153−第四回ガブリアスナンバーワン決定戦
「出演依頼だそうだ」
オフシーズン、久しぶりにポケモンリーグ協会に呼び出されたモモナリは、昔に比べれば最近は品行方正なんだけどなあと首を傾げながらそこに訪れた。
小さな会議室でモモナリを待ち構えていた理事の一人であるオークボは、短くそう言ってモモナリに書類の束を手渡した。
「へえ」と、とりあえず怒られるわけではなさそうだなと安心し、どことなくデジャヴを感じながらそれを手にとったモモナリは、そこに書いてある文字に驚きながらそれを読み上げる。
「『第四回ガブリアスナンバーワン決定戦』ですか」
派手派手しいロゴの直ぐ側には、モモナリでも知ってる有名テレビ局のマークがあった。
この番組やこれに類似する番組の存在はさすがのモモナリでも知っている。芸能人や特別な実績を持ったゲスト達が、手持ちのポケモンたちを出し合い、様々な競技で競い合う。有名なテレビ番組だ。
モモナリはさらに書類をめくったが、そこから先の内容はあまり頭に入ってはこない。
「これ、僕らが出ちゃ駄目なやつでしょ」
ため息を付きながら、モモナリはその企画書を長机の上に放った。
ナンバーワン決定戦、と銘打ってはいるが、結局の所それは、その番組に呼ばれた芸能人や著名人の中でのものだ。これまでこの番組に現役のリーグトレーナーが出たなんて聞いたことがないし、出ようと思ったこともない。
なぜならば、プロであるリーグトレーナーが、いわゆるアマチュアである彼らの中に入ってその技を競うなど、考えられないことだからだ。モモナリのこの反応は、彼らがプロであることを考えれば当然と言える。
「どうしてもプロを出したいと言われてな」
その企画書をオークボが再び手に取り、数ページめくる。
「それに、予定されてる出場者も悪くない、現役はいないけどな」
再び差し出された企画書をモモナリが確認する。出場予定と書かれているそこには、確かに名の知られるトレーナーたちが書かれている。そのうちの一人はタレント業を営んでいる元リーグトレーナーだった。
更に目を通すと、育て屋、コーディネーター、評論家と続き、アイドルの名前もある。
「アイドルって、あぶねえなあ」
そしてモモナリは、そこに自分の名が書かれていないことに気づき、更にある名前を見つけて苦笑する。
「ニシキノくんの名前が書いてありますけど」
それは、モモナリと同じくリーグトレーナーのニシキノだった。確かに彼はパーティの柱の一つとしてガブリアスを持っているし、その力も折り紙つきだ。
「断られたんだよ、わかるだろうそのくらい」
同じく苦笑しながら、オークボが悪びれること無くそういうものだから、モモナリは更につられて笑った。あまりにも非礼な一連の流れだが、付き合いの長いオークボ相手に、モモナリが怒ることはない。
モモナリの知る限り、ニシキノというトレーナーはプロであることにかなりのプライドを持っているタイプだから、断るのも無理はないだろう。
「オークボさんの頼みだから受けてあげたいですけど、流石にねえ」
渋るモモナリに、オークボが「最後のページを見てみろ」と促す。
促されるままにそれをするモモナリ、最後のページには、この番組に参加する数々のスポンサーと共に、この大会における商品が書かれていた。
優勝賞品そのものには、特にモモナリの食指が動くことはなかった。何やら高級なんだろうが、彼にとっては何の価値もないようなものだったから。
だが目を見張ったのはその副賞、なんとそれは、最近タマムシシティにオープンしたマラサダショップのシーズンパスだった。当然何でもかんでも食べらるというものではないだろうが、一日数個くらいなら、自由に注文できるだろう。
「そうかあ」と唸りながら、モモナリは慌てて企画書を胸の位置にまで引き上げた。ボールの中にいるあいつにそれを勘ぐられようものなら、今すぐにボールから飛び出て、企画書をびしょびしょにしかねないからだ。
「出てもいいもんですかね」
もう一度確認するように言うモモナリに、オークボが答える。
「本気でやっていいぞ、良いアピールだ。住み分けってのはしっかりとやらないとな」
☆
『あるドラゴン使いの達人はこう言いました。かつて龍は天災であり、人が抗えるものではなかったと!』
モモナリはガブリアスと他の参加者たちと共にセットの上に並び、腕組みを強いられていた。
有名な男性アナウンサーの煽りと共に強い照明が次々に自分たちを照らす。ガブリアスはそれに耐えられるだろうが、人間からすればかなり熱い、モモナリは過去に一度だけ教育番組に出演したことがあったか、その時とは比べ物にならなかった。
『しかし時を経て、人間はトレーナーとなり、ドラゴンと共に生きることを可能にしました! 今宵、龍の中でも特別な強さを持った、最強の生物の一角、ガブリアスを操ることの出来るプロフェッショナルが集まりました!』
タレント、評論家、育て屋、アイドルなどと参加者の肩書が叫ばれ、最後にリーグトレーナーであるモモナリが紹介される。その瞬間、多くの照明が自分を捉え、そこにいる人間すべての視線をモモナリは感じた。
『本日、ついにリーグトレーナーがこの戦場に現れました!』
読み上げられるモモナリの経歴、随分と立派だなと彼は他人事のように感じていた。
☆
「あっついなあ」
オープニングの撮影終了後、手渡されたペットボトルの蓋を捻りながらモモナリがつぶやいた。右腕の傷を映さないように長袖を着ているから余計にだ。
「あっついよなあ」
彼は腕を伸ばして、ガブリアスの頭に水をかける。いくら乾燥に強い種族とはいえガブリアスも少しそれに参っていたらしく、彼女は口が必要以上に大きく開かないように装着されたハーネスの隙間から舌を出して、滴る水を味わうが、彼女はそれがあまりにも下手で、あまり喉の渇きを潤せていなかった。
「相変わらず下手だなあ」
モモナリは苦笑して、ペットボトルをそのまま彼女の口元に持っていく、彼女はようやく喉を潤した。
さて、水を全部使い切ってしまったからもう一本貰わないとな、と、モモナリがスタッフを探すと、「飲みなよ」と、彼にペットボトルが差し出された。
「どうも」と、モモナリがそれを受け取り礼を言うと、その差出人の男は、この大会の参加者の中で、唯一モモナリと面識のある男だった。名をカタヤマと言って、元リーグトレーナー、今ではタレントとして活躍している男だった。
「久しぶりだな」
カタヤマはモモナリに笑いかける。暑苦しいが、妙な説得力を感じる笑顔だった。タレントとして成功している理由の一つだろう。
「ええ」とモモナリは答えて「こっちはよく見てますけどね」と軽く言った。
カタヤマは更に笑って「そりゃお互い様だろう、俺だってリーグ戦の中継でよく見てるよ」と軽く返す。
「俺がもう少し強けりゃ、もっと顔を合わせることもできたんだろうけどな。皮肉なもんで、現役だったときよりも、引退したときのほうが、テレビに出てるんだ」
カタヤマはモモナリより幾つか年上だが、リーグトレーナーになったのは二十歳を超えてからだった。しかもCリーグを勝ち抜くことはできず、モモナリと戦ったのもリーグの順位が無関係なシルフトーナメントや非公式の試合ばかりで、その後ひっそりと引退した。
そのような経歴を持ちながら、モモナリと笑顔で話し、自虐ネタを交えることが出来るのは、彼がそれを悪しき経験だとは思っていないからだろう。
しかし、と、話題を変えるための接続詞を喉を鳴らしながら言って、彼は続ける。
「お前が出ていいもんじゃないだろう」
「それは僕も思いますがね、仕方がないでしょう、依頼が来たんだから」
「景品が狙いか? ありゃあここ数年で一番の奮発だ、今年は俺だと思っていたんだがなあ」
「そんなんじゃないですよ、なんだったらあげてもいいです、副賞はもらいますけど」
副賞、という言葉にカタヤマは首をひねり、それを思い出しながらモモナリの横にいるガブリアスを見上げ、苦笑する。
「箱入りだな」
その時、カタヤマの背後からガブリアスがヌッと現れ、モモナリのガブリアスに近づいた。
彼は彼女の首筋を歯先で撫でるような、ドラゴン同士のスキンシップの行動を図ろうとしたが、彼女はそれを嫌ってぐいと手で彼を押しのけ、モモナリの背後に回ってから小さく呻いた。
「人間に育てられたのが原因か、あまり他のガブリアスと馴れ合わないんですよ。お高く止まってると言った感じなんでしょうが」
困ったように言うモモナリの言葉の意味を理解しているのかしていないのか、カタヤマのガブリアスは尚くじけずに果敢なアタックを決めようと鼻息を荒くしたが、「お前にゃ無理だよ」と、カタヤマが笑う。
「高嶺の花もいいところだ」
そうでもない、とモモナリは思った。彼のガブリアスは少し小柄だが、そのぶん小回りの効く素早さがあって、それに随分と苦労した記憶がある。
何より、引退から随分立つというのに、未だにその体が実践的に鍛え上げられている。彼自身の資質もあるだろうが、カタヤマがまだそれを忘れていない証明だ。
「だったらここで友達を探してみるのはどうだ、うってつけだろう。何か気に入ったガブリアスでも見つければいい」
なるほど、とモモナリは思った。
しかし、誰でもというわけではない、友人関係はしっかりしないと。
カタヤマのガブリアスなら悪くないのだが、本人が嫌ってしまっている以上仕方がない。
そしてモモナリは、ぐるりと周りを見渡す。
まず目についたのは鍛え上げられた上半身を持つガブリアスだが、アレは駄目だ、筋肉が付きすぎて柔軟性を疎かにしているだろう。お断りだ。
その次に目についたは長身で細身のガブリアスだが、アレも駄目、細けりゃいいと思ってる。お断り。
アレも駄目、歯が汚い、アレも駄目、緊張感がない。アレも駄目、進化して日が浅い。
その次に目についたガブリアスは悪くない、肉体に均整が取れているし冷静沈着な雰囲気が見て取れる。だが。
「自分のポケモンじゃないじゃないか!」
思わず出てしまった大声に、一瞬周りがモモナリに注目するが、やがて元に戻る。幸いにも、参加者の中に他人から借りたポケモンであることを公言しているトレーナーがいたので、その発言が資料をよく読んでいないうっかりやの早とちりだと受け取られたのである。
しかし、モモナリの目線は明らかにその参加者ではない人物に向いていた。オープニングで評論家と紹介されていた人物だとモモナリは記憶している。
慌ててカタヤマがモモナリの視線を変えさせて、小声で伝える。
「あの人はもう仕方ないんだよ、毎年毎年変えてくるんだ。まあ、俺とおまえ以外にはバレてないんだろうが」
「普通わかるでしょ、明らかにあの人には従っていない」
「だからこの番組は素人揃いなんだって、あの人だってバレてないと思ってる」
お断り。
結局これといって目につくガブリアスはいなかったな、ともう一度だけぐるりと回りを見渡した。
その時、モモナリに衝撃が走った。
均整の取れた肉体、それでいて実践的な筋肉がついていることが歩く姿を見ただけでわかる。程よい緊張感を持って神経を張り詰めさせ目付きが鋭い、何よりトレーナーへの信頼感が素晴らしい、トレーナーと彼が素晴らしい関係を構築できている。
まさか、まさかこんなにも素晴らしいガブリアスにここで出会えるとは思わなかった、リーグトレーナー、しかもAリーガーと比べても遜色がない。
「じゃ、またあとで」
早口のモモナリにカタヤマが戸惑うよりも先に、モモナリは足早にそこを去り、ガブリアスはカタヤマのガブリアスを一睨みしながらそれに続いた。
☆
「どうぞ」
少し崩れた髪型を手早く治しながら、チカは控室をノックした人物に答えた。
扉を開けた人物に、部屋にいたマネージャーとガブリアスが反応する。その男、モモナリは、同じくガブリアスを引き連れ、目を輝かせながら部屋に入ってきた。
「どうも」と、モモナリはマネージャーに会釈した後に、チカのガブリアスを見つめて言う。
「素晴らしいガブリアスだね。いやはや、近くで見るとより素晴らしい」
リーグトレーナーとしての威厳など何一つ無い、無邪気な子供のようなその態度に、チカは少し含みのある満面の笑みを作って答える。
「はい! 知り合いのおじさんから借りたガブリアスちゃんなんですぅ」
満面の笑み。それは、普段彼女が自らのファンに向けるそれと同じだった。アイドルとして売出し中の彼女にとって、笑顔はそれ以上無いほどの商品であり、モモナリもその消費者だった。
モモナリの来訪を、チカも、そのマネージャーも特に不思議には思っていなかった。男が若いアイドルの控室を訪れる権利を有していれば、ほとんどの人間がそれを行使するだろう。ガブリアスを褒めることも、それは間接的に、彼女の気を良くするために違いないと。
「生まれは何処だい」
モモナリが気まずそうにしているガブリアスから目をそらさないままチカに問う。
それもまた、慣れた質問だ。
「ごめんなさいぃ、みんなのアイドルチカちゃんはぁ、出身地不明なんですぅ」
いかにも、と言った風に両手を顔につけて答える。同性には不評だが、男なら大抵これでイチコロだ。
マネージャーが、そろそろ、と動こうとした時、モモナリが「当てて見せようか」と、急に彼女に視線を変える。
「フスベシティか、ソウリュウシティだろう」
ふん、と、マネージャはそれを鼻で笑った。全くナンセンスな選択だ。フスベシティは田舎だし、ソウリュウシティは遠すぎる。マネージャーとしてそれを許す気はないが、女性の気を惹くにはダメダメだ。
だが、チカの方はそれに営業スマイルを返す余裕はなかった。彼女は基本的にプロフェッショナルで、大抵のことではその精神を乱れさせることはない、だが、その質問は、彼女を動揺させるののに十分だった。
「ちょっと、外してくれないかしら」
急に口調を変えて、チカがマネージャーに言った。彼がそれに対してなにか疑問を唱えようとしたが、チカが彼の名を強く呼んでそれを促したので、多少訝しみながらも、控室から出ていった。
控室に残ったのは、モモナリと、チカと、それぞれのガブリアス。
そうなった途端、チカのガブリアスはその緊張感を解いてのそのそとチカのもとに歩み寄り、甘えるように首を下げる。
彼女は彼の首筋を慣れた手付きでくすぐり、のどの音を奏でながらモモナリに問うた。
「あなた、ストーカーか何か」
「いや、別に」
「でしょうね」
ふう、と、チカはため息をつく。
「ならどうして、わかったのよ」
まだその主題が出てきてはいないが、モモナリはさも当然のようにそれに答えた。
「どうしてって、ガブリアスの鍛え方が一目瞭然じゃないか」
「人から借りたポケモンだって言ったわよね」
「そんなわけないよね、彼はずっと君を見ていたし、君を守っていた。他人から借りてるポケモンがそれが出来るのなら、その育て屋はこの業界を独占してるよ」
チカの反応から、それが核心であることを確信しながら、モモナリは続ける。
「これだけの信頼感は、五年や十年じゃあ作られない。もっと昔、お互いに子供の頃からの付き合いが必要だ。ドラゴン、しかもガブリアスと子供の頃からの付き合い、しかもこれだけのガブリアスを育て上げる事ができるのは、ドラゴンつかいの一族意外にはありえないね」
ついにその名前が出た、彼女はガブリアスをくすぐっていない方の手で額を抑えながら「あーあ」と、更に深い溜め息をついた。
「リーグトレーナーが来るって聞いてから、なんとなく嫌な予感はしていたのよね」
「気づかないほうがどうかしてるよ」
「あなたがこの世界の常識じゃないのよ、普通気づかない」
ずしり、と、モモナリの肩が重くなり、竜の吐息が頬を撫でる。彼があまりにも自分をほうっておくものだから、ガブリアスが自身の存在を主張していた。
「ごめん、ごめん」と、彼が彼女の首を掻き、やはりこちらも喉を鳴らした。
「エリートじゃないのよ」と、チカがガブリアスから手を離して言う。
「フスベやソウリュウなんて、そんな聖地の生まれじゃないわ。分家も分家、一族の中でも何の力も無い。だけどお父さんがプライドの塊みたいな人でね、あたしにもガブリアスを持たせたってわけ」
「人から借りたことにする理由は?」
「それこそ、普通に考えればわかるでしょ? あたしはみんなのアイドルチカちゃんよ。か弱くて、少し抜けてて、誰かの助けを借りないと一人で歩くこともできないような、そんな子なの。それが子供の頃からドラゴンと暮らしてて、自分でガブリアスを育ててるなんて、口が裂けても言えないわよ」
へえ、と、モモナリは興味なさげに答える。彼はその意味がいまいちわかっていないようだった。
チカは、そんな彼の反応に少し苛立ちながら続ける。
「それで、どうするつもり。食事でもご一緒すればいいのかしら」
多少含みのある言葉だったが、モモナリはキョトンとした表情で首を傾げる。
「どうするって、別にどうもしないよ。ただちょっと、確認したかっただけ。すごく良いガブリアスを見つけたから、こいつと友達にどうかなと思ったのが一つ」
不意に名を呼ばれたモモナリのガブリアスが、顔を上げてチカのガブリアスを見つめる。チカのガブリアスもまんざらでもなさそうにその視線を返していたが、それ以上、何かに発展はしない。
「もう一つは?」
チカの質問に、モモナリが答える。
「今日はつまらない日だと思っていたんだけど、少し、楽しみができた」
小さく手を振って控室を後にしようとしたモモナリの背中に、チカが声を掛ける。
「本気は出さないわ」
どうして、とモモナリが言うよりも先に、彼女が続ける。
「チカちゃんはね、ちょっと天然入ったお馬鹿なアイドルなのよ。それが自分と息ぴったりのガブリアスと一緒に、リーグトレーナーといい勝負師したらおかしいでしょ」
「じゃあ、わざと負けると」
「そうよ、あなたにはわからないでしょうけどね、あたしはこれに人生かけてるのよ。プライドだけで何の力も無い両親に逆らって、ようやく掴んだチャンスなの」
モモナリは、なんとなくふんわりと彼女の境遇を察する。
「まあ、考え方は人それぞれだから、別に良いけれど」
モモナリは彼女からその後ろにいるガブリアスに視線を変え、彼を指さして言った。
「君のガブリアスは本当に素晴らしいし、そこに嘘は無いね」
☆
「ガタイだけなら、いい勝負だと思うんです」
モモナリの隣でスタートの合図を待つ育て屋のトレーナーは、体格でモモナリのガブリアスを大きく上回る自らのガブリアスを目を輝かせながら眺めて言った。
最初の競技は綱引きのような競技だった、ルールは単純明快、背中にロープが繋がれたチョッキをそれぞれのガブリアスが着用し、スタートの合図とともにそれぞれが引っ張り合う、後ろ向きの綱引き。
トーナメントの一回戦で対戦するそのトレーナーは、育て屋として業界ではある程度知られた男だった。最大手、というわけでは無いが、中堅どころではある。
彼の連れているガブリアスは、その種族では大きな体格と、鍛え上げられた筋肉を持つものだった。モモナリのガブリアスと比べ、どちらに力があるかと聞かれれば、一見では優れているように見える。
「そりゃ勿論、それだけじゃないとは思いますけどね」
「いやいや、ここまで鍛え上げたのは立派ですよ、並大抵の努力じゃない」
スタートの笛が吹かれた。
それぞれのトレーナーの声によって、二匹のガブリアスはどんどんとその距離を離し、やがてロープが張り詰め、それぞれのガブリアスは床に這いつくばる、その体勢がこの競技におけるセオリーであるからだ。
序盤、リードしていたのはモモナリ側だった。スピードのアドバンテージを活かし、相手に比べ多くの距離を走れたからだ。
だが、時間を掛ける内に、徐々に育て屋側のガブリアスがラインを上げる。純粋なパワーならば鍛え上げられた彼のほうが上。
育て屋は、それ以上無いのほどの大声で、ガブリアスに檄を飛ばしていた。距離を考えればそれほどの大声は必要ないのに。
それは、元々彼があがり症なのを誤魔化している事も、対戦経験が少ないのでその塩梅を知らない事も当然あるだろうが、何よりも、このまま自分の思い通りにことが進めば、リーグトレーナーに勝利することが出来るということが大きいだろう。
モモナリのガブリアスも床に這いつくばって耐えてはいるが、それでも徐々に引きずられ、ラインを下げる。
モモナリは、まだそれを見つめるだけで何も指示は出さない。
だが、やがて勝負が決まろうとした時、モモナリが声を上げる。
その時、モモナリのガブリアスが吐き出すような鳴き声と共に少し上体を高くし、足により力を込める。
すると今度はどちらも動かない膠着状態となった。育て屋は更に声を張り上げ、今度はモモナリも多少大声で檄を飛ばす。
根負けしたのは育て屋の方だった。口で行う荒い呼吸と共に彼はズルズルと引きずられ、それまで培ってきたアドバンテージすべてを手放し、ラインを割った。
勝敗を分けたのは、スタミナの差だった。見事に鍛え上げられたガブリアスの肉体は、その分稼働に必要以上の体力を要していた。
笛の音と共に、モモナリの勝ちが宣告される。モモナリはすぐさまセットに駆け上がり、ガブリアスを激励しながら頭をなで、呼吸を整えさせた。
「いいトコまでは、行ったんですけどねえ」
試合後、そう言って頭をかいた育て屋に、モモナリが答える。
「もっと単純な、例えばどちらがより硬いきのみを割れるか、みたいな競技だったら、勝てなかったかもしれないですね」
その競技での優勝候補だった育て屋を倒したモモナリは、そのままトーナメントを勝ち上がり、大量のポイントを手にした。
☆
最終競技を前に、すでにモモナリの総合優勝は決定していた。
二位はカタヤマ、これもよほどのことが起きない限り覆りようがない。
番組を作る側からすれば、勘弁してくれと言ったところだろう。優勝と準優勝がほとんど決定しているというのに、どうやって最終競技を盛り上がらせれば良いのか。勿論編集の力を使って競技の順番を入れ替えるという手が無いわけでもないが、最後の競技でもモモナリが優勝してしまえば、それは意味のない編集となる。
だがまあ仕方のないことだ、と、彼等は半ば諦めていた。そもそもリーグトレーナーを呼んだのは自分たちだし、彼等が勝負事に手を抜かないのも当然だ。
だからこの最終競技は、参加者達がどれだけリーグトレーナーに食らいつくかに焦点を当てよう、と、彼等は考えていた。
「やっぱりぃ、リーグトレーナーさんは凄いんですよねぇ」
最終競技前のインタビューを受けながら、チカはなるべく彼女が本当に感じていることを頭に思い浮かべることすらしようとせずに答えていた。
これまでの中で、彼女は何度かモモナリと戦う機会もあった。だが、彼女はその全てに負けてきた。手練のトレーナーらしく、彼女は上手に負けていた。
あってはならないことだ、人からポケモンを借りたアイドルが、バトルではないとはいえリーグトレーナーに勝利するなど、あって良いことではない。
上手に負けた彼女は、アイドルとして非常に上手い順位に滑り込んでいた。自身の技量を限り無く低く見せながら、借りてきたガブリアスのポテンシャルを存分に発揮させているなと、なんとなく見ている人間すべてが思うような順位。
もう大丈夫だろうと彼女は思っていた。少し抜けたアイドルとしての役割は十分すぎるほどに果たした。
だから、少しくらいなら、と彼女は思う。
「でもぉ、大切な人達のためにぃ、最後までがんばりますよぉ」
カメラの向こうにいる誰かと視線を合わせるようにしながら、彼女はそう笑い。その背後にいるガブリアスは、フンと荒い鼻息を吐いた。
☆
最終競技は、ガブリアスとそのトレーナーどちらの能力も必要とするものだった。
競技自体は単純だ、上空数十メートルにセットされたボールが落とされマットに落下するまでにガブリアスがタッチすることができれば成功で、成功する度に段々と距離が離されていく。
スタート地点では、ガブリアスがボールに背を向けるように立ち、それと向き合うようにトレーナーが立つ、つまりスタートとなるボールの落下を確認できるのはトレーナーだけであり、ガブリアスはその指示を待ってから動くことなる。当然ボールが落下するより先にガブリアスが動けばフライング。
『リーグトレーナーと、そうでないものの差。今宵、我々はその現実を、思わず目を背けたくなるほどに痛感しました』
一番手のモモナリがスタート位置につくのを確認しながら、アナウンサーが語る。
もはや序盤にあったプロ対アマの構図を煽るような口調ではない、その段階はもう遥か遠くにあるものだった。
『しかし! だからこそ! だからこそ! 私は人の意地が見たい!』
体勢を整えたモモナリはセットされたボールを見る。そして、競技開始の笛が吹かれる。
アナウンサーがもう二、三語ろうとしたその瞬間に、ボールが落ちる。
モモナリの掛け声と、ガブリアスが体を反転させるのはほとんど同時だった。
落ちるボール、駆けるガブリアス。
パワーばかりが注目されがちであるが、ガブリアスというポケモンの強さを支えるのはその俊敏性だ、トレーナーとしての質が高くなればなるほど、そのポテンシャルの強みを理解することが出来る。
この競技は、モモナリにとっては実践に近い遊びだった。
ガブリアスは、途中少しスピードを緩めながら、胸でボールを受けた。
『緩めました! モモナリ選手、余裕のクリアです!』
戻ってきたガブリアスの顎をさすりながら、モモナリはセットを降りる。
そこには、この距離の次の挑戦者であるカタヤマがいた。
「これは楽しい競技ですね」
笑うモモナリにカタヤマも笑って答える。
「そうだな、これは実践に近いから、現役だった頃を思い出すよ」
セットに上がるために二、三歩進みながら、カタヤマが更に言う。
「この競技なら、お前に勝てると思ってる」
カタヤマの背中を見ながら、「手加減はしませんよ」と、モモナリが答えた。
その様子を、遠くからチカとガブリアスが眺めていた。
☆
『遠くにあるボールが、随分と小さくなったように思わず錯覚してしまいます』
アナウンサーはそう言うが、スタート地点とボールの距離は最初の二倍弱ほどしかない。
『我々には、すでに理解のできない領域に、彼等はいるのでしょう、リーグトレーナーであるモモナリ選手と、それを経験したカタヤマ選手は、すでにこの領域をクリア、もう一つ、上の次元での戦いを予感させています』
スタート地点、ガブリアスと向き合うチカは、ボールとガブリアスとの距離を改めて目測していた。
「ギリギリね」
マイクが拾わない程度にそうつぶやく、それは、この競技に関することではない。
この距離をクリアしてしまえば、残るのは自分と、モモナリと、カタヤマ。
それは、偶然にしては出来すぎている、ちょっと抜けてるアイドルと、人から借りた賢いガブリアスが巻き起こす偶然にしては、すこし、出来すぎているように感じる。
本来ならば、立場を考えるならば、負けるべきだろう。
『ですが、我々は希望を持ちたい! ガブリアスというものが、ドラゴンというものが、彼等だけのものではない事を』
笛が吹かれる。
沈黙だ、そこいるすべての人間が、彼女の集中力を阻害しない。
順位は十分だ、たとえこの競技で優勝しようとも、大きく変動することはない、上手くやった。
ボールが、落ちる。
「ゴウ!」
身を翻す。
『さあ行った! 駆ける! 駆ける!』
そのガブリアスのスピードは、前二人のものに引けを取らない。
彼はマットに滑り込み、ボールにタッチした。
しかし、審判員はまだ成功の旗を上げない。それの成功を、人間の目では判断できていないでいた。
『わからない! まだわからない! ですが、わからないと言うことは! 明確に失敗したとはとは言えないということ! スーパースローを見てみましょう!』
会場にセッティングされているビジョンに、落下地点のスーパースローが映し出される。
画面に滑り込みながら映ったガブリアスの爪は、ボールが落下するよりも先に、それに触れていた。審判員が成功をあらわす白旗を揚げると、参加者と番組スタッフしかいないはずの会場がドッと湧く。
『タッチしています! タッチしていました! チカ選手! この距離をクリア! まだつなぐ! 我々の希望をまだつなぎます!』
チカはふうと一つ息を吐いて、ガブリアスを迎えるためにセットを降りる。
『なんとも、なんとも素晴らしい連携でした! とても急造とは思えない! あるいは彼女の若さが、その反応を可能にしているのでありましょうか!?』
アナウンサーの言うとおり、アイドルが知人にガブリアスを借りたにしてはとても出来すぎな結果だった。
ギリギリだった。と、彼女は結果を振り返る。手加減をしながらやるのはこの距離が限界だ。
彼女がその次を考えようとしていた時、セットに上がるために彼女とすれ違うモモナリが、足を止めて笑顔を作りながら彼女に言った。
「ギリギリだったね」
その言葉自体に、何も含みはなかっただろう。彼はそれを見ていて思ったことを素直に言ったに過ぎない。
だが彼女は、その言葉にカッと体が熱くなるのを感じる、これは間違っても恋なんかではない、屈辱と、怒りと、強烈な嫉妬だった。
「あまり、調子に乗らないことね」
それは、アイドルである彼女が決して他人に見せてはならない目だった。モモナリの背後から彼女を眺めていたガブリアスが、一瞬身構えるほどの。
リーグトレーナー『ごとき』に、偽りの実力を見極められる事が、彼女には耐えられなかった。
今更ドラゴンつかいの一族の名を背負おうなどとは微塵も考えてはいないし、そのような義理もない。息苦しいとあの時憎く思った感情は、今も変わってはいない。家を飛び出してアイドルとして生きている今に不満があるわけでもない。だが、物心つくより前から培ってきたガブリアスとの関係を、連携を、絆を、甘く見積もられることはこれ以上無い屈辱。それら積年の思いをぶつける血走った目だ。
それを見ていたのが、モモナリとガブリアスだけだったことが、彼女にとっての幸運だった。気がつけば、同じくセットから降りてきたガブリアスがいつの間にか彼女の背後からモモナリに牙を見せる。
一触即発の雰囲気に会場は少し緊張感を帯びたが、モモナリはそれに笑顔を返すだけでセットに上がった。
☆
『この距離を、トレーナーとドラゴンがクリアすることが出来るということを、モモナリペアは証明しました。もしかすれば、あるいはこの距離こそが、リーグトレーナー、戦いの遺伝子が刻み込まれているものと、そうでないもの分かつ距離なのでありましょうか』
アナウンサーが、何かを言っている。
だが、カタヤマの耳にそれは届いていなかった。
現役時代、反射神経は悪い方ではなかった。むしろ、知識不足と戦術感の稚拙さを反射神経と動体視力で補っていた面もある。
相棒のガブリアスも、考え方次第ではハンデになる小さな体を、俊敏性という長所でカバーし、戦い抜いた。
そりゃあ自分たちはCリーグを抜けることができなかった落ちこぼれかもしれない、しかし、自分たちは確かにポケモンリーグを生き歩いた。その自負が、彼に集中を与える。
遠い、実寸的には先程から一メートルの半分も離れてはいない、だが、あまりにも遠い。
この距離を、モモナリ達はクリアしたというのか。
がむしゃらにでも、クリアしなければならない。認めたくはない、自分たちがモモナリたちより劣っているなどと認めたくない。
それが無茶苦茶な理屈である事は自分でもわかってる、モモナリと自分、どちらがトレーナーとして劣っているかなど今更論じるまでもない。だが、それが、その差が自分たちの能力である事を認めることだけはしたくない。
笛が吹かれる。カタヤマは中腰の姿勢をとって、ガブリアスの瞳を見つめながら、その先にボールを捉える。
長い時間だった。長い時間、それは落ちてこないような気がした。
その間、彼は何も考えてはいなかった。それは、久しぶりだった。
ボールが落ちた。
「行け!」と、彼が一言言い終わるより先に、ガブリアスは体を反転させ、低い姿勢を保ちながら走る。
一歩、二歩、少し体の小さい彼は、歩幅の小ささを、回転でカバーする。現役の頃、カタヤマは彼のそんな様子を、可愛らしいと何度も思ったものだった。
マットに滑り込みながら、ガブリアスが体を目一杯伸ばす。その先端の爪が、ボールをマットからはじき出したように見えた。
『どうだ!』
アナウンサーの声とともに、モニターにスーパースローが映し出される。
しかし、カタヤマもガブリアスもそれを見ない。
彼等はわかっていた。
ボールは、マットに落とされてから、ガブリアスの爪にはじき出されていた。
『赤旗! 赤旗です! カタヤマペアここで脱落!』
その後アナウンサーは、彼等の健闘を称えるだろう。だが、それは彼等には届かない。
もう少し、もう少しでいいからガブリアスの腕がながければ、背が高ければ、足が長ければ。
そう考えて、カタヤマは頭を振り、両手で顔を覆う。
違う、そうではない。それは否定だ、これまでの、自分たちの歩みそのものの否定だ。
知っていただろう、相棒のガブリアスが種族の割に小さいことなんて、フカマルの頃に出会った頃から知っていただろう、それでも戦ってきた、ともに生きてきた。それを今更、なんてことを考えているんだ。そんな事を考えなくとも良いように、頭をつかうのが自分たちトレーナーの役目ではないのか。そう思うこと自体が、恥ずべきことだ。
一つ二つ顔をなでてから、彼はカメラに顔を向けようと顔を上げたが、照らされた光が、ぼやけて見えたことに気づき、再び顔を覆いながら、セットを降りる。
こんなつもりはなかった。楽な仕事のはずだった。ニコニコしながら適当に競技に臨み、要所要所で多少力を入れて元リーグトレーナーとしての威厳を保てればいい、その程度の仕事のはずだった。
どうしてこんなことを思わなければならない、一瞬そう考えたが、その答えは明白だった。ここにいるべきでない存在が、自分を再び戦いの道に立たせ、二度、自分を殺したのだ。
☆
『さあ、我々に残された希望は、最後の一人、アイドルのチカ選手とその知人のガブリアスのペアに託されました』
チカは、そのきらびやかな服装に似合わないほどに腰を落とし、ガブリアスの目と、セットされたボールを同時に捉える。ガブリアスもまた、姿勢を低くして、彼女の瞳を覗き込むように凝視する。
『あるいは、彼女らが唯一モモナリペアに勝っている若さと言うストロングポイントが、ダンスで培われた反射神経が、これまでと同じように奇跡を起こすかもしれません』
チカは、アナウンサーの『唯一』という言葉に少し反応し、小さく舌打ちする。
まだ、それはバレていなかった、おそらくモモナリと自分以外の全ては、まだ誰も自分の過去に気づいてはいない。
「頑張れ」と、セットを降りたカタヤマが彼女の肩を叩いていた。その声が、普段の彼からは想像もできないほどに小さく、震えていたことも覚えていた。
あの声は、あの震えは、リアルでしか起こらない。虚構、フェイクの世界では、それを感じることなど出来ない。
どうするべきなのか、どうすれば良いのか、彼女はまだ決めきれていない。
まだまだ駆け出しではあるが、自分自身の手で掴み取ったアイドルの地位を簡単に捨てることは出来ない。
しかし、ここで負ければ、当然のことだがモモナリが勝つことになる。やはりリーグトレーナーだと、尊敬と尊厳を勝ち取り、食い散らかされたプライドを眺めながら、ここを去るだろう。
ここで負ければ、自分のプライドを守ることはできる。アイドルとしての立場を守るため、手を抜いた。理由としては十分すぎる。
だが、それ以上に、モモナリを勝たせたくはない。
とっくに牙が折れていはずの男が、その牙を折ったことをあそこまで悔やんでいる。モモナリに悪意はないだろう、だが、彼が自然的に持ち合わせているその自惚れを、打ち崩したい。
できるのだ、自分たちには、それができる。
笛がなる。これまでのタイミングを外して、すぐさまボールが落ちる。
彼女は声を上げない。だが、ガブリアスは体を反転させてコースを走る。
『走った!』
アナウンサーがそう叫んだ頃には、もうガブリアスはマットに飛び込んでいた。ボールが点々と転がる。
『スーパースロー!』
アナウンサーがそう叫んだ頃には、もうモニターにそれが映し出される。
ボールは、落ちるより先にその軌道を変えていた。
『クリア! クリア! 白旗です!』
参加者たちのトレーナーたちがどっと沸く。
チカは、顔を赤くし、フウと息を吐いてセットを降りる。
『恐ろしいほどの、奇跡的な偶然が重なりました』
アナウンサーが、モニターのリプレイを見ながら、らしく無く本当の興奮を見せながら続ける。
『急なタイミングに、チカ選手は声を失いました。ですが、偶然でありましょうか、ガブリアスが暴走し、自らの意思で走り出します。たまたまそのタイミングが、ボールが落ちてすぐ、あるいは、この博打は戦略通りなのでしょうか』
セットを降りながら、チカはカタヤマの表情を見る。他の参加者と違い、赤い目に驚きを携えた視線に、彼女は目を伏せた。
バレた。
当然ながら、この一連の動きは、ガブリアスの暴走などではない。彼はチカの目を覗き込み、その瞳の動きで状況判断を判断した。声の指示を待つよりも、人間の反射神経を合図にすることで、より早い行動を可能にする。
勿論その理屈がわかったところで、誰もができるようになるテクニックではない。トレーナーの能力、ポケモンの能力、信頼、経験、決断力、集中力、およそ対戦において能力とされるものすべてを高いレベルで持ち得ていないと使いこなせない。分家とはいえドラゴンつかいの一族の血を持ち、お互いに物心付く前から苦楽をともにしてきた彼女らは、その要素を満たしている。
トレーナーの技術だけでなく、それ以外の要素も必要とするそのテクニックを、リーグトレーナーを経験した人間が、見逃すはずがない。
当然それは、現役のリーグトレーナーであるモモナリも。
「見せてくれるね」
セットの下で順番を待っていたモモナリが、笑顔を浮かべながら彼女に言う。
チカは、それに言葉を返さなかった。
後悔があった。
ついに使ってしまった。あれほど毛嫌いしていたはずの、ドラゴンつかいの一族としての過去を、その経験による技術を、ついに使った。
☆
『この距離こそが、この競技における、最大の距離であり、これ以上の距離は、用意ができません』
アナウンサーの言うとおり、そのセットは、これ以上その距離を伸ばすことが出来ない。
へえ、と思いながら、モモナリはボールとの距離を測り、ガブリアスと額を合わせ、彼女の体温の低さを額で感じる。
確かに、この距離は遊びではクリアできそうではなかった。そして、モモナリが手を抜くことはありえない。
『伝説が生まれようとしているこの日に、なぜこれ以上の距離が用意できないのか。先程私は、この番組の責任者に直接問いました』
参加者と、スタッフたちの沈黙を確認してから、続ける。
『彼はこのセットを作る際に、とあるドラゴンの専門家に助言を求めました。そして彼はこう言ったそうです。この距離をクリアできるものは、ドラゴンつかいの一族にも数人しかいないだろうと。その後、どれだけロケハンを重ねようと、この距離をクリアできるペアは存在しませんでした。最終的にガブリアスに正面を向かせ、彼自身にボールの落下を確認させても、それは出来なかったのです。今、一番驚いているのは自分だと、責任者は最後に締めくくりました。その距離に、二組のペアが挑戦します!』
大きく息を吸って続ける。
『まずは一組目! モモナリペア!』
拍手を合図に、モモナリは腰を落とし、先程のチカと同じように、ガブリアスの目を覗きながら、その背後にボールを捉える。
そのテクニックを、モモナリも持っている。ゴルダックやジバコイルとならば、彼女よりも高い精度でそれを成功させる自信もある。戦いの中でそれをすることを考えれば、雨も砂嵐もあられもなく、野生のポケモンが飛び出してくるわけでもなく、ルールを無視した二体目で不意打ちされることもない、ただただボールを捉えるだけでいいこの環境は、ぬるい。
『すでに彼らは、総合優勝を決めております。それでも手を抜かないのは、リーグトレーナーとしての矜持か』
笛が吹かれる。
お互いを見つめ合いながら、モモナリはその背後のボールに意識を割く。
ガブリアスもまた、じっとモモナリから目を離さない。まだ若く、経験不足ではあるが、モモナリを最も強い生物達の一つ、カントージョウトAリーガーに押し上げたポテンシャルに、今更疑問を覚えることはない。
ずいぶんと長く、ボールは落ちない。モモナリとガブリアス以外の人間がそう思っていた。
その時、ガブリアスの瞳が、わずかにモモナリから逸れた。モモナリは、それに驚く。
それを狙っていたかのように、ボールが落ちる。
意図せずとも、モモナリの瞳が動く、ガブリアスがそれに反応して体を反転させる。
『さあどうだ!』
アナウンサーがそう力強く言い終わるより先に、ガブリアスがマットに滑り込む。
参加者たちは、その結果がまだわからない、明確に成功ではないが、明確に失敗でもない、遠く、わからない。
だが、落下地点の一点を凝視する権利を得ている審判員は、それを肉眼で確認している。
審判員は、赤旗を上げた。
『失敗! 失敗です!』
ショックからか、まだ起き上がらないガブリアスを呆然と眺めながら。モモナリは立ち尽くしていた。
会場のモニターは、スーパースローを映し出している。だが、モモナリはその真逆を向く。
ガブリアスは、一体何に気を取られたのか、Aリーグを戦い抜いた彼女が気を取られたものは何だ、彼女の瞳が動いた方向を、モモナリは強く確認する。
モモナリの視線は、セットの下に向けられていた。そこには、次の挑戦を待つチカとガブリアスがいる。
チカは、驚きと、どこか満足げな表情をモモナリに向けている。違う、彼女ではない。
その背後にいるガブリアスと、今度は目が合う。
これだ、と、モモナリは頭を抱えた。
チカのガブリアスが、特別何かをしたというわけではないだろう、だが、同族としてか、はたまた異性としてか、彼女は、チカのガブリアスに一瞬目を向けてしまったのだ。
だから、遅れた。反応が一瞬遅れた。
そのテクニックを持ってしても、ギリギリの距離だった、どれだけ彼女のポテンシャルが優れていようと、その一瞬の遅れを取り戻すことは出来なかった。
想定しきれていなかった。
彼女が、チカのガブリアスを悪くは思っていないということを、想定しきれていなかった。些細なことで集中を乱された彼女だけの責任ではない、それをうまく排除するのが、力を持たない人間の役割だと言うのに。
ようやくモモナリは、落下地点にいるガブリアスに目を向ける。
彼女もまたようやく立ち上がったところで、瞳をうるませながら、恐れるようにモモナリに視線を向けていた。
モモナリは、それに笑顔を返そうとした。大したミスじゃない、この程度の遊びが出来なかったからなんなんだ、もっと大事なことが、いくらでもある。表情でそう伝えようとしていた。
だが、それは出来なかった。彼は彼女にセットを降りるようにと指で合図し、顔をひきつらせながらセットを降りる。
チカと目が合った。
「瞳だけでは、難しいかもしれないよ」と、何とか伝える。
ものすごい顔をしていたのだろう、チカは、それに何も返さなかった。
「モモナリ選手」
セットを降り、ガブリアスと合流したモモナリに、女性アナウンサーとカメラマンがインタビューを求める。
アナウンサーは緊張していた。モモナリの憔悴っぷりは、誰の目にも明らかだった。もしかすれば機嫌を悪くし、とてもテレビでは使えないような言葉を発するかもしれない。まだ若い彼女は、目の前のリーグトレーナーが決して品行方正なタイプではないということだけを、なんとなく知っていた。
しかしモモナリは、笑顔を作ってそれに答える。なんとなくではあるが、これほど好き勝手やったのだから、せめてインタビューくらいにはよく答えていたほうが良いのだろうなと彼は思っていた。
「挑戦失敗してしまいましたね」
思いの外彼の機嫌が良さそうに見えたので、アナウンサーはいつものように質問する。
「そうですね、お互いに色々ミスがありましたが、ガブリアスはあそこからよく走ってくれたと思います」
ぐう、と、うなだれるガブリアスの首元を掻きながら、モモナリが答える。
「ミスと言うと?」
より詳細な情報を求めるアナウンサー、しかし、モモナリはそこに関しては答えを濁す。
「まあ、お互いに色々と経験不足だったということです。僕が調子に乗ってたということもあります。それが今ここでわかったことは良かったですね、この経験を、必ずリーグに活かします」
よくわからなかったが、時間の迫っているアナウンサーは次の質問をする。
「チカペアはクリアできると思いますか?」
その質問に、モモナリは困ってしまった。
彼女らのバックボーンであったり、付き合いの古さ、瞳のテクニックなどの高度さを考えれば、全く出来ないというわけではない。
だが、今彼女らはアイドルとアイドルが知人に借りたガブリアスなわけであって、流石にそれをバラす訳にはいかないだろう、モモナリにだってその程度の良心というものはある。
しばらく考えた後に、モモナリは答える。
「頑張れば、なんとかなるもんですよ」
ありがとうございました、と、アナウンサーたちが去った後に、モモナリはガブリアスの耳元で言う。
「よく頑張ったな、帰りにガレット屋にでも行こう」
一瞬だけ、ガブリアスが目を輝かせるが、それが罰の前の飴だとすぐに理解して、またうなだれる。
モモナリは感のいい彼女に笑顔を見せながら罰を言う。
「そして、当分の間甘いものはお預けだ」
ああ、もったいないなあと彼は思う、せっかく副賞が手に入るというのに。
うなだれるガブリアスの顎を両手で包むようになでながら、「当分、酒抜くかな」と、モモナリはつぶやいた。
「おい」と、そんなモモナリに声をかけるのはカタヤマ。
「お前の意見を聞きたい」
彼はモモナリがそれに返事をするより先に問う。
「チカちゃん達がさっき見せたあれは」
しっ、と、今度はモモナリが、カタヤマがそれを言い終わるより先に遮る。
「大体、あなたの考えてるとおりですよ」
その言葉に反応して、まだ何か言いたげだったカタヤマに、更にモモナリが言う。
「今は黙っといてあげましょうよ、別にあの子のことが嫌いってわけじゃないんですし」
☆
セットの上で呼吸を整えるチカは、ボールの落下地点と、ガブリアスの走路を何度も何度も視線でなぞりながら、これまでの経験を含めたシミュレーションを、これまた何度も頭の中で繰り返していた。
『もしかしたら我々は、今日、伝説を目にするかもしれません』
アナウンサーはほとんど素だった。
『リーグトレーナーであるモモナリペアの失敗によって、この距離は、その神秘性を増しました。ドラゴンの専門家が言った、ドラゴンつかいの一族でも数人しかクリアできないであろう距離、その言葉に信憑性が生まれました』
チカは、まだスタート地点につかない。まだシミュレーションを繰り返している。
だが、誰もそれを急かさない、その権利を有しているものなど、今この場にはいない。
『この際、彼女の職業や、ガブリアスとの関係などは忘れましょう。この競技における彼女らの活躍は、それを忘れさせるに十分であります』
駄目だ、と、彼女は天を仰いだ。
絶対に失敗する、とは口が裂けても言えない。だが、絶対に成功するとは断言が出来ない。
たとえあのテクニックを駆使したとしても、成功の見込みは三割あるかないかと言ったところだろう。
悔しいが、認めたくはないが、単純に生まれ持ったポテンシャルだけを考えれば、相棒のガブリアスは、モモナリのガブリアスに劣る。一瞬の遅れを、馬力で引き戻しかけたあの脚力は、ガブリアスの中でもそうはいない。
違う違う、と、彼女は頭を振る。絶対に成功させる、そのためのトレーナーだろう。
だが、妙案がない、シンプルな競技故に、技術的な介入が難しい。
そこまで考えて、彼女は「そうか」と、初心を思い出す。
別に失敗してもいいんだ。
そうだ、自分の身分を考えれば、ここで成功するほうがおかしいんだ。
フン、と、ガブリアスの鼻息がチカの髪を揺らす。それに気付いた彼女が彼の顔を覗き込む。
真っ直ぐに自分を見つめ返す瞳を見て、彼女は我に返る。
「馬鹿なことを」
今の考え方は駄目だ、言い訳どころの騒ぎじゃない。自らの境遇を、失敗の免罪符にしようとしただけ。最悪の逃げだ、これまでアイドルとして頑張ってきたのは、ここで逃げるためではないだろう。手段と目的が、逆転するところだった。
「できる?」と、彼女はガブリアスに問うた。彼女には自信がなかった、彼女は珍しく、彼を頼った。
ガブリアスは目線で彼女にスタート地点に着くように促した。それが難しいことは、彼にもわかっているだろうにと、チカは少し笑う。
「策はないわよ」
チカはガブリアスにそう声をかけながら、スタート地点に着く。そして中腰の体勢を取り、ガブリアスの瞳を見つめながら、その背後にボールを捉える。
アナウンサーは、もう何も言わない、それが、彼女のサポートになることが分かっている。
会場もまた、それを尊重した。
笛が吹かれる。
ボールを落とすスイッチを握るスタッフは、目をつむり、頭の中で自分の知っている古い曲を口ずさみながら、そのサビにはいる直前にスイッチを押した。
ボールが落ちる。
彼女がそれを視線で追うよりも先に、ガブリアスがねじ切れんばかりに体を反転させる。それは、ボールが落ちるのとほとんど同時だった。
一気に遠くなる背中を眺めながら、チカはそれに驚き、息をつまらせる。
完璧なスタートだ、完璧なスタート。
だが、彼が何を見たのかがわからない。瞳の動きではないはずだ、先程の挑戦のときよりもスタートがいいから。
小さくなった彼が、マットに飛び込む。
暴走ではない、それだけはありえない、何かを確信して、彼はスタートした。
滑り込む彼を見ながら、彼女は「まさか」と、ひとりごち、目をうるませる。
彼は彼女ですら気づかない些細な彼女の変化を感じ取り、それを機にスタートを切ったのだろう。彼自信も、それが何かとは断言することの出来ない何かを、俗にいうならば、心を、彼女の心を読んだ。瞳の動き、反射神経を超え、彼はそれを成した。
ボールが跳ね、マットから飛び出す。
審判員は旗を振って、スーパースローをリクエストする。
『スーパースロー! スーパースローを!』
モニターにそれが映し出されるが、チカは両手で顔を覆い、それを確認しない。
考えてもいなかった、反射神経以上の連携など考えてもいない。それ以上の連携は無いと思っていた、必要もないと思っていた。だが、彼はそう思っていなかった。
大歓声が彼女の耳に入り、彼女は涙ぐみながら顔を上げる。
審判員が、白い旗を掲げていた。
『成功! 成功! 成功!』
チカは、ガブリアスがそうしたように、セットの上を駆ける。
誇らしかった。
この困難を、共に乗り越えることの出来た相棒を、誇らしく思う。
マットの上、すでに立ち上がり彼女を待ち構えていたガブリアスの胸に飛び込み「やった! やった! やったあ!」と、歓喜の声をあげる。
アイドル、チカのファン達の中には、このときの笑顔こそが、彼女のこれまでの中で最も素晴らしいと断言するものも多い。
この後のことは、このあと考えようと、チカは歓喜に身を任せる。今はただ、この誇らしい相棒と、それを共有したい。
歓喜を分かち合う彼等のもとに、他の参加者たちも集まる。
まず、彼女たちに抱きついたのは、ガブリアスとともに活躍する、女性コーディネーターだった。
参加者たちは彼女らを中心に円になって、まるで自分たちがそれを成したかのように喜び、声を上げ、しばらく忘れていた全力の力での拍手を共有していた。
☆
歓喜の円陣を、モモナリとガブリアスは、少し遠くから眺めていた。
チカ達がやってのけたことの偉大さは、おそらくこの世界の中でモモナリが一番良く理解してる。
だが、気分ではない。
あの美しい光景に、入る気にはなれない。
彼は、ふと横にいるガブリアスを見た。
彼女は、チカと抱き合うガブリアスをじっと眺めている。
そのガブリアスは、力任せにチカを振り回しながら、その喜びを、全身で表現していた。
彼の景色に、彼女が入ることはないだろう。
「まあ、長く生きていれば、そういうこともあるさ」
ポンポンと、モモナリはガブリアスの背を二、三度叩く。それに気付いた彼女は、モモナリの頬にすり寄った。
☆
「出禁だとさ」
番組放送後、野暮用でポケモンリーグ協会を訪れたモモナリは、タイミングよくそこを訪れていたオークボに呼び出され、そう通刻された。
「出禁?」
考えをまとめるために、モモナリは一旦その単語を復唱する。覚えがないわけではない、これまでの人生を考えると、覚えがありすぎて一つに絞れないのだ。
「あの番組だよ」
オークボの言葉に、モモナリは苦笑いを浮かべる。
「ああ、あれですか」
良い経験だったが、あまり良い思い出ではなかった。リーグトレーナー仲間からはそもそもあの番組に出たことを散々からかわれた、キリューは弟弟子たちに自分を紹介するときに「あの第四回ガブリアスナンバーワン決定戦優勝者だぞ」といちいち言うし、クシノなんて、わざわざご丁寧に『第四回ガブリアスナンバーワン決定戦優勝者』と記入された無駄にでかいトロフィーを寄越す始末。エッセイの編集者からは「プロフィールに第四回ガブリアスナンバーワン決定戦優勝は記入したほうが良いですか?」と真面目な顔をして聞かれるし、散々だ。
「もう出ませんよ」
「だからもう出られないんだよ。もうちょっと上手くやれなかったのか」
「ひどいなあ、本気でやれと言ったのは理事のあんたでしょうが」
「お前はいつになったら真人間のバランス感覚を身につけるんだ」
大抵この手の話題になると切られる切り札のような言葉に、モモナリはぐうと更に笑顔を苦くし、慌ててその場から退散しようとした。
それを引き止めるように、オークボが続ける。
「チカちゃんはずいぶんと出世したなあ、今度ポケウッドでカルネと共演するらしいぞ」
あの番組放映以来、チカの人気はうなぎのぼりだった。一度人の心をつかめば、ドラゴンつかいの一族として生まれた過去も、それに抗った過去も、アイドルとして活動していた期間も、全て肯定的に捉えられる。
中でもガブリアスとの絆は、それまでただの抜けたアイドルでしかなかった彼女が一人の人間としての尊厳を得るに十分なものだった。
「そりゃそうでしょうよ、あのレベルでガブリアス扱えて顔も良いとくれば、世界でもあの子と、シロナくらいのもんです」
「リーグトレーナーにも勝ってるしな」
「からかわんでくださいよ」
モモナリを弄るオークボのなんと楽しそうなことか。
今度こそ本格的にモモナリが背を向けようとするのを、オークボが更に引き止める。
「ああそうだ、これはまだ噂の段階なんだが、カタヤマ君がお前とエキシビションやりたいそうだ。ハンデなしで」
「いつでもどうぞ」と、モモナリは笑って答え、今度こそそそくさと、その場を去るのだった。