29-俺を言い訳に、この道を諦めるんだな
息を吐くときのような、乾いた笑いが、何度も何度も、ヤマホの口から漏れていた。
それは決して、彼女の意図したものではなかった、戦いの中で声を上げて笑うなど、出来ればしたくはない。
彼女は、それをこらえることができなかったのだ、目の前の、自分よりも小さな少年が発した、夢のような言葉の面白さは、彼女の無意識の部分で、それをせせら笑わせていたのだ。
彼女は、自らがグズマに負けるなどありえないと、心の何処かで確信していた、だからこそ、彼の宣言が面白くて面白くてたまらなかったのだ。
まして言えば、自らの強さを否定するなど、出来るはずもない。誰よりも強いトレーナーであったはずのヤマホですら、それは叶わなかったのだ。
彼女は、自らが笑っていることに気づかないまま、三番手、ラストのポケモンを繰り出す。
現れたのは、体中を硬い鱗で覆ったドラゴンポケモン、ジャラランガだった。古来よりアローラに生息する、神聖なポケモンの一族の一つであり、かつてのアローラの人々が、生活を営む上での最大の敵だったポケモンでもある。プライドは高く、鍛錬を生活の一部に組み込み、老齢であればあるほど強さを増す強力で危険ななポケモンであるが、同時にその硬い鱗はアローラの民の生活に欠かせなかった、だから彼らは、ジャラランガに勝つことの出来るトレーナーを、一族のボスとして認めていたのだ。
グズマも同じく、ボールからポケモンを繰り出す。
現れたグソクムシャは、現れた勢いそのままに、ジャラランガの顔面に『であいがしら』の攻撃を叩き込んだ。
だが、ジャラランガはあまりダメージを受けてはいないようだった。彼は頭を必要最小限に動かし、グソクムシャの爪を、頭部の鱗で受け、ダメージを最小限にとどめたのだ。
グソクムシャとグズマがそれに気づくよりも先に、振り上げられたジャラランガの右腕が、装甲のないグソクムシャの顎を捕らえた。グソクムシャは宙に吹き飛ばされ、背中から地面に落ちる。最終進化形であるグソクムシャを浮き上がらせるほどの『スカイアッパー』だった。
いつもこうだ、とヤマホは思っていた。
ジャラランガは、ヤマホの最初のパートナーだった。まだ自我すらはっきりしていないはずだった彼女は、アローラの民最大の敵である彼を、難なく手なづけたのだ。
彼は、ヤマホの相棒として、何年もの間、彼女の強さを支えてきた、鍛錬に耐え、それを楽しみ、自らのために傷つき、相手を圧倒する。ジャラランガがいるからこそ、今日のヤマホが存在する。
彼女はそれを認めないであろうが、最良にして、最強のパートナーであったジャラランガが存在していたからこそ、彼女は自身の強さと才能にウソを付くことが出来ず、それに背を向けることができなかったのだ。
その負の連鎖を、グズマも感じていた。
神というものは、なんて残酷なのだろうかと思った。彼女の才能が羨ましい凡人はこの世に腐るほど存在するだろう、だが、彼女もまた、凡人であることを羨望していたのだ。
彼はグソクムシャを見た。虫ポケモンである彼が、パートナーであるグズマの意志をどれだけ汲み取っているのかはわからない、だが彼は、自身の顎の痛みに怯むこと無く、アローラ最強の生物達の前に立ち上がった。
救わなければならないと思った。自分自身が、ヤマホを救わなければならないと思った。
かつて自分が、スカ男に救われたように、自分も、彼女を救わなければならないのだ、だが、スカ男が自分にしたように、負けて強さを肯定するやり方では駄目。勝って強さを否定しなければならないのだ。
きっと自分にはそれが出来るのだと、グズマは根拠のない自信に溢れていた。今日この日は、その為に存在する日なのだ。
一歩、ジャラランガが踏み込んだ。総合力の高いドラゴンは、グソクムシャよりも随分と素早い。
グソクムシャの腹に、『ドラゴンクロー』が突き刺さる、しかし今度はグソクムシャがそれを待ち構え、全身に力を込めて『ビルドアップ』し、次の攻撃に備える。
ジャラランガは再び『スカイアッパー』でそれを振り払う。グソクムシャは先程と同じく宙に浮いたが、今度はその両足で地面に着地した。
ヤマホは、グソクムシャが離れ際に何かをしたこと、そして、今目の前のジャラランガが少し集中を乱されていることに気付く。
聡明な彼女は、それがグソクムシャの『ないしょばなし』によるものだと理解した。相手の集中力を乱すことで、特殊攻撃のキレを乱す技だ。
これはやられたかもしれない、と、ヤマホは一瞬だけ顔をしかめた。ジャラランガがグソクムシャに一方的に優位に立っていた特殊攻撃の攻防を、不安定なものにされたのだ。ジャラランガは攻撃力も素晴らしいが、特殊な攻撃も得意としている器用なポケモンだったのだ。更にグソクムシャは『ビルドアップ』を敢行し、能力を引き上げている。
幾つかの選択肢が存在する場面だった、『ふるいたてる』で集中力を取り戻すか、『ドラゴンクロー』で相手を押し込むか、その他の選択肢も存在する。
ヤマホは、『ドラゴンクロー』の指示を出した。特殊攻撃に頼らず、このまま直接攻撃で押し通すつもりだ。
グソクムシャはその攻撃を装甲の分厚い頭で受ける、四度目の攻撃であったが、何とかそれに耐え、片膝を突くだけにとどまった。
更にグソクムシャは、ジャラランガの腕に噛みつき『きゅうけつ』でダメージを奪う、ビルドアップされた顎の力で噛みつかれ、ジャラランガにも大きなダメージだった。それを振り払う動きにも、先程までの力強さは存在しない。
押されている、久々の感情をヤマホは感じていた。元々自分達のスピードについてくるトレーナーだったとは言え、ここまで主導権を握られるのは記憶にない。
勢いだ、と、彼女はそれを判断していた、若さゆえの勢い、一か八か、全てを捨てた行動の淀み無さが、たまたまここで噛み合っているだけ、一時的なもの、長くは続かない。
選択肢は二つあった、『つるぎのまい』などで火力を底上げし、一撃で叩き伏せるか、もしくはそのまま殴り続けて勝負を決めるか。どちらにしろ、ジャラランガの体力にはまだ余裕があった。
グズマとグソクムシャが、動いたように見えた。彼女は先手を取ろうと叫ぶ。
「『げきりん』!」
ジャラランガは狂ったような咆哮を上げながら、グソクムシャに襲いかかる。
グズマ達の想像を超えるパワーで、そのまま押し切る選択肢を彼女は選んだ。
その技は、ドラゴンから理性を消し去り、本能そのままの攻撃性を引き出す大技だった、元々生態系の頂点として強靭な肉体を誇っているドラゴンの一族が、理性というストッパーを外した攻撃の威力は、凄まじいものだった。
ジャラランガの右腕が、グソクムシャを襲う、鍛錬の中にあった糸を引くような美しい攻撃ではない、丸太のような腕を振り下ろし、そのまま叩き潰してしまおうかという、気品の欠片もない攻撃。
腕はグソクムシャの頭を叩き、彼は腕の力に押されるままに地面を滑る。
だが、グソクムシャは何とかその腕をはねのけた。足はふらつくが、何とか体勢を保っている。
ジャラランガが仕留め損ねたことに、ヤマホは焦った。ジャラランガの攻撃にミスはない、あるとすれば、グソクムシャの体力を見誤ったヤマホのミスだ。
だが、と、ヤマホは自身を落ち着かせる、ドラゴンの『げきりん』は、一度では治まらない。
ジャラランガは攻撃がはねのけられたことにも気付かず、相手がまだ倒れていないことだけを認識しながら、再び腕を振り下ろさんとする。
それは、圧倒的に見えて、その実、消極的な選択肢だった。
攻撃をすれば、相手が倒れてくれるだろうという願望が見え隠れしていた、ジャラランガの体力に余裕があり、相手を一撃で倒したいのであれば、ここは自身の能力を引き上げて次の一撃で勝負を決める選択肢のほうが優れている。
普段の彼女であれば、何の迷いもなくそうしていただろう、だが彼女は、グズマの勢いを恐れ、焦り、勝負を急いだ。誰よりも強さに敏感で、それに束縛されていた彼女は、自身のすべてを形成している概念が、今まさに揺らごうとしていることに気づいていたのだ。
誰よりも強い彼女は気づいていた、自らの行動には、致命的な穴がある。自らが負けてしまう手順が確実に存在する。
果たしてそれに、グズマは気づいているだろうか。
自分自身以外の人間が、それに気づいているだろうか。
ジャラランガの攻撃が届こうとしているその時、グソクムシャは、傾く体を重力にまかせるように不格好に、くるりとその場を舞った。
「ああ」と、ヤマホは、言った。
自身の気分を高揚させる『つるぎのまい』で、攻撃力を引き上げたグソクムシャは、理性なく振り下ろされたジャラランガの右腕が自らの顔面を捉えるより先に、ジャラランガの顎を正確に、緻密に捉えた。相手の攻撃が届くより先に相手にダメージを与える『ふいうち』攻撃だった。
ジャラランガの体から意識が抜ける。暴れる本能を失ったその体は、グソクムシャにもたれかかるように力を失った。
同時に、ヤマホからも力が抜けつつあった。だが彼女は何とか膝に両手をついて、その場に立ち続ける。
喪失感がないわけではない、自らが積み上げてきた実績、ポニ島における最強の生物であると言う自負、天から与えられた才能の不具。それら全てが、今この瞬間に全て無になり、自身が、ただの人となった。
だがそれは同時に、彼女自身を縛り付けていた強さの道が、ようやく終わりを告げた瞬間でもあった。
グズマはグソクムシャをボールに戻し、ヤマホに歩み寄る。
ヤマホもようやく顔を上げ、未だに立ち上がろうともがいているジャラランガをボールに戻した。未だに敗北を受け入れていないジャラランガに対して、それをあっさりと受け入れている自らに多少の嫌悪感があった、しかしそれは、結局自らを誤魔化し続けたツケでもあるのだ。
彼女は、噛み締めていた。勇気を持って、逃げ出すことのできなかった自らの罪を。
グズマは、ヤマホの顔を見た。
憑き物が落ちたような顔をしていた。グズマが感じていた戦士のような表情は何処かへと消え、そこには、泥にまみれた、グズマから見れば大人のお姉さんが立っていた。彼はようやく、彼女がおよそ女戦士からは遠く離れた、優しく、下がった目尻をしていることに気づいたのだ。
「あんたは弱い」
グズマは、彼女の優しい目を見据えて言った。
「俺を言い訳に、この道を諦めるんだな」
ヤマホが先に言ったその言葉は、文面だけを見ればとんでもなく挑発的な、ゲスな発言だったが、彼女はその言葉で、今まさに救われようとしていた。
ヤマホは、下がった目尻に涙をためていた。彼女は、軟弱の象徴でもあるそれを拭うことも隠すこともせずに「ありがとう」と、歳下のグズマに頭を下げた。
あの時の、ヤマホのあの言葉は、彼女にとっては、本心以外の何物でもなかったのだなと、グズマは理解した。
「彼は、この先ポニの花園を抜けた先にある洞窟、エンドケイブにいるわ」
涙を出し切った彼女は、ポニの広野の先を指差しながら言った。
「どんなトレーナーなんだ?」
彼女はそれに少し時間を置いてから答える。
「危険な男よ、しっかりと休養を取ってから挑むべきね」
グズマは信じられなかった、あれほどまでの強さを持っている彼女に、まさかここまで言わせる存在がいるとは思わなかったのだ。
「ありがとね」と、今度の彼女は少し気恥ずかしげに言った。
☆
スカ男は、ベンケイの家に訪れたスタイル抜群の美女が、ベンケイがその強さを最大限に評価していたヤマホと言うトレーナーだと知って、腰が抜けるほど驚いた。
負けたはずだった、ここに来たということは、彼女はグズマに負けたはずだったのだ。
だが、彼女にそれに対する怒りや後悔のようなものは感じられない、それは、彼女を歓迎しているゲニスタも同じだった。
「吹っ切れました」
ヤマホは、品を感じさせる動きでお茶を飲みながらそう言った。スカ男は、そもそも彼女がトレーナーであることすら信じられない。
「この後は、どうするつもりじゃ?」
「家に帰ろうかなと思います、家族には、随分心配をかけましたから」
なるほど、とベンケイは頷いてから、彼女に問う。
「実は、いま野菜の収穫期でなあ、男は足りとるが、洗濯と飯が追いつかんのじゃ、予定を少し延ばして、手伝ってはくれんか?」
ヤマホはそれに、はい、と元気良く返す。
スカ男も、そうだそうだそれがいいと頷くのだった。