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その男は、次を待ち構える相棒をボールに戻し、対戦相手のトレーナーに憐れみの視線を飛ばしていた。
「カントーは進んでいる土地だと聞いていたが、どうやら勘違いだったのかもしれないなあ。都会を神聖化する愚かな田舎者たちがそう言ったのか、はたまた、自分たちを優れた人間であると信じたい都会人の選民思想がそうさせたのかはわからんが、私もその思想に感化されていたことを考えると、これは笑えない冗談だな。屋敷の守衛の者たちのほうが、もうちょっとまともな戦いをする」
相手のトレーナーは、その明確な侮蔑に対し、頬の内側を噛むことでしか不服の表現をすることができなかった。カントーバッジを八つ集めている自分が、ここまで無様に敗北するという現状は、その男にそう言わせるのに十分すぎる結果だった。それに対して声を大にして反論するには、自身の強さが、あまりにも不釣り合いだった。
押し黙る相手に呆れの感情も覚えつつあったその男は、雲ひとつない空を見上げて呟く。
「やはり、あの男しかいない」
雲ひとつない空は、その男を笑顔にした。
「レッドしか、レッドしかいないのだろう」
その空を、神と共に眺めていることを、その男は疑いもしていない。
「彼こそが、神への供物にふさわしい」
☆
もう時代遅れになりつつあるブラウン管テレビには、四人の少年が線路の上を歩いている映像が写っていた。時間としては、テレビ局が最も力を入れている番組が流れていても不思議ではない夜の時間帯にあまりにもふさわしくないずいぶんと古いその映画は、持ち主の好みなのだろう、ビデオテープで流されている。
「なにか、連絡はありましたか?」
グリーンは椅子に座っている女性、レッドの母親に向かってそう言った。いくら小生意気な少年でも、年上の大人に対して敬語を使うくらいの常識はあったし、何より男というものは、それが誰であれ、母親というものには弱い。
「いいえ、なにも」と、レッドの母親は答える。
シロガネ山の騒動から二日が経っていた。ピカチュウを保護したグリーンは、なんとかレッドと連絡をとろうと試みていたが、このご時世にポケギアすら持っておらず、住所があるわけでもないレッドを捕まえることはできなかった。
唯一レッドの連絡先と考えることができる彼の実家にもシロガネ山の騒動は伝えたが、日にちが経ってもレッドからの連絡はないという。
今日も、レッドの足取りをつかめなかったことに少し焦りを感じるグリーンに、レッドの母親は「ねえ」と声をかける。
「そんなに焦る必要は無いと思うの」
それは、意外な言葉だった。少なくとも、グリーンはそれを予測していない。
返答に詰まる彼に、レッドの母はさらに続ける。
「あの子がふらっといなくなるんていつものこと、冒険に出たときだって、私に何の連絡もなかったのよ。だから、今回もきっとそうよ、あの子なら、またひょっこりと帰ってくるような気がするの」
それは、あまりにも楽観的な感覚だとグリーンは少し驚いて思っていた。
確かに、レッドは少し突発的で、周りに何も言わずに突っ走る傾向があったかもしれない。だが、今回のことはただごとではない、あのレッドがピカチュウを置いてどこかに行くだなんて、考えられない。
母親ならば、それがわかりそうなものなのに、と、グリーンがそれを説明しようとした時、彼は、目を伏せたレッドの母親の足が、少し震えていることに気がついた。
それを見て、グリーンは気づく。
レッドの母親は、決して楽観的な感覚から沿う感じているのではない。彼女は、自分の息子がどこかで無事であって欲しいと願うばかりに、自らに都合のいいような考えを、妄信的に信じ込んでいるのだと。
だからグリーンは、それ以上彼女を責めなかった。
「確かに、そうかも、しれませんね」
彼は感情を押し殺み、少し微笑んでそう言った。
☆
「じいさん!」
オーキド研究所内に響いたグリーンの声に、研究者達はそれまでと違って少しピリついた雰囲気を作った。グリーンの今の心境を考えれば、研究者たちがそうなるのも無理はなかった。
憔悴しきったピカチュウを保護したグリーンは、それをポケモンセンターではなく、オーキド研究所に連れて行った、研究所にポケモンセンターと同じ回復施設があることを知っていたし、何より、そこにはポケモンの関する最高峰の知識が揃っていることも知っていたのだ。
「おお」
オーキドはそれに険しい表情で振り返り、すぐさまにその傍にあった簡易的で小さなベッドに視線を戻した。
そこにあったのは、一面の白の中にうごめく、白と黄色のまだらだった。体の半分以上を包帯に巻かれたその黄色は、小さくではあるが、確かにゆっくりと膨らみ、そしてゆっくりとしぼむのを繰り返す。
「もう、回復したのか?」
グリーンは祖父のもとに歩み寄り、そのベッドの中、眠っているピカチュウを覗き込み、包帯の隙間から見えるその表情が、幾分か穏やかになっている。それを確認して、グリーンの中にあった大きな不安が、ほんの少しだけ和らいだ。
グリーンの判断は、結果的に大正解だった。『死と瀕死の間』にあったピカチュウは研究者達によって適切な処置をなされ、気力と体力の回復を待ってから回復施設を利用するという判断がなされた。
「いや、まだじゃ、回復したあとのことを考えて、お前が来るのを待っておった」
「俺を?」
予想外の返答に、グリーンが聞き返す。
だが、オーキドの言葉は変わらずだった。
「お前がいないとこのピカチュウはコントロールできんじゃろう。この子を止めるトレーナーがいなければ、またレッドを探すために無茶をする」
オーキドの言葉にグリーンはハッとした。確かに祖父の言う通り、他人のポケモンでありなおかつかなりの高レベルであるピカチュウを扱えるのは、この近辺では自分しかいないだろう。そして、自分がその役割を果たさなければ、ピカチュウが再びシロガネ山に向かうかもしれないこともそのとおりだ。
心の何処かで、そのピカチュウもまた一匹のポケモンであるということが頭から抜け落ちていた。
「頼んだぞ」
オーキドは、空のモンスターボールをグリーンに手渡した。グリーンはそれの意味するところを今度はすんなりと理解する。
「ピカチュウ」と、グリーンはそれをピカチュウの視界に入れて揺らす。
ピカチュウは、一瞬それから顔を背けるような素振りを見せたが、もう一度グリーンがその名を呼ぶと、今度はわずかに頷いて、ボールの中に吸い込まれていく。
その仕草を見て、やっぱりレッドの手持ちだなと、グリーンは再び確信した。そのピカチュウは、ポケモンにしては珍しく、モンスターボールに入ることを嫌っていた。いつも傍らにピカチュウを連れていたレッドが、ポケモンセンターでは大変なんだと苦笑いをしていたのを思い出した。
「じいさん」
グリーンの言葉に、オーキドは彼からモンスターボールを受け取り、それを回復装置にセットした。
「リスクはあるのか?」
「わからん、手は尽くしたが……」
回復装置が起動し、聞きなれた音楽が流れる。本来であれば手持ちのポケモンたちが元気を取り戻す喜びのその音楽が、今は緊張と、不安を煽る。
回復装置が意味をなさなければ、それは、そのポケモンがもうどうあがいても助からないことを意味している。その絶望感は、味わったものにしかわからない。例えばそう、グリーンのように。
音楽が鳴り終わり、回復装置が停止する。技術の進歩は、彼らが緊張と不安に体をなれさせることを許さなかった。
「俺が」
グリーンはオーキドを手で制し、自らが回復装置からボールを取り出した。別に深い意味があるわけではない、ただ、オーキドよりも彼のほうが、より早くその息苦しさから開放されたかったのだ。その先にあるものが、安堵なのか、より深い苦しみなのかは、そのときはまだわからない。
だが、その安堵は予想よりも早くやってきた。そのモンスターボールは、グリーンが装置から取り出してすぐにカタカタと震え、次の瞬間には、勝手に開いて中からピカチュウが飛び出してきたのだ。
それに驚きの声を上げながら、グリーンはピカチュウを胸に抱えた。いい反射神経だった。
その様子見を見て、オーキドが「おお」と、感嘆の声をあげる。
「良かった、治療は成功のようじゃ」
腕の中でジタバタともがくピカチュウをなんとか抑えながら、グリーンもオーキドと同じことを感じ始めていた。これだけ動けているのだ、少なくとも先程よりかは元気に違いない。
「よーしよし、落ち着け、落ち着けよ」
グリーンは腕の中で暴れるピカチュウをなんとかなだめようとした、ピカチュウが落ち着かない理由はよく分かる。彼はレッドを探すために再びシロガネ山に向かおうとしているのだろう。もしかしたら、自分が今どこにいるのかもわかっていないのかもしれない、ほんの少し前まで、彼は意識すら朦朧としていたのだ。
グリーンが少しそれに手を焼き、思わずピカチュウがグリーンの手からこぼれそうになった時、グリーンの腰にあったボールが震え、彼の手持ちであるサンダースが飛び出して一つピカチュウに何かを語りかけるように鳴き声を上げた。
それがどのような意図のあるものかはグリーンたちにはわからなかったが、ピカチュウはそれに我に返ったように動きを弱め、少し周りをキョロキョロと見回した。その途中で、抱えているグリーンとも目が合う。
「どうも」と、グリーンは言う。
ピカチュウは、ようやく今の状況を理解しようと努め始めたようで、周りに集まって研究員たちやオーキドを視界に入れ、そこが懐かしき場所であることを飲み込んだ、彼は今度は短くチッチとグリーン相手に鳴き声を上げ、腕をバタつかせて自分を下ろすように要求した。今度はグリーンもすんなりと彼を下ろす。
ピカチュウは鳴き声を上げながらサンダースに近づいた。サンダースも鳴き声でそれに答えて、二匹は何らかの意志の交換を行い始めた。
「ひとまずは、安心だな」
「そうじゃのう」
グリーンとオーキドは、ようやく一息ついた。
「この先はどうするのじゃ?」
オーキドの言葉に、グリーンは少し考えて答える。
「レッドが見つかるまでは、俺が預かろうと思うんだけど」
「ああ、それが一番いいじゃろうな」
見れば、ピカチュウの耳と尾が、先程と違って悲しそうに垂れ下がっていることに気づいた。サンダースが、うまく状況を噛み砕いて説明してくれたのだろう。
「安心しろよ」
グリーンがピカチュウを後ろから抱え上げながら言う。
「警察にも言ったし、知り合いにも声をかけてある。俺だって、時間がある限りはあいつを探すさ。今日はもう遅いから、ゆっくりと休もう」
ありがとうな、とサンダースにも語りかける。彼女は少し心配そうな目線をピカチュウに向けた後に、自らグリーンのボールに戻っていった。
「じゃあ、俺は帰るよ。ありがとなじいさん」
「おお、気をつけて帰りなさい」
「この埋め合わせは、またどこかで」
「無粋なことを言うな、いつでもワシを頼ってくれ」
笑顔を見せるオーキドに、グリーンは更に言う。
「じゃあさ、虫除けスプレーを一本なんとかしてくれよ、別にここらへんのポケモンに苦戦するわけじゃねえけどさ、今日はちょっと気分じゃねーわ」
☆
「ただいま」
カード式の鍵をポケットに収めながら、扉の向こうの暗闇に向かってグリーンが言う。誰かが返事をするわけでもない、誰もいないのだから。
短い廊下を渡ってから馴れた手付きで壁のスイッチを押し、一日ぶりに部屋に明るさが戻る。
ポケモンと暮らすために作られた必要以上に壁のない一体型の部屋は、主であるグリーンの年齢を考えれば不自然なほどにきっちりと片付いている。それは、予告なしに訪れる姉の存在に頭を悩ませたグリーン少年の、精一杯の抵抗だった。
「ちょっと待ってな」
抱えていたピカチュウをひとまずベッドの上に下ろすと、グリーンはベッド下の収納を引き出して漁る。
「確かこの辺に、予備の籠が……」
グリーンがかがむのと同時に、彼のボールから二匹のポケモンが飛び出した。ピジョットとサンダースだ。
彼らは一旦ベッドの上に降り立ち、まだ少し慣れない部屋に緊張しているピカチュウに頬ずりした後、籠と毛布で作られた彼らの寝床の中に飛び込んだ。それはずいぶんと安作りだったが、彼らはそれが気に入ってるようだった。
「そいつらも、家ではボールから出るんだよ」
目当ての籠を見つけたグリーンは、同じくベッド下の収納から、それに入れるための毛布を取り出してピカチュウのための寝床を作った。
「じゃ、お前ら、新入りにも優しくしろよ」
彼らの寝床の直ぐ側に新しいそれを置いたグリーンは、冗談っぽく二匹に言った。二匹は機嫌よくそれに鳴き声で答え、ピカチュウのために作られた寝床を少し弄って整え、ピカチュウを呼んだ。
ピカチュウもそれに答えてトコトコとその寝床に向かう。グリーンの手持ちの中でも古参のサンダースとピジョットは、レッドのピカチュウとはほとんど顔なじみの存在だった。
身体的には回復したとはいえ、精神的には相当参っていたのだろう。ピカチュウはそれに入って少し体を捻って毛布を整えると、すぐにスヤスヤと寝息を立て始めた。
グリーンはそれを見届けてから、自身も寝る支度を整えるために浴室に向かった。彼もまた、ひどく疲れた一日だった。
☆
家に帰ってからは特に何のトラブルもなかったな。それがベッドの中で今まさにまどろみに身を任せようとしていたグリーンが思っていることだった。
しかし、小さな鳴き声と共に彼の頬に触れるものがあることに気付き、彼は全く想定のできない何かが起きたのではないかと一抹の不安を覚えながら目を開く。
暗闇に慣れたグリーンの目に写ったのは、新入りのシルエットだった。
「どうした?」
ピカチュウの頭や耳の付け根を撫でながらグリーンが彼に問う。見れば、彼の耳は垂れ下がり、しっぽも元気がない。聞けば、何かを懇願するように、小さく小さく鳴いていた。
グリーンは、ピカチュウが求めているものがなんとなく理解することができていた。もしそれが勘違いならばとんだうぬぼれだなと考えつつ、彼はピカチュウと向き合うように体を横向きにし、掛け布団をめくってスペースを作る。
ピカチュウはそれに耳と尻尾を少し反応させると、グリーンが誘うままにそのスペースに赴き、彼の胸の中でクルリと小さくなった。
それに掛け布団をかけてやりながら、グリーンはピカチュウを抱えるように腕を回し、ピカチュウはそれを拒絶しなかった。
グリーンはポケモンではない、だからピカチュウの心境すべてが分かるわけではないし、彼の置かれている境遇のすべてを理解できるわけでもない。
だが、ポケモンを残して去るということが、トレーナーとしての倫理観から大きく外れたものであり、その理由が、残されたポケモンの心境を察することにある事は知っているし、だいたい想像ができる。
「寂しかったよな」
本当は、それ以上の苦しみを、ピカチュウは感じていただろう。だが、人間であるグリーンは、それ以上のものを想像できない。
何やってんだよ。
グリーンは、幼馴染に対してそう思った。
ピカチュウを落ち着かせるために体を撫でてやると、彼の毛並みがひどく乱れていることにようやく気がついた。明日、実家によって姉にトリミングしてもらおうと思った。
「心配すんな」
サンダースやピジョットを起こさないように、小さな声でピカチュウに語りかける。最も、人間よりはるかに優れた聴覚を持つ彼らにとって、それは意味を成さないことなのだろうが。
「もう少し待ってりゃ、きっとひょっこり帰ってくるさ」
本心からの発言ではなかった。だが、彼を安心させるためには、そう言わざるを得なかった。もしかしたら普段より高鳴っているかもしれない鼓動に、彼が気づかないことを、グリーンは祈っていた。
その言葉が、レッドの母に言われた言葉とほとんど変わりがないことに彼が気づいたのは、その言葉が、寂しさに震える自分への愛から生まれたものだと知ったのは、夢の中で、彼がワタルを倒した頃だった。
☆
「貴女のような素晴らしい女性に出会えたことを、私は神に感謝せねばなりません。我が故郷のアローラにも、貴女のように美しい光景は存在しないでしょう。アローラの神々が美しさに嫉妬しないことに、今日ほど喜びを覚えた日はありません。貴方の存在への感謝に送るべきグラデシアの花すら、貴女と並べられることを恥じて薄紅に染まるに違いないでしょう」
経験者ならば容易に理解できる感情だが、身内の人間が口説かれている場面に遭遇するのはキツイ。できれば今すぐに踵を翻してその場を後にしたくなるだろうし、その後その身内と二人きりになったときに、悪態の一つも付きたくなるかもしれない。
実家の玄関を開いたグリーン少年を待ち受けていたのは、そのようなたぐいの試練だった。彼はこれに言葉をなくして立ち尽くし、彼の後について玄関をまたいだピカチュウも、全く見覚えのないその男に戸惑っているようだった。
テーブルを挟んで姉の対面に座る今にも姉の手を握ってしまいそうなその男は、グリーンの登場にも全く動揺していないようだった、何なら彼の前でもう少し口説き文句を重ねようかとしていてもおかしくはない。こなれた着こなしのダークスーツは、彼の余裕を感じさせた。
「やあどうも」
その男は勿体ぶった動きで立ち上がると、そのままグリーンに右手を差し出した。
グリーンはようやくその状況を理解しようと努め始め、その男が自分より長身で、よく日に焼けた肌色をしていることを認識した。
「トキワジムリーダー、グリーン君だね。私はサケイ、一つ君に頼みたいことがあって、家にお邪魔させてもらったよ」
戸惑いながらも、グリーンはサケイの右手を握る。分厚いながらも少し硬さのある感触は、サケイがグリーンやナナミのような若い人間ではないことを物語っていた。
するとサケイが突然にその場にかがみ込んだので、グリーンは驚いて一瞬身構えたが、サケイは彼の足元にいたピカチュウ相手に目線を合わせる努力をしながら、同じく右手を差し出して、ピカチュウの小さな手を握った。
「俺が目的のようには見えませんでしたが」
どうやら悪い人間ではなさそうだとグリーンは判断し、本気半分戯れ半分に冗談を言った。勿論、先程のナナミに対する口説きへの皮肉だ。
グリーンの冗談に、立ち上がったサケイは笑顔を見せながら答える。
「それが礼儀さ、女性の努力を尊重しなければその国に未来はない。突然の訪問にもかかわらず私を招き入れて入れた君のお姉さんに対する感謝もあるがね」
「トキワジムに来ればより確実だったのに」
「私もそう思って昨日トキワジムを訪れたんだが、あいにく留守だったようでね」
ああ、と、グリーンは唸った。
「それはすみません。ここのところ開けることが多くて」
グリーンの謝罪に、サケイは手を振りながら笑って答える。
「構わないさ、私がバッジを集めようと躍起になっているカントーのトレーナーなら話は違ったかもしれないが」
その言葉を、グリーンは不思議に思った。彼はサケイがジムバッジ取得のために自分に挑戦しに来たのだとほとんど確信していたからだ。八つ目のジムバッジであるグリーンバッジには、中年の挑戦者も多い。
「早速だが、レッドというトレーナーが今どこにいるのかが知りたい」
サケイはその言葉を、まるで初めて入ったアパレルショップで店員にジーンズの場所について問うように、なんでもなく言った。
しかし、グリーンとナナミ、更にピカチュウはそれに表情を固くし、家の中に緊張感が生まれる。
最も、こればっかりは仕方がない、サケイと彼らの中にある『今のレッド』の認識に違いがありすぎる。
その認識のギャップをサケイも感じたのだろう。彼は少しだけ考えるような沈黙を作った後にグリーンに問う。
「これは聞いたらまずいことだったかな?」
それは何も間違えていることではなかったが、グリーンは「いや」とそれを一旦否定してから続ける。
「今はちょっと連絡が取れなくなってるんですよ、あいつはポケギアも別荘も持ってるわけじゃないから、今すぐにってなると難しい」
グリーンの返答に、サケイは「ふうん」とため息のように鼻を鳴らした。
「そうか、それなら仕方がない。だが、そうなれば、私もかなり計画を変更しなければならなくなるなあ」
「計画?」
グリーンはサケイの言葉の一部を返して彼に問う。計画と言うその単語が、彼には少し物騒に聞こえたからだ。
「そうとも、これは個人的な話だがね」
サケイはそう答えてから一拍置き、グリーンたちがそれを語ることを拒否しないことを確認してから続ける。
「新しい事業を起こすことになったんだ。私の故郷、アローラ地方を大きく変えることになる通信事業、アローラと世界をつなぐポケモン転送システム。できれば、いや、絶対に失敗したくはないし、失敗する訳にはいかない」
グリーンは、彼の言葉に頷いたものの、心の中では首を捻った。そのこととレッドとのことがまだ結びつかなかった。
しかしそれは、サケイの次の言葉で繋がりを持つ。
「だから私は、レッドとの戦いを神に捧げることにした」
最も、それはあくまでサケイの中だけでの繋がりであり、グリーン達はそれを唐突なものだと思った。
「神?」
彼らを代表して、グリーンが一番の疑問をぶつける。
「そう、神だ」
サケイがなんでもないようにそれを繰り返したので、室内にはまた別の緊張感が漂う。
しかしサケイは、その緊張感にすら笑顔を作った。
「勿論、君たちカントーに住んでる人々からすればそれが不自然で理解の中にはないことだということはわかっているよ」
だが、と言って続ける。
「これはジンクスのようなものだよ、例えば私が神を尊重することなく事業を始めれば、それをしなかったことが生涯の懸念になるかもしれないし、もしそれに失敗してしまえば、神への尊重を失っていたことを生涯悔いるだろう。つまりはこれも、新しい何かのために行うべき下準備のひとつなんだ。やれることは全てやってから何かに望みたいと思うのは、君たちも同じだろう?」
グリーン達は、まだその説明に釈然とはしていなかったが、ひとまずは頷き、そしてサケイは続ける。
「私達の故郷であるアローラ地方は、それぞれの島に四匹のポケモンを神として祀っている。私の生まれたメレメレ島が祀っているのは戦いの神カプ・コケコ。その神は何よりも戦いが好きで、私達アローラのトレーナーが、ゼンリョクの戦いを捧げることを望んでいる。だからこそ私は、最高のトレーナーであるレッドとの戦いをコケコに捧げるために、今日、ここに来たというわけさ。見事に空振りだったけどね」
一瞬、サケイは心底残念そうな表情を見せるがすぐに持ち直し「まあ、それでもこんなにも美しい女性と知り合うことができたのだから後悔はしていないよ」と、ナナミを口説く。
「それじゃあ、失礼しようかな。ナナミさん、お茶と笑顔をありがとう」
そう言って玄関に向かおうとしたサケイに向かってグリーンが言った。
「この後は、どうするつもりなんですか?」
「この後とは?」
「その、神への捧げ物は、どうするつもりなんです?」
「さあね、それは今から考えることにするよ。心配してくれてありがとう」
サケイはグリーンの言葉を自らへの心配だとして受け取ったが、しかしグリーンの真意はそうではなかった。
それを証明するために、グリーンは言う。
「どうして、俺じゃダメなんですか?」
サケイを見上げる瞳には、指すような非難と、そして戸惑いとがあった。少しトーンの変わったグリーンの言葉に、ピカチュウは小さく鳴いて彼のズボンの裾を引くが、彼はそれに気づかない。
神に捧げる戦いの相手にレッドを求める。サケイのそのような考えは理解ができる。そして、そのあてが外れて落ち込む気持ちもわからないでもない。
だが、ここまで、ここまで明らかに、サケイの視界に自分自身が入っていないことを、グリーンは屈辱的に思っていた。
サケイはそれに困惑の表情を見せ、そして、自身の失態に気づいてグリーンから目をそらした。
「申し訳ない、年甲斐も無く舞い上がってしまって周りが見えていなかったようだ。許してほしい」
それは誠意ある謝罪だった。だが、グリーンはそれに納得はしていない。
「俺が、レッドに負けたからですか?」
サケイはグリーンの言葉に返事をつまらせる、それは紛れもない事実だったからだ。そして、その沈黙は、サケイがそれを肯定していることを意味している。
それまで彼らのやり取りを黙って聞いていたナナミは、その沈黙を破らなければならないと考えた。だが、どうすればそれをなすことができるのかがわからない。
そしてサケイは、それ以上の沈黙よりも、すべてを包み隠さずグリーンに打ち明けることを選んだ。
「私はこれまでカントーで数多くのトレーナーと戦った。その中にはカントーでは有名なトレーナーもいたし、君の管轄であるグリーンバッジを所持しているトレーナーもいた。だが、彼らは私とカプ・コケコを満足させるような全力の戦いをすることはなかった。私はね、彼らにカントー最強のトレーナーは誰なのかと聞いたんだ、彼らは一様にレッドの名を出し、彼の威を借りて私を睨むんだ。まるで、彼ならば自分の代わりに私を倒すのではないかと期待しながらね」
彼はそこで一拍置いて、グリーンが異を唱えないことを確認してから続ける。
「誰も、君には雪辱を委ねなかった」
屈辱的な言葉のはずだった。だがそれは、カントーのトレーナーであるならば誰もが理解している、あるいは理解できる言葉だった。
だからと言って、ハイそうですかと引き下がれるはずもなかった。もしグリーンが、そこらへんにいる取るに足らないようなトレーナーだったならば、苦笑いをしてそれを肯定することができただろう。サケイは、彼にそれを求めていた。
だが、グリーンには実力があった、地位があった、それに基づくプライドもあった。
だから彼は、それに噛み付いた。
「もし、あんたがレッドを倒したとしよう」
表情こそ変えなかったが、サケイはそれに疑問を含んだ相槌を打ちながら、グリーンの口調が変わったことに内心苦笑した。若い、彼はあまりにも若すぎる。
「もし、あんたがその時にレッドに同じ質問すれば、きっとあいつはこう答える。最強のトレーナーは、グリーンだと」
ふふ、と、サケイ今度はその笑いを隠さなかった。
「仮定の話はあまり好きじゃない。だけど、悪くない誘いだね」
彼はベルトに手を伸ばし、そこにセットされているモンスターボールをそっと撫でた。
その時グリーンは、彼の右手に腕時計のような腕輪がはめられていることに気がつき、それを不思議に思った。サケイの左手には、ずいぶんと高そうな腕時計が自己主張していたからだ。
しかしその疑問は、サケイの返答によって一旦かき消される。
「じゃあ、戦ってみよう。私達のゼンリョクの勝負が、戦いの神、カプ・コケコに届くことを願いながら」
グリーンはそれに頷きを返して、サケイに道を譲る。戦いにうってつけの場所、トキワジムがグリーンの支配下にあることは、サケイも知っているだろう。
「それじゃあ、お先に待っているよ。ああ、そうだ、もしよろしければ、貴女も見に来ていただけると嬉しいな」
ナナミに一つ会釈してから扉を開いたサケイの背中を、グリーンは睨みつける。
陽気な南国の島々、アローラ地方からやってきた能天気で礼儀を知らない色ボケを、どの様に倒すことがより良いのか、彼は考えている。
考えを巡らせる彼の裾を引っ張るピカチュウに、グリーンはようやく気がついた。
「姉さん」と、彼は姉を呼び、足元のピカチュウを指差して続ける。
「こいつ、ちょっと毛並みが乱れちまってるんだ。俺はちょっと席を外すから、整えといてくれよ」
ナナミは、ピカチュウの毛並みを確認した。それは、これまで見たことがないほどに酷いものだった。
それを最高の状態にまで戻すには、弟の戦いを見るわけにはいかなかった。