151-時代の終わり
対戦場のカイリキーは軽快な動きを見せ、同じく対戦場のガブリアス相手に先手を取った。
大きく『ビルドアップ』された上半身から繰り出される『クロスチョップ』の威力は想像したくもない。急所にあたってしまったかどうかは分からないが、ガブリアスはその一撃に沈んだ。
トキワシティジム、観戦席からその光景を眺めていたモモナリは「後手後手だなあ」と一つつぶやいた。
『トリックルーム』や『すなあらし』、それらの技がどのような性質を持っているか、更に、トキワジムリーダーのシゲルが意図的にそのような状況を作り出す事を知っていてもなお、それらに苦しむ七つ持ちのトレーナーたちは多い。
それらが作り出す特殊な状況と、殿堂入りトレーナーであるシゲルの確かな能力を同時に捌くことは、経験しようと思ってできるものではない。八つめのカントーポケモンジムは、座学では無くトレーナーそのものの資質を試すものだった。
そして、今八つめのバッジに挑戦しているトレーナーも、それらの要素に大きく苦しんでいるようだった。きっと彼は『トリックルーム』の性質を理解しているだろうし、自身が繰り出していたガブリアスが、素早さではカイリキーに大きく勝る、つまり『トリックルーム』の状況下では先手を取られるであろうことも十分に理解しているだろう。歴史の中で整備されてきた座学は、必要な知識を効率よくまとめていた。
しかし、彼はそれでもガブリアスを繰り出し、そしてやられた。勿論それはシゲルが試合のテンポを意図的に早め、トレーナーが考える時間を削っていることも理由の一つだろう。しかし、最も大きな原因は、彼が己の知識を、ひいては己自身を、全面的に信用することが出来ていないからだろう。
悪い手癖の一つだ、きっと彼はこれまで戦況に困ることがあれば、よく訓練された頼りになるガブリアスを繰り出し、それを乗り越えてきたに違いない。そうして積み上げてきた勝利は、彼の座学が戦況に反映されていないという事実を覆い隠すに十分な大きさだった。
挑戦者のトレーナーはようやく頭が冷えたのか、新たにファイアローを繰り出した。はぁ、とモモナリは溜息をつく。
ファイアローの特性である『はやてのつばさ』は、飛行タイプの技を優先することが出来るから、『トリックルーム』の影響を受けない、その瞬間的には正しい選択といえるかもしれない。
だが、その後に控えるバンギラスの存在を考えると、厳しいといえる選択肢だ。『すなあらし』を巻き起こしながら現れる岩タイプのバンギラスに対してファイアローは有効な選択肢を持たないし、当然『トリックルーム』状況下では先手を取られてしまう。
つまらない試合だなあ、とモモナリは思った。
挑戦者だったトレーナーは、どうやら二階観客席のモモナリに気づいていたらしく、試合が終わるやいなや、彼にアドバイスを求めた。
優しい表情をした若者だった。しかしそれでも、ジム挑戦に失敗した悔しさのようなものは、言葉の節々から感じることが出来た。
「初めてゲットしたポケモンは」とモモナリが彼に問う。
「ガバイトです。子供の頃からずっと」
そう言ってトレーナーは腰のボールを撫でた。先ほどカイリキーに倒されたガブリアスのことなのだろう。ジム内にある回復施設で、全てのポケモンが回復済みだった。
「それはゲットしたんじゃなくて、貰ったポケモンだろう。熱心なのはお父さん、それともお母さんかい」
子供がガバイトなんてゲットできるはずがないし、まともに育てることが出来るわけもない。大抵そこには、熱心な大人の影がある。
トレーナーは、バツが悪そうに肩をすくめた。
「おじいちゃんが、元々トレーナーだったんで」
その言葉に、モモナリは少し驚いた。彼の祖父ともなればどう若く見積もってもモモナリよりも年上のはず、『チャンピオンロード世代』を目の当たりにしているはずのその男すら、孫に対しガバイトを提供することで最愛を示すのか。
「僕がゲットしたことがあるのは、ニャルマーくらいですね」
浅はかな勘違いを窘められたようで、トレーナーは恥ずかしげだった。
「恥に思うことはない、十分立派だよ。奴らはすばしっこくて苦労する。そのニャルマーは、今はどうしてる」
「家で待ってますよ」
「ニャルマーのままかい」
「ええ、対戦はさせてませんから」
「それは、ニャルマーが弱いポケモンだからかい」
ええ、とトレーナーは答えた。
「仮にブニャットに進化したとしても、大きな強みのあるポケモンではありませんし、そんなポケモンを無理やり戦いの場に引きずり出すのは、可哀想だと思いまして」
「なるほどね、まあ、全く間違いってわけでもないけれど」
モモナリが一つ二つトントンと床を鳴らしてから「君、今いくつ」とまた聞く。
「十四です」とトレーナーもすぐに答えた。
「バッジを八つ集めてリーグトレーナーになりたいのならば、今持っているポケモン達を一旦休憩させて、ニャルマーと一緒に地方を回ってみるといい。野良対戦をこなしてもいいし、ジムトレーナー達をイジメてもいい。年齢的に遅いスタートになるかもしれないが、僕達の時代にはそのくらいから本腰を入れたトレーナーは結構いたし、大学を卒業してからリーグトレーナーになった人だっている。でも、今のままじゃ絶対に強いリーグトレーナーにはなれないだろうね」
それまではハキハキと答えていたトレーナーもその言葉には、少しばかりの沈黙を返した。モモナリの提案は、彼からすればとても考えられないような事だった。
「それはつまり、今の僕ではリーグトレーナーにはなれないと」
ようやく絞り出した言葉は、震えていた。
「なる事自体は出来ると思うよ。今日経験したジムリーダーシゲルの戦術を持ち帰って座学で対策を練り、それに適したポケモンをレンタルなり何なりすれば、誰だってなれる。シゲルは戦い方を変えることを許されていないし、今以上に強力なポケモンを使うことも許されない。挑み続けることが出来れば、いつか勝つことが出来ると思うよ」
だけど、と続ける。
「例えばバッジ八つを持って、レンジャー部隊のスーツ組になったり、ポケモン協会の職員になったり、ポケモンセンター関係の職業につくのが目的なら、それで十分かもしれないが。リーグトレーナーとして結果を残すのは殆ど不可能だろうね、それは断言できるよ」
「理由は、なんでしょうか」
「君は戦いのことはよく知っている、繰り返された座学の結晶だろう。例えばここでポケモンバトルに関するクイズ大会が開かれたとしたら、君は僕に圧倒的な大差をつけて優勝するだろうね。その努力は誇るべきだし、認められるべきだと思う。だが、君はあまりにも、座学に比重を起きすぎて、生きているポケモンを知らなさすぎる」
トレーナーがそれに何も返してこないのを確認してから、更に続ける。
「君はあの時対戦場でガブリアスが何を求めていたかとか、ファイアローが何を思っていたかとか、そういうことを考えてもいなかっただろう。君はポケモンや自分よりも、積み重ねられた座学のみを信頼しきっていて、例えば今日みたいな不意な状況において、自分で物を考えることを拒否してしまうきらいがある。すべてを捨てて、もう一度一からポケモン達と向き合ってみるべきだ、少なくとも、これまでの常識よりも自分やポケモン達の判断を優先することができるようになるまではね。それが出来た時、積み重ねた座学の理屈もわかるようになるはずだ」
「相変わらず、お人好しなこった」
トキワジムリーダー、シゲルは、挑戦者のトレーナーがモモナリから離れるのを見届けてから、そう気さくに声をかけた。
その声に振り返るモモナリは、待ち人と、救いの手が現れたことに安心して笑っていた。
「あれだけ言われりゃ、すっきり辞めれるだろうよ」
「どうだろうね、なにくそと躍起になるかもしれないよ」
「無理無理、二、三年前までのお前なら落ちぶれた懐古主義者の戯れ言と思えるかもしれないが。今年のお前はAリーグ五勝で勝ち星だけなら二番手だ、ああいうポケモンリーグを神格化してしまっているような奴から見れば、お前の言葉は金言で法律さ。まあ、アドバイスの内容自体は、そこまで間違ってないと思うけどな」
「人の半分でも良いから、経験を積めば、まだなんとかなると思うんだけどねえ」
無駄さ、とシゲルは笑ってモモナリの隣に腰掛ける。
「今更、戦いに対する姿勢が変わるなんてあり得ねーよ。あいつはまだ若いが、それこそ物心付く前からポケモンバトルについてのイロハを叩きこまれたようなタイプだ、もう染み付いてしまってるんだよ、そういう生き方がさ」
へえ、とモモナリはつまらなそうに相槌を打った。
「変わったものだねえ、僕にとってリーグトレーナーってのは目指すものじゃなくて、行き着いてしまうようなものだったと思うんだけどねえ」
その言葉を、シゲルは否定しなかった。恐らく自分も、携帯獣学の権威であるオーキドの孫でなければ、今のようにジムリーダーとして生きてはいないだろうという自覚があったのだ。
「俺達はかっこ良くなりすぎたのさ、だから、俺達になりたいと思う奴らが出てきても不思議じゃねえ。たとえそれが、悲しいくらいに才能が無い奴だったとしてもな」
はあ、と大きな溜息をつく。
「『夢』って奴なのさ。それがな」
その虚しさに、モモナリは何も返せなかった。シゲルもそれを察知して、「さあ、ところで」と明るく言って話題を変える。
「まさかこんな湿っぽい話をするためだけにこのクソ田舎にまで来たわけでもねえだろ、本題はなんだよ本題はさあ」
ああ、そうそう、とモモナリは胸ポケットから小さなメモ帳とボールペンを取り出した。見覚えのあるそれに、シゲルは、ははあと笑う。
「仕事熱心だねえ、こんな田舎に来なきゃならないほどネタに困ってるのかい」
「いやあ、今回はエッセイの話じゃないんだ。今度のチャンピオン決定戦について、観戦記を書きたくてね」
「なるほど、それで俺に話を聞きに来たってわけか」
リーグトレーナーになってからのクロセの活躍は、今更書く必要など無い。
しかし、シゲルはそれより前のクロセと直接戦っている。シゲル自身も、クロセのジム挑戦時についてのインタビューは多くはないが受けていた。
「いいぜ、ウチで飯でも食いながらゆっくり話そう。お前運がいいな、ちょうどカロスから取り寄せた酒もある」
「いや、ここで良いよ」
首を振ったモモナリにシゲルは驚いた。モモナリと言えば、ポケモンと戦いの次に酒が好きな男である。
「酒が入ると、話が大きくなるからね」
ふーん、とシゲルは手を組んだ。あまりその男の真面目な姿を見たことはなかった。となると、これからの質問は、とてもシビアな、こっちもまじめに答えなければならないものなんだろう。
「良いぜ、なんでも聞きな」
ありがとう、とモモナリはメモ帳をめくった。どうやら質問をメモしているようだった。
「今度の挑戦者、クロセ君だけど、僕は彼がレッドに匹敵するトレーナーなんじゃないかと思ってる。君は、どう思う」
痙攣したように、シゲルの肩が動いた。
質問そのものは、さして工夫のないものだった。新聞やテレビ番組などで腐るほど指摘されているようなことだったし、今のクロセの快進撃を思えば、ポケモンリーグについて齧った程度の知識しか持っていないような人間だって容易に思い浮かぶようなことだった。
だが、そんな戯れ事は別にクロセに限った話ではない。クロサワが活躍すればクロサワがレッドの再来になり、モモナリが活躍すればモモナリがレッドの再来になる、キシだってレッドの再来になったし、CリーグやBリーグ下位で引退したリーグトレーナーの何人かもそう言われていたのだ。ファンは伝説を欲しがる、リーグトレーナーたちはそれを良くわかっていた。
だからこそ、モモナリの口からその質問が出てきたことは感慨深かった。ロクに戦いのことを知らず身勝手に無責任に騒ぎたてる評論家や記者と違い、モモナリはトレーナーを見る目があった。シゲルはモモナリのそういう部分での眼力は評価していた。
ふう、と気持ちを落ち着かせるため息を付いた。
「難しい質問だな、たしかに酒が入ってたらちょっと大きいことを言っちゃうかもしれない」
「だろう。特に君にとってはとってもデリケートな質問だと思うんだ。勿論答えたくなければ答えなくてもいいし、強要はしないよ」
シゲルは遠く見るように目を細めて考えを巡らせた。どうにか適切な答えを出さなければと必死だった。
それでも結論を整理することはできなかったから。断片的に答えを口に出す。
「似ているのは間違いない、そう、間違いなく似ている」
「それは、戦略の面で」
「いや、人間性だ」
モモナリは少し意外だとばかりに、へえ、と語尾を上げる。モモナリは友人の一人としてクロセを知っていたが、彼は戦い以外では本当に少年らしい少年であり、寡黙なイメージのあるレッドとは似ていないと思っていた。
「案外、強いってのはああいうことなんだよ」とシゲルは続ける。
「今やレッドは伝説のトレーナーとして、寡黙で何を考えているかわからないけど、とんでもなく強い天才って言われているが、そりゃあ結局レッドを知らない連中が、『こういう男が強く有って欲しい』という願望を映し出してるだけだ。そして、レッドを知らねえ連中もそれに騙される。まあ、伝説って得てしてそういうもんだろ」
「じゃあ、実際はどうだったんだい」
「普通だよ、俺に比べりゃ無口な方だったかもしれないが。ポケモンを持っていないのに草むらに飛び込もうとするし、安い挑発には乗っかるし、ポケモンが死んだと聞けば涙もするし、ポケモンを使って悪どいことをしようとしている奴がいたら正義感を燃やすし、カントー最強のトレーナーが俺だと聞かされりゃ人並みには驚く。ただ、とんでもなく強かっただけで、それ以外は普通のやつだよ」
なるほど、とモモナリは唸った。確かにレッドというトレーナーの人間像をそのように仮定されてしまえば、クロセともよく似ている。
「今でもたまに会うんだぜ」と、シゲルはなんでもない事のようにつぶやいて、モモナリを驚かせる。
「シロガネ山の生態系を調査しながら、他地方の未開の地に突っ込んで行ったりしてるらしい。だからセキエイで何が起こってるかはたまにラジオでチェックする程度らしいが、ワタルが現役なことには驚いてたよ。不思議と、皮肉には聞こえなかったなあ。オーラが無いというかなんというか、気の優しい男だよ」
へえ、とモモナリは相槌を打つほかなかった。目の前の男が伝説を知る男の一人だと知ってはいても、やはりこのように具体的なエピソードを出されるとより凄みが増す。
その余韻をもう少し堪能しても良かったが、更に質問を続けることにした。
「それなら、戦略面はどうだろう。今はあの頃に比べて戦略に関する情報がいくつも明らかになっているし、それを知っていることが直接強さや勝敗に関わることも無くはないだろうと思う。交配によるポケモンの孵化の価値もここ数年の情報だしねえ」
その質問には、シゲルはさして考えることもなく答える。
「それは俺もよく考えるんだ。確かに、あいつは最近の対戦業界からは離れているからそっち方面の状態には疎いのかもしれない。その点ではクロセはレッドよりも優っている」
だが、と続ける。
「もしレッドが少しでも復帰する気になれば、あいつは直ぐにそれらの情報を網羅するだろうし、もしかしたら感覚的にそれらの情報を体得しているかもしれない。レッドはそういう奴だよ、事強くなることに関してはずば抜けてる」
メモ帳一枚にびっしりと情報を書き込んだモモナリは、それをめくって新たなページに移行する。
そして、乱暴ながら結論を急いだ。
「なら、どっちが強いと思う」
いずれ来るだろうと思っていても、いざその質問が来てしまえば、冷静を保つことは難しい。
シゲルはトントンと額を叩いた。
「さあ、分からねえな。単純な話、俺はクロセとは真剣な手合わせをしてないんだ。クロセと戦ったのはたったの一度、グリーンバッジ認定戦の、手加減された手持ちの時だけだ。ポケモンリーグ参戦後のクロセの試合は勿論追ってるし、その戦績がずば抜けてることも知ってるが、俺の感覚で答えを出すにはちょっと足りねえな」
分からない、という答えを引き出しただけでも、クロセの強さが特筆すべきものであることを強調するには十分だろう。なんといっても比較対象はあのレッドなのだから。
ありがとう、とモモナリはメモを再びポケットにしまいこんだ。
「おいおい、カリンの事は聞かねえのかよ」
ある程度の言葉は準備していたのだろう。シゲルは肩透かしを食らったようだった。
「いや、良いよ。多分君より僕のほうがずっと詳しいだろうから」
悪びれもなくそう言ったモモナリに、シゲルは目を丸くしたのだった。
☆
「それは随分と遠慮のない質問だな」
ばくん、とカップケーキを半分にしたワタルは、それをアイスコーヒーで流し込んでから楽しげにそう言った。
タマムシシティ、先月オープンしたというそのカフェは、イマイチな立地ながらも随分と若者に人気らしく、情報番組や雑誌等でよく紹介されていた。モモナリも、いつか機会があれば雰囲気くらいは味わいたいと思っていた。
しかし、モモナリももういい歳である。何らかの理由をつけなければ気恥ずかしくてそのような店に行くことはできない。しかし、渡りに船とはよく言ったもので、その日に会う予定だったリーグトレーナー、ワタルが一軒目にそのカフェを指定した。ワタルもモモナリと同じく、興味はあるものの、気恥ずかしさがあったのだろう。
そしていざその店に行ってみれば、なるほどモモナリとワタルの二人は完全な場違いだった。店内は若い男女が広いスペースを狭く使い。小さくて強烈な甘さのカップケーキを弄んでいた。とてもとても腰にモンスターボールをじゃらつかせたおっさん二人が入り込めるような場所ではない。即刻テラス席に二人を案内した若いウェイトレスも、心なしかそれらの対処に手馴れているようだった。
時間を無駄にしたなあ、とモモナリはカップケーキに乗った小洒落た水飴細工を崩しながら思った。サッサと撤収していつもの食堂に行きたいものだが、この甘さはなかなか手間取るに違いない。
そこで、モモナリはポケットからメモ帳を取り出して。ワタルに質問したのである。その内容はずばり「レッドとクロセ、果たしてどちらが強いのか」だった。
クロセと真剣な対戦をしたことがないから、とシゲルはその質問に応えることができなかった。ポケモンリーグの大ベテランであるワタルは、レッド、そしてクロセと対戦したことのある数少ないトレーナーの一人だった。
「しかしなるほど、俺にしか答えることのできない質問でもあるな」
「強制じゃありませんから、答えたくなければ答えなくとも」とモモナリが全てを言い切る前に「構わない」とワタルが遮った。
「レッドにしろクロセにしろ、俺よりも強いのは間違いない。二人とも単純に俺を倒しているわけだから、それで十分だろう」
なるほど、とモモナリは納得した。
一部のファンはそれを聞けば当然だろうという感想しか出てこないかもしれないが、ワタルと付き合いの長いモモナリは、その言葉の重みをよく知っていた。
ワタルというトレーナーは、チャンピオンであることの重みを、誰よりも知っている男だった。自らが敗北することの持つ影響力をよく知っていた。
勿論今現在チャンピオンではないことである程度気持ちは楽なのであろうが、それでも渡るがここまで清々しいまでに自らの敗北を認めることは、これまであまり無いことだった。
「その上でどちらがより強いかという話になれば、それはもうその二人が決めることだ。俺が外野からどうこう言える話ではない」
ワタルはそう強く言い切ってもう半分のカップケーキも口に放り込んだ。甘さに顔をしかめ、アイスコーヒーに手を伸ばす。
モモナリも慌ててカップケーキを掴んだ。ワタルのペースが早過ぎる。
ふう、と一息ついたワタルは、更に言葉を続けた。
「それに、カリンは強いぞ、少なくともチャンピオンにならなければ比較対象に上げることもできない」
半分ほど残ったアイスコーヒーに、シロップとミルクを加える。
「去年のチャンピオン決定戦、あれは見事だった。あの瞬間、カリンは間違いなく最強のトレーナーだったと言っていいだろう。舞台を与えられたカリンに勝つのは至難の業」
そこまで言いかけたところで、二人の会話はすみません」という声に遮られた。
見ると、中年の男がサイン色紙とマジックペンを抱え、頭を下げた。
「この店のマスターをしております、トマベチと言うものです。リーグトレーナーのワタルさんと、モモナリさんですよね。よろしければ、ぜひともサインを」
別段不思議な事でもない、店の店主がポケモンリーグ好きならば十分に考えられることだった。むしろ丁寧な分好感すら持てる。ただ、この雰囲気を作り出すことの出来るマスターが自分達を知っていたことに驚きはあったが。
「ええ、構いませんよ」と、ワタルはそれらを手にとって、手慣れた動きでマジックを走らせた後に「お店の名前も入れましょうか」と聞く余裕。
対するモモナリは、色紙を前に苦笑いを浮かべながら固まっている。
「都合でも悪いのか」とマジックを手渡しながら聞くワタルに、モモナリは困ったように返した。
「サインなんて随分久しぶりですからねえ、すっかり忘れてしまいましたよ」
そしてなるべく笑顔を作りながら、トマベチに「申し訳ありませんが、下書き用に何かありませんか」と聞くのだった。
☆
初対面だった。
カントー・ジョウトリーグトレーナー、ワゴー。世代的にはクロセのやや上ながら、まだ少年と称していいほどの年齢である彼は、この年のCリーグを無傷の十連勝で勝ち抜けたキクコ一門の新鋭だった。
タマムシシティのホテルのロビーで、彼とモモナリは顔を合わせていた。勢いのある若手トレーナーに話を聞きたいとモモナリが酒の席で漏らしたところ、同席していたキリューが話をつけたのだ。勢いのある若手という点において、ワゴーはこれ以上ないほどの人材だった。
鋭い目をしたトレーナーだというのが、ワゴーに対するモモナリの第一印象だった。勿論それは彼の生まれ持った目付きの悪さも要因の一つだったが、それ以上に、モモナリにそれを深く印象づけるほどの雰囲気を持っていた。
「そんなもん、クロセが勝つに決まってるでしょ」
カリンとクロセのチャンピオン決定戦について質問されたワゴーは、なんとつまらないことを聞くのだという風にそうハッキリと言い切った。その言い切り方は人によっては無遠慮な印象を受けるだろう。彼なりに言葉を選んでいるようではあったが、他人に敬語を使うということに不慣れなようだった。
「何か根拠はあるかな、カリンさんも十分強いトレーナーだと思うけど」
ワゴーの雰囲気に臆すること無く、モモナリは更に深く切り込んだ。モモナリもまた、年季の入った無遠慮な男だった。
「正直なところ、カリンさんは過大評価ですよ。確かに去年のチャンピオン決定戦で見せた大立ち回りは凄かった、だけど考えても見れば、そもそもカリンさんが最初から試合に『勝つためのパーティ』を組んでさえいれば、あんな状況になんてならなかったでしょ」
「耳の痛い話だね」
モモナリは自嘲気味にそう笑ってペンで額を掻いたが、ワゴーはさらに続ける。
「サザンドラはまあギリギリ及第点にしても、その他のポケモン達はとても強いとはいえない。そんなパーティで勝ち抜けたカリンさんの才能を評価する人もいますけど、俺はそうは思わない。それって結局、手を抜いてるってことじゃないですか。そんな人が勝てるほどクロセは甘くないし、その方が、よりこの業界にとってより良いでしょ」
この業界、とモモナリはつぶやくように疑問を現した。
「ええ、いわゆる『才能』で勝ち進んでるようなトレーナーは、しっかりと『執念』に負けてくれたほうが良いと俺は思いますよ」
「『執念』とはどういう事」
「昔々、レッドとか言うトレーナーが見せつけた『才能』は、もう殆ど裸同然ですよ。一定のポケモンとの乱取りを経験することでウィークポイントをある程度期待得ることが出来るとか、遺伝によって本来は覚えないはずの技を覚えることがあるとか、あるタイプはあるタイプの攻撃に弱い、強いとか、効率の良い技、悪い技とか。戦略もここ数年でしっかりと整備されて、殆ど煮詰まっていると言っていい。かつて『才能』と呼ばれた幾つかの概念は、強くなろうと必死にもがいてきた先人達によって白日のもとに晒されている。今Cリーグで燻ってるようなトレーナーだって、タイムマシンで二十年前に飛ばされりゃヒーローですよ。とんでもない『才能』が現れた。とか何とか言ってね」
メモを取るモモナリの手元をちらりと見やってから、「その上で」と続ける。
「その上で現れたのがクロセというトレーナーですよ。本来俺達が共有しているはずの『才能』を更にぶちぬいて勝ち進んだ言わば現代の天才がクロセですよ。一体どこにカリンさんが勝てる要素があるっていうんですか」
「なるほどね、つまりカントー・ジョウトリーグ最強のトレーナーはクロセだと」
「現時点ではね」
ニヤリ、とワゴーが笑う。
「かつて先人達がそうしたように、クロセと俺達の間にある『才能の差』だって、いずれは必ず丸裸にされる、俺だってそれを狙ってるトレーナーの一人だ。クロセだっていずれは負ける、『才能』に恵まれなかった凡人たちの『執念』によって。だけどそれは悪いことじゃない、良いチャンピオンてのは、負けて初めて完成されるんだ」
へえ、と何とかメモ帳にそれらの言葉を書ききったモモナリは、それでもニッコリと笑いながらもう一つの質問をした。
「もう一つ質問をしようとしていたんだ。クロセとレッドはどちらが強いかというものなんだけど」
ワゴーはその質問を露骨に鼻で笑う。
「な、そのレッドって奴も勝ち逃げするから神聖化されるんだ。そもそもその質問自体クロセに失礼だろう。レッドってトレーナーがはるか昔、化石のような対戦環境でどれだけ強かったかは知ってるが、今の環境ならBを勝ち抜けるかどうかだって怪しいだろ」
☆
『俺達が幻覚を見てるんじゃなければ、目の前で起きていることが全てだ』
セキエイ高原特別対戦会場、実況ブースではクロサワが非常に落ち着いた様子でアナウンサーを諭していた。
アナウンサーが多少混乱して、慌てふためくのも無理がないと思った。むしろ、普段は冷静沈着で時には暑くなりすぎた自分を落ち着かせてくれたこともあるこのアナウンサーがこれほどまで慌てふためいているからこそ冷静を保てているのかもしれない。
信じられないほどにあっさりとした試合だった、本当にこれがチャンピオン決定戦なのだろうか、実は本番は翌日に変更になって、今行われたのはリハーサルなのではないかと、本気で考えてしまうような試合だった。
それほどまで淡々と、クロセがカリンを潰した試合だった。
ようやく落ち着きを取り戻したらしいアナウンサーは、息を荒くしながらも使命をまっとうする。
『新チャンピオンは、クロセ。なんということでしょう、最短でバッジをコンプリートし、最短でAリーグに昇格した少年が、こうも、こうもあっさりと』
『別に考えられないことじゃねえだろう、新聞やテレビ局だって散々煽ってたじゃねえか。何を今更驚くことがある』
それは、実況内のバランスをとるためのクロサワの方便だった。クロサワは、この結果に誰よりも驚いている人間の一人だった。
クロセがチャンピオンになった事自体は、それほど驚くことではない。クロサワはクロセがいかにもそれが既定路線であるようにチャンピオンになるであろうことは予測していた。
だが、この若さ、それでいてカリン相手にこの圧倒的な内容での戴冠は予想していなかった。たしかにクロセは強い、だがチャンピオンであるカリンはクロセを十分に苦しませることが出来る才能の持ち主だと思っていた。
カリンが弱いわけではないのだろう、しかし、クロセが強すぎる。
『結局、神には逆らうなということなのだろうか。まさか生きているうちに、こんな経験をするとはなあ』
背もたれに体重を預けながら、そうつぶやいた。
☆
セキエイ高原特別対戦会場関係者控室。今年も顔を出していたモモナリは、人混みから外れ一人じっと対戦場で祝福を受けているクロセをじっと見つめているワゴーに気づき、声をかけた。
「予想、大当たりじゃないか」
ワゴーはモモナリに気づくとホッとしたように少しだけ笑って「どうも」と返した。
「そりゃ言葉だけで考えれば大当たりなんでしょうけどね」
ふう、と溜息。そしてモモナリが胸ポケットからメモ帳とペンを取り出しているのに気づき「ええ、構いませんよ」とそれを承諾した。
「浮かないね」
「ええ、まだ頭の整理が出来ていないですね」
「喋れば、ある程度はスッキリするかもよ」
そうかもしれませんね、とワゴーは返したが、それ以上何かを口にしようとはしなかった。モモナリはメモ帳とペンを胸ポケットに終い戻し「喋りゃしないよ、そこまでカネに困ってるわけでもない」と笑った。
お互いに少しばかりの沈黙を挟んだ後に、ワゴーが切り出す。
「俺はキクコ先生の元でいろんなことを学びましたし、兄弟子たちにも随分とお世話になりました。だから俺は、先生を含めキリューさんやキシさんみたいなリーグトレーナー達がどれだけこの世界を大事に思っているか知ってますし、その為にどれだけの事をしているのかも知っているつもりです」
だから、と続ける。
「信じられない。どうしてこんなにも簡単にチャンピオンになれるんだ。そうじゃないだろ、チャンピオンってのはさあ、ぶっ倒れるまで知識をつめ込んだり、世間から色々言われるのを覚悟で自分の信じた道を付き進んだり、何も得られなくても何かを犠牲にして。そうやってなるはずじゃん。いや、そうやったってチャンピオンになれないトレーナーだって一杯いるじゃねえか。おかしいだろこんなの」
ウンウン、とモモナリは頷いていた。憤る若者に「そういう世界なんだよ」と無責任に達観した言葉をかけるのは簡単だった。しかし、それをする気にはなれなかった。キクコの弟子の一人である彼は、それを最もよく知る人間の一人だろうから。
「俺は逃げ出す奴が大嫌いなんですよ」
落ち着きを取り戻したワゴーが、そうつぶやく。
「逃げ出すというのは」
「Cリーグですら結果を残せないから辞めるとか、上位リーグの戦いを見て自信をなくして辞めるとか、同期にすごい才能を持った奴がいるから辞めるとか、クソダセエ。結局それって、面倒くさくなっただけじゃん」
でも、と続ける。
「今日の試合を見たら、そういう奴らの気持ちがよくわかった。こんなの見せられたら、辞めたくもなりますよ」
しかし彼は、へっ、と笑って更に続ける。
「だからといって、俺は辞めませんけどね。仮に俺よりとんでもなく凄い奴がいたとしても、それは逃げ出す理由にはならない。そんなことしたら、恥ずかしくてキクコ先生や兄弟子達に二度と会えませんよ」
☆
場所を変えましょう、とモモナリは言われた。気分ではないから、とも言われた。
モモナリはそれが、何を意味しているのかわからなかった。体のいい別れの挨拶かも知れないし、不機嫌をぶつけているのかもしれない、本当に、場所を変えるだけなのかもしれない。
憧れのトレーナーであるカリンの隣を歩きながら、やっぱり、体のいい別れの挨拶だったのだろうか、とモモナリは思い始めていた。コガネシティの飲み屋街には精通しているつもりだったが、いまどきラーメン屋の屋台だなんて、聞いたことがない。吹き付けてくるまだまだ寒さのある風は、別れの理由にはうってつけのように思えた。
しかし、その風は、僅かにラーメンの香りを運んでいる。モモナリがそれに気づいたのは、二人が自然公園へと足を踏み入れてからだった。
小さな屋台だった。「結構人気の店なんだけどね」とカリンは笑っていたが、自分達以外誰も客はいなかった。「許可取ってねえから、誰にも言わんでくれよ」と、歯抜けの店主は矛盾したことを言いながら笑う。
「皆同じようなこと経験してるのよね」
小さな器具で器用にマトマのみを潰しながら、カリンはため息混じりにそう言った。
「カンナちゃんも島に引っ込んでラプラス愛でてるし、キョウさんはセキチクの市長でしょ、イツキはすっかりジョウトの兄貴分だし、ワタルも一族の偉い人やってる」
中途半端に割れた割り箸でマトマの汁とスープをかき混ぜながら、白い溜息をつく。
「それが、本当にやるべきことだった。ということなのかしらね、だとすると、皆随分と回り道をしたような気もするけど」
カリンはそう言ってレンゲでスープを啜り、満足気に息を吐いてから麺をすすった。
モモナリもそれに習って、マトマがよく絞られたスープを啜った。辛さと熱さで舌がどうにかなってしまいそうだったが、この寒空の下で体を温めるにはうってつけだった。続けて麺をすすってみるが、あまり美味しいとは思えなかった。
戦い続けている自分が、今後どうなるかが不安。モモナリのそのような悩みには、続きがあった。
むしろ、戦い続けていることの不安は、そこまで大きなわけではなかった。なぜなら、それ以外の自分が全く想像できないからだ。予想外に人気を得てしまったエッセイを皮切りに、戦い以外にも様々な経験をしてはいるが、どれも生涯の道とは思えない。
ラーメンの量は、意外と少なかった。スープが残っていたが、とても全てを飲み切る気にはなれない。
「みんな、辞めていくんですよ」
麺を平らげ、両手で鉢を持ち上げていたカリンを横目に、モモナリがそう漏らした。
彼女は、鉢を傾ける手を止めなかった。だからもう少し続ける。
「面白い奴は、みんな辞めていくんですよ。戦うことよりも、もっと面白いことを見つけて、戦いが一番じゃなくなるんです。そしてもっと面白いことで、友人や仲間を作ってくんですよ」
ラーメンのスープを飲みきったカリンは、ふぅ、と満足気に息を吐き、モモナリに目を合わせて「寂しいの?」と問う。
寂しい、というワードに。普段は滑らかなはずのモモナリの口は止まった。確信だった。
弱い言葉だった。戦いの場に身をおいているのならば、決して口にしてはならないような言葉だった。しかし、もう誤魔化すことは出来ないだろう。
長い沈黙の後、モモナリは少し冷めたラーメンのスープに口をつけた。相変わらず辛いが、その奥には少し甘みがあるように思えた。
「結局、そういう事なんでしょうね。不安とか、そんな漠然としたものじゃなくて、寂しいのかもしれません」
目を伏せようとするモモナリに、ふふ、とカリンは小さく笑う。
「寂しいのは辛いけど、大丈夫よ、なんとかなるわ。人生って、多分なんとかなるように出来てるのよ」
「そうですかねえ」
「あたしは、ずっと辞めないわよ」
その言葉を、モモナリははじめ理解できなかった。
「いつでも相手してあげる。Bに落ちても、Cに落ちても、引退しても、お婆さんになっても、いつでもよ。きっとあたしも、この道でしか生きる事が出来ないから。だから貴方も、あたしやクロセ君や、レッドが寂しい思いをしないように、いつまでも戦い続けなくちゃね」
モモナリの目を見て笑うカリンに、彼は戸惑っていた。
わかるような、わからないような理屈だった。だが、その言葉で、僅かでも心の不安が取り除かれたのは間違いなかった。
「さて、体もあったまったし」とカリンは一つノビをして。「腹ごなししましょうか」と笑う。
モモナリは、それが別れの挨拶だと思ったが、「さあ」とカリンが席を立ったのを見て、気づいた。
屋台があるそこは、自然公園の広場だった。夜のなので、人も殆どいない。だが、電灯はしっかりとその広場を照らし、見通しは良かった。
そこは、戦うにはうってつけだった。そして、お互いに戦う相手に不足は無いだろう。飽きること無くその道を歩み続けている、不器用な二人だった。
戦えるんだ、とモモナリは飛び上がった。これ以上ないほどに、気持ちが高揚していた。