴らしいタックルを決めた。おそらく自然の中では覚えることのなかった、トレーナーとの鍛錬と技術の結晶を、彼はこの状況でも選択したのである。
絶望的な状況だった。ジャラランガはピジョットのそれぞれの翼を膝の下に敷き、血走った目で動けないピジョットを睨みつける。
「『インファイト』!」と、サケイは最後の攻撃を指示した。残った右腕で、ゼンリョクでピジョットを叩き潰すことで、この長い試合を終わらせるつもりだった。
ジャラランガが右腕を持ち上げ、振り下ろそうとする。だが、ジャラランガはその指示を完遂することはできなかった。
その右腕は力を失いだらりと垂れ下がった。ピジョットを見下ろしていた状態はついた膝を視点にゆっくりと倒れる。仰向けのピジョットに覆いかぶさるように、ジャラランガは気を失った。
力を失ったジャラランガの下から、ピジョットがなんとか体をねじって潜り出た。ボロボロになりながらも、ピジョットは一つ、誇らしげに鳴いた。
ジャラランガの右腕がピジョットを捉えようとした寸前、グリーンが出した『でんこうせっか』の指示は確かにピジョットに届いていた。彼は足を振り上げ、ジャラランガの顎を蹴った。
その時点で、勝負は決していた。サケイほどのトレーナーがそれを見逃すはずもなかった。
だが、ジャラランガは常軌を逸した精神力を持ってして、ピジョット相手に必勝の体勢にまで持ち込んだ。そして、サケイは彼の精神力を最後まで信じきり、その時最善の指示を出したのだ。
なんと優れたトレーナー達なのだろうかと、グリーンは本心から思っていた。
そして、それに勝った、生き残ることができた自分達の勝利の実感が、ようやく心の奥底からじわじわと湧き出てくる。
その時だ、対戦場の向こう側から、大きな叫び声が聞こえてきた。
「素晴らしい! 素晴らしい戦いだった!」
その声の主であるサケイは、倒れているジャラランガをボールに戻し、両手を広げてはるか天井を見上げていた。無骨に鉄骨の並ぶそれは、彼の神と共有する光景ではないだろう。だが、今のサケイにとってそれは些細な問題でしか無かった。
グリーンはピジョットをボールに戻しながらそれを眺める。それほどの感情の爆発を、まだ受け入れられていない。
サケイは、ひとしきり思いつく限りの大声をあげていた。やがて思いついた限りのそれが尽き、喉の痛みが無視できなくなってくると、彼は落ち着くを取り戻そうと努めながら、放り投げていたジャケットを手に取り、二、三度適当に泥を払いながらグリーンのもとに歩み寄った。
「申し訳なかった」
グリーンの目前に立ってすぐ、彼は頭を下げて言葉にして謝罪した。当然それはグリーンに対して取ってきた態度に対するものもあったが、それ以上に、彼の実力を大きく見誤っていたことに対する自戒の意味もあった。
「君に対する敬意を、大きく欠いていた。許してほしい、私は、君に対してあまりにも無知だった」
グリーンの返答を待つよりも先に、サケイは「そして」と、右腕を差し出しながら続ける。
「素晴らしい戦いを、心より感謝する」
グリーンは、誘われるままにサケイの手を握った。二、三度それを振ったサケイは、最後に両手でグリーンの右手を握ると「本当に素晴らしい戦いだった」と、もう一度言う。
「どうも」と、グリーンは短くそれに返す。サケイがあまりにも喜ぶものだから、湧き出ていたはずの勝利の実感は一旦姿を消していた。
「私のゼンリョクを、君は全力で受け止め、そして勝利した。戦いの神カプ・コケコは、この戦い捧げられたことを大いに喜ぶだろう」
更にサケイは続ける。彼の興奮は、まだ収まってはいないようだった。
「これだけの戦いを捧げたのだ、私の事業は、必ず大成功する!」
実際のところ、それは彼の願望であり、かならず訪れる未来ではない。
だが、サケイはこの戦いによって、それを神に捧げたという実感によって、そのような確信に近い自信を得ていた。
サケイはようやく落ち着きを取り戻したようだ。彼は「すまない」と微笑んでから続ける。
「これを問うことは、無粋だと思う。だが、一つだけ聞きたい」
この戦いについて、どうしても問いたいことがあった。そして、それを問わなければならないことが、トレーナーとしては無粋で惨めであることも知っていた。
しかし、それでも、サケイはグリーン達のゼンリョクを、より深く理解したかった。
「どうぞ」
「私はあの『スケイルノイズ』で勝負はついたと思っていた」
彼らの脳裏に、あのあべこべな光景が浮かぶ。
ジャラランガの『スケイルノイズ』にピジョットの『ぼうふう』そして『オウムがえし』、確かにそれらは大きなダメージだったが、同時にジャラランガの『スケイルノイズ』だってピジョットに大きな、サケイの感覚ではピジョットを戦闘不能にして余りある威力だと思っていた。
「どうして、ピジョットはあの攻撃に耐えることができた?」
ああ、と、グリーンは小さく頷いた。そして、それをどう伝えればいいのかを少し考えた後に、呟くように答える。
「願い事、ですよ」
サケイは、一瞬その返答に顔をしかめた、なにか触れられたくない質問をすっぽかすような、オカルトめいたような答えだったからだ。
だが、サケイも優秀なトレーナーだ、グリーンがそのようなすっぽかしをするような人間ではないことを念頭に、その答えの意味を探ると、途端にふふふ、と、笑みがこぼれた。
「なるほど、『ねがいごと』か」
そのポケモンについてよく知っているはずのサケイですら、その発想に至るのに時間を要した。
この勝負の運命を分けたのは、グリーンの最も古い相棒、サンダースの精神力だった。
ジャラランガの『メガトンパンチ』を受ける寸前、サンダースは『かみなり』で抵抗することも可能だった。サケイが通したと思っていた『いばる』は、サンダースの強烈な精神力の前に無力と化していたのだ。
そしてサンダースは、迫り来るジャラランガの拳をしっかりと見据えながら『ねがいごと』という技を放った。
その技『ねがいごと』は、時間差でポケモンを回復させる特殊なもので、サンダースはその恩恵をうけることができない。
そして『ねがいごと』によって、ジャラランガのZ技を受けた直後のピジョットの体力が回復された。『ねがいごと』とオボンのみによる回復、その時点でピジョットはその後を戦うのに十分な体力を回復していたのだ。
それもまた、グリーンとサンダースの信頼関係の結晶のような戦略だった。もし、サンダースが少しでもジャラランガの拳に怯えてしまえば、その指示は通らなかっただろう、そして、グリーンもまた、サンダースと自らの絆を最大限に信頼しているからこそ、それを戦略として組み込むことができた。
グリーンと比べて、サケイがトレーナーとして大きく劣っているわけではなかった。彼はポケモンの強さを引き出す知識を持っていたし、ポケモンに最速を与え、そしてそれを捉えることの出来る動体視力と判断力も持ち得ていた。そして、ポケモンたちを信頼し、そして信頼されるだけの人間としての格もあった。
ふう、と、サケイはため息をつく。それは、自身への憂いと、グリーンに対する感服と、二つの意味があった。
「考えもしなかったな」
サケイは、イーブイとその一族への知識について、カントーやジョウトのトレーナーよりも優れている自信があった。だが、あの時あの瞬間、『ねがいごと』の可能性だなんて考えもしなかったのだ。自身の戦略がハマっていることへの羨望か、それともそれまでそれを成してきたことの慢心か、とにかく彼は、それを見逃した。
大きな差だった。
「私は、アローラに帰るよ」
ジャケットを肩に引っ掛け、サケイはグリーンに背を向けようとした。目的が達成された今、彼がカントーにいる意味はない、明日にでも、彼が求める事業のためにアローラに帰る必要があった。
「待って、ください」
グリーンが、それを引き止めた。彼はサケイに向かって頭を下げる。
「ごめんなさい。俺も、あなたに失礼なことをしました」
サケイとの初対戦を、グリーンは敗北という結果以上に悔いていた。これだけの戦いを出来るトレーナーにとって、それは屈辱的だっただろう。
「なんだ、そんなこと」と、サケイは白い歯を見せる。
「今更そんな事言われなくても、あの戦いの中で、君の気持ちは伝わったさ」
その言葉に、グリーンは憑き物が落ちたように微笑んだ。そして「俺も、一つ、聞きたいことがあります」と続け、サケイがそれに好意的な相づちを打ったのを確認してから言う。
「あなたは、ゼンリョクを出して負けたら、どうやって前を向くんです?」
それは、勝者が敗者に問うて良い質問ではなかった。あまりにも挑発的で、不躾なものと捉えることだって、十分にできる。
だが、サケイはその質問をそのようには捉えなかった、むしろその逆、彼はその質問にやや目を伏せ、目の前の少年に複雑な感情を抱く。その少年の経歴を、彼はよく知っていた。
「私は、神を信じている」と、サケイは言った。
「いや、正確には、神を信じることを信じている。メレメレの神カプ・コケコは実際に存在し、神についての言い伝えも多く存在する。だから私は、優れた戦いを神に捧げるその行為そのものに意味があると信じることが出来る。私はこの戦いに負けたことを悔いてはいない。この戦いを、ゼンリョクを出すことに意味があり、絶対に負けてはならない戦いだとは感じていなかったからだ」
グリーンが何も言わないのを確認してから続ける。
「だが、君たちは明確な神を信じず、そして、ゼンリョクを出して負ける事を、肯定されることが少ない」
サケイはそこで言葉をつまらせた。それより先にいうべき言葉が、果たしてグリーンにとっていいことか悪いことなのか判断することができなかった。
その時だった、ジムの窓が揺れるほどの大きな風が吹いた。サケイは、思わず軋む窓を確認してしまったほどだ。
「風か」と、サケイは呟いた。変化をもたらす風が吹いたことの意味を、彼ははかりかねている。
「続きを」
その声に、サケイは再び少年の目を見た。グリーンは、その言葉の先が、必ずしも自分にとって良いものであることではないことを理解しながらも、それを求めている。
強い目だった。
そして、サケイが口を開く。
「結論から言えば、君が前を向く方法を、私は知らない」
それは、かなり急いだ結論だった。文面上、グリーンの質問はグリーン自身が前を向くにはどうすれば良いものかではない。
だが、グリーンはそれに相槌を打った。サケイが、自分の質問から、その質問が自分の境遇から生まれたもので、その実救いを求めている質問であることを彼が理解していることを理解していた。
「君の感情を、君の負けを理解できる人間は、もしかしたらこの世界には存在しないのかもしれない。神を信じろと、無責任に言うことすら私にはできない、君と同じ境遇なら、私は神を信じることを疑うだろう」
更に一拍置いて続ける。
「この試合も、私はゼンリョクを出す事が目的で、こうして負けた後にも満足している。だが、おそらく君がこの試合に負けていれば、多くのものを失っただろう。この試合において、私達は背負っているものがあまりにも違いすぎた」
だが、と言って続ける。
「だからこそ、私は君を尊敬する。それでも私の前に立った勇気は君だけのものだし、それでも私に勝利した誇りも、君だけのものだ」
サケイは、ちらりと二階席を見やった。小さなピカチュウを抱えた彼女は、まだそこに座って自分達を眺めている。自分達二人の会話を優先しているのだろう。よくできた女性だと、もう一度サケイは思った。
「君のお姉さんに、貴女の言ったとおりだったと伝えておいてほしい。確かに貴女の弟は、比類ないほどに優れた戦士だったよと、ね」
その言い回しの意味を理解したグリーンは、サケイと同じくちらりと二階席を見やった後に、少しだけ頬を染め「わかりました」と答える。
さて、と、サケイが伸びをした。
「君のために祈っても?」と、彼はグリーンに問う。
グリーンは少しキョトンとした後にそれに頷く。
サケイはグリーンの頬に手をやった。
「太陽のもとに続くこの地の少年にも、カプの御加護があらんことを」
そう言ってしばらく目を閉じたサケイは、やがて目を開いて微笑むと、グリーンに背を向け、二度と振り返らなかった。
☆
「グリーン」
ジムに備え付けてあるポケモン回復装置を起動させていたグリーンの背中に、姉の言葉が投げかけられた。彼女は、グリーンが傷ついたポケモンの回復を優先できるように、あえてそれまで、彼の前に姿を見せていなかった。
薄暗い部屋だった。回復装置の発光だけが目立っている。その装置の操作に慣れているグリーンは、部屋が暗いことが気になっていなかった。
グリーンはそれに振り返らずに、うん、と小さく返事を返す。
「勝ったよ」と、グリーンは背中越しに姉にそう伝えた。
それは、わざわざ伝える必要がないことだった。彼女が二階席から自分達の試合を眺めていた事は当然グリーンも知っている。
「勝ったんだ」
だが、彼はもう一度、そう言った。
回復装置の聞き慣れた音楽が終わり、安全装置が外れる音がする。
グリーンは、そこに乗っていた三つのボールをいとおしげに撫でた。
「こいつらと、勝ったんだよ」
それは、体の奥底から、頭の中までようやく浸透した、勝利の実感から来る、小さな小さな勝ち名乗りだった。
その事実を知っている人間は、グリーンを含め、たったの三人しか存在しない。
だが、彼にとって、それは大きな問題ではなかった。自分自身が、その勝利を最も必要としていた観客であった事を彼は理解している。
「あんなに、強い人に」
その声が、小さく、震えている理由を、姉はよく知っている。
ナナミは、彼女の足元でグリーンを心配そうに眺めているピカチュウの抱えあげると、仕上げた最高の毛並みを撫でて彼を落ち着かせながらグリーンに言う。
「一晩くらいなら、預かれるわよ」
グリーンは、背を向けたままそれに頷く。
彼らの話の内容を理解しているのかどうかはわからないが、ピカチュウは小さくグリーンに鳴き声をかけ、大人しくナナミの腕の中に収まった。
これから来るであろう夜は、彼らが勝利の実感を分かち合い、互いの健闘を讃え、そして、あの時彼らを選ばなかったことを悔い、そして、それを許すために存在しているのだろう。