135-彼が神を信じた日
「こりゃあ、敵わん」
戦闘不能になったキノガッサをボールに戻しながら、カントー・ジョウトリーグAリーガー、オグラはそう呟いた。
観客たちの歓声が、五月蝿いくらい耳に届いていた。それの内何割かは負けた自分を案ずるものだと頭で理解してはいても、敗北という結果の前にしては、素直に受け取れない一面もある。
Aリーグ昇格一年目のオグラは、Bリーグを一期で駆け抜けた勢いそのままに、Aリーグでも好調を維持した、特にエースポケモンであるキノガッサとのコンビネーションは素晴らしく、Aリーガー達の力量を持ってしても、短期間での対応は難しかった。
彼は結局七勝二敗の好成績で今期Aリーグを終えた、Aリーグ一年目の若手であることを考えると、十分に驚異的な成績だった。展開によっては、そのままチャンピオン決定戦に駒を進めてもおかしくなかった。
だが、それに待ったをかけたのがオグラの対面にいるリーグトレーナー、カリンだった。あくタイプのエキスパートである彼女は今期新戦力としてドラゴンポケモンのサザンドラを投入、使用するポケモンのポテンシャルという壁を見事に乗り越え、七勝二敗でオグラと並んでいたのである。Aリーグでは、同率一位同士のトレーナーはプレーオフを行い、勝ったほうがチャンピオン決定戦に駒を進めるのである。
そして、その試合でカリンは見事にオグラを叩いてみせた。
審判員はカリンの勝利を宣言した。勝負を決めたポケモンであるサザンドラをボールに戻した彼女は、歓声に気を取られること無く、オグラに向かって微笑んだ。
綺麗な顔をした人だなあ、とオグラは思った。この場所でで、こんなに綺麗な人に出会えるなんて、思っても居なかったのだ。
リーグトレーナーは、皆総じて素直だ。というのが、オグラの持論だった。ポーカーフェイスを気取って、ファンや記者には自らが望んでいるキャラクターを見せつけることが出来ても、一度試合の場に出てしまえば、とたんにその本性が現れ、涼しさを忘れた戦う人間の顔になる。オグラは、肯定的な意味で、リーグトレーナー達のそういう表情を見るのが好きだった。
優雅に水面を移動しているように見えるスワンナが、見えない部分で両足を必死にばたつかせているのを、水中に住むポケモン達が知ってているようなものだ。美しく踊っているように見えるバレリーナも、瞬間瞬間を写真として切り取ってしまえば、歯を食いしばっている場面があるかもしれないし、ふくらはぎを膨らませてバランスをとるために必死に堪えている場面があるかもしれない。
僕が必死なように、皆も必死なんだ。オグラは同世代の出世株に比べて、ハングリー精神をむき出しにしているCリーガー達との対戦を数多く重ねていた。皆必死だった、それはCリーグという、リーグトレーナーとして人間にあらずのような扱いを受けることもある自分達の地位を、一つでも上げることが目的なのだと思っていた。
ところが、Bリーグ、Aリーグと、リーグの格を上げていくにつれ、その考えは間違いであることに気づいた。リーグトレーナーとして一応の地位がある彼らは、時にはCリーガー以上の必死さをその全身から醸し出していた。戦いに臨む覚悟が違う、それがプライドの重さなのだと知った。かつて自分が押しつぶされかけていたもの以上のものを彼らは背負っていた。
今期Bリーグで九勝二敗という好成績を残しながらも、電撃的に引退を表明したクロサワと言うトレーナーに世間がどれだけ驚嘆の声を上げても、オグラは特にそれを不思議とも勿体無いとも思わなかった。むしろ、あれだけのものを背負いながらよくあの年齢までリーグトレーナーを続けることが出来たものだと感動すらしていた。クロサワと同世代のイツキ、カリン、更にはワタルは、自分からしてみれば常軌を逸した精神力の持ち主だった。
だが、この試合、カリンは自分にそのような表情を一切見せてはくれなかった。人はそれをポーカフェイスだと簡単に表現するかもしれないが、それともまた違うだろうとオグラは思っていた。ポーカフェイスは得てして冷たいものである、言わば冷たいという表情を貼り付けることによって、表情を読めなくするのである。
カリンの表情は、決して冷たいものではない、温かく、生気に満ちている。そう、自然なのだ。チャンピオン挑戦者決定プレーオフと言うこの大舞台、言い換えれば究極的な非日常において、彼女は自然だった。
「凄い人だ」
どうせ歓声にかき消されるだろうと、オグラはそう呟いた。カリンのパーティはお世辞にも出来のいいものとは思えないし、サザンドラをぽいっと放り込んだところですぐに強力なパーティになるわけでもない。
自分なら、悪タイプの弱点である格闘タイプや虫タイプを牽制する意味で、ファイアローを投入するだろう。フェアリータイプへの牽制として、毒タイプか鋼タイプも欲しい所。メタグロスか、あるいは最近のはやりを考慮すればクレッフィもありえるかもしれない。
そこまで考えて、オグラは馬鹿らしくなって頭を振った。自分がこんなことを考えても無意味だ、その行き着く先は、サザンドラだけが面影としてぽつんと残るだけの、ザ、現環境と言ったパーティだろう。
考え方から何から、根本から自分とは違う。その違いが、今回はカリンの方に良いように振れたのだろう。
オグラは感動していた。カリンが素晴らしいトレーナーであることを、その肌で感じ取ることが出来たのだ。
並のトレーナーであれば、この試合で見せつけられた差によって、押しつぶされてしまうだろう。だが、オグラというトレーナーは、その差をとてもポジティブに受け取ることが出来るようになっていた。
「まあいいさ、生きてさえいればいつかきっと次がある。生きていることの、なんと素晴らしいことか」
次第にオグラに向けられ始めた、眩く光る敗者への声援を背に受けながら、彼はニッコリと笑ってそう言った。
☆
『皆様こんばんわ、カントー・ジョウトリーグチャンピオン決定戦の模様をお伝えしてまいります』
その言葉と共に映しだされたのは、観客で満員になったセキエイ高原特別対戦場だった。まだ試合開始には随分と時間がある。
しかし、観客で一杯になっているのは観客席だけではなかった。セキエイ高原特別対戦場、関係者控室もまた。この一戦を楽しみにしていたリーグトレーナー達で一杯だったのだ。比較的若手のトレーナーから、すでにリーグトレーナーを引退しているベテランのトレーナーも居る。
「テレビの音量を上げたいんだけど、いいかな」
引退こそしてないものの、すでに大ベテランの領域に踏み込んでいるイツキが、一応周りのリーグトレーナー達に了解をとってからカチカチとテレビモニターの音量を上げた。最も、それを断れる人間は数少ないだろうが。
『本日は解説として、元リーグトレーナーのクロサワさんに来ていただきました。本日はよろしくお願いします』
モニターに映し出された二人に、控室のリーグトレーナー達は少し笑った。クロサワは流石に落ち着き払っていて、サングラス越しにカメラにガンを飛ばすほどの余裕があった。
『俺はもうポケモンリーグを引退して素人みたいなもんだが、去年ここに座っていた奴に比べればはるかに良い解説をする自信があるので、まあよろしく』
クロサワは相変わらずむちゃくちゃな挨拶をしたが、アナウンサーも流石に慣れと覚悟があったようで『よろしくお願いします』と軽く流した。
「最近、クロサワさんのあの感じ結構人気らしいですよ」
席に戻ったイツキの隣に座っていたジョウトの若手Aリーガー、ニシキノが、ひらひらとモニターを指差しながら笑ってそう言った。
「ああ見えて頭が良くて茶目っ気のある男なんだよ」
イツキもニヤニヤ笑ってそう返した。
『それでは、本日の両対戦者の仕上がりについて、クロサワさんはどのような見解でしょうか』
『その前に、まずは今日のチャンピオン決定戦の妙を説明する必要があるな』
『妙、と申しますと』
『いいか、二年前にキシがチャンピオンになって以来、カントー・ジョウトリーグは遂に若手が世代の主導権を握り、チャンピオンロード世代含む旧世代を完全に追いやろうとしていた。Aリーグではニシキノ、オグラ、シバタらキシと同世代のトレーナー達が上位を占め、今期のシルフトーナメントに限っては更にその下の世代であるクロセが、準決勝で疲弊していたとはいえチャンピオンを倒して優勝している』
『クロセ選手は今期Bリーグにおいて十勝一敗の成績で昇格も決めていますね』とアナウンサーが合いの手を入れた。
『その通り、最初は戦いのたの字も知らない馬鹿共に無茶苦茶言われていたキシも、チャンピオンになってからパーティをある程度固定化させ、十数年ぶりの挑戦者ワタルを見事に倒している』
これは余談だがね、とクロサワが続ける。
『俺もポケモンリーグを引退し、まだまだヒヨッコではあるが所謂コメンテーターと言う存在になった。この仕事は難しい、今みたいに蓋を開けてみなければわからないことをどうなんだと聞かれれば、一先ず何かを答えなくてはならん、そしてそれが外れてしまえば、分かっていない奴だと批判されるのだろう。食っていくためとは言え、非常にリスクの大きな仕事だ。だが、だからといって新たなチャンピオンに対して、やれ強くないだの、あんな事をすれば誰だも勝てるだのとしたり顔で上から攻撃するのは好かん』
クロサワはそこで一息置いて、胸ポケットから小さなメモ帳を取り出し、それで膝をポンポンと叩いた。
『俺はメモなんてまどろっこしいことは大嫌いなんだが、キシのチャンピオン就任についてどうのこうの言っていた連中の名前はここにメモしてある。コメンテーターとは言え、この世界に絡んでいる以上、彼らもトレーナーとしての一面はあるだろう。まあ俺に勝つのは無理だとしても、彼らがどれだけ高貴で崇高な戦いを見せてくれるのか、今から楽しみでしかたがないよ』
さて、閑話休題だ。とクロサワはそのメモを再び胸ポケットにしまった。
『今期のAリーグにおいても、若手のオグラが開幕から勝ち続けていた。もちろんその後ろを三度目の挑戦を狙うワタルが追いかけてはいたが、直接対決でオグラはワタルに勝利し、そのまま突き進むかと思われた。だが、それに待ったをかけたのがカリンだった。彼女はオグラに土をつけ、自身も好調を維持したままプレーオフにまで勝負を持ち込んだ。そして奴はオグラに勝利して、今日、ここセキエイに居る』
『ジョウトの大御所のAリーグ優勝に、世間も大きく湧きましたね』
『そして、それこそが妙なんだ』
「随分と、踏み込むね」とイツキが呟いた。
『考えてもみろ、もしここでカリンがキシに勝つなんてことが起こったら、そりゃとんでもないことだ。一度完全に入れ替わったはずの世代の波が、また大きくうねることになる』
『しかし、カリン選手はAリーグを優勝した実力者なわけですから』
アナウンサーは、そうカリンを擁護した。彼は、クロサワがカリンとキシのこの試合を、殆どキシ側が勝つと予想していると思ったのだ、そして、何の気なしにチャンネルをザッピングしてこの放送にたどり着いた画面の向こうのライトな視聴者が、その予想で他のチャンネルに切り替えるのを避けようとした、比較的形勢が互角であると、なんとか取り繕うとした。
しかし、アナウンサー自身はキシの勝利を殆ど確信していた。新規精鋭のチャンピオンであるキシと、長年Aリーグに居ながらもAリーグ優勝の経験が一度しか無く、パーティにも偏りのあるベテランとの力関係はハッキリしているように思えた。それはアナウンサーだけでなく、世間の総意だった。
だが、クロサワはアナウンサーのその発言に機嫌悪くため息混じりに鼻を鳴らすと『馬鹿か、そんな事はよくわかっている』と声を上げた。
『カリンが実力者であることを疑っているリーグトレーナーなんて一人も居ないと断言できる。そんな能無しはバッジを半分も取ることが出来ない』
『しかし、あなたはこの状況を妙だと』
『俺が妙だと言いたいのは、カリンが若手包囲網を完全に攻略してこの場にいるということだ。いいか、俺の見る限り若手は誰も怠けちゃいない、むしろ年々と力をつけている』
「嬉しいことを言ってくれるね」
イツキが笑って隣のニシキノを小突いた。ニシキノも満更でもないといった風に頬を緩める。
『それなのになぜ、カリンがAリーグを優勝することが出来たのか、若手含む新世代はその情報戦略と孵化育成の分業制で、完全に旧世代を喰っているのにもかかわらずだ』
『要因の一つとして、カリン選手が新たに投入したサザンドラが上げられると思いますが』
『それも含め、大きな要因はカリン側が一歩踏み込んだからだと思っている』
『踏み込んだ、と言いますと』
『勝負に対する姿勢が変わったのさ、俺の知る限りカリンは勝負を楽しむタイプのトレーナーだ、勝ち負けに大きなこだわりは無く、自らの力を客観的に評価することが出来る精神的な強さがある。負けても大崩れせず、勝っても自身の課題を見直せるその強さが、カリンをAリーグの女帝にしているんだ。そのカリンが、この一年はサザンドラをパーティに投入し、勝利を意識した立ち回りを見せている。その変化こそが、このチャンピオン決定戦に繋がっているんだ』
なるほど、と分かったような分かってないようなつぶやきをしたアナウンサーを半ば無視して、クロサワはさらに続ける。
『この試合は、とんでもない試合になるかもしれない。そして、その結果によっては、これまで俺達が積み重ねてきた歴史そのものが、根本から崩れることになるだろう』
☆
控室の扉が開いた。現れたトレーナーに、控室は少し緊張を帯びた反応を見せる。下部リーグをそれぞれ一期で抜けてみせた天才、クロセは、現役リーグトレーナーの何割かからは、未だに警戒の目で見られていた。
「おお、クロセくん。さ、さ、ここが開いてるよ」
開口一番に彼に好意的に語りかけたのは、モモナリだった。一枚ガラスのど真ん中付近、イツキとニシキノの隣に陣取っていた彼は、一つ席をずらして、クロセのためのスペースを作った。
ありがとうございます。とクロセは安心したような表情を見せて、その席に腰を掛けた。
こういう時、モモナリの無神経さは貴重だな、とイツキは彼を評価していた。ある意味では、クロセの出現によって最も割りを食ったトレーナーであるにも関わらず、自らよりも随分と若いと言う一点しか見えていない。最も、クロセがいつかのクロサワのように一匹狼で生きることを選んでいる風ではない以上、それはクロセにとってもありがたいことなのだろう。戦うことを日常と捕らえておきながら、それを社会性にまで持ち込むことはない、無神経、ノーてんきではあるが、よく言えば豪胆で器が大きいといえるのではないだろうか。
「エキシビション以来だね」
イツキはそうクロセに声をかけ、会話のきっかけを作る。
「はい、そうっスね」と彼は答えたが、その返答は硬かった。
クロセという少年は、その類まれなる強さが、普段の言動には余り現れないタイプのトレーナーだった。驕るでもなく、誇るでもなく、ただただ等身大の少年像を彼は常に表現していた。
彼にとって、イツキやニシキノは雲の上の存在だった。勿論、その強さに対してはクロセも無条件に格下であることを認めるわけではない、だが、彼らの成し得てきたことや、Aリーガーと言う地位に対しての尊敬心は、例えばそこら辺にいるバトルに憧れる少年と同じくらいにはあった。
つまり彼は、Aリーガー二人に囲まれているこの状況に、少し緊張していたのである。
「昇格おめっとさん、モモナリさん共々、来年は容赦しねえぞお」
イツキの奥から、ニシキノがおどけて声を上げた。Aリーガーであるニシキノの立場からすれば、モモナリやクロセは厄介な侵略者であるのだが、彼はライバルであるキシ以外のトレーナーには、細かいところを気にせず割とフランクに接するところがあった。
「ちょっと、ほどほどにしてくださいよ」
クロセはニシキノとは初対面だったが、笑いを交えながらそう答えた。ニシキノの言葉によってだいぶ気持ちを落ち着かせることが出来たようだった。
「それじゃ、三人はこの試合どうなると思う」
小さなメモ帳とペンを手に取り、モモナリがその三人に質問をした。「まだ今週のネタ無いんですか」とニシキノが野次りながらも「俺は最後で」と腕を組んだ。クロセは不安げにイツキと目を合わせ、イツキは彼の気遣いを察して「それじゃ、僕から」と口火を切る。
「やっぱり気持ちとしてはカリンに頑張って欲しい、カントーリーグにジョウトリーグが併合された年以来の挑戦だからね」
うんうん、とモモナリとニシキノは頷いたが、クロセの反応はイマイチだった。カントーリーグとジョウトリーグの併合など、クロセから見ればもはや歴史の一部だった。
それを察して、イツキはクロセに説明するように続ける。
「かつてジョウトリーグは非公式だけど独立した地域リーグだったんだ。今で言うホウエンリーグやシンオウリーグに近い。カントーリーグと併合して公式リーグになった時、ジョウトリーグチャンピオンだったのはカリンだったが、彼女は特にその地位を考慮されること無く、一般のAリーガーとしてカントー・ジョウトリーグに組み込まれたんだ」
その年代の詳しい話は、モモナリですら知るところではない。大ベテランのイツキだからこそ踏み込める領域だった。
「公式と非公式の差があったとはいえ、ジョウトのトレーナーやファンから見れば決して面白い話じゃない。だがカリンがAリーグを一位で勝ち抜けると、その不満は期待として爆発することになったんだ。あの年のチャンピオン決定戦は、形式上の構図はチャンピオンと挑戦者だったが、実際の構図はカントーのチャンピオンであるワタルと、ジョウトのチャンピオンであるカリンとの格を決定する戦いだった。まだワタルがレッドに敗北してから日が浅かったから、世間も両者の格は互角かややカリンの方が上だと認識していたんだ」
不意に飛び出した伝説のトレーナーの名前に、モモナリは少し顔を上げて反応した。
「あの年のセキエイの雰囲気は異様だった。カントー、ジョウトどちらのファンも押しかけていた。試合も一進一退の攻防だった、ワタルはドラゴンのポテンシャルを十分に発揮させたし、カリンは単純な手持ちのポテンシャルではワタルに大きく劣っていたが、その読みの深さと精神力で試合をコントロールした。本当に僅かな差だった、運が絡んだと行っても良いかもしれない、本当に僅かな差で、ワタルが勝利したんだ。彼女のチャンピオン挑戦は、それ以来になる」
「その間、ずっとAリーグだったんですよね」とクロセが真面目な顔で聞いた。
「そう、カリンにはそれが出来るだけの実力と才能がある。ただチャンピオン含めAリーガー達のレベルが上がって、Aリーグ一位の座からは遠のいているけどね、しかしサザンドラを投入して直ぐに結果を出すあたりは流石としか言いようが無い」
だが、とイツキが神妙な面持ちになる。
「どちらが有利かと言われれば、チャンピオンのキシに分があるだろうね。パーティをある程度固定化しているとはいえ、やはり理論値で固められたパーティは強力だし、あのカイリューを止めることが出来る選択肢がカリンには少ない。クロセ君はどう思う」
そう手渡され、クロセはうーんと唸って頭を掻いた。
「俺はカリンさんと手を合わせたことがないのでわからないッス。でも試合を見る限りではカリンさんもキシさんも相当に強いトレーナーだと思います。だけど、合理的というか、勝つための戦略が細かいところまで配慮されているのはキシさんの方だと思いますね」
続いてニシキノが矢継ぎ早に重ねる。
「キシが勝つと思うね、あいつはそういう奴だ。いつもいつも俺の予想というか、願望みたいなものを尽く打ち砕きやがる。俺はカリンさんが好きだし、勿論勝って欲しいけど、ジョウトの希望は、奴には格好の餌だ」
なるほど、なるほど、と、モモナリはせせこましくペンを走らせた。ニシキノのキシに対する人物評はとても興味深いものではあったが、恐らく書くことは出来ないだろう。
「君は、どう思うんだい」
モモナリのペンが止まるのを見計らって、イツキがそう切り出した。その言葉に、クロセも、ニシキノも身を乗り出す。その三人と同じように、モモナリも来期からはAリーグの一員、その試合予想は、とても興味深いものだった。
モモナリは、気恥ずかしそうに笑いながらペンの先で額を掻いた。その質問を全く想定していないようだった。誤魔化せるものならば誤魔化してしまいたかったが、聞いてしまった手前、そうしてしまうのはあまりにも不義理がすぎるだろう。「僕は」と一つ呟いた後に、しばらく言葉を選ぶために考えこんだ。
「僕は、カリンさんが勝つと思っています」
それは、三人の意見と真向から対立するものだった。
「それは、なぜ」
「僕は、カリンさんこそがカントー・ジョウトリーグ史上、最も才能のあるトレーナーだと思っています。初めてカリンさんの試合を見た時、僕は興奮でその夜寝ることが出来ませんでした」
「そんなに、凄かったんスか」
クロセが食い気味に身を乗り出した。
「凄かったね、とんでもない技術を持った人だった。ポケモンとのコンビーネーションを深めるために、妥協をしない人だった。トレーナーという概念に終着点があるのだとすれば、彼女はそのうちの一つの領域に、すでに達しているのではないかと思った位だよ」
目を細めるモモナリに、クロセはへえ、と感嘆混じりのため息を吐いて、再び椅子に深く腰掛けた。
「始まるね」とイツキが言った。
三人が一枚ガラスの向こう側に目を凝らすと、チャンピオンと挑戦者がそれぞれ入場を始めるところだった。
☆
キシとカリンのチャンピオン決定戦は、カリン側が試合の主導権を握る展開からスタートした。
一旦戦況が落ち着いたところで、『クロサワさん、ここまでの動きは』とアナウンサーが解説を求めた。
クロサワは一つ咳払いをして、うんうんと自分の頭の中を整理するように唸った。試合外の時の態度は横柄でアナウンサーを小馬鹿にすることも多いが、いざ試合となって解説を求められれば、チャンピオン決定戦経験者らしい豊富な知識や経験談からなる解説を、バトルというものを初めて見る視聴者にもわかりやすく伝えるように努める、クロサワが解説として求められる理由の一つだった。
『まずお互いの開幕だが、これはカリンの方に大きな分があった』
『キシ選手の一番手はマリルリで、カリン選手はラフレシアでしたね』
『そうだな、キシの考え方としては、カリンのサザンドラを意識した一番手だ。序盤からサザンドラで戦況を荒らされるのを警戒したわけだが、カリンが一枚上手だったな。キシの選出はちょっと安易だったのかもしれないが、ここにも理由がある。それは後に説明することになるだろう』
『その後の展開はいかがでしょう』
『カリンが上手くやっているという印象だな。まずマリルリの交代を読んで『にほんばれ』の状況を作ったのが大きい、ラフレシアの特性『ようりょくそ』は『にほんばれ』の状況下なら行動が倍程度にスピードアップするというものだ、日差しが強いから栄養がよく回るんだろう。ラフレシア自体は決して素早さに主張にあるポケモンではないが、さすがに倍になれば敵うポケモンは限られてくる、一昔前に流行った『天気変更戦術』で勃興した特性だな。素早さをカバーすることが出来れば、ラフレシアは現環境でも十分に通用するフェアリーキラーになりうる』
『キシ選手が交代先として選択したのはメタグロスでしたね』
『ラフレシアの主な攻撃手段である草タイプと毒タイプの攻撃のどちらにも耐性がある上にエスパータイプの技で弱点をつけるからな、チャンピオンらしい安定した交換だとは思うが、同時にチャンピオンのこだわりも見える選出だ』
『と、申しますと』
『はっきりと言ってしまえば、カリンのパーティと対面するとき、メタグロスの選出自体がちょっと痛い。悪タイプのエキスパートであるカリンから見ればエスパータイプのメタグロスは格好の的だ。二、三年前までのキシならば確実にパーティから外していただろう。それでもこのポケモンにこだわったのは、チャンピオンとして、パーティの固定化を目指しているからだろう』
『チャンピオンとして、ですか』
『そうだ、考えても見ればワタルはドラゴン使いであることを世間にアピールしながらも、あれだけ長きにおいてチャンピオンの地位を防衛し続けていた。これはあくまで俺個人の予測にすぎないが、ワタルに対する尊敬心のようなものがあるのかもしれない。相手の力を十分に受けたうえで、勝利する』
なるほど、とアナウンサーが相槌を打ったが、果たしでどこまで深くこの話を理解しているのかはわからない。
『とにかくだ、メタグロスに対してカリンはラフレシアの温存を選択し、新たにヘルガーを戦況に送り出した。恐らくラフレシアの居座りと交代でのサザンドラを意識したであろう『れいとうパンチ』は食らってしまったが、『にほんばれ』の状況下でヘルガーを繰り出すことには成功したわけだ。そして、ヘルガーの『あくのはどう』や『イカサマ』のような攻撃を嫌ったキシの交代をカリンはきっちり読んで『わるだくみ』でヘルガーの火力を底上げしたわけだ』
その解説が示す通り、現在対戦場には電子レンジのの機構を取り込み炎タイプを複合しているロトムとヘルガーが睨み合っていた。対戦場の上空にはラフレシアの特殊な花粉が固められたものが浮遊し、太陽の光を取り込んで『にほんばれ』と似たような状況を作り出している。
『この状況はカリンがある程度想定していたと考えたほうが良いな』
『何故でしょうか』
『キシ側のメンツに『にほんばれ』の状況下でのヘルガーを受けることが出来る選択肢が非常に限られているからだ。メタグロスの居座りは悪タイプの技が怖い、特殊技に大した抵抗のないローブシンは『にほんばれ』での『オーバーヒート』を通されて一撃もありうる。マリルリや、まだ確定ではないがマンムーなどのポケモンはヘルガーの裏芸である『ソーラービーム』が怖い。そうなると残りの選択肢はこの状況のようにロトムか、エースであるカイリューに限られる』
『なるほど、キシ選手が今回ロトムのパターンとしてヒートロトムを選択しているのはこの状況を予測していたと考えてよろしいのでしょうか』
『まあ、そういうことだろうな。キシは普段は水タイプのウォッシュロトムを使用しているが、やはり『ソーラービーム』がリスクとして存在する。ヒートロトムへのフォルムチェンジはマリルリの一番手選択が裏目に出てしまった場合の最後の保険といったところだろう』
クロサワはもうニ、三言葉を続けようとしたが、不意に『動く』と一つ呟いた。その言葉にアナウンサーが対戦場に目を凝らしたタイミングで、ヘルガーが雄叫びと共にその体から『あくのはどう』を放出した。
ヒートロトムは引かない、電撃を纏いながらそれに突っ込むと、ヘルガーに体当たりを決めて『ボルトチェンジ』でキシのもとに戻る。
『なるほど、『わるだくみ』で強化された攻撃はロトムの耐久性で受け、交代の選択肢を手にするわけか。ヘルガーは耐久に主張があるポケモンではないから『ボルトチェンジ』のダメージも馬鹿にならない』
『交代先のポケモンは何でしょう』
『見てりゃわかることだが、恐らくはローブシンだろうな、『マッハパンチ』がヘルガーに対して刺さっている』
キシが新たに繰り出したポケモンは、クロサワの予想通りローブシンだった。
『ここは戦況を大きく左右する場面だな』
『詳しい説明をよろしくお願いします』
『カリンが悪タイプのエキスパートであることを考えれば、『マッハパンチ』が最も安定した選択肢といえる。ラフレシアで受けることは可能だが、恐らくあのポケモンはマリルリのピンポイント対策に徹するだろう。だが厄介なのはミカルゲの存在だ。ミカルゲは素早さの低いポケモンだから、無償降臨を許してもダメージを入れることが出来る、しかしそれでは戦況を大きくキシ側に持っていけるわけではない。例えば『じしん』などの技を選択すればヘルガーを倒しつつ、ミカルゲに交代されたとしても悪くないダメージを与えることが出来るのだが』
その途中で、お、とクロサワが声を上げた。対戦場ではローブシンが動き始めたのを確認したカリンが、ヘルガーをボールに戻す。
『さあ技がどうなるか』
新たに繰り出されたポケモンに、ローブシンが『マッハパンチ』を打ち込む。しかし、その攻撃は確かに新たなポケモンに向かっていたのにもかかわらず、空を切ったように空振りした。カリンが選択したポケモン、ミカルゲは悪タイプでありながらゴーストタイプも複合し、格闘タイプに対して耐性があった。
『キシ選手は『マッハパンチ』を選択していたようですね』
『良く言えば安定、悪く言えば保留的と言ったところだな』
『戦況は未だにカリン選手側が有利でしょうか』
『この瞬間的にはカリン側が大きく有利だろう、ミカルゲは『サイコキネシス』の選択肢もあるし、耐久力もある。展開的には殆ど勝負は決まっていると言ってもいい、だがお互いのトレーナーの人間性やパーティのバランスを考えればこれでようやく五分といったところだろう。まあ、理由はすぐに分かる』
☆
カリンのミカルゲが、キシのマンムーを『シャドーボール』で沈めた。
『決まりました。これによりキシ選手の手持ちは残り二体。カリン選手大きなリードを維持したまま終盤戦に突入します』
アナウンサーは若干興奮気味にそう叫んだ。戦いに関しては情報を詰め込むことしかできない立場である彼にも、カリンの序盤作戦の成功から、中盤の立ち回りまでの素晴らしさは当然のように理解できた。
『いいや、まだ戦況は互角だ』
それに水を指すように、クロサワが落ち着き払って言った。
『しかし、五対ニですよ』
『あくまで数の上ではそうだろう。だが残っているポケモンの状況とポテンシャルを考えればまだまだキシにも主張がある』
ミカルゲに対し、キシは新たにマリルリを繰り出した。タイプの相性を考えれば、至極当然の選出といえる。
『結局カイリューを一度も出さずに温存か。相当な自信だな』
『詳しい説明を』
『詳しいも何もそのままさ。元々キシのパーティとカリンのパーティとではポテンシャルにおいて大きな差があった。序盤中盤はカリンが見事な立ち回りで押していたのは確かだが、あれほどの立ち回りを見せてようやくポテンシャルの差が埋まったと考えたほうがいい。チャンピオンであるキシのカイリューには、それだけのポテンシャルがある。キシがここまでカイリューを一度も対戦場に登場させなかったのは、つまらない妨害技でカイリューの動きにケチが出るのを防ぐためだ。逆に言えば、カイリューさえ無傷ならば、ある程度の物量の差はひっくり返せるという自信が見える。リスクのある読み合いをせず、安定安定を拾っていたのも、下手なことをするよりもそのほうが結果的には有効だからだろう』
なるほど、と相槌を打つアナウンサーに、クロサワは、『更に』と続ける。
『挑戦者であるカリンは、恐らくフェアリータイプや氷タイプのような露骨な対策を持ったポケモンを選択しない。奴は長らく馬の合う悪タイプのエキスパートとしてリーグを生き抜いてきた天才だ。今更目先の勝利のためにそのこだわりを捨てるような事はしないだろう。キシはある意味で挑戦者の天才性を信頼しているといえる』
カリンはミカルゲを手持ちに戻し、新たにラフレシアを繰り出した。だが、すでに日差しは弱くなっており、『ようりょくそ』による素早さの強化は見込めない。
ラフレシアはマリルリの『じゃれつく』攻撃を食らうが、防御力に強みのあるラフレシアにとって、その攻撃は大したダメージではない。
更にラフレシアは攻撃態勢を取ったが、キシはマリルリを手持ちに戻す素振りはない、逆にマリルリも戦闘態勢を取り『れいとうビーム』をラフレシアに向かって打ち込んだ。
氷タイプのその技は、草タイプであるラフレシアにとっては脅威であったが、特殊な攻撃である『れいとうビーム』はマリルリの得意なものではない。
なんとかそれをこらえたラフレシアが『ヘドロばくだん』を敢行する。
『ヘドロばくだん』はマリルリを確実にとらえた。フェアリータイプのマリルリにとって、その攻撃は効果が抜群だ。明らかに体から力が抜け、戦闘不能となる。
五対一となった戦況に会場は大きく盛り上がり、アナウンサーも同じように興奮しながら叫んだが、クロサワは至って冷静にコメントした。
『恐らく最後はカイリューとサザンドラの対面になる。大暴れするカイリューになんとか四体のポケモンで抵抗し、ラストのサザンドラに託すといった格好だ。しかし、麻痺状態にさせても『しんそく』があり、やけど状態にして物理攻撃を弱体化させても、カイリューは特殊技が豊富だ。カイリューの特性『マルチスケイル』を考えると、そう簡単に勝負は決まらないだろう。そもそも、妨害技を決めさせてくれるかどうかも微妙だ』
☆
控室は、妙な緊張感に支配されていた。いわゆるチャンピオンロード世代であるカリンが、数の上ではチャンピオンを押しているという事実が妙にむず痒く、出来過ぎていて不安といったところだった。
ここまでの流れは、カリンの上手さが際立っていると言ってよかった。だが、キシ側も安々とカリンの手のひらの上で踊っていたわけではない。
「キシは最後の最後までカイリューを温存したか、気持ちの強い良いトレーナーになったな」
対戦場に現れたカイリューを目やりながら、イツキが感心した風にそう呟いた。
それに合わせるように、モモナリも同じく感心して「カリンさんとしては不安が残りますね」と続ける。
「やっぱりカイリュー温存はキツイッスよね」
クロセが遠慮がちに言った。自身の感覚が周りとズレていないことに多少の嬉しさがあるようだった。
「カリンさんとしてはどうしてもカイリューを戦線に引きずり出して何らかのダメージを与えたかったんだろうけど。キシもそう簡単には乗らないわな、カリンさんも上手いことプレッシャーを掛けてはいたんだけど」
クロセの呟きに、ニシキノが答えた。同じジョウトのトレーナーとしてカリンの強さを讃えつつも、同時にライバルであるキシの手腕にも、対抗心まじりの敬意を抱いているようだった。
対戦場では、カイリューが『しんそく』の攻撃でラフレシアを安全かつ迅速にきっちりと戦闘不能に追いやった。カリンもラフレシアを温存することはせず、死に出しでタイムラグを無くす方針のようだ。
「次のポケモンは」と、イツキが考えを巡らせるために呟いた。それに反応して、クロセ、モモナリ、ニシキノの三人が「ミカルゲ」とほぼ同時に発言した。
「ブラッキーはほとんど戦闘不能みたいなもんだし、ドンカラスは無傷だからまだとっておきたい」
ニシキノの分析通り、カリンのブラッキーはチャンピオンのポケモンの攻撃を受け続け、もはや虫の息であった。
「ミカルゲなら『ふいうち』も出来ますし、『かげうち』も選択肢にあります。『マルチスケイル』の構想を破壊するにはピッタリのポケモンッスね」
カイリューの特性である『マルチスケイル』は体力に十分な余裕があるときに効果を発揮するもので、受けるダメージを半減してしまうという強力なものだ。カイリューのタフネスさを象徴する武器の一つだった。その特性のおかげで、キシのカイリューは氷タイプやフェアリータイプ、更には同族であるドラゴンポケモンとの対面においても、体力に余裕がある限り強さを発揮することが出来る。
ミカルゲ自体は要石を引きずる緩慢な動きをするポケモンではあるが、『ふいうち』や『かげうち』は相手の行動を先制することのできる技なので、カイリューの『マルチスケイル』を引き剥がすにはもってこいのポケモンだった。
モモナリも負けじとそれに続く。
「『しんそく』を無効化出来るのも大きいしね」
カイリューが時折見せる技の一つである『しんそく』は『ふいうち』や『かげうち』と同じく相手の行動を先制することの出来る技の一つだが、『しんそく』の速さは『ふいうち』や『かげうち』を遥かに超える。たとえば『こおりのつぶて』などの先制技を敢行されても、『しんそく』ならばその攻撃が自らに届く前に相手に攻撃することが出来る。
しかし、単純な物理攻撃である『しんそく』はミカルゲのようなゴーストタイプのポケモンには効果が全く無い。ミカルゲはカイリューの有効な攻撃手段を一つ潰し、先手を取る選択位を一方的に持っていることになる。
少しばかりの考慮時間ののち、カリンが対戦場に繰り出したポケモンは、三人の予想通りミカルゲだった。タフネスなポケモンではあるが、戦いのダメージが色濃く残っているように見える。
「ダメージ狙いなら『ふいうち』、確実性を求めるなら『かげうち』だけど」
ニシキノが予想を固める前に、カリンが動いた。
ミカルゲは自身の影をカイリューの真下にまで伸ばし、そこから伸び出る何かでカイリューを攻撃した、先制技の『かげうち』だった。勿論カイリューにとっては大した攻撃ではない、しかし『マルチスケイル』を引き剥がすには十分だった。
控室は、カイリューが何らかの攻撃をミカルゲにぶつけるのは殆ど確実だろうと思っていた。ドンカラスにしろブラッキーにしろ、カイリューと対面して倒しきることが出来るとは思えない。このまま力で押し切ってサザンドラとの最終決戦に全てをかけるだろうと思っていたのである。
しかし、カイリューの動きは控室の殆どのトレーナーの予想を裏切った。カイリューはツノと触覚から冷気を放出すると、自らに似せた氷の立像を、前面に創りだしたのである。
ああ、とモモナリが大きく声を上げた。
「『みがわり』だ」
その言葉を引き金に、控室はざわめきを強めた。チャンピオンであるキシの手腕に、恐れを表現する言葉すら飛び交っていた。
「ここで抜くことが出来るか」
イツキがため息混じりに言った。ラストの一匹で、相手が手負いの厄介なポケモンであることを考えると、ここは絶対に倒しきる攻撃をしたくなる場面である。
しかし、対戦場のキシはその感情を押し込めて、『みがわり』を選択した。相手を倒す手段でなければ、『マルチスケイル』の強みをも消してしまう選択であったが。控室という無責任な空間で考えを巡らせれば、それは十分理にかなっている選択だった。
「なるほど、『はねやすめ』ッスね」
その気付きについて、最も早く声を上げたのはクロセだった。
『みがわり』は体力を消耗する技だが、『はねやすめ』で体力を回復することが出来ればそれをチャラにすることが出来るだけでなく、再び『マルチスケイル』の状況を作ることが出来る。
ニシキノも唸る。
「ミカルゲの行動を縛ったな。『かげうち』では身代わりを壊せるかどうか不安だし、『はねやすめ』を考えると『ふいうち』も怖い。妨害技もそもそも通ら無い上に、並の攻撃だとまず間違いなく先手を取れない」
対戦場のミカルゲは、氷の立像に『かげうち』で攻撃を加える。相手より先に行動する事が目的だった。
しかし、その攻撃では立像は砕け切らない。キシのカイリューが身代わりを盾に『はねやすめ』をしていることが確認されると、控室からは大きな溜息が聞こえた。
「見事な立ち回りだ」
イツキは感嘆しきりだった。
「恐らくキシはカイリューを無傷のまま次に回せる」
彼の言葉通り、体力を回復したカイリューは、『ドラゴンダイブ』でミカルゲを地面に叩きつけ戦闘不能に追い込んだ。ミカルゲも『かげうち』の先制攻撃で食らいついてはいたが、その攻撃はカイリューの身代わりを砕くだけで精一杯だった。
控室が次のポケモンを予測するより先に、カリンは次のポケモンを繰り出した。現れたポケモンに、控室はどよめいた。三つ首をもたげた漆黒のドラゴン、サザンドラだった。
「ここでか」
首を傾げながらモモナリが呟いた。その選出はあまりにも急ぎ過ぎのように見えた。
「考えられないことじゃない」とイツキがモモナリのつぶやきに応える。
「ドンカラスを保険に回したのだろう、サザンドラの強力な特殊攻撃力でカイリューを沈めるか、最悪でも体力を半減以下にするのが目的」
しかし、と悔しげに続ける。
「あまり楽観的な手ではない、カイリューのあの立ち回りで、カリンは賭けに出なければならなくなった」
「ある程度のダメージを与えれば『りゅうせいぐん』がある」
ニシキノが叫ぶ、彼はこの勝負の結末をある程度予測しているようだった。
「お互いが削りあった後に『しんそく』をサザンドラが耐えればカリンさんの勝ちだ、耐えられなかったら」
そこまで言った後に言葉を切って、イツキと同じように、悔しげに次を続ける。
「ドンカラスじゃあ厳しい」
言葉こそ発しないが、モモナリとクロセも概ね同意見だった。
先手を取ったのはサザンドラだった。三つ首がそれぞれおぞましい雄叫びをあげたかと思うと『りゅうのはどう』でカイリューを攻撃する。同族であるドラゴン族の技だが、『マルチスケイル』のおかげで致命的なダメージにはならない。
カイリューも『りゅうのはどう』を受け止めながらサザンドラとの距離を詰め、『ドラゴンクロー』を打ち込み、サザンドラを地面に突っ伏させた。
『ドラゴンクロー』は決して破壊力のある技ではないが、命中率の安定性に優れた技だった。安定性があり弱点をつけるこの技でサザンドラの体力を削り、次の『しんそく』に勝負をかける。
「あ」とクロセが呟いた。
観客達の興奮は最高潮に達していた。旧世代であるカリンがその素晴らしい立ち回りでチャンピオンキシに迫ろうとしていた勝負が、遂に決着しようとしていたからだ。
サザンドラが『しんそく』を耐えることが出来れば、サザンドラは『りゅうせいぐん』を撃つことが出来る。ドラゴンタイプの技でも最高クラスの威力を誇るその技は、サザンドラの主張点であり、代名詞でもあった。
だが、その高ぶりは、予想もしない形で爆発することになる。
カリンが、地面に突っ伏したサザンドラを、ボールに戻したのだ。観客たちは戸惑う、ここでサザンドラを入れ替えるのはあまりにも消極的だし、自らを負けに近づける行為にも思えた。
しかし、観客の誰かが、審判員がポケモンの戦闘不能を表す旗を上げているのに気づいて、声を上げた。その声は、波紋のように観客席に広がった。そうして、観客の殆どがその現象に気付く頃には、歓声ではない声がセキエイを覆い尽くすことになる。
カリンのサザンドラが、カイリューの『ドラゴンクロー』で、戦闘不能になったのだ。
☆
実況ブース中に響き渡る怒声は、幸運な事に視聴者の耳に届くことはなかった。サザンドラが地面に叩きつけられた瞬間に怒気を感じたアナウンサーの放送関係者としての本能が、考えるより先にマイクの消音ボタンを押していたからだった。もし彼が、名声と生活のためだけにマイクの前に座っているような男だったら、とてつもない放送事故が引き起こされていだろう。
フザケルナ、と言う怒号とともに机を叩き割らんばかりの勢いで拳を叩きつけたクロサワは、その一撃でなんとか正気と自分の役割が何であるかという記憶を取り戻したようで、ふうふうと荒い息を整えた後に「失礼」と、誰にも聞こえないマイクに向かって言った。誰かが聞いていたら、失礼ではすまないだろう。
アナウンサーは選択を迫られていた。この荒れようを見るに、もう少し時間を置いてクロサワが落ち着くのを待ちたい。しかし、今は世紀のチャンピオン決定戦の終盤戦、しかも挑戦者のカリンが次のポケモンを考慮しており、動きの時間ではないと言う絶好の解説のチャンスだった。そもそも、独断でマイクを消音すること自体がすでに危ない橋を渡っていた。
アナウンサーは、恐る恐るクロサワの顔を覗き込んだ、そして、彼の瞳がうっすらと光を反射していることに気づくと、そっとマイクの消音を解除した。
『クロサワさん、今、何が起こったのでしょうか』
クロサワは、何事にも彼なりに筋を通そうと努める男だった。赤い顔を更に赤くさせながら、それに答える。
『本来ならば、キシの選択した『ドラゴンクロー』は安定性を求める技だ、博打にいかず確実に一定のダメージを与え、次の『しんそく』に全てをかける。それが、サザンドラの急所を突いちまった』
『急所、ですか』
『そう、ポケモンも生物の一つだから、叩かれて弱いところは存在する。だが、リーグトレーナーやそのパートナー達は努めてそれを回避しようとする。勿論それでも急所を捉えられることはある、あるが』
そこで言葉を切って、まるで自分のことのように辛そうに次を絞り出した。
『殆ど運の領域と言っていい。恐らくキシは急所をに当たるなどとは思っていなかったはずだし、カリンもそうだろう』
遂にクロサワは、自らの長袖で、溢れださんとする涙を拭った。
『どうして、どうして、今、それが起こるんだ。Aリーグ一戦目で起こってもいい、最終戦で起こってもいい、挑戦者決定プレーオフで起こってもいい、この試合の序盤で起きてもいい、中盤で起きてもいい、どうして今この瞬間に運がチャンピオンに振れるんだ。不公平だろう、あまりにも不公平だ』
☆
一旦マイクが切られ、その後に不自然な声の震えとともに発せられたクロサワの解説は、勿論モニターで中継を写している控室にも届いていた。
控室は、クロサワの言葉に何も反応することができないでいた。そこに集まっているトレーナーの殆どが、セキエイの不条理さを噛み締めていたからだ。
彼らほどのレベルになれば、試合の途中に自らのポケモンが急所に攻撃を喰らい予想外の大ダメージを受けることは経験済みだった。そして、それがどうやっても防ぎようのないことだということもよく理解していた。
急所も実力と、何の責任も無く結果だけを見て語ることの出来る立場の人間ならば言えるだろう。だが、全てのリーグトレーナーが避けたく、それでもなお起こってしまうこの現象は、もはや無差別に自分達を襲う最も大きなトラブルであることを認めざるをえない。
「こんなの、どう受け止めたらいいんだよ」
絶望しきったニシキノの呟きに、クロセは沈黙を持って同意を示した。
しかし、イツキはその怒りから淡々と呟きを作り出す。
「もし、セキエイに神がいるとすれば、僕はその神を思いっきりぶん殴ってやりたい。この素晴らしく崇高なる勝負を、自らを信じ高みを臨もうとするトレーナーとそのポケモン達を弄ぶ権利が、神ごときにあるわけがない」
彼は、同じジョウトの古参同士として、カリンには特別思うところがあった。カリンはジョウト地方でも歴代トップクラスの才能を持っていたトレーナーだった。世界中を旅して周り、実力的には所属するリーグを選べる立場にすらあったイツキが、当時非公式だったジョウトリーグに籍を置いた理由の一つにも、彼女の存在があった。強すぎるこだわりを、同じく強すぎる実力で埋めようとしていたトレーナーだった。強いポケモンのほうが強いと言う当たり前の自然の摂理を、自らの手腕によって捻じ曲げようと考え、それをまさに今実現させつつあったトレーナーだった。その彼女に、この仕打ちはあまりにも酷いと震えていた。
そのような控室の状況でも、モモナリは一人愚直に戦況を整理していた。
「キシくんのカイリューなら『かみなりパンチ』一発で落とすかもしれない、ドンカラスの『ふいうち』ならそこそこの威力だろうけど、あのカイリューのタフさを考えると厳しいかなあ」
しかし、その展望はカリンにとってあまり有利なものとは言えなかった。
対戦場のカリンは、上限ギリギリの考慮時間を使った後に、ドンカラスを繰り出した。ラストのブラッキーがほとんど戦闘不能に近いことを考えると、実質的なラストと言っても良さそうだった。
モモナリが更に予想を進める。
「カイリューは『はねやすめ』の選択肢もあるなあ、いや、むしろ本命かも」
カイリューは再び地面に降り立ち『はねやすめ』で体力を回復する、不本意ながら得ることになったアドバンテージを最大限に活かそうとしている。
それは一瞬の隙と言っても良かった、しかし、その隙にカイリューに痛手を追わせることは、ドンカラスには厳しいだろうと控室は思っていた。『でんじは』で麻痺状態を誘発するくらいが精一杯だろう。
しかしその時、対戦場に不気味な不協和音が響き渡った。控室も、観戦のファン達も、それが何なのかわからなかった。
やがて、その不協和音はどうやら歌のようなものであり、それを発しているのがドンカラスだということが分かっても、その意味を理解するものは少なく、皆に一瞬の思考の空白が生まれた。
やがて、控室の三人、イツキ、モモナリ、クロセと、モニターの向こう側のクロサワが、殆ど同時に気の抜けた声を上げる。
☆
『『ほろびのうた』だ』
クロサワの声は、正に間の抜けたという表現がぴったりのものだった。そして、その技の説明を求めるアナウンサーと視聴者を無視して、更に続ける。
『なるほど、なるほど、なるほど。理屈では正しい、正しい、が、理想論がすぎる。いや、実際に目の前で起こっていると言うことは理想論では無い、現実だ。だが、しかし、いや、待て』
「この手があったか」
イツキは立ち上がっていた、リーグトレーナーとして長く生き、幾多もの対戦を見て、幾多もの修羅場をくぐり抜けた男をそうさせるだけの感動が、歪な才能が見せる一筋の希望にはあった。
「実戦で使用されるのは、初めて見ました」
現在、天才という言葉を最も代名詞としているであろうクロセも、その声には僅かばかりの上ずりがあった。
「野試合で使ってる奴だって見たことねえ」とニシキノは激しく鼓動している心臓を、胸の上から押さえつけながら答えた。
「野試合で使えるような技でもねえしな」
モモナリは言葉を失っていた。自らが最大限に尊敬し、憧れすら抱いているトレーナーが見せたある意味での極地に感無量だった。
モニターの向こうのクロサワも同じ思いだったのだろうか、彼はアナウンサーの声をさらに無視して、自らの考えを声に出すことでより整然に整理しようとしていた。
『いや、問題はこの後、ちゃんと動けるのか、もはや未知の領域、前例は無いだろう』
今、対戦場の状態を完璧に理解できている人間は非常に数少ない。戦いに関して全くの無知で、この試合をモニターを通じて観戦しているライトなファンは勿論、インターネットや戦術書などで熱心に情報を頭に積み込み、セキエイまで足を運んでいるようなコアなファンも、実際にポケモンと戦うアマチュアトレーナーも、もしかすればCリーグのトレーナーの何割かも、この戦況の素晴らしさと異様さを完璧には理解していない。
アナウンサーは、半ば怒鳴りつけるように『クロサワさん』と彼の名を呼びつづけた。幸運なことに、クロサワはこの状況を理解できる何割かの人間の一人であるようだった。
遂に立ち上がりクロサワの方を押さえつけたアナウンサーの行動に、クロサワはようやく状況整理のつぶやきを止めた。更に肩を押さえつけられ、実況席に腰を掛けさせられる。
『状況の、説明をお願いします。多くの方達が、それを待っています』
クロサワが我を取り戻し、状況の説明を始めようとしたその時、対戦場のカイリューが動いた。クロサワは『待て』とだけ言って戦況を見つめる。
カイリューはその両腕に冷気をまとわせると、空中を飛び回るドンカラスを追って自らも空中へと躍動し、『れいとうパンチ』を振り込んだ。
しかし、その拳は大きく空を切る事になった。否、ゆっくりとした動きだったそれは、それを必死に受けようとしたドンカラスを愚弄し『ちょうはつ』しているようだった。
「縛った」
ニシキノが叫ぶ。
「ここに来て、なんと冷静な判断」
イツキは自らの身体をカウンターに突いた両腕で支えながらフラフラと椅子に座った。勿論その行動など予想すらしていなかった。そこまでの流れに感動しきってしまい、何も考えられなくなってしまっていた。名のない傍観者の一人になってしまっていた。
『この技の選択は、チャンピオン個人の強かさと、豊富な知識から裏付けされる合理的戦略の極致といっていいだろう』
モニターから聞こえたクロサワの言葉に、イツキは力無く頷いた。大した男だと思った、その責任感の強さは、とても張り合えそうにない。
『だが、先に説明しよう。先ほどドンカラスが歌っていた歌は『ほろびのうた』と呼ばれる技の一つだ』
『それは、どのような』
『定義としては、催眠術の一種になる。相当歴史ある技だが、ハッキリ言って俺は使ったことがないし、使おうと思ったことも無い。俺はリーグトレーナーとしてベテランの部類に入るだろうが、俺が新人だった頃から、この技は古い技で、使われることのない技だった。その効果は、至近距離でそれを聞いてしまったポケモンは数分の後に、仮死状態に陥るというものだ』
その説明は、『ほろびのうた』の存在を知らなかった大多数の人間を、大変に驚かせたことだろう。アナウンサーもその一人だった。
『ならば、この試合は』
『そう思うだろう、残りが一体のカイリューがそれを聞いちまった。時間さえ経てばカリンの勝利だとそう思っただろう。だが、俺達が紡いできた戦いの歴史ってのは、そんなに甘いもんじゃねえ。ようは残りのポケモンを秒殺しちまえば何の問題もないし、『ほろびのうた』を歌う隙にやられちまうことだって考えられる。例えばこちらの残りが万全の状態の三匹で、相手が残り一匹などのような状況ならば確実な選択肢といえるかもしれないが。そもそもそのような状況になることが稀だし、そのような状況になればそんなことをしなくても勝てる』
『では、何故カリン選手はその技を』
『この状況ならばない選択肢ではない、理屈ではな。カイリューが『はねやすめ』で体力を回復してしまえば、ドンカラスの攻撃で沈めることが出来る可能性は低いし、その間相手も黙って攻撃を受けてくれるわけでもない。チャンピオン決定戦と言う舞台が、例えばチェスのように理屈に支配されているようなゲームだったらならば、これ以上ないほどの最良の選択肢といえるだろう』
「その通り、理屈だけ見れば、そう」
モモナリがクロサワの言葉に反応する。
『同時にチャンピオンの対応も最良の選択肢の一つ、それもかなり理想に近しい行動をしたと言っていいだろう。今、カイリューにとって最も厳しいのは『でんじは』などの状態異常を引き起こす攻撃、もしくは『かげぶんしん』などの勝負を不確定にする要素のある技、そして『まもる』や『みきり』などの悪戯に時間を稼ぐ戦略だ、それを防ぐために『ちょうはつ』でドンカラスの行動を縛った。ドンカラスは本来攻撃をするつもりなど毛頭なかった相手に攻撃しなければならなくなってしまった。そしてその間、カイリューは黙っているわけがない。『ちょうはつ』にあわせて攻撃をしなかったのも、恐らくは『でんじは』をする予定だったからだろう』
しかし、クロサワの言葉とは裏腹に、ドンカラスは『ちょうはつ』を続けるカイリューに翼をひろげてみせた。
『ん、カリンめ、『ちょうはつ』を予想して攻撃技を選択していたか』
ドンカラスはその翼を振り下ろすことで風を作り出し、カイリューに向けてそれを吹き付けた。同時にそれは冷気をまとった『こごえるかぜ』となり、カイリューを襲う。
なるほど、と一つ呟いた後に、クロサワの声のトーンが一つ上がった。
『なるほど、『こごえるかぜ』は攻撃でありながら相手の筋肉を冷やし機敏な動きを封じる技だ、カリンはここまで読んでいたのか。だが素晴らしいのは集中力を切らさず精度の高い技を成立させたドンカラスも同じだな』
「その通りだ」と、控室のイツキがそれに同調した。ニシキノもモモナリもそれに頷いて同意を示す。控室全体も、もはやカリンに対して畏怖の感情を覚えていた。
『あの、それはどういう事でしょうか』
アナウンサーの質問は、それをわからない者達にとって見れば当然のことだった。彼らからしてみれば、ポケモンが精度の高い技を打つのは当然のことであり、むしろそれこそがリーグトレーナーとアマチュアの線引きをしているものなのではないかと思っている。
『わからないか、わからないだろう。その理由こそが『ほろびのうた』という技を過去のものにした大きな要因なんだ。この技はつまり、相手と共に自分をも葬る技だ』
『しかし、それは『だいばくはつ』や『おきみやげ』などの技でも同じでは』
『理屈の上ではそうだろう。だが、現実はそうも行かない』
考えても見ろ、と更に続ける。
『あのドンカラスは今、何故戦っているのか、相手を制するためでもなければ、自らが生き残るためでもない。『ほろびのうた』によって戦闘不能になるためにカイリューという強敵に立ち向かっているんだ。『だいばくはつ』や『おきみやげ』ではそのような状況にはならない。そして、その特殊な状況は、ポケモンの動きを鈍らせる。自らが仮死状態になり意識を失う恐怖を乗り越える精神力と、そのような状況にありながらトレーナーの指示に従うことの出来るだけの献身性は、本来ならば相反する能力だ』
クロサワの説明によって、中継を見ている視聴者は、少なくとも今対戦場を支配している状況の、上辺の部分は理解することが出来ただろうとイツキは思った。しかし、それはあくまでも上澄みの部分だけであり、『ほろびのうた』という技とその選択の異様さが、完全に伝わっているわけでもない。
対戦場では、カイリュー思い切り地面に踏み込んだ、『こごえるかぜ』で単純なスピードは殺されたかもしれないが、『しんそく』の攻撃ならば威力こそ低いが相手の先手を取ることが出来る。
『しんそく』攻撃が直撃したドンカラスは、飛行能力を失い地面に叩きつけられんとする自身の肉体に何とか喝を入れ、地面と衝突寸前のところでなんとか翼を羽ばたかせた、更に、その際に両足で掴んだ対戦場の泥を、カイリューの目を狙って投げつけた。
『『どろかけ』だな、カイリューの目を潰し、技に正確性を欠かせるのが目的だろう。もう時間が無い、ここからは速いぞ』
カイリューは涙でぼやける視界を気に留めず、攻撃態勢を取った。相手に先制は許すが、『つばめがえし』で確実にダーメージを与える算段だった。
しかし、攻撃が来ない。ようやく多少見えるようになった目を凝らしても、ドンカラスの姿らしきものが見えない。そのとき、ドンカラスは遥か上空に飛翔していたのである。
「『そらをとぶ』か、賭けに出たな」
ニシキノの呟きは、もはや誰にも反応されない。
『時間稼ぎの『そらをとぶ』だが、リスクも大きい、攻撃の際に確実に隙ができるから、そこにデカイのを入れられてしまうと勝負が決まる。最もそのための『どろかけ』だったのだろうが』
ドンカラスが、滑空を開始する。はるか上空から重力を味方につけて体当たりを行う『そらをとぶ』攻撃は威力の高い技だが、カイリューに致命的なダメージを与えるほどのものではない。
カイリューはキシからの指示で、視界外からの攻撃を理解した。彼の言う方向に向き合い、攻撃を受ける。
ドンカラスの突進は、カイリューの首筋に確実にヒットした。しかし、その痛みを目印に、カイリューは朧気ながらにドンカラスの居場所を捉える。
痛みを生み出した物に向かって、カイリューは右腕を振りかぶった。ドンカラスもなんとかそれをかわそうと、カイリューの体を蹴り上げる。
振り下ろされた『かみなりパンチ』はドンカラスを確実に捉えることは出来なかった。しかし、ドラゴンのパワーから放たれる攻撃は、ドンカラスの片翼を掠め、ドンカラスを地面に叩きつけることに成功した。
控室は激闘の終わりが近づいていることを感じていた。恐らく、次の攻撃で勝負は決することになるだろう。
その時、クロセが小さな声で「あっ」と呟いた。しかし、その小さな声は、隣にいたモモナリにのみ届いていた。
叩きつけられたドンカラスは、片翼のダメージが酷いらしく、羽ばたきで空を飛ぶことができなくなっていた。しかし、まだ動く片翼を必死にばたつかせ、地面を蹴るようにはできていない両足で必死に地面を掻いて、なんとか次をつなげようともがく。全ては、自らが『ほろびのうた』で戦闘不能になるために。
キシは選択を迫られていた、『かみなりパンチ』がクリーンヒットしていれば、『つばめがえし』でほぼ確実に勝負を決めることもできていただろう。しかし、あの当たり方では怪しい。同様の理由で『しんそく』も選択しづらかった。
実践で『ほろびのうた』を食らったのは初めてだが、知識としては十分なほどにその技の性質を理解していた。恐らく、そろそろタイムリミットが来るだろう。だが、『ちょうはつ』の効力もそろそろ切れてもおかしくはない。もし『はねやすめ』を選択されてしまえば『れいとうビーム』や『十万ボルト』では足りないかも知れない。
そして、キシは決断した。確実にドンカラスを沈めることが出来るだけの大ダメージを与える攻撃を選択する。
カリンが彼に見せつけた虚像は、最後の最後で、合理性の塊のようなトレーナーであるキシに、運否天賦に身を任せる選択を選ばせたのだ。
カイリューが敢行した『かみなり』攻撃は、発生さえしてしまえば、とんでもない速さで相手を攻撃することが出来る技だった。その技が『かみなり』と呼ばれる理由の一つでもある。
その攻撃は、地面を這うドンカラスから、少し離れたところに着弾した。
『はずした』
クロサワの大声を数多くの視聴者が耳にした。その声の大きさで、感の良い視聴者は、この試合の結末を理解した。
「離れ際に『どろかけ』を」
クロセはモモナリにそう説明していた。
「なるほど、『どろかけ』を二回もされてしまえば、『かみなり』を外すのも不思議じゃないね」
カイリューは、もう一度攻撃態勢を取る。一回外したところで大した問題ではない、あの相手は確実に沈めなければならない。生物界の頂点に立っていると言っても過言ではない種族のドラゴンが、全てを投げうって攻撃をしようとしていた。
しかし、カイリューのその決意は、自身の意識が薄れ、視界が暗くなることで終わりを迎えた。『ほろびのうた』の終末は、たとえ相手がドラゴンであろうとも、ある意味平等に訪れる。
ドンカラスもまた、痛む体を地面に預けながら、対面の巨大なドラゴンが膝をつくのを見届けて、自身にも訪れていた暗闇に身を任せた。カリンにはまだ、あのクソ生意気なブラッキーが残っている。つまり、彼女は勝ったのだということを、噛み締めていた。
☆
『俺は、この試合を一生忘れることが出来ないだろう』
両選手が退場し、長い長いハイライトの解説も終わった。試合の余韻を楽しんでいるファン達もいるにはいたが、観客席はもう人がまばらになり、いつものセキエイのような静けさを取り戻しつつあった。
クロサワは、アナウンサーに促されるよりも先に、感想を語り始めた。言いたいことは山ほどあった。
『キシは間違いなく近年で最も強いトレーナーの一人だった。そして、ポケモンと人間との関係においても、その極地にたどり着かんとしていた人間の一人であったと思う』
『ポケモンと人間との関係、と言いますと』
『ポケモンと、トレーナーの関係の原点は、協力し、生き残ることだと俺は思っている。人間はか弱い、例えばそこら辺の草むらから飛び出してきたような小さなコラッタにすら無傷で勝利することは出来ないだろう。ポケモン達もそれは同じで、小さなコラッタでは大きなラッタには敵わない。弱肉強食というものは本来はそんなものだ。人間がトレーナーになった背景は、か弱き生物たちがこの弱肉強食の摂理から逃れようとしたからだ。人間は生き残るために知性と判断力でポケモンに指示を出し、ポケモンは生き残るためにそれに従う。もし自らが倒れることになっても、人間は彼らを治療することが出来る技術がある。不意に現れるかもしれない脅威に対する共同体なんだ、やがてそれは技術を高め合う段階に昇華され、ポケモンリーグが生まれた』
『なるほど、キシ選手がその極地にたどり着かんとしているというのは』
『キシは近代対戦の象徴のようなトレーナーだ。自身は情報と戦略を網羅し、従えるポケモンも強く格のある、言い換えればその一匹だけでもこの自然界を生きていけるようなポケモンばかりだが、キシはその知識の合理性を彼らに提示することによって、彼らをまとめ上げるだけの生物としての格を得た。良くアマチュアが強いポケモンを使えば強くなれると勘違いしているが、自身の身の丈もわからない馬鹿共の戯れ言さ。俺達旧世代とはアプローチが違ったが、キシは人間とポケモンの共同体と言う概念の、一つの極地に近づかんとしている存在なんだ』
そして、と続ける。
『カリンは、俺達旧世代が目指していた極地にただ一人到達したトレーナーに、今日なった。カリンが従えているポケモンは、決してその全てに格があるわけではない。勿論、サザンドラは格がある側のポケモンだろうが、皮肉にもこの試合ではその格が発揮されることはなかった。彼女はポケモンの格よりも、自身が真に信頼を寄せることが出来るポケモン達と戦うことを選んだ。いや、カリンからすれば、ポケモンの格などどうでもよい事なのかもしれないが。そして、彼女は証明した、トレーナーの能力と、ポケモン達との信頼関係が、究極的な合理性をも上回ることがあるということを。神のいたずらとしか思えない不運すら、ねじ伏せることが出来るということを』
『サザンドラの急所のことですね』
『その通り、あの時、あの瞬間、俺はセキエイの神がキシに微笑んだのだと思った。合理性を持ちながら、運命をも味方につけることが出来たのだと、チャンピオンという星の加護を見たような気がした。しかし、カリンはそれを上回った』
『同世代のトレーナーとして、やはり思う所はあるのでしょうか』
『正直、今俺は引退してしまったことを少しばかり後悔している。俺はカリンほどの才覚には恵まれていなかったが、トレーナーの可能性というものを、これでもかと見せつけられる試合だった。トレーナーとポケモンが、ここまでなれるのだったら、もう少しばかり辛い思いをしても良かったのかもしれないな』
☆
「長かった」
随分と人が減り、モニターの電源も落とされた控室で、イツキがポツリそう呟いた。
横に座るニシキノも、感慨深そうに目頭を押さえている。
「クロセくん、帰ろうか」
モモナリはイツキの表情を見つめ、クロセと共に控室を後にした。涙など見せたことのない人だった。
会場から一歩出ると、あたりは随分と暗くなり、吐く息は白く色づいていた。
「カリンさん、強かったッスね」
同じく白いものを吐き出しながら、クロセが呟いた。独り言のようだったが、モモナリの返答を期待しているようにも聞こえた。
「そうだね」と、モモナリは答えた。
「僕は、あの人に憧れているんだよ」
「わかる気がします」と、クロセはモモナリを見た。
「来期、戦えるかもしれないんスよね」
その言葉の意味することを、モモナリはすぐには理解できず、一瞬だけ、空白が生まれた。
そして、それが来期のチャンピオン決定戦のことを意味しているらしいことを理解したモモナリは「そうだね、僕達はそういう立場なんだね」とクロセの方を叩いた。
モモナリは確認することが出来なかった。その時のクロセの表情は、テレビモニターの向こう側にある料理に目を輝かせるような、歳相応の少年のものだった。