テキトーさん家冒険録。二人目。
その村で誰よりもテキトーな人、テキトーさんは村外れの一軒家に住んでいました。
テキトーさんは掴み所が無くて、何を考えているのか分からなくて、挙句の果てには老けたお兄さんにも、年相応のオジサンにも、若々しいおじいさんにも見えるのです。
それでもテキトーさんは悪い人ではなかったので、村の人たちからはある程度信頼され、愛されてもいました。どのくらい愛されていたかというと、皆におすそわけするものをあの人にだけしないのはマズいだろう。と思われるほどには愛されています。
テキトーさん家に続く一本道を女の子が歩いていました。彼女の名前はキャロル、運動好きで活発な子です。その証拠に栗毛色の髪は女の子にしては短く切りそろえられ、フリフリの無い男の子のような服を着ていました。
彼女は胸に木の実の入ったバスケットを抱えています。その木の実はお母さんが育てた物で、毎年収穫されると村の人々におすそ分けしているのです。
テキトーさんの家に行くのは初めてなので彼女は少し緊張していました。だけどある友達からテキトーさんの家では美味しい紅茶とケーキをご馳走してくれると聞いていたので、少し楽しみでもありました。
テキトーさん家の呼び鈴は地味で簡素なテキトーさん家には不釣合いな真新しくてゴテゴテで煌びやかな物でした。恐る恐るそれを鳴らすと、外からでも聞こえるくらい甲高くて大きな音が響きました。
「はいはい、どなたですか?」
扉を開け、キャロルに気付いたテキトーさんはニッコリ笑って「こんにちわ、用件は何かな?」と聞きます。
「これ、お母さんが育てた木の実です。おすそ分けに来ました」
思っていたほど変な人じゃないな、とキャロルは安心しました。
「やあやあそれは嬉しいねえ、ここいらの木の実はとてもみずみずしくて僕は大好きだよ」
テキトーさんは快くバスケットを受け取って、キャロルの頭を撫でます。
「良かったらあがっていくかい? 紅茶と何か甘いものを用意するよ」
キャロルは待っていましたといわんばかりに顔を明るくさせ、家の中に入ろうとしましたが、ふと、呼び鈴を指差して「これ、変よ」とテキトーさんに言いました。
テキトーさんは少し表情を落として。
「やっぱり君もそう思うかい。ついこの間、呼び鈴を変えたほうが良いとお客さんに言われてねえ、手持ちがあったから少し奮発したんだが、どうも不人気で。僕は気に入っているんだけどねえ」
テキトーさんの家は物で溢れ返っていました。
友達が言っていたとおりだな、とキャロルは部屋の中を見回します。
リビングから見えるキッチンでは、人に良く似た姿をした薄緑色のポケモンが何かをオーブンに入れたところでした。
「お客さんだ、紅茶を入れてくれ」
テキトーさんがそう言うと、そのポケモンは頷いてポットを用意し始めました。テキトーさんはそのままテーブルに着きます。
「ちょうど良かったよ、タルトを作っていたところなんだ。君も食べて行くと良い、タルトの上に載る木の実は多ければ多いほどいい、けれど多すぎるとこぼれてしまうし、そこが難しい。まぁまぁ座って」
フルーツタルトはキャロルの好物だったので、キャロルは少しウキウキながらテキトーさんの正面に座ります。
机の上には、小皿に入ったお菓子と、一冊の分厚い本がありました。ずいぶんと古い本で表紙も薄汚れており、キャロルは『名も』と言う部分と『な旅』と言う部分しか読めませんでした。
キャロルはそんなに分厚い本は辞書しか見たことがありませんでした。それに、もしあっても読まないんだろうなと思いました。本を読むより外で遊ぶほうが好きだったからです。
「これは辞書?」
その本を指差して言います。
「ん? あぁ、これかい」
テキトーさんはその本を自らの前に引き寄せました。
「聞いたこと無いかな、白いドラゴンと黒いドラゴンのお話を。演劇にもなっているんだけど」
全然、とキャロルは首を横に振りました。
「その本全部がその話なの?」
「まさか、一割だけだよ。あとの九割は今の話を纏めた人が書いている長編さ、まだ全部は読んでいないけれどとても楽しい」
テキトーさんは満面の笑みで答えました。と言う事は結局あの本を全部読むのか、とキャロルはある意味恐怖を覚えます。
その時、緑色のポケモンがポットとカップを三つトレーに載せてやって来ました。カップをそれぞれの席に置き、紅茶を注ぎます。
「自慢の紅茶だよ、私はよく分からないけど何だか美味しいらしい」
キャロルは進められるがまま一口飲んでみました。キャロルは本当は熱い紅茶よりも冷たい牛乳の方が好きでしたが、飲んでみると良い香りがして、ホッとした気分になります。
「本って、面白いの?」
キャロルがテキトーさんに聞きます。彼女のお父さんが本をすすめることがありますが、沢山の文字が並んでいるのを見るだけで目が回ってしまいます。
テキトーさんは笑って返します。
「もちろんさ、物語の世界は自由だからね」
「自由?」
「そう、物語の世界は何だってある。喋るドラゴンと冒険することが出来るし。ノーマルタイプのポケモンとどくタイプのポケモンが運命の赤い糸で結ばれることも出来る、多分ね。空だって鳥だけのものじゃない、私達だって空を飛ぶことが出来るんだ」
キャロルは少し考えて。
「それなら、鳥が空を飛ばないこともあるの?」
「いや、そう言う鳥は実際にいるよ」
キャロルは驚きました。空を飛ばない鳥なんて見たことも聞いたことも無いからです。
「うそだ」
「本当さ、あれを頼むよ」
テキトーさんが緑色のポケモンに指示すると緑色のポケモンは席を立って別の部屋に消えます。
今のポケモンはサーナイトと言うんだよ、多分ね。とテキトーさんはキャロルに言いました。
サーナイトは胸にこれまた分厚い本を抱えて帰ってきました。そしてそれをテーブルに置くとまた読書を再開します。
テキトーさんはその本をペラペラと捲り、あったあったと言ってそれをキャロルの方に向けました。
「このポケモンがそうだよ」
見るとそこには一つの胴体に首と頭が二つある良く分からないポケモンが書いてありました。しかし良く見ると小さいですが翼があるような気がします。名前の欄には『ドードー』と書いてありました。
そして隣のページにはドードーによく似たポケモンが書いてありました。しかしドードーと決定的に違うところは頭が三つあるところです。名前の欄には『ドードリオ』
「世にも珍しい、地面を走る鳥さ。とても早く走ることが出来るんだよ。まぁ私も本気を出せばそのくらいなんだけどね」
確かにその小さな翼では空を飛ぶことはできないだろうな、とキャロルは納得します。
「でも、かわいそうね」
「どうして?」
「鳥なのに空を飛べないなんて、かわいそう」
キャロルは再びカップを傾けます。
ふーん、とテキトーさんは鼻を鳴らし、腕組みをして少し何かを考えました。
そして、目を輝かせてキャロルに提案します。
「それじゃあ、飛ばせてあげればいい」
キャロルはテキトーさんが何を言っているのかわかりませんでした。テキトーさんはついさっきまでこのポケモンは空を飛べないと言っていたからです。
「無理よ、あの小さな翼じゃ飛ぶことはできないわ。そのくらい私でも分かる」
「それは現実世界の話だろう?」
テキトーさんは立ち上がって、近くの棚からインクと万年筆、そして雑用紙の束を取り出します。
「物語の世界で飛ばせてあげるのさ、物語は自由だからね」
それぞれを机に置き、手早くインクの蓋を開け、ペン先をそれに漬けます。
テキトーさんの目が細まり、肌がきゅっと引き締まった様に見えます。
「さぁ考えよう、空を飛ぶことが出来ないポケモンが、どうやって飛ぶのか、何故飛ぶのか、誰が飛ばすのか、誰が何のために飛ばすのか、それを見た他の誰かはなんと思うか。突飛に空を飛んだのでは面白くない、そこに至る工程、プロセスが大事」
「ちょっと、ちょっと待って」
キャロルは慌ててテキトーさんを制止します。
「急にそんなこと言われても無理よ、私は本を読まないし、物語なんて作れないわ」
「大丈夫、文章は私が書こう、こう見えても文章を書く早さには自信があるんだ。君は思うことを言っていけばいい、それが物語になる。物語に必要なのは技術じゃない、知識じゃない、もちろんそれらは物語をより上質にするには必要かもしれないが、そんなものは所謂肉付けに過ぎない」
テキトーさんはぐいっとキャロルの目を覗き込みます。ほのかに紅茶の香りがしました。
「物語の核になるのは感情なのさ。君はドードー、空を飛べない鳥ポケモンにかわいそうだと言う感情を持った、それだけで十分に物語の核になりうる、後はそこから生まれる感情に身を任せればいい」
キャロルは何も言い返せませんでした、自らの目を覗き込むテキトーさんの目がとても真剣で、期待に満ちている様に思ったからです。それに、どうせタルトが出来あがるまでには時間があるのだからそれまでの辛抱だと思いました。
体勢を戻したテキトーさんはペンを持った手をあごに当て、キャロルに聞きます。
「鳥なのに空を飛べないのがかわいそう。と言ったけれど何でそう思ったんだい?」
キャロルは少し考えて、答えます。
「だって、仲間はずれじゃない」
なるほど、なるほど、とテキトーさんはペンを走らせ始めました。
「もっと早く! もっと早く!」
草原を、一匹のポケモンが走っていました。
そのポケモンは、胴体は一つですが首は三つあります。みつごどりポケモンのドードリオです。
ドードリオのそれぞれの首には手綱が括られていて、それはドードリオに乗っている少女の手に握られていました。少女は男の子がするような動きやすい格好をしていました。
少女はドードリオと同じように体を極端に前に倒して、ドードリオを叱咤しています。ドードリオもそれに答えるように更にスピードを上げました。
「いいわ、今迄で一番よ!」
肌に感じる風から、少女はドードリオがこれまでで一番のスピードを出していると確信しました。
ドードリオの進む先にはとても幅の広い川があります。流れは穏やかですが青々とした水面からその川がとても深いことが分かります。
「いける! いける! いける!」
少女は更にドードリオを鼓舞し、抵抗を減らすためにより深く頭を下げました。
川が近づきます、それでもドードリオはスピードを緩めません、否もっともっとスピードを上げているようにも思えます。そしてついに川のすぐ傍まで着ました。
その時、ドードリオは小さな羽根をバタバタと羽ばたかせ、尾羽を広げます。そして地面を強く蹴って、向こう岸に向かって跳躍。
少女は頭を上げ、下を確認しました。地面が遠く、遠くに。
しかし、川の半分辺りから段々と水面が近づいてきて。
「駄目っ」
ジャボン。
少し置いて、ジャボン。
『ちいさな翼は、愛されて』
川岸に人が二人とポケモンが二体おりました。二人と一匹はずぶ濡れで、もう一匹の人型のポケモンは両手で胸に分厚い本を抱えていました。
「一人で飛び込んで一人で溺れて、一体何なのあんたは!?」
ずぶ濡れの少女は、同じくずぶ濡れの男に向かって言いました。男は黒いローブを纏っていましたが、ずぶ濡れになったそれはぴたりと男の肌に吸い付き、随分と重たくなっていました。
ああ、寒い寒い、と男は肩を震わせました。春が過ぎようとしている時期とはいえ、川に飛び込めばまだまだ寒いです。一つ、ぴゅうと風が吹いて男は更に肩を振るさせました。
「そりゃ、こんなに深そうな川に女の子が飛び込んだら飛び込まざるをえないだろう。僕が泳げるか泳げないかは別として」
男は袖を手で握って絞りましたが、元々男は力の強い方では無いのであまり効果がありませんでした。
「私が泳ぎ慣れていなかったらあんた死んでたわよ。無茶苦茶ね、ホント」
「無茶苦茶なのは君さ、ドードリオと一緒に川に飛び込むなんて」
「飛び込んだんじゃないわ、ちょっとしたミスよ」
「なんだって良いさ、とりあえず服を乾かそう。寒くてかなわない。さあ、たのむよ」
男が横にいた人型のポケモンに一つ声をかけると、そのポケモンは片手を前に差し出しました、すると手のひらから赤紫色の火の玉が現れ、男はそれに手をかざします。
「このポケモンはサーナイトと言うポケモンでね、不思議な力を使うことが出来るんだ。君とドードリオも温まると良い、燃え移らない不思議な火だ」
「私は大丈夫、濡れても大丈夫な服だし、慣れてるもの」
「慣れてる、と言うと、君はいつも川に飛び込んでいるのかい? まだ時期が早いと思うよ」
男のとぼけた発言に少女はキッと彼をにらみつけましたが、直ぐに呆れて頭を抱えました。
「そういえば名前をまだ聞いていなかったね。僕の名前はタナカだ」
「私はエレルヘ」
「エレルヘか、変わった名前だね」
タナカの問いにエレルヘは少し得意げに答えます。
「曾おじいちゃん達の言葉で『勇敢』と言う意味よ」
「それはいい名前を貰ったね」
タナカは右の袖を肘までまくるとエレルヘに右手を差し出しました。エレルヘもそれに応じて握手すると、彼女はくるりと背を向けました。
「悪いけれど失礼させてもらうわ、まだまだ練習しないといけないの」
ドードリオに跨ろうとする彼女をタナカが呼び止めます。
「ちょっと待って、練習ってなんだい? また川に飛び込む気じゃないだろうね」
「ミスをすればそうなるわ」
「一体どうして? 僕の服が乾くまででいいから訳を聞かせてほしいな。と言っても全身ずぶ濡れなんだけど」
つかみどころの無いタナカにエレルヘはふうとため息をついて少し考えましたが「いいわ、あんたがずぶ濡れなのも元はといえば私のミスだしね」と言ってドードリオから降りました。
「一体何をミスして川に飛び込むハメになっているんだい?」
「別に大した事じゃないわ、私はただこの子と一緒にこの川を飛び越えたいの」
エレルヘがドードリオの首筋を撫でます。
「この川を渡った向こう、私の村は鳥ポケモンを操る『飛行士』達の村なの。男達は皆鳥ポケモンを相棒にしていて、空を渡って物と人を渡すの。そんな村だからね、ある風習があるの。その村の子供は八歳の誕生日に鳥ポケモンのタマゴを貰うの、子供は鳥ポケモンと共に成長して、十三歳の誕生日にこの川をそのポケモンと共に越えなければならない。そうしないと大人だって認めてもらえないの」
タナカはその村の事を様々な人から教えてもらっていました。その村の風習はとても珍しいものだったので人々は必ずその事を言っていました。
「有名な話だね。、ここらへんの人たちは皆知っていたよ。だけど、僕の聞いた話ではその風習は男の子だけだったような気がしたのだけれど」
「ええ、そうよ。だけど納得がいかなかったのよ、私は他の男の子達より足も速かったし喧嘩だって強いわ。ポケモンだって男の子より上手く扱える自信があるし、空だって飛ぶ自信がある。父さんに頼んで私もタマゴをもらったのよ、そして、生まれたのはこの子」
ドードリオのそれぞれの頭はエレルヘの手を擦ります。それはポケモンがとても懐いているときにする仕草です。
タナカはとても感心しました、彼の知る限りドードリオと言うポケモンは気性が荒いことで有名で、こんな少女が手懐ける事は難しいと思っていたからです。
しかし、タナカはどうしても気になることがありました。それを口にする事はまずいのでは無いかと戸惑いましたが、思い切って聞いてみることにします。
「失礼かもしれないけど、ドードリオは空を飛ぶポケモンでは無いだろう。お父さんはどうしてそのポケモンを?」
それまでドードリオに優しく微笑んでいたエレルヘはその質問に少し目を伏せました。やはりまずい事だったのかとタナカは後悔します。
「父さんは私が空を飛ぶことに反対なの。女に空は似合わないって言うのが村の常識で、クソみたいな常識だけどね。だからわざとドードーのタマゴを渡した。父さんはこのポケモンで川を越えることができたら飛行士として認めてやると笑いながら言ったわ」
練習とはなるほどそのことなのかとタナカは納得しました。
ねえ、とエレルヘがタナカを呼びます。
「その本と服装、あんたって教え人(おしえびと)なんでしょう」
ああ、そうだよ、とタナカは乾き始めたローブを少し広げて見せました。
「見るのは初めてだけど、教え人がどういうものかっていうのは聴いたことがあるの。この世界の色んなところを回って、色んな人たちに『何か』を教えているんでしょう?」
「まあ、平たく言うとそうだね」
「教えて、私って馬鹿かしら」
エレルヘの問いに、タナカは戸惑いました。
「どうしてそう思うの?」
「父さんとか、仲の悪い男の子とかいつも私を馬鹿だって言うわ。村の人達だって私の事を馬鹿だと思っている人も居る。女の癖に空を飛ぼうとしていたり、ドードリオで川越えしようとしたりね」
まさか、とタナカは両腕を振ります。
「少なくとも、僕は馬鹿だなんて思わない」
「本当に?」
エレルヘは表情を明るくさせタナカの方に一歩近寄ります。
「本当さ、本を貸してくれるかい」
サーナイトから分厚い本を受け取ったタナカはパラパラとページをめくり、ここだよここと喜んでページを彼女に向けましたが、そこに書いてある文字は随分昔のもう使われていない文字で彼女は不機嫌そうに「こんなの読めないわ」と言いました。
「そうか、ごめんね。ここにはこう書いてあるんだ『挑戦無き者には成功は訪れない』とね。例え飛べないといわれていても、羽ばたきを否定する事はできないんだよ。君は素晴らしい、最高さ。僕は君を応援する、きっと良い様になるさ」
エレルヘは嬉しさのあまり真っ赤になってしまって言葉を詰まらせました。やっと「ありがとう」と言うとプイと背を向けてドードリオに跨りました。
「もういいでしょ」
「ああそうだ、一つ聞きたいことがあるんだけど」
まだあるのか、とドードリオに跨ったままエレルヘが振り返ります。
「テンゲル、と言う人を探しているんだ、君の村でも有数の飛行士だと聞いている。頼みたいことがあってね」
エレルヘの表情が曇りました。先程までとは打って変わってとげのある声で答えます。
「この川を少し上ったところに橋があるわ、それを渡ると私達の村。あんたの探し人は村の真ん中にある酒場に一人でいると思うわ」
タナカはエレルヘの変化に少し焦りましたが、だからどうするといったことが出来るほど器用な男ではありませんでした。
「ありがとう、詳しいんだね」
ええ、と気の無い返事の後、一言呟いてエレルヘはその場を去りました。
「父さんだもの」
エレルヘの言うとおり、テンゲルは村の中心にある酒場にひとり座って酒も飲まず何か考え事をしていました。
テンゲルという男は飛行士と言う肩書きからは想像できないほどのがっしりとした大男でした、黒々と蓄えられた口髭はまるで熊の様なそれで本当にエレルヘは彼の子供なのだろうかとタナカは思いました。
タナカはテンゲルに挨拶すると、彼に誘われるまま、隣の席に腰を下ろしました。
「教え人の先生が一体何のようだ? あんたがたは教えの本と信頼できるパートナー、それと少量の生活品以外は携帯しないはずだろう。何を運ぼうというのか」
「実は、私をここから幾らか東にいったところにある地域に連れて行ってもらいたいのです。その地域では争いが絶えず、子供達が常に涙していると聞いています。教え人として彼らを救わなければなりません。自分の足で行くことができればよいのですが、その地域に行くには深い森と湖を越えなければならず。困っていたところにあなた方のお話を聞いたのです。もちろんお題はお支払いします」
タナカの答えにテンゲルはとても感心して尊敬の目で彼を見ました。
「立派な考えだ、俺は教え人を見るのはあんたが初めてだが、あんたがたの話はいたるところで聞いているよ」
そう言って笑顔を見せましたが、直ぐに腕を組んで考え込んでしまいます。
「だが時期が悪い、実はこの村を少し西に行ったところに果樹園があるんだが、この時期は村の女達が果樹園に住み込みでつきっきりなんだ。デリケートな木の実でな、この時期に病気になると全部ダメになるらしい。だから男達が村を守らなければならんのだ」
そうですか、とタナカは少し声を落としました、無理を言っているのは自分の方です。時期が来るまで近くの村で待とうかと考えていたところに、再びテンゲルが声をあげます。
「しかしまあ、俺一人が何日かあけるくらいなら問題なかろう。明日」
そう言って少し沈黙した後「明後日だな、明後日の昼に連れて行ってやる」と言いました。
「俺の爺さんが教え人の先生の一人には世話になったことがあるらしくてな、何かあったらよくしてくれと言われてんだ。信頼してもいい相手だとな」
テンゲルは酒場の主人を呼び止めると、酒を二つとポケモンが飲んでも大丈夫なドリンクを注文しました。
「まあ今日は飲もうや、酒の金はいらねえ。ここでは俺は只で飲めるんだ」
何度かコップを傾けた後、少し顔を赤くしたテンゲルにタナカは川の傍でエレルヘにあったと言いました。
空になっているコップを指先で弄びながらテンゲルはぼやきます。
「馬鹿な娘さ、軟弱にならないようにと(勇敢)の名を与えたのは良いが、どうも反抗的で困る。女の癖にポケモンを持ちたいだの川越えをしたいだのと、無茶苦茶さ」
酒場の主人にもう何杯かの酒を注文したテンゲルは「聡明そうな女の子でしたよ」と言うタナカを一つ睨みましたが、少し声の調子を上げて言います。
「俺に似ず賢い娘ではあるんだ、あの歳で計算も出来るし六歳の頃には字の読み書きが出来た、あんたらから見ればなんてことの無いことだろうが俺達から見ればすごいことさ」
それっきり黙りこんでしまって、タナカは間を持たせるために一口酒に口をつけました。信じられないほど強いお酒でした。
運ばれた三倍ほどの酒をテンゲルはクイクイクイと飲み干して――タナカが口にしたものと同じもののはずなのですが――テンゲルは一つため息を付いた後、タナカのほうに目を向けました。
「教え人の先生、何とか娘を説得してはくれないか。何なら渡航費をチャラにしてやってもいい」
タナカはそのような事を言われる事に慣れていました。むしろ教え人と言うのはそう言った事で生計を立てている節すらあります。ですが、まさかテンゲルほどの男がそのような事を言って来るとは思っていなかったので、タナカは驚いてしまいました。
「説得、と言っても僕達は人の考えを捻じ曲げる事を良しとはしていません。あくまでも人々の考えを手助けすることしか出来ないのです」
「構わないさ、俺が言うよりかはましだろう」
「それなら、何故あなたがエレルヘさんの行動をやめてほしいのか教えていただけますか」
「そりゃあ、女に相応しくないからさ、女は空なんか飛ぶ必要が無い。空は男に任せて女は果樹園と家族の事に気をやっていれば良い、エレルヘのように器量が良くて賢い女ならなおさらさ。この村が始まってからずーっと続いていたことなんだよ」
ふうむ、とタナカはコップに口をつけました。思い切って半分ほど喉に通すと、同じように思い切って彼に問います。
「本当に、それだけですか?」
ん? とテンゲル。
「あなたの話を聞いてから、川に飛び込んでいた彼女を思い出したのです。そして考えました、もし彼女がポケモンを与えられていなかったらどうなっていたのだろうかと。もし彼女がドードリオでは無く、例えば男友達から借りた鳥ポケモンで空を飛ぼうとしていたら、更には何らかの間違いでそれから落ちてしまったら。そこが引っかかるのです。先程のあなたのお話は本心なのですか?」
うっ、とテンゲルは声を詰まらせてしまいました。
「あんたが特別そうなのか、それとも教え人の先生全てがそうなのか。嘘はつけないな」
彼は酒場の主人に「大事な話があるから五分ほど消えてくれないか」と言い、彼が店の奥に姿を消したのを確認すると店に自分達以外の人間がいないかぐるっと見渡して、いないと分かると声を絞って言いました。
「先生、空はとてもとても恐ろしいところだ。人は俺達を風や空を操っているかのように言うが、本当は違う、俺たちは空や風を何とかごまかして『飛ばせて頂いている』んだ。それでも空に裏切られるやつがいる、そういう世界さ、そして空と風の餌食になるやつは決まって無鉄砲で勇敢なやつだ。エレルヘは勇敢すぎるし、まして言えば女だ、軽い体は風に煽られるし、非力な腕では万が一の時に手綱を力強く握ることも出来ない、より危険になっちまう」
先程より顔を真っ赤にしてテンゲルは俯いてしまいました。
「要するに、心配なんだ。俺がこんな事を言うと村の人間は思っても居ないだろうな、だが、大事な娘なんだ。おかしな話だろう?」
そうですかね、とタナカは首をひねります。
「何も不思議では無いと思いますよ、子供が心配が故に悩んでしまう親を僕は何人も見てきました」
「この事を娘に言うのか?」
「いいえ、なるべく言わない方が良いでしょう、何とかしますよ。ところで、川越えをするのは十三歳の誕生日の朝だと聞いていますが、それは何時なのですか」
それが、とテンゲルは口を濁します。
「急な話で申し訳ないが、明後日の朝だ。だから先生、何とか今日明日の間に娘を説得してくれ」
「やれるだけの事はしましょう。しかし今日は休ませていただきます、実は先程から体が揺れているのです」
それだけ言って椅子から崩れ落ちそうになったタナカをサーナイトが受け止めました。
次の日の昼、タナカはエレルヘに会いに川辺に向かいました。後ろを付いて歩くサーナイトは大き目のバスケットを提げており、教えの本はタナカが胸に抱えていました。
丁度休憩しているのでしょうか、ドードリオの羽を両手で整えているエレルヘにタナカは手を振って声をかけました。
「やあ、休憩かい?」
「ええ、違うと言っても。離してくれなさそうだしね」
戯れに軽い口を叩いたエレルヘにタナカはフフ、と微笑み返して「タルトケーキを焼いたいんだ、飛行士の方々は久しぶりの甘味だと喜んでいたよ、君もどうだい」とサーナイトのバスケットを指差しました。
「折角だけど、遠慮しておくわ。明日の朝まで何も口にしないの、少しでも体を軽くしたいから」
「テンゲルさんから聞いたよ、川越えに挑戦するのは明日だそうだね」
「そう、あんたがなんと言おうと私はやめないわ」
まるでタナカとテンゲルの会話を聞いて居たかのように、エレルヘは釘を刺しました。
「鋭いんだね」
タナカは驚いて彼女に言いました。
「私だって馬鹿じゃないの、父さんが考えていることなんて分かるわ」
毛づくろいの手を止め、彼女はタナカの方を見ました。感情が高ぶり、荒い口調で彼女は吐き捨てます。
「私が女であることが気に食わないのよ。男みたいな名前をつけたりなんかして、だから私の邪魔ばかりする。きっと私のことなんてなんとも思っていないんだわ」
ドードリオの頭達が彼女の感情の高ぶりを収めようと、彼女に頬ずりしました、それぞれの頭を一つずつ平等に撫でる彼女に、タナカは歩み寄り、彼女の目線まで腰を下ろしました。
「テンゲルさん、いや、君のお父さんは君の事を深く愛しているよ。間違いない、誓えるよ」
「嘘、それならどうして私の邪魔ばかりするのよ」
「そういう愛もあるんだ。決して器用な方法では無いけどね」
瞳から溢れそうになるものをエレルヘは気付かれまいと右手で拭い、すんと鼻から息を吸って。
「わからない、父さんは村で一番優秀な飛行士で、村で一番尊敬されているのに」
「いずれ分かる時が来る。大人と親は少し違う、大人は君よりもずっと年上だけど、親は君と同い年なんだ。大人は君よりもずっと悩みが少ないかもしれないが、親は君と同じ位悩んでる。一つだけ確かな事は、親は子供を愛していると言う事だけなんだよ」
タナカは彼女をそっと胸に抱きました、乾いたはずのローブがまた少し水に濡れました。
更に次の日の朝、タナカは再び川辺に向かいました。エレルヘの川越えを見学するためです。
彼女がどこに居るのかは直ぐにわかりました、村の男と子供達がわんさかと集まってがやがやとしている場所がそうだったからです。
タナカはあえて彼女の目に付かないところからそれを見学することにしました。自分の姿が見えては彼女が動揺してしまうだろうと思いました。
見渡す限りでは、テンゲルの姿は見えませんでした。
村の男達は彼女を応援していました。そっと、タナカが訳を聞くと「俺だって飛行士だ。空への憧れは分かるし、大体、頑張ってるやつを応援しない理由が無い」と返ってきたのでタナカはとても満足しました。
エレルヘがドードリオに跨り、助走の距離をとり始めました。
ドードリオが、助走を始めました。
先程まで小さかったエレルヘとドードリオが段々と近づいてきます。それにつれてエレルヘがドードリオを叱責する声も大きくなりました。
やがてドードリオは川岸へと近づき、小さな羽根を羽ばたかせ、尾羽を開いて地面を蹴りました。
ドードリオはエレルヘを乗せ、跳躍しました。
段々と地面から離れるドードリオに、男たちは歓声を上げました。
しかし、真ん中あたりで勢いが無くなり、ドードリオはゆっくりと川に吸い込まれ始めました。
見ている人皆がもう駄目だと思ったでしょう。
しかし、その時。
緩やかですが力強い風がひゅうと吹きました。
その風は必死に羽ばたいているドードリオを乗せ、彼女らを後押ししました。
見ていた人皆が息を呑みましたが、それでもまだ距離が足りないのではないかと思いました。そのときです。
ほんの少し、たった少しですが、ドードリオの羽ばたきが風をつかみました。
そうです、ほんの少し、たったの少しですが、ドードリオは空を飛びました。そして、ドードリオは川岸ギリギリに足をかけ、半ば倒れこむように向こう岸に体を預けました。
歓声。
村の中心にある酒場に、テンゲルは居ました。
しかし、中には入っておらず、扉の前に腰を下ろしていました。
「教え人の先生か」
近づいたタナカを見て、テンゲルは呟きます。
「見てくれよ、店主がよ、娘の川越えを見るってんで閉まってんだ」
「そのようですね」
「景気が悪い話さ。ああ、そうか、あんたが来たって事は飛行の時間なんだな」
「ええ、お世話になります」
よっこらせと、立ち上がったテンゲルは、何かを恐れるようにタナカの方を見て、一つ言います。
「教え人の先生、何か聞きたいことがあるんじゃないか?」
タナカは笑顔を作って「いいえ、何も」と言いました。
「嘘だね、娘の川越えを見てきたんだろう? 何か俺に言いたいことがあるはずだ」
「さあ、心当たりがありません。そういえば、良い風が吹いていましたね」
「よしてくれよ。あんた人が悪いぜ」
フフフ、と笑うタナカに、テンゲルは根負けして言いました。
「今はどうあれ、俺だって昔は空に憧れてたんだ、娘の気持ちは痛いほど分かる。それでよ、夢まで壊しちまったら流石に可哀相だと思ってよ。無理なんだよ、ドードリオであの川を越えるのは。ドードリオと言うポケモンはそういう風に出来てねえ。だからよ、だから俺は『追い風』でよ」
真っ赤になった顔を覆って。
「駄目な父親だよ俺は、娘の人生を弄んで」
「僕は悪いとは思いません。今は無理でも、エレルヘさんはいつかきっと分かってくれますよ」
「そうだろうか」
「ええ、賢い子供なんでしょう?」
父親は、恥ずかしげに、笑って頬を掻きました。
「そうだ」
タナカがテンゲルに言います。
「もう少しだけ待ってもらえますか? エレルヘさんに挨拶をしてきますよ。大丈夫です、言いやしませんから」
先程と同じ川辺に、エレルヘは居ました。村の男達ももう家に戻っていて、そこにはエレルヘとドードリオしか居ませんでした。
エレルヘはドードリオに跨っておらず。川辺に腰を下ろして川を眺めていました。そしてタナカに気づくと、一つ笑顔を見せて立ち上がりました。
「見た?」
満面の笑みで。
「ええ、見ましたよ」
「飛んだわ」
息を切らしながら。
「ええ、見事でした」
「ちょっと、だけだけどね」
少し落ち込んで。
「そう、ちょっとだけね」
そして再び腰を下ろします。
タナカも同じように腰を下ろしました。
少しだけ二人で川を眺めた後、唐突に、エレルヘが口を開きます。
「飛行士の真似事はやめようと思うの」
タナカは落ち着いたまま「どうして」と返します。
「ある意味ケジメだったのよ、川越えが駄目だったらもう諦めようって思ってた」
川越えは成功したじゃないですか、と言ったタナカに、彼女は呆れて言いました。
「あんたも父さんも、私のこと、馬鹿だと思っているのね。私だって風くらい読めるわ、あそこであんな風吹くわけないじゃない」
本当に賢い子だな、とタナカは感心してしまいます。
「でも見たでしょ、最後の最後、ちょっとだけドードリオは空を飛んだの。だから満足」
笑顔の彼女にタナカは安心して、そうですか。と答えます。
「あんたは今から父さんと一緒に飛ぶんでしょ?」
「ええ、この後直ぐに」
彼女は唇に一指し指をあて、声を絞って。
「私が気付いたって、父さんには内緒よ」
タナカも同じように声を絞って「どうして?」と返します。
エレルヘは笑顔で、川を眺めながら。
「そういう愛も、あるんでしょ?」
完
「いやはや随分と時間がかかったが、完成完成、いやはや長かった」
紙をまとめるテキトーさんを見ながら、キャロルは少し興奮して顔を熱くさせていました。
普段は本なんて読まない自分が、あんなにたくさんの紙を埋めるほどの物語を書いたなんて、信じられません。
「しかし、当然のようにおやつの時間は過ぎてしまったね。外ももう薄暗いじゃないか。本当に薄暗いじゃないか!」
そんな事は分かりきっていたと言わんばかりに、サーナイトは木の実タルトを半分にして、それをトレーの上に乗せバスケットに入れ、白い清潔そうな布を被せました。
「前にも君ぐらいの子を遅くまで居させてしまってね、村長さんにこっぴどくしかられたんだ。幸いにもフルーツタルトは冷めても美味しい。冷えた牛乳とかがあるとなお最高だね。冷えた水でも良いけど」
同じくらいの歳の子で、テキトーさんの家に行った子となると、コリーかしらとキャロルは思いました。コリーとは良く遊んでいるので、もし二人でこの家に来てしまったらどうなるのだろうかと考えます。
「ぶしつけで申し訳ないが、きっと親御さんが心配している。子供の事を心配しない親なんて居ないんだから。さあ、このバスケットをもって帰るんだ。しっかり持ったほうが良い、離すと落ちてしまうからね」
玄関のドアを開けてくれたテキトーさんに、キャロルは聞きます。
「おいしそうなタルトをありがとう。今度は友達と来ても良い?」
テキトーさんはそれはそれは笑って答えました。
「もちろん良いとも、ああ、そういえば、コリーという子にトレーを貸したままなんだ、コリーという子と来てくれると嬉しいな」
「ふう、ようやく読み終わったぞ」
薄汚れた表紙の『名も』『な旅』の本をテキトーさんは机に置きました。
横ではサーナイトがタルトを頬張っています。テキトーさんは本を読みながらものを食べるタイプでは無いので、本を読みながら、タルトは無くならないだろうか、と気が気ではありませんでしたが。どうやら大丈夫そうです。
「さて、収めるか」
テキトーさんは『名も』『な旅』の本を持って別の部屋に入ります。
その部屋は一面が本棚で、床にも本がこれでもかというほど摘んでありました。
「ええと、この作者は、と」
テキトーさんはある本棚の前で立ち止まると、『名も』『な旅』の本をその本棚に納めました。
その本棚には『名も』『な旅』の本と同じような背表紙の本がずらりと並んでいました。
テキトーさんはそれらを撫でて。
「ドラゴンと女の子の冒険ものは面白かったなあ、続きが手に入らなくて残念だ。ああ、そういえば推理活劇もやっていたな、どれ、どんな話だったっけ」
テキトーさんはその本棚から一冊取り出して、その場で座り込んで読み始めてしまいました。
そうこうしている間にも、テキトーさんが食べるはずであったタルトはどんどんと無くなっているのでした。