セキエイに続く日常
38-境界線を挟んで
 繋がらないポケギアのスイッチをため息混じりに切りながら、タナカはそれをダウンジャケットのポケットに収めた。
 いい加減それに慣れてもいいのにな、と、彼は心の中では思っていた。あいつが試合の日にポケギアのスイッチを切るのは、もうだいぶ昔からわかっていることじゃないか。だから昨日あいつに電話をかけたじゃないか。
 少し沈んだタナカの気持ちを察したのだろうか、彼の手持ちのポケモンであるコラッタが、彼の気を引こうとズボンの裾を噛んで引っ張った。そのイタズラをすれば、彼がたちまち笑顔になって自分を撫でてくれることを覚えていた。
 彼の思惑通り、タナカはその行動に笑顔を見せると、腰をかがめて彼の頭を撫で、コラッタをスーパーボールに引っ込めた。そして、そのボールをベルトにセットする。タナカ自身はポケモントレーナーではないが、そのコラッタは大事な友だちの一人だった。
 彼はビデオカメラの入ったリュックサックを背負い、下宿先のアパートを後にする。
 まだ空は暗かった、例えば蒸し暑い夏の日であればもう太陽が出ていたかもしれない時間帯だったが、吐いた息が白く色づくこの時期では、朝でも暗い。
 不真面目な大学生ならば、その寒さを理由にその日一日を何もしない日に決めるかもしれないような日だった。だが、タナカはそれでも全く気後れすること無く、両手をすり合わせて寒さから逃れようとしながら階段を降りる。
 それは勿論タナカが非常に真面目なタマムシ大学生である事が理由の一つであったが、それ以上に、彼にとって今日この日が、特別な日だったことが大きい。
 彼は、一年前からこの日の予定を開けていた。大学で行わなければならない研究も、人の良い店長が泣きついてきたカフェのバイトも、彼はそのすべてを断った。
 その日は、タナカの幼馴染であるトートクが、チョウジタウンでポケモンリーグの試合をする日だった。
 幼馴染と呼ぶには、タナカはトートクに憧れすぎていると言っても良いかもしれない。
 家が近かったから幼い頃から付き合いがあったが、トートクは自分よりもずいぶんと活動的で、子供たちのリーダー、ガキ大将だった。
 ポケモンリーグ公認ジムのあるタマムシシティの子供たちである彼らの遊びといえば、もっぱらポケモンバトルだった、残念ながらタナカはバトルがからっきし弱かったが、トートクら友人たちと一緒に遊ぶことができればそれだけで楽しかった。
 トートクは、ポケモンバトルに関してのセンスがずば抜けていた。彼が学年問わず子供達のトップになることに時間はかからなかったし、母親に連れられタマムシジムに出入りするようになるまでも時間はかからなかった、彼がタマムシジムバッジを獲得しても、タナカはそれを特別に凄いことだとは思わなかった。トートクがそれを成すことが出来なければ、一体誰がそれを成すことができるのだろうと本気で思っていた。
 五年ほど前、トートクはカントー地方すべてのジムバッジをコンプリートし、リーグトレーナーになった。
 タナカがトートクに憧れるのは、そのような立場になっても、彼は自分のような凡人と付き合ってくれると言うことも大きい。
 彼が戦う日には、タナカはビデオカメラを片手に必ずそれを観戦に行った。たとえどんな予定があろうともそれを優先した。トートクがBリーグに昇格できた日には、まるで自分のことのように嬉しかった。
 だから今日、彼はその試合を見に行く、タマムシシティからチョウジタウンに向かい、更に会場のいい席を確保するには、この時間に家を出ても確実とは言えなかった。
 彼は駆けているように歩を早めた、何が何でもいい席を確保したかった。
 Bリーグ最終戦にしてすでにCリーグ降格が決定し、彼の言葉に偽りがなければ、彼がポケモンリーグで最後に戦う試合を。





「どうかしてるわよ」
 チョウジタウン、ポケモンリーグ公式対戦場控室。
 タマムシジムトレーナーであり、トートクの妹であるマユミは、リラックスした様子で椅子に座る兄を諭そうとしていた。
「カントー・ジョウトリーグのBリーグに昇格できる人間は一年にたったの三人なのよ、バッジをコンプリートしても、その殆どのトレーナーが、Cリーグか昇格できずに引退する。お兄ちゃんはそうじゃない」
「じゃあ、お前は俺がBリーグで通用したと思っているのか?」
 口角を上げながら、トートクは妹に問うた。
 妹とがそれを否定することが出来ないことを、トートクは知っていた。知っているも何も、今期十戦全敗という圧倒的な事実の前には、すべての道理が引っ込む。
 しかし、マユミはまだ反論を続ける。
「だからって、引退する事はないじゃない!」
 もう何度聞いたかもわからないその言葉に。トートクは、うんざりとしたように首を振った。
 数ヶ月前、もう世間がトートクの連敗に慣れつつあった頃に、彼はポケモンリーグからの引退を決意していた。まだ彼はリーグトレーナーとしては若手と言ってよかったが、その年齢での引退は別段珍しいことでもない、他の道がまだある内にスッパリとやめると言う選択はもちろんあった。
 だがそれは、あくまでCリーグですら結果を残すことが出来なかったトレーナーの話、たとえBリーグで全敗とはいえ、Cリーグから昇格することのできる能力を持ったトレーナーがそうすることは珍しい。
「これ以上は無駄さ」と、トートクは言う。
「俺なりに、全力でBリーグに挑戦した、だが結果はこれだ。これ以上ポケモンリーグに居ても時間を無駄にするだけだ」
「違う!」と、マユミはそれを否定する。
「お兄ちゃんは全然全力じゃなかった。だって、Cリーグに居た頃と全く同じだったっじゃない。相手の裏をかくこともしていないし、事前の研究を熱心にしていたわけでもない、ポケモンだって、Cリーグのパーティそのまんま。今どきCリーグのトレーナーだってもうちょっと考えてるわ」
 ジムトレーナーであるだけあって、マユミはポケモンバトルに関しての見解があった。彼女から見て、兄のバトルへの姿勢は、非常に全時代的だった。それでもBリーグに昇格することが出来たのは、彼の才能によるものが大きく、それはトレーナーであれば誰もが欲しがるものであることを彼女は知っていた。
「お兄ちゃんはプロなんだよ。プロだったら勝つために何だってするべきよ。目の前に高い壁が現れたとしても、それを乗り越えることだけがプロじゃない、少し下がって考えたり、それを避けて別の道を探したりするがプロなんじゃないの」
「そうだよ」
 妹の言葉を肯定しながら、トートクは立ち上がった、試合開始の時間が迫ってきていたのだ。
「だから俺は、プロを辞める。俺は一番強いアマチュアで良いんだ」
 マユミの横をすり抜け、彼は控室を後にする。
 カントー・ジョウトBリーグ第十一節、モモナリとの一戦が、もうすぐ始まろうとしていた。





 引退という決意とは裏腹に、トートクはこの一戦のために自分とポケモンたちのコンディションを最高に高めていた。
 それはポケモンリーグという枠組みで見れば、あまり意味のある行動ではなかった。トートクはこの一戦に勝とうが負けようが降格が決定しているし、モモナリもこの一戦に勝とうが負けようが昇格はない。いわゆる消化試合というやつで、世間の注目度もそれほど。
 だがトートクは、この一戦を、モモナリとの一戦を心待ちにしていた。
 年齢で言えば、モモナリは彼よりも幾つか歳下だった。しかしトートクは、モモナリの戦い方、生き方を強く意識していた。
 リーグトレーナー達は、どことなく窮屈。それは、トートクがポケモンリーグに参加してからこれまで、ずっと思い続けてきたことだった。勝利という目的のために、自由を、感情を、愛情を捨てる、それがリーグトレーナーというものであり、ポケモンリーグというものなのだろうと彼は感じていた。
 それが悪いとは思わない、むしろ強さを競うポケモンリーグだからこそ、そうなるのだろう、だから、彼はそれを窮屈と表現する。自分とは、考え方が違うだけ。
 しかし、モモナリと言うトレーナーは、そんなポケモンリーグにおいて、限りなく自由で、限りなくのびのびと戦っているトレーナーの一人だと彼は感じていた。勿論、彼がAリーグ昇格を逃して以来五年近く、世間に期待された活躍ができていないことは知っていた。
 彼は、それが不思議でたまらなかった。誰もが欲しがる才能を持っているトレーナーだった、そこには何の疑いもないし、モモナリ自身もそれはわかっているだろう。
 ならば、どうして自由でいられるのか、そこに焦りはないのか。強者に生まれたものの義務である勝利を逃して、何故平然とできるのか、彼にはそれがわからない。
 戦うことで、それを知りたかった。彼の無神経さを感じることで、自分の中でその答えが見つかればどれだけ救われるだろう。あるいは、それがわかれば、引退をせずとも良いのかもしれない。





 途中、交通機関の乱れがあって、タナカは予想していたよりもずいぶん遅くチョウジタウンに到着した。
 人生はうまくいかないものだと彼は噛み締めていた。こんな大事な日に、こんな事が起こるなんて。
 しかし、観客席に足を進めれば、先程まで感じていた不満がただの杞憂であったことを理解する。
 観客席、特にトートクの陣形をよりよく観察することのできるスペースはガランと空いていた。もう試合が始まる寸前だと言うのにだ。
 理由は明白だった、それが、その注目度が、今のトートクのリーグトレーナーとしての価値なのだ。
 それを不服に思いながらも、タナカは最もトートクの陣形がよく見えるであろう席に座り、リュックサックからビデオカメラを取り出した。





 対戦場では、アーボックとドードリオが睨み合っていた。お互いが最初に繰り出したポケモンが膠着状態を作り出している。
 お互いのポケモンのポテンシャルだけを考えれば、ドードリオを繰り出したトートクに分があると言える、他の鳥ポケモンにはない武器を多数持つドードリオは、毒タイプの弱点である地面タイプの攻撃『じだんだ』を踏むことができるし、何よりアーボックよりも圧倒的に素早い。
 だが、アーボックの特性である『いかく』、仰々しく描かれた胸の模様は、ドードリオを少し萎縮させている。
 攻撃性が失われてしまえば、『じだんだ』でのダメージは期待ができなくなる、そして、アーボックの返しの選択肢として存在する『がんせきふうじ』を撃たれてしまえば、ドードリオが勝っている素早さでも遅れを取ることになる、攻撃性も素早さも失われたドードリオはもはや期待された動きをすることが出来ない。
 ならば手持ちに戻して違うポケモンを繰り出すか、いや、それも確実とは言えない選択だ、確かに『いかく』のディスアドバンテージを消す結果とはなる、しかし、それを読まれて交換先のポケモンに『へびにらみ』を打ち込まれてしまえば再び不利な状況となる、安定しているかのような選択肢は、その実相手側が最も狙いにする選択肢でもあるだろう。
 安定した選択肢はない、判断力、決断力、そして運が求められる展開。
 不思議なのは、試合が始まってすぐにその展開を押し付けたはずのモモナリが、じっくりと、トートクの出方を伺うように静かなことだった。勿論モモナリ側も盤石というわけではない、絶対と言える行動はないだろう。だが、この展開では、トートクに考える時間を与えることは得策とは言えなかった、過去の戦いぶりからして、モモナリは瞬間的な判断力においてはずば抜けた存在、生半可なトレーナーでは、そのスピードに付いていくことも出来ない。
 その意味を考えることを、トートクはしなかった。そんな事をできる余裕などある訳がないし、それに何の意味がある。
 先に動いたのは、モモナリ側だった。アーボックは跳ねるように後ろに飛び跳ね、モモナリのボールに戻る。
 それとほぼ同じく、彼は新たなポケモンを繰り出す。
 そして、それを見てからトートクも動く。
「『ちょうはつ』」
 繰り出されたポケモンに対して、ドードリオはその三つの首全てでケラケラと笑い、舌を出して『ちょうはつ』する。
 ドードリオの速さを活かした選択だった。アーボックの本命の動きである『へびにらみ』や『たくわえる』『とぐろをまく』などを封じ、行動を縛る。
 モモナリはアーボックを引っ込めたが、だからといってトートクの読みが外れているわけではない、むしろ新たに繰り出されたポケモンに攻撃技を強制させることにより、今後の交換戦をより有利に進めることもできる。Bリーグ全敗のトレーナーとは思えないどっしりとした選択。相手が並のトレーナーであったら、形勢が逆転したと言っても良かっただろう。
 だが、モモナリが繰り出したのはポケモンだけではなかった、放り投げられたボールから現れたのは、一匹のポケモンと、強烈な『すなあらし』だった。
 新たに対戦場に現れたポケモン、カバルドンの特性によって生み出されるそれは、あっという間に対戦場を包み込んだ。観客席から多少のブーイングが飛ぶ、せっかく現地に来たのに、自分たちよりもテレビ観戦組のほうが得をする観客からすれば不満な技で、モモナリの得意技。
 トートクは動揺していた。勿論ブーイングにではない。
 彼は対面にいるモモナリが砂嵐の向こう側に消えて影になる寸前に、自らに微笑みかけてきたのを見ていた。
 何故だ、何故笑顔を見せる、この展開はモモナリにとっては決して笑顔を見せるほどの展開ではないはずだ。
 天候を『すなあらし』にした時点で、モモナリの主張は通っている、だが、『ステルスロック』や『ふきとばし』『あくび』などの補助技で展開を有利にする戦術に強みのあるカバルドンにとって、『ちょうはつ』は痛手のはずだった。
 トートクは頭を振った、今はそれに囚われているときではない。『すなあらし』の状況下にある以上、対戦場の状況をしっかりと把握しなければならない。
 トートクはドードリオを手持ちに戻した。これまでの静かな進行とは違い、早く、交換戦を仕掛ける。『いかく』をされている以上、ドードリオにカバルドンや交代先のポケモンを一撃で仕留めるプレッシャーは存在しない。そして、『ちょうはつ』によって行動の縛られているカバルドンは、こちらの交代先に対して攻撃でしかプレッシャーを掛けることが出来ない。
 トートクが新たに繰り出したのは、その全身が青色のつるで覆われたポケモン、モンジャラだった。
 カバルドンの主な攻撃技である『じしん』に対して抵抗があり、返す刃でカバルドンを沈めることもできる。間違いのない選択肢。
 だが、モモナリ陣営からは攻撃がとんでこない、トートクはその意味を一瞬だけ考え、砂嵐の向こうに揺れる影を見てすぐに理解する。
 自分と同じタイミングで、モモナリもまたポケモンを交換した。不意に変えたはずの試合のテンポに、なぜかモモナリもついてきている。
 その揺れる影から、モモナリが繰り出したのはアーボックだと判断した。
 幸いにも、アーボックの『いかく』はモンジャラの強みである防御力や特殊攻撃力には関係がない、だが、そのタイプ相性には大きな問題がある。毒タイプであるアーボックが、草タイプであるモンジャラを一方的に威圧している状態だ。
 明確な読み負けだった。トートクが一方的に仕掛けたはずの交換戦の中で、モモナリは彼を抑え込んだ。
 おそらく、モモナリがトートクの思考をすべて読みきったと言うわけではない。仕掛けたのはトートクの方だし、そこに大きな猶予があったわけではない。対戦場の状況と、トートクの手持ち程度の情報は彼も持っているだろうが、トートクの人となりや、戦術感の研究まで行っているわけではないだろう。だが、彼の中にある無意識、直感、感覚というものが、欲目や願望がなく、あまりにもポケモンバトルに対して合理的過ぎるのだ。
 その土俵で勝負をすれば、圧倒的にモモナリに分がある、だから彼の強みを知るリーグトレーナーは、その土俵の外で彼と戦う。瞬間的なものを排除し、長く長く長期的スパンで、モモナリの情報をかき集めて押しつぶす。何よりも勝ちを欲するBリーガー達は、才能の殺し方を熟知していた。
 彼らからすれば、トートクのこの状況に驚きはしないだろう。モモナリ相手にその勝負を仕掛ければ、そうなるに決まっているのだから。
 しかしトートクは、この状況に絶望はしていなかった。むしろその逆、面白いじゃないか、と、彼は興奮していた。
 彼はモンジャラを手持ちに戻すと、新たにドードリオを繰り出す。
 無防備な状況への攻撃を覚悟していた。砂嵐の向こうから現れたアーボックが長い尾で『どくづき』する。
 不幸中の幸いか、毒をもらった様子はない。
「『あばれる』」
 向こうから現れたアーボックに、ドードリオが我を忘れるほどの攻撃をしかける。
 だが、アーボックは、それにカウンターで尾の攻撃を合わせて『ふいうち』する。
 一瞬、トートクは読み負けを覚悟した、しかしドードリオはその攻撃に耐え、さらに怒り狂って『あばれる』
 地面を走り回り鍛え上げられた足で蹴られ引っ掻かれ踏まれ、アーボックは悲痛な叫び声を上げるが、それでも地面には倒れない。
 お互いが根性を見せあったが、吹き荒れる砂嵐は彼らの体力を消耗させ、それぞれがそれぞれの力尽きる瞬間を見届けるように、地面に倒れた。
 状況を見れば、まだモモナリに分がある、お互いの戦力を一匹づつ失った状態でただリセットされただけである上に、対戦場にはまだ『すなあらし』が残っている。
 だが、トートクは手応えを感じていた。一度の読み負けを、腕力で引き戻した。その実感が、彼にも笑顔を作る。
 まだいける、と彼は思っていた。まだ戦える、彼となら戦える。





 試合終了後、タナカは急いで、それでも公共の場というものをわきまえて、極めて早足で会場内を歩いていた。
 徹底的な負けだった。研究不足や、相手の対策による負けではない。むしろそれらの負けに比べれば、試合時間も長く、彼をよく知らない観客からすれば、よく戦ったほうだと思うかもしれない、だが、その負けの内容は、タナカからすれば信じられないようなものだった。トートクはいつものように、子供の頃からの付き合いである相棒たちと、真正面から戦い、そして、真正面から叩き潰された。
 勿論それは、下位リーガーであったトートクがAリーグにいるようなエリートたちと戦ったことがあまりないことも関係はしているだろう、だが、トートクが正面から叩き潰されるなど、彼はこれまで数えるほどしか見てこなかった。
 そして、そのようなことがあれば、トートクが酷く落ち込むことをタナカは知っていた。だから、彼はどうしてもトートクと顔を合わせてひと声かけたかった、それをトートクが望んでいるかどうかはわからないし、それを彼が望んでいるとも思わない。ただ、ただタナカは、トートクが笑っていてくれたほうが、自分の人生が少しだけ良いものになるから、だから。
 ほとんど会場を一周した後に、彼はその対戦場の関係者入り口を見つけた。聡明な彼にしてはらしく無く、彼は脇目もふらずにそこに歩み進める。
 だがその歩みは、彼の肩を掴む警備員の手によって止められた。
「君、ここは関係者しか入っちゃいけないんだ」
 帽子からは白髪も除く歳をとった警備員だったが、その腰には三つのモンスターボールがセットされていた。とてもではないが、タナカとコラッタでは太刀打ち出来ないだろう。最も、出来たからと言ってタナカがそれをするわけではないが。
「いえ、違うんです」と、タナカはそれを否定する。
「僕はトートクの友達なんです」
「関係者証明書はある?」
「いえ、ありません。ですけど」
「じゃあ駄目だよ」
 タナカは唇を噛んだ。関係者証明書ってなんだ、友人でいることに、証明書が必要なのか。
「じゃあ」と言って、タナカはポケギアを取り出した。
「連絡します。トートクに連絡しますから」
 震える手でボタンをプッシュし、トートクに電話をかける。
 だが、その向こう側から聞こえてくるのは、選択された端末の電源が切られていることを知らせるアナウンスだった。
「あれ、おかしいな」と、タナカが呟く。
「いつもは、試合が終わったら電源をいれるんですけど、あれ、あれれ」
 何度もボタンをプッシュしながら、タナカは目頭が熱くなり、そこから何かが溢れ出てこようとしているのを感じて、袖でそれを拭う。
 自分は一体、彼の何なのだろう。





 控室に帰ってきた兄に、マユミはまだ何も言えないでいる。
 もう何を言っても無駄なのだろうと、彼女は諦めていた。自分と同じように、もし、トートクに一欠片でも未練のようなものがあれば、それを追求しただろう。
 だが、敗北を喫したはずの兄の表情は、ここ最近では見たことがないほどに晴れやかだった。
 部屋に設置された簡易的なポケモン回復装置をいじりながら、「帰りは、どこかでもご飯でも食べようか」と呟く兄に、彼女は何も返さない。
 自慢の兄だ、いや、今だって自慢の兄だ。
 その性格的に、勝利絶対主義のポケモンリーグが合わなかったというのはわかる。だが、もう少しだけ、もう少しだけでいいから、ポケモンリーグで活躍する兄を見たかった。その能力はあるはずだった。
 その時、控室の扉をノックする音が聞こえた。そして、彼等がそれに答えるより先に扉が開かれる。
 現れた男に驚いて、マユミは会釈することを忘れた。品性高潔で知られるタマムシジムトレーナーには不似合いな行動だった。
「どうも」
 その男、モモナリは、マユミとトートクに軽く会釈すると、彼等の返答を待つより先に続ける。
「いい試合だったよ、楽しかった」
 マユミは、モモナリの意図が読めない、だが、彼女はその言葉に、強烈な嫌悪感を覚える。
 いい試合だった、そんな事ある訳がない、あの試合は、一方的な、いたぶるような試合だった。
「そうだな」と、トートクはそれに返す。
「あんな試合は、久しぶりだったよ」
 しばらく部屋の中に沈黙が流れた後に、再びモモナリが切り出す。
「噂で聞いたんだけど、引退するっていうのは本当か」
 トートクは、それに一瞬表情をこわばらせた、何故それが漏れているのだろう。
 だが、よくよく考えれば、そのような噂が出てくる事自体は何も珍しいことではない、Bリーグを全敗で終えたトレーナーにはそのくらいの噂は出るだろう。
「ああ」と、トートクはそれに答えた。
「本当だよ」
「あ、そう」と、モモナリの返答はあっさりとしたものだった。
 そして、笑顔を作りながら続ける。
「まあ、良いんじゃないの。いつでもできるよ、戦うこと自体は」
 その言葉に反応するように、モモナリのボールからゴルダックが飛び出し、モモナリのサイドに陣取る。
 モモナリは反射的に彼の背中に回り込む、ゴルダックの背中越しに見えたのは、ものすごい剣幕で自分を睨むマユミの姿だった。
「いいよ」と、モモナリはゴルダックをボールに戻す。ゴルダックはマユミの敵意を感じ取ったのだろうが、彼女はポケモンを繰り出していない。
 トートクの制止の声を無視して、マユミは一歩モモナリに踏み込むと、彼の頬に平手打ちした。
 彼女にとって、彼の言葉は屈辱以外の何物でもなかった。
 許されて良いことではないと思った、圧倒的な現実を見せつけた側が、いつでも戦えるなんてこと言うなんて、許されるはずがない。
 それが出来ないから、それが出来なかったから、兄は引退するんじゃないのか。
 この行動が、自分のエゴでしか無いことくらい、マユミは理解している。モモナリに侮蔑的な意図があったかどうかはともかく、こんな事、トートクは望んでいないだろう。
 だが、家族に対して叩きつけられた侮辱に、体がゼンマイ細工のように反応してしまった。
 否、嘘だ、それは違う。
 確かに最初はそうだった、家族を傷つけられた事に腹を立て、モモナリに踏み込もうとした。
 だが、彼のボールからゴルダックが飛び出してきた時、彼女の足はすくんだ。それは当然だ、人間一人が、ポケモンとトレーナーに叶うはずがない。
 しかし、そのすくむ足に、彼女は自己嫌悪していた。ゴルダックが目の前に現れた時、彼女は自らのポケモンで迎え撃つことを考えすらしなかった。それも不思議な事ではないし、責められるようなことでもない、自分より強い兄を徹底的に潰したトレーナーとそのポケモンに、反射的に立ち向かえるだろうか。
 家族を思う直情的な感情すら、強さの前に消えてしまうことが腹ただしい。
 彼女はモモナリを張った、張ったが、それはモモナリがゴルダックを手持ちに戻したからだ、張ることをモモナリが許したからだ。
 涙を見せながら、彼女は控室を飛び出した。いたたまれなくなった、自らの中に生まれ続けている感情の渦に、耐えきれなくなっていた。
「悪いな」
 二人きりになった控室で、トートクは回復したポケモンたちをベルトに戻しながら、モモナリに謝る。
「許してもらえるかどうかはわからないが、アイツもアイツなりに色々あるんだろう」
「いいよ、慣れてるから」と、熱を持ち始めた右頬を撫でながら、モモナリは特に怒る様子もなくそれに答えた。
「悪気はなかったんだ、後で謝っといて欲しい」
「少し風に当たろう」と、トートクは提案する。
「あまり、良い空気じゃない」
「そうだね」と、モモナリもそれに頷いた。





 チョウジタウンポケモンリーグ公式対戦場観客席。
 試合中は数多くの観客で賑わうそこも、試合が終わって一時間もすれば、ガランと誰も居ないただただだだっ広いだけの空間となる。
 遮るもののない観客席を、チョウジタウン特有の鋭く冷たい風が吹き抜ける。清掃員が見逃した潰れた紙コップがそれに遊ばれていた。
「へえ、こういう風に見えるんだね」
 白い息を吐きながら、モモナリがそこから見える対戦場を眺めて言った。
「あまりいい眺めじゃないなあ、片一方からの視点でしか試合を見ることが出来ないし、やっぱりセキエイの控室が最高だよ」
 トートクは色が落ちかけているプラスチック製の椅子に腰掛けて、同じく白い息を吐きながら答える。
「ここから見るのも良いもんだぞ、友達や家族と一緒にワイワイやりながら、その対戦場の名物飯を食う。それだけで、一生の思い出になる」
「よくやったの」
「まあな、子供の頃からポケモンリーグ観戦は月イチの楽しみだった」
 へえ、と、モモナリはそれに答えて。トートクの隣に腰掛ける。
 しばらくお互いが会話の出だしを静かに牽制し合った後に、モモナリが問う。
「悔いは無いんでしょ?」
 それが何に対してのことなのか、言われずともわかった。
「これっぽっちも無いさ、そもそも、この世界に入った事自体が、間違っていたのかもしれない」
 笑いながらそういったトートクに、モモナリは首を振りながら答える。
「あんたは才能あるよ、俺に仕掛けてくる度胸だってある」
 ふふ、と、トートクは小さく笑った。それを控室で言っていれば、殴られずにすんだのに。
「少し、めんどくさい話をしてもいいか?」
 モモナリの沈黙を肯定と判断して続ける。
「幼馴染がいるんだ。向こうはどう思っているか知らないけど、俺は親友だと思ってる。頭の良い奴で、今はタマムシ大学に通ってんだけど、それでも俺みたいなやつと付き合ってくれる良いやつだ」
 ふうん、とモモナリが相槌。
「そいつはポケモンバトルが好きなんだ、からっきし弱いけど。そいつと一緒に俺もポケモンバトルで遊んでいたら。どういうわけかこういう身分にまでなっちまった」
「よくあることだよ」と、モモナリが言う。
「ところがだ、ポケモンリーグに入ってみたら、これっぽっちも楽しくねえ。わかってる、ここでお友達や楽しさを求めること自体が間違いだってことはわかっているんだがな」
 何も返さぬモモナリに続ける。
「そう考えながら戦っていく内に、気づいちまったんだ。俺にとってポケモンバトルってのは、友達と一緒にいることだったってことに。俺が本当にいたい場所ってのは、対戦場ではなく、こっちの観客席だったのかもしれないって」
 モモナリはまだ何も答えない。静かに唸り、その言葉をなんとか理解しようとしていた。
「お前は、どうしてる?」と、
「俺にはわかる、お前はリーグトレーナーとはちょっと違う、何が何でも勝ちを拾いに行くタイプじゃねえ。だったら、どう考えて、何を割り切って戦ってるんだ? それがわかれば、俺はまだ」
「すこし、時間が欲しい」とモモナリは遮るように答えて、ギュッと目を閉じた。
 しばらく、彼等の間に沈黙が流れた。
 トートクにとって、その三分は、彼が感じることのできる最も長い三分だっただろう。
 やがてモモナリは、絞り出すように答える。
「俺には、いない」
 ピンとした答えではなかった。
 その意味をトートクが問うより先に、モモナリは足元を指さして続ける。
「こっちに、友達はいないんだ」
 感情のない声だった。怒りも喜びも悲しみも存在しない声だった。モモナリは、それが一体どのようなことなのか、どう思われることなのか、誇りなのか、恥なのか、それを知らなかったから。
 トートクは、その言葉から、モモナリという人間を、存在を、意味を理解し、それが信じられなく、一瞬だけモモナリから目をそらし、そして再び彼を視界に捉える。
「ありがとう」と、トートクはモモナリに頭を下げた。
 これで、何の後悔もなく辞めることができる。
 確かに、今は悔いがない。だが、もしかすれば、五年後、十年後、二十年後、五十年後にポケモンリーグを見た時に、もしかすれば一瞬だけ生まれるかもしれなかった後悔の念が、今この瞬間に、完全に消え去った。
 自分と、モモナリの間には、ハッキリとした境界線が存在する、それこそ、この観客席と、対戦場のように。
 それがわかった。辞めるには十分すぎる理由が、言い訳が出来た。
 その時、遥か遠くから、トートクの名を呼ぶ声が聞こえた。
 彼等がその方向を見ると、少し遠くの観客席から、マユミと、痩せ型の男が手を降っているのが見えた。
「あれが?」と、モモナリはトートクに問い、「ああ」と、彼はそれに答えて立ち上がった。
 ポケギアに連絡を入れてくれればよかったのに、と思った時、トートクは、まだポケギアの電源を切ったままだとういことに気がついた。だがまあ、今日一日くらいはポケギアを休ませてやってもいいだろう。ポケモンリーグが終わる、その日に親友の声を聞けばそれだけでナーバスになってしまうほどに辛く苦しかった日々が終わるのだ。もうポケギアの電源を切らなくても良い。
「一緒にメシでもと思ったんだけど」
 トートクの背後から、消え入りそうなほどに小さな声が聞こえた。
「いいぜ、一緒に行こう」
 そう言ってトートクが振り返った時には、もうモモナリは彼から離れつつあった。
 おい、と、彼を引き留めようとしたトートクに手を降ったモモナリの表情を、彼は忘れることが出来ないだろう。
 トートクとモモナリは、今日始めて面と向かい、戦い、挨拶以上の長い会話をした。
 ただそれだけの関係を、友人関係だと断言する人間はいないだろう。
 だがこの日、モモナリの友人がまた一人、ポケモンリーグから去った。

■筆者メッセージ
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来来坊(風) ( 2018/03/21(水) 20:59 )