黙黙目次
テキトーさん家冒険録。始まりの話。
 揺らぎに身を任せながら、日の光を追って目線を上げる。とたんに感情がうねりを伴って彼女を襲った、視線を感じる、感情の矛先が彼女に向かい、再び目を伏せた。
 どれほど時間がたったであろう、どれほど揺られただろう、彼女は不必要に大量な感情に、心押しつぶされそうになっていた。


 それほど深くは無い森は国と国を行きかう人々の中継地となっていた。太陽の光をそれなりに反射する程度に透き通った湖の辺、二人の男がちいさな机を挟んで話していた。
「どうぞ、極東の茶です。緑の茶は慣れないかも知れないですが、まあまあいけるもんですよ」
 肥っている方の男はそう言って取っ手の無いカップをもう一人の男の方に差し出した。
 もう一人の男、特にこれといって特徴の無い男は、トーリと言う旅商人だった。トーリはひどく変わり者で、商人で在りながら荷物を好まず、自身のポケットに入るものばかりで生計を立てている事で有名な男だった。
「ああ、お気持ちはありがたいんですが、生憎味のついた飲み物は苦手で、あ、牛乳は別ですがね」
 愛想よくニコニコと笑ってトーリはそれを少し押し返した。肥った男は少し残念そうにそれを見ていた。
「噂は聞いていましたがね、いざ目の当たりにすると、本当に商人なのかと疑ってしまいますね」
 腿に、袖口に、脛に、無数に縫い付けられたポケットがパンパンに膨らんでいるのを見て肥った男は目を輝かせる。
「はて、これまで貴方が取引した物で、一番大きかったものはなんなのですかね?」
 トーリは笑ってかぶっていたおおげなさに幅広いつばの帽子を手に取る。
「この帽子一杯に、水銀を注いだことがあります、あの時は大変でしたよ。最も、耐え切れなくなって次の町で叩き売りましたがね」
 肥った男は下品に大口を開けて笑った。
「そう言うあなたは、何を売っているんです?」
 肥った男の背後にある大きな三台の馬車を指差して、トーリが聞く。
 肥った男はその質問に鋭く目を光らせ、誇らしげに答える。
「フフ、奴隷ですよ」
「はあ、奴隷ですか」
 何故そんなかさばる物をと、トーリは首を傾げる。
「ええ、今、西の方では国と国との争いが耐えない状況です、旅商人として、それはあなたにもお分かりでしょう?」
 黙りこくるトーリを無視して続ける。
「争いの先には、あぶれる人間が生まれる。まあ、特別な技能がある連中は引き抜かれますがね。残りは、我々の物だ」
「人は、面倒ですよ」
「ところがそうでもないんですよ」
 グイと顔を寄せて肥った男。
「西で奴隷を仕入れ、東で売る。東は西に比べて奴隷にも比較的自由がある、学問も許可されているし、能力があれば奴隷から地位も上がる。南南西のある強国の王子は、奴隷の子ですぜ。フフ、それを知っているから、誰も逆らわない。おぼろげな夢を追って、自ら志願するものもいる」
 ふふふ、と肥った男は笑う。事実、男はそれで随分と儲けていた。
「例えば、そうですねえ、どのような奴隷が高く売れるんで?」
 トーリの質問に、待ってましたといわんばかりに肥った男。
「美女、屈強な男、子供、の順ですがね。実は今もっと売れる奴隷が手に入っているんですよ」
「へえ」
「サーナイト、ですよ」
 トーリの動きが一瞬止まる。肥った男は卑しくもそれを見逃さなかった。
「西方の大貴族、エルプラント家に使えていた、ターシャと言うサーナイトですよ。獣でありながら言葉を理解し、長年人と獣の仲介役となっていた、神聖な存在。フフ、驚いていらっしゃるな、何故私がそのような存在を従えているのか」
 事実、トーリは驚いていた。
「エルプラント家は、北東の民族によって滅ぼされたのです、野蛮な彼らは戦いに必要な獣以外を必要としていなかった、私は彼らに付き添い、その人獣を手に入れたわけです」
 馬鹿な、とトーリ。
「エルプラント家は確かに没落したが、更に西にターシャと共に逃げ、新たな王国を作り上げているはずだ」
 それは情報の伝わりが遅いこの世界では、まだ殆どの人間が知りえていない情報だった。
「なるほど、さすが、よく知っていらっしゃる」
 ニヤリ、肥った男。
「何処か抜けた旅商人を装いながら、荷を必要としない『情報』を売り歩いてるだけの事はある。その情報で滅んだ国もあれば、救われた国もあると聞く」
 トーリは押し黙った、肥った男の言っている事はおおむね正しかった。彼は、確かにポケットに入る商品の売買もするが、それ以上に国を揺るがすほどの『情報』を扱う商人であった。情報の対価は金銭ではなく、また別の情報であり、その情報の重要さは提供する物に比例した。彼はその売買の才能によって、幾つもの国を滅ぼしかねない存在となっていた。
 どうでしょう、と肥った男は提案する。
「私と手を組みませんか、あなたの情報があれば、国を興すことも不可能では無いでしょう」
 トーリは取っての無いコップを手にとり、一つその香りを嗅いだ。
「一つお聞きしたい、今貴方が持っているサーナイトは何者なんです?」
 ああ、と肥った男は悪びれるをそぶり無く答える。
「偽者に決まっているでしょう、ターシャによく似たサーナイトを北東の民族が捕らえていたので、ただ同然で引き取っただけですよ」
 肥った男がそれを言い終わる前に、トーリは小さな机ごと、肥った男を蹴り飛ばした。椅子ごと仰向けに倒れた肥った男に、トーリは素早く馬乗りとなり、男の鼻をつまんだ。
 モゴモゴと息を荒げる男の口元に、トーリはコップを近づけた。
「残すのはもったいないから、飲んでください、俺は『こういう飲み物』は好かんのです」
 男の口に、緑色の茶を注ぎ込む、まだ熱を持っていたそれに、男は飛び上がりそうになったが、胸の上のトーリがそれを許さなかった。
 幾らかは吐き出しつつも、やがて茶は男の喉を通った。それを確認したトーリは男の上から腰を上げる。
 男は何とかトーリから逃げようと仰向けのまま地面を張ったが、二、三歩ほどの距離を張ったかと思うと、アががガが、と悲鳴を上げる。
「望んで奴隷だなんて、よく言うよ。こんなに強力な痺れ薬は始めてみた、節操と言うものを知らないのかねえ」
 男はトーリをにらみ付け、声もからがらに「護衛、護衛は」と呟いた。
 男は、胸の上に違和感を覚えた、何かが乗っているのだろうか、恐怖しながらも首を擡げると、黄色の体毛で全身を包んだ、子供の手のひらほどの小さな虫。
「護衛は今頃全員痺れてるんじゃないかな、俺のバチュルの電気の糸は強力だから、あんたの痺れ薬とどっちが優れものか興味あるね」
 小さな悲鳴を上げる肥った男を尻目に、ぴょんぴょんと飛び跳ねながらトーリの元に戻ったバチュルは「よくやったぞ、ポチ」と一つ頭を撫でられると、嬉しそうに一つ鳴いた後に、唯一スカスカな胸のポケットに入った。
「ワ、ワタシをドウする気だ」
「そりゃこっちが言いたいよ、危うく身包み引っ剥がされて売られるところだったんだ。もし俺があんたを殺したって、文句は言えねえよ」
 またもや短い悲鳴を上げた男の胸に、トーリは右足を乗せた。
「落とし前は情報提供で手を売ってやろう、鍵の場所はどこなんだい?」


 彼女は牢の外で、激昂の感情を感じた。激昂しているのは、あの肥った男。
 もう一人の男は、盗賊だろうか、いや、それにしてはえらく悲しい感情を持っている。


 潤滑油など当然使われていない蝶番が悲鳴を上げる。光が差し込むことによって見えた埃が扉の風に舞い、トーリは咳き込んだ。
 奴隷達は一斉にビクついた、彼らの手足に嵌められた鎖が音を立てる
 フンフフンフン、と鼻歌交じりに、トーリは奴隷達を見回した、トーリから目線を外す者、逆に見つめ返す者、しかしどちらも人であった。
 奴隷達は牢の壁に繋がれつつも、何人かで体を寄せ合っていた、極限の中で芽生えたたった少しの仲間意識なのだろう。目を凝らすと、牢の奥に一つ、誰とも群れていない影があった。
 トーリはズカズカとその影に近寄る、頭を覆っていた布を剥ぎ取ると、青白い肌に緑色の髪の毛が薄暗い中でも分かった。
「こいつか」
 トーリは壁に繋がれている鎖の先を手で追い、その先が首につながれている錠である事を知ると、ポケットから取り出した鍵で、それを解いた。
 その光景を見ていた奴隷達は一斉に驚きの声を上げた、口々に俺も俺もと声を荒げる奴隷達を無視し、「立てるか」とサーナイトに手を差し伸べる。
 胸ポケットのバチュルはひそかに攻撃の体勢を取っていた、それは悪意のあるものではなく、もし万が一サーナイトがトーリを攻撃しようとした時に真っ先に対応するためである。しかし、トーリの手を取り立ち上がったサーナイトの赤い目がバチュルを見つめると、バチュルはそれをやめた、攻撃性など微塵も感じられない、優しい目だった。
 ただの懇願では助けられないと感じた奴隷達はやがてトーリを神だと言い、崇め始めた。神様助けてください、助けてくださいと喚き叫ぶ。
「止めねえか!」
 トーリが声を張り上げた、奴隷達はその迫力に押し黙る。
「お前らは助けねえ、良いか、俺は今からこの先にある『魔の渓谷』を越えなければならん。お前達を解放するからには、少なくともそれに同行し、有事の際には身代わりになる程度の事をしてくれないことには俺の利益にならない、その勇気があるのなら、声を上げろ」
 魔の渓谷とは、常に薄く霧がかった渓谷の事で、見通しが悪い上に高低の差が激しく、切り立った崖も少なくない、しかも凶悪なドラゴンの住み処とも言われており、一度足を踏み入れたものが生きて帰ってくる事は先ず無いといわれていた。
 手を上げる奴隷は入なかった、今死ぬことと、奴隷として売られる事を天秤にかけ、付いて行く事が割に合わないのを感じていたのだ。
 その時、トーリの傍で繋がれていた女が、甲高い声で彼を呼ぶ。
「ならば、どうして獣を解放するの」
 トーリは彼女に目を向ける、フードを脱いだ女はまだ若く、美しかった。
「獣を渓谷に連れて行く気なの? 無駄よ、獣はすぐに逃げるわ」
 キッと女はサーナイトを睨み付ける、サーナイトは怯えたようにトーリの影に隠れた。
「渓谷に行くのを止め、私を連れて行ったほうがよっぽど良い、なんだってするわ、ええ、どんなことでも」
 その台詞には、若い女らしい艶が纏われていた。
 トーリはフフンと彼女を鼻で笑って。
「お前が俺の寝首を襲わない保障なんてどこにも無いだろう、人も一皮向けば獣に過ぎん。人は、人が捻じ曲げて作った運命に黙って乗っていれば良いのだ。お前らが売られるのも、お前らと同じ人が少しばかり欲を出したからだ、同じ人として、運命に抗うなんてのは見苦しい、獣のほうがよっぽど素直だ」
 サーナイトの手を引き、牢を後にしようとしたトーリに、若い女が「変態!」となじる。
「変態! 変態! 人よりも獣を選ぶ畜生め! 地獄に落ちてしまえ!」
「お前に言われずとも、落ちるときには勝手に落ちるさ」
 牢を出たトーリは、肥った男が牢のすぐ傍にまで這って移動してきたことに気付いた。
 トーリは感心して、言う。
「へえ、その執念には感服だよ」
「ワタシのショ、ショウヒンに手を、出すな」
「無理だね、サーナイトは連れて行く、元々ただみたいなものなのだから大した損失にはならんだろう? 他の奴隷は、あんたを裏切れないとさ、泣ける話じゃねえか、少しは良い飯食わせてやれよ」
 それだけ言ったトーリは、サーナイトの手を引き、森を抜けた。


 彼女がその気を出せば、手を引く男を振りほどくことなんて造作も無かった。しかし、彼女はそれをせず、男に身を任せている。
 解放を喜ぶと同時に、戸惑っていた。男の感情は、彼女の理解の及ばないものであった。


 魔の渓谷の入り口近く、少し霞が周りを覆い始めた頃、トーリはサーナイトの手を離し、彼女に言った。
「さて、もう良い、好きなところに逃げな。西に帰るも良し、この地で新たに獣を束ねても良し、だ。もう人につかまるとか言うヘマはやらないこったな」
 改めてトーリが彼女を見ると、所々に鞭で打たれたに違いないミミズ腫れが幾つかあって、思わず目を背けた。
「もう、人には愛想が尽きただろうしな。皆子供の頃は満足してんだけどな、成長するにつれて、段々と欲張りになっちまう」
 許してやってくれ、と詫びるトーリの腕に、サーナイトは手を伸ばす、胸ポケットから顔を出したバチュルがチッチと鳴く。
 それを別れの挨拶だと思ったトーリは、サーナイトの手を優しく払い渓谷に足を踏み込んだ。
 少しばかり歩いた時、後ろをついてくる足音に気付いて、彼は振り返った。
 そこにはまだサーナイトがいたのだ、トーリが歩むのを止めると、彼女もまた歩みを止める。
「おいおいなんだ、まさかお前、売られたから俺の事を主人だと思ってるのか? 馬鹿な考えは辞めろよ、ヨレヨレの紙と何かを交換するってのはあくまで人が作ったルールに過ぎん、獣のお前が従う道理なんて微塵も無いだろう」
 サーナイトは首を横に振った。
 トーリはいぶかしみながらも、少し早足に道を急いだ。
 しかし、それでも彼女は着いて来た。トーリは段々と苛立ち始めていた。彼はある意味特別な気持ちを持ちながらこの渓谷に足を踏み入れているのだ、元はといえば自分が原因ではあるが、彼女に首を突っ込んでほしくなかった。
「いい加減にしろ!」
 トーリは振り返り、彼女を指差し叫んだ。
「何の考えがあって着いて来ているのか知らないが、俺はお前と共に入るつもりなどこれっぽちも無いのだ。人は同族である人とも分かり合う事が出来ぬのに、獣と分かり合うことなど出来ようか」
 情報を売買しているトーリは、人と人との関係などおぼろげなものである事を知っていた、何百年と友好関係にあるはずの二つの国に、それぞれの防衛戦略の穴を問われたことすらある。
 悲しげな顔をして更にトーリに近づこうとするサーナイトに、声を荒げた。
「電撃波だ」
 ポケットのバチュルは困惑し、チッチと鳴く。
「電撃波だというのが分からんのか! お前も奴と共に消えるか!?」
 声を荒げる主人に驚いたバチュルはトーリの帽子の上に飛び上がると、小さな体全身から円状に電撃を飛ばした。
 サーナイトはそれを避ける術が無く、それを浴びた。
 倒れるサーナイトにトーリは追い討ちする。
「かみなりだ」
 電撃を溜め始めたバチュルを見て、サーナイトは霧の中に姿を消した、放たれた一本のイカズチは何も無い地面を叩いて黒い焦げを残した。
 トーリは霧の向こうをボウと眺めた、やがて、サーナイトが再び姿を現すことが無い事を知ると「これでいい、これでいいんだ」と一人納得し、先程よりも足早に霧の中に消えた。


 優しくも悲しい男は、彼女を拒否して霧に消えた。荒い息を抑えて、気を落ち着かせた彼女は硬く決意を決めて、再び歩き始めた。


 深く、深く足を踏み込むたびに、魔の渓谷は思い思い雰囲気を醸し出し始めていた、時折、バチュルがキュイキュイと何かに怯え、主人を引きとめようと声を上げるが、トーリはそれを無視して、足を進めた。
 やがて、道が道としての役割を果たさなくなった頃、何か獰猛な咆哮が、渓谷に響いた。バチュルは怯え、ポケットの更に奥へと身を捩った。
 トーリはそれも構わず足を進める。その時、ふと彼の前の霧が晴れ、咆哮の主が姿を現した。
 三つ首のように見えるドラゴン、サザンドラは、夜の闇にも似た体毛を纏っていた。首周りの赤黒く傷一つ無いたてがみは、彼がこの渓谷の頂点であることを暗に示している。
 トーリは立ち止まった、否、本当は前に進もうとしていた、たとえこの渓谷の頂点が現れようと、そんなものは無視して歩み続けようと、そう思っていた。しかし、足が思う様に進まないのだ、それは恐怖からである。
 サザンドラはトーリに向かって炎を吐いた、そこに理由など無かった、目の前に自分以外の生物が存在していることが気に食わない、渓谷の頂点として、その考えに何の不備があろうか。
 足元をえぐる炎に、トーリは飛び上がってそれを避けた、そうしようと思っていたわけではない、しかしそれでも体が思わず反応してしまった。
 地面に叩きつけられた炎に勢いに、バランスを崩し、背中から地面に叩きつけられる。ううと呻く主人のポケットからバチュルが飛び出したが、彼もまたサザンドラを見て萎縮してしまった。
 トーリはバチュルを庇うように起き上がった。
「逃げろ、逃げてしまえ。お前など何の役にもたたん」
 もう一つ、サザンドラは炎を吐いた。逃げることが出来なかったトーリはそれをまともに食い、熱さに顔をゆがめながらのた打ち回る、
 気付けば、バチュルはもういなかった。これでいい、これでいいのだとトーリは安心した。
 別にこの渓谷を通らずとも、他所の国に行く事はできた。それでもトーリがそうしなかったのは、彼が死に場所を求めていたからである。
 トーリは、昔は国を揺るがすような情報屋ではなかった。本当に気ままなフーテンで、国と国を行き来しては、あの国の果実が良いだの、あの国の酒が良いだの、あの国が獣の大量発生に苦しんでいるだの、逆にあの国では疫病がはやり獣の数が減っているだの、そんな他愛も無い、誰も傷つかない情報を殆ど無償で伝えていた。
 しかし、あるとき、ある国の重大な秘密を知った。また別の国で彼がその事を漏らすと、その国は目が飛び出るような金額で、その情報を買うと言い始めた。まだ若く、野心に溢れていたトーリは情報を売り、またその国の情報も手に入れた。
 そうしていく内に、トーリは人を毛嫌いする様になっていた。人は我侭だ、人が満足するためのルールでまた別の人が苦しむ、しかし苦しんでいる人もまた我侭にまた別の人を苦しめる。トーリにとって人は獣以下の存在であった、果実を食べその種を大地に撒く獣のほうがよほど優しさに溢れ、平和だった。
 やがてトーリは自分が持っている情報を疎ましく思う様になった、それはつまり人の我侭の結晶なのだ、しかしその我侭の結晶に人はまた群がる。
 トーリは死にたかった、自分が持っている情報ごと、自分の存在を消して仕舞いたかったのだ。そして、死ぬのならば人から遠く、遠く離れて死にたいと思った。自分を含め、人の我侭で苦しんでいる自分が、人の作ったルールの傍で死ぬ事は、何よりも避けたかった。
 しかし、いざ全身を焼かれると、熱かった、痛かった。なんて我侭なのだろうと自分を嫌悪した。
 ようやく正面を向いたトーリに、サザンドラはエネルギーの球を放出した、それは地面ごとトーリを吹き飛ばし、受身の取れないトーリは石に胸を打ちつけた。
 激しい痛み、トーリは悲鳴を上げてしまうかと思った。だが悲鳴よりも先に、何か熱いものが自分の喉を駆け上がってくるのを感じた、嗚咽に任せてそれを吐き出すと、自らの手の平が真っ赤に染まっている、口の中に広がる鉄の様な味は、トーリをパニックに陥れた。
 その場から逃げようと、トーリは足をばたつかせる。砂煙がまってそれが口に入り、ひどく咳き込んだ。
 ゴホゴホ、しかしまだ砂は胸に残っているようで、まだゴホゴホ、やがて咳き込むばかりで息を吸えていない事に気付く、強引に息を吸い込もうとしたが、体がそれを許さず、痛みと苦しみで気が狂いそうになる。
 サザンドラはそんなトーリをじっと眺めていた、そうすることで、自分の強さを何者かに見せ付けているのかもしれない。
 ようやく息を吸えたころ、また熱いものが込み上げる、大きくそれを吐き出す。
 死にたくない、トーリはそう思った。我侭だ、何て我侭、しかし、死にたくない。
 自然の摂理に身を任せ、弱肉強食に身を投じ、死ぬ事は運命だとすら思っていた、しかし、今はそれが苦しくて仕方が無い、思えば、殺される時に運命と割り切る生物なんているものか。
 少し、足が動く、トーリは無様に四足のようにして地面を這った。だが、目がようやく焦点を絞り始めたとき、自分が身を置いているのが崖のすぐ傍であることに気付いて、絶望した。
 サザンドラは光線によって足元ごと彼を吹き飛ばした、生まれて初めて、トーリは宙を舞った。
 先程まで痛かった、熱かった、しかし今は何も感じない、きっと死ぬ前は何も感じない様になっているのだろうとトーリは思った。そんな所まで、人は我侭なのだろう。
 トーリは目を瞑った、もうこの世界を見たくなかった。
 しかし、何か柔らかいものが、トーリの体を包んだ、刺激に体が悲鳴をあげ、思わず目を開いた。
 トーリを受け止めていたのは、巨大な蜘蛛の巣だった、不思議な事に、それは宙に浮いているように見える。
 まさかと思って顔を捩ると、目の前にバチュルがいた。虫の表情など分からないが、バチュルは少し安心したようにトーリを見ていた。
 来るな、お前じゃ勝てないよ。トーリはそう言おうとした、しかし胸に激痛が走り、それは出来なかった。
 サザンドラはそれを見て高度を落とす、頂点に立つものとして、一度手をつけた獲物を生かして帰す訳にはいかない。
 その時、倒れるトーリの前に何かが立ち塞がった、青白い肌に緑色の髪の毛。
 ガッ、と、言葉にならない叫びをトーリはあげた。馬鹿野郎、すぐに逃げろ。黒々とした獣に人獣が適わぬ事はよく知っている。彼は悔しかった、情けをかけてもらったは良いが、これでは全員共倒れだ。自分の我侭に無実の獣を巻き込むくらいなら、あの時助けなければよかったかもしれない、いや、助けなければよかったのだ。
 サザンドラを目の前に、サーナイトは振りかえってトーリを見た、赤い眼は彼を捉え、そして少し微笑んだ。
 サーナイトの周りを光が包み込む、様々な国を回ったトーリも、そんなのを見るの初めてだ。
 サザンドラは再び炎を蜘蛛の巣めがけて吐いた。
 それを見てサーナイトが片手をかざすと、半透明の壁が蜘蛛の巣の前に現れ、炎を弾く。
 それと同時に、彼女は周りの光を放出した。それは球状に全方向に広がり、サザンドラに直撃した。
 グラリと、サザンドラの体勢が崩れる。一体どうして、とトーリはいぶかしむ。
 サーナイトがサザンドラを睨み付ける、サザンドラは唸る様に方向を上げると、恨めしげに空に消えた。
 やり過ごしたのか。安心すると、とたんに忘れていた痛みがぶり返す。
 声にならぬ声をあげ悶えるトーリを、サーナイトは腰を下げ、彼を抱きかかえた。彼女の両腕に温かさを感じたトーリは、人獣は人より体温が高いのだろうかと、不思議なほど落ち着いて思った。
 サーナイトは右手を彼に差し出した、手のひらから光の玉が浮き上がり、それを彼の口元に持っていく。
 トーリはそれを拒まなかった、否、拒むことなど出来なかった。光の球を飲み込むと、それは温かく喉を通り、やがて口の中に鉄の味は残るものの胸の痛みが消えていった。
「一体、どうして」
 ようやく喋れるようになったトーリは彼女を見つめて言った。
 サーナイトは心配そうにトーリの胸に乗っているバチュルに目を向けた。トーリも同じように目を向けると、バチュルは誇らしげに四肢を踏みしめた。
「そうか、すまないな」
 トーリは先程までの惨劇を思い出した、痛み、苦しみ、恐怖。それらに身震いすると、再び今に目を向ける。途端に目頭を熱いものが込み上げ、それらは嗚咽と共に溢れた。
「ありがとう。ありがとう」
 ずっと、それを呟いた。バチュルは慌てたように短く鳴いたが、抱擁の人獣は彼を抱く力を強めた。
「もし良かったら、皆で山を降りよう。もう情報を売り歩くのはやめにして、何処かで静かに暮らそう」
 トーリは右手でバチュルを、そして左手ではサーナイトを共に抱いて、不器用に微笑んで目を閉じた。


 僕はこの男が好きだ、とバチュルは彼女に語った。だってこの男の手はとても温かいし、それでいてとても柔らかいんだもの。
 サーナイトはバチュルに微笑んで答えた、この男も今それを感じている。きっとそれが優しさと言うものなのだろう。



 完



 ペンを置いたサーナイトは、ふうと一つ息を吐いて、すっかり冷たくなってしまった紅茶で、喉を潤しました。何時も傍にいる男の真似をして物語を書いたりしましたが、どうも気恥ずかしくて、体が熱くなります。
 書くのに集中していたため、気が付きませんでしたが。騒がしいほどのベルの音、サーナイトがうっとおしそうに目を閉じると、随分と時間がたってからそれがやみました。
「いやいや、ドアベルとか言うのは初めてだが、とても楽しいねえ、まるでオーケストラだ。ついつい壊れるまで押してしまいそうだよ」
 男が楽しげにサーナイトに話しかけます。その男は老けた若者にも、歳相応の中年男性にも、若々しい老人にも見えるのです。
「やはり持ち家は良い、何より物を置く場所が出来るというのが最高だね、なんといってもこれまでは置いては捨て置いては捨てだったからねえ」
 その発言にサーナイトは困ったかように眉を寄せました。普段からこの男はおしゃべりですが、これほどまでうっとおしいのは、新居に興奮しているのでしょう。ため息を突きながら目を開くと、空になっていたカップに紅茶を注ぎます。
「ああ! その荷物は大事に扱ってくれよ! ガラスのかけらが入っているんだ! ただの欠片じゃないんだよ、元々はそれはそれは名のあるガラス像だったんだ、そりゃ確かに粉々になったかもしれないけれど、今では立派な机になっているんだぞ、私は持っていないけど」
 ごちゃごちゃとしたものが詰め込まれた箱を運ぶゴーリキーに、その男は口やかましく注意しました。ゴーリキーはうっとおしそうに目を細めましたが、とりあえず仕事を全うします。
 今度はあのガラクタを気に入るまで並べ始めるのだろう、呆れたサーナイトは紅茶に口をつけます。
 その時、男はサーナイトの前に、何かが書かれた紙がある事に気付きました。
「おや、さては暇だから物語でも書いたのかい? どうれどうれ、良かったら見せてくれ」
 紙を手に取ろうとした男にサーナイトは驚いてカップを手荒に机に返すと、顔を真っ赤にして紙を引っ手繰ります。そしてそのまま彼女の為に用意された部屋に消えました。
「なんだ、恥ずかしがることも無いのに、見せたくないのならば、何のために書いているのだろう。私はそんなもの無いのに。いや、二つほどあるかも」
 その時、何か小さなものが視界を横切るのを感じた男はそのほうに目を向けました。電気を食う小さな虫ポケモンが、家具の隙間に隠れたような気がします。
 すこし男は嫌そうな顔をしましたが、ま、良いかと気分を変えました。
「うーん、三つくらいはあるかもな」
 と、再びドアベルを鳴らしに戻りました。

■筆者メッセージ
一番初めの話なんでしょうね。この話を書いた頃、サーナイトが妖精である事はまだあまり知られていなかったんですねえ
来来坊(風) ( 2013/06/18(火) 20:22 )