2-ハラさんのお弟子さんが、お見えになりましたよ
横になっている。
その事実に、まずはスカ男は驚いた、まず、自身の意識があることに驚いていたし、その次に、体に痛みがあまりないことにも驚いていた。自分の食事風景を考えれば、噛みちぎられていることはまず間違いないと思っていたからだ。
次に、ここは何処なのだろうか、と考えた。選択肢はほぼ無限に存在すると言ってよかった。だってそうだろう、化け物に喰われたと思ったら、どこかに横になっている。一体何がセオリーだというのか。
頭を動かしてみる、柔らかい反発があった、枕があるような気がする。マットレスの上に寝ているような気もするし、体の上には毛布がかかっているような気がする。
スカ男は、その気になれば、目を開いて、この暗闇から逃れることができるようになっていることに気づいた、しかし、直ぐにそれをすることはできなかった。もしそれをしたとして、その時目の前にある光景が、いま想像している最悪よりももっと最悪ではない保証なんてありはしないのだ。例えば、例えばいま目の前にはとてつもなく醜い化け物が、大口を開いて自らを食わんとしているかもしれない、目を開いて、自分が絶望する表情をスパイスにしようとして。
目を開けば、それを受け入れなければならないし、目をつむったままならば、それを受け入れなくともよいのだ。
彼は、鼻から大きく息を吸って、同じく鼻からそれを抜く。そして、永遠の暗闇と、もしかすればあるかもしれない平穏とを天秤にかけて、意を決して目を開いた。
天井だった。白くて綺麗な天井だった。ということは、ここは病院なのだろうか。
スカ男は上半身を起こした、毛布が二つに折れて、寝間着を着させられた上半身があらわになる。
「病院?」と、スカ男はつぶやいて、しばらく放心していた。おかしい、あの状況から、目覚めたら病院いるという状況が、飲み込みきれない。
「目が覚めましたか?」
ベッドを仕切るカーテンが開かれて、天井と同じく、白くて綺麗なナース服を着た看護婦が、笑顔を浮かべて、近づいてきた。
彼女はスカ男の返答を待つまでもなく、彼の脈を取り、血圧を測る準備を進める。
病院だ、病院に間違いなかった。だが、スカ男はこのメレメレ島で、こんなにも綺麗な病院を知らなかった。
その時スカ男の脳裏に浮かんだのは、恐らく自身は、治療費を払うことが出来ないだろう、ということだった。心当たりはつかないが、こんなにも綺麗な病院ならば、治療費は元より、部屋代だってべらぼうに高いに違いない。でもまあ、仮に、自身が生き残ったのだとして、アレだけのことをやってのけたのだからしまキングのハラが、なんとかしてくれるだろうと思った。
「あの」と、スカ男が看護婦に問う。
「どうなったんでスカ?」
勿論それは、空に現れた裂け目のことだったり、更にそこから現れた訳の分からない化け物のことだったりしたのだが、看護婦は一瞬その意味を考えてから、ニッコリと笑って答える。
「『いくさのいせき』の前で、気を失っていたんですよ。ハラさんと、そのお弟子さんが、あなたを見つけたんです」
「気絶?」と、スカ男は更に混乱した。気絶とは一体どういうことか。
だがまあ、どうやらこの世界が死後の世界であるとか、そのようなことでは無さそうなので、スカ男は、とりあえず自身の無事を喜んだ。
しかし、酷いのはハラだ。彼は事件の何から何まで知っているはずなのに、付き添いもせず、自分を病院に投げっぱなしにしている。せめて付き添いくらいはいて欲しかった。
やはり、どれだけ頑張っても、自分は『スカル団』ということなのだろうか、とスカ男は思った。別にその扱いに不慣れなわけではなかったが、ようやく彼を、信頼しかけて来たところだったのに。せっかく振り絞った勇気が、これじゃまるでバカみたいじゃないか。
スカル団、という言葉が脳裏によぎったその時、彼は、自身の服が、寝間着に変わっていることの意味に気づいた。スカル柄のニットキャップにタンクトップ、随分と高かったのだ。
「あの、俺の服は?」
「今洗っているところですよ」と、看護婦は血圧測定器にポンプで空気を送りながら答える。
そして、スカ男に向けて小さく声を上げて笑った。
「あんな帽子、どこに行けば売っているんですか? 見たこともありませんよ」
スカ男はムッとして、随分とファッションに疎い看護婦だなと思った。スカル団の制服は、海外の有名ブランドで、あの世界一足の速い男ですら着用したことのあるブランドであるのに。
目が覚めてからしばらくたって、ようやく生の実感と言うものが湧き出し、テレビを見たいけれども、今手持ちの現金がないからカードが買えないな、と思い始めたころ。再び看護婦が、カーテンの隙間から顔を出す。やはり笑顔だった。
「ハラさんのお弟子さんが、お見えになりましたよ」
弟子、ということは、ハウか、相棒だろうが、多分相棒だろうなと思った。もはや信頼できるのは相棒一人だけだ。
ハラ、と言う名前に、スカ男はだいぶ冷めていたが。とにかく状況を確認せねばならないので、それを承諾した。
看護婦に対する随分とぶっきらぼうな返事が聞こえた。
乱暴にカーテンを開きながらそこに入ってきた男を見て、スカ男は思わず、自身は頭を強く打ちすぎたのか、もしくは、これは夢か何かで、自身の無意識の部分が、いかにしてスカ男の意識的な部分に揺さぶりをかければ、より意識が動揺するのかと言うテストを行っているのではないかと、彼自身の脳の正常さを、強く疑った。
それは無理も無いことだった。何故ならばスカ男の前に現れたのは相棒でも、ハウでもなかった。何人かいる、ハラのアローラ相撲の弟子でもなかった。
それは、グズマだった。見間違いでも何でもない、最後の最後までグズマを信じたスカ男が、彼を見間違うなんてありえない。あの色素の薄い髪の毛を、見間違えるものか。
だが、その男は、グズマだと言うには、あまりにも少年的すぎたし、少年であると言うには、あまりにもグズマ的すぎた。勿論スカ男の知っているグズマが特別老けているというわけではないが、今目の前にいるグズマはあまりにも若すぎる。
目を見開いて、その少年を見るしかないスカ男を訝しみながらも、その少年は、懐からモンスターボールを取り出した。
「これ、あんたのズバット」
差し出されたので、とりあえずそれを両手で受け取る。中を見てみれば、たしかにそれは自分のズバットであるようだった。ポケモンの扱いに自信があるわけではないが、流石に何年も苦楽を共にした相棒ぐらいは分かる。
しかし、このズバットも、あの化け物に喰われたはずなのだけどなあ、と、やはり混乱する。
「あんたと同じで気を失ってたんだ」
その少年はジトリとスカ男をにらみながら言った。その視線には、若干の軽蔑的なものがあった。
「パートナーにこんなことをするのは弱いトレーナーだぜ」
少年はそう言って笑った。その笑みからは、自分は絶対にこんなことにはなりはしない、という強い自信が見て取れた。スカ男がよく知っている、強気でありながらどこか自虐的なかつてのグズマとはまた違っていた。
「あの」と、スカ男は少年に呼びかけた。
わかっている、まずは自身を助けてくれたことに対して礼を言うべきだ、世間から不届き者と言われ続けた自分にだってそこの位のことは分かる。
だが、まずはここをハッキリとさせなければならない、ここをハッキリとさせておかなければ次に進めない。
「名前はなんでスカ?」
そう、まずは、目の前の少年が、グズマであるのか否か、それをハッキリとさせておきたかった。例えばその少年がグズまで無かったとしたら、世の中によく似た顔の人間は三人はいると言うしなあ、と、半ば無理矢理にであるが、自身を納得させることができる。だが、もし彼がグズマであったなら、ますます訳がわからなくなる。
少年は、その問いに不審を疑いながらも、それに答えた。
「グズマだよ」
スカ男は目の前が真っ暗になりそうだった。訳の分からないことになった、ほんとに訳の分からないことになった。
古典的だが、頬を強く抓ってみた。やりすぎた、猛烈に痛い。痛いし、そんな自身を見るグズマ少年の視線も痛い。ということは、少なくとも映画や漫画的な表現では夢の中ではない。いっその事夢であればよかったのに。
スカ男はおもむろにベッドから降りようとした、スリッパがないことに気づいて一瞬躊躇したが、そんなことはどうでもいい、と裸足で床に降りた。
少しばかり体がふらついて、ベッドに手をつく。
「おい、大丈夫かよ」
グズマ少年はそう言ってスカ男を支えようと腕を伸ばしたが、彼はそれを払いのけるようにして拒否し、カーテンをくぐった。
病院だ、病院だった。
随分ときれいな病院だったが、見覚えがないわけではなかった。
スカ男は肩を持とうとするグズマを振り切って、廊下を走った。
後ろの方から、看護婦が自分を呼ぶ声がする。どうかもう少しだけ待って欲しい。
階段を駆け下りる、医者とぶつかりそうになって慌てて謝ってまた駆ける。随分と元気な患者だなと、つまらないことを思った。
一階のロビーを駆け抜ける、警備員が止めようとする。だがそれも振り切る。
自動ドアはまどろっこしい、手押しのドアを二度押して、病院の外に出て、立ち止まる。
そこから見える光景は、まごうことなきアローラだった、だが、自身の知っているアローラではない。あそこにはあんな建物はなかったし、あそこにはこんな建物があるはずなんだ。
空があまりにも抜けるようだ、それを遮るはずの様々なギミックが、存在しない。
アローラだ、とスカ男は思った。既視感は殆どなかったが、猛烈な懐かしさのようなものがこみ上げてきた。
これはとんでもないことになったぞ、と更に思う。
その時自動ドアが開く音がして、スカ男は肩を強く掴まれる。
「おっさん、何やってんだよ!」
ああ、グズマ少年の声だ、とスカ男は思う。懐かしいような気もするが、少年らしくオクターブ高い。
そして、おっさんて、と少しうなだれた、流石にまだそんな年齢ではない、元いた世界のグズマさんよりも年下だったじゃないか。だが仕方ないことだ、自分だって彼くらいの年齢だったら、自分くらいの年齢の男をおっさんと呼ぶかもしれない。若いとは、少年であるという事は、得てしてそういうものなのだ。
「グズマさん」
今のグズマ少年にスカ男がさん付けするのは妙な光景だし、必要ないように見える。
だが、スカ男の本能に刷り込まれたグズマへの尊敬心が、それを許しはしなかったのだ。
「今、いくつでスカ?」
グズマ少年は、ややたじろぎながらもそれに答えた。この段階にまで来ると、スカ男に対して、目が覚めてひどく混乱しているのではないかと、同情的な思いすらあった。
その年齢は、やはり自分が知っているグズマよりも、大きく下回っていた。そりゃ、自分のことをおっさんと言っても仕方がない。
スカ男は更に質問を続ける。一つでもその答えが自分の予想と違えば、かなり救われる。
「カントーのチャンピオンは誰でスカ?」
「ワタル」
「ホウエンのチャンピオンは?」
「ダイゴ」
「アローラにポケモンリーグはありまスカ?」
「あるわけねーだろ」
もう十分だ、と、スカ男は頭を振った。もはや確定的、疑いの余地がない。
「グズマさん」
身構えるグズマに、願う。
「ハラさんと、話をさせてくれまスカ?」
大変だ、過去に来てしまった。