1-アローラの男
3
 負けたのね。

 それも、手ひどく。

 あのときのように落ち込んでしまうほどに、手ひどく。

 玄関のドアを開け、その姿を見せた弟を見て、ナナミはそう思った。十数年、共に暮らしてきたたった一人の弟のことなど、手に取るようにわかる。
 膝の上のピカチュウを撫でる手が止まっていた。それを口に出す訳には行かなかった。弟のことを手に取るようにわかっても、弟を救えるとは限らない。

「おかえり」と、ようやく絞り出すように言って、再び手を動かす。
「ただいま」

 なるべく自然を装うようにそう言った姉に、なるべく自然を装うようにグリーンが返した。そして、それをお互いが分かっている。
 弟のことをよく知る姉に、姉によく知られていることを知っている弟。それに触れぬなど到底無理な話なのだ。それに触れまいとすることで、彼らはそれに触れている。

「ピカチュウを迎えに来たんだ」
「そうね、でも、今この子寝ちゃってるから」
 彼女の膝の上に寝転がるピカチュウは、ピーピーと寝息を立てていた。あまりにも無防備な姿だったが、それほどまでに彼女の膝の上が心地いいのだろう。

「一晩くらいなら、預かってもいいわよ」

 それは、何気なく、なんの不思議もない提案だった。ナナミはポケモンの扱いに慣れているし、グリーンには疲労がある。
「そうだな」と、グリーンも、それを肯定した。

 だが、それによって生まれた一瞬の沈黙が、彼の脳裏にその考えを浮かべるスキを作った。

 敗北のショックに飲み込まれていただけだった意識に、自身の人生を照らし合わせる、なんの意味もない、ただただ自己嫌悪を強めるだけの行為を、彼は行った。
 そして、彼はそれからの救いを、家族である姉に求めた。それもまた、自然なことだった。

「今日、負けたんだ」
「そう」
「明日、また戦う」
「そう」

「レッドなら、あいつに勝つだろうと思う」

 あまりにも唐突な、それでいて自然でもあった彼の名に、ナナミは再び手を止めた。
「いや、そもそも、レッドなら、最初からあいつには負けねえだろうと思う。そのくらい、あいつはつええんだ」
 それは、ナナミもよく知っていた。
 グリーンは、歯を食いしばり、拳を力の限り握った。無念だった、情けなかった。だが、どうしても、それは彼にのしかかる。


「姉さん。どうして俺は、レッドのようになれないんだ。一体どうやったら、俺はあいつになれるんだよ」


 反射的に、ナナミは体をビクつかせた。グリーンが、そのような弱音を口にしたのは始めての事だった。
 何かを感じ取ったのだろうか、膝の上のピカチュウが小さな鳴き声を上げながら体を起き上がらせた。彼はグリーンが帰っていることに気づき、ナナミの膝から降りたが、グリーンの雰囲気に気づいて戸惑うように歩みを止める。
 グリーンは、そのピカチュウに一瞬視線を合わせ、そして、外した。

 ありえてはならない考えが、よぎってしまった。

 そのピカチュウを『使えば』あるいは自分もレッドのようになれるのではないかと。

 果たしてそれをピカチュウが受け入れるかどうかはわからない。だが、グリーンは彼の強さを世界で最もよく知る人物の一人であった。
 突拍子もない話だった。だが、ズタボロに引き裂かれた彼のプライドは、あのジャラランガに対して、ピカチュウがどのような動きをすることが出来るかというところまで、その優れた戦術感を、歪んで発揮させる一歩手前だった。

「グリーン」

 それにストップをかけたのは、姉の声であった。

「誰もグリーンに『レッドになれ』なんて言っていないのよ」

 グリーンの感情すべてを、彼女が理解できているわけではない。だが、彼女もまた、それに苦しんだ一人であった。

「私も、おじいちゃんも、サケイさんだって、あなたにレッドの代わりを求めたわけじゃない。ただただ、あなたを、強いあなたを求めているだけなのよ」

 一拍おき、グリーンが何も返さないのを確認してから続ける。
「お姉ちゃんね、本当は、グリーンが強くなくてもいいと思ってる。ポケモンリーグから連絡があって、急いでセキエイ高原に向かったあの日、あなたが負けてるのを見て少しびっくりはしたけど、それよりも、グリーンとレッドくんが、無事で、立派になっていたことのほうが嬉しかった」
 それは、家族として普通の感情だった。

「グリーンが強くなりたいと思っているから、私はグリーンが強くなってほしいと思ってる。でも、そのためにレッドくんになれだなんて、私は思わない。そんな事を思うくらいなら、強くなることを諦めてくれほうが、私は嬉しいよ」

 それは、悩む弟を持つ姉の本心だった。そして、グリーンがそうは思わないことを、彼女は知っていた。

「でも、強くなりたいんでしょ?」
 グリーンは、こみ上げる感情をこらえながら、それに頷いた。敗北の呪縛の裏にあるのは、確かに手にした栄光だ。あともう少し強ければそれを胸に抱く事ができたと言う思いは、誰よりも強い。

「じゃあ、あなたが強くなりなさい」

 それが難しいことは、ナナミも十分に理解している。
 だが、そのために誰かになることを望むことは、あまりにも愚かだ。

 ピカチュウが、グリーンのズボンの裾を引っ張った。グリーンがそれに気がついて手を広げると、彼はぴょんと跳ね上がってその肩に登る。グリーンはずり落ちそうになったピカチュウを両手で抱え込む。ナナミによって整えられた毛並みが、グリーンの手のひらを心地よくくすぐった。

 グリーンの鼓動が高鳴っていることに、ピカチュウは気づいているだろう。だがそれでも、彼はそれを気にしてはいなかった。彼の元にいるほうが、より安心できた。
 恐ろしいことを考えていた、と、グリーンは頭の中にあったことを全力で否定した。

「帰るよ」と、グリーンは短く姉に伝えた。
 ナナミは、それに頷いただけ。
 やらなければならないのだ、彼がそうした様に、自分もまた、困難に打ち勝たなければならない。

 だが、それを成し遂げることが出来るという確証は、無かった。











 彼の家で、グリーンは机に向かっていた。
 すでに日が落ちてからだいぶ時間が経っていた。それでも彼は食事をすることも忘れてそれに没頭している。
 サンダースやピジョットは、すでに眠りについていた。それが、トレーナーであるグリーンの指示だったからだ。明日の試合に向けて、手持ちのポケモンたちには十分な休息を与えたかった。
 残るピカチュウは、グリーンのそばで静かに丸まっている。まだ眠っているわけではない、ナナミの膝の上での昼寝の影響がまだ残っていた。

「Z技ねぇ……」
 手にした資料と薄型端末の画面を交互に見やりながら、グリーンは自身の無知を痛感していた。

 印刷した資料は、アローラ出身の研究員が書いたある論文。自身が手に入れた知識とアローラの文化を照らし合わせ、その地方に伝わる特殊な現象である『Z技』についてわかりやすく示してある。

 トレーナーに特殊なリングとクリスタル、ポケモンにはそれと同じクリスタルを持たせることが条件となり、更にその二つが同調することにより一時的に技の威力を爆発的に向上させる。それらを同調させるためにはトレーナーが激しいダンスを踊らなければならず、連発することはできないほどの体力の消耗があるという。

 そのシステムはカロスやホウエン地方で有名な『メガシンカ』に似ているが、限られたポケモンにしか与えられないメガシンカと違い、Z技は限られたトレーナーにしか与えられないと、論文には記載されている。
 二つのクリスタルの同調に必要不可欠であるリングは、アローラ地方で神とされているポケモンからトレーナーに与えられる輝く石を加工して作るとある、それゆえにその強力な連携を得ることの出来るトレーナーはアローラ地方でも限られているらしい。

 普通の人間ならば、鼻で笑うような話だった。
 どこまでが本当で、どこまでが伝説で、どこまでがホラ話なのか考える時間がもったいないほどの話、もしその文末に『今ならこの素晴らしいリングとクリスタルのセットをたった五百円で提供できます!』と陳腐なアオリ文がついていれば、ほら言わんこっちゃないとなるだろう。

 だが、グリーンはその論文のすべてが真実だと確信し、真剣にそれを読み込む。メガシンカだって、最初は眉唾ものの話だった。何よりZ技とやらそのものの威力を、彼は痛いほど体験している。
 その研究員の論文は、数は少ないこそ、グリーンに有益な情報を与えてくれた。

 相手の情報を収集し、それの対策を考える。それはグリーンと言うトレーナーの一つの形であった。

 グリーンが若くしてトレーナーとして成功した要素の一つには、ポケモンに対する豊富な情報と、それらを知識として自由に落とし込むことのできる柔軟な発想力にあった。もともと携帯獣学者オーキドの孫で、ポケモンの情報と向き合うことに抵抗のなかった彼は、祖父に託されたポケモン図鑑片手にカントーを周り、ありとあらゆるポケモンの情報を網羅した。そのうちに彼は、ポケモンたちの相性や、どのようなポケモンがどのような強さを持つかということや、技に対する造詣を深め、遂にそれは、ポケモンリーグチャンピオンに至るまでの強力な武器となった。

 薄型端末には、アローラ地方のポケモン、ジャラランガについての情報が記載してある。こちらに関してはグリーンが新しく知る情報は無かったが、やはりドラゴンらしくアローラでもかなり格のあるポケモンであるようだった。
 手元のノートには、情報や対策がびっしりと書き込まれている。しかし、グリーンはそれを作ることになんの苦痛も感じていないようだった。
 むしろ、調べれば調べるほどに、サケイが優れたトレーナーであることがわかってくる。そして、その誇りを汚された彼が激高する理由も、うっすらと見えてくる。
 アローラのトレーナーは、カントーで言うところのジムシステムのような仕組みを持っている、それぞれの島でそれぞれの試練をこなし、それぞれの島の王に認められることで、神へとより近づくようなシステムだ。
 あの強さ、そして、あの自信からして、サケイはそれらの試練を全てこなし、神に認められたのだろう。


 ふと何気なく、彼はページを一枚めくって『選ばれた男』と書き込んだ。


 本当に何気なくだった、その単語は純粋にアローラでのサケイの立ち位置を客観的に表した言葉で、その立場から、彼の戦いへの考え方を連想しようとした、それだけだった。


「神に選ばれた男」


 それも、何気なくつぶやいただけだった。サケイはZ技を発動するためのリングを持ち、おそらくそれは、アローラで神と崇められるカプから授けられた輝く石を加工したものだろう。つまりサケイはグリーンが呟いたとおり、神に選ばれた男であった。

 だからこそ、だからこそあの自信を持ちえるのだ。神に認められたという自負が、あそこまでの自我と強さを作り出している。

 そこまで考えて、グリーンは、その単語は、もしかしたら自分と相反するものなのかもしれないという発想を思い浮かべた。

 だが、彼は頭を振ってその発想を脳裏から追い出した。ブルーライトカットのためのメガネを取り、目頭を押さえる。
 そのネガティブな発想は、あっているかどうかはともかくとして、今は必要のないものだった。
 久しぶりの一夜漬けだった、サケイに勝つために、今はそれ以外のことを考える時間は無駄だった。











 トキワシティは、その日も晴れていた。風がトキワの森の木々を揺らし、何匹かの鳥ポケモンが、それを合図に飛び立つ。

 カントー最難関、トキワジムの前に、サケイは立っていた。昨日と同じくきっちりとスーツを着込み、昨日に比べればややおとなしいデザインのネクタイを締めている。
 ジムの扉に手をかけ、彼は手首をひねった。彼に手首にはめられたリングは、ドアノブと同じように回った。ひんやりとした空気が、ジムの中から這い出てくる。扉が開いたということは、おそらくその向こう側に、グリーンが待ち構えているだろう。

 扉が開いたことを、サケイは特に意外には思わなかった。たとえ戦士として死んでいようと、過去や立場が、彼を逃避させなかったのだろうと思っていたからだ。

 だから対戦場の中央で待ち構えるグリーンと相対したとき、サケイは自分の考えが、ポケモンリーグチャンピオン経験者に対する敬意を欠いていたものだということを十分に理解した。

 大きく、そして、相手を見下ろすように立つはずだった。壊れた戦士は自らを恐れ、恐怖し、それでも戦士であるという足かせが、小さく、小さな存在として自分自身を見上げるはずだった。その小さな戦士がグリーンであり、今日、自分はそれを叩き潰すのだと、サケイは確信していたのである。

 だが、グリーンは自身と同じ目線を持っていた。その表情から、壊れた戦士の死臭は感じられず。目には、まだ光が見えた。

 しかし、グリーンがまだ完全に立ち直り、戦士としての誇り全てを取り戻したわけではなく、そこには迷いと、恐怖と、怯えがあるようだと、サケイは見抜いていた。

 思わず「いい顔だ」と、サケイは開口一番に言った。

 グリーンはそれを不満に思っただろう。歳上とはいえ、サケイがその様に称賛することは、まるで格付けされているような気分になる。つまりその賞賛は、サケイが格下であるグリーンを、あえて褒めるようなことだと。
 半分は、正解だった。昨日の戦いにて、明確な勝利をしたサケイには、グリーンを格下に見る権利がある。

 しかしもう半分は、不正解だった。むしろその逆、サケイはグリーンのトレーナーとしての格に圧倒され、思わず跪きたくなるような尊敬を覚えたのだ。そして、戦いの前にそれを悟られるわけにはいかぬと、彼なりに強がった。

 神を信じぬこのカントーの地の少年が、たった一人、たった一人の意思で大きな恐怖に打ち勝とうとそこに立ち、自身を迎え撃とうとしていることに、彼は感動していたのだ。

 戦士としての誇りを持ち、確かな希望を持ちながらも、そこに恐怖と怯えが存在していること自体を、サケイは愚かとは思わない。

 むしろ、それが普通なのだと、彼は思っている。戦いながらも、そこに恐怖と怯えが存在しない人間を、人も自分も、狂人と呼ぶだろう。そこにそれが存在するのは、当然のことなのだ。

 そして、自分たちアローラのトレーナーの多くは、神を信じることによってそれを克服している。神に認められたこと、神に祝福されていること、神に捧げる目的があること、それを強く信じているからこそ、自分達はそれに打ち勝つことが出来る。

 だが、目の前の少年は、神を強く信じぬカントーの民であるのに、それに打ち勝っていまここに立っている。彼の表情から恐怖や怯えが感じられるのは、彼が狂人ではないことの証だった。

「ルールは、昨日と同じでいいだろう?」
 それに頷くグリーンに背を向けながら、サケイは観客席をみやった。
 たった一人、そこには観客がいた。小さなピカチュウを抱えてこちらを眺めているその女性を、サケイもよく知っている。

 彼女が、彼を立ち直らせたのだろうか。
 いや、違うだろうなと、サケイは苦笑いしてそれを否定した。それが出来るなら、とうの昔にそれをしていただろう。
 サケイは、それに自身が関与しているということに、全く気づいていないようだった。
 彼はグリーンから離れながら微笑む。
 この試合に、全く期待はしていなかった。壊れた戦士に、自身が壊れていることを気づかせるための、あまりにも実りの無い、虚しく、悲しい試合を淡々とこなすだけだと思っていた。

 だが、この戦いは、そうはならないだろう。
 グリーンが持つ希望が、自分の持つ武力を上回るかどうかはわからない。あるいは、彼が持つ希望すらも、自分が食らい付くしてしまうことも、十分にありえる。希望すべてが、野望を果たすような簡単な世界を、神は作っていないだろう。
 十分な距離をとったサケイは、振り返ってグリーンを見た。
 自分と同じように対戦場の中心から離れていた少年は、自分と比べてまだ低い身長のせいか、まだこちらに背を向けている。

 ジムの窓から差し込む朝日が、彼を照らしていた。どこからか吹いた風が、ガタガタと窓を揺らし、グリーンはそれに気を取られるように振り向く。

「風が、吹いている」と、サケイは呟いた。

 彼の故郷アローラでは、風は変化をもたらすものとされている。きっとこの風は、アローラにも届くだろう。そして、神も、この風を感じるに違いない。

 サケイは、ジャケットから腕を抜いた。汚れることを気にすることなくそれを床に放り投げると、今度はネクタイを雑に首から抜き、シャツのボタンをいくつか外す。
 左腕に嵌められた腕時計も外し、ポケットに収めた。最近の技術の向上は、腕時計を大分頑丈にしていたが、彼はそれを、自分達のゼンリョクに耐えることの出来るものではないだろうと考えていた。











 サケイが繰り出したペルシアンの異質さを、グリーンはすぐに理解知ることができた。

 最も、グリーンのように知識のある人間でなければ、繰り出されたそのポケモンが、種族的にはペルシアンに位置することすらわからなかっただろう。グレーの毛並みは見てわかるほどに上質で、まるまると太った顔立ち、四足であることと、その額にきらめく宝石があることを考慮しても、カントーやジョウトの人間が普段見慣れているペルシアンとは全く違う姿だ。
 だが、昨晩の『予習』にて、グリーンはアローラの一部のポケモンたちの特殊な生態を知識として吸収していたのだ。

 カントーからアローラに渡ったポケモンたちは、それまでとは違う環境に適応するために、独自の進化を遂げた種類もいる。そして、ペルシアンもそのようなポケモンの一つだった。
 そして、それを知る他地方の人間は少ない。ペルシアンはアローラでは高貴で美しいポケモンとして厳重に保護されている、他地方に連れて行く場合には厳重な検査が必要なほどに。

「『ねこだまし』!」
「『まもる』!」

 ペルシアンと同じく四足のサンダースは、ペルシアンが敢行した奇襲から身を守ってすぐさまに距離をとった。ポケモン全体を通してもトップクラスの俊足は、間合い取りに関しては他の追随を許さない。

 その様子を見て、サケイはグリーンがこの戦いのために自分達アローラ地方についての見聞を深めている事を察知し「なるほど」と呟いた。
 サケイはそれを卑怯だとは思わない、全力というものは、その試合の中でのみ発揮されるものではない。その戦いのための備えを怠らないことも、グリーンが発揮することの出来る全力の一つだろう。

 ペルシアンとサンダース、それぞれ四足のポケモンが、一定の距離を挟んでにらみ合う。
 速さではわずかにサンダースに分があるだろう、だが、かと言ってグリーンから積極的に動くわけではない。サケイほどのトレーナーならば、下手なスキを見せれば容易に迎撃するだろう。
 故に、サンダースは一旦離れた間合いをジリジリと詰めるようにして得意な距離に身を置こうと動いている。『かみなり』などの大技が攻撃として計算できる間合いに。
 そして、ペルシアンもじりじりとそれから離れるように距離を取りながら、サケイの指示を待っていた。

 距離を詰められれば距離を取ればいい、だが、それが永遠に続くわけではない、それを続ければ、彼らはやがて対戦場の隅に追いやられてしまうだろう。グリーンと彼の最も古い相棒であるサンダースは、そのスピードを持ってしてサケイとペルシアンに圧をかけ続けているのだ。先に動かなければならないのは、ペルシアンの方。

 やがてペルシアンは、意を決したように前足を跳ね上げる。
 それを合図に、二人にトレーナーは動いた。

「『すてゼリフ』!」
 サケイの指示とともに、ペルシアンはけたたましい鳴き声を上げながらバックステップして彼の持つボールに戻った。

 その技は、相手にやる気を削ぐような酷い鳴き声を逃げながら放つ特殊な技で、『とんぼがえり』や『ボルトチェンジ』のように攻防の中でサイクルを回しつつ、相手のやる気が削がれた状態で意図したポケモンを降臨することの出来る強力な技だった。
 そしてサケイは、二番手であるハリテヤマを対戦場に繰り出した。
 ここまでは、サケイの想定どおりに事が進んでいた。あとはやる気の削がれたサンダース相手にハリテヤマを暴れさせるのみ。

 だが、対戦場にサンダースはいなかった。

 想定が外れたサケイが睨みつける対戦場に、新たにフーディンが繰り出される。
 グリーンは、その消極的ながら強力な連携を読み取り、サイクルを駆使することによって『すてゼリフ』をかわしていた。
 それもまた、彼の持つ知識のおかげだった。
 すてゼリフと言う技そのものの知識があったわけではない、もともと持っていたペルシアンという種族の熟練した搦め手の意識、そして、アローラ地方に適応し『悪』タイプに進化していたことから、そのような一癖あるが強力な連携があるのではないかという予想からの行動だった。

 格闘タイプであるハリテヤマとエスパータイプの大本命であるフーディンの対面。グリーンにとっては最良、そしてサケイにとっては最悪の状況となっていた。
 だが、サケイとハリテヤマはたじろがない、アローラ、そしてカントーで、このような状況はいくらでも体験し、そして打ち勝ってきた。それだけの実力は、確固たる自信を作っていた。
 むしろその対面を理解したその瞬間に、ハリテヤマは一気にフーディンとの距離を詰めるために地面を蹴った。この対面で時間をかければかけるほどより不利になってしまうからだ。

 しかしグリーン、そしてフーディンも、このような状況はいくらでも体験してきた。
「『まもる』」
 フーディンはハリテヤマを十分なほどにひきつけてから、サイコパワーによる防御壁を作った。ハリテヤマの『ねこだまし』を警戒した選択。瞬発的な動きで迫るハリテヤマの本命はこの『ねこだまし』を確実に決めることだろうとグリーンは予測した。
 ハリテヤマの攻撃が防御壁を叩く、フーディンは防御壁を消して攻撃に意識を割いた。
 だがその次の瞬間、ハリテヤマがその隙間を突いてフーディンを小突いた。ハリテヤマの巨体と力強さを考えればそれは軽い攻撃だったが、体力と防御力に乏しいフーディンにとってはバカにならないダメージとなる。

「『フェイント』」と、グリーンは奥歯を噛み締めながら反射的に呟いた。
 フェイント、と言う技は、相手の反射神経を利用するような高度なテクニックで『まもる』などの防御態勢を取っている相手のタイミングを外す事も目的とされている。サケイはハリテヤマの思い切りとプレッシャーをかけながら露骨な『ねこだまし』をちらつかせ、それにグリーンとフーディンが反応して正確に『まもる』事を信頼しつつ、その裏をかく選択肢『フェイント』で体力のリードを取ったのだ。

 一瞬だけ、グリーンは自身の判断ミスを後悔した。昨日の対戦の中で、サケイが人間同士の格闘技の動きを上手く伝え、それをポケモン同士のバトルにも応用できていることはわかっていたはずだ。それならば、どうしてこの『フェイント』の連携を予測できなかったのか。
 その後悔をすぐさまに振り切って、グリーンはフーディンに指示を出すことを考える、いっとき有利な展開にされたが、それでもハリテヤマではフーディンの速さを上回れない。

「『サイコキネシス』!」
「『バレットパンチ』!」

 しかし先手を取ったのはハリテヤマの方だった。弾丸のようなスピードの『バレットパンチ』がフーディンの顔面をとらえる。
 その技そのものも威力の高いものではないが、やはりフーディンは打撃に弱い、体から力が抜け、仰向けに倒れようとする。だが、彼はすんでのところでそれをこらえ、両手のスプーンを構えてグリーンの指示通り『サイコキネシス』を放った。
 ハリテヤマは当然それに備え、それを受ける覚悟を決めていた。ケンタロスやジャラランガとのぶつかり稽古の中で、覚悟さえ決めてしまえばどんな攻撃が来ても倒れることのないタフネスを、彼は手に入れていた。それが来ると分かっている。それを覚悟する、そうすればまだ戦えるはずだ。
 体を貫く衝撃、そして痛み。
 それを覚悟していたハリテヤマはそれをこらえようとする。少しだけ耐えられるということは、永遠に耐えられるということだと彼は思っている。

 事実、彼の精神はその技に負けてはいなかった。しかし、肉体は、生物としての構造は、それを許さなかった。
 尻餅をついたフーディンに対し、ハリテヤマはピンと背筋を伸ばしたままに、仰向けに倒れた、大きな地響きがジム中に響き渡る。

 サケイは、信じられない思いでそれを眺めた。これまでの経験では、あの『バレットパンチ』でフーディンは倒れていたし、あの『サイコキネシス』も、覚悟を決めたハリテヤマは耐えるはずだった。
 これこそが、殿堂入りトレーナーのゼンリョクかと、サケイは感激する。
 そして、次の瞬間には、尻餅をついていたフーディンに、ペルシアンの『ねこだまし』が炸裂していた。それに感激しながらも、サケイの判断は速い。

 そして、それはグリーンも同じであった。
 瀕死のフーディンを残していても、あくタイプであるアローラ地方のペルシアンに対しては無力、ならばせめて最後の抵抗に『きあいだま』などの大ダメージを取ることの出来る選択をするのが正しい。
 結果としては『ねこだまし』でフーディンが戦闘不能になったが、それでいいとグリーンは判断していた。もしここで『ねこだまし』を警戒した『まもる』を選択して、『つめとぎ』や『わるだくみ』などで能力を引き上げられるとそれこそどうしようもなくなる。

 フーディンをボールに戻しながら、グリーンはすぐさま次の行動を取る。
 繰り出されたサンダースは、すぐさまに体全身を光らせ、様々な色が練り込まれた『シグナルビーム』をペルシアンに放った。
 虫タイプの要素がある『シグナルビーム』は、あくタイプのアローラペルシアンに対して効果が抜群だ。更にサンダースの速さを持ってすれば、さすがのペルシアンも避けきることはできない。

「『いばる』!」
 それが直撃したペルシアンは足元をふらつかせながらも、鼻息荒くサンダースを挑発する。それは怒りで我を忘れさせる催眠術の一種で、相手の凶暴性を引き上げる代わりに相手を混乱させることが出来る技だった。ペルシアンが得意としている相手の攻撃を利用する技『イカサマ』との相性が抜群にいい。

 だが、その狙いは無いだろうとグリーンは判断する。ペルシアンは『イカサマ』でサンダース相手に先手を取ることはできないからだ。そして、もう立っているのがやっとといった風なペルシアンに、そこまでの役割を期待するとは思えない、彼が出来る仕事は殆どやっているはずだ。 
 だとすればやはり、これは後続をより有利にするための作戦なのだろう。

「『でんこうせっか』!」
 万全を期すために、サンダースの速さをより活かせる攻撃でダメ押しに行く。

「『フェイント』!」
 サンダースの前足がペルシアンをとらえるより先に、ペルシアンの長い前足がサンダースを叩いた。ペルシアンが本来持っている俊敏性と柔軟性、そしてサケイの技術が、最速を捉えるテクニックを習得させていた。

 だが、最速はそれでは止められない、サンダースはそのカウンターに臆することなく、右腕をペルシアンの顔に届かせる。
 それは軽い攻撃だったが、ふらふらのペルシアンにダメ押しするのには十分だった。だが、ペルシアンは満足げに微笑みながら地面に倒れる。彼の生まれであるアローラは、イーブイが自生する、よって、彼はその進化形態であるサンダースとの対戦経験は豊富だった。
 強烈な『でんこうせっか』だった。あの種族の『でんこうせっか』で、これより良いものをもらった記憶はない。『いばる』の効果は、確実に現れている。
 だとするならば、残りはアンカーであるアイツがやってくれるだろう。自分ができる限りのことはやった、あとは、アイツを信じるのみ。

「よくやった」

 同じことを思っていたのだろう、サケイはそう労いながらペルシアンをボールに戻した。戦いの途中にそのような言葉をかけることは彼には珍しいことだった。

「行って来い!」

 短く、そしてしっかりと言い切りながら、彼はラストのボールを対戦場に投げた。

■筆者メッセージ
拍手メッセージありがとうございます!
来来坊(風) ( 2019/02/28(木) 21:40 )