193-憧れの人 C
「なあ、長生きはするもんだ」
祝勝会前。
ワインの瓶を片手にモモナリの部屋に訪れたストーは、既にモモナリを訪ねていたウミカとハルトを見やり、ニヤリと笑いながらそういった。
「長く生きたからこそ、お前のような男に出会うことができたわけだ。こればっかりは、太く短く生きた奴らには体験できない」
彼はその瓶をぽんとモモナリの胸に放り投げ、彼等が囲んでいたであろう丸テーブルの上にはジュースの瓶二本を静かに置く。信じられないことだが、ストーの体があまりにも大きすぎて、そのジュースの瓶は置かれるその時まで姉妹の視界には入っていなかったのだ。
彼は特に遠慮なくベッドに腰を下ろす。
恐らく、そのベッドは産まれて初めてそこまで沈み込んだだろう。
「殿堂入りは素直に祝福しよう。大した記録だ、なにより、この私に勝っている」
自信に満ち溢れている発言だったが、その部屋にいるものは、誰もそれを否定しなかった。
「教えてくれないか」と、ストーはモモナリを睨みつけながら問う。
「どこからが、君の手の平の上だった?」
既にワインの栓を抜く準備をしながら、モモナリは沈黙をもってその続きを待つ。
ウミカとハルトも、同じく沈黙をもって備える。
その質問は、彼女ら姉弟の質問でもあったからだ。
終わってみれば、モモナリの鮮やかな勝利であった。
ゴルダックの『シンクロノイズ』は、ハンテールの頭部から末端に至るまでの水分という水分を、周りの海ごと共鳴させた。天まで突き抜けんかという水柱が立ち上り『からをやぶる』で破れかぶれになっていたハンテールは、まるで巨大な塔が海に倒れる時にそうなるかのように、水しぶきを上げながら、海に吸い込まれた。
後に残るのは、モモナリの手腕を称賛する、高貴な人々からの喝采であった。
否、観客だけではない。
ハルトやウミカ、サントアンヌ杯の出場者達も、モモナリに惜しみのない称賛の感情を持っていただろう。
唯一、ストーを除いて。
「やるだけのことはやった、悔いはない。だが、この疑問を持ったまま長生きを続けろってのは酷だろう」
心の中で、姉弟もそれに頷く。
「結果から物事を逆算するってのは、人間の悪い癖だが、人間の英知の要因でもある。まあ、私の場合は、悪い癖のほうが大きいが」
ポン、と、子気味のいい音が部屋に響き渡る。
「すべて、計算の上だったのか? もし計算であったのならば、どこから?」
モモナリはどこからか取り出した二つのワイングラスにそれを注ぐ。
「しまった」と、彼は呟いた。
「いつもの癖で、こんなにも沢山に」
確かに、そのグラスには並々とワインが注がれている。例えば香りとか、色とかを楽しもうと思えば、無粋な量であろう。
だが、微笑み混じりにベッドから立ち上がったストーはそれを手に取る。
「構わんさ、どう飲むかではない。誰と、どんな話をしながら飲むか。だよ」
ストーはもう片手で姉弟の前にあったジュースの栓をポンポンと抜いた。
姉弟は彼がそれを素手で成したのかと驚いたが、彼はいたずらっぽく笑って彼女らにコインを見せた。尤も、コインを使ったとわかったところで、どう抜いたかなどわかるはずもないが。
「それで、どうなんだ?」
グラスを一気に傾け、マラソン後の冷水のようにそれを飲み干したストーが問う。
「どう、と言ってもね」と、モモナリは半分ほど飲んでから続ける。
「あなたは最後の最後まで、僕の思い通りには行かなかった。普通のトレーナーなら、あのときゴルダックを追って『みらいよち』を受けていますよ」
いや、と、彼は続ける。
「普通のトレーナーなら、まず『うずしお』が消滅したあのタイミングで仕留めることができていた」
ふう、と、彼は心落ち着かせるように一息吐いた。
「楽しいバトルだった。本当に」
彼の頬が赤くなっているのは、決してアルコールが原因ではないだろう。
「一歩間違えれば、何度でも負けていたでしょうね」
「君は、それが恐ろしくはないのかい」
「ええ、怖かったですよ」
ストーと姉弟は、それに驚いた。
怖い、という感情は、そのバトル中のモモナリから、最も感じられなかった感情だろう。
「だけど、それ以上に面白かった。どこから来るのか、何が来るのか、いつ来るのか、バトルの中で、相手の人生に身を任せる面白さは、何モノにも代えがたい」
「呆れた野郎だね、どうも」
ストーはいかにもそれが当然であるかのように、ワインをグラスに注ぎながら呟く。
「私の伝えたかったことが何一つ伝わっちゃいない」
「そんなことはない、僕はあなたとのバトルで『海の深さ』を知りました。今ならあのメモ帳に堂々と『三』と書けますよ」
「私は『六』と書くがな、あれは私の知らない海だった」
「ならば『八』と書くべきでは?」
はっ、と、ストーはそれを鼻で笑う。
そして、彼はグラスの中身を飲み干してから「いやいや」と、首を振る。
「そもそもだぞ、どうしてアズマオウを出してこなかった?」
その問いに、あ、と、姉弟は声を上げた。
彼等はその理由を、否、その理由と思わしきものを予測はしている。だが、それが実際にモモナリの内面を捉えているものなのかどうかはわからない。故に、彼女らもその答えを知りたかった。
モモナリは瓶を手に取りながらそれに答える。
「足りないでしょ」
「何がだ?」
「あなたの人生を乗り切るには、僕とアズマオウの歴史じゃあ、足りない」
モモナリはグラス越しにストーを睨みつけながら微笑んだ。
「俺が人生を語るなら、その相棒はあいつしかいねえよ」
その言葉に、視線に、ストーが一瞬真顔になったのをハルトは見逃さなかった。
だが、モモナリの目を見ることはできない、それは、単純にハルトがモモナリの対面にはいないという位置的な関係もあるだろうが、彼は直感的に、自分はまだ、モモナリの視線を向けられるに値しないのではないかという感覚を持ったのだ。
なぜならば、ずっとずっと、モモナリは自分達を穏やかな目で眺めていたから。
「あの!」と、ハルトは立ち上がった。立ち上がらなければならないような気がしたのだ。
「俺! モモナリさんや、ストーさんを見て『海の広さ』が、すごくわかった気がするんです」
それは、海は広いという事実だけを指しているものではないだろう。
「俺、もっともっと海を知って、強くなって、また、モモナリさんの前に現れます。その時、また、戦ってくれますか?」
ハルトの方を見たモモナリは、一瞬、ほんの一瞬だけ、これまでとは違う視線を、彼に向けたような気がした。
だが、それはすぐさまにいつもの穏やかな表情となり、答える。
「待っているよ、いつまでも、いつまでもね」