120~-生傷
血だらけの右腕をぶら下げてハナダ総合病院に現れたモモナリは、何を血迷ったのかそのまま受付に向かっていった。すぐに緊急外来に連れて行かれたが、そうされなかったらきっと律儀に順番を守ったのだろう。チャンピオンロード世代の経験からだろうか、応急処置は完璧だった。
「トレーナーに生傷は付き物とはよく言ったものですが、ここまでの規模になるとなかなか珍しいですね」
ハナダ総合病院外科医のテヅカは、モモナリの腕をカメラで撮影しながら言った。前腕と上腕にまたがる噛み傷は、加害者がコラッタやアーボなどの小型のポケモンではないことを如実に物語っている。
「いや、フカマルに噛まれてこの程度な事自体は不幸中の幸いというか、悪運が強いというか。普通なら骨まで持って行かれてもおかしくないですよ」
「小型とはいえドラゴンですから、力を込めれば食いちぎられていたでしょうね。親の気を惹く甘噛のようなものだったんでしょう」
モモナリは随分とあっけらかんと答えた。局部麻酔が効いて痛み自体は引いているとはいえ、あまり動揺はしていないようだった。その気楽な態度が砕けた雰囲気を醸し出し、テヅカもついつい口が回る。
「甘噛だろうが本気噛みだろうが人間は怪我しますからね、神経と関節に被害がなさそうなのは奇跡に近いですよ本当に。感染症も今のところは大丈夫そうですけど、抗生物質はしばらく飲んでもらいますよ」
テヅカは看護婦に後処理を指示すると、血液検査の調査票を手にとった。最近では随分と清潔になったとはいえ、ポケモンの牙には危険な細菌が潜んでいる可能性がある。感染症の検査は噛み付いたポケモンの大きさに関わらず、必ず行わなければならなかった。
テヅカの縫合の手腕は見事だった、「傷口の大小以外はラッタに噛まれたものと大して変わらない」との言葉通り、彼は非常に慣れた手つきで上腕から前腕にかけての縫合をこなした。しかし、それは同時にポケモンの被害の多さの裏返しでもあった。
「麻酔が切れたらまた痛むようになります。一応鎮痛剤は処方しますが、こればっかりは我慢してもらうしかありません。後は消毒のために出来れば毎日来てください」
「まあ仕方ありませんよね。たまにはこっちが痛い思いするのも」
右腕の殆どに包帯をまかれたモモナリは、苦笑いを浮かべながら答えた。麻酔を打つ前から痛みを殆ど表情に出さず、弱音や泣き言を吐くこともなかったが、その傷は気丈に振る舞うことを美徳としている大人でも思わず涙を浮かべてしまうようなものである事は、外科医のテヅカは良くわかっていた。
「ところで、モモナリさん。まあこれは形式上のものではあるのですが」
テヅカは、キュッと真顔になった。恐らくはあの事だろうな、とモモナリもある程度覚悟を決める。
「人に危害を加えたポケモンに関しては、我々が保健所に報告する義務があります。勿論危害を与えた相手がトレーナーであってもです。そして、我々、保健所とトレーナーの判断によって『その後』の事も決めなければなりません」
それは、ポケモンと人間が共生する上での現実だった。ポケモンと人間は、その絶妙なパワーバランスのもとに成り立っている、そして、そのバランスを壊すことの出来る権利は、常にポケモン側にあると言っても良かった。
勿論、ロケット団のように明確な悪意を持って人に危害を加えようとするトレーナーが居ないわけではない。しかし、彼らのような人間が社会性の維持という名目のもとに制裁されてしまえば、再びポケモンの見えない支配が始まる。
元来、トレーナーとはそのような支配を断ち切るための存在だった。直視したくない現実ではあるが、保健所に所属しているトレーナー達は、最低でもバッジ七つ以上の精鋭揃いだった。中には、Aリーグに在籍した経験のある元リーグトレーナーすらいる。
モモナリは、ふふ、と小さく笑った。
「先生、これは笑い話ですよ。天才天才ともてはやされていたチャンピオンロード世代が、ポケモンとの距離を測り間違えて手を噛まれた。ただそれだけの話なんですよ」
「笑い話かどうかは問題ではありません、敵意があったかどうかなんです。フカマルならまだ間に合いますが、敵意を持ったままガブリアスになってしまえばどうなるか、わかるでしょう」
自然界を基準にして考えれば、ポケモンが人間に牙を向けること自体は何も悪いことではない、強力な力を持った存在が、自らを押さえつけようとする外敵に反抗することはむしろ正しいとすら言える。しかし、人間社会ではその道理は通らない。人間には向かう危険な存在は極力排除され、彼らが本来住むべき世界へと戻されるか、それともまた別の方法で隔離されるかの措置を取らざるをえないのである。
「甘噛みに敵意があるわけ無いでしょう。僕がガブリアスのように強固な体を持っていないのが悪いんです。それに、僕だってトレーナーの端くれですから、もしその時が来れば、自分でケリを付けますよ」
☆
ワタルは、釣られたモモナリの右腕をじっと見つめたまま、何も言葉を発せないでいた。
見舞い片手にモモナリの家に飛び込んだまでは良かったが、いざ実際に彼を目の前にすると、言葉の順序に困る。一人のリーグトレーナーの人生を左右しかねなかった出来事の発端である責任を感じながらも、彼の右腕がまだ繋がっていたことに安堵もしていた。
今回モモナリの右腕に噛み付いたフカマルは、元はワタルがドラゴンの生息地でタマゴの状態で発見したものだった。親のいないそのタマゴを不憫に思った彼は、それを友人トレーナーであるモモナリに託した。特に考えがある行動ではなかったが、ドラゴンを操るモモナリの姿を見てみたいという気持ちがないわけではなかった。
「先に言っときますけどね」と、モモナリが左手の慣れない手つきで見舞いの菓子の包装を解きながら言う。
「謝罪の言葉はいりませんからね」
少しばかり含みのある言葉だった。そして、たしかにそこには憤りの感情がある。
だが、それが単純にフカマルに傷を負わされたことに対するものではないことはワタルにも十分に理解することが出来る。
彼が不服なのは、ワタルが自らの姿に言葉をつまらせたことだろう。哀れみなど持たれて欲しくなかったし、もっと言えば、自らにタマゴを託したワタルの選択を、彼が後悔するような事など屈辱以外の何物でもない。この事件を理由にトレーナー業の引退について心配されるようなことがあれば、右腕ではなく喉笛に食らいつかれて死んだほうがましだったとすら思うだろう。
もちろん、それが無茶な要求であることはモモナリにもよくわかっている。仮に立場が逆ならば、モモナリも言葉をつまらせただろう。だからこそ、この憤りの感情を何処で昇華するべきか、考える必要がある。
「僕の油断が原因です」
突き放したような言い方に、迷いはなかった。
ふう、と、ワタルはため息を付いた。取り付く島もなかった。
「フカマルは今どうしてる」
モモナリは腰のボールを指差して答える。
「少し、落ち込んでいるという所ですね」
そうか、とワタルは再び言葉を切る。そして、じっくりと考え、言葉を選びながら続けた。
「何かあれば、遠慮なく相談するといい。我々はドラゴンの専門家、選択肢はいくつもある」
モモナリは「ええ」と曖昧な相槌を打ち、ワタルと同じように頭のなかで言葉を選んだ後に「わかってますよ」と続けた。
☆
フカマルは、自分がとんでもない事をしでかしてしまったことを理解していた。
いつも自分を可愛がってくれるアーマルドにいつもするように、親であるモモナリの気を引こうと、軽く腕を咥えただけのつもりだったのだ。
しかし、モモナリの腕は柔らかく、その時口の中にこれまで味わったことのない気持ちの悪いものが広がった、それが血液であろうことはなんとなく理解が出来た。それに驚いていると、アーマルドの咆哮が聞こえた、これまでにない威圧があるそれに、フカマルは思わず口を離した。
モモナリの腕からは赤いものが噴き出し、彼は苦悶に表情を歪ませていた。ユレイドルはつるをモモナリの右腕に絡ませて血の流れを止め、ゴルダックは水を吹き出して傷口を洗った。
そして、彼は家を出た。自分達が傷ついた時にあの建物に行くように、モモナリも傷を塞ぎにあの建物に向かうのだろうとフカマルは思った。
家に戻ってきたモモナリは、右腕を白い布でぐるぐると覆っていた。
フカマルの嗅覚は僅かではあるが血の匂いを敏感に感じ取った。彼の傷はまだ塞がっては居なかったのだ。
その時、彼女は朧気ながらに理解してしまった。アーマルドやゴルダックを統べり、自らの親でもあるこの人間は、とてつもなく弱い存在なのだろうということを。
再び差し出された手に、彼女は身を任せることは出来なかった。その優しさに対して、自分は強力過ぎた。何が彼を傷つけ、何が彼を傷つけないのか分からなかった。
☆
「マズイことになったんですよ」
傷が塞がっていることを確認しながら、慎重に抜糸を続けるテヅカに、モモナリはため息を付きながら言った。
「痺れや痛みがありますか」
テヅカは手の動きの正確性は一切落とすこと無く、意識の何割かだけをモモナリに割いているようだった。これだけの傷ならば、痺れや痛みが残っても別段不思議なことではない。
「いやあ、それがねえ。どうもあれが原因であいつがちょっとね」
抜糸の手がビタリと止まった。
「それはつまり、人間を敵とみなし始めているということでしょうか」
「いやいや、そういう事じゃなくてですね」
言い方がまずかったな、とモモナリは苦笑いした。
「どうもね、あれ以来僕に遠慮しているんですよね。避けているとまでいうほどじゃないんですがねえ」
「それって良いことなんじゃないですか」
テヅカは不思議そうにそう返した。
「人間とポケモンの間に対等なコミュニケーションは成立しないでしょう、人間がポケモンに対して配慮をする状況だっていくらでもあるでしょうし、フカマルが遠慮することによってモモナリさんのリスクが減るのならば、これ以上無いことじゃないですか」
「まあ、そう考えることもできるんですけどね」
モモナリはどう説明すれば良いのだろうかと困って唸った。だが、ここで話題を止めると何らかの誤解を生むかもしれなかった。「お前はちょっとずれた考え方をしてるから、喋りすぎるくらいのほうがちょうどいい」と、彼はクロサワからこれでもかというほどに指導されていた。
「例えばペットとか、生活のサポートのような『共存』の付き合い方ならそれもありなんですけど、僕達は『共闘』の関係性ですから、安易に力関係を意識されると困るんですよ」
ふうん、とテヅカは鼻を鳴らした。彼はハナダの生まれではないが、この地に赴任して長い。モモナリと言う特殊な生き方を生業とする地元の英雄について、知らないわけではなかった。
「イメージと違いますね」
モモナリの腕から糸を全て抜ききったテヅカは、その手を止めて更に深く踏み込んだ。彼はその好奇心から、他業種の経験や事柄について興味をもつことが多かった。
「テレビ中継などで見るバトルでは、ポケモン達はそれは見事にトレーナーに従っているから、てっきり彼らの間には力関係がハッキリと存在しているものだと」
「まあ確かにそういう支配の仕方が無いわけではありませんがね」
ふう、とモモナリがため息をつく。
「よくあるのは一人と一体のポケモンがその他のポケモンを支配下においているパターンですね。一匹のポケモンと信頼関係を築くだけでいいからこれが一番手っ取り早いんですよ。ただ、それではチャンピオンどころかBリーグに行くことすら無理でしょうね。実際、僕もそういうタイプには全く負ける気がしません」
「すごい自信ですね」
テヅカは目を丸くした。彼はこれまでモモナリのことを謙遜がちな男だと思っていたのだ。
「支配されてるポケモンはね、一歩目がね、遅れるんですよ。どんなに頑張っても、自分が置かれている場の状況よりも、支配者の顔色に意識を奪われる一瞬があるんです、だから絶対に一歩目が遅れる。トレーナー毎に持っているポケモンのポテンシャルに大きな差があった昔ならともかく、現代バトルじゃその一歩の遅れは絶望的ですよ」
これは面白い現象なんですけどね、と続ける。
「ブリーダー達の努力によって、トレーナーが育成に時間を奪われることは殆ど無くなりました。バトルに対する情報は常に発信されて、理屈の上では環境に取り残されるトレーナーはいなくなった。それでも最終的にトップにたどり着いたのは、ポケモン達と素晴らしい信頼関係を結ぶことに成功したトレーナー達なんですよ。若い人は嫌がるかもしれないが、『チャンピオンロード世代』の化石のように古い考え方は、まだ生き残っている」
それなら、とテヅカがモモナリに問う。
「新しいチャンピオンであるキシもそうであると言うことでしょうか」
彼の名前は、バトルに明るくないテヅカでも知っていた。
モモナリはその質問に満面の笑みで「もちろん」と返す。
「キシ君はバトルに対する豊富な知識とそれの対戦への応用を、あの強力なポケモン達に認められた素晴らしいトレーナーですよ。共同体の長として、これ以上無い資質を持っているでしょうね」
☆
フカマルは、ズルッグの『ずつき』を余裕を持ってかわした。ズルッグのトレーナーは悔しそうな素振りを見せて次の指示を飛ばす。
一歩目が遅いんだよなあ、とモモナリは思いながら『ドラゴンクロー』の指示を出す。相手のトレーナーのほうが先に指示を出していたはずなのに、先に動いていたのはフカマルだった。
モモナリにとって、それは当然の事だった。相手のトレーナーの指示は独りよがりなのだ。慌てふためくズルックの心境を全く考慮できていない、モモナリだったら、ズルックが落ち着きを取り戻す頃合いを図ってから指示を出しただろう。攻撃というのは、トレーナーが急かして成立するものではない、それをポケモンが全うして初めて攻撃として成立するのである。
先手を取られ『ドラゴンクロー』を食らってしまったズルッグは、よろめき、指示を待つ。だが、相手のトレーナーの中ではすでに指示が完結している上に、ズルッグが助けを求めていることに気付くのに遅れていた。
フカマルは更に畳み掛けようと踏み込む、『ドラゴンダイブ』で追撃する気が満々だった。しかし、モモナリは『とっしん』と彼女の思いとは別の技を指示し、彼女もそれに従った。相手に反撃の糸口すら掴ませない、圧倒的な立ち回りだった。
相手はまだ年端もいかぬイッシュの少年、片やモモナリはカントーのリーグトレーナー、滅多に起こりえないそのレベル差は、殆どの人間が常識的に持っているトレーナー同士の対戦とは全く違うものを生み出していた。
初めの内は良かったんだけどなあ、と、モモナリは思い返していた。
数人のリーグトレーナーと共に足を踏み入れたイッシュ地方、地方同士の新しい試みであるリーグ対抗戦にて、モモナリはイッシュの人気トレーナー二人を下し、一夜にして圧倒的な『イッシュの外敵』となっていた。
対抗戦の翌日、予定にあったポケウッド見学を上手くバックレたモモナリは、イッシュのトレーナー達と野良バトルをしていた。フカマルにより多くの経験を積ませたかったし、何よりモモナリは他地方のトレーナー達と戦うのがこれ以上無いほどに好きだった。地元であるカントーでは名前が邪魔をして野良バトルが成立しづらかった。他地方なら名前も売れていないから野良バトルが成立しやすいと言う目論見だった。
イッシュ地方において、モモナリのその目論見は半分外れていた。なんといっても彼は前日にイッシュリーグ史上トップクラスの『外敵』として顔を売りまくっていたのだ。モモナリの出現はたちまち街中に広がり、血気盛んなアマチュアや地元のジムトレーナー達が、様々な目的をその心に宿し、『外敵』に殺到したのである。イッシュの誇りを『外敵』に知らしめたい、今最も有名な『外敵』を潰して名を挙げたい、自分が生み出せる限りの暴力を叩きつけることができるのならば誰でも良い、それが『外敵』ならばメリットしか無い、それぞれの思惑がモモナリを餌として認識していた。
そしてモモナリは、的確に、丁寧に、それでいて手を抜くことなど無く、彼ら一人一人をしっかりと尊重しながら潰していった。彼らが自分を快く思っていないことはなんとなく雰囲気から感じていた。だからこそ、それらの戦いは楽しかった。モモナリにとって、敵意は慣れ親しんだ友人のようなものだったし、敵意で相手が本気になってくれるのなら、それでいいとすら思っていた。
だが、楽しい時間もいつか終わりが来る。実力者をあらかた片付けた後には、少年トレーナー達の遊び相手になってしまう。
実力者が軒並み倒される光景を目の当たりにしていた少年トレーナー達は、端からモモナリに勝とうなどとは思っていない。大抵はちょっとした話題づくり、極稀にモモナリから何かを学ぼうとする若く才能あるトレーナーが居ないわけでもないが、望み薄。
「今日はもうやめておこう」
無理に立ち上がろうとしているズルッグを見て、モモナリは手を振ってそういった。イッシュのトレーナー達にとっては異国語だったが、モモナリの言わんとしていることは誰もが理解することが出来た。その決定権を持っているのが彼だということに、誰もが納得するしか無かったのだ。
街の中心を少し外れた場所でちょうどいいベンチを見つけたモモナリは、そこに腰掛けモンスターボールからフカマルを繰り出した。
フカマルは戦いかと身構えながら現れたが、向こう側に何も居ない事を確認すると、ちらりとモモナリを見やった。
「ほら、ご褒美だ」
モモナリはモモンのみを取り出す。この甘い甘いきのみは、フカマルの大好物の一つだった。
大好きなご褒美に、フカマルも飛び上がって喜ぶ、モモナリの右手にあるモモンのみに釘付けになり、短い両腕を一生懸命に振っていた。
モモナリがそれをそっと地面に置くと、少し時間を置いてからフカマルはそれにかぶりつく。微笑ましくもあるその姿に、彼はフカマルに気づかれないようにため息を付いた。
強さの面では、ドラゴンの名に恥じない逸材。ベテランリーグトレーナーであるモモナリは、自らが親であるという贔屓目を加味しても、彼女のは素晴らしいものであると評価していた。
また、戦いに関するメンタルも申し分ない。たとえ対戦相手がフカマルよりも大きな体を持つポケモンであろうとも、それに臆すること無く飛び込んでいけるいい意味での無鉄砲さがある、兄貴分であるゴルダックやアーマルドにいい影響を受けているし、力がつくのも早い。同じミスを二度繰り返すこともなく、新しい技術もすんなりと飲み込む。このまま順調に育てば、ポケモンリーグでも間違いなく力を発揮することができるだろう。
だが、とモモナリは思う。
今日もまた、彼女はモモナリの手から直接きのみを受け取らなかった。
長袖の上から、傷跡の膨らみをなぞる。医者の腕が良かったのだろう、もはや痛みは殆ど無い、気温の低い雨の日に、骨にしみるような痛みが少しある程度だ。
彼自身は、この傷に対してトラウマのようなものは殆どないと言っていい、元々ポケモンとトレーナーの距離が近かった『チャンピオンロード世代』、このようなことは少なくない。傷の大小を問わなければ、誰にだってある。
問題は、フカマルの方だった。
自らの親を傷つけてしまったと言う経験は、想像以上に彼女に重くのしかかっていた。
あれ以来、フカマルはモモナリと距離を置くようになり、接触に関しては、露骨に避けるようになっていた。モモナリが彼女に右手を差し出せば、悲しい顔をして逃げ回るし、モモナリがご褒美にきのみを取り出しても、それを彼の手から直接受け取ることはしない。
一つ彼がフカマルの方に踏み込めば、一時的に関係の改善にはなるかもしれない。だが、それでは意味がない。あくまで彼女の方からモモナリに歩み寄ることがなければ、根本的な解決にはなりえないと彼は思っていた。
手持ちのポケモンとトレーナーの精神的な関係は、常に対等でなければならないと言うのが彼の持論だったのだ。お互いがお互いを対等に考え、尊重しあっているからこそ、信頼は生まれるのだと信じていた。
「どうにかしないとなあ」
彼女の処遇をどうするべきか、それもモモナリの悩みだった。
極端なことを言えば、モモナリは彼女をパーティに加える必要がない。現状でもリーグ戦を戦い抜けるだけの戦力はある、彼女をパーティに加える利点よりも、長年形を変えずに維持してきたものの崩壊のリスクほうが大きいかもしれない。
強さは申し分ない、いずれガバイト、そしてガブリアスへと進化するだろう。
いっその事、手放してしまったほうが、お互いのためにいいのかもしれないな、と考える。
荒れた土地の主として、人間と関わりを持たず、ポケモン達を支配するだけの立場になることはできるだろう。
「それもなあ」と呟く。
フカマルに対し、思い入れがないわけではない、天真爛漫な彼女を快く思っていたのはモモナリの手持ちのポケモン達だけではなかった。
もう一歩、もう一歩何かが噛み合えば、と思うのだった。
☆
気がつけば、親であるモモナリや兄貴分であったアーマルドよりも高い目線になっていた。一歩の距離は大きくなり、自らと向き合ったポケモンが、それだけで身構えるようになった。何より、自らが望んでいた大技『ドラゴンダイブ』や『げきりん』『じしん』をモモナリが許可するようになったし、それらの技はとんでもない威力で、対戦相手を次々と沈めていった。
自らがフカマルからガバイトに進化した日とは比べ物にもならない興奮がそこにはあった。ドラゴンの一族でも最強クラスの力を彼女は得たのだ。戦いが好きな彼女にとって、これ以上の興奮はないだろう。
だが、同じくらい大きな不安も、彼女にはあった。自らが得た力は、恐らくとんでもないものなのだろう、そして、その気になれば、人間などあっという間に。
勿論それを実行するつもりなんて微塵もない、彼女は人間に対する嫌悪感など皆無だし、そもそも彼女の実質的な親であるモモナリは人間だ。
彼女が恐れているのは、彼女の意志とは関係なくモモナリを傷つけてしまうことだった。フカマルのときに味わった血の味は、未だに忘れることはできない。モモナリは笑って右手を振るが、雨が降る日に、たまに顔をしかめているのを彼女は知っていた。
彼女は、親であるモモナリの事が好きで好きでたまらなかった。だから本当はじゃれつきたいし、頭をなでてほしい、きのみは直接口の中に放り込んでほしいし、その胸の中で眠りに落ちたかった。
だが、自分が触れてしまえば、またモモナリは、とその想いは押し殺される。
彼女たちに『神』の概念があるわけではないが、自分の体は、戦うために作られすぎてはいないかと思うことがあった。
勿論、それらの機能が邪魔なわけではない。戦えば、モモナリに喜んでもらえる。相手を叩き伏せれば、もっと喜んで貰える。
最終進化系へと進化した今、戦うことにかけては今までにないほどの仕事を出来るようになるだろう。
だが、それだけでは満足することができない。戦う時、自分の前には常に対戦相手がいる。これまでも、そして、これからもきっとそうなのだろう。
彼女は、大好きな親であるモモナリと向き合ってみたかった。そして、彼女自身が変わらなければそれはできないことも知っていた。
☆
妙な雰囲気を感じ取り、モモナリは目を覚ました。野生ポケモンの生息地で野宿をすることも多かった『チャンピオンロード世代』、昼よりむしろ夜中のほうが、空気の変化に敏感だった。
何かが、ロフトベッドに近づいていた。
侵入者ではないだろう、とモモナリは予測した。もし仮に侵入者だったとしたらゴルダックが容赦しないだろうし、数年前に無知な物取りがゴルダック達にメタメタにされて以来、自分の家には不審者の陰すら無い。
ガブリアスだな、とモモナリはすぐに足音の主を推測した。ゴルダックにしては重く、アーマルドにしては軽い、聞きなれない足音だったから、今日進化したばかりの彼女なのだろう。
流石に襲われることはないだろう、とモモナリは寝たふりをして様子を伺うことにした。関係性に問題はあるが、自分に敵対心は持っていないはず、まあ、その時はその時だろうな、と思った。
彼女は上手く隠しているつもりなのだろうが、ドラゴン特有のゆっくりとした息遣いが聞こえる。やっぱり襲われることはないだろうな、とモモナリはひとまず安心した、興奮したときや、破壊欲求が我慢できない時のドラゴンの息遣いはこんなものではない。
ガブリアスという種族は、元々砂漠や洞窟に巣穴を作る。だから目は暗闇に強く、頭部にある二つの突起はセンサーの役割を果たしている。
好奇心旺盛な彼女のことだから、高くなった目線と、暗闇でも掴むことのできる感覚が楽しくて、部屋の中を探検のように探索しているだけなのだろう、と思った。
ベッドの端に爪がかけられて、布団を半分まくられて、右半身に生暖かい彼女の吐息が触れても、特に気にはしなかった、自分だって、手持ちのポケモンの寝顔が気になることくらいある。その逆があってもいいだろう。
彼女は、そのままじっとモモナリを眺めているようだった。すぐに興味の対象が移り変わるだろうと予測していたモモナリは少し不思議に思っていたその時。
右腕を、くすぐったさが襲った。
モモナリは、一瞬だけ過去の痛みがフラッシュバックし、最悪の事態を想定した。しかし、それはありえないだろうと頭の中で反響する。
二度、三度と、右腕がくすぐられる。ガブリアスの爪ではない。それは、温かく、湿り気を帯びていた。
それは、傷跡の膨らみをなぞっていた。モモナリの呼吸に何度もビクつきながら、優しく、優しくなぞっていた。
それの意味することに気づいた時、モモナリは上体を起き上がらせていた。月明かりが差し込むだけの薄暗い室内で、彼は確かにガブリアスと目を合わせていた。
恐らく、史上最強の生物の候補に上がるであろうと考えられる一族の彼女は、気まずそうにモモナリから目を逸らした。
「待て」
夜にふさわしくない声量だった。彼は焦っていた。
暗闇をそのままに、モモナリはヒラリとロフトベッドから降りる。
ガブリアスは、モモナリに背を向けたまま動けないでいた。これから何を言われるか、何をされるか、不安で仕方がなかった。
モモナリもそんな彼女の心情を理解していた、そして、だからこそ焦っていた。自分の中に芽生えた感情を、なんとしても彼女の伝えなければならないと思っていた。
「いい子だ」
彼女を刺激しないように、ゆっくりと彼女の正面に回り込みながらそう語りかける。
愛おしかった、力強く、そして優しく育った彼女のことが愛おしくてたまらなかった。そして、今日までの彼女の苦しみを想像すると、苦しくてたまらない。
「いい子だ」
もう一度そう言って、モモナリは両手を広げた。
ガブリアスは、ゆっくりと、モモナリを傷つけぬようにゆっくりと、彼の胸に頭をあずける
聞こえてくる鼓動のリズムは、とてもとても、懐かしいものだった。
彼女は、モモナリに引き込まれるように、カーペットの上で眠りについた。何かを思い出しているように、大きな体を小さく丸めていた。
モモナリもまた、ガブリアスを大事に胸に抱きながら、眠りにつく。
彼はゴルダックに目配せし、ゴルダックもまた、小さく頷いた。
月の薄明かりが、モモナリとガブリアスを照らしていた。
壁に背もたれながら彼らを見る最古参のゴルダックは、ようやくケリが付いたかと、安心していた。
お互いがお互いに、妙な意地を張りすぎていたのだ、と彼は二人の関係をもどかしく思っていた。
とは言え、どちらかが妥協すればいいというわけでもない、モモナリの弱さを恐れている奴に自分の背中を任せたくはないし、ポケモンの意見を尊重しないトレーナーに従いたくもない。
ガブリアスの強さは、多くのトレーナーと戦ってきたゴルダックも認めざるをえない程ではある。だが、この問題が解決しなかった場合、恐らくガブリアスは自分達の家族にはなれるだろうが、仲間にはなり得ない。モモナリは馬鹿だが、愚かではない、目先の強さにとらわれるようなら、とっくの昔に見切りをつけていただろう。
だからこそ、今日この日に勇気を振り絞り一歩踏み込んだガブリアスには、よくやってくれたという尊敬心を持っていた。それだけでも、自分達の仲間としては十分だ。特に彼女をかわいがっていたアーマルドなどはより喜ぶだろう。
そして、最後に彼は大きな仕事を任されていた。
以下にモモナリを愛おしく思っているからと言って、サイコパワーを扱えるわけではないガブリアスが、睡眠中の無意識下の行動を抑制できるわけがない。そして、例えば彼女の寝返りなどは、モモナリを押しつぶすのに十分だろう。
だからゴルダックのサイコパワーで、彼女の動きをそれとなく制御してほしい、というのがモモナリの指示だった。十数年の付き合いである、それまでの二人の流れを考えれば、モモナリの目配せにそのような意図があったことくらいわかる。
勿論この夜は寝ることができないが、ゴルダックにとってそれはなんてことのないことだった。
元々モモナリが眠りについている時、周りを監視するのは自分の役目だった、サイコパワーを操ることができる彼はある程度睡眠をコントロールすることができるし、今もそれは続いていた。
まあ、構わないさ、とゴルダックは思っていた。草タイプの『めざめるパワー』を取得したときのことを考えれば、大抵のことはなんてことのないことだった。
少しばかり眠るのを我慢すれば、戦力と仲間が手に入る。素晴らしいことじゃないか。