193-憧れの人 A
そのアズマオウは、サントアンヌ杯をチェックしている人間の中では、あるいは各地方Aリーガーの手持ちよりも有名かもしれない。
彼の存在は、海上バトルというものの根底を覆しかねない。
アズマオウらしいヴェールのような尾びれはない、そこにあるのは、ファイターがまとうガウンのように分厚く、機能的な尾びれ。
丸っこく愛らしいはずの体は、発達した筋肉によっていびつに歪み、まるで彼自身が、サシカマスのような流線型になろうとしているかのように、丸みを捨てている。ある研究者によれば、彼は通常のアズマオウに比べて、水の抵抗を受ける割合がぐっと少なくなっているようだ。
その研究者によれば、その『アズマオウとしてのいびつさ』には、ある種の美しさすら感じるらしい。
『アズマオウだと思うな』
それが、そのアズマオウと対戦したトレーナーの言葉だ。
常識の通用する相手ではない、経験が通用する相手ではない。
そんな彼を、モモナリがサポートする。
彼とモモナリのコンビは、サントアンヌ杯における支配者である。というのが、サントアンヌ杯愛好家たちの意見であった。
三度目の優勝、まさか適応されるとは考えられていなかったサントアンヌ杯における殿堂入りのかかったトーナメント初日においても、彼とモモナリのペアは、不気味なほどにあっさりと勝ち抜き、決勝進出を決めた。
その対戦相手であったアサギのレンジャーも、ムロの船乗りも、トレーナーとして、海上戦のスペシャリストとしては弱くはないはずだったのに。
だが、その快進撃に心躍らせるほどに、彼らは思うのだ。
もし彼が、もし彼がアズマオウではなかったら。
例えばカイリュー、ボーマンダ、ガブリアス。
そのようなもともと強力なポケモンの中に、そのアズマオウの異常性が宿っていたならば、あるいは彼は、どれほどの称賛と、尊敬と、富を。
☆
サントアンヌ杯、初日、最終試合。
向かい合った二艘の小型船が、それぞれバックをしながら離れていく。
話の種にと興味半分の観客はサントアンヌ号の甲板から。水しぶきや指示を繰り出すトレーナーの声を直接味わいたい観客は、対戦場の周りに停めてあるクルーザーから。空から、陸から、海の中からの映像を同時に楽しみたいと考えている欲張りな観客はサントアンヌ号内のケーブルテレビからそれを楽しんでいる。
サントアンヌ号も、それらの楽しみを邪魔するつもりはない、ケーブルテレビを見ることのできないクルーザーのコアな観客のために、ネット電波に乗せて解説のラジオを配信している。
早々に、そしていとも簡単に決勝進出を決めたモモナリの対戦相手を決める準決勝。
その対戦カードは、観客にとっては非常に楽しみなものだった。
まずは南、小型船の選手には小さな体。キナギタウン出身、ハルト。
野生のギャラドスを相手に大立ち回りを披露した動画が世に出て一年、その選出には疑問の声もあった。
だが初戦、沈没船のサルベージを専門とするトレジャーハンターとその相棒のランターンを相手に見事な勝利を見せたことで、その疑問の声をそのまま称賛の声に昇華することに成功している。
モモナリの絶対的な王政に不満を持っているのは参加者だけではない。聖アンヌの守護天使の代替わりとして、その若々しい海の王は、最適なように思えた。
対する北、ハルトとは対象的にその巨大な体は、小型船を自身のいる方向にひどく傾けているように見える。その小型船は、果たして彼のような巨大な男が乗るかもしれないことを考えていたのだろうか。
シンオウ地方、ストー。
目立ちに目立ちまくるであろうその巨体は、しかし、サントアンヌ杯の愛好家は彼を知らぬ。ただ唯一、古くからの格闘技ファンだけは彼を知っていたが、それもまた、トレーナーとしてではない。
だが初戦、観客たちは己の無知と、自身の知識に対する根拠のない自信を恥じることとなった。
対戦相手、北の地方の伝説的な漁師の方が、知名度としては有名であった。そして、かつてはサントアンヌ杯でモモナリを相手に激闘を見せたこともある実力派だった。
だが、ストーは彼とその相棒のペリッパーを寄せ付けることもなく、強引なマイペースさで戦場を支配、焦れたペリッパーを海に引きずり込むように勝利したのである。
それは、長いサントアンヌ杯の戦いの中でも、滅多に姿を見せない戦い方であった。なぜか、そのような戦い方で結果を出したトレーナーが、これまでいなかったからだ。
潜水士、という彼の経歴は、観客たちにその戦い方を納得させるに十分だった。海の底から来た。その男は、海の底から来たのだ。
「ハルト」
お互いの小型船が、試合を行うのに十分な距離をとった。
波に揺れる足場に戸惑うことなく、姉であるウミカは、ボールを手に取るハルトに声をかける。
「大丈夫だよ姉ちゃん」
ハルトは、ボールを一度だけ握り直して答える。
「緊張はしてない。対策も考えている」
ストーの戦い方というのは、ある意味で彼ら姉弟の常識からはかけ離れていた。
だが、それを見て数時間、ハルトがそれを受け入れる時間としては十分だ。
しかし、海の上での戦いというものは、予測が、予想が、戦略がすべて完遂できるものではない。
波を、風を、潮を完璧に予測することなどできない。それらはすべて、人間が住むこの星の身じろぎによって起こるもの、あるいはこの星ですら、それを予測することはできないだろう。例えば、人間が起き抜けに何気なく髪を掻くことで起こりうるこの世への影響について、その人間は責任を持つだろうか。
海上バトルにおいて、陸上でのバトルよりも重要視されるもの、それは『判断力』と『適応力』だ。
そして、その二つにおいて、ハルトはキナギ諸島における最高傑作であった。
「昨日は陸に酔っていたんだと思う」
それが、昨日の彼の年齢相応の興奮っぷりを指していることを姉は理解していた。
背伸びのしたがる年齢だった、昨日見せた年相応の無邪気さを、彼は布団の中で恥じていたのだろう。
それを、陸での酔いのせいにした。
生まれたときから波に揺られて生きているから。陸地という『揺れることのない珍しい場所』に脳が混乱したのだと、彼は言い聞かせていた。
「ここなら、俺はモモナリさんにだって勝てるよ」
姉はそれを否定せず「よし! 行って来い!」と言葉でその背中を押す。
ハルトボールを投げ、相棒を繰り出した。
現れたのは、きょうぼうポケモン、サメハダー。
彼は海上に現れるや否や、すぐさまに対戦場のど真ん中に陣取るように移動する。
時速百二十キロというスピードを瞬発的に発揮できるそのパワーは、数多いポケモンの中でもサメハダーしか持ち得ない個性だ。
対するストー陣営は未だに動きがない。否、動きがないように見えるだけだ。
ストーは、手持ちの相棒をすぐさまに海の中に放り込んだ。彼は海面に浮上せず、海底に潜んでいる。
いくらクチバの海が美しかろうと、キナギ諸島の民が真夜中に方角を示す星を眺めるために視力が良かろうと、海の底をすべて見ることができるわけではない。
ストーと初戦で当たった漁師もそうだ。彼だって視力に自信がないわけではない、だが、海の底まで目視することができるわけではない、だからこそ彼らは網を使い、竿を使うのだ。
故に、彼らはストーのポケモンを認識することができない。それがどこにいて、どこを向いて、何を狙っているのか、わかるはずもない。
故に、海の底は、潜む場所としては優秀である。
これだけを聞けば、ストーの戦術は非常に理にかなっているように見えるし、海上バトルにおけるセオリーのようにも思えるだろう。
だが、この戦法には致命的な欠点がある。
海上にいる人間は、その誰もが、海底に潜むポケモンを目視することができない。
そう、誰もがだ。
つまり、その戦法をとっているトレーナー側も、自らのポケモンがどこにいるのか、どこを向いているのかを理解することができないのだ。
そして、海の中というものは、ある意味で海面よりも何が起こるか予測できない。海上にいるトレーナーと海中にいるポケモンとが、意思疎通を図ることが難しいのだ。
もちろん、工夫はできる、例えば空気の泡などを海面に浮上させてポケモン側から合図を送ることは可能だろう。だが、ポケモンが空気の泡を吐いてから、それをトレーナーが認識するまでの時間は、ポケモンが深く深く潜っているほどに長い。その間に戦局が動くことなどいくらでもあるのだ。
だからこそ、この戦法は、トレーナー側が海中についての造詣が深く、パートナーが海の底でどの様に動いているかを予測できるほどの手持ちに対する理解が必要で、ポケモン側には自らを目視していないトレーナーの指示を理解し受け入れる信頼が必要だ。
ストーと彼の手持ちは、そのどちらも持っているということなのだろう。
「戻れ!」
故にハルトは、彼らのそのような関係を否定はしない。
それで良い、それで良いのだ、ストーが潜水士の経験から海の底に詳しくとも、彼の相棒がストーを信頼していようとそれは否定できない。
その経験は彼らが人生を経て得たものだろう。
相手が持っているものを受け入れる、受け入れた上で、それを抑え込む手段を考える。
サメハダーが自陣に戻ってくるまで、ハルトは水面から目を離さない。今更サメハダーと自身との信頼関係を疑うことはない。トレーナーが見るべきは相棒が自分の指示に従うかどうかではない、相棒の周りで何が起きているかを確認することだ。
ハルトは誘っている。
食らいつくのならば食らいつけばいい。海の底に引きずり込もうとするのならばそうすればいい。
だが、それを自由に行わせるつもりはない。
食らいつくのならば、自陣で食らいつかせる。
少しでも自分に有利な場所で戦いが起こればいい。
絶対にストーの陣には踏み込まない。
そうすることで、少しでもストーとポケモンとの連携を弱くする。切れなくとも良い、弱くするのだ。
だが、相手はそれに食いついてはこない。
「我慢しろ、我慢しろよ」
自陣をゆっくりと泳ぎ回り始めるサメハダーに、ハルトが声をかける。
当然、見え見えのこの作戦にストーが噛み付いてくるはずがない。
ここからは我慢比べだ。
「若えなあ」
北の小型船、船首に立つストーは、首をひねって関節を鳴らした後に、麦わらのテンガロンハットをかぶり直しながら呟いた。
未だに指示を出すことはなく、のんびりと海を眺めている。
尤も、何も知らぬ三者から見れば、それは年長者らしく余裕を持って戦局を分析しているように見えるだろう。
海の底に潜む相棒も、おそらくは自分と同じだろう、海面に広がる真っ直ぐな波に見向きすることもなく、海底の情報を探っているに違いない。
「若えのが我慢できるかな」
作戦としては理解できなくもない。
だが、誘えば食いつてくるだろうとか、いつか相手から動くだろうと確信しているその立ち回りは、その少年が自分に仕掛けるには早すぎる。
ふと、視界に動くものが入る。
下を見てみれば、海面にちらりと見える程度に、相棒の姿が見える。
当然、ハルトはそれに気づいていないだろう。
ストーがそれを目で追うと、すぐさまにその影は消える。
それは、相棒からの「大体理解した、あとは待つ」という合図だろう。
ストーは、対面の少年に目を向ける。
その表情まではわからないが、キョロキョロと頭を動かしている様子から、少なくともリラックスはしていないであろう。
体力が無限であると勘違いする、若い男にはよくあることだ。
「我慢比べなら得意だぜ」
微笑みながらストーが呟く。
もしこれが海の中ならば、酸素ボンベの残りを気にする必要があるだろう。
だが、人は、陸上ならばいつまでも待つことができる、それこそ、死ぬまで。
水棲のポケモンも同じだ、エラ呼吸を持っているならば、いつまでも海中で待つことができる。
その価値を知るか知らないか、その差は大きいだろうと彼は思っている。
試合が動いたのは、それから一五分ほど膠着状態が続いた後だ。もちろん、サントアンヌ杯では珍しい。
「『うずしお』」
先に動いたのはストーであった。
ハルト側の陣を中心に、巨大な『うずしお』が巻き起こる。
彼の相棒が海流を作り出したことは明らかだ。
『とぐろをまく』で力を貯めていたのだろうか、それは通常のそれよりも大きい様に見える。
当然、サメハダーはそれを嫌がろうとする、だが。
「動くな!」と、ハルトが指示を出した。
これはストーの罠だ。
サメハダーを動かして、少しでも自分に有利な場所で戦いを起こすための罠。
水棲ポケモンであるサメハダーにとって『うずしお』は大したダメージではない。
ならば、少し体力を使ってでもこの海流から逃れず、むしろ相手の攻撃にカウンターを合わせるべきだ。
ストーとしても、この機は活かしたいはず。
サメハダーも、ハルトのそのような意図を理解したようだ。彼は海流に立ち向かいながらその機を待つ。
だが。
「こない」
ハルトの呟き通り、ストーからの攻撃の様子はない。
最も警戒していた『うずしお』発動時、そして『自分達が渦潮に抗いながら攻撃に構える』という選択をした時、そのときこそが、最も良い攻撃のタイミングだったのではないだろうか。
だが『うずしお』がもう消滅しようかとしているというのに、攻撃の様子はないのだ。
「粘り強いな」
考えられることは一つだ。
自分たちの作戦に気がついたストーが『うずしお』を捨てた。
『うずしお』で自分たちを動かすことを諦め、サメハダーのほんの少しの体力の消耗で良しとした。
当然、その様に気の長い作戦は、キナギ諸島を縄張りにしている野生のポケモンたちにはない。
「つかんだ」
ハルトは手応えを感じていた。
『うずしお』で自分たちを動かしに来たということは、自分たちの『自陣で待ち構える』という作戦は間違っていないということだ。
そして、自分たちは『うずしお』で体力を削りながらも誘いを拒否した、相手が得たのは『うずしお』による僅かな体力の消費だ。
そう、相手は今度はそれにすがるだろう。
『うずしお』を撃つだけで、サメハダーの体力を削るか、戦場を動かすか、どちらかを引き出せるのだ。『うずしお』を打たぬ理由がない。
いずれまたそれを打ってくるだろう。
そして、そのときこそがチャンスだ。
ポケモンが『うずしお』を打ち出す時、海流を作り出す関係から、そのポケモンは渦の中心近くにいる必要がある。それはつまり、自らの居る位置をさらけ出しているも同じなのだ。
その技が来るとわかっていれば、すぐさまにその中心に向かうことができる。
「その時が、決戦だ」
弱くなり始めている『うずしお』を眺めながら、ハルトが頷く。
サメハダーもそれを理解したようだった。
やがて『うずしお』が対戦場から消える。
ひとまず、乗り切った。
彼らが次に来るであろう技を待ち構えようとした時だった。
「『かみつく』」
海中から現れたポケモンが、突然サメハダーの腹に噛み付いたのだ。
それは、しんかいポケモン、ハンテール。それも、かなりの大型だ。
そのポケモンこそが、海底に潜むストーの相棒だ。
「しまった」と、ハルトは思わず声を漏らす。
狙われた。
『うずしお』と『うずしお』、緊張と緊張の隙間。
展開と展開の合間、乗り切ったという安堵のその僅かな瞬間こそが、ストーが『うずしお』で引き出したかったものだったのだ。
「『とびはねる』」と、ハルトは事前に用意していた作戦を敢行する。そこに突発的なアイデアはなく、いわば最後までとって置かなければならなかった切り札。
サメハダーは爆発的な推進力を生む海水の噴射を利用し、ハンテールごと自身を空に打ち上げた。
戦場は空となる。
「ほほう」と、ストーは唸った。
やがてサメハダーは推進力を失い。二匹のポケモンは重力に身を任せて落下する。
それこそがハルトの狙いだ。
サメハダーごと相手を海面に叩きつけることで、一瞬でも良いから海面で動きを止める。そうすればサメハダーの攻撃力で押し切れる。
「『ダイビング』」
二匹のポケモンが海面に叩きつけられる、大きな音、水しぶき。
ダメージを押し殺し、サメハダーはハンテールを探した、海面に叩きつけられてダメージを負っているはずの相手を。
だが、いない、ぐるりと見回してもいない。
「潜った!」と、ハルトが叫ぶ。
海面に激突する寸前、ストーは『ダイビング』の指示を出したのだ。
ハンテールはその指示を忠実に守り、サメハダーから牙を離しながら体を捻って着水、そのまま海底に潜った。否。
逃した、と、ハルトとサメハダーがそう思った瞬間だった。
「『かみつく』」
大胆にも、それはハルトの目の前で起こった。
サメハダーの背後から現れたハンテールが、その巨大な顎で彼のヒレに噛み付いた。
そして、彼らがそれに反応するよりも先に、ハンテールがサメハダーを海中に引きずり込む。
「サメハダー!」
ハルトは、遅い後悔を脳裏によぎらせながら叫んだ。
同じことをやられた。
緊張の解ける一瞬、油断を狩られた。
気を張っていたはずだった、二度目はないように注意していたはずだった。
なら、なぜ後も簡単に狩られたのか。
それは理屈ではないのだ。
気をつけてどうこうするとか、注意すればどうこうというものではない。
人間も、ポケモンも、常に気を張り続けることはできない。
その間がかならず訪れることを、それがいつどのような時に訪れるのかを、ストーとハンテールは知っているのだ。
海中に引きずり込まれたサメハダーは、体を捻ってハンテールを振り払おうとする。
ペリッパーと違い、サメハダーは海中での呼吸が可能だ。
やがて、サメハダーは岩肌に体を叩きつけることによってハンテールを振り払う。
彼はハンテールを視界に収めようとした。
確かに、海中ではハンテールのほうが自由に動けるだろう。
だがそれでも、直線的なスピードでは自分のほうが勝ると確信している。
視界にさえ収めれば勝機はある。
だが、それができない。
どれだけ見渡そうとも、先程まで自分のヒレに噛み付いていたはずの憎きそいつが見えない。
光は指しているはずだ、いくら海の底とはいえ、ここは深海ではない。
それであるというのに、ハンテールの影すら見えないのだ。
消えたというわけではないだろう。
岩場があり海藻の生い茂る豊かな海底だ、隠れる場所はいくらでもある。
おそらく、ハンテールは時間をかけてこの海底を理解したのだ。
不利だ、と、サメハダーは直感的に感じた。
ここは、あまりにもハンテールに有利すぎる。
彼がハルトを求めて海面までの高さを確認した時だった。
やはり背後から、ハンテールが襲いかかる。
牙を使った攻撃ではない。体全身をサメハダーに叩きつける『すてみタックル』だ。
トントン、と、海中に小さな衝撃音が響く。
それを合図に、ハンテールが海流を作り出す。
先程の衝撃音は、ストーからの合図に違いない。
だが、ストーは海の中で起こっていることを確認できているわけがない。
ならばその合図は、少なくともハンテールが海面に這いでて助けを求めてこないことから状況を察して出した合図なのだろうか。
作り出された『うずしお』に、サメハダーが閉じ込められる。
先程のように、閉じ込められることを選んだわけではない、それから逃れることができるだけの体力がもうないのだ。
「『ギガインパクト』」
海流に翻弄されるだけとなっているサメハダーに、ハンテールがその巨体を叩きつけるように突進する。
なすすべもなくそれを食らったサメハダーは『うずしお』に巻き上げられながら海面に姿を表し、自らが戦闘不能であることを、ハルトに、審判に見せしめるだろう。
☆
小型船から降り立ち、簡単なインタビューを終えた姉弟を待っていたのは、危なげなく決勝に進出した男、モモナリだった。
「お疲れ様」と、彼はハルトとウミカそれぞれに向き合って言う。
「モモナリさん」と、ウミカはそれに複雑な表情を見せた。
彼女の中で、彼は今の弟に最も会わせたい人物であったし、その逆に、今の最も会わせたくのない人物でもあったからだ。
ハルトはじっとした表情でモモナリを見つめている。少なくとも、そこに昨日ほどの感動はなく、昨日のような満面の笑みを見せるほどの喜びもないようだ。
「いい試合だったね」
モモナリとしてはそれは本心だっただろう。
ハルトの判断、彼とサメハダーの信頼性、推進力を利用して空に飛び上がったアイデアと能力、彼らの実力が高く、ストーとの試合が良質なものであることは否定しようがないだろう。
だが、ハルトはモモナリのその言葉に、一瞬ぐっと何かをこらえたように唇を噛みしめたが、表情をそのままに大粒の涙をボロボロとこぼし始めた。
それを堪えられはずもなかった。
思い通りのことができなかった悔しさ、相手にコントロールされた屈辱、目の届かぬ場所で相棒をなぶられた無力感、その場所に相棒を連れ去られてしまった不甲斐なさ。自らの未熟が溢れ出ないばかりであったその試合を、どうして彼が前向きに捉えることができようか。
だが、彼はその感情をこれまで押し込めていた、試合の後に姉に声をかけられたときにも、小型船から降りた後に行われたインタビューでも、彼はできるかぎり冷静であろうとした。
しかし、モモナリのその言葉で彼のそれが一気に溢れた。
あの試合を『いい試合であった』と評されることを、気休めだと屈辱に思ったこともあるだろう。
だが、それ以上に、否定しかしていなかった自らを不意に救うようなその言葉に、自らを否定することで保っていた冷静な感情が一気に瓦解したのだろう。
同時に、憧れの人が『いい試合』だと表現したその試合を、自らが否定していたことが、恥ずかしくて仕方がなかったのだ。
「ハルト」と、ウミカは涙を流す彼を窘めようとした。
彼女は、彼が年齢以上の男に見られたい時期だということをよく理解している。キナギの男は涙を見せてはならない、キナギの男が泣くのは、海が涙を飲み込んでくれるときだけなのだという長老の教えを、ハルトがかっこいいと感じていたのを知っていたのだ。
だが、モモナリがそれを制した。
「泣きたいんだ、泣かせてあげればいい」
彼は周りを見回し、少しばかりハルトを引き寄せて続ける。
「僕の部屋に行こうか」
☆
サントアンヌ号、一等客室。
バルコニーから海を一望できることが自慢であるはずのその部屋は、カーテンをしっかりと閉められている。
「落ち着いたかな」
冷蔵庫から取り出した炭酸ドリンクを机に置きながら、モモナリはハルトに問うた。
ハルトは頷きながらそれを肯定し、赤くなった目を擦りながら「ごめんなさい」と続ける。
「謝ることはないよ」と、モモナリは続ける。
「泣きたいときに泣くのが一番良いんだ。明日、同じ様に泣けるとは限らないし、泣けるから泣くだなんて不自然だろう」
ハルトがそれに頷き、ウミカが「あらがとうございます」と頭を下げるのを確認してから、モモナリが更に問う。
「信じられないかい?」
姉弟はその言葉の意味を理解できず、沈黙をもってしてその説明を求める。
それを理解したのだろう、モモナリが続けた。
「自分を、信じられなくなったかい?」
ハルトは少しばかり考えるが、それに頷いた。
「無理もない、それは仕方のないことだ」と、モモナリは続ける。
「だが、だからといって君が自らの才能を否定する必要はないんだ」
彼は少しハルトから視線を外し、ぼうっと虚空を眺めた。
「そうやって、敗北で自らの才能を信じられなくなったトレーナーを、僕は嫌というほど見てきた。僕はそれを理解できないが、どうやら普通ってのはそうらしい」
だが、と、彼は再びハルトと目を合わせて続ける。
「負けたからと言って才能が無いと言うわけではないんだ。戦いというものは『誇るべき勝利』と『恥ずべき敗北』だけではない。『誇るべき敗北』と『恥ずべき勝利』も当然存在するんだよ」
一拍おいて、更に続ける。
「僕を信じろ」
ハルトとウミカはその言葉に驚きながらも、その言葉のすべてを理解はできない。
「負けてすぐの君が、自らのを信じるのは難しいかもしれない。だから、君は君の才能を認めている僕のことを信じればいい、僕が信じている君を、君も信じればいい」
姉弟は、その言葉に沈黙した。
言い過ぎだと言っても良い言葉だった。
だが、ハルトにとって、それは何よりも頼りになる言葉であっただろう。
「ありがとう、ございます」と、ハルトはつぶやき、ウミカも同じく言いながら頭を下げた。
「明日、僕の船に乗ると良い」と、モモナリがつぶやく。
「どのような結果になったとしても『いい試合』をすることを約束しよう」
☆
サントアンヌ号、バー『マッスル&マッスル』
サントアンヌ号という華やかな街の中心部に存在する開けたそこは、テカテカとした照明と、ピコピコとした音楽の流れる、騒がしい飲み場であった。
カウンターでは、特注のタキシードに身を包んだ二体のカイリキーが、四本の腕を器用につかってカクテルを二つ作っている。怪力のイメージのあるカイリキーが器用に良質なカクテルを作るそれは、一つのエンターテイメントとしても人気であった。
「よくわからないから、今日一番自信のあるやつを頼むよ」
バーテンダーであるカイリキーにモモナリは気さくに言った。
その注文にも、カイリキーは一つ頷いてゆっくりと準備を始める。何もテキパキとすすめるだけがプロフェッショナルではなく、己の所作に注目させることも大事なのである。
「いやしかし、器用なもんだね」
一対の腕で氷を削りながら、もう一対の腕で果実を絞っているのを見て、モモナリは感心していた。
その様子が、まさか翌日にサントアンヌ杯決勝を、不可能と思われていた殿堂入りかけた戦いを控えている男には見えない。
だが、あまりにも無防備なモモナリに声をかけるような若者や酔っぱらいはいなかった。
モモナリを知るものはその実力と評判から、そして、モモナリを知らぬものは、ニコニコしながらカクテルを待つその普通の中年男性に、見た目以上の魅力を感じなかったからだ。バトルを知らぬ人間からすれば、モモナリはあまりにも普通の人間であった。
だからこそ、手渡されたカクテルをスタンドテーブルで味わわんとしているモモナリに近づくその巨大な老人は只者でない。
「よう」
スタンドテーブルに置かれたそのグラスは、モモナリが手にしているものと同じであるはずなのに、その男が持っているから、錯覚のようにその大きさを不明にしている。
その男、ストーは、少しだけ気まずそうにしながら続ける。
「見かけたものだから声をかけたが、邪魔なら消えるぜ」
「いやいや、構いませんよ。一人で飲むには、綺羅びやかすぎる店だと思ってた」
「そうかい」
ストーはスタンドテーブルに肘をつこうとしたが、それにはあまりにもテーブルが低すぎたために、手のひらをつくように体重を預ける。
室内であるから帽子は取っているのだろう。見事なまでの銀髪は、テカテカの照明のカラーに影響されていた。
「機嫌が悪いかと思ってたんだ」
「どうしてです?」
「あの、ハルトとか言う子さ、君を随分と慕っているようだったし」
「ああ、なるほど」
モモナリは一度グラスを傾けて続ける。
「いい試合でした。勝負というものは、どちらかが勝てばどちらかが負けるものです」
「珍しい、割り切ってるんだな」
「それを否定したければ、戦わないことですよ」
「それよりも」と、モモナリはグラスを置き、ストーを見上げた。
「僕は、あなたへ驚きと、称賛のほうが大きい」
「へえ」
「大したコンビネーションだ。お互いに高いレベルで統一された価値観を持っていなければ、あれだけのものは出せない。ハルト君があなたに劣っている部分があるとすれば、手持ちのポケモンとの物理的な付き合いの長さでしょう。もちろん、それは平凡なトレーナーが長くポケモンと付き合っただけでは作れない。俺の勘通り、あなたは一角の人間らしい」
「そう褒めてくれるな、大人げないことをしたと、少しナーバスになっていたんだ」
「それで良いんでしょう」
その言葉にストーは一瞬モモナリを見やった。
「あなたがハルト君に勝とうと思えば、それこそ大人げなくなることが一番だった。大人を気取って、彼のフィールドで戦えばたちまち飲み込まれたかも」
「まあ、そう言えばそうだろうが」
「武器ですよ。歳をとっていることはね。それこそ今の僕には足りない部分でもある」
モモナリはもう一度グラスを傾けた。
「だからこそ、明日が楽しみだ」
その明日が、自らとの対戦を指していることを、ストーはすぐさまに理解した。
そして彼は、嬉しげに微笑むモモナリに言った。
「君のような海の男を、私は何人も見てきた。彼らは私の同業者でもあったし、海を縄張りにする友人でもあった。海を愛し、海を恐れない。そんな男だ」
だが、と、彼は続ける。
「そんな海の男は、大抵は死ぬか、取り返しのつかない状況になる」
グラスを傾けて続ける。
「彼らが特別にアホだったとは思わない。だが、一様にして、あいつらは海の恐ろしさに気づかなかった。私は海の底を生業にしていた、だからこそ、海の怖さを知っている。海面からでは見ることのできない、海の怖さを、人よりかは知っているつもりだ」
彼はモモナリに問う。
「海を、恐ろしいと思ったことは?」
「まあ、無いですね」
「だろうな、あのハルトという子もそう言うタイプだった。人より優れているから、海の怖さをその場の機転で逃れることができる、そう言う人間だ」
「だから、僕を潰すんで?」
挑発的な物言いだったが、それはストーが言い出したことでもある。
「お前らは海を知らない」
これまでよりも少しだけ口調を変えて続ける。
「それは悪いことじゃねえ、海を知らぬ人間など腐るほど居るだろう。だが、海を、海の怖さを知らないお前らが海上バトルの実力者だという事実と、俺や俺の仲間たちの人生を照らし合わせたときに、私の中で許せない一線があったということだ」
「海を知らない僕たちに憎しみが?」
モモナリは、それでも良いと言わんばかりの笑顔で問うた。
「憎しみか」とストーはつぶやき、グラスを鋭角に傾けてその中身を飲み干す。
「ねえことはないんだろうが、そんなに単純な感情でもねえだろうな。ただ、俺にはその感情があり、お前とこの舞台で戦うことのできる人脈もあった。ここでお前らに挑戦する機会を見逃したら、私の中で何かが嘘になる、そう思った」
彼は一拍おいて続ける。
「私の方が、海を知っている」
その言葉には、自信が満ち溢れていた。
「そりゃそうだ、僕は海を『二』しか知らず、あなたは『七』知っている」
モモナリもストーと同じくグラスを鋭角に傾けた。
「だが、バトルなら?」
その問いに、ストーは身を乗り出した。
「君なら、私の知らないバトルの怖さを知っていると?」
「ええまあ」
「とても、そんなふうには見えないが」
「そうですか?」
「ああ、そのような恐れを持って挑んでいるようには見えんよ」
「恐れると言ってもねえ」
モモナリは微笑んで続ける。
「怖さも楽しさですよ。バトルはね」
「長生きできねえぞ」
「どうだか」
ストーは空になったグラスを手に取った。
「それじゃあ失礼しよう。付き合わあせて悪かったな」
「ええ、楽しかったですよ」
モモナリも空になったグラスを手に取るが、少しばかりカクテルが残っているのを確認するとそれを振って氷と混ぜる。
「戦う人の人生を知るのは楽しいものです」
「そう言う割には、君は人生を語らないな」
ええまあ、と、モモナリはそれに答える。
「明日、沢山語り合いましょうや」