この胸に、ほのおのいしをたずさえて
暗闇の中に溶け込むことを拒否するように鳴り響くその着信音は、決して非常識なものではなかった。
日が落ちる寸前だった、美しい夕焼けが大地に降り注いでいるというのに、部屋とカーテンを締め切ってベッドに突っ伏すその青年が非常識なのだ。
青年は不機嫌だった。やりたいときにやりたいことをやり、体力が尽きたら眠る。そんな生活をしている自身に非があるとは微塵も思ってはいないし、故に安眠を妨げられたことに不満を持っていた。その青年は、そう思うことを否定されない男だった。
彼は枕元を探ってその音の主をついに捉える。そして同じく枕元のヘッドライトのスイッチに触れて明かりを灯す。そうしなければ、ポケギアの画面を確認することが出来ない。高性能化が進み、液晶画面にバックライトを埋め込み暗闇でも画面を確認することができる機種もある。だが、彼はその旧世代機を、通信会社が無料で配った、回線のおまけのようなその機種をまだ手放せないでいる。
液晶画面に表示された番号を見て、青年は跳ね上がるようにベッドから起きた。
嘘やろ、と彼は初め思った。いつの間にか、不機嫌であったことなど忘れていた。疲れも吹き飛んでいた。
鼓動が早くなった。失ったと思っていたあの素晴らしい関係が、今、再び自分に手を伸ばしているように感じていた。
気づいた頃には、すでにその着信を受け入れるボタンを押していた。
彼はそれを耳にあてがう。
嬉しかった。そして、怖かった。その関係が思い出のままになるのか、それとも再び自分の手を取るのか、ただただ、不安だった。
☆
その青年は、なんとなくで人生を生きてきた自覚があった。
なにかに熱心になったことなどあまりなく、また、両親や組織にそれを強制されることもなかった。よく言えば自由気ままに、悪く言えばフラフラと生きてきた。
ただ、それでも名門であるタマムシ大学に入学することが出来たのは、彼の「なんとなく」が平凡なものではなかったということなのだろう。
最も、何もせずに成し得たわけではない、高等学校のテスト勉強はなんとなく真面目にこなしたし、大学受験のための勉強もなんとなく真面目にこなしただけ。
だが、それが熱心であったかと言われれば青年は違うと考えていた。彼の思う熱心とは、例えば眠くなる度にトゲで二の腕を刺してまで勉強をしていた友人や、鍛錬とは最も遠いところにありそうな太鼓腹を自慢気に揺らす体育教師の言うことをすべて受け入れ、どれだけのどが渇いても水を飲まぬ運動部員のような、そういうものだった。そのような理不尽で過酷なものと彼は無縁だった。
自分は運がいいのだろうな、と彼は思っていた。本当になんとなく、彼は生きてこれたのだ。
二の腕にアザを残した同級生は希望する大学に合格しなかった。体育教師の奴隷であった運動部員は、関節を痛めてスポーツをやめた。
どう考えたって、自分は運がいい。
だが、周りの人間から「素晴らしい努力をしている」と言われることも受け入れていた。実際にそれほどのものをしたとは思っていない。だが、それを否定することで不機嫌になる相手を見たことがあったし、何より、熱心に、過酷に、理不尽に努め、自分の持てるもの以上の力を振り絞ったことにしておくほうが、何かと得だった。
このまま、なんとなく生きていくのだろうと、青年は思っていた。一見達観しているような感覚を持っていても、自身の運が悪い方に振れるかもしれないと言う悲観的な感覚を持つことができるほど、彼は年老いてはいなかったのだ。
タマムシシティ、タマムシ食堂二階。座敷席。
とてもではないが、真面目に文学を探求しようとしているような面々ではなかった。
自己紹介と、一気コールと、色目。
自分が男で良かった。
勧誘され、成り行きのままに参加した文学交流サークルの新入生歓迎会で、青年はそう思っていた。
欲望に忠実な方ではあると思うが、欲望をむき出しにする方ではない。それに、そんな強引なことをせずとも、異性とそういう仲になることはできる。
彼は時間を持て余したときのためにと買っておいた雑誌をこっそりと開いた。それを咎めるものはいない。豊富な餌場の中に、それに興味のないものが現れたとして、一体誰がそれを咎めようか。
青年を誘ったはずの老けた三回生も、いつの間にかいなくなっていた。
二次会に行くことはないだろう。
カラーページを大体見終わり、目を凝らしながら再生紙の方に移ろうとしていたその時、声が聞こえた。
「ーー好きなんですか?」
青年はそれが自分に向けられたものだとは思っていなかった。どう考えたって、いま座敷で行われている馬鹿騒ぎの方にふさわしい単語だと思ったのだ。
だから、今度は袖を引っ張られながらかけられたその言葉に、青年は驚いたのだ。
「ポケモン、好きなんですか?」
それは、隣の席の男だった。確か先ほどの自己紹介では、マサキと言っていただろうか。
マサキは青年の読んでいた雑誌を指差していた。ちょうどカラーページの終わり、小さなポケモンを可愛らしく写した投稿写真コーナーだった。
「好きだよ」と、青年は答えた。
「ガーディを持っているんだ。今は実家だけど」
「へぇ、実家はどこなんですか?」
「クチバ」
「ああ、なるほど」
やけに改まった口調だな、と青年は感じた。
「地元は?」
そう問うと、マサキは少し押し黙った。
「コガネ」
絞り出すように言った。
「ああ、だからちょっと訛ってんのか」
その指摘に、マサキは気まずげにうつむく。
「やっぱり変ですかね」
「そりゃまあ初めのうちは仕方ないけど、そのうち慣れるよ」
話題を変える。
「君もポケモン好きなの?」
「うん、実家にはケーシィがいます。後、下宿先ではイーブイを飼ってるんです」
「へー、大変だね」
ふと思うところがあったので、マサキに耳打ちする。
「それ、女の前では言うなよ。家に来たがるからな」
それを武器に使う男も当然いるだろうが、マサキはそうではないだろう。そんな性根の十八歳が、つまらなさそうな隣の男が読んでる雑誌を覗き込むものか。
そのアドバイスに、マサキは少し顔を赤くして頷く。色素の薄いくせっ毛が揺れていた。
「今度見せてくれ、写真でもいいから」
「うん、わかった」
「やっぱかわいい?」
「めちゃめちゃかわええよ」
「だろうな」
「ガーディは可愛い?」
「めっちゃ可愛いよ」
「せやろうなあ」
「イーブイって人に慣れるか? ねーちゃんが欲しがってる」
「なつくで、こっちではなつくことによる進化も確認されとるくらいや」
ついうっかり地元の訛りが出てしまっているが、青年はそれを気にしなかった。そのほうが自然だった。
しばらく小声でポケモンの話題を続けた後に、青年が問う。
「今日はなんで来たの?」
マサキはさらに小声で答える。
「なんか強引に来ることになってしもーたんや」
「ああ、俺も俺も」
「まさかこんなんとは思わんやんか」
お互いに考え方が一致しているようだった。
「もう帰ろうぜ」と、青年が言う。
「体調が悪くなったって言えば何も言われねえよ」
「大丈夫なんか?」
「大丈夫大丈夫、任せろって。お前は俺を介抱する役な」
その後、宴会の主催者相手に青年が見せた演技は抜群だった。それこそ、マサキの介抱がなければ家に帰ることすらできないだろうと思わせるほどに。
結局彼らはこの新入生歓迎会で誰とも連絡先を交換しなかったが、彼らは週明けは必修科目の教室の前で待ち合わせ、一緒に授業を受けることを約束した。
それが彼らの始まりだった。
☆
サークルにはそれ以降行くことはなかった。それを咎められることもなかった。時折それっぽい活動しているような様子も見せてはいるが、一体あのサークルの何人がどんな気持ちでそれを行っているのだろうかと青年は思う。
だが、マサキとの関係性はそれ以降も続いていた。彼らは必修科目を隣同士で受け、この教授の授業はテストが楽だとか、この教授の授業は出席を取らないだとかという情報をお互いに共有し、選択授業をあわせてとった。
共通の話題はポケモンだった。お互いにお互いが持っているポケモンの写真を見せ合ったり、テレビで放送されている強豪トレーナーの試合を見て野次を飛ばしたり、ポケモンが主演の映画を見たりした。
良い友人だった。
「うち来ればええやん」
冬のある日、マサキは青年にそう言った。少し厳し目だが、必ず将来必要になると二人と思っていた講義が終わったあとだった。
レポートがめんどくさいんだ、と、青年は愚痴を漏らした。その講義はテストが無い代わりにレポートの提出を単位取得の条件としていた。
だから、マサキのその言葉がどんな意味を含んでいるのか、青年にはわからなかった。
ん? と疑問を持った相づちを打つと、マサキが続ける。
「ワープロで打ってしまえばええねん。手書きよりそのほうがよっぽど早いで」
「ワープロ持ってんの?」
「あるで、二台」
右手でピースサインを作りながら、マサキは得意げに笑った。
「やったことねえからなあ」
「ワープロは覚えといたほうがええで、絶対に使う時が来る」
マサキの言葉を、青年は疑わなかった。マサキという男は嘘がつけない男だった。
「じゃあ、教えてくれよ?」
「まかせい。やけど、最後は慣れやで」
そんなもんかな、と青年は思った。
「そういや。家行くの初めてだな」
「呼ぶのも初めてや」
「なんだ、彼女も連れ込んでないのか」
「勘弁してえや」
マサキは少し顔を赤くして手を降った。彼にいい関係の異性がいないことを青年は知っていたし、マサキがそれにコンプレックスを持っていないことも知っている。
「散らかってるけど、堪忍してや」
「いいよ、そっちのほうが落ち着く。イーブイは大丈夫なのか?」
「大丈夫やろ」
いこうで、と、マサキはかばんを肩にかけた。
☆
「お前、こんなところに住んでんのか?」
エレベーターに乗り込みながら、青年はマサキに言った。
出入り口は自動ドア、ロビーは小綺麗。
自分が住んでいるボロアポートとは雲泥の差だなと、青年は驚いている。
「せやで」と、マサキは何でも無いことのように答える。
「ちょっと遠いけど、近くに商店街もあるんや」
マサキは男の驚きが、下宿先の立地によるものだと思っているらしかった。
五階で降り、少し歩いて最も端の部屋。
特に抵抗を感じることもなく鍵を捻り、すんなりと扉を開く。
小さな鳴き声が、部屋の奥から近づいてきた。
「おう、ただいま」
廊下を駆けてきたイーブイに、マサキが挨拶する。
「これが家の姫や」
イーブイは、マサキの影から現れた青年に驚いたようで、じっと彼を見つめると、すぐさま廊下の向こう側にかけていった。
「まあ、ワイ以外の人間にあまり会ってないからなあ」
「大丈夫大丈夫、ポケモンってそんなもんだろ」
「じきに慣れるで」
「そうだといいけどな」
「ま、上がれや」
極端に靴の少ない玄関に靴を放り散らかしながらマサキが勧める。
「お前、あまりこの部屋に大学のやつを呼ばないほうがいいぞ」と、脱いだ靴を揃えながら青年が言った。
小首をかしげながらマサキがその続きを求めていたので続ける。
「入り浸られるに決まってる」
「好きに座ってや」
青年の下宿先より四畳は広いだろうか。
フローリングが敷かれたその一室は、ある一角を除いてきれいに整頓されていた。
「まるで映画だな」
その一角を見つめながら青年が言った。
その一角には、彼の知らない電子機器で溢れていた。
箱型に液晶画面が着いているものがいわゆるコンピューターであることは知っていたが、それが複数ある意味がわからないし、それから伸びているコードはごちゃごちゃに絡み合いながらコンセントに向かっている。
「好きやねん」と、マサキが椅子に腰掛けながら一つノビをして、ガサガサとその一角を探る。
「ほら、これや」
彼が両手で抱えながら取り出したのは、まるで巨大な弁当箱のような機械だった。
「ここが開くねん」
それをドカリとテーブルに置くと、今度は器用にその弁当箱を開く。現れたのは液晶画面とキーボードだった。
青年はその風貌に圧倒されてしまった。
「ローマ字はわかるやろ?」
「わかるけどさあ」
「ほんなら大丈夫や。説明書はどっか行ってもーたけど、わからんことあったら聞いてえや」
「どこが電源だ?」
「そっからかい」
マサキは一角から電源コードとフロッピーディスクを取り出した。
「これつなげて、ここがスイッチやで。記録にはこれ使ってな」
手渡されたフロッピーディスクをじっと眺めながら青年がつぶやく。
「なんか、現実感がねえな」
「慣れや、慣れ」と、マサキは笑った。
「それ、何やってるんだ?」
青年がようやくローマ字を打ち込むというシステムに慣れてきた頃。彼はマサキが熱心にキーボードを叩いていることに気がついた。
「おう、ちょっと待ってな」とマサキがキリのいいところを模索している間に、青年は膝に乗ってるイーブイの背を撫でた。すでに警戒は解かれ、マサキと同じく何をしてもいい人間だと思われているようだ。初めは太っているように見えたのだが、その実冬毛でもこもこなだけだった。彼は少しだけ、実家のガーディを懐かしく感じる。
「これはな」と、マサキが振り向く。
「プログラミングや」
「なんだそりゃ」
「なんやと言われたら説明が難しいな……そうやな、からくりじかけのコンピューター版って感じかなあ」
例えばな、とつぶやきながらキーボードを二、三度叩いて画面を切り替える。
青年は立ち上がってその画面を覗き込んだ。イーブイが不服そうな鳴き声を上げながら膝から飛び降り、ベッドに飛び乗る。
画面に映し出されていたのは、カラフルな四角図形がいくつも並べられたものだった。
「これ知ってるか?」
青年は首を振る。
「これゲームやねん」
マウスという名前の器具を動かすと、画面に小さな円が現れた。画面下部の棒がそれをエアホッケーのように弾くと、その円が画面を飛んで、その四角図形を壊すように消していく。
「やってみ?」
青年は言われるがままにマウスを握った。そして同じように四角図形を消していく。
だが段々とスピードを増すその円に動きが追いつかなくなって、その円が画面外に消える。
不思議な感覚だった。
自分が動かしているのはマウスで、それに連動して動くのはただの細長い図形、画面を動くのは小さな円だし、カラフルな四角図形は円に触れたら背景の色とどうかしているだけ。
それなのに、まるで自分がそのボールを弾き、ブロックを破壊しているような気分になるのだ。
「こりゃまずいな」
青年はマウスを離しながら言う。
「レポートが終わらなくなる」
楽しすぎるだろうことが、容易に想像できた。
マサキはその様子に満足そうににやけた。
「これをな、一からつくんねん」
青年は首をひねった。
「コンピューターってのはすごくてな、こっちが指示したこと全部やってくれるんや」
マサキは更にキーボードを叩いて今度は真っ白な画面を映し出す。
「例えばこう打つとな」
カタカタとキーボードを一分ほど叩いてからまた操作する。
すると、液晶画面の中を小さな四角がピコピコと点滅し始めた。それらは画面の隅々四点を規則だたしく移動する。
「こういうのをたくさん書くとああいうのができんねん」
青年ははあ、とため息を付いた。全く理解ができなかった。
「わかんねえけど、すげえな」
「慣れたらそんなに難しくもないんやけどな」
マサキは再び最初の画面を出して続ける。
「そんでこれはな、ゲームフリークいう会社から受けた仕事やねん。バグ取り……ええとな、からくりじかけを詰まらせとる砂埃を取る仕事や、ついでに油もさしてるってところやな」
「お前仕事してんのか?」
「せやで、まあ、小遣い稼ぎみたいなもんやし、バイトやバイト」
青年は納得した。道理でいい部屋に住めているはずだと。最も、この部屋の家賃をマサキが払っているかどうかなんてまだわかってはいないのに、なぜだか納得してしまったのである。
「まあこの会社まだ小さいからあんま銭良くはないんやが、結構いいの書きよるから勉強代込みってところやな。HAL研もやけど」
「お前、すげえんだなあ」
「まあ、今コンピューターはあんまりできるやつし、ワイみたいに暇持て余してるやつもそんなにおらんやろうからなあ」
「ゲームの他にも仕事あんのか?」
「あるで、最近だったら洗濯機に組み込むやつのチェックやったし、税金の計算するためのシステムのもやったわ、まああれはひどかったから全部やり直したんやけどな。その分銭もろたからええ仕事やったわ」
はあ、と青年は再びため息。
「わからん世界だなあ」
「興味あるなら教えるで? 一緒にやろうや」
「いや無理だわ。まだローマ字すら打てねえんだぞ」
「慣れや慣れ。三年もやれば似たようなことできるで」
青年は笑いながら首を振った。
初めての感覚だった。
例えばテレビで見たボクシング、大男二人がどちらかが倒れるまで殴り合う。そのような、自分のようなある意味で普通にできている人間とは違う世界の、非日常の、非現実の世界。
そのような非現実が、今画面を通さず目の前にいる。そのような感覚は初めてだった。
きっとこれが尊敬なのだろう。と彼は思った。
☆
青年のワープロ技術は、半年もすると「君はワープロを上手に使えるようだね」と教授に名前を覚えられる程度のものにはなっていた。
彼はアルバイト代でマサキからおさがりのワープロを買った「どうせ捨てるもんやしただでもええねんけどなあ」とマサキは不満げだったが、青年はプリンターの使用量だとそれなりの金額を手渡した。
だが、プログラミングに手を出す気にはなれなかった。青年の中で、それは明らかに非現実の領域だった。
マサキも無理強いはしなかった。ただ、時々なにか手垢のついていない意見がほしいときなどは、イーブイをなでている青年に助言を求めることもあったし、青年はそれに快く答えた。どうせ期待などされていないのだから、気楽なものだった。
素晴らしい友人だった。
季節がめぐり、彼らは法的に酩酊を目的としたアルコール摂取をしても自己責任となる年齢となった。
彼らは二人でタマムシ食堂に向かった。二人共、出会ったあの日依頼の来店だった。
「ポケギアこうたか?」と、ビールを飲み干しながらマサキが問うた。
「小さい電話だろ?」
青年は唐揚げに木の実を絞りながら答えた。
「とりあえず貰っといたよ。まじでただで配ってんだな」
「今だけや」
マサキは当然のようにその唐揚げに手を付けながら続ける。
「それなりに行き渡ったタイミングでふっかけてくるはずやで」
「そんなもんかね」
「ワイはコガネの人間やで?」
マサキはバッグの中からポケギアと呼ばれている携帯端末を取り出した。
「電話番号交換しようや」
「おう」
二人はそれぞれ端末をみやりながらそれぞれの連絡先を登録した。二人共、それが電話帳の最も上に書き込まれる。
「あんまり長電話はできないぞ」
「ええ、ええ。どうせ顔を合わせるんや連絡程度でええわ。それに、もう何年かすれば回線料も競うように落ちてくで」
「そんなもんかね」
「それが道理や」
少し赤くなった顔を見せながら、マサキは笑っていた。
「ええか、今後はコンピューター通信の時代や」
ラストオーダーの時間はとうに過ぎ。タマムシ食堂にほとんど客は残っていなかった。
マサキは青年の半分程度しかアルコールを摂取していないのに、もう随分と顔を真赤にさせていた。
それでも、酔う前と同じように口調は回る。
「世界が繋がる様になるんや。良くも悪くも。電話回線を通じて」
「ついていけるかな」
やはり青年も赤くなった顔を揺らしながら答えた。青年はこの頃に、自分は酔うと少し悲観的な思想になるのだなと理解し始めていた。
「自信がないよ」
「心配せんでもええ、この世の中の大体はコンピューターを理解できてないんや。お前はキーボードが打てるからまだ理解できている方やで。だけど心配せんでもええんや、ワイらがもっともっと生活を便利にするんや。コンピューターを異世界の住人やと思っとる世代も、いつの間にかコンピューターを使っているような時代を、ワイらが作るんや」
店員が空いた食器を下げに来た。彼は器用に二の腕にまで皿を載せて去っていく。
机の上には残り少ないアルコールが入ったグラスが二つだけとなった。
「まずはポケモンなんや」と、マサキがそれを少しだけ舐めて言う。
「ポケモン?」と青年は首をひねった。コンピューター通信と、ポケモンの関係性が理解できなかったのだ。
「そうや、ポケモンをな、コンピューター通信で送るんや」
その言葉に、青年は少し身を乗り出してマサキの目を覗き込んだ。いよいよ酔いが回ってきたのかと思ったのだ。そのくらい、突飛な発言だった。
「ポケモンを送るってお前、そりゃ無理だろう。相手は生き物だぞ」
マサキの目はしっかりとしているように見えた。
「できるかもしれんのんや。ポケモンがボールにはいるために小さくなる理屈を応用すれば……できるはずなんや……」
「どういう理屈でだよ」
「データ化するんや、ポケモンをデータ化することができれば可能になるんや」
青年はそれに小さく笑った。たしかに自分はコンピューターには疎い、マサキからは教わるばかりの立場だろう。だが、流石にそれが大層な妄想であることは理解できる。
アルコールによって少し皮肉的になっていた彼は言った。
「そりゃ無理だろう。ポケモンをデータ化することができるならお前、データからポケモンが生み出せるってことじゃないか」
その皮肉的ユーモアは、コガネ出身の彼にも受け入れられるものだったのだろう。彼は眠たげに目をこすりながら「そうやな」と人懐っこく笑う。
「そういうことやな」
グラスをなめる。
「そうやな、それやな」
耳をかく。
そして、それは突然だった。
「それやあああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
机を叩き、両足を踏み鳴らし、彼は立ち上がった。グラスが飛び上がり、アルコールが飛び散る。もしこの星の重力がもう少しだけでも軽かったら。彼はそのまま宇宙に突き抜けていただろう。
幸いにも、彼のそれに目が点になっているのは、青年と、二人だけになっていた食堂の店員だった。
「ああああああ! なんで気づかなかったんや! それや! そっちのほうが簡単や!」
彼は髪をかきむしっていた。
青年や店員がそれを注意するより先に、マサキは財布を取り出しながら続ける。
「すまん! 帰る! また連絡するわ!」
雑に取り出した高額紙幣を机に叩きつけた。飛び散っていたアルコールがそれに染み込み、シワを作る。
跳ね上がるように席をあとにしたマサキは、振り返って言った。
「お前はすごい! 天才や!」
☆
あの日以来、青年はマサキと会わなくなった。いつもの待ち合わせ場所にはおらず、ポケギアへの連絡もない。
たまに連絡をしてみても「すまん、今忙しいんや!」と断られる。実際に忙しいのだろう。
だが、青年が暇を持て余すことはなかった。元々友人が少ないわけではなかったが、ポケギアという最新連絡機器を操る彼の周りには、より多くの学生が集まるようになった。その中には当然異性もいたし、彼女らはポケギアの連絡先にドンドンと登録されていった。
二人だけで食事をすることもあれば、大勢で酒を飲むこともあった。だが、それらの誰も、彼にワープロの細かい機能を教えてはくれないし、コンピューターの素晴らしさを説いてもくれない。
つまらない友人たちだった。個人の魅力の無さを、群れることでごまかそうとするような。
やがて、彼はマサキが大学を休学したことを風の噂で知った。別に珍しいことではない、タマムシ大学は学生の数が多い、その途中でドロップ・アウトする学生も少なくないだろう。
だが、青年はマサキがそうであるとは思っていなかった。マサキはバカではない、怠惰の末に中退していく学生とは違うのだという妙な自信があった。
しかし、その詳細を問う権利を持つ数少ない人間である青年は、それを確かめなかった。理由なき休学はない、もし彼の身内に不幸があったのならと考えたら、それができなかった。
彼はマサキからの連絡を待つことにした。心から尊敬することのできる友人を信じていた。
☆
半年と少しが経ち、青年は最終学年になっていた。学業はやはりなんとなく順調に進み、ワープロ打ちのアルバイトをしていた教授のゼミに滑り込んだ。その教授は大手銀行にコネを持つことで有名だった。
ある日の夕方、彼のポケギアが鳴った。
珍しいことではなかった、この一年で随分と身近なものになったそれはもはやナウなヤングの殆どが持っていたから。
液晶画面に映し出される着信者を表す番号に、彼は見覚えがなかった。
「もしもし」とそれを耳にあてがった青年に、懐かしい声が届く。
『おうワイや、久しぶり』
マサキだ。
「おお」と、青年は驚きの声を上げた、心無しか鼓動が早くなったような気さえする。
「もうお前の番号忘れてたよ」
『せやなあ、だいぶ放っといたもんな。ゴメンな』
「ええよ、ええよ。なんか用?」
『今日夜暇なんや。どっかで会わんか?』
青年は一瞬戸惑う。
「そりゃ急だなあ」
『突然ドタキャンされてもーてなあ、無理か? 突然の話やから無理なら無理でもええで』
「明日は無理なのか?」
『すまん無理や、明日からはホウエンやねん』
なんだそりゃ、と笑いながら、青年は答える。
「いいよ、今日会おう」
『ホンマか!? おおきに!』
「どこがいい?」
『どこでもええで、美味けりゃ』
青年は考えた、この一年の間、彼は随分と色々な店を知った。だがそれらの店に、マサキはいなかった。
「タマムシ食堂で」と、青年は言った。
「いつものところで待ち合わせな」
もう一つ二つ言葉をかわして電話を切った彼は、ふうと一息ついてから連絡先を開く。
断りの連絡を入れなければならなかった。
本当ならば、この後は年齢が三つ下の異性と会うはずだった。
だが、それは惜しくなかった。
尊敬できる素晴らしい友人と会うことのほうが、よっぽど重要だった。
☆
久しぶりにあったマサキは、あの人殆ど変わらない風貌だった。
ビールで乾杯しながら、彼らの話題はポケモンから。
「イーブイはまだ元気なのか?」
「そりゃもう! 元気ピンピンやで、今日もお前に会うって言ったら着いて来たがったんやけどな、迷惑やからやめといた」
「連れてくりゃ良かったのに」
「ほな今度はそうする。そっちのガーディはどうや?」
青年は一瞬それに考えてから答える。
「まーぼちぼちだ」
「そうか、ええことやな」
マサキの笑顔は、いつもと変わらなかった。
「なあ、なんで休学したんだ?」
その話題に行き着くのは、思っていたより早かった。マサキが大学の話題にあまり食いつかなかったから。
「ああ、それな」と、マサキはなんの抵抗もなく続ける。
「勉強してる暇が無くなったんや」
首をかしげる青年に続ける。
「お前の発想はすごかったんや」と続ける。
「データからポケモンを作るってのは、めちゃくちゃな話かもしれんが理にかなった話でもあったんや。データからポケモンが作れないならば、少なくとも今の技術でポケモンをデータ化することはできん。その逆にそれができりゃあできるってことなんやな」
赤くなりつつある顔をこすりながら言う。
「だからワイは、データからポケモンを作ったんや」
は? と、青年は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。だが仕方がない、少し赤いが真面目な顔でそれを言うマサキを見たら、誰だってそう言うだろう。
「あ、いや、ワイが一人で作ったわけじゃないで」
マサキは慌てて手をふるが、問題はそこではない。
「ちょうど似たようなこと考えてた企業があったからな、プログラマーとして参加したんや。んで、大体わかったし大体完成したから辞めたんや」
彼は声を潜めて続ける。
「ぶっちゃけちょっとやばめのグループやったから、抜けて正解やったと思っとる」
青年は無言で続きを求める。
「そんでその後は本来の目的のために行動や」と、マサキは唐揚げに木の実を絞りながら続ける。
「データからポケモンを作れることがわかったんやから、今度はその逆をやればええ。そしたらな、出来たんや」
彼はグラスの酒を舐めた。
「まだまだ完璧や無いが、カントー地方一体はカバーできる。後は時間をかけながら範囲を広げていけばええ」
そんでな、と続ける。
「会社も作ったんや。まあビルやオフィスはないけど、そんなもんはおいおい作っていけばええ。世界でたった一つの技術なんや、資本はあとから付いてくるってもんや。上手く行けば大学を辞める、大学はまた好きなときに行く」
なあ、と、マサキは青年の名を呼んだ。
「ワイらは歴史に名を残すんや」
青年は、ら、というたった一文字に手を振った。
「いや、そりゃあお前は残るかもしれねえけどさ」
マサキは青年のそれを謙遜だと断定して答える。
「なんでや、お前がおらんかったらワイはこのシステムを作れんかったんやで? お前は天才や、ゼロをイチにした天才なんや。お前に出会えてよかったわホンマ」
「辞めてくれ」と、青年は思わず言った。
「そりゃ嬉しいけど、お前のやったことに比べたら俺なんて何もやってないような……というか何もやってないだろう」
その時、ふと気づいた。
俺なんて、なんて言葉、使ったのは何時以来だろう。
今その言葉を使うことに違和感は感じない。だって実際にそうだから。
彼が成し得た、彼が成し得ようとしていることに比べて、自分がなんと矮小なことか。
彼がデータからポケモンを作り出そうとしていたとき、自分は、彼女を一人か二人作っていた。
彼がポケモンをデータにしようとしてたとき、彼はぼうっと講義を聞いていた。
彼が会社を作っていたとき、自分は早く遊びたいからと、みんなより早く論文に取り掛かっていた。
スケールが違う。
人間としてのスケールが違うのだ。
非日常は、日常だった。
彼はその感情をぐっとこらえた、おおよそ初めての感情だったが、彼はその感情を、決して外に出してはならないものなんだろうとなんとなく理解できていた。
それは嫉妬だ、それは嫉妬だった。溢れんばかりの才能に対する、強烈な嫉妬だったのだ。
来なければよかった。
笑顔でよしてくれというマサキを褒め続けながら、彼はそう思いつつあった。たとえ一夜だけだとしても、ここに来なければ、快楽を味わえたというのに。
彼らの話題は、再びポケモンに戻っていた。
「イーブイの進化先に悩んどるんや」
マサキは三杯目のグラスを空けながら続ける。
「シャワーズ、サンダース、ブースター」
普段よりも酒を飲み干して、顔が真っ赤になった青年が指折りながら答えた。
「まだいるんだよな?」
「せや、なつくことによって進化する方向もある。オーキド博士はそんなんも知らんとポケモン図鑑を作ると息巻いとるんやから笑えるよな」
カントーの重鎮を笑うその言葉は、彼らがよく笑い合う定番のネタだった。
だが青年はそれに小さくだけ笑って続ける。
「どう考えてるんだ?」
「ブラッキーになるとな、ちょっと世話がしんどくなる。だけどサンダースはなあ、ほら、ウチ電子機器ばっかりやから」
「じゃあ水も炎もあぶねえだろう」
「せやな……やっぱり時間を調整してエーフィにするかあ」
「そのほうがいい、俺も初めて見るポケモンだし」
「せやな、写真送るで」
うんうんと頷いたのとに、青年がつぶやく。
「うちのガーディのことなんだけどな」
それは、一旦は避けたはずの話題だった、だが、それをひた隠しにするのは、なんだか違うような気がした。
うんうんというマサキの相槌を待ってから続ける。
「今ちょっと病気らしいんだよ」
その言葉が言い終わるかどうかというところから「ほんまか」と、マサキは食い気味に反応した。
「悪いんか?」
「いや、それほどじゃないらしいんだけど……良いもん食いすぎたんだろうな、内臓が悪いんだと」
そうか、と、マサキは黙りこくった。まるで自分のイーブイのことのように深く深く考え込む。
やがて彼は口を開いた。
「進化させりゃええねん。炎の石で」
それは青年からすればやはり突飛な言葉だった。
「進化って、どうして」
「大抵のポケモンってのはな、進化すれば寿命も伸びるし体も強くなんねん。これはエビデンスしっかりしてる情報やから確実や」
段々と調子を取り戻しながら続ける。
「そうやな、それが一番ええわ。進化させるときは連絡くれな、進化を見るの好きやねん」
マサキがそういうのなら、と、青年は一瞬それに前向きになった。
だが、あのガーディがウィンディのサイズになるということを考えてやはり首をふる。
「いや、やっぱり無理だ。今の実家にウィンディを囲える広さはないし、メシ代もな。もう少し様子を見るよ」
想像ができなかった。
元々の二倍、三倍の体格になるウィンディの面倒を見るということが、イマイチイメージすることが出来なかった。
急ぐようなことではないように思えた、もう少し経過観察を続けても良いような気がした。
青年の言葉に、マサキは一瞬だけ困った表情を見せた。
そして、何のためらいもなく、何の迷いもなくこう言った。
「ワイが面倒見たろうか?」
今になって思えば。その言葉に悪意なんかひとかけらも込められてはいなかったのだろうし、見下すようなニュアンスの言葉も込められてはいなかったのだろう。ただただ、彼は友人を思う一心でそう言ったのだろう。あとになって思えば、彼が研究やもしくは会社を設立するときなどに関わった大人たちが、そのような対応を求め、彼がそれに答えてきたのかもしれない。
青年は、初めのうちはその提案を悪くないものなのかもしれないと思った。
だが、一秒、一秒と時間が立つごとに、彼はそれが到底受け入れられないものだと思い始めるようになった。
それを受け入れてしまえば、彼の施しを受けてしまえば、もう二度と、この素晴らしい関係には戻れないような気がした。
「そういうことじゃねえだろう」と、青年は落ち着き払って答えた。なんてことのないことだ、その場を取り繕うなんて。
「そういうことじゃ、ねえじゃん」
落ち着き払っていたはずだったのに、否、本当はそのような場でで落ち着き払うことのほうが、おかしいのだ。
マサキはハッとした表情を見せ、気まずそうに青年から目をそらしながら答える。
「そうやな、すまん。ワイがアホやった」
その後も二、三度ほど「すまん」と、彼は繰り返した。聡明な彼は、自身の言葉がこの関係性を崩してしまうかもしれない引き金だったということを、青年の言葉で気がついたようだった。
その後何を喋ったのか、青年は殆ど覚えていなかった。ただただなんとなく相槌を売っていたような気もするし、マサキとは別の友人にするような、品のない話題を提供したかもしれなかった。
恐らく、もう会うことはないんだろうな、と、青年は別れ際に思った。
青年はマサキを咎めたことを、マサキは青年にひどいことを言ってしまったことを。小さな傷かもしれないが、それは彼らがお互いの方に向き合おうとしたときに、小さく開く傷口だった。
自分は大学に残り、彼は大学をやめる。彼は忙しくなり、自分はこのままなんとなく生きていく。
傷口は修復されないだろう。そして、そんな事もいずれ忘れる。
それでもおかしくないような気がした。マサキが自分と違う世界に行くことを、彼は不思議だと思っていなかった。
非日常は、非日常であってほしかった。それこそがあるべき姿なのだと思っていた。
だが、本当にそうだろうか。
濁るタマムシの夜空を眺めながら、青年は考えた。
彼は、マサキという稀有な人間は、本当に非日常であると断言して良いのだろうか。
しかし、ならばあのマサキの提案を受け入れろというのか、この美しい関係を、自らの手で終わらせろというのか。
答えはわからなかった。だが、自分はこの関係を守ったのだと、ほんの少し思った。
☆
二年だ。
あれから二年がたった。
相変わらず、青年はなんとなく人生歩んでいた。
大学卒業後は、大手銀行に就職をすることが出来た。
キーボードに慣れていることは、マサキの言う通り、社会生活では有利だった。最近ではコンピューターが多く職場に導入され始め、それをそれなりに使いこなせる青年は重宝された。
青年はポケモンに関する知識と慣れを評価され、ポケモンに関する部門で働いていた。忙しく、年下を必要以上に叱りつけなければ自信の存在意義を掴めない先輩がいないこともなかったが、やはりそれなりにやれている。
あれ以来、マサキとは会っていない、向こうから連絡もないし、こちらからも連絡しない。
しかし、マサキの顔はよく見ていた。
カントー一体を支配したポケモン通信システムの生みの親として、また、ポケモンに関するアナリストとして、何時でもその顔を見ることができる。
やはり、彼は非日常の存在だったのだ。
仕事が終わった。
厄介だった仕事を片付け、この仕事が最も忙しい時期も抜けた。しばらくは、普通どおりに帰宅することができるだろう。
ふと、彼は伸びた自分の影を見た。振り返ると、今まさに沈まんとしている太陽が真っ赤に燃えて、その存在を大地に誇示している。
その赤を眺めながら、彼は実家のガーディのことを思い出した。
懸念だった内臓病は、優れた携帯獣医療のおかげで回復していた。
きっとそれにも、彼の技術が生かされているのだろうなと、青年は思う。ポケモンをデータ化するのだ、悪い部分だけ修正することなど、彼には容易いことだろう。
だが、最近は別の問題も起こっている。
どうやら、ガーディは少し衰え始めているようだった。自分と同じくらいガーディに熱心な母親が言うならばそうなのだろう。
炎の石だ、と彼は思った。
炎の石で進化をさせれば、その寿命は伸びる。
そして、彼はそれでも良いだろうと今度は思った。あの時と違って、今の自分には経済力がある。
そういえば、彼はポケモンが進化をするところを見たことがなかった。一体どんなものなのだろうと思う。
「進化を見るの好きやねん」
ふと、彼はマサキがそう言っていたことを思い出した。そして苦笑する。
彼ならば、進化なんて腐るほど見ることができる立場だろうに。
青年は足を止めた。
あの日のことは、完全に忘れたわけではない。
今思えば、ひどいことをしたのかもしれないなと思うこともある。だが同時に、じゃあどうすればよかったのだとも思う。
今ならば思う、あの時、自分達は対等な立場ではなかった。マサキはすでに社会の一員となっており、自分はまだ子供だった。彼にはポケモンを進化させる権利があり、自分にはなかった。
だが、精神的には対等でありたかった。、彼に甘えたくなかった、彼の類まれなる才能を一方的に享受するだけの立場になりたくなかった。彼の親友であり続けたかった。
だが、彼は非日常の存在だった。だから彼は、自分から離れた。
いや、違う。
難しい仕事から開放されていた彼の脳は、二年間もの間積み重ね続けたものを否定する。
親友ならば、どうしてそのミスを許さなかった。どうして聞かなかったことにしなかった。どうして咎めなかった。どうして、どうして彼を傷つけた。
離れたのは、自分なんだ。
初めて見た、圧倒的な存在に、自分が目をそらしたのだ。
彼の圧倒的な才能に、立場に、輝きに、自らの影がだんだんと伸びていくのを見るのが恐ろしかっただけだ。
だから、だから。
青年はスーツのポケットからポケギアを取り出した。
マサキの言う通り、最近では高性能化を唄いながら機種の値段は高額になるばかりだ。だが、ただで手に入れたそれは、まだ壊れる素振りすら見せない。
彼は連絡先の一覧を開き、その一番上にカーソルを合わせる。
数多くの連絡先を追加し、数多くの連絡先を削除した。それでも、その番号だけは変わらなかった。
繋がるだろうか? 繋がらないかもしれない。
相手はカントーの未来を牽引するIT技術のスーパーアスリートだ、高額な機種のポケギアに買い換えるなんてわけのないことだろう。もしかすれば電話番号が変わっているかもしれない。
覚えているだろうか? 覚えていないかもしれない。
相手は世界を代表するポケモン通信会社の会長だ。彼にとって学生時代の友人なんて取るに足らないものだろう。もしかすれば電話をとってすぐに「誰や?」と言われるかもしれない。
受け入れてくれるだろうか? 受け入れてくれないかもしれない。
相手は世界に最も影響を与える百人のうちの一人だ。彼にはきっとその名声と資本を目当てに数多くの人間が群がるだろう。もしかすればそれらと同じように邪険に扱われるかもしれない。
だが、それでもいい。
日常に彼がいなくても、自分は生きていける。
だが、連絡しなければならない。
だが、彼がいれば、その人生が少しだけ明るくなる。
この二年で、マサキは随分と多くのものを手にしただろう。青年に比べれば、ずっと、ずっと。
だが、青年だってこの二年で、たった今手にしようとししているものがある。
それは勇気だ、あまりに眩しすぎる非日常と正面から向き合う勇気を、青年は手にしようとしている。
何でもいい、何だっていい。この電話がつながったらこう言うのだ。
「ガーディを進化させたいんだが、見に来ないか?」