70-おてんば代理
ジムリーダーというものは、何もジムにこもって挑戦者を待つだけのような奥ゆかしき職業ではない。
地元の顔としてメディアに登場することもあれば、倫理的な立場を認められるか、もしくは他のジムリーダーの倫理的な負の遺産を解消するためか、何らかの啓蒙活動に駆り出されることもある。地元スクールに顔を出すことも立派な仕事の一つであり、エキスパートであるタイプの知識を生かして社会に貢献することも重要な仕事だ。
そして、何より彼等は優れた技術を持ったトレーナーである。彼等の技術を目にしたいと思うのはトレーナーとしては何ら不思議のない欲望の一つであろうし、その欲望が海を超えた地方から向けられることだって十分にある。
つまり、海外に遠征してエキシビションマッチを行うことだって、ジムリーダーたちの立派な仕事のひとつなのである。これでもまだ、ジムリーダーが奥ゆかしき職業だと思うだろうか。
ハナダジムリーダー、カスミもその例に漏れない。むしろ彼女は海外遠征の需要が高いほうだ。若く、お転婆で、それでいて礼儀を知らないわけではない。
故に、彼女が一週間ほどジムを開けることも珍しくない。当然ジムリーダーが不在となるわけだが、それで誰かが困るわけでもない。トキワジムなど一時期はジムリーダーの長期不在の時期があったが、特に大きな問題にはならなかった。一週間などあっという間だ。
だが、だからといってジムリーダーが不在という状況が好ましい状況であるわけではない。誰かがその役割を果たせるのならば果たさなければならないだろうし、その役割を全うできるのならばそうすべきだ。
故に、誰かがハナダジムリーダー代理という役職についたとしても、何も問題はない、はずである。
☆
「『ローキック』」
「『まもる』!」
的確に足を狙ってきたゴルダックのキックを、エビワラーはすんでのところで足を上げてガードする。
だが、それでもエビワラーは足の痛みに表情を歪める。仕方のないことだ、これまではその『まもる』でダメージを逃がすことができていた。今食らったこの攻撃が、これまで食らってきたどの攻撃よりも鋭く、威力があった。
エビワラーに指示を出す青年トレーナーも、その様子に表情を歪ませた。まさかここまでレベルに違いがあるとは、想像だにしていなかった。
その挑戦者の青年に野次馬根性が無かったかといえば嘘になるだろう。
熱心にバッジを集めるのは随分前に辞めていた、四つ目まではスイスイと取ることができたがそこから苦労し、六つめを取ったあたりでタイムリミットが訪れたように感じ見切りをつけた。その後の人生は悪くはないが、どこかに敗北感がちらついているのも確かだった。
故に、まだ訪れたことのなかったハナダジムのジムリーダー代理をリーグトレーナーが行うと聞いて興味が湧いたのだ。
しかもそのリーグトレーナーは、数年後には消息を絶つような無名ではない、カントー・ジョウトリーグのトップ中のトップ、Aはリーガーのお出ましだ。
「『マッハパンチ』!」
迫りくるゴルダックに対し、青年は慌てて指示を出す。
『ローキック』は防ぎきれていない。速さで勝負はできない。
ならば、速さで勝る攻撃をしなければならない、と、青年は考えた。
その瞬間的な点において、その発想は正しかっただろう。
エビワラーの右拳は、たしかにゴルダックのアゴを捉えた、かのように見えた。それを打ち込んだエビワラーですら、一矢報いたことを確信したのだ。
だが、ゴルダックはぐらつくことなくプロテクターでガチガチに固められた右腕をエビワラーの前に差し出す。
エビワラーはようやく気づく。
捉えてはいない、拳がアゴを撃ち抜くより先に、ゴルダックが首を捻ってそれをかわしていたのだ。右腕だけでなく、体全身をプロテクターでガチガチに固められ、動きに制限をかけられているにもかからわず、ゴルダックはその俊敏さを見せる。
「『サイコキネシス』」
右手から放たれる念波が、自身の脳を直接揺さぶる衝撃をエビワラーは感じた。皮肉にも、自分がやろうとしていたことを、自分がされている。
「『かみなりパンチ』!」と、自身に指示を出すパートナーの声が聞こえないわけではない。だが、それを完遂するには、自身に与えられた衝撃が大きすぎる。
こうも遠いものか、と、彼等は思っていた。
こうも遠いのか、リーグトレーナーというものは。
☆
ハナダシティ、ハナダジム。
水の町らしく、プールをモチーフに作られたそのジムは、水棲ポケモンと陸のポケモンとのマッチアップが問題なく行える。
対戦場、飛び込み台を模したイスに腰掛けるその男は、緊張感など欠片も感じない大あくびをかまし、それを恥じることなく滲む涙を指で払った。
「ジムリーダーってのは、こんなに退屈なものかね」
それは、とてもではないがその椅子に座る人間が言っていい言葉ではなかった。
だが、そのそばにいた男、ハナダジムトレーナーのトモキは、その言葉に激高することなく、呆れたように大きなため息をついた。
「そりゃあ、お前からしたらそうだろうよ」
意外にも、トモキはその言葉を部分的に肯定した。
無理もないだろう、この、ハナダシティ史上類を見ない大問題児が、このような教育的な組織に馴染むはずがない。
カントー・ジョウトリーグトレーナー、モモナリは、たとえ彼がハナダシティを代表する強豪トレーナーであったとしても、そのような意識を向けられるに十分な男であった。
ハナダシティにて幼少期からその才能を発揮していたモモナリと、同じくハナダシティのジムトレーナーであるトモキは、当然のように古くからの顔なじみであった。
「もっとこう、バンバン挑戦者が現れて、バンバンバトルしてって感じじゃないのかい」
「そんな日がないわけじゃないが、少なくともお前がジムリーダー代理であるうちには無いだろうな」
「どうして?」
「下手だからだ」
純粋に疑問を投げかけてきたモモナリに対し、トモキは椅子の横で瞑想を続けているゴルダックをみやって言った。
なんてことのないようにその場に座り込んで瞑想しているが、その姿勢を維持することすら難しいはずだ。
ゴルダックの全身には余すことなくプロテクターが装着され、おそらくそれらは最高の負荷を課すように設定されているはずだ。リーグトレーナーの手持ちである彼が、万が一にも最高のパフォーマンスを発揮することのないように装着されたそれは、まあ、一定の効果はあるはずだ。
「手加減がな」
だが、トモキの目から見ればそのプロテクターすら、ハンディキャップとして体をなしていないようだった。
当然だ、その拘束具はゴルダックの力をある程度抑えることはできるかもしれないが、トレーナーであるモモナリの実力を抑えるものではない。普段とは違うゴルダックの動きに多少の戸惑いはあったかもしれないが、それに対応するだけの実力を物理的に拘束するプロテクターは存在しない。
「向いてないんだよ、お前」
面と向かってぶつけられたその言葉に、モモナリはさほど不服そうではなかった。おそらく彼も、それを内心では理解しているのだろう。
そして、トモキもそれを彼に対する否定だと思って放ってはいない。
「いいか、俺達の仕事は戦うことじゃねえ、認めることだ」
「そんなことは研修で散々聞いたよ」
「聞いたなら実行しろよな」
リーグトレーナーほどの実力者となれば、ちょっとした研修を受ければ『ジムリーダーの代理としてバッジ認定戦を行う』資格を手にすることができる。その能力を疑う余地がないからだ。
だが、実際にその資格と『ジムリーダー』という資格の間には大きな隔絶がある、それは書類の上でも、精神の上でもだ。
勝利こそが存在意義であるリーグトレーナーと、未熟な相手に敗北し、その努力を認める必要のあるジムリーダーとでは、そもそもの思想が違う。
そして、トモキの知る限り、モモナリはバトルにおいてこの世で最も『努力』という観点から離れたところにいる人間だった。ジムリーダーなど、務まるはずもない。
否、そもそも。
「ここにお前望む戦いはねえだろう?」
ベテランジムトレーナーであるトモキは、まだまだ若いがキャリアの長いジムリーダーのカスミと共に、モモナリという少年に随分と肝を冷やされた教育者の一人だ。
やたらに好戦的なコダックを手持ちに加えたかと思えば、今度は無人発電所に入り浸り、立ち入り禁止区域に入り込んで強力なアーボックと戦い、ハナダで確認できるはずのない『すなあらし』の中に単身突っ込む。
良く言えば『恐れ知らず』悪く言えば『ネジが飛んでる』そのような感覚を持つ彼が、ジムリーダーとしての職務を全うできるはずがない。トモキはモモナリのトレーナーとして生まれてきたような強さを貴重な個性だと尊重していたが、それが教育者としての能力の代替になるとも思ってはいない。
「それはわからないよ」と、モモナリは鼻を鳴らした。
「レッドやシゲルだって、このジムを通過したんだ」
ああ、と、トモキは頷きながら、教育者らしくモモナリの主張したい事柄を推測した。
つまり彼は、レッドやシゲル、あるいは彼自身のような、強烈に光り輝く才能を目の当たりにすることができるだろうということがいいたいのだろう。
あるいはその主張は一側面では正しい、実際トモキも、彼等の快進撃を目の当たりにしていた人間の一人だ。自分よりも一回りほど年下のカスミと彼等との試合を目に、何という世代が現れたのだと驚いた衝撃を越える思い出は、まだあまりない。
だが、トモキはジムに自分たち以外の誰もいないことを確認してから「だがな」と、それを否定する。
「そんなものは、滅多にねえよ。だからこそ、俺達がいるんだ」
もしも、トレーナーを志す人間がすべてレッドやシゲルのように光り輝く才能を持っているのならば、ジムリーダーは必要のない職になるだろう。
トレーナーを志したいが、誰もが羨む才能はない、そのような人間は腐るほどにいる、そして、そんな彼等が、トレーナーとして生きて良いのか否かを見極めるのがジムリーダーという専門職である。
モモナリはそれを理解できないのだろう。首をひねって続ける。
「まあ良いよ、時間はたっぷりあるんだ」
「そんなに無いだろ、ジムリーダーが戻ってくるのは一週間後だ」
「そんなんじゃなくて、人生の話」
「なにが言いたい?」
「セカンドキャリアの話さ、ジムリーダーとして生きるのも悪くない」
「はあ?」
その言葉に、ついにトモキの疑問のダムが決壊した。
セカンドキャリア、セカンドキャリアとは何だ。
いやもちろんその概念は知っている。だが、目の前の破綻した少年の口から、そのような言葉が出てきたことが信じられない。
そもそも、彼がジムリーダー代理の資格を取ったところから少しおかしいのだ。
溺れるように酒を飲み、サーフィンを始めたかと思えばボードを無くし、バイクを買ったかと思えばその日にスクラップにし、ギターを習い始めたかと思えばそれも無くす。そんな男が、何故急に。
否、否、否。
そもそも、何故今セカンドキャリアを考える必要がある。年齢は二十代前半、カントー・ジョウトリーグの最高峰であるAリーグで戦う彼が、どうして今。
トモキは、その疑問について彼に投げかけようと思った。
付き合いは古く、軽口をたたける関係でもある。それを問うことが倫理的に不当だということはないだろう。
「あのよ」と、彼が疑問を投げかけようとしたときだった。
「失礼します」と、ハナダジムの扉が開いた。
職業柄、トモキはほとんど条件反射のように顔を向け、モモナリもまた、興味なさげではあるがその方向を見る。
見れば、そこに立っているのは一人の少女であった。
彼女は彼等に向かって一つ礼をすると、ツカツカと緊張することなく歩みを進める。
腰元にセットされたボールは一つ。
「ハナダジムにようこそ!」
トモキは元気よく、それでいて来訪者を怯えさせたり萎縮させない程度の絶妙な塩梅の挨拶をかわした、経験がなせる技だろう。
「いらっしゃい、チャレンジャー」
モモナリは、ぼうっと彼女を眺めながら緊張感なくそう言った。少なくとも今、彼女は彼の驚異ではないようだ。
「シンです。よろしくおねがいします」
彼女はモモナリとトモキそれぞれに一礼して続ける。
その名にトモキは緊張感を覚えた、シンといえば、ハナダシティ近辺に古くからある旧家であり、その歴史はハナダジムそのものより古い、というより、ハナダジムの土地はもともとはシン家のものである。
そして、これまでシン家の人間が挑戦者としてハナダジムに現れたことはない。関係が険悪なわけではないが、必要であるわけでもなかったのだろう。
そんなシン家の人間が、挑戦者としてハナダジムに現れた、様々な可能性を考慮するべきだ。
だが、よりにもよってそんな日にジムリーダーがモモナリであるなど、何という悪夢であろうか。なんの予測もできない。
「リーグトレーナー代理のモモナリです、よろしく」
流石にモモナリにもそのくらいの常識はあったようで、紳士的に差し出された右手をシンが握り返す。
「早速だけど」と、モモナリがその先に話を進めようとしたのを察知し、トモキがそれに割って入る。
「ジムリーダーと戦う前に、まずは私があなたの実力を確認しましょう」
素直にそれに頷くシンに、モモナリは特になにか言うことはなかった。
☆
「素晴らしい」
倒されたポケモンをボールに戻し、トモキは普段よりも少し声を張って言った。
その対面には、少し息を切らしたキルリアと、そのトレーナーのシンがいる。
彼女は、キルリアと同じく少し息を切らしながら、顔を赤らめてトモキの言葉を聞いていた。
「基本も抑えているし、ポケモンも指示に従っている。これならジムリーダーに挑戦するのも問題ないだろう」
やはり普段より声を張って、トモキが続ける。
そこには、その言葉をシンだけでない、対戦上の外からつまらなさげにこの試合を眺めていたモモナリにも伝えようとする意図がある。
事実、彼女の実力はジムリーダーに挑戦することに問題がない程度ではあった。だが、モモナリがそのような部分を理解しようとしないことはすでに理解している。
そして、モモナリはトモキのそのような意図に気づくことなく、どうやら試合が終わったらしいことを確認しながらシンに近づいた。
「どうやら、戦ってもいいみたいだね」
近づいてきた彼に、シンは表情をこわばらせる。
ジムリーダーであるカスミが居ない、その代理として彼がいる、そのような状況はなんとなく理解している。だが、その代理の人間が現役のリーグトレーナーであることに、彼女は緊張をごまかせないでいる。
彼女はポケモンリーグの熱狂的なファンではない、だが、そんな彼女でも、地元の英雄、そして、地元ハナダが生んだ史上最大の問題児のことは知っている。
「バッジはいくつ持っているんだい?」
無遠慮にぶつけられるその質問に、彼女は言葉を選びながら答える。
「……持っていません」
「ははあ、なるほど」
そう頷くと、モモナリは手を上げてなにかに合図する。
シンがその方向を見ると、そこに居たのは全身をガチガチにプロテクターで固められたゴルダックだ。否、シンのような少女やキルリアのようなポケモンから見ればそれはプロテクターではない、拘束具だ。
だが、ゴルダックはプロテクターのバネをひん曲げながらモモナリのもとに移動する。そこに表情の歪みはなく、汗が流れている風もない。
たったそれだけを見ても、シンとキルリアは彼等と自分たちのレベルの違いというものを思い知らされる。
「モモナリ」と、トモキが慌てて彼に注意する。
「ジムリーダーの仕事、わかってるんだろうな」
これまで、ジムリーダー代理であるモモナリに勝負を仕掛けてきたのは、その大体がジムバッジを複数持った経験者であった。全くバッジを持っていないトレーナーというのは、これまでのモモナリの人生を考えれば、出会ったことすら無いような人種なのではないだろうか。
「わかってますよ」と、モモナリがトモキ、シン、キルリア、ゴルダックをそれぞれ見比べてから、両手を上げて言う。
「十秒」
シンとトモキは、不意にホールドアップされたその両手が、お手上げというわけではなく、どうやら十という数字を表しているのだということを、その言葉で理解した。
「十秒、君のポケモンが俺達の攻撃に耐えることが」
と、そこまで言ってから、モモナリはううん、と唸った。
そして、ぐるりと対戦場の周りを見回してから続ける。
「いや、十秒、君のポケモンがこの対戦場から落ちることがなければ、バッジをあげよう」
それがモモナリなりの配慮であることにトモキは気づいた。
水タイプのエキスパートが集まるというハナダジムの性質上、対戦場の周りはプールであるし、水が張られた対戦場も存在する。
故に、対戦場から落ちても水に落ちるだけ、ポケモンのダメージは抑えられるだろう。
だが、とトモキは思う。
「十秒で、よろしいんですか?」
シンは、その条件に目を丸くして答えた。
ぐるりと対戦場を見回せば、彼女が思っていたよりそれは広く、余裕があるように見える。
キルリアも、同じことを思っているだろう。
目の前のゴルダックに勝てるとはとても思わないが、十秒逃げることだけを考えればいいのなら。現実的な気がしてきたのだ。
「ああ、いいよ」と、モモナリは上げた両手を下げながら答える。
「難しいようだったら、もう少し調整すればいいでしょ」
彼は胸元から最新型のポケギアを取り出した。様々なメーカーが競うように取り付けている便利な機能の殆どをモモナリは使いこなせていなかったが、そんな彼でも、ストップウォッチ機能は使えるようだ。
「じゃあ、ようい、スタート」
小気味のいい電子音が、どうやらストップウォッチが起動したらしいことを告げる。
突然のことに、シンとキルリアは驚いた。
しかし、こう驚いている間にも、ジムバッジまでの道のりは一割ほど過ぎていることになる。
「『テレポート』!」と、シンは叫び、キルリアもそれを敢行しようとした。
十秒、十秒だ。
逃げ回ればあっという間に。
だが、そのような考えはすぐさまに否定される。
集中力を高め『テレポート』をしようとしたキルリアの体が、ひょいと持ち上げられる。
気づけば、プロテクターでガチガチであるはずのゴルダックが、なんてことのないようにキルリアをお嬢様抱っこで持ち上げ対戦場を駆け抜けていた。ギシギシとスプリングが悲鳴をあげる音だけがその足音を伝えている。
当然彼女の集中力は切れ『テレポート』は失敗に終わる。
キルリアはジタバタと暴れてみるものの、とてもではないがゴルダックから逃れるような動きにはならない。
「『テレポート』は実戦じゃあまり使えないよ」と、モモナリはのんきに言った。
シンが何かをしなければと状況を整理しようとしたときには、すでにキルリアは丁重に放り投げられ、背中から水にダイブしていた。
「はい、終了」
再び小気味のいい電子音。
「残念だけど、挑戦失敗だね」
提示されたストップウォッチに表示されている時間は、十秒の半分もない。
「再チャレンジ、する?」
気づけば、ジムトレーナーのトモキのポケモンが、水に落ちたキルリアを救出している。
シンも、キルリアも、未だに何が起こったのかをイマイチ理解しきれていない。だが、わずか十秒のジム戦に敗北したらしいという漠然としたショックだけは、それぞれ共有しているようだ。
「します!」と、シンは強く答え、胸ポケットからメモ帳を取り出した。
パラパラとそれをめくりながら「五分間、お時間を頂きたい」と続ける。
「いいよ、時間はまだまだあるし」と、モモナリは彼女のその様子を不思議なものを見るような目で見ながら続けた。
「言わんこっちゃない」
手持ちのニョロボンがキルリアを丁重に対戦場に下ろすのを確認しながら、小さく呟いた。
カントー・ジョウトAリーガーを相手に、十秒逃げ切るだって。
それは、難易度が高すぎる。
☆
もうすでに、何度キルリアが水の中に放り込まれたであろうか。
それは屈辱的な学習であろうが、彼女はすでに少し泳ぎというものを覚え始めていた。
「どうかな?」と、モモナリはストップウォッチを確認しながら続ける。表示されている秒数は、まだまだ十秒からは程遠い。
「再チャレンジ、する?」
シンはメモのペンを走らせながらそれに頷いた。まだ、これまでの時間を屈辱に思うほどの経験は彼女にはない。あるいはそれは、彼女がまだ新人トレーナーであることの強みであるのかもしれない。
「よし」と、モモナリがストップウォッチを起動しようとしたその時だった。
ハナダジムの扉が開かれる音。
「失礼する」
現れたのは、スーツを身にまとった壮年の男であった。
ジムに居た人間すべてが彼に注目し、そしてトモキは「ようこそ」とだけ言う。その男がジムの挑戦者ではないであろうことを彼は経験から見抜いていた。
「タナカ」と、シンが彼に向かって反応する。あまりいい反応では無かった。
モモナリはその男の腰元のセットされたいくつかのボールに目をやり「ふうん」と鼻を鳴らす。
「お嬢様、お迎えに参りました」
タナカと呼ばれたその男は、躊躇することなくジム内を闊歩すると、トモキとモモナリに目を向けることなくシンに頭を下げる。
「ここに来ることは誰にも伝えていなかったはずですけれど」
「ええ、ですからこのような時間に」
やはりシンは露骨に彼を歓迎はしていなかったが、タナカはそれも織り込み済みだと言わんばかりに受け流した。
「ええと、お家の人?」
鈍いモモナリに、タナカが会釈しながら答える。
「これは失礼、私お嬢様の運転手をさせていただいておりますタナカと申します。リーグトレーナーのモモナリさん、ご活躍は聞いておりますよ」
失礼、とは言うものの、彼はそれを心から恥じているようではなかった。
「ああそう」と、モモナリはタナカのそのような様子を気にもとめない。
「随分と、お付き合いさせていただいたようですね」
息の上がっているキルリアとシンとを見て、彼はモモナリとトモキをそれぞれ見やった。
「いえいえ」と、トモキは笑顔を崩さずに答える。これは少し話がややこしくなっているのかもしれないという警戒を彼は解かない。
「タナカやめて」
シンがタナカを制す。
だが、タナカはそれに素直には従わない。
「元はと言えばお嬢様、あなたが不意に姿を消したのが始まりなのですよ。ジムに行きたいのであれば一言そう言ってただければ」
「そうやって一度も連れて行ってはくれなかった、あなたのやり方は分かっています」
「お嬢様はまだジムバッジに挑むレベルには至っていないのです」
「そんなことはないです。今日私はここにいらっしゃるトモキさんにジムリーダーに挑戦する権利があると認めていただきました」
「ほう」
タナカはじろりとトモキの方を見る。
「本当ですかな?」
「ええ、バトルの基本は抑えていますし、よく勉強していると思いましたよ」
タナカの視線には攻めるようなものがあったが、その程度のことでトモキが自らの判断を覆すことはなかった。彼には彼のプライドというものがある。
「なるほど……しかし、見たところジムバッジを手にしている風ではありませんが」
今度はモモナリがそれに答える。
「ええまあ、今からジム戦なんでね」
彼はストップウォッチを振りながら続ける。
「じゃあ、スタート」
「『まもる』!」
モモナリのその予期せぬスタートについては、シンもそろそろ学んでいる。
キルリアはひとまず防御の姿勢をとって、ゴルダックの攻撃に備えた。
だが、ゴルダックはそれに踏み込まない、見れば、額の宝石を光らせてなにかの技を繰り出したようだ。
「『ねんりき』!」
それをスキとみなし、シンは攻撃を指示する。
それで倒そうなどとは思っていない、だが、時間を稼ぐことができれば光が見える。
だが、キルリアはその指示に従うことができなかった。
彼女はいつまで経っても防御の姿勢を解かない、否、解けない。
そして、次の瞬間には急に加速したゴルダックにその身を抱えられる。
何が起こったのかわからぬシンに、モモナリが言う。
「『アンコール』だね」
彼女がその一連の流れを理解するよりも先に、キルリアは水に向かって放り投げられていた。
☆
「……本日は、ありがとうございました」
放り投げられたキルリアが戻ってきた頃、シンはそうモモナリとトモキに頭を下げた。
「私からも、本日は忙しいなかお嬢様にに付き合っていただき感謝しております」
タナカもシンよりも深く頭を下げるが、その言葉が本心ではないことは自明だろう。
「ああいや全然、退屈してたんで楽しかったですよ」
尤も、モモナリはその皮肉をあまり理解できていないようであったが。
「ああ、そうだ」と、モモナリはシンの方を向いて続ける。
「もしよかったら、君が書いてたメモ、見せてくれない?」
「え?」
その提案に驚きながらも、彼女は一応それに従う。
「どうぞ」
「うん、ありがとう」
モモナリはそれをペラペラとめくり、びっしりと書き込まれたそれを確認する。
「へえ、熱心なものだねえ。俺は書いたことないよこんなの」
彼はそれをシンに返した。
「また明日来ると良い」と、モモナリは続ける。
「どうせ暇なんだ、待ってるよ」
その言葉に、シンは表情を少し明るくさせ、タナカはその表情を僅かに歪ませたが、モモナリはそれに気づかなかった。
☆
「やりすぎだぞ」
シンが去り、挑戦受付時間を過ぎたハナダジム。
我先にと帰ろうとしていたモモナリに、トモキがそう声をかけた。
「仕事をですか?」と訳のわからぬことを答えるモモナリに彼は続ける。
「負かせ過ぎなんだよ」
「そりゃあ仕方ないでしょ。これ以上手加減しろと?」
「あのなあ、いくつかバッジを持っているならともかく、あの子はバッジを一つも持っていないんだぞ、基本はできているんだし、一つ目のバッジを与えるには十分だ」
ジムというシステムから考えれば、トモキのほうが正論であった。おそらくこの場にカスミがいれば、彼女もその意見に賛同するだろう。
だが、モモナリはそれに首を振る。
「基本なんてものはね、誰でも手にすることができるんですよ」
「そうとも、だからこそ基本なんだ」
「それなら、ジムバッジは誰でも手に入れることができるんですか?」
それは、モモナリなりの皮肉であった。
だが、トモキは「そうだ」と、それを肯定する。
「ジムバッジは誰でも手に入れることができる……ある程度まではな」
「何を馬鹿な」
「馬鹿じゃねえさ、俺達は教育機関なんだ、生まれ持ったもので優劣はつけねえよ」
「なら、カスミさんはあの子にバッジを与えるのか」
「さあ、それはカスミさんの判断だ。だが……もしカスミさんが彼女にバッジを与えないことがあれば、俺は抗議するだろうな、ちょうどこんな感じに」
モモナリは、トモキの返答に押し黙った。理屈では勝利できそうにない。
だからとりあえず、彼は理屈でトモキを丸め込もうとすることを諦めた。
しばし沈黙した後に答える。
「カスミさんが帰ってくるまでは、俺がここのリーダーだ」
はあ、と、トモキはため息を付いた。
「ああ、わかってるよ」
そう言われてしまえば、トモキに返せる力ない。否、そう言われなくても、トモキはモモナリを制御できないだろう。
だから、せめて釘を刺す。
「いいか、誰も彼もが、お前みたいに恵まれてると思うなよ」
☆
翌日、朝は早くに、シンとタナカはハナダジムを訪れた。そして、彼女はすぐさまにジム戦を望む。
割り込みだとそれに抗議するトレーナーは存在せず、また、彼女がジム戦を独り占めしていることに抗議するトレーナーも現れないだろう。
ハナダジムの手加減を知らぬ代理ジムリーダーの話は、すでにカントー中に広まっていた。ブルーバッジがほしいのならば、せめて一週間は待つべし。
「やあ」と、モモナリは特に彼女に対して申し訳無さや引け目を感じる風もなく手を上げた。
その傍らには、プロテクターでガチガチに固められたゴルダックがすでに体勢を整えている。必要以上に拘束されているその感覚は、実は彼にとってそこまで不快ではなかった。動きにくいことで見えてくる新たな景色は、考えようによっては新鮮だったのだ。
「よろしくおねがいします」
シンはモモナリに頭を下げた。相変わらず、モモナリに対して礼節を保っている。
「それは何だい?」
彼女とは逆に、モモナリは不躾に彼女が抱えるカバンを指差した。たしかにそれは、バトルを行うには不釣り合いなほどに大きく、そして、見るからに重そうであった。
「あ……これは……」と、彼女は少し恐れの表情を見せる。モモナリがそれを歓迎するタイプではないであろうことは、昨日の反応から察することができていた。
「本です」
「本」
彼女の返答に、モモナリは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「本って何だい?」
彼女はその荷物を下ろし、そのうちの一冊を取り出す。
「これはカントー近辺の水棲ポケモンの図鑑です」
モモナリはそれを受け取りパラパラとめくった。なるほど確かに、馴染みのふかいポケモンたちが並んでいる。
それがゴルダックの生態を調べるために使われていることは、さすがの彼も気づくだろう。
「そしてこれが、戦術書です」
更に取り出されたそれの表紙を、モモナリはちらりと確認する。知らぬ本であり、作者の名前にも聞き覚えがなかった。
「なるほど」と、彼は図鑑をシンに返しながら続ける。
「随分と熱心なんだね」
「あの、やはりこういうものを持ち込むのは良くないでしょうか」
その返答が、皮肉めいたものにも聞こえたのだろう。シンは少し小声で問う。
だが、モモナリはそれに手を振った。
「いやいや、全然大丈夫だよ。勉学は大事だ、俺も機会があればやりたけど、中々タイミングがなくてね」
彼は懐からポケギアを取り出し、ストップウォッチ機能を起動させる。
「君さえ良ければ、早速始めようじゃないか」
☆
「随分と、熱心なようですね」
バトル場を眺めながら、トモキは隣に立つタナカに呟いた。
昨日と違い、今日は最初から彼がシンについてきた。おそらくそれには、監視の役割があるのだろう。
トモキはモモナリと違い、人間の感情をある程度組むことができるし、場の状況や挑戦者の環境などを推し量ることもできる。
タナカを含め、シン家の人間が、彼女のジム挑戦を快く思っていないことを推測することは、彼にとっては基本問題であった。
「あなたはそうお思いでしょうな」
タナカは隠しもしない皮肉を込めてトモキに言った。もちろんそれは、人間の繋がりとか、今後の付き合いとかを考えるのであればありえない行為であったが、裏を返せば、タナカ、ひいてはシン家が、ハナダジムとの関係に思うところがあることの証明でもあった。
「シン本家の一人娘がジムに挑戦することに違和感は覚えなかったのですか?」
「我々に出自で区別をしろと?」
「区別ではなく、判断をしていただきたかった……そのための施設でしょう、ここは」
「ええ、ですから私は、彼女がジムリーダーに挑戦するに値するトレーナーであると判断したんです。彼女は基本を抑えているし、ポケモンとの連携も申し分ない」
「あれで、ですか」
タナカが指差した先には、宙を舞うキルリア。
今日に入ってすでに何度見た光景だろう。
シンがワンパターンなのではない、むしろ彼女は戦術のパターンを増やし、工夫も凝らしている。
そのすべての努力に、モモナリが対応しているだけなのだ。
だが、すでに何度もジム戦に敗北しているという事実に変わりはない。
プールに向かわせているトモキのポケモンも慣れた動きで彼女を救出するであろう。
「彼に感謝したのは初めてかもしれませんね」と、タナカはモモナリを見やって言った。
「あの様子では、当分バッジは取れないでしょう」
「何故彼女がバッジを取ることに否定的なんです?」
「面白い理由なんてありませんよ、彼女が自由を求め、旦那様はそれを危険だと反対している。現実でも、創作でもありきたりな対立です」
「ジムバッジを得ることが危険だと?」
「危険でしょう、旦那様は、お嬢様を彼のようにしたくはない」
タナカが指差したのは、先程感謝を証明したモモナリだった。すでにストップウォッチをリセットし、次に備えている。
だが、シンはそれを一旦手で止め、カバンの中から戦術書とメモを取り出している。すこし休憩するようだった。
「ジムバッジを得て人間がすべてあの様になるとは」
「本質は同じでしょう?」
トレーナーの一例としてモモナリを繰り出されることは、トモキにとっては不本意であった。
だが、タナカは更に続ける。
「腕力で身を立てようとすること、その延長線上に彼がいる。事実、お嬢様は自由を得る手段として、それを成そうとしている。旦那様がそれを否定する理由もおわかりでしょう?」
トモキがそれを否定しようと少し言葉を続けようとした時、タナカが彼から視線を切った。
見れば、戦術書に没頭するシンを邪魔せぬようにと、モモナリが自分たちに近づいてきていた。
「どうも」と、彼はタナカに軽く会釈をする。
「あの子はいつから戦術の勉強を?」
やはり不躾で急な質問にタナカは一瞬息を呑んでから答える。
どうしてそんなことを教えなければならないのか、という思いがないわけではないが、今この場では答えぬことのほうが不自然であろう。
「二年ほど前から」
「その前からポケモンとは遊んでいたんでしょ?」
「ええまあ、あのキルリアは子供の頃からのパートナーですよ」
「へえ」
モモナリはタナカのベルトにセットされたボールを眺めて続ける。
「あんたが教えたことは?」
タナカはその質問に、モモナリが自分自身がそれなりのトレーナーであることをすでに見抜いていることに少し神経を張りながら答える。
「ありませんよ」
「ふうん」と、彼はタナカの瞳を覗き込むようにして続ける。
「意地が悪いね」
それに、タナカは一瞬自身の内面を見透かされたような恐怖を覚えた。そして、それはすぐさまに舐められてはならぬという擬似的な怒りとなって彼を燃やす。
その気になれば腰のボールに手をやることもできただろう。だがそれをしなかったのは、彼の社会性がなせる技か。
「どうして、意地が悪いと?」
「だって、わかるでしょう、あんたなら」
「あなたにはわからないでしょうが、世の中にはわかっていても仕方のないこともある」
「そんなものかね」
「そんなものです。特に立場というものがあればね」
「へえ」
モモナリは退屈げに一つあくびをする。
「別にいいけどさ、それじゃ勝てないよ。俺にはさ」
☆
「ありがとう……ございました」
「はい、お疲れ様」
ハナダジム挑戦受付終了時間。
結局、その日のハナダジムにシンの挑戦者は現れず、モモナリは丸一日彼女のジム挑戦を退け続けた。
シンとキルリアは、豊富な戦略を駆使してなんとかゴルダックの手から逃れようとはしていた。だが、それでもモモナリとゴルダックからは逃れられなかった。
「今日は昨日に比べて少し時間が伸びていたね」
モモナリはそう励まそうとはするが、シンとキルリアはそれに明るい表情は見せない。
リーグトレーナーが本気を出せば、たとえ手持ちが拘束具でガチガチにされていようと、十秒感逃げ回ることすらできないという現実が、ようやく彼女らに高い壁となって立ちはだかったのだ。
何をしても、相棒が、自身が、プールに放り込まれる未来しか見えない。
昨日のように、モモナリというトレーナーの存在がはるか遠くにあるわけではない。だが、近くに歩み寄ったからこそ、その大きさに圧倒されている。
「まあそう落ち込まないで」
さすがのモモナリも、彼女とその相棒のキルリアが憔悴しきっている事と、その原因を理解できているのだろう。
「少し待てばカスミさんが帰ってくる、そうしたらバッチがもらえるかも」
「いえ」
モモナリの言葉を、シンが遮った。
「明日、必ず挑戦させていただきます」
表情は弱々しく、その手先は震えていた。
だが、モモナリを見上げるその視線は力強かった。それは、同じくゴルダックを見つめるキルリアも同じ。
「ごめん」と、モモナリが謝る。彼にしては珍しく、自らの非を理解していた。
☆
「意地もある、プライドもある、ポケモンとのコミュニケーションは良好で、努力は惜しまない」
ハナダジム、すでにメインの照明は落とされ、トモキも私服に着替えている。
それでも間接的な照明の元で彼がモモナリと話しているのは、珍しく、モモナリが彼を呼び止めたからだろう。
「理想的なトレーナーだ、四つ持ちでもそうじゃねえトレーナーだっているだろう」
モモナリは、トモキの言葉を頷いて肯定する。
そして、彼がそれを肯定するからこそ、トモキは更にわけがわからなくなるのだ。
「そんなにも『それ』が重要か?」
「ああ、重要だと思うね」
それも肯定するモモナリに、トモキはため息を付いて彼の方を掴む。
「なあモモナリ、お前から見ればとるに足らないかもしれないが、俺だってトレーナーの端くれだ。お前の言いたいことはわかるし『それ』の重要性だってわかってるつもりだよ。だがな、それは一つ目のバッジで重視することじゃねえんだ」
いいか、と続ける。
「一つ目のジムバッジはな、それこそゼニガメがあわ吹いたって獲得できるんだ」
極端な言い回しかもしれないが、それは間違いではない。
ゼニガメが泡を吹くことに何の意地がある、何のプライドがある、何のコミュニケーションがある、何の努力がある。
そのような観点から見れば、彼女はバッジを得るのに十分な能力を持っていると言えるだろう。
「手を抜くつもりはないんだろう?」
「無いよ。彼女に失礼だから」
「そうか」
トモキはその袋小路の思想に共感するように頷く。
「そうだな、手は抜かないほうが良い。よく気づいたな、少しずつ、ジムリーダーになってきてるよ」
彼はモモナリの肩を叩き、その横を通り過ぎながら続けた。
「明日、一緒に考えてみよう」
「ええ」
そう言って扉の向こうに消えたトモキに続き、モモナリもその場をあとにしようとする。
その時だ。
「ん?」
彼の優れた視力は、間接的な照明がぎりぎり届いていているそこに、何かが落ちていることに気づいた。
それに近づいて拾い上げて見れば、それは、ポケットに入りそうな小さな手帳だった。
「これは」
彼はそれをパラパラとめくる、その内容には見覚えがあった。
☆
ハナダシティ。シン家屋敷。
ハナダシティの旧家として有名なそこは、地元の人間からは尊敬と畏怖の感情を抱かれ、それらの感情が、本来ならばただの石と土と木を組み合わせただけのものに過ぎ無いその屋敷に威厳を与えている。
だが、その少年トレーナーには、その威厳というものは通用しないようだった。
「これはこれは、何用ですか」
タナカがこの世の終わりのような表情をして助けを求めてきた掃除婦に連れられて玄関に来てみれば、そこにいたのは、このへんでは有名な問題児、モモナリだった。
「忘れ物を届けに来ました」
彼がポケットから取り出した手帳を見て、タナカは「ああ」と、頷く。
「ありがとうございます。お嬢様に届けておきます」
それを受け取ろうとしたタナカに対し、モモナリはそれを再びポケットに戻した。
「直接渡したい」
タナカは、その言葉に対して言葉をつまらせた。
幾つもの思考が彼の中に浮かんだ。
だが、それを断る都合のいい言葉がすぐには浮かばなかった。
自分とシン家の彼女に対する態度を考えれば、それを直接彼女に返したいという主張は通っているように思える。
そして何より厄介なのは、今の彼の立場はジムリーダー代理、概念的には教育者であった。
怯える掃除婦に二、三言伝え。彼女を先に大部屋に向かわせてからタナカがそれに答える。
「わかりました、こちらへどうぞ」
ポケモンを繰り出せば、あるいは止めることができるだろうか。
否、それは辞めたほうが良い、それどころか、最悪の選択肢だろう。
自分が戦力として計算できなくなれば、一体誰が、お嬢様を守れるというのだろうか。
☆
「ジムリーダーが……?」
大部屋にてキルリアと共に明日の対策を練っていた。シンは、やはりこの世の終わりのような表情をした掃除婦にモモナリの来訪を伝えられ、掃除婦ほどではないが動揺していた。
そして、その動揺を落ち着かせるよりも先に、ノックもなくモモナリが大部屋に現れる。
「やあ、こんばんわ」
緊張感なく姿を表したモモナリは、その次の瞬間には、目を見開き、表情を固まらせる。
そこにあるのは、大部屋を埋め尽くさんばかりの本と、同じくテーブルにうず高く積み上げられた本の山だった。
モモナリと同じく大部屋に入ったタナカは、彼とシンの間に挟まれるように位置を取る。
だが、モモナリは今更そのようなことに意識を取られはしなかった。
彼はテーブルに積まれている本を一冊手に取る。知らぬ名前が著者の戦術書だった。
「まさか、これ全部が戦術書なのか?」
言葉を失いかけているモモナリにシンが「はい」と、不思議そうに答える。
「いやそもそも、どうして本がこんなに」
モモナリの変わりぶりに驚きながらも、その質問にはタナカが答える。
「この大部屋は、かつてはハナダの図書館のようなものとして利用されていましたからな」
そうか、と、ぼうっと頷くモモナリは、ようやく本来の目的を思い出したようで、ポケットからメモ帳を取り出して、それをシンに差し出す。
「これ、落としていたよ」
あ、と、シンはそれに声を上げた。
「ありがとうございます!」
無くなったことに気づいてはいたが、絶対に必要なものではなかったので優先順位を下げていた。何故ならば、そこに書かれている戦術は、全てモモナリに通用しなかったものだから。
「ああ」と、モモナリはそれにぼうっと答えながら、彼女が新たにメモ帳を作っていることに気づく。
「それは、明日のために?」
「はい」
「そうか……」
モモナリは、もう一度大部屋をぐるりと見回し、そして、机に積まれた本の山を眺める。
彼には、到底考えられないことだった。
戦うがために、これだけの量の本を積み上げることは、彼の常識には、否、彼の非常識にも存在しないだろう。
「どうして」と、彼は漏らす。
「君は、どうなりたい?」
これだけのことをしてジムに挑戦する目的、モモナリはそれがわからなかった。彼の中でジム戦というものは、少なくとも彼にとって非概念の努力をするようなものではなかったからだ。
「君は、ジムに挑戦し、バッジを手にして、どうなりたい?」
だから彼は、純粋な興味からそう問うた。もちろんその質問は、ジムリーダーとしては少し圧迫的なものであるのかもしれない。だが、彼はその興味を抑え込むことができなかったし、それを抑え込むような性格でもなかった。
シンは、悩みながらも一旦はその質問に答えようとした、だが、ちらりとタナカを見やる。タナカに父の息がかかっていることは、当然理解している。
だが、彼女は意を決してそれに答える。それに答えることも、彼女にとっては夢の一つだから。
「私は、強くなりたい」
彼女は胸に手を当てて続ける。
「バトルだけじゃありません、私は、自由に生きる強さが欲しい」
漠然とした答えだった。例えば創作などで、家柄に縛られる美しき少女が必ず放ちそうな、漠然として、それでいてありきたりな答えだ。
だが、モモナリはそうは思わなかった。彼から見て、彼女は本気でそれに取り組んでいるだろうから。
「なるほど」と言って、彼は本の山の一つを手に取る。
比較的新し目の戦術書だった。そこに書かれている著者の名前に、わずかに見覚えがある。
Cリーグであった頃に、一度だけ戦った男だ。大した強みもなく、面白みもないバトルだったことを、取るに足らないトレーナーだったという記憶で覚えている。
「君にアドバイスしたい」
彼は彼女の返答を待たずに、その本をポンと山に戻して続ける。
「セオリーは大事だ、本を読むことも大事だ……だけど、その先に自由はないよ」
モモナリはちらりとタナカを見やった。それは攻める視線であった。
タナカもそれに視線を返す、バトルを介したわけではないのに、その視線は弱かった。
☆
モモナリが去った大部屋の中で、シンは本をすべて閉じ、メモ帳をトントンとペンで叩きながら、まとまらぬ考えをまとめようと必死に思考を巡らせていた。
「わからない」
彼女を心配して膝を擦るキルリアの気遣いも、今の彼女には届かない。
モモナリのアドバイスは、言葉通りに受け取れば、彼女のこれまですべての否定であった。
本を読むこと、基本に従うこと、学ぶこと、それは彼女のバトルにおける全てであった。彼女は学べる環境にはあったかもしれないが、その逆に実践の環境にはいなかった。
考えれば、考えるほどにわからなくなった。自分の目的を達成するために何をすれば良いのかがわからない。
目を伏せ、腕で作った暗闇に身を任せる。
「やっぱり、駄目なのかな」
投げやりに放たれたその言葉に反応したのは、意外にもタナカだった。
「お嬢様」と、彼はシンが顔を上げるのを待ってから続ける。
「気に入りませんが、あの男の言うことは筋が通っています」
「どういうこと?」
「お嬢様、自由であるとことは、先が見えぬことなのです」
「先が見えない……」
「左様」
タナカは一つ息を吐き、呼吸を整えてから続ける。彼は、彼女の熱意を最もよく知る人間の一人であったし、それを好ましくないという価値観を持っている人間でもあった。このように、それについての助言をするのは初めて。
「先の見えぬ、誰も保証などしてはくれない道を、自分を信じることで一歩踏み出す。先代も、旦那様も、人生の節目では必ずそのような選択をなされた。もちろん知識もあったでしょう、しかし、彼等は知識に人生を任せはしませんでした」
一拍おいて続ける。
「お嬢様、自由というものは、それだけのリスクがあり、そして、それだけの責任があるのです。それは果てしなく重く、そして、恵まれたあなたには、それを負わずに済む人生もあるのだということを、どうか覚えておいて頂きたい。あなたがどのような選択をしようと、私はあなたを笑わない」
シンは、その言葉を理屈では理解しただろう。だが、感覚ではまだそれを理解しきれていない。
自分で戦うことが自由だと思っていた。そのために基本をマスターしようと本を読んだ、ポケモの特性も理解した、それらの知識で戦うことこそが自由であるのだと彼女は思っていた。
だが、モモナリとタナカは、それは違うのだと言う。
「……少し、時間をください」
タナカはそれを受け入れるだろう。
☆
翌日、ハナダジム。
朝、シンが現れないことを、トモキは不思議には思わなかった。
だが、モモナリは「寝坊しているんだ」と彼女が現れることを信じ、すでにゴルダックにプロテクターを装着している。
そうして二時間ほど経ったころ、彼女とキルリアは現れた。
あのバカでかいカバンは、今日は持っていなかった。
「よく来たね」
モモナリはゴルダックを呼び出しながら彼女を歓迎する。
「アドバイスは、少しは役に立ったかな?」
シンは、モモナリを見据えながらそれに答える。
「わかりません、ですが、やれるだけのことを、やれるだけやります」
「そうとも、それが良い、それが良いんだ」
見れば、彼女のポケットは膨らんではいなかったし、挑戦前にメモを見ることもしなかった。
モモナリはポケギアを取り出し、そして、ストップウォッチ機能を起動する。
「はい、それじゃあ、スタート」
わずかコンマ数秒、キルリアが動かぬことを確認してから、ゴルダックがスプリントを発揮する。ギシギシと拘束具が軋む音すら置き去りにする。
「『まもる』!」
それをある程度までひきつけてから、シンが叫ぶ。
キルリアがサイコパワーで壁を作り、すんでのところでその攻撃を弾いた。
あえて先手を取らせたからの『アンコール』はない、彼女はそのゴルダックの攻撃が『ひっかく』であることを見抜いている。
だが、その程度で捌けるほどリーグトレーナーは甘くない。
二の矢を、と、ゴルダックが踏み込んだ時だった。
「『フラッシュ』!!!」
キルリアの全身が、一瞬だけ強烈な光を帯びる。
その眩しさに、ゴルダックが一瞬たじろいだ。
その一連の行動を、シンは逃さない。
「『テレポート』!!!」
準備は整っていた、キルリアとの連携。
『フラッシュ』をしたときから高めていた集中力、逃げ切る。
祈るような彼女らの連携は、成功した。
ゴルダックの目の前にいたキルリアは無事その姿を消し、対戦場の角に――
「『アクアジェット』!」
モモナリとゴルダックは、バネ細工のように真反対に体を捻らせながらキルリアを視界に捉える。
信じられない、という感情が、一瞬シンとキルリアを支配した。
彼等は、シンよりも早く、テレポートしたキルリアを捉えた。
その理由はわからない、テレポートを使ったキルリアですら、その理由を瞬時に理解は出来ないのだ。
「『リフレクター』!!!」
次の手を考えるよりも先に、シンはそう叫び、キルリアもほとんど反射的に前方に壁を作り出す。
だが、ゴルダックはそれも予測済みだったようだ。彼は少し大回りに壁をかわすと、キルリアを捉え、抱きかかえる。
対戦場の角に移動したということは、それだけプールに近いということ。
彼女は放り投げられ、段々と水面が近く。
だが、止まった。
キルリアは、僅かな時間であっても自分の体が水に濡れぬ理由がわからなかった。対戦場から放り投げられれば、どのくらいで着水するのかということを、彼女は経験しすぎて理解していたのだ。
段々と、水面が遠く。
彼女は、ようやく自分の体がゴルダックの『サイコキネシス』で浮遊させれていることに気づいた。
「十秒だ」
ポケギアを眺めるモモナリは、それを十秒きっかりで止めている。
彼が指定した制限時間は、キルリアが着水する寸前に経過していたのだ。
ゴルダックにより、優しく対戦場に戻されたキルリアは、腰を抜かしたようにその場に座り込む。
奇しくも、それはパートナーであるシンがモモナリの前で見せている姿と全く同じであった。
「おめでとう」
腰を抜かしたシンに手を差し伸べながら、モモナリが笑顔で言う。
「君達は僕達から逃げ切った。誰にでもできることじゃない」
モモナリの手を握り立ち上がったシンは、未だに足が震えていることに気づく。
キルリアの『テレポート』の後に見せたモモナリのあの動き、あの眼光、それは、人が人に見せて良いものではない。彼等のいる世界の片鱗を、彼女は見たのだ。
同じくゴルダックに支えられたキルリアも、それに感謝しつつも、彼れに対する怯えが多少あった。
「教えてくれないか」と、モモナリが問う。
「『まもる』『フラッシュ』『テレポート』ここまでは用意してた動きだろう?」
その指摘に、シンは頷いた。すでに、彼がそれを見抜いている事自体への驚きはない。
「俺達もそこまでは予測できていた。だが、その後だ」
一拍おいて続ける。
「『リフレクター』は用意していたのか? 君はあの壁を本来の用途ではなく、最短距離を潰すために使った……上手く対応したつもりだったが、結果として、わずかに時間をロスした。元々の作戦かい? それとも、戦術書に」
そのどちらの問いに対しても、シンは首を横に振って否定する。
「じゃあ、どうして?」
シンは、その問いに上手く答えることが出来ないだろうと思った。
事実として『リフレクター』は貼ったし、それによってゴルダックが時間をロスしただろう。だが、それを、そうなるように考えて打ったわけではない。結果、あくまで結果としてそれが有効になっただけ。
だから、これを言い表すとするならば。
「『勘』です」
恐れることなく、言い切った。
天下のAリーガーを相手に、勘で立ち回ったなどと。
だが、仕方がない。
本当にそうだったのだから。
彼女は、恐る恐るモモナリを見る。
「そうとも」
彼女の予想と真逆。
モモナリは、ニッコリと笑顔をみせていた。
「それこそが自由だ、それこそが才能だ、それこそが、戦いだよ」
彼はズボンのポケットに手を突っ込む。
「その感性を大事にしな、誰もが持っているわけじゃない」
彼はポケットから無造作に、光るそれを取り出した。
「おめでとう」
光るそれを、彼は放り投げるようにシンに手渡す。
慌てて両手で包むようにそれを受け取ったシンは、そっと手を開いてそれを確認する。
ハナダジム認定、ブルーバッジは、彼女の手の中で確かに光り輝いていた。
☆
「おめでとうございます」
ハナダジムを後にしてすぐ、タナカは、シンを祝福し、頭を下げる。
「ええ」と、シンはそれに頷く。ようやく、ふつふつと、それを成し得た実感というものが湧いてきた頃だ。
「見事な戦いでした」
「まさか、ただただ逃げ回っていただけ」
「あの男から逃げ回ることなど、容易なことではありません、私もあの内容ならば苦戦するでしょう」
彼は一拍おいて、少し微笑んで続ける。
「それに、私はお嬢様ほど粘ることが出来ないでしょうな」
ふふ、と、シンもそれに釣られて笑った。
全くだ、一度逃げ切るのに、どれだけの数捕まったのか。
「お父様は、なんとおっしゃるかしら」
ジムバッジを手にしたこと、トレーナとして活動すること、そのどちらに対しても、父はいい顔をしないだろう。自由の責任を感じた人間ほど、愛娘にはその苦労をかけさせまいと躍起になる、別段不思議な話ではない。
「私が説得します」と、タナカが答える。
「お嬢様の戦いぶりを話せば、納得していただけるでしょう」
「昨日までとは打って変わって、協力してくれるのね」
「お嬢様、あなたは自由を勝ち取ったのです。従者である私があなたの従うのは当然のこと、全ては、あなたが勝ち得たものなのです」
タナカは、本心を隠した。
バトルに造詣の深い彼は、シンが持つ『それ』に随分と前から気づいてた。だが、それを伝えることもなければ、鍛えることもしなかった。
その道は、自由で、先の見えぬ、もしかすれば、明日死んでいるやもしれぬ道だ。
彼女の祖父の代からシン家に仕えた彼からすれば、彼女は孫娘も同然。その道に進めさせたくなかったのは、彼女の父親だけではなかったのだ。
まさかそれを、三回り以上年下の若造に見破られるとは思ってもいなかったが。
「とんでもない男ですなあ」
どこか遠くに投げかけるように呟いたそれに、シンも頷く。
『テレポート』の後にモモナリが見せたあの表情は、当分忘れることが出来ないだろう。
今、こうやってちらりと思い出すだけでも、背筋は凍り、足は震え、口が乾く。
「私、自由というものがどういうものなのか、少しだけわかった気がします」
自由であるということは、戦うということは。
あの表情を向けられるということなのだ。
「明日から忙しくなりますよ」と、彼女は従者に言った。
☆
「いつから気づいていたんだ?」
ハナダジム、トモキは再びつまらなさそうに座り込むモモナリに問うた。
「彼女の『才能』に」
それは、モモナリが彼女に対して最も懸念していたことだった。
素晴らしい才能を持っているのに、知識を詰め込むことでそれを発揮しきれていない。
せっかく持っている柔軟な感性が潰されているのだと、彼は指摘していた。
「彼女に『才能』があるって認めます?」
「そりゃ認めざるを得ないだろうよ、ただの思いつきで逃げ切れるほどお前は甘くない」
トモキはモモナリのそういう部分、手加減なんて出来ないだろうなという部分は疑わない。
「いつ気づいた?」
「彼女がジムに入ってきた時」
「まさか」
「本当ですよ」
「ポケモン出してすら無いじゃないか」
「でもわかったんで」
「だからなんでだよ」
その問いに、モモナリは頭をトントンと指で叩いて答える。
「『勘』ですよ」
そのままぐっと背伸びをして、彼は続ける。
「この仕事、俺には向いてないかもしれませんね」
それにトモキが呆れるのと、モモナリが大あくびをかますのは、ほとんど同時だった。