ある男
仕事帰りに普段は使わないその道を選んだのは、なんて事の無い気まぐれだった。そういえば、大分長いことこの道を使わなかったな。何か変わったところでもあるだろうか。別に野生のポケモンが飛び出してくるわけでもないし、もし仮に飛び出してきても、俺の横を歩いているメラルバが如何にかしてくれるだろうと思った。
少し前まで花びらを運んでくれていたそよ風は、最近は少し湿気を帯びる様になっていて、後一月もすればあの忌々しい夏と言う季節が来てしまうのかと少しため息が出た。そういえば日が落ちるのが大分遅くなっている気がする。一月前なら夕焼けが出ていたであろう空は今はまだ薄オレンジ色だった。
その道は前に来た時と変わっていなかった、舗装されていない道路に雑草畑、住宅街の外れに家を構えているとはいえ、いささか不平等な何かを感じる、最も、普段はきちんと舗装されている道を通って帰っているわけであるが。
「ん?」
家が近くなった頃、道の片隅に蹲っている人影が視界の先に見えた。背の高い雑草に隠れていてまだよく分からないが背の高い男のように見える。
厄介だな、と思った。子供ならまだしも良い大人があんなところで蹲るものか、そういうのは大抵ややこしい人物に決まっている。例えば、そう、浮浪者とか。
蹲る男に近づく、男は足音に反応しなかった、寝ているのだろうか。だとしたら好都合だ。
男はただ蹲っているだけではなかった。見れば何かのポケモンを胸に抱えている、それはおんぷポケモンのペラップで、いささか小さく見える。子供だろうか。
男の表情などが確認できるほど近くまで来ると、その男は比較的若いということがわかった。緑の長髪に白黒のキャップ帽、胸にはアクセサリー、腰元を見るとボールが一つに小さな立方体を幾つか連ねたストラップ。俺が思っていた浮浪者のイメージとは違い、むしろこんな片田舎に不似合いな都会的なファッションだ。だが良く見るとそれらは少しずつ不釣合いに泥で汚れており、男の頬にも泥が付いている。
トレーナーが何らかの理由で食いっぱぐれたのだろうか。考えられる事は沢山あったが厄介事もめんどくさい、俺は男を無視して家に帰ることにした。
俺は不自然なほどに視線を男と反対方向に向けた、少し後ろめたかったので、こちらに見たいものがある、雑草畑の中に宝でもあるような気がする、と自分に言い聞かせ気を紛らわした。そもそも彼は俺とは全くの無関係、何も後ろめたく思うことは無い。そして彼の前を今にも通り過ぎようかとした時。
彼に抱えられていたペラップが一つ『おしゃべり』した。その音は何かの鳴き声のようだったが、その音は空気を震わせ俺の鼓膜をこれでもかというほど揺さぶった。決して大きな音ではなかったが、圧倒された。とてもとても小さなペラップが放つものとは思えなかった、無論ペラップは聞いたものをまねすることが出来るポケモンなので別段不思議なことではない。しかし、ある程度のポケモンの鳴き声を知っている俺でさえもその鳴き声が何のものなのか分からず、好奇心と、恐怖心からついその方を見てしまった。
その男はペラップのおしゃべりで目覚めたのだろう、始めは腕の中のペラップの様子を伺っていたようだ。しかし俺がそのほうに目をやったすぐ後に、俺の影に気付いて俺のほうを見上げた。ハイライトの無い両の瞳が俺の目に飛び込む、きっとその瞳には俺の姿が映っていることだろう。しまった、目があってしまった。
男は俺の目を見てニッコリと表情を崩した。しかしそれは浮浪者や無法者のトレーナーが見せるような所謂獲物を見つけたときの笑いではなく、むしろ心優しき青年が心の底から安堵した時に現れるものだ。驚くほど白い男の肌とあいまって少し眩しいとすら思える。
「ああ、良かった」
ペラップを片手で抱えたまま男は腰を上げた。俺は男を見上げる形になる、体の線は細いが男の背は俺より目線一つ高い。改めてみると男は端麗な顔で、俺の瞳を覗き込んで微笑んだ。その微笑みは、彼の見た目にそぐわずまるでそれは微笑み以外の感情の無い純粋な、純粋な子供の表情だ。
「この子を、預かってくれないか」
両腕を伸ばしてペラップを俺に差し出す、ペラップは男から離れたくないのか二度小さく羽ばたいた。
「まだ子供で上手く飛ぶことが出来なんだ。それに足をすりむいている」
彼は早口で俺にまくし立てた。気付いたら俺はペラップを腕の中に抱えていた、決して無理強いされたわけでは無いがどうも俺は人が良すぎる事が多く、こういう願いを断れたためしがない。幸い俺の家にはこのペラップの治療をすることが出来るだけの道具はあるし、飛べる様になるまで育てることも出来る。むしろそれが俺の仕事なのだ。
ペラップの右脚には確かに少し血が滲んでいた。だがそれは本当に注意して見なければ分からないほどで、何故男がそれに気付けたのか疑問だ。
「それじゃあ、頼んだよ」
俺が彼に圧倒されて全く口を開くことが出来なかった内に、彼は右手を上げると軽く会釈して俺に背を向けた。その時、彼に向けたのかどうかは分からないがペラップが一つ『おしゃべり』した。それはまたその場に不釣合いな「大丈夫」という言葉だった。それを言っている本体は大丈夫でもなんでもないのに。
男はそれに反応してこちらに振り返り、ペラップの頭を一つ撫でた。その様子を見て緊張が解けたのかどうか分からないが、俺はようやく男に声をかけることが出来た。「い」と一つ言葉を出した時に一瞬つっかえてしまい、男が俺のほうを見る。
「色々言いたいことがある、だが先ず聞きたい。お前さん、ここらの人間じゃないのは服装を見れば分かるが、今夜泊まるあてはあるのか」
ああ、お人良しだ。本当にお人良し。だってこの男が追いはぎ強盗で無い確証なんてまだ一つもないのに、よりにもよってこの男を自分の家に招き入れようとしている。しかし、心の奥底、俺の行動の原点となる部分はこの男を警戒していないのだろう。それはきっと今俺の腕の中で毛づくろいをしているペラップのせいだ、下心ある者の腕の中にいたポケモンがこれほどにまで落ち着いているだろうか。
「ないけれど、何とかなるよ」
何だそんなこと、と言いたげに男は微笑んで返した。
「服も顔も泥だらけだ、ペラップについて聞きたいこともある。悪い事は言わないが、今夜はうちに泊まるといい」
男は驚いた目で俺を見た。
「悪いよ」
「遠慮するな、このクソ田舎にはポケセンがあるわけじゃないし、一夜を過ごすにはちと危険だからな。それに、行くあての無い奴を放って置くと目覚めが悪いのさ」
空は朱に染まっていた。雲も同様に朱色に染まり、俺と男とメラルバの影はこれでもかと言うほど縦に伸び、それらは俺たちよりも先に扉を叩いていた。
けたたましく吠える声が聞こえる。俺が世話をしているグラエナのトムの声だ。
トムは玄関のすぐ横に鎖で繋がれている。その鎖がピンと張るほどこちらに近づき、男に向かって吠えているのだった。
「悪いな」
急に吠えられて、いい気のする人間は居ないはずだ。俺は黙ってトムを凝視する男に詫びる。
「気が荒い性格なんだ、俺以外の奴には遠慮なく吠えてしまう」
腕の中のペラップがまた一つ『おしゃべり』した。今度はトムの鳴き声を真似たのか、甲高いグラエナの鳴き声だ。トムはそれに少し困惑したが、また威嚇を続け始めた。
男は、声無くにこりと笑いの表情を作ると、トムに向かって歩みを進めた。俺は驚いて男を止めようとしたが、両腕がペラップで埋まっているので彼の肩を掴む事が出来なかった。思わず声をあげる。
「大丈夫、彼は決して気が荒いわけじゃない」
男は俺に振り返って言った。
「キミの事を心から尊敬しているだけだよ、ボスとして認めている。同時にキミ以外の人間を毛嫌いしている。だからキミを守ろうとしているんだ、あと、少しの嫉妬かな」
右手をトムの前に差し出した。まずい、と思ったが、意外にもトムはそれに牙を向ける事は無かった。悩んでいるように見える。
「誓うよ、キミのボスに手は出さない。だからトム、安心して」
意外にも、トムは男に牙を向けなかった。それどころか吠えるのをやめ、男に一つ頭を撫でさせた。
「俺以外の人間に頭を撫でられるのを始めてみた」
「トムはね、賢い子なんだよ。怯えず、こっちに敵意が無い事を示せばすぐに心を開いてくれた」
ふうん、と思わず感心する。しかし、妙に何かひっかかる。何か違和感がある。それはなんだろうと頭をひねった。
ペラップが『おしゃべり』した。「トムは賢い子、トムは賢い子」と繰り返した。それを聞いて、違和感の正体が分かった。
「ところで、何でこいつの名前を?」
男はトムを撫でる手を止め、バツが悪そうにこちらを見た。しばらく何考えるように顔に手を当て、やがて言った。
「教えてくれたよ、トムがね」
まさか。
「まさか」
頭に浮かんだことが脳を解さず。反射的に口から飛び出した。
「本当だよ。ボクは、ポケモンの言葉が分かるんだ」
悪寒がした。一体こいつは何を言っているんだろう。
「馬鹿言え、そんな事があるもんか。それなら、トムの好物でも当ててみろ。具体的にだ」
男は困った顔をしてトムに幾つか語りかけ、トムはそれに小さく二、三度吠えて答えた。まるで本当に会話をしている様だ。
「苦い木の実だね、それも特別に苦い奴。食べた後に口の中がスースーするとまた格別らしい」
驚いた、まさにその通り、当たっている。それもトムのかなり特殊な好物についてだ。
そんな俺をよそに、トムがまるで男に耳打ちするようにトムがまた二、三吠える。
「おとといの朝もらった木の実は、これまで生きてきて一番美味しかったそうだよ。何でもスースーが夜まで続いて最高の気分だったんだって」
「よしわかった、わかった」
俺は怖くなってしまって、思わず男から目線をそらしてしまった。まるで信じられないが、本当にポケモンの言葉がわかるのだろうか。
「いや、しかし信じられないな。もう一つだけ、俺とトムの出会いを教えてくれ、それが当たっていたらお前さんの言う事を疑わないよ」
彼はトムにまた語りかけた。トムは地面に伏して一つクゥンと小さく唸る。
困惑した顔をして俺のほうを見る。そして。言おうか言うまいか悩んだであろう沈黙の後に、口を開いた。
「思い出したくないって」
衝撃だった。もし他の質問をしてこの答えが返ってきたのなら俺は男を追い返していただろう。しかし、この質問ならその答えは正しいといえる。いいや、トムの目線で俺達の出会いを考えると、それしかかないともいえるのだ。
まだ頭の整理が出来ない。だがしかしだ、そう言う人間も居るのだろう。俺達の常識の範囲から逸脱した人間はいつの世にもいうる。ああ、そうだ。そう思おう。
「疑って悪かった。どうもマイナス思考でいけないな。トムに嫌な事を思い出させてしまった。謝っておいてくれ」
男はトムと二、三言葉を交わす。そして俺の方を見て言った。
「その事は気にしていないけれど、一つお願いがあるって」
「へえ、なんだい」
「自分も鎖をはずして君の家に入りたいんだって」
トムは男に続いて、クゥンと甘えた声で鳴き、精一杯の甘えた目で俺を見た。お前、ついさっきまで牙をむき出しにして吠えていただろうに。
俺は少し考えて、男に伝える。なんだか、男が通訳みたいだ。
「メラルバと喧嘩するなよ。家の中の物にやたらめったら歯形をつけるんじゃないぞ」
「過去の事は反省してるって」
「それともう一つ、先ず一番初めにシャワーを浴びろ」
ワンッ、と心地のいい返事が聞こえた。
少し、信用しすぎなんじゃないのか。まだ、俺の悪い癖で人を性善説で見てしまっている。
ほのかに湯気の残る浴室で汗を流しながら考える。
タイルの上にはトムのものであろう無数の長い毛、まあそれは生理現象なので目を瞑るとして。浴室の壁一面には、一人と一匹がはしゃいだ跡であろう無数の水滴。流れきっていないシャンプー。
男の服は、今洗濯機の中で回っている。男には一応自分の服を渡しておいたが、どうだろうか。丈が短すぎなければ良いのだが。
ペラップの脚は、きちんと適切な処置をして今はクッションの上のはずだ。メラルバに背負わせていた三つの卵も、メラルバの寝床に移動させた。今も暖め続けているだろう。
つまり今。向こうには、三匹のポケモンが居る訳になる。卵も含めれば六匹だ。それを全く素性もわからぬ男に監視させているのだ。
確かに、どう見ても悪い男には見えない。むしろ、少し子供っぽいのと、ポケモンの言葉がわかる事を除けばグッドガイですらある。しかし、どうも信用しすぎなような気もする。
俺は必要なことだけを済ませると、直ぐにシャワーを止めた。
寝巻きに袖を通し居間兼寝室に戻ると、男はトムを抱えてソファーに座っていた。ドライヤーによってすっかり乾いたトムの体毛をぷうぷう吹いてそれが揺れる様を楽しんでいるようだ。
「悪いな、汚くて」
「そうでもないよ。広いし、くつろぐいい部屋だ」
「扉が多いのが嫌いなんだ。それよりも一つの空間で暮らすほうが好みでね」
男の足元を見る、やはり少し丈が足りていないような気がする。こればっかりは仕方が無い。
「ああ、服はどうだ、小さいだろうがそれでガマンしてくれ」
それに彼は微笑で返した。
そうか、と一先ず安心して、キッチンスペースに移動した。冷蔵庫から晩の予定だったレトルトカレーを取り出す。確か二つあったはずだ、ああ、あったあった。
「飯はカレーでいいだろう?」
「いいね、大好きだ」
パッとそれまでよりもより明るい顔になる。
鍋に水を入れ、火にかける。まだ沸騰していないがもうめんどくさいからカレーのパックも放り込んでおこう。いずれ沸騰するさ。
「キミの事、メラルバとトムから色々聞いたよ」
居間から彼が呼びかける。見やると、男がトムの頭と喉の下を両手を使ってワシャワシャとマッサージしている所だった。
「ああ、そうかい。何か不満でも言っていたか?」
居間に戻ると、トムはだらしなく舌を出し、口から息を漏らしていた。いやしかし、最初に比べてデレデレだな。
「キミは本当に優しい人なんだね。トムもメラルバも本当にキミの事を慕っている」
その言葉に俺は安堵する。よかった、これまでやって来た事は間違いではなかった。
「そうか、俺だってこいつらの事は大事に思っている。しかし、改めて言われると小恥ずかしいな」
男はふっと微笑を押さえ、真面目な顔となり言う。
「誇りに思うべきだよ。キミはこの子達を愛し、この子達もまたキミを愛している。数少ないと思うよ、キミ達のような関係は」
愛、か。なんだか少しバツが悪くなって思わず口元をさする。同時にさまざまなことが脳裏をよぎった。
男は俺の顔を覗き込んだ。表情に出ていたのだろうか。
「どうしたんだい?」
「いいや、愛ばかりが良いとは限らないと思うんだよ」
言ってしまった。どうも今日は口が良く回るようだ。初対面の相手にこんな事を言うなんて。
「そんなことは無い、ラブはポケモンと人間とをつなぐものだ」
「さあ、どうだろう」
男は何かをいいかけたが、俺はそれを遮るように立ち上がった。あまり気持ちの良い問答ではない。
キッチンに戻ると、鍋の中でお湯となったものが、気泡でレトルトパックを激しく揺らしていた。丁度良く思って火を止め、皿に炊飯器から飯を盛る。後はカレーをかければ、完成。
男は目を輝かせながらスプーンを皿と口との間で往復させていた。口の周りはルーで汚れている。なんなんだこいつは。
「美味いか?」
「うん、とっても」
メラルバは既に皿を空にしていた。今日はいろいろな事があったから腹が減っていたのだろう。その表情からは少し疲れの色も見える。意外とデリケートな性格なのだ。
トムの皿には何時もより少しだけ多目に盛ったはずなのだが、既にそれはなくなっており、トムは口惜しげに皿を舐めている。
俺は良い事を思いついて立ち上がり、キッチンに向かった。
「トム、いい物をやろう」
冷蔵庫から同じ種類の木の実が沢山入ったナイロン袋を取り出した。おとといトムに与えた、苦くてスースーする木の実だ。
トムは目を輝かせてそれを見た。尻尾もこれでもかと言うほど振っている。
袋を持ったまま席に戻る。一つ木の実を取り出すと、トムは喜びのあまり堪えられなくなったのか俺に擦り寄ってきた。よし、よし、と頭を撫でてやってからそれを床に置く。トムはあっという間にそれを平らげた。
その時、皆と同じように飯を平らげていたペラップが『おしゃべり』した。何の変哲もない、普通のペラップの鳴き声だった。
もう一つ取り出してそれを眺める。とてもじゃないが食べようとは思わない。
見ると、男も同じようにそれを見ていた。
「興味あるかい?」
「うん、トムがその木の実の事をとても幸せそうに言うものだから、ボクも食べてみたい」
「お勧めはしないけどな」
男にそれを手渡す。彼はそれをまるでトムの様にクンクンと嗅いで、一口齧った。
その体が、跳ねた。
それをとても愉快に思って、一つからかった。
「どうだい?」
男はごくんと口の中の物を飲み込んで、だとだとしく笑いの表情を作った。苦笑いとはこのことだろう。
「な、何と言うか。すごい味だ」
見れば、目には涙がたまっている。
流石にかわいそうになったので、助け舟を出してやることにする。
「トムが残りを食べたそうにしてるが」
「あ、ああ、そうだね。残りはトムにあげよう」
彼が差し出したその木の実に、トムは飛びついてあっという間に平らげた。
男は、それを確認することも無く。先程よりも速いペースでカレーを口に運んだ。
夜だ。
それまで騒がしかったのが、嘘のように静まり返る。聞こえるのはメラルバ、トムの寝息。男は静かに寝るタイプなんだろうか。寝息すら聞こえない。
男は俺の眠るベッドの横にしかれた布団の上だ。布団の上で寝られるのは久しぶりだ、と喜んでいた。
俺はというと、眠れない。
最近はこういうことが多い。布団に入っても寝られず、寝よう寝ようと試みて、それすらも諦めた頃にようやく意識が沈んで行く。意識がある間中は考え事が頭を回る。
気を紛らわそう。一つ寝返りを打って、ああ、と唸った。
「眠れないのかい?」
男の声だ、唸り声を聞かれたのが少し恥ずかしい。
「ああ。お前もか」
布が擦れる音がした、男がこちらを向いたのだろうが、暗くて何もわからない。
「口の中がスースーするんだ」
男は本当に困った様に言った。
「だからお勧めしないと言ったんだ」
笑って返す。
「キミは? どうしてだい?」
俺は、返すのを躊躇った。二人の間は再び夜になった。
しかし、この男になら今反芻している俺の悩みを曝け出していい気がした。どうしてだろう。この男なら、今の俺の心中を理解してくれるような気がしたのだ。もちろん確証は無い。しかし、例えばそのあたりを歩いている一般人よりかは幾らかマシな様に思える。
「なあ、俺の仕事を知っているか?」
「うん、メラルバに聞いたよ。ポケモンの卵を孵し、生まれたポケモンをある程度のところまで育てる仕事」
「ああ、そうだ。どう思う?」
少し沈黙。
「わからない、そんな仕事があるなんて始めて知ったから。でもキミが、ポケモンに愛を注いでいるのは良くわかるよ」
「問題は、そこなんだ」
何が問題なのかわからないのだろう。男は黙った。
こちらから切り返す。
「トムと俺の出会いを聞くかい」
布団が崩れる音。男が、体を起こしたのだろう。先程のトムの様子を振り返り、驚いているはずだ。
「キミが良いのならいいが、良いのかい?」
「ああ。お前さんになら話してもいい気がする。体を起こすとますます眠れなくなるぞ」
枕が、ポスン。と音を立てる。
「まだこの仕事を始めて間もない頃、ある男に仕事を依頼された。奴はアマチュアバトル家と名乗ってはいたが、今思えばそれも胡散臭い。楽して強くなりたいという魂胆が見え見えだった」
思い出したら怒りがこみ上げてきた。自分を落ち着かせる為に、横に向いていた体を仰向けに直す。
「俺は、仕事を忠実にこなし三つの卵を孵化させた。そのうちの一匹が、トムだ。俺は彼らに出来る限りの愛情を注いだ。母親と父親の代わりになろうとしてな。あいつらには、それを受ける権利がある。そして一定のところまで成長したトム達を男の下に帰し、俺は報酬を貰った。それで終わるはずの仕事だったんだよ」
不意にガタガタと、窓が風で軋んだ。この時期に珍しい風だなと気になったが、それは意外と直ぐに収まった。カーテンの隙間から差し込む月明かりが、青白く天井を浮き上がらせる。ありありと、トムの表情が思い出される。
「それから一年後、またその男と出会った。俺は、トム達はどうしてるかと聞いた。男は口を濁す。俺は気になって奴を問い詰めた。しばらくして、トムは戦いに向いていないから、と俺から引き取ったその日にボックスに預けたとのたまったんだ」
少し語尾が強くなってしまう。隣にいると男は全く関係が無いのに。
「俺はつい感情的になっちまって、思い切り奴を怒鳴りつけた、とんでもない罵声をな。お陰で上客を逃したが、後悔はしてない。報酬を叩き返して、トムを引き取った。今でも覚えている。ボックスからトムを引き出した時、あいつは俺に飛びついて、顔中を舐めまくった。泣きながらな。だからあいつは今でも狭いところが苦手だ」
「じゃあ鎖につないでいたのは」
緊張感のある男の声。
「ボールが嫌いなんだ。狭くて、暗いからな」
再び沈黙。
「俺はそれまで、世界は愛に満ち溢れていて、ポケモンと人間もそれに漏れないと思っていた。俺がそうだったからな。ところが蓋を開けて世界を見てみると、必ずしもそうではなった」
目が暗闇に慣れてきた、男の方に体を向けると、男は上体を起こして俺のほうを見ていた。
「今は客を選んでいる。選んではいるが」
今まで相手してきた客の顔と俺が育ててきたポケモン達の表情が頭の中を回った。頭を振ってそれを何とかしようとするがそれは頭にこびりつく。
「もし、俺が愛情を注いだポケモン達が、本来の場所で愛を注がれなかったら、あいつらは一体誰の帰りを待つんだろうか。そう考えると、ああ、もう駄目なんだ。自分が信用できなくなって、苦しくなる。あいつらに愛を注いだ事は正解だったのだろうか。俺が愛情を教えなけば、愛を知ることも無く、トムは苦しまずにすんだんじゃないのか。当然、なんてひねくれた考えなのだろうかと思う、しかしそう考えてしまうんだ」
俺は再び体を仰向けに戻した。何時もと変わらない天井が見えて、少し安心した。
「ボクも、似たようなものなんだ」
少しの沈黙の後、不意に男の声。少し、震えている様に感じる。今度は俺が男の方を向く。
「ボクは、キミの逆だった。ボクは小さな頃から、人間に酷い事をされたポケモンとばかり接してきた。だから当然、ポケモンと人の間に愛など無いと思っていた。世界でたった一人、ポケモンの言葉がわかるボクだけがポケモンを完全に愛することが出来る存在だと、信じていたんだ。だからボクは、王様になった。人間の思い上がりからポケモンを解放する為にね」
王様、とは何かのたとえだろうか。何故だか、俺はこの男を完全に信頼してしまっていて、この男が嘘をつくわけが無いと思っていた。あまりに純粋で、そんなところにまで頭が回らないかのような。そんな。
「ところが、外の世界は違った。人間はポケモンを愛していたんだ。ポケモンもまた人間を愛し、人間のために戦った。キミとトムの様な関係だ。トムも必要と在れば、キミを守る為に戦うだろう。それはキミを愛しているからに違いない」
ボクだけだったのさ、と吐き捨てて男は続ける。
「ボクだけが、ポケモンの言葉を理解することが出来た。ボク以外の人間はポケモンの言葉なんてわかりやしないのに、ポケモンに愛を注いでいた。不思議で堪らなかった。それならば、何故ボクは存在しているんだろう? ボクはポケモンに何が出来るのだろう? ボクはポケモンに何をすればいいんだろう? 未だにわからない」
再びお互いが黙りこくる。俺は、ふと思い当たることがあって、口を開く。
「愛する、という事。愛情、愛着の先にあるものの一つは、妥協しないことなんだと思う」
妥協。彼は俺の言葉を口に出して反芻する。飲み込むように一瞬、沈黙。
「妥協、という言葉が出てくるのは珍しいね」
「愛があれば、そこに妥協は生まれない。言葉が通じないから分かり合えないという妥協を、愛が乗り越えているのかもしれない。いつもそう考えているわけではないが、お前の話を聞いて、普段の行いをかえりみたら、そんな気がした」
男はふうん、と何かを考え。体を布団に預けなおした。
「キミの悩みは、つらいね。愛する事を疑ったことなんて、ボクは無い」
「お互い似たようなものだな、俺はお前の方がつらいと思うよ」
世界に一人だけ、というのは何においてもつらいものなのだろうと思う。なぜならば、それを理解してくれる人間はこの世に存在しないからだ。考えたくも無い。
お互い一通り話し終えたところで、切り出す。
「悪かったな、愚痴につき合わせてしまった」
「大丈夫だよ、むしろボクも色々と考えるところがあった。それじゃ、オヤスミ」
男は布団をかぶった。口の中のスースー治まったのか、しばらくするとスースーと寝息が聞こえ始めた。
俺は今の今まで、こんなひねくれた事で悩んでいるのは、自分一人だけだろうと思っていた。ポケモンに愛をもって接することを、疑っているなんて。
しかし、境遇こそ違えど、男も似たような事が燻っていた。俺たちは決して似たもの同士では無い。なぜならば俺はあの男のようにポケモンの言葉がわかるわけでもなければ、人間に虐待されたポケモンと触れ合ってきたわけでもなければ、王様になったわけでもない。それにあんなに純粋な表情も俺には出来ないだろうから。
だからこそ安心した。もし、一人、また一人と、この燻った感情を共有する人間が増えれば。その時こそ本当に世界は、愛に満ち溢れるだろうから。
なんだか全てを吐き出してすっきりした気分だ。ああ、なんて気持ちのいいものだろう。今夜はゆっくり寝られるに違いない。明日、あの男ともう少し話したいな。
枕に頭を預けなおすと、目蓋が重くなる。頭にこびりついた考えは、一先ず落ち着いた。
小さく、それでも甲高い声が聞こえた。きっと足元のペラップが夢でも見て、寝言を言おうとしているのだろう。しかし。ペラップはそれ以上『おしゃべり』することなく、再び寝息が聞こえた。
俺は、念のためペラップの様子を確認する。気持ち良さそうに眠っているのを確認すると、そいつの頭に一つキスをした。そして、まどろみに意識を任せるのだった。