200-彼は自分こそが中心なのだとガラルで叫ぶ F
穏やかな夜だった。
それぞれの街に続くゲートが照らす照明が、月明かりと協力して障害物のないワイルドエリアの大地をどこまでも照らしてる。
ワイルドエリア、キバ湖の瞳。湖の真ん中にぽつんと浮かぶその島は、理由はわからないが強力なポケモンが住処としていた。
なぜ彼らが他よりも強力でいられるか。
それはもちろん複数の要因が絡んでいるだろう。
彼らは他の同族に比べて打たれ強いかもしれないし、力が強いかもしれないし、素早いかもしれないし、よりタフであるかもしれない。
だが何よりも重要なのは、彼らが自らの強さというものを客観的に見ることが出来ているということだ。だから彼らは自分よりもはるかに強い生物には立ち向かわないし、できるだけそれから離れようとする。
その日その時、そのポケモンたちはその島から姿を消していた。
島にいる二つの群れは、彼らを恐れさせるのに十分だったのだ。
「道を歩いてみるものだね」
片方の群れの主、モモナリがそう言った。足元のベロバーはじっと向こうの群れを睨みつける。あれだけ逃げ出したかったワイルドエリアの、その最も危険な場所においても、彼が恐怖に支配されることはない。
「もう少し早く気づくべきだったのかもしれない」と、彼は続ける。
「道を歩けば、向こう側から『僕と同じような生き物』が歩いてくるんだとね」
ニッコリと笑う。
それは、向こう側の群れの主も同じ。
「そんな回りくどいことを言わなくても、あなたを疑ったりはしませんよ。俺を待ち伏せしたり、おびき寄せることができてる人間がいるなら、ガラルリーグが放っておかないでしょう」
群れの主、ダンデは続ける。
「俺はひどい方向音痴なんです」
「真逆だね、僕は方向には強いよ」
アハハ、としばらく二人は笑った。
その後、お互いは牽制するように黙っていたが、やがてダンデのほうが口を開く。
「あなたを、ガラルに呼んで良かったと思っています」
ん、と相づちを打ったモモナリに続ける。
「我々は、あなたの評判を知っていました、過去にしでかしたことも。あなたがどういう考え方なのかも、大体ね」
「そりゃあ、勇気があるね」
自嘲気味に彼は笑って続ける。
「一体どうして」
「俺はガラルに新しい概念を吹き込みたかったんです。ガラルがこの先も強豪地方として生き残るには、ガラルのトレーナー達のレベルを底上げするには、俺一人では足りなかった」
夜風を感じながら続ける。
「目線を変えたかった。もっともっと貪欲に強さを求めることを、自分こそが世界の中心だと思うことを、恥だと思ってほしくなかった。だから、あなたを呼びました。そうすればあなたは、自分こそが世界の中心だと、このガラルでも叫ぶでしょうから」
モモナリは、怒るでも感動するでもなく、沈黙をもってその次を催促した。
「あなたのような存在が、ポケモンリーグの先に存在するものなのか、それともポケモンリーグというものの根本に存在するものなのかはわかりませんが、それでもあなたを呼んだ意味はあったと思っています。あんなに怒り狂ったキバナを見たのは久しぶりだった」
笑うダンデに、モモナリは同じく笑いを合わせながら首をひねった。
「まあ、よくわからないけど、役に立てたなら良かったよ」
気を許していた。
普通ならば不満に思ってもおかしくない。だが、モモナリもそれで楽しんだ。だからチャラ。そういう男。
そうだ、と、ダンデは提案する。
「もう一つ、聞きたいことがあります」
モモナリもそれを快く許す。
「どうして、ダイマックスをしなかったのですか?」
それは、あの試合を見た誰もが疑問に思っていたことだった、その当事者であるダンデも例外ではない。
予想を立てることはいくらでも出来た。
例えばリーグ戦に向けて妙な『クセ』をつけたくなかったとか、カントージョウトリーグの威権をかけていたからだとか、実は彼はエネルギー問題に関心を持つ活動家だからだとか、単純に使いこなせなかったからだとか、そんなふうに噂を建てることは誰にでも出来たし、もっともらしい理由で自身を納得させることも出来た。
だが、ダンデはそう思っていなかった。彼はモモナリの対面に立った存在として、自分はその真実を知る権利があるだろうと思っていた。そして、モモナリならばそれに答えるだろうと思っていた。
だが、彼の返答はダンデの予想だにしていないものだった。
「君はどうしてダイマックスをしなかったんだい?」
質問に質問で返す。あまり親切とは言えない行動だった。モモナリはダンデの質問の答えを持っているだろう、だが、ダンデはその質問にとっさには答えられない。そもそも彼はあの試合において、ダイマックスをしたではないか。
質問の意味がわからないダンデにモモナリが続ける。
「ガラルリーグの試合は、何試合か見た。その中で僕が興味深いと思ったのは、巨大化したポケモンには通用しない行動があることだ。例えば『ねこだまし』であったり『アンコール』『けたぐり』『くさむすび』『みちづれ』」
それを聞いて、ダンデはモモナリの言いたいことを理解し、苦い顔をする。
風が吹いた。彼らの足元の砂をそれが巻き上げたが、それはまだ砂嵐にはならない。
「そうとも」と、モモナリが続ける。
「いくらドリュウズの攻撃力が優れ、弱点をつけるとは言え、ドサイドンを一撃で落とすなんて芸当は難しい、それが出来ないからそのポケモンは君のパーティに入っているのだろう? 君のラストを引きずり出そうと思えば、あの時僕達は『いちげきひっさつ』を繰り出すしか無かった。そしてそれは成功し、僕達は圧倒的に有利な状況に君達を招待した」
だが、と彼が言ったところでダンデが返す。
「ダイマックスしたポケモンに『いちげきひっさつ』は全然効かない」
彼は目を見開きながらも、少し気まずそうにモモナリから目をそらしていた。
「そうだね、当然ダイマックスしたドサイドンをドリュウズは一撃で落としきらないだろう。そして返しに『ダイアース』を打てば、まあ、あまり考えたくはないけど僕達は徹底的に負けていた。だから僕は、君達がドサイドンをダイマックスした瞬間にそれに合わせてダイマックス、先手を打って『ダイアース』を打とうとした。だが、君はダイマックスしなかった。僕は思ったよ」
モモナリがその先を続けるより先に、ダンデが「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。
彼はそれを謝るべき不敬だと感じていた。
モモナリが語ったことは事実だ。あそこでドサイドンをダイマックスさせておけば、彼はドリュウズにやられなかっただろう。何より彼は、それを知っていた。
それに気づいたモモナリが怒りを覚えるのも無理はなかった。故に謝罪した、認めるべき否しか無かった。
だが、モモナリは「違う違う」と慌てふためいて両手を振る。
「勘違いしているよ、僕は怒っちゃいない」
え、と、ダンデは戸惑いを声にした。
モモナリは続ける。
それはやはりダンデの予想を越えた答えだった。
「僕はあの時思ったんだよ。君というトレーナーは、なんて『不自由』なんだろうとね」
不自由。
その言葉に、ダンデは表情を引きつらせた。
あってはならない。
ガラルで最も強いトレーナーの一人であった男を捕まえて、不自由などと。
だが、モモナリは続ける。
「その理由がわからないほど僕は馬鹿じゃない。わかるよ、リザードンを繰り出すこと、リザードンをダイマックスさせること、それは観客が望んでいることであり、君自身が望んでいることでもある。そのためにワザワザ不利な状況の中に飛び込まなければならないなんて、あまりにも不自由だ」
それは哀れみだった。同情だった。ガラルのすべてがダンデに同情する数日前に、すでにモモナリは彼に同情していた。
モモナリはニッコリと笑った。
「だから僕は『自由』であることを見せつけたかった。『ダイマックスをしない自由』をみんなに見せつけたかった。その上で勝ちたかった。自分でもくだらないなとは思うけれど、まあ、君に嫉妬してたんだろうし、やっぱり少し、怒っていたのかな」
ダンデはしばし沈黙した。
モモナリというトレーナーは、彼が思っていたよりもずっと自己中心的、強ければ何してもいいと思っている、果てしなく『自由』なトレーナーだったようだ。
「でもね、わかるような気がするんだ」
モモナリが続ける。
「ガラルのトレーナーは、その誰もが誰かのためになろうとしている。人より強いことを、人の役に立てようとしている。そんな気がするよ、それが僕のような人間から見れば『不自由』に見えてしまうのかもしれないね」
複雑な表情でそれを眺めるダンデを一切気遣うことなく、彼は続ける。
「でも、君たちのそのような『不自由』がお客さんを熱狂させたり、感謝されることによって、僕のような人間はそのおこぼれに預かれる。ある意味で、僕も君たちの『不自由』に救われている立場だ」
お、と、モモナリは言葉を切る。
湖から吹いてきた風が、彼らの衣服の裾を巻き上げた。
それがおさまるのを待ってから、モモナリが言った。
「だが、今は違う。誰も見ていない」
彼は自分たちを取り囲む湖をぐるりと見回した。当然そこには誰もおらず、ダンデとモモナリが向かい合っていることを知っている人間は、この世にたった二人だけ。
「そして、君はチャンピオンではない、守るべき権威もない」
ダンデは、数日前に行われたチャンピオン防衛戦に敗れている。今の彼を称するならば元チャンピオン、元などというものがつくのは称号などではないとするのならば、彼はポケモントレーナーのダンデだった。
「思いっきり『自由』に戦える」
モモナリははやるベロバーを左手で制しながら、右手でボールを持った。
「チャンピオンの座を守らなくてもいい、チャンピオンとして風格ある戦いをする必要もない」
ダンデは、まるでモモナリが自分と同じ、もしくはもっと年下のトレーナーであるように見えた。ベテランである人間の落ち着きというものが、すでに彼からは消え去っていた。
「観客を意識しなくてもいい、トレーナーや弟の模範になることも意識しなくていい。勝ち負けを気にしなくてもいい、負けたっていい、 僕への報酬のつもりで戦ってもいい、自分が最強であることを僕に叩き込もうとしてもいい、無様に負けた悔しさをぶつけたっていい、いやみったらしく強さへの妬みをぶつけてもいい!」
彼は目を見開き、口調を荒くする。
「最高に『自由』に! 君だけの戦いを! 君だけの感情を! 俺にぶつければいい! 戦うってのはそういうものだろう! 戦うことは『自由』であることだろう! 『自由』であることは、戦うってことだろうが!」
今にも、彼はダンデに食らいつかんばかりだった。
ダンデは、彼の変化に困惑しながらも、それでも自身を強く持った。
並のトレーナーならば飲まれていただろう、そうして彼に飲まれて『不自由』な戦いを強いられていただろう。
「その申し出は、ありがたい!」
彼もボールを持った。
「だが、ここにはあなたがいる。俺はガラルのトレーナーたちの良き壁として、パートナーとして、そして、ガラルの模範となるべきトレーナーとしてあなたに挑む! それこそが、俺が選んだ『自由』だ!」
モモナリがそれに返す。
「おーおー『自由』だねえ! まあ、それでもいいよ、何だっていいよ!」
二人はボールを投げた。
現れたモモナリの一番手が、すぐさまキバ湖の瞳に『すなあらし』を巻き起こす。
「かかってこいや若造!」
その中で何が起こったのか、知る人間はこの世にたった二人だけだった。
☆
「モンスターボールを十個。ああ、包まなくていいです。すぐに売るから」
訝しむ店員からプレミアボールだけを受け取ったモモナリは、ポケモンセンターの自動ドアを通って外に出た。穏やかな日差しが、右手に握られた乳白色のボールを光らせる。
誰かが天気を操りすぎた反動か、その日のガラルは、突き抜けんばかりの青空が堂々と闊歩する晴天だった。悪天候に慣れてしまった彼は、そのあまりにも通り抜けすぎる自然音にくすぐったさを感じる。
足元のベロバーは、まだその晴天に馴れがあった。彼はこの濃密な数日が現実のものであったことを実感し、身震いする。随分と恐ろしいことに身を任せたものだ。
「ヘイ、ロトムフォン」
少しばかり歩いてベンチに腰掛けたモモナリは、ベロバーに買ってやったおいしい水を手渡しながら言った。
『ハイロト!』と、スマートフォンが『ふゆう』する。
「カレンダーを」
『予定はこうなっているロトよ〜』
モモナリは恐る恐る画面を指で触れながらそれを眺める。
ありとあらゆる予定をぶち抜いて作り出した超長期休暇には、まだ余裕がある。最も、ガラルでのエキシビションに関してはカントーポケモンリーグ協会も絡んだ仕事だったから、そこまで長い休暇だったわけではないが。
「リストを」
『ハイロト』
映し出されたそれを見て、モモナリは思わず笑ってしまった。
なんともまあ、無茶苦茶な願いばかりを書き込んだものだ。
自分がやるべきことを予めリストにしておくと便利でモチベーションアップ。空港のフレンドリィショップで立ち読みした雑誌のそれを鵜呑みにしたのがガラル出発前、そんなもんかと作ったリストは、なんともメチャクチャな予定ばかりであった。
「あんまり、意味がなかったな」
モモナリは指先で画面に触りながら『ダンデくんと戦う』の項目に斜線を引いた。これで作ったリストの殆どは斜線で消されたことになる。
残った項目を眺めながら、彼は「うーん」と唸った。できそうでもあるし、できなさそうでもある。
その時だ、晴天の中を、アーマーガアの鳴き声が響き渡った。
彼がその方を見ると、一匹のアーマーガアが空を飛ぶタクシーとして仕事をしている。その鳴き声は、自らを鼓舞するためか、それとも客である観光客へのサービスか。
モモナリはしばらくそれを眺めた。
そして言った。
「そのリスト、消去しといて」
『いいロトか? 一度消すと元には戻らないロトよ』
「いいよ、構わない」
彼は立ち上がった。
「やりたい時に、やりたいことをやるさ」
大きく伸びとあくびをして続ける。
「僕はカントーに帰るよ」
それを、ベロバーはペットボトルの飲み口を舐めながら聞いていた。
☆
ワイルドエリア北西『げきりんの湖』
名称のもとにもなった湖を越えると、そこにはワイルドエリア本土とは隔離された土地が広がっている。
「へえ」と、砂を踏みながら彼は呟いた。
晴天の空は、そこをどこまでも素直に彼に見せている。
「縄張りにするわけだよ」
そう言って、彼はボールを投げた。
現れたのはドリュウズだった。知る人ぞ知る『砂の王』は、自分が治める国に戻ってきた。
「協力、感謝してるよ」
モモナリは彼にそう言った。そしてドリュウズもそれに頷く。
複雑な心境だった。
この男についていけば、もっともっと自分を高めることができるだろう。
だが、この男についていくということは、この土地を捨てるということ。
それができるほど、彼は思い切ってはいなかった。
キュウキュウと鳴き声を上げながら、ベロバーがドリュウズに歩み寄った。そして彼らは頬を寄せ合って別れの挨拶をする。
不思議なものだ。
片やワイルドエリアを縄張りにする王、片や野生を嫌がり街に逃げたポケモン。
短い間であったが、彼らはそれぞれを認め、そして尊重した。別れを惜しむ程度には。
「ああ、待って」
彼はもう一つボールを投げる。
現れたのはバンギラス。ローズの狂乱の際にモモナリが捉えたポケモンだ。
彼が現れたことによって『げきりんの湖』に『すなあらし』が巻き起こった。
「うん」と、モモナリが周りを見回しながら頷く。
「このほうが良いね」
べロバーと挨拶を交わしたバンギラスは、今度はモモナリを見る。
「あまり、人間を恨んでくれるなよ」
モモナリの考えは杞憂だった。
ダイマックスによる巨大化に最も戸惑っていたのはバンギラス自身だった。その原因が人間であることを彼は知らないが、自らを鎮めてくれたのが人間であることは知っている。人間を恨むはずもない。
だが、彼もまたドリュウズと同じ様に、まだこの土地を捨てるつもりはなかった。
「またガラルに来たらそのときはよろしく!」
モモナリの声を背に受けながら、彼らは『すなあらし』の向こう側に消えた。
後にワイルドエリアのキャンパー達は、優れたコンビネーションととてつもない強さで『げきりんの湖』を支配する『砂嵐の王達』の噂を広める。彼らは相変わらずとんでもない強さだったが、以前ほど人間に対し凶暴ではなくなったようだった。
☆
シュートシティ。
ホテルロンドロゼからチェックアウトしたモモナリは、防水だということだけが取り柄の小さなリュックのみという出で立ちでそこを闊歩する。
随分と軽くなったベルトには、記念に購入したガラルのプレミアボールがセットされている。別地方に行くたびに真っ白なそれを集めるのが、彼の趣味だった。
ゆっくりと歩きながら、彼は考えた。
「さて、問題はお前をどうするかだよなあ」
振り向いた先には、着いてくるベロバーがいる。目線を上げてモモナリを見上げる彼もまた、大いに悩んでいた。
「もう十分に野生でもやっていけると思うんだけど」
わざマシンと実践の中で鍛え上げられた動きのおかげで、彼のレベルは随分と上がっている。そこら編の草むらは当然として、ワイルドエリアでだってたくましく生きていけるだろう。
だが、彼はモモナリのそばを離れない、本来ならば、モモナリの手持ちですらないのにだ。
「ボックスに預けてカントーの規制緩和を待ってもいいけど、何時になるかなんてわかりゃしないなあ」
立ち止まり、しばらく彼は考える。
「別に一匹ぐらい持ち込んだって大した問題にはなりゃしないよね」
倫理観のかけらもないモモナリの発言の意味を知ってか知らずか、ベロバーは行動を起こした。
ぱっ、と、彼は目にも留まらぬ『トリック』でモモナリのベルトからプレミアボールを奪い去った。そして、彼はそれまでおとなしくモモナリに従っていたのがまるで演技であったかのように、そのまま彼から離れていく。
「なるほど」と、一つ呟いて、彼はしばらく離れていく彼を目で追った。
しかし、彼もすぐさま行動を起こす。
彼もまた、スニーカーを生かした爆発的なスタートダッシュでそれを追った。旅先で身軽なのは、こういう事があっても良いためだ。
『逃したほうが都合が良くないロトか? プレミアボールはまた買えばいいロト』
ポケットから飛び出したロトムフォンが言う。確かに、彼の言うことはもっともだ。
だが彼はそれをすぐさま否定する。
「遊びに誘ってくれたんだ、全力で楽しまないと」
その言葉に呆れながら、ロトムは言う。
『地図を出すロト』
だが、モモナリはそれにも首を振る。
「いいよ、もう覚えてる」
その行動に、なにか意味があったわけではない。
目の前に現れた『リフレクター』を、あえて難しい方にかわしながら、ベロバーはしっかりとプレミアボールを胸に抱えて走った。
モモナリの魂胆はわかっている。
現れる『リフレクター』を、効率よく、華麗に、素早く避けると彼の思う壺。狭い方狭い方、追い詰めやすい方追い詰めやすい方にに誘導され、やがて捕まる。
どんなに効率が悪くても、どんなに無様でも、どんなに時間がかかろうとも、甘えない方に逃げるほうがいい。この人間は知ってか知らずか、生物の行動を手玉に取ることにかけては一流だ。共に戦った彼はそれを知っている。
しかし、次に現れた『リフレクター』を、今度は避けやすい方にかわす。そろそろ引っ掛けてくる頃だ。
ベロバーは学んでいる。その人間と戦うには、自分を強く持たねばならぬ。少しでも怯えれば、恐れば、迷えば、必ず食らいつかれる。
狭い方には決して逃げない、広い方広い方へと逃げる。そうすれば追い詰められない。逃げ切れる。
逃げて、逃げて、逃げ続ければ、モモナリはずっと自分を追うだろう。
そうであってほしかった。
どんな形であれ、その人間との関わりを断ち切りたくはなかった。
分かっている、叶わぬ願いだ。その人間はここを去るし、自分がそれについていくわけにはいかない。
どうすればいい、どうすればいいと、考え続けた後に飛び出た行動だった。彼のものを奪えば、彼は自分追うだろうし、その後には、なにか奇跡が起きるのだ。
『リフレクター』
広い方へ。
『リフレクター』
広い方へ。
やがて彼は通りを抜けた。その先には橋がある、シュートシティを流れる大きな用水路を渡る橋が見える。
だが、その先はホテルロンド・ロゼがあるだけの行き止まりだ。
誘い込まれていたのだ、とベロバーは気づいた。
だが、それがいつからなのかわからない。
現れる『リフレクター』を、自分はきっちりとモモナリにとっては都合の悪い方に避けたはずだ。なのになぜ。
もしかして、はじめからそういう道を歩いていたのか、と、馬鹿な考えさえ浮かぶ。
だが、今の彼にはわからない。
背後からスニーカーが石畳を叩く音が聞こえる、あの武闘派ピクシーの足音も一緒だ。
どうする、どうする。
諦めるか。
それとも、この橋を渡り、奇跡を信じて行き止まりまで向かうか。
ボールを捨てて逃げるか。
そして、彼は今一番考えなかったことを実行することにした。
彼は橋から飛び降りた。
用水路の水は彼の軽い体を優しく受け止めた、彼はそのまま用水路の端、壁際の浅瀬を橋から離れるように走る。
「考えたな!」
モモナリのわざとらしい大声が聞こえた。彼はそれに振り返らずに走る。
それにかまっている暇はない、今自分が走っているのは水辺、ということは、あいつが来る。
そう思った次の瞬間には、ポケモンが用水路に繰り出される水音。
振り返らずともわかる、あのとんでもないポケモン。アズマオウの登場だ。
尾びれが水を叩く音、美しさのかけらもない音。
あっという間だ、彼がその小さな歩幅で稼いだリードはあっという間に詰められるだろう。
あるいはこれもモモナリの狙いだったのかもしれない。自分を水辺に追い込み、アズマオウの舞台に引き込む。
だが、それを後悔している暇はない。
彼はそれを引きつける、引きつける。
そして、その恐ろしい遊泳音が直ぐ側にまで近づいてきたその時。
ベロバーは振り返って思いっきり『いばる』
アズマオウはその行動に我を失った。『こんらん』した彼はベロバーを捉えきれず、水路の壁に激突する。相手の力を利用する『イカサマ』攻撃が、気持ちが良い程に決まった。
ベロバーはちらりと向こう岸を見やった。手すりから身を乗り出しそうになっているモモナリが悔しげに表情を歪ませている。
勝った。とベロバーは思った。
彼は『リフレクター』を壁際に階段状に配置しそれを登る。
モモナリと反対側の通路に移るつもりだ。
橋は随分と向こう、空を飛ぶポケモンを持たないモモナリは必ず橋を渡らなければならず、その分時間をロスするし、自分を見失うだろう。
逃げ切った。
その事実に、寂しい気持ちも重なった。だが、彼はそれを押し込める。
どちらもなんて贅沢だ。
この後は、この人間から逃げ切ったという誇りを胸に抱いて生きていくのだ。
階段を登りきった彼は、向こう岸のモモナリを確認しながら、手すりを飛び越えて通路に飛び降りる。
そして、声を聞いた。
「ありがとう、楽しかったよ」
そう言ってベロバーを見下ろしているのは、用水路を挟んで向こう側にいるはずのモモナリだった。
なぜだ、と、ベロバーは思わず逃げるはずの相手から目を切って振り返る。
そして、用水路を挟んで向こう側にもモモナリがいるのを確認した。
彼は混乱した。
そんな彼の様子を微笑ましげに眺めながら、モモナリは用水路をぐるぐると回るアズマオウを手持ちに戻す。
向こう側にいるモモナリも同じ様に動き、ボールを掲げた。
だが、実際にアズマオウが飛び込んだのはこちらのモモナリ。
向こう側のモモナリ、ピクシーの『ひかりのかべ』によって映し出されたそれは、ゆっくりと消えた。
からくりを知ったベロバーは絶望と共に、あらためて人間の悪知恵に驚かされる。
「よく頑張った」と、モモナリはベロバーを褒める。
「お前なら、やっていけるさ」
彼はベロバーの頭を撫でようと腰をかがめて右手を伸ばした。
だが、それを払いの受ける第三者が一人。
それは突然のことだった。
一人の少女が、彼らの間に割って入ったのだ。
「やめてあげて!」
先日チャンピオンになったトレーナーよりも更に若いであろう、児童と言ってすらいい彼女は背を丸めてベロバーに覆いかぶさる。
「かわいそうだから!」
ベロバーもモモナリも突然のことに驚いていた。それまで悪知恵を競っていた彼らは、突如思考能力を失う。
「悪いと言われても」と、モモナリが頬をかいた。
「そいつが僕のボールを取ったもんだからさあ」
あまりにも小さい子供に自らの正当性を主張する彼のなんと滑稽なことか。しかも、その主張すら半分ウソであるという。あくまでそれは理由であって、モモナリは心の底からそれを楽しんでいた。
しかし、その少女に彼の主張は届かない。
彼女はそれでもベロバーを守るように抱きかかえる。
仕方のないことだ、事情を知らぬ彼女から見れば、どう考えても小さな生き物をイジメる大人の図だ。
「あまりにも無謀だよ」
モモナリは少女に呟く。
「君は無力すぎる」
彼女の小さな体は、わがままを通すにはか弱すぎる。その先を予測できるほどの考えが至らぬ事は間違いない。
やろうと思えば、モモナリはいとも簡単に彼女からベロバーを引き剥がすことができるだろう。その事実を理解していないのは、この世界で彼女たった一人。
「大丈夫だから」と、彼女はベロバーを更に強く抱きかかえる。当然その言葉に根拠などない。
ふう、と、モモナリはため息を付いた。
そして彼はベロバーを見る、ベロバーもモモナリと目線を合わせたが、一瞬の躊躇の後、今度は自らを抱きかける少女を心配そうに見つめた。人間に心配されたのは初めての経験だった、そして、それをどう昇華するべきなのか、彼はまだ知らない。
「わかった、わかったよ」と、モモナリは両手を上げ、彼らに背を向ける。
「しっかり守ってあげな」
離れていくモモナリを見て、少女は嬉しそうな声を上げながらベロバーを抱きしめる。
ベロバーはモモナリの背中を追った、そして、少女の体温を感じてもいた。
わけが分からなかった。
人間を困らせるのは好きだ、怒らせるのは好きだ。だが、人間を恋しいと思ったことはない。
彼の中に渦巻く感情が、やがて彼の瞳から溢れる。
溢れた感情は一つではなかった。だからこそ、彼の頬を二筋の涙が流れるのだろう。
彼はパートナーを失い、そして、パートナーを得た。
『いいロトか?』
シュート駅に向かうモモナリの周りをロトムが『ふゆう』する。
モモナリは鼻を鳴らしてそれに答えた。
「良いも何も、それ以外ないだろ。これがベストだ」
続ける。
「無謀だが、勇気のある子だった」
しばらくモモナリは道を歩いた。
一ブロックほど歩いた後にモモナリが呟く。
「軽率な行動だったかもな」
それが何を指しているのかは、ロトムにも理解できる。
モモナリがその先を続けようとした時に、やはり再びそれを邪魔する声が背後から。
「こらー! 一騒ぎ起こしたのはお前らか!」
年齢の割に甲高い声にギョロついた目。はるか遠くでもわかる、数日かぶりの警官だ。
モモナリの行動は早かった。「ヤバ」と言った瞬間にモンスターボールを投げている程度には。
現れたカバルドンは『すなあらし』を巻き起こした。警官の視界が悪くなる。
「逃げよう」と、モモナリが呟く。
「流石にカントーまでは追ってこないでしょ」
ガラルの空は青い。
彼の『すなあらし』はその一瞬だけ皆の視界を遮るだろうが、きっとすぐに晴れるだろう。