50-アリアドスの糸
「市長、いるんでしょ?」
本来ならば彼を排除しなければならないはずの警備員は、一回り以上年齢の下回るその少年を、精神的に大きく見上げていた。
目の下のクマが特徴的なその少年は、今すぐにでもポケモンを繰り出してきそうな危うさを、その全身から醸し出している。
武器は持っている、ポケモンも持っている、それを使いこなせる技術だって多少はあるし、それをすることのできる職業倫理も、警備員は持ち合わせているだろう。
だが、彼はそれを抜けない。
職業人として、それはヌルい対応だろう。後に本社から注意を受けても仕方はない、だが、それは理解できないでもない。
先にそれを抜いてしまえば、もうそれは止まらない、虚ろな目を持つリーグトレーナー相手にそれを抜くことを、彼の人間としての本能が拒否しているのだ。
そして、結果から言ってしまえば、それを抜いても同じことだ。リーグトレーナーは、職業人の技術を蹴散らすことに、躊躇も苦労もしないだろう。生きるために戦いの技術と身につけた彼らと、戦うために生きている彼らとでは、その根本から違う。
やがて、ついに彼がそれを抜かざるを得ないほどにまで追い詰められようとしていた時、肩に装着されたトランシーバーから救いの声が聞こえた。
『通せ』
その理由や、その判断に至った経緯など、警備員にはもうどうでも良かった。とにかく彼は、この虚ろな目をした少年に対する責任というものが自らの手から離れたことに心から安堵し、彼から目をそらしながらその道を開けた。
セキチク市役所、三階、市長室。
その役職についてからしばらく経ったが、キョウはその落ち着かぬ広さの部屋にまだ慣れきってはいない。
かつてのセキチクジムリーダー、そして、カントー・ジョウトリーグ最高順列三位を誇る彼は、望めば特に苦労することもなく市長となることが出来た。
西にサイクリングロード、北にサファリパーク、更に東と南には豊かな海を持つその土地は タマムシやヤマブキほどではないがカントーの中で影響力のある土地だ。故にそのリーダーには人間的に強い人物が求められ続けており、また、キョウはそれにうってつけの人材としてその地位につくことを望まれていた。
彼もまた、年老いてからその役職につくことに特に不満があるわけではなかった、忍びとして、教育者として、トレーナーとして、すでに彼のできる限りのことはやりきっていた。
だが、一見恵まれているように見えるその立場にも、一つ大きな弱点があった。
市長は、極力市長室にいなければならないのだ。
ドアの開く音からして、その来訪者は不躾であった。
「どうも」
その少年は、広い市長室をうっとおしく思うようにズンズンと大股で歩きながらキョウの座る椅子との距離を詰めた。
今日の傍らに立っていた秘書のような女は、それに一瞬だけ反応したが、キョウがそれに全く反応しないのを確認してからは動かなくなる。
「やあ、モモナリくん」
キョウは、今にも自分に掴みかからんとしている少年に向かって微笑んだ。
その風貌が、かつて見た、将来有望な少年トレーナーとは違ったものになっていることに彼は気づいてはいたが、だからといってその少年がモモナリではないと一瞬でも思うことはなかった。セキチク市役所の市長室。ある程度は神聖な権威の間に、ここまでの我を通さんとする存在は、彼はモモナリとその他数人しか知らない。
目の下のクマは酷い、髪には潤いもないし、唇はカサついている。露骨なまでの不健康だった。
彼の来訪を、キョウはすでに知っていた。そして、その目的にも察しはついている。
「もっと早く気付けばよかったですよ」と、モモナリは虚ろな目を細めて言った。
「あんたは逃げられないんだ。今までと違ってね」
「そのようだ、この立場は不自由でね」
モモナリはモンスターボールを掴み、それをぐいとキョウの前に差し出す。
「俺と戦ってもらおう」
「断る」
チッ、と、モモナリは舌打ちした。今日もまた、彼の欲望は満たされそうになかった。
「諦めなさい」
キョウはゆっくりと椅子から立ち上がり、目の前の少年にソファーを勧めながら続ける。
「君とは、何があっても戦わない……たとえ君がここでポケモンを繰り出し、私を攻撃したとしても、私は無抵抗だろう」
それは、目の前の少年を牽制するには十分すぎる言葉だった。
「いいじゃないですか、一度くらい」
モモナリは唇を尖らせながら恨めしそうにそう言って、ソファーに身を沈める。
「そうはいかんよ、特例を認めてはキリが無くなってしまう」
モモナリがキョウとの戦いを熱望し始めたのは今に始まったことではない。彼は事あるごとにキョウを追い回し、キョウは忍びの経験からそのすべての追求をかわしてきた。
「しかし、こんな老いぼれと戦ってどうしようというのかね……君のように若いトレーナーが」
「それ、本気で言ってます?」
モモナリは身を乗り出した。
「あんたと戦いたい理由なんて数え切れないほどある」
彼は指折りながら明るい声で続ける。
「まず第一に、あんたの忍びの技というものをぜひとも体験したい。今でも思い出す、俺がBリーグに上がってすぐ、あんたは年齢を理由に引退した」
「さよう、私もリーグを降格し、体力的な衰えも感じていた。不思議なことではない」
「そうはいきませんよ、結局、俺はあんたとは一度も戦えなかった。不思議ではないかもしれないが、不平等じゃありませんか。おれはあんたを尊敬してるんですよ」
彼は更に続ける。
「負けることが役割であるジムリーダーが今でもトレーナーたちから尊敬の目で見られるのは、あんたがリーグで結果を出したからだ。あんたがジムリーダーが強いことを証明しなければ、ジムリーダーの格というものは地に落ちていた……教育者が舐められたら終わりだ。あんたの挑戦がなけりゃ、今のカントージョウトリーグはもっとレベルが低かったかもしれない」
傍若無人の権化であるにも関わらず、モモナリの分析は的確だった。そして、故に挑戦者であったキョウを尊敬するという彼の言葉も、その態度からは想像もできないだろう。
「だからこそ、俺はあんたと戦いたい。毒だろうが眠りだろうが、自滅だろうが無抵抗だろうが構わない。あんたの忍びとしての技術をこの体で体験したい」
こういうところが、キョウを含むベテラントレーナー勢がこのモモナリという不躾を徹底排除するに至らない理由であった。
彼がキョウのようなレジェンドと戦いたい理由は名誉欲ではない。ただただ純粋な技術への、戦いの体験こそが、彼をここまで突き動かすものなのだ。
だが、キョウはやはり首を振る。
「残念だが、君は我々について大きな勘違いをしている」
我々、というものが、忍びという組織そのものだと言うことをモモナリが理解しているであろうことを確認しながら続ける。
「我々忍びはなぜあるのだと思う?」
彼の質問に、モモナリは沈黙を返した。くだらない冗談のような理由が浮かばないわけではないが、それよりもその先の言葉を知りたい。
キョウは続ける。
「良いかねモモナリ君、人というものはね、その大抵は戦いたくないと思っているんだよ。だから我々という存在が今日この日まで生き残り続けていたのだ。私達にもそれなりの戦いの技術はある、だが、それを使わないようにするのが優れた忍びの条件であり、優れた人間の条件でもある」
モモナリはその言葉にやはり沈黙していた。理屈としては理解できても、本能の部分では理解できない理屈だったから。
「戦いへの渇望を嘯く人間はいくらでもいる……だが、その殆どは見栄と、利益のために作らえた方便だ。我々はよく知っている。最も、君がそうであるとは私は微塵も思わないが……君のような存在を世の中では例外という」
モモナリ君、と、一度少年の名を呼んでから更に続ける。
「もし我々と戦いたいというのならば、君はすでに我々の支配下にあると言っていいだろう」
モモナリはその言葉に目を見開いた。想像もしていないことだった、現についさっき、キョウは自らとの戦いを拒否したではないか。
「俺は負けているんですか?」
「さあ、強いて言うならばまだ仕込みの最中と言ったところだろうな」
キョウはもう一度ソファーに座り直してから続ける。
「モモナリ君、我々忍びが扱う『最も根源的な毒』とは何だと思う?」
「ゴルバットが持つ猛毒でしょう」
彼は特に考えること無くそう答えた。それが確実な正当だとは思っていなかったが。同時にそこまで的はずれな答えだと思っていなかった。
だが、キョウはそれに「違う」と、微笑みながら首を横に振る。
「モモナリ君、『最も根源的な毒』とはね、欲というものなのだよ」
モモナリはそれに渋い顔をした。彼は今になってようやく、もしかして今自分は説教をされているのではないか、ということに気づいたのだ。
「食欲に溺れるもの、性欲に溺れるもの、名誉欲、金銭欲、物欲……とにかくこの欲というものは人を堕落させる、人というものはああ見えて痛み苦しみには強く出来ているが、幸せであることを拒絶することは難しい。我々忍びはそこを突く、今も昔もそれは変わらない」
更に続ける。
「君はどうかね? 見るところによると、君は戦いたいという欲に全面的に溺れている。普通ならばそういう輩はどこかで痛い目を見るのが世の中の常なのだが、仕方がない、君には才能がある。だが、よく考えてみたまえ、戦いへの欲求に満ちているといえば字面はかっこいかもしれないが、それは堕落しているということだ。欲を満たし続ければ、体に、精神に毒が回る」
ハイハイ、と、モモナリは呆れたように言ってソファーから立ち上がった。
「説教を聞きに来たわけじゃねえ、あんたにやる気がないなら帰るさ」
それは、都合の悪いことから耳をふさぐ子供そのものの姿だった。だが、それを咎められることはないだろう、彼は強いし、何より、まだ若いとは言えそのようなあまりにも子供じみた行動を咎めてもらえるような歳ではなかった。
「キョウ様」
嵐のようなその少年が出ていってすぐ、今日の傍らにいた女が言った。
「あの小僧、いかがしましょうか?」
その声には随分棘があったし、彼女がいつもするような愛嬌のある高い声でもなかった。
彼女はただ今日のそばに付いているだけの秘書ではない、彼女は元セキチクジムトレーナーにしてキョウの弟子でもある。彼女の娘であるアンズの才能と努力次第では時期セキチクジムリーダーもありえ、それでいてアンズに対して素直にその実力を認め引くこともできるほどの忠臣であった。
そのような立場である彼女にとって、キョウにつきまとうその少年はうっとおしいハエ以外の何物でもないだろう、事の次第によっては、彼女自身がそれなりのペナルティを与えてもいいとすら思っている。それ故の提案だった。
だが、キョウは「やめておけ」とそれを否定した。
「我々の常識が通用する相手ではない」
彼はソファーから立ち上がって彼の立場を示す席に移動しながら続ける。
「恐怖もしなければ、疑心を持つこともないだろう。だからといって、暴力でどうにかしようとすれば骨が折れる。少なくとも、君一人で敵う相手ではない」
「立ち向かってくるだけの相手です。技術を使えば」
「感心しないな、少し冷静になれ」
少しだけ言葉を強くした。
「気づかなかったかな、彼はずっと君を警戒していた」
彼女はその言葉に驚き、そして、自らの軽率を悔いた。
気配は消していたはずだ、誰も自分がそれなりの実力を持つトレーナーだとは見抜けないだろうと思っていた。キョウやアンズと違い、世間に顔が割れていない自分の役割こそがそれだと強く信じ、それを誇りにも思っていたというのに。
「まさか」
「尤も、君の素性すべてを理解していたわけではないだろう、私だってそれに驚いた。もしかしたら彼は、世の中の人間すべてがトレーナーだと『願って』いるのかもしれん」
彼の言う通り、モモナリは彼女の理解の範疇を越えていた。普通、その逆を願うものだ。
「それに」と、キョウが続ける。
「もし彼の破滅を願うのならば、このまま何もしないことが一番だ。尤も、私はそれを悲しいことだと思うがね」
「すでに彼は、欲望にとらわれていると?」
「さよう、豊かすぎる才能に、精神と肉体がついてこないだろう……それを止めるだけの何かが彼にあるとも思えん」
もしかすれば、ああやって面と向かって話すのは最後になるのかもしれないとすら彼は思っていた。
☆
タマムシシティで行われたカントージョウトリーグ、そのBリーグの一戦。
観客たちが思っていたよりも早く終わったその試合の結果は、彼らを困惑させるのに十分なものだった。
あのモモナリが、明らかに格下の降格候補に、考えられないような負け方をしたのである。
もちろんそれは、そう思うことは対戦相手に対する尊敬を欠いたものだ、勝負に絶対はない、それに、相手もバッジをコンプリートし、Cリーグを勝ち抜いてきたトレーナーなのである。それだけでも十分リスペクトに値することであるし、実力を疑う必要はない。
だが、負け方にも格というものがある、とにかく、その日のモモナリの負けっぷりは、バトルのことを欠片も知らないファンですら違和感を抱くに十分なものだった。
ファンはあれでいて鋭い、彼らが対戦場のトレーナーのすべてを理解できているわけではないだろうが、穴が空くほど眺めてきた対戦場に覚える違和感は、大抵的はずれなものではなかった。
とにかく、モモナリらしくない負け方だった。彼がそのような、まるでトレーナーになりたてのルーキーのような負け方をするのを見るのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。
「よう」
フラフラとタマムシシティを歩いていたモモナリに、その三人のトレーナーは声をかけた。中年の男とまだ若い男が二人だった。
一人はクロサワ、モモナリと同じくBリーガーであり、二日ほど前にジョウトで今節の試合を終えている。
もうひとりはキリュー、モモナリよりも少し年上のAリーガーで、押しもされぬ若手の筆頭株だった。
最後に残ったのがクシノ、彼はまだリーグトレーナーではなかったが、すでにバッジを七つ集めており、モモナリの顔なじみの一人だった。
「ああ、どうも」
モモナリは軽く頭を下げて挨拶を返した。数少ない友人だった。
「お前、どうしたよ」
肩を叩きながら、クロサワが神妙な面持ちで言った。
「らしくなかったぞ」
それは、その試合を観戦していた彼らの共通の意見であった。
ファンが違和感を関していたように、彼らもまた、モモナリのその試合に違和感を覚えていた。否、むしろ対戦相手としてモモナリの対面に立ったことのある彼らのほうが、その違和感をより強烈に感じている。
能力の足りていないトレーナーがするような力負けだった。場違い、格下、そのようなものを感じられずにはいられない。
モモナリというトレーナーは、少なくともそういう要素だけはないトレーナーだった。
「ええ、ちょっとね……噛み合わせが悪かったかな」
その答えに、やはり彼らは首をひねった。らしくない答えだった、聞いたことのない言い訳だった。
「体調が悪いのか?」
クシノが心配そうに問う。目の下に目立つクマに、少しばかり痩せたように見える体格。モモナリがバトルに身体のコンディションを持ち込まない性格であることを知っていたも、何らかの調整ミスが有ったのかと勘ぐってしまう。
「いや、そういうわけじゃねえよ。元気だよ俺は」
そう言って笑う彼の言葉を、彼らは言葉通りには受け取れなかった。
だが、その場ではそれを深く追求はしない。
代わりにキリューが言った。
「これからクロサワさんと飲みに行くんだ。お前も来なよ、色々話すこともある」
「ああ、奢ってやるぜ」
良い提案だった。
強要でもなければ懇願でもない、明らかに普通ではない彼の内心を探るための誘いとしては上出来。ついにひと目を気にせず飲むことができるようになったアルコールの誘いは、彼にとっても魅力的なはずだった。
だが、モモナリはそれに首を振った。
「いや、これからシンオウに行くんで」
「これから?」
クロサワ達はその言葉に一様に首をひねった。試合が終わってすぐとはいえ、すでにどっぷりと日が暮れている。
「ええ、シンオウは良いポケモンいっぱいいて面白いんですよ」
「試合の後なんだし、少しはゆっくりしていけよ」
「いや、もう行きます。正直、本当はもうちょっとあっちに居たかったんですけど、この試合があるから戻ってきてたんですよ」
キリューが「なあ」と、それに返す。
「お前が楽しんでるのはわかるけど、少しはリーグに合わせて体調を考えねえと、今季は昇格狙えてるんだし」
苦しい意見だった。当然、それがモモナリに届くとは思っていない。
それに、昇格を狙えるというのも苦しい意見だった。それが全く嘘なわけではなかったが、それは彼がこの試合に負ける前までの話、この落としてはならない星を落とした時点で、彼の昇格は他力本願なものになっていた。
「あー」と、モモナリはそれに小さく頷いたが、それは決して肯定からくるものではない。
むしろ、彼はそれを皮切りにとんでもないことを言ってのけた。
「俺、リーグそろそろ抜けようかと思ってるんだよね」
彼らは、一瞬モモナリが何を言っているのか理解できなかった。
「は?」と、まっさきにそれを声に出したのはクシノだった。
「何言っとるんや」
まだバッジをコンプリートしていない彼にとって、ポケモンリーグはまだ目指すものであった。それを軽々しく抜けると宣言する彼が理解できない。
尤も、それはリーグを目指す彼だけが持つ感情ではない。
「お前、自分が何言ってるか分かってんのか?」
キリューもまた、その言葉に呆気にとられている。
リーグトレーナーであること、それは彼らが彼らたる根底の部分であり、誇りでもあり、責任でもあり、証でもあった。
モモナリと話が合わない事にはもう慣れている。だが、その部分だけは共有できる感情だと今日このときまでは思っていたのに。
「だってさ、効率悪くない?」
押し黙る彼らを前に続ける。
「一月に一回の試合は少なすぎるよ、そんなことのために生活を縛られるなんてやってられないでしょ」
それに、キリューは絶句した。
考えたこともない理屈だった。試合が少なくて効率が悪いだなんて。
故にそれを否定する言葉がすぐには出てこなかったキリューやクシノに変わってクロサワが問う。
「そうは言っても金が稼げんだろう」
現実的な問題だった。
だが、モモナリはそれにも首を振る。
「別にいくらでも生活はしていけるでしょ」
「まあ……お前ならそうかも知れないが……」
クロサワもそれ以上の追及はできなかった。モモナリならあるいはそれができるのかもしれないという根拠のない考えが、彼の脳裏にはあった。
「じゃあ、時間がないんで」
足早に彼らの前から去ろうとしたモモナリを、三人の内誰も止めることが出来なかった。
彼はもう子供ではない。
だが、本当にこれで良いのかという考えが、彼ら三人にはあった。
☆
すでに自分の手を離れたと思っていた手のかからない弟子が不意に自宅を訪ねてきても、かつての四天王キクコは動揺することはなかった。
弟子、キリューの成績と戦いぶりは常にチェックしている。何も不安に思うことはない、欲を言うならばいつチャンピオンになるのかというところだが、優れたトレーナーであるキリューが安々とチャンピオンになることがないというところも、つまりはポケモンリーグのレベルの高さを物語っていることだ。
だから彼女は、彼が語ったその話を、落ち着いて聴くことが出来た。
「ほう、そんな事を言っていたかい」
キクコは、可愛い一番弟子の報告をすべて聞いた後に、静かに、それでいて低く震えるような声で言った。
キクコは現役を引退した後にも感情を顕にする方ではなく、付き合いの古い人間でもそのすべての感情を読み取ることは出来ない。
しかし、彼女の弟子一号であったキリューは、彼女の心の動きというものをある程度は感じることが出来た。それが彼の天性のものであったのか、それともキクコが彼に心を許しているからなのかはわからない。
キリューは、彼女がそれに怒りを覚えているわけではないことを意外に思っていた。彼女のその口調は、震えは、怒りによるものではない。
それが示しているのは落胆だった。落胆、呆れ、虚しさ、そういう類のもの。
「怒らないんですか?」
思わず、彼はそう問うた。遙か年上、人生の師と言っても過言ではない彼女の感情を再確認したかった。
「ああ」と、キクコは続ける。
「怒らせたいなら、怒るよ」
キリューは「いや! いや!」それに大きく首を振って否定する。
モモナリの言動に対して、彼は師であるキクコに助言を求めた。もちろんそのためには、彼が「リーグを抜ける」と言っていた事も伝えなければならない。友人を売るような行為かもしれない、だが、彼はそれでもキクコの助言を求めた。
ポケモンリーグはキクコの悲願であり、彼女の全てでもある。それに対して否定的な言動をしたモモナリに、彼女は怒るだろうと彼は思っていた。もちろんその時はそれをなだめそれを許してもらおうと思っていた。だからこそ、彼女の反応は予想外であった。
それをキクコも理解していたのだろう、彼女は可愛い一番弟子の大きすぎるリアクションに少し微笑みながらも、やはり落胆の感情をそのままに続ける。
「怒ったところで無駄さ。普通の人間なら潰してるかもしれないが、あの男に怒ったところで何かが変わるもんかね。そんな事ができるくらいならとっくにやってるよ」
キリューはその言葉に一応納得した。たしかに彼女の言う通り、たとえ彼がキクコとその影響下にあるすべての人間と機関を敵に回したとしても、なにかに困るとは思えない。
キクコは椅子に座り直してから「それに」と、更に続ける。
「いつかはこうなるんじゃないかと思っていた」
「なぜです」
キリューは間髪入れずに問うた。何も予想できないモモナリの行動を予測していることが信じられない。
「奴は自由なのさ。何にも縛られず、やりたいことだけをやる。子供の内はそれを誰かが止めてくれたかもしれないが、もうそういう年齢でもない。やりたいことをやり続けて、どこかで野垂れ死ぬ。そういう手合が全く居ないわけじゃない」
キクコの言葉に、ならばとキリューが問う。それを知っているというのなら、それを防ぐ手段も知っているはずだ。
「じゃあ、どうすれば」
「どうにかする必要があるのかい?」と、彼女は答えた。
「圧倒的な才能を持ったライバルがリーグを抜ける。勝負師としては願ってもない状況のはずだよ」
「しかし」
「しかしもマトマも無いよ。リーグを抜けたいというのがヤツの意志であり、あんたにはそれを止める理由がない。何もする必要がないよ、幸せなことじゃないか」
それは、冷酷だが的確な正論であった。
リーグトレーナーの目的はなにか、何のために戦うのか、その先に何があるのか、それを知っているのならば、勝手に脱落してくライバルに手を差し伸べることの無意味さがわかるはずだ。それが豊かすぎる才能による自滅であるのならば、それもまた弱さだ。弱さによって脱落していったトレーナーなど、彼らは腐るほど知っている。
だが。と、キリューは唇を噛んだ。
そんなに単純な話なもんか。
あのモモナリが、そんなくだらないことでリーグを去って良いはずがない。
人生の中で、尤も自分自身を苦しめ、絶望さえさせた彼が、非効率だとかそんなくだらない理由で目の前から去って良いはずがない。
その感情を、師匠も知っているはずだった。突き放すようなその正論が、彼女の強がりであることを、キリューはなんとなく理解している。
だから、言った。
「じゃあ、先生は『あの時』幸せだったんですか?」
師の目つきが変わった事に、彼はすぐに気がついた。
『あの時』というのが一体何を指しているのか、キクコの人生を知る人間でわからない者は居ないだろう。『あの時』があったからこそ、彼女の今があり、ポケモンリーグの今がある。
だからこそ、キリューのその言葉は、彼女と付き合う上での禁句だった。
彼女が明確にそれを拒絶したことはない、だが、それが彼女の中で明るくはない話題であることくらい、ドードーレベルの知能の持ち主だってわかる。
キリューだってそれは理解している、だが、思わず脳裏に浮かんだその言葉を、彼は止めなかった。
同じ気持ちなのだ。
オーキドを失った彼女と、モモナリを失おうとしている自分、性別の際はあるだろうが、その感情は共有できるはずだ。
幸せなんかじゃない、幸せなんかじゃなかったはずだ。
叱責どころか、破門も覚悟していた。
「言ってくれるじゃないか」
キクコは一つため息を付いて、弟子の成長に感心したように言った。少なくとも叱責ではなかったし、破門宣言でもなかった。
「すみません、しかし、俺にとってモモナリとは――」
「止められないよ」
キリューの弁明を、キクコが言葉で制した。
珍しいことだった。
「止まらないんだよ、ああいうタイプは……少なくとも、あたしは止められなかった」
彼女は一度目を閉じて、過去を思い出すように沈黙を作ってから続けた。
「後悔すると思うなら、好きにしてみればいいさ。少なくとも、あたしはそれの答えを持っては居ない」
☆
タマムシシティにある遊技場、ボウリング、ダーツ、スカッシュ、その他様々なエンタテイメントを楽しむことができるそこには、当然ながらカラオケボックスだって存在している。
若者二人が集まるには、ちょうどいい場所だった。
「イツキさんはなんて?」
その片方、キリューはクシノに問うた。
ジョウト地方の大物トレーナーであるイツキの名が出たが、それは特に不思議なことではなかった。その青い目の少年、クシノは、かつてイツキの付き人であった過去がある。何か悩みがあれば彼に相談することのできる権利を彼は持っていた。
しかし、クシノは首を横に振った。苦しげな表情でそれに答える。
「放っておけってさ、俺の手に負える人間やないと。まあ、たしかにそのほうが分かる話や」
イツキのその意見は非常に的を得た物であった。
贔屓目に見ても、クシノは才能にあふれているタイプのトレーナーではない。才能だけではない、その基本的な考え方、人間としての本質が、あまりにも凡庸すぎるのだ。もちろんそれはイツキが彼を気に入っているポイントの一つではあるが、それはモモナリのような人間を救えるほどのものではない。
必要以上に関われば、モモナリの持つ障気にやられるだろうというのがイツキの見解だった。そして、それを振り払えるだけの腕力は、今のクシノには無い。
その意見を否定できるだけの力を、クシノは持っていなかった。
「先生も同じような意見だ。好きにしろとはいってくれたけど」
その話し合いの詳細までは、キリューは語らなかった。
はあ、とため息を付いて、彼は続ける。
「おそらく、相当な物好きを除けば、リーグトレーナーの誰もが同じような意見だろう」
クシノも、その言葉には無言で肯定を示した。
親兄弟ならともかく、チャンピオンを目指すライバルが去るのを引き止める勝負師がどこにいるだろうか。しかもそれは病気や社会的な立場などという、本人に防ぎようのないものではない、ただただ、モモナリという人間が持つ本能的な部分の自滅であるのだ。
「これを見てくれ」
話題を変えるようにキリューが言って、彼は懐から新聞紙を取り出した。
クシノはそれを受け取って、慣れぬレイアウトに一瞬戸惑った。それは慣れ親しんだジョウトやカントーのものではない、その名前に目を通すと、シンオウ地方で創刊されているものだった。
それを理解してから、今度は赤ペンでチェックされている項目に目を通す。
そして、彼はキリューの言いたいことを理解した。
「やっとるな」
そこにあったのは、ある謎のトレーナーが、かつてシンオウ地方で活動していたあるテロ組織の残党アジトを壊滅させたという記事であった。
記事を追う、しかし、そのトレーナーの名は掲載されてはいなかった。
だが、彼らはそのような無茶を単独でやりそうなトレーナーを知っている。
「殆ど裏は取れてる」と、キリューが言った。
「警察には知り合いがいるんだ」
クシノはそれを疑わなかった。キクコ一門のコミュニティは、そのような横のつながりを持っていても不思議ではない。
「無茶苦茶や」
投げやりに言うクシノに、追い打ちをかけるようにキリューが続ける。
「非合法の対戦組織に出入りしているという噂もある」
「まさか」
その言葉は疑った。そういうギリギリのラインでの活動はするが、決してそのような一発アウトな事はやらないはず、ぶっ壊れた倫理観の中に、何故か通すべき最低限のラインをわきまえているのがモモナリという男。
だが、それを強く否定はできない。ここ最近の彼の言動は、ついにそのラインを超えたと思われても仕方がない。
そして、それが偽りだとしても。
「もう、あまり時間はないだろう」
キリューの意見に、クシノは頷いた。
リーグで見せた違和感のある動き、それは、連戦に次ぐ連戦の中で彼の肉体が疲弊しているということに違いない、それは二人が共通して持つ意見だ。
元々の前提がおかしいのだ。
煮詰まった対戦環境の中で六対六のフルマッチ、バッジ八つ持ちという最低限の足切りがある以上、どれだけレベルが開いていようと、その対戦が人体に及ぼす影響が無いはずがない。
ベテランの中には、対戦の翌日はぐったりと何もしたくないという人間すらいるのだ。いくら若かったとはいえ、それを三時のおやつのように楽しんでいたモモナリが少しおかしい。
いつか必ず肉体と精神がもたなくなる、そして、その日は近い。
分かっている、それは分かっているのだ。
だが、それを分かっているというのに。
「どうすりゃいいんだ」
友人を救う方法がわからない。
否、そもそも、それを阻止しようとすることが、彼を救うということなのかすら曖昧なのだ。
説得で頷くような人間ではない。その意見を捻じ曲げようにも、それをできる人間が果たしてこの世にいるのだろうか。強烈な彼のエゴが、彼を自身を喰らい尽くそうとしているのに、それが彼にとっての何なのかすらもわからない。
「やるしかないやろ」
ポツリと、クシノがそう呟いた。
誰かに伝えようとしわけではない。
ただただ、その決意を口に出して自らを奮い立たせなければならないからそうしたのだ。
その時だ。
不意に、機械的な電子音が、不快に重なりながら室内を反響した。
二人共がポケットを弄り携帯端末を手に取る。
お互いにそれに出ることの了承を確認すること無く、彼らはそれぞれそれを受け入れた。
そのどちらともが、師匠からの連絡だった。
そして、そのどちらともが、同じ伝言を彼らに伝えようとしていた。
☆
夜に差し掛かろうとしている時間帯だった。
くああ、と、一つ大きなあくびをかましたモモナリは、手持ち達を回復させるためにポケモンセンターに入っていった。
カントー地方、ハナダシティ。
シンオウ地方から帰り、ヤマブキシティに降り立った彼は、そのままヤマブキ、双子島、グレン、マサラ、トキワ、ニビ、お月見山と巡ってそこに帰ってきていた。意味などあるはずがない、ただただ、生活に刺激が欲しかっただけ。
翌日に故郷でのリーグ戦を控えてなければ、そもそも帰って来ることすらなかっただろう。シンオウ地方での体験は刺激的だった、また別の刺激を求めるならば、この世界の広さは都合が良かった。
モンスターボールを受け取ったジョーイは、ポケモン達の体調よりも、モモナリのそれの方を心配したことだろう。しかし、クマも相まってもはやうつろに見えるその視線は、それを指摘することで自らの身に降りかかるかもしれぬリスクを彼女に覚えさせ、喉まででかかっていたそれを引っ込ませるには十分だった。
「おい」
モモナリがポケモンセンターを後にしてすぐ、珍しく、彼は引き止められた。最近では珍しいことであった。
顔なじみだった。ポケモントレーナー、クシノ。まだリーグトレーナーではないが、いずれそうなるだろう。抜群の才能があるわけではないが、それなりに頑張っているというのが、モモナリの彼に対する評価だった。
「ちょっと、付き合えや」
立場とか、格とかを重視する人間からすれば、それは随分と慇懃無礼な態度であった。だが、モモナリはそれに不快を覚えることもなく「めずらしいな」と、それを了承する。基本的におとなしい人間であった彼が、そのような表情を見せるのは久しぶりだった。
特にそれを警戒することもなかった、それはモモナリが人間的な面と実力的な面の二つでクシノに気を許していたこともあったし、何より、もしなにかがあったとしても、それは彼の望むものだろうから。
「ほんまなんか?」
人のいなくなったゴールデンボールブリッジを渡りながら、クシノは傍らのモモナリに問うた。
「地下の対戦場に出入りしとんのは?」
川のせせらぎに負けぬように、しっかりと言った。
それは、キリューとの打ち合わせ以来、彼の心に引っかかり続けていることだった。確かに、今のモモナリはそれをしていてもおかしくはない、だが、どれだけ堕ちようと、それだけはしてほしくないという願望が彼の中にはあったのだ。
「なにそれ」と、モモナリはひどくつまらさそうにそれに答えた。
「何の意味があるの、それに」
続けて答えるモモナリに、彼は一つ安心した。
やがて、彼らは目的の場所に到着する。
そこは、ハナダシティの公園に併設されている対戦場だった。すでに薄暗くなり始めていたが、四隅に建てられた電灯が、それなりにそこを明るく照らしている。
そのど真ん中にモモナリを案内した後に、クシノは彼と向かった。
「明日試合があることは分かっている」
ベルトのボールを手に取りながら、彼は続ける。
「やが、こっちなそんなこと気にしない。今日、俺達はお前を襲撃するんや」
おおよそ襲撃にはふさわしくない、大胆な宣言だった。
だが、モモナリはそれに焦りもしなければ、怒ることもない。当然だ、それは彼が手を変え品を変えこれまでどこかで誰かにやり続けてきたこと。自分がやられて嫌なことは人にやってはいけない。彼はその教えを忠実に守り続けてきた。
ただ、彼はそれを鼻で笑った。
「トレーナーってのは、大人しすぎるんだよ」
気がつけば、すでに彼の背後にはゴルダックが現れており、彼は二歩三歩と下がって彼に舞台を譲る。
「襲撃するタイミングはいくらでもあったろ」
クマの目立つ眼を最大限にまで鋭くし、彼はそのうつろの中に相手を捉えながら続ける。
「少しは強くなったんだろうな?」
彼は笑っていた。
☆
「まあまあやるようにはなったんだな」
ポケモンセンターを後にしながら、モモナリは呟いた。
流石にバッジをコンプリートしていないトレーナーに負けることはないが、それでも手持ちの一匹を戦闘不能にはされた。明日のことを考えれば、それを回復するのは当然。
だが、その襲撃がそれで終わりでは無いことを、彼はすぐに知る。
一足先にポケモンセンターに向かっていたはずのクシノは、再びモモナリを待ち受けていた。
「まだや」と、彼は言った。
「まだ終わっとらんで」
何故か、それを宣言する彼のほうが苦しげな表情だった。
直接対面したことで、彼はそれを強く思い知っていた。
明らかに、モモナリにキレがない。
今のモモナリならば、恐らく初めて出会ったあの時の方が恐ろしい。今の彼からは、あの圧倒的な、人生すべてを否定してくるような強さはない、それが疲労によるものなのか、それとも才能の枯渇によるものなのかは、今の彼では判断することが出来ない。
だが、それでも七つ持ちに勝ててしまう。反省などするはずがない、この世の大体のトレーナーに、彼はこの状態でも勝ててしまうのだから。
クシノはそれが悔しくもあり、情けなくもあった。努力をしていると誇っている人間ほど信用できないものはないことは彼もよく知るところではあるが、それでも、日々の鍛錬がまだその成果を出していないのかと思う。
自分では無理だった。
「やる気あるじゃん」
モモナリはニッコリと笑ってそう言うと、やはりクシノについていった。
「よお」
再び帰ってきた対戦場にいたのは、先輩リーグトレーナーであるクロサワだった。
「準備体操にもならなかっただろ」
彼はクシノを一瞥しながら言った。彼は人間が嫌いなわけではなかったが、才能のないトレーナーというものは嫌悪の対象だと思っている節があった。尤も、だからといってクシノの人間としての部分をすべて否定的に見ているわけでもない。自らの好き嫌いと相手の人格を結びつけることのない最低限の倫理観は持っていた。
「まあまあ」と、モモナリはそれを否定も肯定もしなかった。
それに一つ微笑んでから、クロサワが言う。
「こいつらが何企んでるかはしらねえが、とにかく、俺はお前を『強襲しろ』と頼まれた」
モモナリがそれに頷くのを見てから続ける。
「正直な所、俺はお前が今後どうなろうとそれが間違っているとは思わねえだろう。つええやつがつええままにワガママに振る舞う、俺はそれが悪いことだとは思わん。安定した食い扶持失うのはもったいねえな程度には思ってるけどな」
強いやつは何してもいい、それこそが彼の持論であったし、その持論に基づいて、彼はモモナリの実力と考え方をかっていた。
だからこそ、クロサワはその領域においてモモナリを強く否定することは出来なかった。強いやつがやりたいようにやる、それを否定する自己矛盾を彼は抱えられない。
「お前を説得しろとか、お前のために金を出せとか、そういうことなら断ろうと思ってた。だが、戦えと言われるのならまあ、断る理由がないわな」
砂を蹴る音。
クロサワの背後から現れたニョロボンが、モモナリに向かってその拳を振り下ろした。
だが、それがモモナリを捉えることはない。
同じく現れたアーボックが、その腹の模様でそれを受け止めていた。
「悪い人ですね」
素早くアーボックの背後を取ったモモナリが笑いながら言った。
「わかるか? これが『襲撃』ってもんだよ」
クシノはそれに苦い顔をしながら対戦場から離れる。
「好きだろ?」
「ええまあ」
攻撃を防がれ距離をとったニョロボンにアーボックが襲いかかる。
クロサワはニョロボンをボールに戻して次を繰り出す。
元々格闘タイプで毒タイプであるアーボックには分が悪い上に、胸の模様で『いかく』されており、精神的に優位に立たれていた。
万全の状況ではないのに、あの一瞬の判断でここまでの正解を引かれるのだから参るよ、と、クロサワは思っていた。
それを何でも無いことだと後出しで言うことは誰だってできるだろう。じゃあ、それをあの状況でやってみろよという話。
繰り出されたマタドガスに、アーボックの尻尾が襲いかかった。
だが、マタドガスはそれをいなす。もとより『ふゆう』しているその体に『じしん』の衝撃は効果がない。
「ん?」と、クロサワは表情を歪めた。
らしくない攻撃だ。
相手の行動を読みきり、その技を無効化するポケモンを繰り出すことを主な戦略とするトレーナーだ、そうなったことは不思議ではない。アーボックに対してマタドガスを繰り出す戦略自体は理にかなったものだろう。
だが、それがあっさりと決まりすぎた。そのような戦略を自由に動かさせないのがリーグトレーナーであった。
「『どくどく』!」
マタドガスに指示を出しながら、彼は考察する。
自分自身が素晴らしいトレーナーであることは当然の事だと彼も自認している、だが、この素晴らしいトレーナーである自分に食らいつくのが、Bリーグ以上のトレーナーではないのか。
ならば考えられることは唯一つ。
やはり、モモナリにキレがない。
☆
ポケモンセンターの自動ドアをくぐり、すっかりと電灯の灯りが頼りになった空を眺めながら「うーん」とモモナリは唸った。
良くない読み合いが幾つかあった。
反応が遅れた場面のあったし、少し甘えた考えの瞬間もあった。
だが、まあ良いだろう。明日気をつければいい。
「いや、次か」
目の前に再び現れたクシノを見て彼はそう呟いた。
声をかけるよりも先にモモナリがそう言ったので、クシノは一瞬押し黙った。だが、それでも気を強く持って言う。
「まだ終わりやない」
「だろうね……こんなのが『襲撃』なわけねえわな」
ニカっと笑う彼のギラついた視線と目を合わさぬよう注意しながら、彼はモモナリを先導した。
「モモナリ」
対戦場で待ち構えていたキリューは、モモナリを睨みつけていた。
彼は身長が低い、比較的高めであるモモナリを見上げる形になっているにも関わらず、その視線は強く、モモナリのうつろでありながらギラついているそれに真っ向から食らいついている。
クシノは、その男がカントー・ジョウトリーグAリーガーであることを思い出すように噛み締めていた。ポケモンと人間を支配する権利を有する、モモナリの持つ圧倒的な暴力に対抗できる人類側の選択肢だった。
「まだ、考えを変えるつもりはないか?」
それが、ポケモンリーグを抜けるという判断に向けられていることをぼんやりと理解しながら、一つあくびをして彼は答える。
「変えるも何も、この状況こそが抜ける理由じゃないか。戦いなんてものはさ、こうやって自由に行えるべきだよ。月に数度、決まった場所で決まった相手としか戦えないだなんてつまらない。時間の無駄だよ」
ふう、と、キリューはその返答にため息を付いた。
「まあ、そうだろうな。お前がこんなことで考えを曲げるとも思えない」
そして彼はボールを構えながら続ける。
「モモナリ。俺は怒っている」
それに「ふうん」と反応したモモナリに更に続ける。
「お前ほどの才能を持っていれば、俺はお前のようには生きない。お前はリーグに意味がないと言うが、俺には身を削ってまで連続して行う野試合にこそ意味がないと思っている。いや、そんなものには意味がないんだ。だからこそポケモンリーグは生まれ、この競技は今日まで生き残ってきたんじゃないのか?」
至極まっとうな意見であったが、モモナリはそれを鼻で笑った。
「まあ、いいよ。意見が合わないのなんてこれが初めてのことじゃないだろう?」
「まだだ、俺が怒ってるのはそこじゃない」
放たれたボールから現れた電子レンジ型のロトムが、モモナリに向かって戦闘態勢を取る。
「そういう事は、せめてAリーグに上がってから言うもんだ」
放たれた電撃は、現れたピクシーが受け流した。
さらにモモナリはそれを手持ちに戻し、その次を繰り出す。
「どれだけ、お前を待ったと思ってる」
対戦場に『すなあらし』が吹き荒れようかとしていることを感じながら、キリューはモモナリに叫んだ。
「今のお前なんざ俺達の足元にも及ばねえんだよ!!!」
☆
ポケモンたちが回復するのを待つ間、モモナリは無言だった。
違和感があった。
勝敗にではない、ただ、果たしてそれがいい戦いだったのかと言われれば、彼の中でもモヤモヤとした何かが残っていた。
だが、彼はまだそれには気づけない。
単純な勝敗では、彼の価値観には揺らぎを与えることは出来ないだろう。なぜならば彼は、負けるということを戦いの一部と受け入れる事ができる。
疲れがないわけではない、だが、それを悪いことだとも思っていない。戦えば疲れる、火を見るよりも明らかな理屈だ。
肩を叩かれ、モモナリはようやくポケモンたちの回復が終わったことに気がついた。
それを受け取りながら、彼は考える。
センターで回復できるポケモンたちには問題がないだろう。
自動ドアをくぐり、センターを後にする。
すぐに出迎えたクシノに、彼はこれまでと変わらぬ笑顔で手を上げた。
「おどろいたな」
ゴールデンボールブリッジ、もはやクシノと並ぶように歩きながら、モモナリは続ける。
「まだ隠し玉がいたとはね。俺はてっきり、キリューで打ち止めかと思っていたよ」
モモナリも馬鹿ではない、こんな馬鹿みたいな『襲撃』に付き合ってくれるリーグトレーナーなどもう他にはいないと思っていた。それに、現役Aリーガーのキリューが露払いになるとも思えない。
すでに日はどっぷりと暮れ、子供たちはとっくに眠りこけているような時間だった。足場が軋む音と水面のせせらぎだけが聞こえる。
橋を渡りきろうとした時、クシノが言った。
「次の人で最後や」
「そうか」
「この『襲撃』はな、元々はその人の発案やったんや。だから俺達もその意味まではわからん」
「俺もわからねえな」
対戦場入り口。そこではキリューが彼らを待ち受けていた。
彼はしっかりとモモナリと目を合わせながら、しかしそれでも複雑な感情を彼の視線から感じながら、対戦場を指差す。
「あの人で最期だ。くれぐれも、失礼のないようにな」
皮肉のこもったセリフだった。
だが、モモナリはそれを気にしない。電灯の光がありながらも、まだ遠くにいるそのトレーナーが誰なのか、疲れ切ったモモナリの眼は捉えきれない。
一歩二歩、モモナリは彼らへの挨拶もそこそこに歩む。
一歩二歩、髪が長い、どうやらそのトレーナーは女のようだ。
一歩二歩、黒っぽい服を着ていた。ああ、だから見えなかったのか。
一歩二歩、違和感。
一歩二歩、彼の鼓動が早くなる。
一歩二歩、まさか。
一歩二歩、そんな。
最後はほとんど小走りになるように、彼はそのトレーナーの前に立つ。
どっと汗が吹き出してきた。
上から下まで、最後の確認を行うかのように眺める。
そして彼がそれを確信した頃に、そのトレーナーが言った。
「新人戦のエキシビション以来かしら?」
そのトレーナーは、四天王、カリンであった。
一歩、モモナリが右足を後ろにやったのを合図に、ベルトにセットされたボールからアーマルドが飛びだして攻撃した。
だが、それは届かない。同じくカリンが繰り出したゲンガーが『リフレクター』でそれを受け止めている。
舌打ちをしながら、彼はアーマルドをボールに戻そうとした。流石に四天王相手に不意打ちは通用しない、だが『すなあらし』なら。
しかし、アーマルドはそれに反応しない。
それがゲンガーの『くろいまなざし』によるものだと気づいたときには、すでに『シャドーボール』がアーマルドに打ち込まれている。
反応が遅れた。
目が霞む。
「『じしん』!」
弱点をつく。
だが、アーマルドがゲンガーよりも早く動くことができるはずもなく。彼は二発目の『シャドーボール』を食らっていた。
「らしくないわね」と、それを眺めながらカリンが言った。
「新人戦の時の方が強かったんじゃないかしら?」
モモナリは、その言葉に何も言い返せなかった。
そんなことよりも、自らの判断ミスへの後悔の方が大きい。
ゲンガーが『くろいまなざし』で縛ってくることなど予測できたはずだ。なぜそれに気づくのに遅れた。
否、そもそもなぜアーマルドを繰り出した。なぜそのような甘えた選択をした。
相手はカリンだぞ、なんで、どうして。
それが想い続けてきた相手への敬意な訳がない。
カリンは、モモナリ少年の憧れであった。才能に溢れ、自分のやりたいことを曲げずに四天王となり、チャンピオンと肉薄した尊敬すべきトレーナーだ。夢の対戦相手であり、どれほど望んでも戦えなかったトレーナーでもある。
ドリームマッチだ、夢にまで見た対面だ、メインディッシュ、尤も豪華なデザートだ。
どうしてそんなつまらない判断ミスをする。
一瞬、意識が遠のく。
足が痛い、胸が苦しい、頭が痛い、視界が霞む。
だが、モモナリは頭を振ってそれを振り払う。それは言い訳だ、戦いの中で考えていいものではない。
それでもまだ、自分の得意な領域なら。
アーマルドをボールに戻し、カバルドンを繰り出す。カリンも合わせてポケモンを繰り出したが、ぼやける視界に判断が出来ない。
だが、それを繰り出せば。
「『にほんばれ』」
「えっ……」
現れたラフレシアが灼熱の花粉団子を天に放っていることに気づいた頃にはもう遅い。
カバルドンの作り出した『すなあらし』は、すでにその太陽のような花粉団子に飲み込まれ、その勢いを失っている。
戻すべきだ、と、彼の本能的な部分が告げる。それを拒否する道理はない。
だが、やはり一瞬、手が遅れる。ラフレシアは『ようりょくそ』で速さを得ているというのに。
カリンほどのトレーナーがそれを見逃すはずがなく。
「『ソーラービーム』」
花弁から放たれた光線が、カバルドンに直撃した。
一瞬、彼はそれに耐えようと地に足を踏みしめる。だが、弱点をつかれ効果が抜群のその攻撃を受けきれるはずもなく、彼は崩れ落ちた。
その光景を、モモナリは口を開けて眺めていた。
汗が止まらない。息も上がる。
それは、対戦場を照らす『にほんばれ』がもたらしたものではない。
耐えられなかった。
この戦いを汚してしまっている自分自身に耐えられない。
視界が滲む、思考がぼやける、足が痛い、意識が飛びそうになる、頭が痛い、胸が苦しい、腹が空いている。
戦える状態ではない。
彼は、ようやく、ようやくそれに気づいた。
敗北からではない、夢にまで見た理想を自分が汚しているという嫌悪から、彼はようやくそれを認めたのだ。
小さな声で、モモナリは何かを言った。
カリンがそれに気づかぬふりをすると、もう一度、今度は先程よりも少し大きな声で言った。
「日を、改めてくれませんか?」
信じられないほどに、弱々しい声だった。
「今日は日が悪い」
それは、モモナリの体調のみを考えるならば当然の判断だった。
しかし、カリンはそれに表情を変えること無く「イヤよ」と答える。
「あたしは今戦いたいの」
それをワガママだと否定することは、少なくともモモナリには出来ないだろう。
カバルドンをボールに戻す。
しかし、次のポケモンを繰り出すことが出来ない。
追い詰められていた。引くわけにもいかず、そして、進めば激しい自己嫌悪が待っている。
ボロボロの肉体が、精神が、ようやく悲鳴を上げ始めていた。
だが、彼はそれでも落ち着こうと試みる。恐らく彼は、生まれて初めて、自らの中に眠る底力のようなものを信じようとしていた。
息を吸い、吐く、吸い、吐く、吸い、吐く。
やがてそれが必要以上に過度な呼吸になろうとしたその時。
彼は膝から崩れ落ちた。
明らかに肉体が限界であった。
すでに彼は、カリンと視線を交えることもできなくなっていた。当然だ、一体どうして目を合わせることができようか。
地面に手を付き、息は荒い。
「モモナリ!」と、彼の名を呼びながら駆け寄ったキリューとクシノが、彼を立ち上がらせようと肩を持った。
だが、彼はすぐには立ち上がれない。足が震え、腰に力が入らない。
キリューとクシノは、その光景に息を呑んでいた。とっくの昔に、体力の限界だったのだ。楽しいことをしているのだから疲れるはずが無いという根拠のない自信のみがそれを誤魔化し、それでもある程度勝ててしまう才能が、それを更に肯定していた。
引くことを知らぬ精神力のみで彼は戦っていたのだ。そして、カリンと退治して初めて、彼はそれに気づいた。戦いよりも価値のある憧れが、彼の精神を打ち砕いだ。
カリンはその光景を見てからラフレシアをボールに戻した。自分の足で戦場に立つことすら出来ない人間を、一体誰がトレーナーと呼ぶだろう。
モモナリもまたそれを理解していた。そして、自らを支えようとする二つの手を振り払わなければ自らはトレーナーではないという意識も、プライドもあった。だが、それをなせるだけの体力はない。
両肩を担がれ、二人の人間を支えにようやく地面に垂直になった彼を眺めながら、カリンが言った。
「不安よね」
更に彼女は一歩一歩モモナリに歩み寄る。
「怖いのよね、目の前に広がる道を歩くのが」
その言葉に、モモナリはようやく顔を上げてカリンと目を合わせた。その目が怯えていることに気づいているのはカリンだけ。
しかし、キリューとクシノは、その言葉の持つ比喩の意味するものを掴むことが出来ない。
「楽しく生きてきただけなのに、人々があなたの前に立つことを恐れたから出来た道……苦難もなければ刺激もない。だからあなたは、その道を歩くことを望まず、人の波に飛び込んで楽しいことを探した」
モモナリは、それを否定しない。
「だけど」と、カリンが続ける。
「人の波の中から楽しいことを見つけるのって、とても難しいのよ。海の中に落としたビードロを探すくらいにね」
彼はそれに目を伏せる、心当たりがまったくない言葉ではなかったのだろう。
「道を歩きなさい」と、カリンは言った。
「道を歩けば、必ずその向こう側からあなたの友人が歩いてくる。あなたと同じ、人々によって空けられた道を歩いてね。暇になったら……人生でも楽しんでなさい」
一泊置いて続ける。
「この勝負は預けましょう。あなたが歩んだ道の先にまたあたしがいれば、その時に続きを」
その言葉を聞いて、モモナリは安心したように息を吐いた。許しの言葉だった、これ以上彼の憧れを汚さぬという開放の言葉だった。
モモナリの体から、更に力が抜けた。キリューとクシノはより重くなった彼の体に、何事かとその顔を覗き込む。
見れば、彼はすでにくうくうと寝息を立てている。緊張の糸が切れ、彼は気絶するように眠りに落ちていた。
「こっちの気もしらずに」と、クシノは皮肉げに言った。だが、その表情は笑っている。
「ありがとうございました」と、キリューは一旦頭を下げ、そして、肩の重さをクシノよりも感じながら起き上がらせる。
「埋め合わせは、必ず」
「必要無いわ、あたしの気まぐれだもの。それに、これで彼が気を変えるかどうかはまだわからない。でも、彼は幸せね」
カリンは、二人を交互に見やった後に一つ問うた。
「教えて、どうしてあなた達は彼を救おうと? いえ、そもそも、どうして彼のことを友人だと? あなた達は、もっと友人を選べる立場にあるはずなのに」
彼女には、それを聞く権利があるだろう。
モモナリという異次元の存在を、どうすれば説得できるかと頭を悩ませていた彼らに「彼を後悔させるのは敗北ではない」と適切なアドバイスをしたのだから。
クシノもキリューも、その質問には一旦押し黙った。
だが、やがてキリューの方から答える。
「俺は、いずれ友達がいなくなるじゃないかと思っています」
クシノは、キリューのその言葉に驚いたようだった。だが、カリンはそれに対して表情を変えない。沈黙をもって続きを求める。
「『キクコ一門』の影響力は、恐らく先生が思っている以上に大きい。十年、いや、五年もすれば、俺は一人のトレーナーを優に妨害できる立場になるでしょう。当然、俺はそんな事を望まない、ですが、周りはそうは思わない。事実、俺の至り知らぬところで俺に手心を加える不届き者もすでに何人かいます。俺はもう、人前では怒れない」
「こいつだけなんですよ」と続ける。
「こいつは『キクコ一門』を敵に回したところで、いや、きっと俺達以外のすべてを敵に回しても屁でもない、だからこそ、大切な友人なんですよ」
しばらく沈黙してから「エゴですよ」と彼は言った。
「こいつがいなくなったら困るから、だから助けてやりたい。俺のエゴなんですよ」
皮肉的な文脈を持っていた。
そんなことはないだろう、とクシノは思っていた。例えそこに自らの立場を鑑みたことがあったとしても、友人を救おうとすることがエゴであるなんて。
だが、カリンは「そうね」とそれを肯定する。
「あなたの言う通り、でも、それを恥に思うことはないわ。友情はエゴよ、そうでなければ、あなたはこの星の全ての人間を救わなくてはならなくなる」
キリューはその言葉に息を吐いた。言えぬことを言いそして救われた。
「あなたは?」と、カリンはクシノを見る。キリューやモモナリは知らぬ顔ではなかったが、彼女はクシノのことを本当に数度しか見たことがない。こうやって面と向かうのは初めてだろう。
彼は一つ深呼吸をしてから答える。
「俺には、大した理由なんてありまへん。ただ、こいつと一緒にいたかったから……理由なんてありゃしません」
クシノは、それを恥ずべきことだと思っていた。
そもそも、自分はモモナリを友人と捉えることすらはばかられるような気がしていた。まだリーグトレーナーですら無い、同じ目線ですら無い。モモナリが自分のことをどう思っているかもわからない。
だが、言葉にこそしないが、キリューは彼のほうが崇高だと感じていた。打算のない真の友情を、彼は持っているのだろうと感じていた。
カリンはそれも否定しなかった。
「そうね、理由がないなら、無いでもいい」
彼女は人一人の重みにそろそろだるさを感じ始めているであろう彼らに笑いかける。
「それより、大変なのはこれからよ。とてもじゃないけど、人生の楽しみ方を知っているようには見えない」
妥当な指摘だ。
真ん中で寝息立てるその男は、遊びも暇つぶしも生業も戦いの男。対戦相手として対面に立つ人間からしか友情を感じられない究極のエゴイスト。
その指摘に、二人は顔を見合わせた。
だが、どちらともなくそれに答える。
「付き合いますよ。友達ですからね」