88-家庭教師
ヤマブキシティ、そのとある住宅街の一角に、その屋敷はあった。
年が経つごとに不動産価値が上がっているその土地で、その屋敷を構えることができるほどの土地を得るのにどれだけの力が必要だろうか。考えたところでむなしくなるだけであろう。
「ここか」
その青年、カントー・ジョウトリーグトレーナー、モモナリは、雑多な地図と住所だけが書かれた、およそ人を案内するような心遣いに欠けている小さなメモに目をやりながらつぶやいた。彼に詳細な地図など必要なかった。もし違った家だったとしても、それなりに頭を下げて目的地を告げればいい、彼はそう生きることを否定されたことがない。
念の為、その存在を見せびらかすように仰々しく設置されている表札に目をやる。抜群に珍しいわけではないが、ありふれているわけでもないその名前に、モモナリはそこが目的の屋敷である確信を持った。
☆
「やあモモナリくん、こうして会うことができて光栄だよ。私は君のファンでね」
ソファーに腰を沈めながら対面のモモナリに対してそう目線を向けるその初老の男は、モモナリに対してその言葉通りの感情を持っているとは思えなかった。なぜならば、彼はモモナリを目の前にしても立ち上がることもなければ、握手を求めることもない。
むしろその言葉は、彼が自らの立場を知らしめようとするような、光栄に思われることを光栄に思わせることが目的のものだったのだろう。髪には白髪が目立つが肌艶よく、その表情はエネルギーに満ち溢れている。白髪を染めないのは、若さだけが相手より優位に立つ武器ではないことを理解しているからだろうか。
「そりゃどうも」と、モモナリは男に対して普段と変わらぬ様子でそう返した。変に媚びを売ることもなければ、必要以上に改まることもない。そのようなことをする必要性を、彼は感じなかった。
「なるほど」
男はモモナリのそのような様子を眺めて笑う。
「クロサワくんから聞いていたとおりだな」
その名前が出てきたことにも、モモナリは動じない。
その男とモモナリは今日が初対面であったが、その男がトレーナーに明るくないわけではない。
むしろ彼は、古き良き無頼のトレーナーたちを愛する変わり者の一人であった。そうなれば、彼がクロサワと知り合うのは必然であろうし、その生き様を気に入るのも不思議ではない、尤も、あくまでもそれは自身より格下の人間としてであろうが。
「媚びず、恐れず……流石は『最後のチャンピオンロード世代』だ。うちの若いのにも、一人でもいいから君のような人間がいればいいのにと思うよ」
ヤマブキシティに屋敷を構えるだけあって、その男は所謂成功した実業家というやつだった。この世界が綺麗事だけではないことを理解し、それ故に、一人で戦い抜く無頼派、チャンピオンロード世代に価値を見出す。そういうタイプ。
「今日は、指導と聞いていたんですが」
感心するその男をよそに、モモナリは首をひねりながら問うた。
この仕事は協会からの依頼ではない。
酒の席で『面白い仕事がある』とクロサワに誘われたのだ。知り合いが『家庭教師』を求めていると。
「社会勉強だ、俺たちを金で買えると思っているバカに付き合ってこい」という言葉を、モモナリは真に受けている。
故に、モモナリは目の前の男がいつまでもソファーに沈んでいるのが不思議だったし、彼が少なくとも『トレーナー』ではないことは、その腰を見ればわかるというもの。
「ああ、そうだよ、指導の依頼だ」
男は座り直して続ける。
「私の息子に、ポケモンバトルを仕込んでほしい」
更に男は続ける。
「息子と言っても、妻の子ではないがね」
「はあ、そうですか」
モモナリはそれに興味を示さなかった。
彼のそのような反応について、下世話な小市民との違いに満足しながら、男は更に続ける。
「妻の子供は皆軟弱だが、その子だけは別だ、私の血が濃いのだろう」
へえ、と、モモナリはそれにも興味なさげに返事をし、少し考えてから問う。
「どうして協会を通さないんです? そのほうが色々楽でしょうに」
モモナリ本人が依頼されたことはないが、ポケモンリーグ協会に依頼すれば指導員の派遣を行うこともできるし、その金額によってはモモナリよりも上位のトレーナーを呼ぶ事もできるだろう。
「そんなつまらないことを言ってくれるな」
露骨にその提案を鼻で笑いながら男が答える。
「協会を通したところで、彼らが教えるのはお行儀の良いバトルでしか無いだろう? 彼らは競技者、戦士ではない」
「そんなことはないと思いますけどね」
「君の立場ではそう言うしか無いのだろうが、私が望んでいるのは『チャンピオンロード世代』の技術なのだよ」
男は懐に手を入れ、それを取り出してモモナリの前に置く。
モモナリが首をひねりながら眺めたそれは、まだ金額の記入されていない小切手であった。
「君たちの技術に敬意を払い、こちらから報酬の金額を指定するつもりはない。好きな金額を、好きなように払おう」
「はあ、いくらでもいいんですか?」
「ああ、いくらでもいい」
モモナリはその提案に目を輝かせることなく、その小切手をしげしげと眺めてからポケットに放り込んだ。
「あまり、お金には困ってないんですがね」
「金じゃなくとも良い、物でも、権利でも、何でも良い」
男は身を乗り出して続ける。
「チャンピオンと戦いたいのならば、すぐにでもセッティングしよう」
男は、モモナリの持つそのような欲望をよく理解していた。当然だ、モモナリのそのような部分こそが、彼のお気にいりのひとつなのだから。
だが、「そんなのいりませんよ」と、モモナリはそれを断る。
「それは俺のタイミングでやることです」
その言葉に、男は嬉しそうに頷いた。
☆
タマムシシティ郊外。
中心部に比べればまだまだ自然の残るそこに、男が指定した別荘はあった。親子であるだろうに同じ家に住んでいないことにモモナリは妙な感覚を覚えながらも、それに興味を持つわけでもない。
予定より早く着いた彼がその周りを散策すると、庭には対戦に使えそうなスペースがあり、近くに川もあれば山道もある。
だが、それらがチャンピオンロードの代わりになるとは、モモナリには思えなかった。
「やあ、どうも」
そろそろ時間だとその別荘の扉をノックしようとしたモモナリは、突然その扉が開いたものだから、つい反射的にその向こう側にいた人物に挨拶をした。
玄関には二人の人物。
そのうちの一人、モモナリと同世代であろうその青年は、扉の向こうにいたモモナリに少し驚きながらも、彼に一つ会釈をして「それじゃあ、また来週に」と、その少年に呟いて、モモナリの横をすり抜けていった。
その手に何らかの楽器ケースが抱えられていることに、モモナリは気づいている。
もう一人、おそらくモモナリの生徒であろうその少年は、別荘をあとにする青年の背中に会釈をした後にモモナリと目を合わせた。
「モモナリ先生ですね」
年の頃は十四から十五ほどであろうか。
その少年はモモナリと目を合わせることを恐れている風ではなかった。それは彼の無知からなるものではないだろう。
なるほど、と、モモナリは納得した。トレーナーとしての技量はまだわからないが、人間としては強いのだろう。
「先生については、お父様から聞いています。ミヒロです。よろしくおねがいします」
その年齢らしくない礼儀正しいお辞儀と、自らの父を「お父様」と呼ぶその少年にモモナリは当然違和感を覚えはするが、やはりそれは根掘り葉掘り聞くほどのことでもない。
「よろしく」と、モモナリは右手を差し出し、ミヒロもそれを握った。
「今の人は?」と、モモナリはとりあえず頭の中にあった疑問を問う。
「別の家庭教師です」
「楽器かい?」
「はい、バイオリンです」
「はあ、バイオリン」
モモナリは声のトーンを一つ上げる。
「そんな難しいものよくやるねえ。いつもこの時間までレッスンを?」
「いえ、三十分ほど前に終わるようにしてるんですが、今日はちょっと長引いてしまって……時間を調整したほうがいいですか?」
「いや、好きにしてくれていいよ、暇だし、こっちが合わせるよ」
すでに玄関に用意されていたスリッパに履き替えながら、モモナリが問う。
「バイオリンもお父さんの影響かい?」
会話の繋ぎのような何気ない質問だったが、ミヒロはそれに「いえ」とだけ答えて言葉をつまらせた。
「……母さんが好きで」
「ああ、そうなの」
それ以上の興味があるわけではない、モモナリは促されるままに部屋に通される。
その中にいた二匹のポケモンをひと目見て「へえ」と、モモナリは漏らした。
一匹はゴーリキー。彼がすぐさまにモモナリとその腰にあるボールに目線をやったことにモモナリは気づいた。
もう一匹はオニドリル、それはモモナリの背後に目をやり、来客が彼以外いないことを確認する。
「いいポケモンだね」と、モモナリはミヒロに言った。
「俺が初めての先生ってわけでもなさそうだ」
ひと目ポケモンを見ただけでそう断言するモモナリにミヒロは驚いた。確かに父の言っていたとおり『理想の家庭教師』であるらしい。
「いくつの頃からやってるんだい?」
「十二からです。モモナリさんの前に二人ほどコーチがいました」
「どっちもリーグトレーナー?」
「いえ、最初の一人はヤマブキジムトレーナーの方で、もう一人はCリーグの方でした」
「なるほど」
モモナリはそのポケモンたちをもう一度眺めて続ける。
「どっちのコーチも、より実戦的な事は教えなかったということなのかな」
それに、ミヒロは少し口ごもりながらも答える。
「……はい、二人共お父様との方針と合わなかったようです……どちらも優しい人だったのですが」
モモナリはため息を堪えた。
その二匹のポケモンの佇まいを見るに、おそらくその二人のコーチは教える人間としては無能ではなかっただろう。
「表に出よう」と、モモナリはミヒロとそのポケモンたちに言った。
「実力を知りたい」
「『ひっかく』」
姿勢を低くしたゴルダックが、ステップを踏むようにあえて一瞬右に体を振ってから攻撃を放つ。
低い姿勢と右への振り、縦の動きは囮であり、本命は視界から消えたあとの右への動きだ。おそらくゴーリキーの視界の中では、ゴルダックが下に消えたようにしか見えない、故に下からの攻撃に備えることはできるだろうが、横からの攻撃を想定することは難しい。
相手が野生のポケモンであるならば、この連携を見抜くことは難しい。
だが、トレーナーであるのならば話は別。トレーナーならば、ポケモンの第三の目となり、それに対応しなければならないだろう。
「『カウンター』!」
ゴルダックの爪がゴーリキーの顎を捉える。
だがそれと同時に、ゴーリキーの右腕がゴルダックの腹を捉えていた。
「ほー」
少し腹部を気にしながら距離をとったゴルダックを見ながら、モモナリは感心したように唸った。
敵を見落としたゴーリキーに対して、悪くない選択だ。
横からくる、と敵の位置を知らせることも正解かもしれないが、結果から見れば今の選択のほうがより良かっただろう。位置を知らせるだけでは攻撃に転じることができない。
何もできない、というわけではなさそうだった。
「『マッハパンチ』」
好機と見たのだろう、ミヒロは追撃の指示を出す。
ゴルダックに対して踏み込むゴーリキーだが、モモナリに言わせればそれは遅い。
その追撃をするタイミングは『カウンター』が炸裂したその直後、相手に考える時間を与えないタイミングだ。
「『まもる』」
ゴルダックは余裕を持ってそれを受け流す。
次の瞬間、ゴーリキーがゴルダックに抱きついた。
「『じごくぐるま』!」
そのまま腕力と背筋力でゴルダックを引き抜くように持ち上げ背を反らせる。
自らもダメージを受けるが、そのままゴルダックを反り投げようとしている。
アドリブだろうか、それとも用意していた動きだろうか、そのどちらにしろ、フォローとしては悪くない。
だが、だからこそ、あの躊躇の時間が致命的になる。あの時間があったからこそ、ゴルダックはその抱きつきに対して右手を引き抜いて自由にするだけの余裕が生まれている。
「『サイコキネシス』」
ゴルダックが地面に激突しようとしたその瞬間、彼の頭の宝石が光り、物理的な力を無視して宙に浮いたように動きが止まる。
やがて、ゴーリキーだけが力なく地面に横たわり、ゴルダックは体を捻って地面に着地する。
そして彼は『サイコキネシス』を打ち込んだ右手をゴーリキーの頭から離した。
「悪くはない」
足を引きずり始めたオニドリルから目を切りながら、モモナリがミヒロに言った。
露骨なまでに隙だらけの姿に、オニドリルは一瞬攻撃の姿勢を見せるも、ミヒロがなんの指示も出さないことから状況を察し、羽を畳んだ。すでに勝負はついている。
「ありがとうございます」と、ミヒロははっきりと答える。彼にとっては、これまでもかけられてきた言葉だ。
彼はモモナリから出てくる『悪くはない』の価値を知らない。
「技の相性はよく理解しているし、ひと目ポケモンを見たときに感じることのできる『危機感』も持っている。アドリブも悪くない……もったいないなあ」
彼はゴルダックを手持ちに戻して続ける。
「君に『その気』さえあれば、必ずモノになるだろうに」
その言葉に、ミヒロは一瞬戸惑い、そして、一気に顔を青ざめさせた。
うまく隠してきたつもりだった。否、これまでの二人にはうまく隠し通せてきたのだ。
父親に半強制的にやらされているとはいえ、それなりに前向きにバトルに取り組んでいるのだと、前の二人は思っていたはずだ。父からの期待を糧にやる気を出すような、愚かな操り人形のようなものだと思われていたはずだ。
「どうして、わかったんです」と、ミヒロが白状するように問うた。
「わかるさ」と、モモナリは退屈そうにあくびをしながら答える。
「君の攻撃には躊躇があった、攻め込めば良いところで攻め込まない不思議な躊躇だ。駆け出しのトレーナーですら畳み掛けてくるようなタイミングで、君はなぜか一旦間を置く」
更に一拍おいて続ける。
「じゃあ臆病なのかと思えば、自分が攻められているときには思い切りの良い動きをする……あまりであったことのないタイプだったけど、ようやく理解できた」
彼は一歩二歩とミヒロとの距離を詰める。
オニドリルはそれを防ぐために動こうとした。だが動けぬ、疲れから足が動かぬだけではない、あの男の腰元のボール、その全てがすべてを監視しているように思える。隙だらけのように見えるが、今、その男にスキはない。
モモナリはミヒロの前に立ち、笑顔で続けた。
「君、バトル苦手でしょ」
突きつけられたその言葉に、ミヒロは「はい」と、その真実を認め、頷くよりほかなかった。
☆
「お父様が期待していることはわかります」
別荘最寄りのポケモンセンター。
ミヒロは回復を終えたポケモンたちが入ったボールを撫でながら、隣に座るモモナリに呟くように言った。
「母さんは、お父様の強いところが好きだったんです」
「へえ」
やはりモモナリはそれに興味がなさそうだった。
それよりも、あの男がそんなに強くは見えなかったけどなあと、トレーナーとして思う。
「友だちが増えたみたいで、ポケモンといるのは好きです。ポケモンバトルというものが、彼らを軽視した単純な傷つけあいではないことも、これまでの先生たちから学んできました。ですが、どうしても」
ミヒロは少し言葉をつまらせ、謝罪するように続ける。
「バトルは『苦手』なんです」
「だろうね」と、モモナリは頷いた。
「『嫌い』と言えるほどの関心もないって感じだったよ」
ボールを撫でるミヒロに目をやってから続ける。
「ポケモンが傷つくのが心苦しいって感じかな、自分も、相手も」
ミヒロはその言葉に動きを止め、モモナリを見つめる視線に恐れを含めた。
彼は会って半日もたっていないであろうモモナリが、わずか一度、それも僅かな時間の手合わせをしただけで、これまで誰も見抜くことの出来なかった自らの本質を丸裸にしかけていることに心の底から驚いた。
彼はポケモンバトルが苦手なだけあって、ポケモンリーグというものをよく知らぬ。
だが、父が新たに家庭教師として雇った人物がどのような人間なのかを事前に調べておく社会常識はすでに持ち合わせている。
早熟の異端児、最後の無頼派、人を紹介するには一癖も二癖もある言葉が並ぶその男が、少なくともこれまでのコーチに比べれば格上であることは理解できていたが、まさかここまで自分の常識外の人間であるとは思ってもいなかった。
「どうして、それがわかるんです」
「さっきも言ったけど、踏み込み方に癖があった、有利なときに尻込みし、不利なときに才能を見せる……普通は逆なんだよ」
「これまでのコーチには一度も言われませんでした」
「才能がないコーチだったんだろう」
これまでのコーチを悪く言うような言葉に、ミヒロは少しムッとしたが、それに気づくことなくモモナリが続ける。
「とはいえ、トレーナーであればあるほど君のようなタイプと対面することはないだろうから気づかないのも無理はないかもね。それか、本当は気づいていたかのどちらかだろう」
喋りすぎろ、という先人の教えが、今回はモモナリによく働いたようだった。ミヒロは彼に対する不満を一旦胸にしまう。
「お願いがあります」と、ミヒロは続ける。
「このことは、お父様には秘密にしてくれませんか?」
「あ、やっぱりまずいの」
「お父様の期待を裏切りたくはありません」
ふうん、と、モモナリは鼻を鳴らした。彼はあの男をそこまで尊敬する理由がわからない。
「多分だけどさ」と、モモナリが続ける。
「もし俺が辞めたら、君のお父さんは次のコーチを雇うよね?」
ミヒロは気まずさを感じながらそれに頷く。
「だろうなあ」と、モモナリも頷く。
そして、しばらく考えた後に言った。
「よし、じゃあ色々教えてあげよう」
ミヒロは、覚悟を決めたように一つ喉を鳴らしてそれに頷く。
「ありがとうございます、僕も克服できるようにがんばります」
だが、モモナリはその覚悟に首をひねって答えた。
「うん? いや、バトルは極力やらないようにするよ。君は才能あるけど、人間の根本的な部分は中々変えようがないし、無理してするようなものじゃないさ」
ミヒロはそれに首を傾げた。
「それなら、何を?」
「君のお父さんは俺の技術をキミに伝えてほしいと言った。バトルが苦手なら苦手なりに、ポケモンにできる限りダメージを与えないようなやり方がないわけじゃないさ。俺はあんまりやったこと無いけど」
例えば、と、彼は腰のボールを一つ手にとった。
「今から、何を繰り出すと思う?」
突然の質問だった。当然、ミヒロにそんな事がわかるわけがない。
「ゴルダック、ですか?」
当てずっぽうに、彼は先程唯一確認することが出来たモモナリの手持ちを言ってみる。
だが、モモナリはそれに首を振ってボールを投げる。
現れたのは、ようせいポケモンのピクシーであった。最も、絵本や映画などでミヒロの知るそれに比べれば、随分と目つきが鋭いような気もするが。
「考え方が違う」と、モモナリが指を振って続ける。
「考えるべきだったのは『何を繰り出すか』ではなく『何を繰り出さないか』なんだ」
意味がわからず首を傾げるミヒロに、彼は更に続ける。
「例えば、今この場にイワークを繰り出したとしたら、どうなると思う?」
しばらく考えてミヒロが答える。
「大変なことになります」
自分で言っておいて馬鹿みたいな答えであったが、モモナリはそれに「そうそう」と、感心して返す。
「そのとおり、ポケモンセンターのソファーのそばでイワークなんかを繰り出したらとんでもないことになる。だから、イワークは候補から外れる。似たような理由で、ギャラドスのような巨大な体格を持つポケモンも候補から外れるだろう。そうなると、結構な数を候補から外すことができる。同じように、この場の状況からして候補から外すことができるポケモンはもっといるだろうね」
彼はピクシーをボールに戻して続ける。
「はっきり言って、今日出会ったトレーナーが今から何を繰り出すかなんて、ピッタリとした答えを出すことなんで出来やしない。いくら頑張ってもね。だからその逆を考える。そうすれば、いくらかは時間を作ることができる」
その理屈の圧になんとなく頷きながらも、ミヒロはそれに完全に納得することは出来ないでいる。ただ確実に言えることは、このモモナリという男が、これまでのコーチとは明らかに毛色が違う人間だということだった。
疑うわけではない、だが、もう少し自分にもわかりやすい説明が欲しかった。
故に、彼は同じように自分が何を繰り出すかというクイズをモモナリに出題しようと右手を腰元のボールに伸ばそうとした。
だが、次の瞬間、モモナリの傍らに再びピクシーが現れた。
突然のことにあっけにとられたミヒロに、モモナリが少し微笑んで呟く。
「ゴーリキーを繰り出そうとしたね」
まだ彼はポケモンを繰り出しておらず、モンスターボールに手を触れてすらいない。
故に、ミヒロはその言葉を強がって否定できる権利があった、否、それ以前に、そもそもポケモンを繰り出すつもりなど無かったのだと主張することすら出来ただろう。
だが、彼にはそれをしなかった、モモナリを相手に、今更強がる必要など無いと半ば諦めに近い理解をしていた。
「どうしてわかったんです?」
「目線をこちらに向けながら、右手が動いていた。状況的に、俺と同じことをするんだろうなと思ったよ」
「なんでポケモンまで」
「そっちは簡単、君はゴーリキーから預けて、ゴーリキーから受け取った。それをそのままセットしているのを確認してたからね。多分、オニドリルよりも付き合いが長いんだろう?」
「はい」と、それを肯定しながら、ミヒロはその男の持つ技術に恐怖にも似た敬意を持ち始めていた。
そして、そうなってからようやく、モモナリが繰り出したピクシーというポケモンが、かくとうタイプであるゴーリキーに対する最も優れた答えだということに気づいた。
「まあ、このくらいは基礎的なところだね」
モモナリは一つ背伸びをして、ソファーから立ち上がる。
「今日はこのくらいにしておこうか。それじゃあ、また来週」
☆
タマムシシティ郊外、別荘地。
やはり予定よりも早く着いたモモナリは、特に遠慮することなく玄関を開く。
すると、聞こえてきたのはバイオリンの音色であった。
モモナリに音楽の素質はない、故に彼はその音の善し悪しなどわからないし、それを批評するつもりもない。
だが、彼はそれに興味がないわけではない。
耳は悪くない、彼はその音がする部屋に向かい、躊躇なくそのノブを捻った。
「あなたは……」
その来訪に真っ先に反応したのは、モモナリと同世代であろう青年、一度会ったことのある、バイオリンの家庭教師だ。
彼はノックもなく部屋に入るモモナリの非礼無礼に憤るようにキッとした目線をモモナリに投げかけるが、すぐさまにそれは恐れを含んだものに変化した。
モモナリはその視線にわずか程の後悔を感じることなく、彼なりに気を使って静かに扉を閉じた。
だが、それでもその部屋に響くバイオリンの音が止まることはない。
モモナリが来訪していることに気づいてはいるだろう。だが、ミヒロはモモナリに視線を投げかけることすらせずに演奏を続けている。
「へえ」と、モモナリはミヒロに感心した。
少なくとも先週彼がミヒロに抱いた印象は、窮屈そうな子、というものだった。
もちろん、彼はミヒロのすべてを知っているわけではない。彼とのバトルの中で、彼の人間性を予測するのみ。だが、それは得てしてよく当たるし、彼がそれを疑ったことはない。
だが、今目の前にいる青年はどうだ。
彼は自らがバイオリンを演奏することを疑っていない。モモナリに気を使うことが、それよりも優先順位の高いことだとは微塵も思っていないだろう。
モモナリは、バイオリンについて何も知らない。
そりゃあ、イベント事やテレビなどでちらりとそれを見やったことはあるだろう。だが、その一挙手一投足にまで気を張ったわけではない。
バイオリンというものは、全身で弾くのだなあと、彼は産まれて初めて思った。
演奏を楽しみながら、彼はソファーに目をやる。
そこには、ピッタリと足を閉じて美しく座るゴーリキーと、目を閉じてそれに聞き入るオニドリルの姿があった。
なるほどね、と、モモナリは理解する。
自分という侵入者があるのに、それを警戒しない彼らが、トレーナーというものに向いているはずがない。
だが。
彼らは楽しそうだ。
「やあ、どうも」
それから少しして、ミヒロが演奏の手を止め、心地よい演奏が終わったことを感じてから、モモナリは手を上げて彼に挨拶した。
「失礼しました」と、ミヒロはバイオリンをおろしながらモモナリに微笑む。
「いやいや良いんだ」と、モモナリは手を降って続ける。
「多分、失礼なのは俺の方だったんだろう、こういう事が起きるとき大体失礼なのは俺の方なんだ」
壁にかけてある豪勢な時計をちらりとみやり、そろそろ時間だと言うことを確認してから続ける。
「それはいつから?」
「五歳くらいの頃からです……まだまだ遊びの域ですが」
その謙遜を「そんなことはないよ」と否定したのは、家庭教師の青年だった。
「君はもっと自信を持っていい」
彼は少し自嘲的に笑いながら続ける。
「良い先生に教われば、もっと伸びるだろうに」
「そんなこと……」
「あなたは良い先生じゃないんで?」
モモナリの不躾な質問に「彼は良い先生です」とミヒロは強く答えたが、青年はやはり自嘲的に笑う。
「僕はまだ学生です。彼はもうプロに指導してもらう段階に来ていると思います……バトルのようにね」
その言葉には明らかに皮肉が込められていた。
だが、モモナリはそれに気づくことなく「へえ、そりゃすごいなあ」と感情の赴くままに答えた。
その様子を見て、青年は途端に、その皮肉を言ってしまったことで自らの底が浅くなってしまったのを感じた。
「申し訳ありません」と、青年は後悔をにじませながら頭を下げる。
「失礼な言葉でした」
青年は、モモナリがリーグトレーナーであることを知っていた。そして、ミヒロの父による露骨なまでの『えこひいき』に思うところもある。
モモナリはその言葉に一瞬首をひねったが、すぐさまに考えを切り替えてあっけらかんと答える。
「あなたは俺よりバイオリンに詳しい、あなたがプロに指導してもらうべきだと言うならそうなんでしょう」
更に彼は続ける。
「お父さんに言えばいいのに」
今度はそれにミヒロが首を振った。
「お父様は、僕のバイオリンには興味がないんです」
「どうして? 素晴らしいものだったよ」
「……お父様は、強い人間が好きですから。あなたのように、一人で生きていれるような強さのある人間が好きなんです」
「ふうん。でも君はバトルよりバイオリンのほうが好きなんだよね?」
その言葉は、答えようによってミヒロの立場を危うくするような質問に感じられた。
「どうしてそう思うんです?」と、彼は緊張しながら問うた。
「誰だってわかるよ」と、モモナリは答える。
「何より、君のポケモンたちが、君の演奏にうっとりしていた」
不意に投げかけられた視線に、ソファーに座るゴーリキーとオニドリルはやや気まずそうにした。
「そうだ」と、モモナリが手を叩いた。
「君さ、俺にバイオリン教えてよ」
その不意な提案に、ミヒロと青年は驚いた。
モモナリは更に続ける。
「丁度さ、新しい趣味を探してたんだよ」
「……音楽の経験は?」
「昔ギターをやってたよ」
「どんな曲を弾いていたんですか?」
「いや、全然弾けなくてね、すぐに人にあげちゃったんだ」
ミヒロは絶句した、その経歴で『ギターをやっていた』なんて言って良いはずがない。
「楽譜は読めますか?」
「ああ、あれ全然わかんないんだよ」
どうやら音楽の経験どころか、音楽の常識から無いらしい。
その提案が、モモナリの気まぐれであることを案じた青年が助け船を出す。
「初級者コースならば、私が請け負いますよ。少しだけなら割引をしても良い」
「いや、俺は彼に習いたいんだ?」
「どうしてです? 彼は講師ではない、私は少なくとも初級者に教えるのは得意です」
「そういうことじゃないんだよなあ」
モモナリはミヒロに目線を投げかけて続ける。
「彼があまりにも、楽しそうだからさ。あんたと違って」
彼が何気なく言ったその言葉は、青年を口ごもらせるのに十分だった。彼が心のなかで思っていた何かを、刺激したのだろう。
だが、それでも彼はミヒロを守ろうとして続ける。
「ミヒロくんは、ひと月後に全国規模のコンクールを控えているんです。せめてその後まで待っていただきたい。それまでは私があなたにお付き合いします。料金はいりません」
ひと月、それは妥協点としては妥当に思える月日だろう。
だが、モモナリはそれに首を振った。
「いや、来週から始めたいなあ」
「ミヒロくんにとって、このひと月がどれだけ貴重か」
「時間ならさ、俺がバトルを教える時間を使えばいいよ、それなら良いでしょ?」
その言葉に、今度こそ青年は押し黙った。
理屈や倫理観を考えるのならば、青年に理がある。
だが、目の前のトレーナーは、そのような理屈や倫理観を吹き飛ばすだけの力があることを、その青年は理解している。何を言おうと、彼を止めるだけの力は、青年にはない。
だが、ミヒロはそれを悪い提案だとは思っていなかったようだった。
「良いですよ」と、彼は頷いてそれに答える。
「ミヒロくん」と、青年がそれを否定しようとするのを、彼は言葉を続けて遮る。
「バトルの時間は、どうなっても削れない時間です、それならば、僕はどういう形であろうとバイオリンと一緒にいたい」
そう、バトルの時間が削れるのならば、ミヒロにとっては悪い話ではないのだ。
最も、そもそもバトルの時間そのものがそっくり必要ないのだが。
「ありがとう、来週が楽しみだよ」と頷くモモナリに、ミヒロはバイオリンを片付けながら答える。
「いえ、今日から始めましょう。まずは、楽譜の読み方からです」
「いや、そういうのはあんまり興味がないんだけど」とそれを断ろうとしたモモナリにをミヒロはきっと睨みつけた。
好きが故、彼は妥協を良しとしないようだった。
☆
モモナリがバイオリンを習うことに決めた一週間後。
再びタマムシ郊外の別荘を訪れたモモナリは、小脇に抱えてきたその楽器ケースを、ご機嫌に彼らに提示した。
「買っちゃった」
無邪気にそういう彼が雑にそれを開いてみせたのを見て、ミヒロと青年は心の底から驚いた。
「これを、買ったんですか?」
ミヒロと青年は、その経済的状況から見る目が肥えているとは到底言えないであろうが、少なくとも楽器の良し悪しであったりとか、例えばショーウィンドウからそういうものを覗き込んでうらやましがるような欲望から、彼のそれが、楽譜を読むことすら出来ないような素人が手にして良いようなものであるとは到底思わなかった。
「初心者が買うには高すぎる……」
「そう? じてんしゃ三台分くらいだったよ」
改めて、ミヒロは目の前の男がプロでしのぎを削るトレーナーだということを認識した。彼が母から送られ愛用しているそれより、二倍以上の価値があるだろう。
「一応、楽譜は読めるようにしてきたんだよ」
モモナリは得意げに懐からプリントを取り出し広げた。
「ええと……ラ……ミ……レ……ド……」
青年はその姿に絶句した。先週は傲慢な男だと思っていたのだが、今週は、ただの阿呆なのではないかとすら思える。
「これをどう弾くかがわからないんだよなあ」
モモナリは、いかにもそれが自分のものである可能に、否、たしかにそれは彼のものなのであるが、とにかく彼はそのものの価値など知らぬと言ったふうに、そのバイオリンを手にした。青年がハラハラしたのは言うまでもない。
「それじゃあ今日はそれぞれの音の出し方を練習しましょう」
「そうだね、頼むよ、音が出せるようになれば、少しは家での練習も楽しくなりそうだ」
「家でも練習してるんですか?」
「当然、寝てるときと飯食ってるときとバトルしてるとき以外は練習だよ」
ミヒロと青年はそれをちょっとした冗談だと感じ、それでも彼のバイオリンに対する熱意に対して笑いを漏らした。
☆
更にそれから一週間後。同じくタマムシシティ郊外。
「少し弾けるようになったんだ」
モモナリは練習の成果を披露しようとバイオリンを構える。ミヒロと青年はその姿勢にも少し言いたいことがあったが、とにかく話を先に進めてみる。
「まあ聴いてみてよ」
ところがだ、見るからに美しいそのバイオリンから奏でられるその音は、まるでガラスをひっかくような不協和音であった。
ミヒロと青年は顔をしかめ、ソファーに座っていたゴーリキーは鳥肌を、オニドリルは更に鳥肌を極め、もう何も見たくないといったふうに顔を手と羽で覆っていた。
「やっぱりまだまだ練習不足で、君みたいに良い音は出ないんだよね」
とうのモモナリはその音の異常さにあまりピンときていないようだった。彼はその『まだまだ先生には程遠いけどそれなりに頑張ってるでしょ?』というスタンスの表情でミヒロを見るのだ。
「ええと」と、ミヒロは反応に困った。
それもそのはずだ、そもそも彼はバイオリンにおいて、そのような音を出したことがない。
「誰かに聴いてもらったことはあります?」
ミヒロの苦悩に気づいた青年が助け船を出す。
「ああ、家ではゴルダックがよく聴いてくれるんだよ、だいぶ気に入ってくれてるみたいで、いつも聴き入ってる」
そう言うと彼は「ほら、こんなかんじに」と、ゴルダックを繰り出した。
驚くことに、彼がモンスターボールに手をやったことに、ミヒロと青年は気づくことが出来なかった。
現れたゴルダックは、一瞬だけゴーリキーとオニドリルを見やった後に、その場に座り込む。
そして、不意に始められたモモナリの『演奏』に対して、再び顔をしかめるミヒロ達を尻目に、ゴルダックは座り込んだままに手を組み、目を閉じたのだ。
おそらく楽譜の一部が終わるまでであろうが、モモナリの『演奏』はしばらく続いた。その間もゴルダックが取り乱すことはなく、じっとしている。
やがてその『演奏』が終わった後、「ね?」と得意げにゴルダックとミヒロとを見比べた。
「ううん」と、ミヒロは唸った。
これは、どう考えても、このガラスをひっかくような音を都合のいい妨害音としてそれに負けぬ瞑想を極めているだけのように見える。
ミヒロは不思議に思った。
モモナリは、それこそポケモンの機敏に対して自分なんかよりも遥かに敏感なはずだ。ならばどうして、モモナリはそれに気づかないのか。
得意げなモモナリを眺めて、ミヒロは気づいた。
モモナリには、自らが出している音が『不快』であるということの認識がないのだ。
その認識がないから、まさかゴルダックが自分の『演奏』を『不快』に思っているとは思わない。
彼の致命的な音楽センスが、この悲しいすれ違いを生んでいたのだ。
「ええと」と、ミヒロはどうすればいいのか悩んだ。
不思議な感覚であった。
☆
「どうして君が呼ばれたか、わかっているかね?」
その初老の男は、対面に座るモモナリに対して、少しばかり強めた声で言った。
だが、モモナリはその強めた声に気づくことなく、首をひねりながら答える。
「もうひとり子供がいるんですか?」
「馬鹿なことを言うな」
男は怒鳴りつけることだけはなかったが、それでも、モモナリ相手に鼻を鳴らしながら叩きつけたその言葉は、彼をよく知る人間が聞けばたちまちにモモナリの身を案じてしまうような、そのような力のあるものだった。
だが、やはりモモナリはそれに気づかない、尤も、気づいたからといってへりくだるようなことはないだろうが。
「私は息子に君の技術を教えろと言った、息子にバイオリンを教われと言った覚えはない」
モモナリは少し驚いてそれに答える。
「どうして知ってるんです?」
「別荘の近隣住民から苦情があった。『あの酷いバイオリンの音はなんだ』とな」
その言葉に、モモナリは更に驚いた。
「ちょっと待って下さい、まさか俺のバイオリンが『酷い音』だって言うんですか?」
「そうとしか考えられんだろう」
「だってミヒロくんもバイオリンを弾くじゃないですか」
「それこそ馬鹿なことを言うな」
男はそれについてさらに何かを告げようとしたが、少し表情を険しくして一つ咳払いをした後にモモナリを睨みつける。
「とにかく、君がバイオリンを弾いていることはわかっている」
モモナリはそれに憮然としながらも、否定はしなかった。
更に男が続ける。
「なんのつもりだ?」
「なんのつもりも何も、あなたと同じですよ」
「私と?」
「あなたが俺の技術を欲しているように、俺もミヒロくんの技術を欲している。ただそれだけ」
はっ、と、男はそれを鼻で笑った。
「君のような男がバイオリンの技術を欲しているだって、まるでくだらない話だ」
「くだらなくはないでしょう、現に俺はどうやらバイオリンを上手には弾けないらしい」
「くだらないさ、あのような女々しい趣味に、一体何の価値がある」
「俺は女々しいとは思いませんけどね」
モモナリは憮然とそう返した後に、一つ身を乗り出して男に問う。
「もしかして、あなたは美しいことに価値がないと考えるタイプで?」
「全く価値がないことだとは思わんさ、美しい女を何人も侍らせることは、男のステータスでもある。だが、所詮は女のものだ、強さには関係がない。男が身につけるものではないだろう」
「妙なことを言うなあ」
モモナリはまるでわからないといった風に頭をかいた。
「俺は楽器のことはよくわからないけれど、美しい音色を奏でるには才能と努力が必要でしょう、俺が持っているものとは違うでしょうが、それは立派な強さですよ」
そして、彼はじっと男と目を合わせながら続けた。
「あなたと一緒でね」
男は、モモナリの言うことを一瞬理解できなかった。
女々しいと切り捨てるように、彼には音楽の経験などなく、演奏することのできる楽器も限られているだろう。
だが、モモナリのその言葉が、なんとなく、自らの尊厳を攻撃しているものであることは、彼の優れた人生経験から理解できていた。
「どういうことかね?」
声質を変えながら、男は問うた。
モモナリは音の声質が変わったことを理解しつつも、とくに表情を変えることなく答える。
「よくわからないけど、クロサワさんがあなたと付き合ってるということは、あなたも何らかの形で『強さに変わるもの』を持っているということなんでしょ? そういうところが、ミヒロくんと同じだと言うんです」
「私が、少しバイオリンの心得のある子供と同じだと?」
「俺から見ればね……いや、厳密に言えば違うけど」
モモナリは次を告げるために息を吸い込んだ、お前は少し変な考え方をしているから、喋りすぎるくらいが丁度いいというクロサワの忠告を、彼は守っている。
「別に俺は、あなたに憧れてるわけじゃないし」
自らを軽んずるその発言に、男は激昂よりも先に困惑の感情を覚えた。この十数年、冗談でも自分にそのような態度を取る人間がいただろうか。
そして、聡明なその男は、モモナリと自らの認識の差に気づいた。
彼はソファーに座り直して答える。
「……君からすれば、私も女々しい人間の一人ということなのかね?」
男は、剛腕とも称される行動力による社会的な成功により、自然と、自らはモモナリのような『チャンピオンロード世代』の領域にいると、ほぼ確信していた。
だがどうやら、モモナリはそうは思っていないらしい。
「別に女々しいとは言いませんよ」と、モモナリは答える。
「ただ、別にあなたは『強いトレーナー』ではない。バッジは幾つ持ってます?」
「四つだな」
「今でもバトルを?」
「いや、もう自分ではやってない。身を守る術はもっぱらボディガードだ」
「ああ、二人ほどいましたよね。あんまり面白い人たちではなかったですけど」
「もう一人増やすべきかね?」
「トレーナーが増えたからと言って強さが単純な足し算になるわけじゃないですよ、現に、彼らが二人でも俺には勝てなかった」
「『チャンピオンロード世代』の意見として……例えば君から自らの身を守ろうとすれば、何が最も効率の良い手段かね?」
モモナリは、背もたれに体重を預けて暫く考える。
「単純に、俺より高い順位のリーグトレーナーをボディガードにするとか」
「それができるなら苦労しないだろう……それ以外なら?」
「争わなきゃいいじゃないですか」
至極、明確な返答であった。
だが、それはモモナリがその男に突きつける最大限の傲慢でもあっただろう。
争うな。
それは、最も一般的な倫理観の中に存在する概念のように思えるだろう。喧嘩をするな、争うな、仲良くしろ。そんなもの、トレーナーズスクールで状態異常を学ぶような子供達でも理解している。
もちろんその男も、その倫理観を理解はしているだろう。
だが、その男は、それがいわゆる建前であることも理解していたのだ。
我を通すことはいわゆるひとつの競争、争いであり、それこそが、その男をその男足らしめているもの。
争うなということはすなわち『逆らうな』と言われているのも同じなのだ。
『自分の身がかわいければ、俺に逆らうな』
つまりモモナリは、その男に向かってそう言い切ったも同じなのだ。
だが、男はその、自分よりも二周り以上年下の若造のそのような生意気な失言に、腹を立てるどころか、異議を唱える気力すら無くなっていた。
「……君たちは、全員そのような考えなのかね?」
それは、誰もが口にしないからこそ忘れられていた。その男が、自分はモモナリと同じ目線を持っていると妄信的に確信できてしまう程度には、その事実を、皆が忘れていたのである。
モモナリは、その質問に小さく笑いながら答える。
「若い子はそうでもないでしょう。大人しいから」
男としてはまだまだ若いモモナリが表現する『若い』とは、つまり自分たちよりも後輩『非チャンピオンロード世代』のことだろう。
「それなら、クロサワくんはどうかね?」
彼は付き合いのある『チャンピオンロード世代』の名前を出した。
気のいい男だった。酒の席を共にし、全身から溢れ出る強者のオーラを惜しげもなく見せつけてくれる男であった。
彼もまた、自らを『捕食の対象』と見なしているのだろうか。
「いやいや」と、モモナリはその問いに首を振った。
「あの人は、優しい人ですから」
その返答に、男はため息を付いた。
ポケモンリーグ一の無頼派、道を歩けば海が割れるように誰もが道を譲るクロサワを捕まえて、優しいなどと表現できる人間が、果たしてどれだけいるだろうか。
「君は、私が思っているよりも随分……飛び抜けているようだ」
モモナリは、その言葉にいまいちピンときていないようで、首を傾げながら、真っ先に思ったことを口にする。
「でも、あなたはミヒロくんをそうしたいんでしょう?」
「……話が、随分ずれてしまったね」
男は再びソファーに座り直して言った。
すでに、モモナリを相手に主導権を握ることは諦めていた。むしろ、それこそが、彼の肩の力を抜いていたのかもしれない。
ある意味で、彼はもうモモナリの前で気を張る必要など無いのだ。
「もう、辞めろとは言わないよ。君は君のできることをやってくれればそれでいい。ただ、教えてほしい。なぜ、あの子にバイオリンを習おうと?」
「趣味が欲しかったんですよ。寝ていないときに、暇を潰せるような」
「そういうことじゃない……君ならば、まだ手習い途中の子供ではなく、もっと優れた講師の授業を受けることだってできるだろう? そのほうが効率がいいし、私としても、そのほうが君はよりあの子へ授業に集中できると思うのだがね」
「ああ、そういうことか」
モモナリは少し微笑みながら目を瞑ってそれを回想する。
思い出すのは、ソファーに座るゴーリキー、オニドリル、青年、そして、その音色を奏でるミヒロの姿そのもの。
「彼等が、あまりにも、楽しそうだったから」
☆
「一つ聞きたいんだ」
タマムシシティ郊外、別荘にて。
不釣り合いなバイオリンを構えたモモナリは、ミヒロと青年、そしてソファーに座るポケモンたちをぐるりと見回してから続ける。
「俺のバイオリンの音って、酷いの?」
その問いに、部屋は緊張感を帯びる。
そりゃ酷いよ、と、誰もが口を揃えて言いたかった。
だが、相手はリーグトレーナー、強さの象徴、かなりバイオリンに入れ込んでいるようで、すでにじてんしゃ三台分の投資をしている。
とてもではないが、その真実を伝える気には慣れない。
「ミヒロくんほど綺麗な音が出ているわけではありませんが、まだ習い始めですし、そのようなものですよ」
ミヒロに変わって、青年が助け船を出す。
いつものモモナリならば、それに納得していただろう。
だが、今日の彼は違う。
彼はじろりとソファーに座るゴーリキーとオニドリルに視線を向けた。
半ば睨みつけるようなそれに、ゴーリキーとオニドリルは冷や汗を流しながら気まずそうにそれぞれ同じ方向に目を反らした。
「そうか」と、モモナリはわかりやすく項垂れた。
「ということはあれか、ゴルダックはこの酷い音を瞑想に利用していたということか」
どうやらモモナリの中ですべての現象に合致がいったようだ。
ミヒロと青年がどうやってモモナリを励まそうかと考え、それを実行に移すよりも先に、モモナリがぱっと顔を上げて続ける。
「君のお父さんに注意されたんだ、その酷い音をどうにかしろってね」
「お父様が、ですか」
「そう、ミヒロくんだってバイオリンを弾いてるじゃないかって言ったんだけど、馬鹿なことを言うなとすぐに否定されたよ。お父さんも、君のバイオリンが上手いことは知ってるんだね」
「まさか」と、ミヒロはその言葉に嬉しそうに微笑みながらそれを否定した。
「本当さ、少なくともお父さんは、君が酷い音を出すとは思っていないようだ」
ミヒロと青年はそれを以外に思った。
少なくともこれまで、彼の父はミヒロのバイオリンに関しては無反応、ほとんど無視であったし、モモナリを寄越したように、ミヒロには強さを求めているようだったのに。
「ところで」と、モモナリが続ける。
「コンテストは来週だろう?」
「ええ」と、ミヒロはそれに頷く。
「是非とも、俺もそれを見たいんだが、何とかならないものかな」
「ああ、それなら、多分保護者席が開放されているでしょうから、そこになら入れるはずです……誰も来ないでしょうし、一人くらいなら大丈夫でしょう」
目配せするミヒロに、青年も頷く。
「僕が話を通しておきましょう」
「そりゃあ良かった」
モモナリは満足げに微笑んだ。
そして、彼はミヒロと目を合わせて続ける。
「緊張するかい?」
ミヒロは、おそらく初めてであろうモモナリからのコンクールへの言及に一瞬驚きながらも、強がることなく「ええ」と答えた。
「緊張しますよ」
彼は一つ頷いてから続ける。
「結果が出れば、お父様にバイオリンを続けさせてほしいと言うつもりなんです」
「はあ、なるほどね」
「モモナリさんは、緊張したときにどうしていますか?」
その質問は、プロの世界で戦うモモナリに求めるものとして適切のように思えた。
だが、彼は首を傾げてそれに答える。
「さあ、バトルの時はあまり緊張したことがないから」
そう答えたが、さすがのモモナリも、それがミヒロの求めるものではないことは理解しているらしく、一拍おいてから続ける。
「好きなことを、好きなようにやればいいんだよ」
「好きなこと、ですか」
「そうとも、君は楽しそうにバイオリンを弾く。君は見るからにバイオリンが好きだし、バイオリンを弾くことを疑っていない。それを、そのままコンクールでもすればいい」
ミヒロはそれに頷いたが、その意見は、モモナリにしては珍しく月並みなものだった。
だが、彼はさらに続ける。
「お父さんに認めてもらうとか、そんな事は考えなくていい。いや、そもそも、君がバイオリンを続けるために、誰かの顔色を伺う必要なんて無いんだ」
その言葉は、少なくとも先程に比べれば月並みではない。
しかし、とそれを否定しようとしたミヒロを遮って更に続ける。
「君が誰かのためにバイオリンを弾く必要なんてどこにもない。君が弾きたいように、君が聴かせたいようにすればいい。バトルに関して、俺はずっとそうしてきた、好きなバトルを自分のためにやってきた。誰かのために戦ったことは殆どない、自分がやりたいときに、やりたいように戦った。そうしたら、いつの間にかこういう立場になった」
モモナリはミヒロの肩を叩く。
「後は、信じろ」
「信じる、何をです?」
「両思いであることを信じろ」
両思い、と、ミヒロは再び首をひねった。
「戦いが強い奴ってのは、戦いが好きで、そして、戦いにも好かれてる奴だ。恐らく、バイオリンもそうだろう。君は君がバイオリンを好きであることを信じ、バイオリンが君を好きであることを信じろ。緊張というのは、それを少しでも疑う奴が感じる不安なんだ」
その言葉は強い。だが、誰もが受け入れられる言葉ではないことをミヒロと青年は理解できる。
「もし」と、まるでミヒロの代わりに質問するかのように、青年が声を上げる。
「もし、バイオリンに愛されていなかったときにはどうするんです?」
モモナリはそれにさして考えることもなく答えた。
「何でもできるでしょ、次を探してもいいし、愛し続けてもいい、そんな事は振られてから考えなよ」
やはりそれは、強い言葉だった。
☆
タマムシホール、二階、保護者席。
そこは、ある意味で、参加者本人よりも人生の悲哀に満ちている場所であるかもしれなかった。
「死んだわけでもあるまいし」
その悲哀から少し離れた席にて、背もたれに体を預けながら思わずそう呟く。モモナリにとって、そこはあまり好ましい雰囲気ではなかった。
「ねえ?」と、彼は隣に座る男に同意を求めた。
室内であるというのにサングラスを外さぬその男は、モモナリの言葉に鼻を鳴らしながら「君にはわからんだろうさ」と返す。
「愛する子供のためか、はたまた膨れ上がりすぎた自らのプライドのためか……とにかく彼等の中には、一つの莫大な投資に敗北した者もいるということだ」
「へえ」と、モモナリはその返答を意外に思った。
「気持ちがわかるんです?」
「私だって一人の親であることから逃げられんということだ。妻との間にできた子供には随分と投資したよ……その殆どが無駄と言っても良かったが」
彼がここであえて『妻との間』という言葉を強調したのは、ミヒロがそうではないということを、モモナリレベルの人間にもわかるように配慮したからだろう。
「それなら、どうしてミヒロくんには投資しないんです?」
男は、モモナリのその問いがバトルに関してではなく、バイオリンに関してのものであることを理解していた。
理解しているからこそ、男はそれに対する返答に躊躇しているようだった、そして、モモナリは男の答えを待っている。
男はため息を付いた。普通ならば、これだけ時間を書けた時点で相手が察してその質問を引っ込めるというもの。だが、モモナリを相手に、その理屈は通用しない。
このまま黙り続けていようかとも考えた、しかし、それも無駄だろう。彼は自分がその答えを出すまでそこに居続けるだろうし、それにいらつくことあれば、答えを急かすように『お願い』してくるかもしれない。普段とは違う、今は自分こそが圧倒的な弱者なのであるから。
「信じられんだろうが、私は芸術に理解がある」
その答えに、モモナリは首をひねった、芸術に理解のあることと、ミヒロに投資しないことは、相反する行為にしか感じないからだ。
「ミヒロくんのバイオリンは下手なんで?」
その中からモモナリがひねり出した結論は、その男が、ミヒロのバイオリンを評価していないということだった。
それをあえて問うたのは、彼が音楽の良し悪しをわからないからだ。
「まさか」と、男はそれを鼻で笑う。
「いつだったか、初めてあの子の奏でるバイオリンを聴いたとき、私はそれに聞き惚れた。そして、それは今日も同じ」
男はそこでやはり口ごもりながらも、続ける。
「もし今日、ミヒロになんの結果も出なければ、芸術に対する冒涜だと私は怒り狂うだろう」
「才能を、認めているんですか?」
やはりモモナリはそれに首をひねる。
「ああ、認めているよ」と、男はそれにすんなりと答える。
「母親譲りだ。軽く、踊るように、いい音を出す」
男は、モモナリが何も返さないことを確認してから続けた。
「それなりの地位を得るまで、私は芸術とは無縁だった。塗り絵を塗ることも出来ず、縦笛で簡単な曲を奏でることも出来ない。そして何より、それを恥だと思っていなかった。私が欲しかったのは力だったから……君はどうかね?」
モモナリはその問いに微笑みながら返す。
「まあ、興味はありませんでしたね」
「そうだろう、いかにもそのようなタイプだ」
男は更に続ける。
「戯れに芸術というやつと触れ合ったのは少しばかり余裕ができてからだった。最初は下らぬ貴族の遊びに付き合う程度のものだったが、やがて、それなりに楽しめるようになった。皮肉なものだが、私にはそれなりに芸術を見る目というものがあったらしい」
男はさらにモモナリに問う。
「優れた芸術とは何かと思うかね?」
「さあ」
「優れた芸術とはね、熱意だよ……もちろん、私がそう思っているだけかもしれないが」
「ますますわからん。そこまで言っておきながら、どうしてミヒロくんにバイオリンを辞めろと?」
「もう少し話を聞け……いや、聞いてくれ」
男のその懇願に、モモナリは頬をつく手を入れ替えた。
それを譲歩だと理解し、男は更に続ける。
「いつの時代もそうだが……多くの芸術は生きていけない。私のような立場の人間がよく芸術に触れるのも、言い換えれば、我々こそが芸術を『生かす』立場にあり、芸術家は『生かされる』立場であるからだ」
男はステージ、先程までミヒロたちが演奏を披露していた場所を眺めながら続ける。
「あの子の母もそうだった」
モモナリは、その言葉に少し緊張感を持つ。
「良い音を出す女だった。バイオリンへの熱意と、それに対する献身と、それ故に返される芸術からの寵愛を受けている。そんな女だった。だが、彼女の生活状況はその熱意に釣り合うものではなかった。社会から寵愛を受けるような大層な生まれではなかったのも関係したのかもしれない」
一拍おいて続ける。
「要するに食えてなかったのだ。私が近づかなければ、いずれそのバイオリンすら手放すことになっていただろう。尤も、人より体の弱かった女だ、それを手放したところでまともな生活が送れたとは思わんが」
「へえ」と、モモナリは身を乗り出して相槌を打った。彼は社会を知っている方ではなかったが、それでも、その二人の関係をなんとなく推測することは出来ただろう。
「私がバイオリン……芸術を女々しいというのはそういうところだ。いかに『うつくし』かろうが、それは所詮『力』に屈するほかない。他人ならともかく、形はどうあれ私の子に、そんな人生を送らせたいと思う親がどこにいる? ましてやあの子は私の血を最も濃く受け継いでいる、この世を強く生きる権利があの子にはあるのにだ」
つまり、男はバイオリンというもので身を立てることの困難さを知り、子供にその道を歩んでほしくないということだったのだ。
ようやく男の言いたいことを理解したモモナリは「ふうん」と唸り、一人頷きながら考える。
そして彼は言う。
「でも結局、ミヒロくんのお母さんは、バイオリンの力であなたと出会ったわけなんでしょ?」
男が沈黙をもってそれを肯定するのを確認して続ける。
「それって結局、強かったんじゃないですか?」
少しばかり沈黙。
男はその言葉に僅かな憤りを感じていた。
そのようなこと、この人生の中で考えなかったわけではない。
否、むしろ、彼女についてそう考えることは、そう考えることこそが、彼女のバイオリンに対する熱意に対しての救いであった。
だが、男は首を振る。
「人間は、一人で生きていかねばならないのだ。君達のように」
「変なことを言いますね」
モモナリはくああと一つあくびをして答える。
「俺達だって一人で生きているわけじゃない。一緒に戦ってくれるポケモンたちがいて、自分たちの強さを知るために戦う相手がいて、初めて俺達として存在できる。そういう点では、俺達とあなた達は変わらない」
彼はちらりと時計を見やった。結果が発表されるとしている時間まで、あと半時間ほどであった。
「あなたはね『うつくしいこと』を勘違いし過ぎなんですよ」
一拍おいて続ける。
「『うつくしい』すなわち『弱い』ではないですよ、それは俺が保証します」
もし、それを言ったのが、部下や、街の占い師などであったならば、男はたちまちのうちにそれを笑い飛ばしていたであろう。
だが、それを語るモモナリの口調は鋭く、そして、目は真剣そのものであっただろう。
「もったいないですよ」と、彼は続ける。
「好きで才能もある。それ以上のことなんてありゃしない。少なくとも、苦手なバトルをやらせるよりかはね」
その言葉に「そうか」と、男は頷く。
「バトルの才能はなかったかね。これまでの家庭教師からそのような話は聞いていなかったが」
「才能がないってことはない、頭が良いし、ポケモンの表情にも気付ける。ですが、ポケモンに対して優しすぎるから向いていない。才能がないわけではなくバトルが『苦手』なんですよ」
「そうか」
男はサングラスを外し、ホールの天井を眺めながら続けた。
「そういうとこばかり、母親に似るんだな」
何かを思い出すように頷いて、モモナリに問う。
「家庭教師は、辞めにしよう」
「それが良い」
やけにあっさりとそれを受け入れたモモナリに男は驚く。
「あっさりと受け入れるね。君にとっては収入が減ることになるというのに」
「だって可愛そうでしょ、苦手なことをやらされるなんて、あまりにも気の毒だ」
モモナリはジャケットの内ポケットから少しシワがついてよれた紙切れを取り出す。
「じゃあ、これに一ヶ月分を」
それは、未だに白紙のままの小切手であった。
「これは、君の自由に記入していいと言ったはずだが」
「いやあ、そうしたいんですが、俺はこれの相場がわからなくてね」
「いや、だから好きな額を」
「これはあなたが書くべきだ。この一ヶ月、俺はミヒロくんにそれなりに教えられることを教えた。人間が、技術に払うべき敬意の金額を、教えてほしいんですよ」
恐ろしい提案だな、と、男は寒気に震えるような気分になった。
「少し、時間をくれないか?」
「良いですよ、まあ、結果が出るまでには書いてほしいですが」
☆
「結果、出たんだね」
タマムシホール、一階、ロビー。
小切手を懐に収め、バイオリンケースを小脇に抱えたモモナリは、すぐさまにミヒロを探し出して声をかけた。
もちろんそれは、コンクールの結果を待つ人物に対して配慮のある言動ではない。
「ええ」
しかし、ミヒロはその言葉に緊張感を震わせる事なく、涼しい表情でモモナリを受け入れた。そして、その涼しい表情は、彼がステージで見せていたものと同じだ。
「そうか」と、モモナリは人の群がる壁に目をやり、そして、ある一点でその視線を止め、満面の笑みとなった。
「やっぱり、思ったとおりだ」と、モモナリはミヒロに向かって微笑みながら続ける。
「楽しそうだったもの」
ミヒロがその言葉に礼をいうよりも先に、モモナリはバイオリンケースを開いてそれを取り出す。
「それでは、君をお祝いして」
それを構えるまでの動きは素早く、ミヒロはそれを止めることが出来なかった。
次の瞬間、ロビーに響き渡ったのは、まさに『いやなおと』だった。
ロビーにいた面々は、突然のそれに顔をしかめ、それぞれの方法で『不快』を表現する。
それが、下手くそなバイオリンであることは皆が理解していただろう。そして、今このロビーには幾多ものバイオリンがあるはずだから、それが演奏されることは、まあ常識非常識の観点はともかくとしてありえる。
だが、それが『いやなおと』であることはありえない。少なくともここにあるバイオリンたちは、そのような音を出さないことを条件にここにあるのだから。
故に、彼等はすぐにそれがモモナリから発せられていることに気づいた。だが、彼等がポケモンリーグに明るいはずもなく、突然にバイオリンから『いやなおと』をさせる彼に対して、恐怖心すら抱いていた。
「どうかな?」
意外にも、ミヒロは他の人間ほどにはそれを不快には思っていなかった。
もちろん慣れもあるだろうが、前に聞いたそれに比べれば、多少の改善があったからだ。
だが、それはあくまでも多少だ。
大の大人が習って出すような音ではない。
「モモナリさん」と、彼はモモナリに微笑みかける。
わかったことがある。
自らに、才能があることを、バイオリンから愛されていることを自覚したがゆえに、理解したことがある。
それは、音楽のセンスのないモモナリが、これ以上これを続けることは、かわいそうだということ。だれかがそれを告げなければならないのだろうということ。
「あなたは、バイオリンが『苦手』です」
否定ではない、嘲笑でもない。それは優しさだ。
「ああ」と、モモナリはそれに頷いてバイオリンを下ろす。
彼は、ミヒロがそういうのならばそうなのだろうと、それを受け入れたのだ。
「やっぱりか」
彼はそれを丁寧にケースに収めた。
そして、彼はそれをミヒロに差し出す。
「じゃあこれ、あげるよ」
あまりにもぐいと差し出されたので、ミヒロは、ついそれを受け取ってしまった。
そして、受け取った後に、事の重大さを理解する。
「いや! いやそんな! 貰えません!」
彼はそのバイオリンの価値を知っている。こんなものをひょいと他人に、ましてや出会って一月の人間に手渡していいはずがないし、そんな事ありえない。
「いいじゃん、貰っときなよ」と、モモナリはすでに他人事のように言う。
「このままタンスの肥やしになるくらいなら誰かに使ってもらったほうが良いし、誰かに使われるなら、君に使ってほしい」
「だけど」と、ミヒロは珍しく年齢相応のつぶやきを漏らした。
そりゃ欲しい、欲しいに決まってる。
だが、これはあまりにも幸運すぎる。こんな幸運が、まだヴァイオリニストとして半人前の自分にあっていいはずがない。
ぐるぐると混乱する頭の中から、彼は叫ぶように言った。
「サインを!」
首をひねるモモナリに続ける。
「ケースにサインを書いてください! そうすればこれはあなたのもので、あなたはこれを僕に貸してくれるんです!」
支離滅裂な文法であった、それほどにまで、彼は混乱しているのだろう。
だが、モモナリはなんとなくであるがそれを理解できたようだ。
それを理解した上で、モモナリは首を振る。
「サインペン持ってなくて」
「サインペンあります!」
ミヒロはケースを落とさぬようにワタワタしながら、ジャケットの内ポケットからそれを取り出した。名のあるリーグトレーナー相手にサインを求めぬのは失礼だろうと思いながらその機会を失い続けていたそれは、ようやく日の目を見る。
「いやあ悪いね」と、モモナリはそれを受け取り。なんの躊躇もなくそのケースにそれを走らせる。
「最後に書いたのはだいぶ昔だから、崩れているかもしれないけど」
慣れぬ革に何とかそれを書き、珍しく気が利いたのか直接ミヒロの胸ポケットにサインペンを戻した彼は「ああそうだ」とつぶやき、今度は自分の内ポケットに手を入れる。
「これ、バイオリン教室代ね」
すこしシワがついてよれた紙切れをミヒロの胸ポケットにねじ込む。
彼がそれが小切手であることに気づき、その金額を確認するのは、それからもう少ししてからだった。
なぜならば、彼がそれに質問するよりも先に、モモナリが「それじゃ」と手を上げたからだ。
「あ、待ってください!」と、彼を見送ろうとしたミヒロを、モモナリは制した。
「見送りは良いよ。君はもう少しここにいると良い。なに、悪い話じゃないだろうから」
モモナリの視界の隅には、室内だと言うのにサングラスを外さぬ男があった。
☆
「モモナリさん!」
手軽なままにホールを後にしたモモナリに、背後から声をかけるものがあった。
特に警戒することもなく彼が振り向くと、そこにいたのは、ミヒロのバイオリンのコーチである青年だった。
「どうしたの?」
「一言、お礼を言いたかったんです」
息を落ち着かせながら、青年が続ける。
「さっき、彼のお父さんから連絡があって、僕はミヒロ君のコーチから外されることになりました」
それにモモナリは「ああ」と返事した。
「お礼って、お礼参りのこと?」
「いえそんな! とんでもない!」
青年は必死にそれを否定して答える。
「今度から、ミヒロくんにプロのコーチをつけると言ってたんです。あの人がミヒロくんを認めたんですよ」
「でも君は収入を失うじゃないか」
モモナリのその言葉に、青年は少しムッとして返す。
「そんなことは微々たる問題です。僕は、ミヒロ君の才能が埋もれないことが嬉しいんです。彼を指導するのに、僕は明らかに力不足だった。僕は彼よりも楽しくバイオリンを弾けないだろうから」
「だから」と、彼は続ける。
「だから、どうしても一言モモナリさんにお礼が言いたかった。多分あなたがお父さんを説得してくれたんでしょう」
なるほど、と、モモナリは理解した。
その青年は、勘違いしているのだ。
「お父さんを説得したのはミヒロ君のバイオリンそのものだよ、俺じゃない」
「つまり」と、続ける。
「ミヒロ君と、君だね」
「僕が?」
青年はキョトンとしていた。
「そうとも」と、モモナリは続ける。
「彼にバイオリンを教えたのは君だ」
青年は、その言葉を素直に受け取ることも出来ただろう。
だが、彼はそれに首を振る。
「僕はほとんど彼に何かを教えたわけではない、彼がぐんぐんと成長していっただけ」
「いいや、あんたは、彼がバイオリンを好きでいることを辞めさせなかった。ずっとね」
青年の表情を確認しながら、モモナリは続ける。
「結局、俺は彼にバトルを好きにさせることは出来なかった。だが、あんたは彼のバイオリンに対する愛を否定しなかった。だからこそ今日がある、俺とあんたと、どちらが良い家庭教師かなんて、一目瞭然だよ。少なくとも、俺はあんたに敬意を払う」
青年は、信じられない、と顔に書いてあるような表情を見せる。
それを見て「はあ」と、モモナリはため息を付いた。
「今更疑うなよ、先生」
彼は青年に背を向け、帰路につき始める。
その背中が小さくなるまで、青年は、モモナリに頭を下げ続けていた。