黙黙目次
ある島にて、悩める少年と島の王達
 世間的には、これから昼が始まるといったところだっただろうが、山場を乗り越えたある魚市場にはすでに漁師たちの姿は少なく、閑散としつつあった。
 日が出る前に海に出て、日の出とともに活性化を始める魚たちを捕らえる彼等にとって、世間よりも早く最も重要な仕事を終えることが出来るのは当然のことだ。
 漁師の一人サトルはいつものように、売れはしないが食えないわけではない獲物を数匹手物に残して、自身の船で帰路につこうとしていた。人より少し遅いのは、彼がいつものように入念に船の点検をしたからだろう。
「すみません」
 彼がエンジンを回そうとしていたその時、聞き慣れぬ若い子供の声でそう聞こえた。遠慮がちに、それでいてそれなりに声を張ってなんとか気づかれようとしている声だった。
 妙だな、と、違和感を感じながら、サトルはその方に振り返った。平均年齢の高いこの魚市場では、自分が最も若い漁師であるのに。
 見れば、少年が、波止のギリギリのところに立って、サトルをじっと見ていた。彼はサトルが自分に気づいたことに気がつくと、もう一度、今度は声量を抑えて「すみません」と言う。
「どうした」
 サトルは一歩その子供に近づいて、できるだけその子を怯えさせないように気をつけながら問う。敵意があるわけでも、機嫌が悪いわけでもないが、仕事によって鍛え上げられた浅黒の肌と、生まれつきの鋭い目つきがあまり評判のいいものではないことを知っていた。
 サトルの気遣いを知ってか知らずか、少年は少しだけ遠慮がちに答える。
「ヨバシ島まで、乗せていってくれませんか」
 ヨバシ島、それは、サトルがこれから帰ろうとしていた小さな島だ。
 その少年は、サトルがヨバシ島の人間であることを、この魚市場の誰かから聞いたのだろう。厄介な問題を、若い彼に押し付けることに、市場の人間は抵抗がないだろうから。
 一瞬、サトルは船強盗を想像したが、すぐにそれは否定される。こんな少年が船強盗などするようなことがあれば世も末だ。
「ヨバシに何の用があるんだ」
 情報を引き出すためのサトルの問いだった。
 特に目的など無いのか、それともサトルにそれを言いたくないのか、もしくは、衝動的なものを、本人も説明することができないのか、少年はそれに口ごもる。
 船強盗なら、すぐさま適当な理由を並べるだろう。
「まあいい」と、サトルはしびれを切らして言った。そして「乗りな」と、足元を指差す。
「ありがとうございます」
 少年はそう頭を下げてから、恐る恐る波止から海につながるハシゴに手をかける。あまりに危なっかしい足運びに、途中でサトルが手を差し伸べた。
「名前は」
 再び礼を言いながらサトルの船に降り立った少年に、サトルが問う。
「ダイゴです」と、少年は頭を下げる。色素の薄い髪の毛が照りつける日を反射していた。
「サトルだ」
 対称的に日が染み込むような浅黒の腕をダイゴの前に差し出しながらサトルも言い、ダイゴもそれを握り返した。
 まあ、何かがあったら小遣いを握らせて連絡船に乗せればいい、と、サトルは考えていた。


 ホウエン地方とジョウト地方の間に存在するある地方は、幾多もの小島が浮かぶ素晴らしい海を持っていた。
 浅く複雑に入り組んだその海は、魚や水棲ポケモンの豊かな生態系を構築し、島に住む漁師たちも、それぞれの縄張りで、それぞれの獲物を捕らえて生計を立てている。
 サトルとダイゴが向かっている『ヨバシ島』もまた、小さいが優れた漁場を持つ島の一つだった。ヨワシというポケモンの大群が度々訪れる場所として知られ、はるか昔に、それらの獲物を頼りに本土から移住してきた人間が生活圏を作り上げたとも言われている。


 魚市場のものと比べれば、随分と小規模で前時代的な船着き場に、サトルの船が停泊した。
「着いたぞ」と、サトルがダイゴの方を見ると、彼は驚きに目を見開いて船着き場を眺めている。
 仕方がない、と、サトルはひとまずダイゴを放っておいて、船のロープを船着き場に結びつける。『ヨバシ島』のこの光景は、何も知らぬ本土の人間が見れば、間違いなく異質だから。
 船着き場には、サトルを出迎えるように、何匹ものポチエナがひしめき合っていた。ホウエン地方に近いこの地方では、野生のポチエナそのものは珍しくないだろう、だが、彼等はホウエン地方のポチエナのように唸りを上げながら人間を威嚇するわけではなく、しっぽを振りながらキャンキャンと小刻みに鳴いて、サトルら人間を歓迎していた。
「全部、サトルさんのポケモンなんですか」
 興奮からだろう、声を上ずらせながらダイゴが問う、しかしサトルは、持ち帰った雑魚を何匹か持ちながら「いいや」と、それを否定する。
「こいつらは、誰にだってそうさ」
 彼がそう言うと、今度はドサリと、何かが船に乗り上げた音がして、船が少し傾く。一瞬ダイゴは、船着き場にひしめいているポチエナのうち一匹が船に落ちたのかと思ったが、その方向を見て、すぐにそれは違うと知る。
 バタバタと甲板を叩きながら、サトルのもとにやってきたのはトドグラーだった。彼は大きく鼻息を吹くと、じっとサトルの手にある魚を見つめる。
「こいつは俺のポケモンだが」
 サトルは持っていた雑魚をトドクラーに与える。
「昔溺れかけてるところを助けてやったら、なつかれた」
 満足気に雑魚を味わったトドクラーは、サトルの足にすり寄って一つ挨拶をした後にふたたび海に戻った。
「上がらないのか」
 いつまでも船にいるダイゴに、サトルが言った。
 ダイゴは困った表情で彼を見る。
「どこにも足の踏み場がなくて」
 確かに、船着き場のびっしりと並んで物珍しげにダイゴを見つめるポチエナたちは、一向にそこをどく様子がない。
「勝手に避けるだろう」
 それに慣れているサトルはヒョイと船から船着き場に飛び移った、ポチエナたちも慣れているのだろう、彼等はそれを避けた後に、甘えたようにサトルの足元にすり寄った。
「ほら」と差し出された右手につかまって、ダイゴも船から船着き場に移る。直後にポチエナたちがわっとダイゴの足元に群がった。
「野生のポチエナがこんなに人懐っこいなんて」
 スネのくすぐったさをなんとか堪えながら、ダイゴがそう漏らした。見れば、その進化系であるグラエナの姿も何匹か見かける。
 サトルはその質問に何も答えなかったが、代わりにダイゴの知らない声がそれに答える。
「この島のポチエナはそうなんだよ」
 足元のポチエナ達に意識が向いていたダイゴはその声に驚き、その方を見る。
 そこには、肌の焼け具合こそサトルと同じであったが、それ以外は全てサトルとは大違いの男がいた。
 まず目立つのは、整髪剤によってツンツンに立たせられた髪型だった。それも金と赤のマダラとなっている髪の色はそのどちらかを、もしくは両方を染めたのだろう。
「遅かったじゃん、まあ、理由はわかるけど」
 奇抜な髪型の男は、そう言ってサトルを見た後、視線をダイゴに戻す。
「夏休みの冒険か、家出少年かは知らねえけどさ、わざわざこんな島に来るかね」
 ニコリ、と、顔の半分を覆うほどの、黄色がかったサングラスの向こう側の目が笑う。その男の顔が比較的小さいことを考えても、そのサングラスはでかすぎる。
 ヤンヤンマみたいだな、と、昔図鑑で見たポケモンをダイゴは思い浮かべた。
 ふと、柑橘の匂いがダイゴの鼻をくすぐった。そして、彼はその男が小脇にカゴを抱えていることに気づき、ポチエナたちが甘えるような鳴き声を上げながらその男の足元に群がっていることに気づいた。
 男はそのカゴに右手を突っ込み、体を背後に捻って後ろにその中のものを撒いた、ポチエナたちは一斉にそれに向かって走り出し、波が引くように、ダイゴやサトルの元から去った。
 もう二、三度彼はそれを撒いて、再びダイゴに視線を戻す。
「一体何をしに来たんだ」
 ダイゴがそれをぼかす言葉を出そうとする前に、サトルがそれに答えた。
「言いたがらないんだ」
「へえ、どっちにしろ、奇特な子だね」
 ハハハ、と男が笑うのを見て、サトルが彼を指さしながらダイゴに言う。
「こいつはアキラ、こんなナリだが悪いやつじゃない」
「こんなナリとはひどい言い草だな、都会で今流行りのファッションなんだぞ」
 それはない、と、ホウエンの都会を知っているダイゴは思った。確かにミナモやキンセツに一人か二人くらいはいるかもしれないファッションだったが、それらの町でも、彼の見てくれは奇異の目で見られるだろう。
「馬鹿言え、本土にもそんな奴はいなかったぞ」
 サトルの言葉に、ダイゴは心の中で何度も頷く。
「わかってねえなあ、これはもっとデカイ海の向こうの流行りなんだよ」
 ムッとしたようにサングラスをかけ直したアキラは、仕切り直しと言わんばかりに笑顔を作って、ダイゴに右手を差し出す。
「君の名前は」
「ダイゴ、です」
 ダイゴはその手を握りながら返す。
「ダイゴ、ね、いい名前じゃん」
 ばら撒かれた何かを食べ終えたのか、ポチエナたちが再びアキラの足元にたむろし始めていた。彼は再びカゴの中身を背後にばらまく。
 ダイゴは、握手した右手が少しべとついていることに気づいた。手のひらを見ると、先程から感じている柑橘の匂いが強まる、ダイゴはこっそりと、指についたべとつきをぺろりと舐めてみた。瞬間、甘味と酸味が鼻を抜ける。
「美味いか」
 それに気づいていたアキラが、ダイゴの顔を覗き込んでそう問うた。
 サングラスの照りに少し眩しさを感じながら、ダイゴは素直に答える。
「はい、美味しいです」
 そうかあ、と、嬉しげに語尾をはねさせながら、アキラは抱えていたカゴの中身をダイゴに見せる。
 カゴの中身は、細かくカットされた果実だった。皮は厚く、弾けるような黄色の身はぎっしりと詰まっており、みずみずしい。
「オボンの実だ」と、アキラは続ける。
「栄養満点でな、ポケモンの大好物」
 ダイゴは、それを知らなかった。そりゃもちろん果物の存在くらいは知っていたが、オボンと言う種類の果物を、聞いたことがなかった。
「あとでいくらでも食わせてやるよ」
 恐らくべとつきの残る手で、ダイゴの頭をなでた。そして、更に問う。
「いつまでいるかは知らねえけどさ、一体どこに寝泊まりするつもりなんだ。見ての通り、この島に民宿なんてねえし、ポケモンセンターだって当然無い。島民よりも、ポチエナのほうが遥かに多い島だぜ」
 アキラの指摘に、ダイゴは言葉を失った。それは当然考えなければならないことだったが、ポケモンセンターがあることが当たり前の環境で育っていたダイゴにとって、それは考えられないことだった。
 その反応が予想通りだったのだろう。アキラは笑いながらダイゴの肩を叩く。
「そう怯えた顔をするな、ちょっと仕事を手伝ってくれりゃあ、いつまでも屋根を貸してやるよ。どうせ今は独り者だ」
「そうだな、それがいいだろう」と、サトルも頷く。
「俺の家に泊めてもいいが、朝が早いからな」
 悪い提案ではなかった。というより、それ以上ない絶好の条件だった。
「よろしくおねがいします」と、ダイゴは二人に頭を下げた。



 アキラの家に足を一歩踏み入れたダイゴは、その光景に驚いていた。
 まず目についたのは、ホウエン地方でもまだ珍しい最新型の洗濯機だった。洗った後に今度は乾かしてくれるすぐれもの。
 見渡せば、部屋の中の電化製品は、殆どが最新式のものだった。テレビは薄いし、冷蔵庫はデカイし、部屋の奥に目を凝らせば、どこぞの研究所のような情報機器の数々が並べられている。
「どうだ」と、アキラは誇らしげに笑う。
「ここは都会じゃないが、都会のように暮らせる。これでも結構、稼いでいるんだ」
 それがすごいことであることはダイゴにもわかるが、同時に、妙な人だなとも思った。
 それならば、都会で暮せばいいのに、と。



 翌日、当然のように顔を覗かせる太陽を全身に浴びながら、アキラとダイゴは、アキラの家から少し歩いたきのみ畑に来ていた。
 そこは、ダイゴがよく知るような畑ではなかった。平面にずっと作物が並んでいる形式とは違い、山の斜面を利用し、段々ときのみが生い茂っている。
 何より、見渡す限りきのみといった風なその畑の大規模さに、ダイゴは驚いていた。
「すげえだろう」と、アキラは誇らしげに言う。
「全部、俺達が切り開いたんだ。オボンとラム、外国に高く売れるノメルを育ててる」
 俺たち、というのが、一体アキラと誰のことを指しているのか、ダイゴは一瞬わからなかったが、すぐにそれを理解した。
 ガサガサと土を踏み鳴らしながら、一匹のグラエナが、段々になった畑から降りてきた。そして彼は、体全身をアキラの足に擦り寄せると、今度は股の間を通ってもう片面を擦り寄せる。
「この島ではな、こいつらは超優秀な番犬なんだよ」
 甘えるグラエナを撫でてやりながら、アキラがダイゴに言う。
「見ての通りこの島の殆どは山と森だが、そこらはバネブーとかブーピッグの巣なんだ」
 バネブーとブーピッグ、それらのポケモンについては、ダイゴもよく知っていた。主に山林に生息する、エスパータイプのポケモンだ。
「俺たちのご先祖はそいつらのいたずらに随分悩んだようだが、ある日、本土の人間が何匹かのポチエナを連れてきた。すると、アレだけいたずらを仕掛けてきたブーピッグ共が、みーんな山に帰った。まあ、ポチエナはあくタイプだから、当然っちゃあ当然なんだけどな。そっから島の人間はポチエナを可愛がり、ポチエナ達も敵が居ないもんだから増え続けて、すっかり野生が無くなって人間にベッタリってわけさ。今じゃこの島に住んでる人間の何十倍もいるだろうなあ。人、減ったから」
 最後の言葉を少し悲しげにつぶやいた後に、さ、と、アキラは一つ手を叩いた。
「そんじゃ、働きますか」


「狭いところに体が入るのはいいねえ」
 少し入り組んだ木の幹の隙間に体を捻って潜り込んだダイゴを見ながら、アキラは感心したように言う。
 その髪型をもう少しおとなしくさえすれば、何も難しいことはないのではないかという考えを上手に押し殺しながら、ダイゴはもいだオボンのみを片手に、隙間から脱出する。
 自分の力で掴んだそれを、ダイゴは少し名残惜しげに弄んでから、アキラに教わったとおりに、足元に転がした。
 ネットを張られた斜面を、オボンは勢いよく転がって、段々畑の麓まで転がった。とても硬い皮を持つオボンのみは、斜面を転がったくらいでは傷まない。アキラが言うからそうなのだろうが、ダイゴは未だにハラハラしている。
 麓を見れば、ネットの上にころがるオボンのみに、ポチエナたちが群がって匂いを嗅いでいた。それもまたハラハラする光景だが、その中の誰も、オボンをつまみ食いはしない、ボスであるグラエナ達が、厳しい目で監視しているし、ここで我慢すれば、この後にアキラからオボンをもらえることを知っている。大体、ポチエナ達の小さな口では、オボンの皮を裂くことなんて出来やしないのだ。
 よし、と、アキラはすでに萎れ始めているオボンの木の根元にグラエナが掘った穴の中に、オボンのみを丸々一つ埋めながら言った。特殊な生態をしたオボンのみは、一度実をつけるとすぐに枯れてしまう。しかし、逆を返せばそれは、収穫の効率の良さでもあった。
「この島は、オボンやノメルのような実を育てるのにうってつけなんだ」とアキラが言っていたことを、ダイゴは思い出す。
 彼はまだそれを知らなかったが。温暖な気候、少ない雨、豊富な栄養を持つ土壌、それらの要素は、確かにオボンやノメルのような黄色い果実を育てるのにうってつけだった。一つの木から二十近い実が収穫できる。
「昼飯にしよう」
 アキラはダイゴの肩を叩きながらそう提案した。
「よく頑張ったな、見ろよ、あんなに収穫できたのは久々だ。こりゃバイト代も弾まないとな」
 麓に貯まるオボンのみを指差すアキラ、ダイゴは、それらを見て達成感と感動に包まれていた。
 何よりも、大人に、掛け値なしに褒められたことが嬉しかった。それは、彼の中で久しくなかった感覚だったのだ。
「俺は午後ももう少し作業するが、お前は昼飯食ったら好きにしていいぞ」
 そう言って背を向けたアキラに、ダイゴが「あの!」と声をかける。
「僕、午後の作業も手伝います!」
 振り返ったアキラは、笑ってもう一度、ダイゴの肩を叩いた。






「何にも釣れやしねえな」
 ダイゴがヨバシ島に来て四日が経っていた。
 昼間のうちにオボンの収穫を終えた彼等は、釣り竿一本もって船着き場そばの波止に赴き、その先にある小型のポケモンをかたどった疑似餌のようなモンスターボールを沖にぶん投げてはリールを撒いて戻し、またそれを沖にぶん投げてはリールを撒いて戻しを繰り返していた。
「おっかしいなあ、カントーから来た人はこれでバンバン釣っていたのに」
 だいぶ時間が経ったはずなのに、興奮するような竿の変化はなかった。
 おこぼれを期待しているのだろう、アキラとダイゴの周りには何匹ものポチエナと、サトルの手持ちであるトドグラーがたむろしていたのだが、彼らの緊張の糸はとっくの昔に切れていたようで、大小様々なあくびを見る事ができる。
「僕にもやらせてください」
 素人目にも上手とは言えないアキラの釣りっぷりに、ああすればいいのに、こうすればいいのに、といった気持ちをついに抑えきれなくなったダイゴは、日に焼けて真っ赤になった両手を差し出しながらアキラに言った。アキラは多少不満げであったが首をひねりながら竿を手渡す。
 自分の背丈の二倍以上もある竿を体全体で抱えながら、ダイゴは大きく振りかぶり、そして、振り下ろす。
 見よう見まねで竿を振ったダイゴの疑似餌は、天高く舞い上がるだけ舞い上がって、下投げでそれを投げたのと同じくらいの距離に、静かに着水した。
 あまりにもわかりやすい失敗に、ダイゴとアキラは一瞬顔を見合わせて大きな声で笑いあった。
「何やってんだ」
 呆れたような声が、彼等に投げかけられた。
 振り向くと、そこに居たのはサトルだった。買い物帰りであろうか、大きなビニール袋を両手にぶら下げている。
「全然釣れやしないんだよ」と、アキラは海を指さしながら言う。
「どうやったら釣れるのか、プロの助言が欲しいよ」
「今日は潮が動かない日だからな、夕方頃に少し動きがあるかもしれないが、あまり良くない」
 へえ、と、アキラの相槌を聞いてから、彼はさらに続ける。
「今日、晩は家に食いに来い。作ってやる」
 それだけ言って、サトルは彼等に背を向けた。
「ああ、そうか。明日は日曜だな」と、アキラはそれに納得したように頷いて。首をひねりながらリールを巻くダイゴの肩を叩いた。
「良かったなあ、今日はごちそうだぞ」
 ダイゴは、その意味がいまいちわからなかった。
 日が暮れるまで、結局竿に反応はなかった。


 ダイゴは、サトルが台所から運んできたデザートに、目を丸くしていた。
 大きな皿に乗ったそれは、今にも溢れさんとしているほどに果物が乗せられたフルーツタルトであった。それも、少し高級なお菓子屋で見かけるような、見た目のデザインにまで工夫の凝らされた、美しいものだった。
 なるほど、と、ダイゴは、アキラが喜んでいた理由を知った。その前に用意されていた晩御飯は、手軽で冷たい麺料理が、ほんのちょっとだけ、しかも、アキラはそれに何も言わず、サトルは自分たちを放っておいて台所にこもりっきりだから。おかしいと思っていたのだ。
「サトルの腕はプロ顔負けなんだぜ」
 嬉しげに、アキラがダイゴに言った。まだその味を知ってはいないが、ダイゴは、それを疑わなかった。
 サトルによって切り分けられたそれを口にすれば、その言葉が、真実だったと確信する。
「おいしい!」
 口の中に広がる様々な果物とクリームの味覚に身を任せ、ダイゴは弾けるようにそう言った。
「だろ! 俺の作ったオボンも入ってるからな!」と、アキラもそれを頬張りながらそれに同意し「それは良かった」と、サトルは照れくさそうに頬をかいた。


「旅の目的は、なんだ」
 フルーツタルトが全てなくなった頃、サトルがダイゴにそう問うた。
 この島に居続けるのか、それとも、すぐに帰ろうとするのか。そのどちらにしても、ダイゴの目的を知っておいたほうが、自分たちが動きやすいのではないかと、サトルは思っていた。
 最初は、ダイゴをそこまで信用していなかった。本土の子供が、島の人間をからかうために訪れただけ、そう思っていたが、アキラや島民から聞くダイゴの評判や、自身に挨拶する彼の態度に、段々とその警戒心が解けた、なにか出来ることがあれば、それを手伝ってもいいと思ったのだ。
「それは俺も気になるなあ」と、アキラが同調する。
「ダイゴが悪ガキじゃないってことはもう十分にわかったし、お前だって、俺達が極悪な人間じゃないってことは、わかっただろう?」
 ダイゴはそれに頷いた。彼等が悪い人間だとは微塵も思わない。そして、彼等にならば、思わず笑い飛ばされるような自分の目的を言っても、良いのかもしれない。そして、すこしフォークで空になった小皿を撫でながら、言う。
「修行の旅なんです」
 広い言葉だった。もっと情報を知りたいと、アキラが問う。
「修行って、なんの?」
 ダイゴは一つ大きく息を吸ってから言う。
「僕の夢は、ポケモンリーグチャンピオンになるためのです」
 ポケモンリーグチャンピオン。
 トレーナーの頂点であり、あこがれでもある。誰よりも、誰よりもポケモンバトルの強いトレーナー。
 サトルは、その言葉に少しのけぞりながらアキラの方を見た。アキラは、少しだけ目を泳がせてから、笑顔を作る。
「そりゃ良いじゃないか。男なら、そのくらい大きな夢を、持たないとな」
 ダイゴはそれに笑顔を返した。途方もないその夢を、全面的に肯定されるのは、久しぶりの経験だった。
 懐かしいなあ、と、アキラが誰にでもなくつぶやいた。
「俺も、それを目指していたんだ。ホウエンのジムを回ったこともある。俺はバッジを六つしか集められなかったけど、今でもそれを目指すやつがいるなんて、嬉しいなあ。俺はそれのために島を出て、お前はそれのためにこの島に来た、素晴らしいめぐり合わせだな」
 サトルはアキラの様子にホッとした。それが彼のかつての夢であることを知っていたし、それを達成することが出来なかったことも知っていた。だが、今の彼はもう、それを気にしては居ないようだった。
「よし!」と、アキラがダイゴに言う。
「明日からは仕事を手伝わなくてもいいぞ、山に行ってブーピッグと戦うでも良いし、海で体を鍛えるでも良い。やりすぎなければ、グラエナたちとじゃれあったって良い。とにかく好きなだけ修行をしていけばいいさ」
 その提案は、ダイゴにとって素晴らしいものだった。だが、彼は首を振ってそれを断る。
「仕事は、これからも手伝います。僕、あの仕事が楽しくてたまらないんです」
 その言葉に、アキラはニンマリと笑って、ダイゴの頭をなでた。
 そして彼は麦茶の入ったグラスを不意に掲げ「夢に乾杯!」と、それを一気に飲みほした。







「今日は埋めなくてもいいぞ」
 少し、風の強い日だった。
 いつものようにきのみを回収し、空いていたふかふかの土に一つオボンを埋めようとしていたダイゴを、アキラが慌てて制した。子供の学習能力というものは恐ろしいもので、もう少しそれを止める声が遅れていれば、ダイゴはキビキビとスコップを動かして、それを埋めていただろう。
「どうしてですか」と、ダイゴは首をひねる。それは、今までになかったことだった。
「雲の流れ早いだろう」と、アキラは空を指さしていった。確かに、ちぎれた綿菓子のように空に散らばった雲たちが、せわしなく、空を漂っている。
「明日は嵐だ。とんでもねー風が吹くし、とんでもねー雨が降る。ヨバシは基本的には晴ればっかだけど、夏に数回、とんでもねー嵐が来る、だから明日はみーんな休み!」
 ははは、と笑いながら、アキラはオボンを地面に転がした。心なしか、麓でそれを待つポチエナの数も、いつもより少ないような気がする。
「嵐が」と、ダイゴは一つつぶやいて、空を流れる雲を見た。そして、彼はウンウンと頷いて、ベルトに装着したモンスターボールたちを撫でた。



 その日の夕食は、再びサトルの家にみんなが集合しての団欒だった。
 手軽で冷たい麺料理で喉を潤したダイゴは、サトルが準備していた巨大なケーキを前に、心ときめかせていた。日に日に、サトルが振る舞ってくれる菓子のグレードが上がっている。その味も素晴らしいのだから、心はずませる以外のことがない。
「相変わらずうめえなしかし」
 妙に上品な振る舞いでケーキを口にしたアキラは、心の底から感心したようにそれを褒め称えた。しかしサトルは「少し甘すぎたかもしれない」と、自分に厳しく採点しながら、少しずつそれを味わっている。
 ダイゴは、賞賛も忘れてそれに没頭していた。
 その時、唸るような風が吹き、島を鳴かせた。
「おおー、きよるなあ」とアキラが少し笑って呟いた。
 ダイゴは、その風で我に返った。この島に来た目的、それが近づいていることを思い出した。
「あの」と、ダイゴはフォークを皿に置いて、一つ深呼吸をしてからそう切り出した。
「聞きたいことが、あるんです」
 アキラとサトルは、ダイゴの言葉に少し緊張感を持った。
 ん、と、彼等が集中したのを確認してから続ける。
「この島に、本当に神様はいるのですか」
 突然現れた神様という単語は、この場にはあまりにもふさわしくないように思えた。一人辺鄙な島に来た少年と、その島に生きる若者二人が、果たして神を語るだろうか。
 しかし、若者二人は、その単語にそれぞれ反応を示した。サトルはそれに驚きのような、戸惑いのような表情を見せ、アキラは「ああ、なるほど」と、何やらそれに納得したようだった。
「つまりお前さんは、戦いに来たわけだ、嵐の日に現れる、神と」
 それを知る人間は少ないが、ダイゴの言うとおり、ヨバシ島には神にまつわる伝説があった。
 曰く、ヨバシ島の近海にはサメハダーやギャラドスを寄せ付けぬほどの強力なポケモンが存在し、そのおかげで、ヨバシ島近海は豊かな漁場であり続け、島民はそれをヨバシの神と呼び、嵐の日にはその神が、島民の前に姿を現すと。
 よくある伝承だ、ロマンだけが先行し、それが虚構だって誰もが知っているから、表立って否定されることもない、そんなタイプの。
「神は、いたよ」
 アキラが、宙をフォークでかき回しながら答える。
「ヨワシってポケモンで、個々では弱いが強力な魚群を作るポケモンが、ヨバシの近海を縄張りにしていた。そして、それが嵐の日に島の近くにまで来るのも、かつてこの島の力自慢たちが、勇気を見せつけるためにそれと戦おうとしていたのも、確かだよ」
 だが、と、アキラは続ける。
「それは昔の話だ。俺たちが子供の頃までは、実際に存在したと聞いているが、今じゃ影も形もありゃしない。縄張りを変えたか、魚群が散ったかのどっちかだろうな。だから明日海に行っても、何もありゃしない」
 なあ、そうだろう。と、アキラがサトルに話を振り。サトルもまた少し沈黙をもってアキラの目を見てから「ああ、そうだな」と答えた。
「そうですか」と、ダイゴは俯いた。元々それに絶対の期待をしていたわけではなかったが、あてが外れたショックは、多少はあるだろう。
「悪いことをしたなあ、もう少し早く聞いてくれりゃあ、無駄な時間を使わせずに済んだのに」
 アキラが笑いの中に少し申し訳無さを含んだ口調でダイゴに言った。島民を前に、この島の神様と戦いに来ましたなんて、そう簡単に言えることじゃない、むしろ、チャンピオンを目指している彼の目的が、もしかすればそれのことだったのかもしれないと、察するべきだったのかもしれないと思っていた。
「いえ」と、顔を上げたダイゴは強めの口調でそれを否定した。
「無駄な時間じゃありませんでした。とても、楽しかったです」
 それが少年の本心かどうかはわからなかったが、アキラはそれに笑って返す。
「まあ、明日嵐がすぎるまでは、家でじっとしていることだな、その後、サトルの船に乗せてもらって帰ればいい。まあ、良い社会科見学だったと思って帰ってくれや。何なら、もう一年くらいいてもいいぞ、ちょうど畑を広げたかったんだ」
 ハハハ、と笑うアキラに、ダイゴもつられて笑った。
 ガタガタと揺れ軋む窓が、嵐を予感させていた。



 甘いものを食べたからだろうか、それとも、緊張が解けたからだろうか。
 都会の居酒屋を芸能人たちがはしごするつまらない番組を子守唄に、ダイゴは机に突っ伏して寝息を立てていた。
「お前、流石に明日は船出さないだろ」
 口寂しくなるたびにつまんでいたケーキがついに無くなった頃に、アキラはサトルにそう問い、サトルは「ああ」とそれに返す。お互いに独り者、嵐の日に仕事など、命を落としかねない行動はしたくない。
「今日はこっちに泊めてやってくれ、今から起こすのも可哀想だ」
 そうだな、と、サトルは立ち上がって机に突っ伏すダイゴを起こさないようにゆっくりと抱きかかえた。
「布団は、俺が敷いてやるよ」
 席を立ったアキラは、寝室へと先に足を運んだ、懐かしい、お互い子供の頃は、ここで二人よく寝たものだ。
 子供の頃に比べれば、随分と小さいんだなと思った押し入れを開き、布団を抱える。
「なあ」と、それを敷きながら、アキラは言う。
「明日、絶対にダイゴを外に出すなよ」
「ああ」と、サトルはダイゴを敷かれた布団の上にそっと横たわらせながら返した。


 ああ、と、大きなあくびをしながら、アキラは居間に戻った。そろそろいい時間だ。これ以上嵐が強くなる前に、さっさと帰るべきだろう。
 ふと、彼は床の上になにか光るものが落ちていることに気がついた。腰をかがめてそれを手にとって見れば、それは、トレーナーカード、トレーナーの身分証明書のようなものだ。
「へえ、懐かしいなあ」
 自身の過去を思い出しながら、彼はそれをまじまじと観察する。状況から言って、それはダイゴのもので間違いないだろう。
 裏面を眺めながら、彼はダイゴのジム挑戦履歴を確認した。八つの空欄のうち、七つにチェックが入っており、八つ目のジムを残すだけとなっている。
「なるほど、それでこの島にねえ」
 トレーナーとしてのホウエンを旅した経験のあるアキラは、ホウエン地方の八つ目、最難関のジムリーダーが、みずタイプのエキスパートであることを知っていた。それならば、みずタイプであるヨワシの魚群との戦いを望んでいた理由もわかる。
 その後アキラは、何の気なしに手首を返して、トレーナーカードの表を目に入れた。
 まず目に入ったのは『ダイゴ』と書かれた彼の名前であった。まあ、そりゃそうだろうな、と彼は思いながら、視線を滑らせ、彼の名字も確認する。
 そこに書かれているダイゴの名字を確認した時、アキラの思考が一瞬止まった。
 まさか、と思った。そんな事はあって欲しくなかった、彼は、それを確認してしまったことを激しく後悔し始めていた。
 ふつふつと、得も言えぬ感情が、自身の中に湧き上がっていることを、彼は理解し、頭を振って、それを否定、否定しようとした。
 なるべくその感情を表に出さないようにしながら、彼はトレーナーカードを机の上に放り投げた。表面の加工がそうさせるのか、カードはニス塗りの机の上を滑って、その中央に鎮座した。
 まずい感情だ、と、アキラはなんとかそれを自制しようとした。過去のものにしようとしてきたことが、なかったことにしようとしてきたことが、新たな人生で上塗りしようとしていたそれが、堰を切ったように、溢れ出してきている。
「俺、帰るわ」
 サトルの姿を確認したわけではない、アキラは空間に向かってそう言うと、足早に玄関に手をかける。
 扉を開けた瞬間、夏だと言うのに冷たい風が、彼の頬をなでた。どうせなら、頭も冷やしてくれないだろうかと思いながら、彼は後ろ手に玄関の扉を締めた。





「よう」
 サトル家の玄関を開けたアキラは、傘をたたみながらそう挨拶する。天気は雨だと言うのに、それまでと同じく髪をセットし、サングラスをかけている。
「おはようございます」
 サトルと並び合ってテレビ放映されていたアマチュアスポーツの試合を見ていたダイゴは元気よくそう返したが、アキラはそれに「おう」と返すだけで、ドカリと彼らのそばに腰を下ろした。
「だいぶ強いぜ」
 それが、吹き荒れる嵐のことであることは容易に理解できる。サトルは「そうか」とそれに答え「ばあさんたちが心配だな」と、知り合いの心配をしていた。
「大丈夫だろ」と、アキラが答える。
「こんな嵐じゃ、何もする気が起きねえよ」
 そして、彼は持っていたビニール袋からいくつかのきのみを取り出して、それを机においた。
「悪いけど、これでなにか作ってくれないか、新しいきのみで、菓子に乗ったときの味を見たいんだ」
 その提案に、ダイゴは目を輝かせ、サトルは少し困惑の表情を浮かべた。
「今からだと、簡単なものしかできないぞ。昨日のうちから言ってくれればそれなりのものは用意できたが」
 それは、サトルの親友であるアキラも知っていることだった、だから、アキラはこれまでこんなに急な願いをすることはなかったのだ。
「急に思い立ったもんでな、簡単なものでいいよ」
 ううん、と唸りながら、サトルは立ち上がってそれらのきのみを手にした。
「本当に簡単なものしかできないぞ」
「ああ、悪いな」
 サトルが台所に消えるのを、ダイゴとアキラは眺めていた。





「行けよ」
 サトルが消えて五分ほどしてから、アキラは、不意にダイゴにそう言った。
「え」と、ダイゴはテレビ画面から目を切ってアキラを見た、ちょうど画面の向こうでは、都会のチームが、田舎のチームに大差をつけてリードしているところだった。
「お前は神と戦うためにここに来たんだろう。抜け出すなら、今がチャンスだ」
 ダイゴは、アキラの言っている言葉の意味がわからなかった。
「もうこの島に、神はいないんでしょう?」
 そう、それはアキラとサトルが肯定したことだった。
「ああ、そうだな。確かに、ヨバシの神と言われたヨワシの群れは、もういない」
 だが、とアキラが続ける。
「いなくなったのは、そのヨワシの群れが、あるポケモンとの戦いに敗れたからだ。質の悪いポケモンだ、やたら強く、デカイくせに、足を持っているから陸に上がる。今頃、船着き場のそばを、我が物顔で闊歩してるだろうな。お前が思っていたポケモンじゃないが、目的からして、そこまで変わるわけじゃない」
 ダイゴは、ソファーから腰を上げ、自らの腰にボールがあることを手触りで確認しながら、アキラに問う。
「どうして、今になってそれを教えてくれるんですか」
 それを彼等が自分に教えてくれなかった理由は、幼いながらもよく理解できる。まだ子供である自分の実力を疑い、危険から遠ざけるための、優しい隠し事だ。
 ならば、それを教えるということは。一体どういうことなのか、ダイゴにはわからない。
 アキラは、立ち上がったダイゴを見上げながら答える。
「一晩考えたんだ、夢についてな。チャンピオンになりたい、だから強いポケモンと戦いたい。悪くない考えだと思い直した。それだけだ」
 その答えの真意を、ダイゴは読み取ることができなかった。だが、アキラの言うとおり、戦うポケモンが違うだけで、それがダイゴの当初の目的と大きく離れるものではない。
 だから彼は、その場から一歩足を踏み出して玄関に向かった。夢を叶えるための試練に向かうために。
「おい」と、アキラがダイゴの背に声を掛ける。
「無理だと思ったら、すぐに帰ってこいよ。それは、恥ずかしいことじゃねえぜ」
 それは、激励でもなければ、エールでも無く、ダイゴが試練を達成するためのアドバイスでもなかった。
 さらにアキラは続ける。
「どうなるにしろ、これが終わったら本土に戻りな。ムクゲさんも、心配してるだろう」
 不意に出てきた父の名に、ダイゴは振り返ってアキラを見た。
 自身がツワブキムクゲの息子であること、それをダイゴがアキラとサトルに告げた記憶はない、告げるはずがない。それが嫌で、彼はホウエンを飛び出したのだから。
 そして彼は、アキラの部屋にあった情報機器の数々と、今朝不自然に机の上に置かれていたトレーナーカードを思い出した。
 自身を見るアキラの視線は、ダイゴがホウエンで感じてきたものとほとんど同じのものだった。





 家を叩く雨音が、窓を震わせ壁をきしませる風の音がより強くなっていることを感じながら、サトルは、デザートの乗った三つの皿を手に居間に戻った。
 居間では、アキラが机に肘を付きながら、とてもつまらなさそうにテレビを眺めていた。
 画面の向こうでは、まだ都会のチームが田舎のチームをいたぶっていた。いたぶると言っても、彼等にその気は微塵もないのだろうが。
「ダイゴはどうした」
 デザートを机に置きながら、サトルはアキラに問うた。そこにいるはずだったダイゴがいないのだ、それは当然の質問だろう。
 アキラは、テレビに視線を向けたままそれに答える。
「海に行ったよ」
 一瞬、サトルはその言葉を理解することができなかった。アキラがそれを許すはずがないと思っていたから、だからこそ、自分たちはあの時、瞬時に口裏を合わせて、あの化物の存在を、ダイゴから隠したのだから。
 しかし、数秒の間をおいて、彼は今、自分が最も恐れていることが起きていることに気がついた。
「どうして」と、サトルがアキラに強く問う。
「どうしてそれを止めなかった」
 アキラは何の悪びれもなく答える。
「止めるも何も、俺がダイゴにあのポケモンの存在を教えたんだ。今日、そのポケモンが来るであろうことも教えたし、行けと言った」
 いても立ってもいられなくなった。そのポケモンの恐ろしさはよく知っていた。
 少しポケモンを上手く扱えるからといって、ダイゴが敵う相手ではない。
 玄関に向かおうとするサトルを「待てよ」と、アキラが止める。
「行くことはねえ、すぐに戻ってくるさ」
 勝負の見えたスポーツの画面を落とし、一つあくびをしてから続ける。
「坊っちゃんのごっこ遊びに真剣に付き合う必要はねえ」
 ごっこ遊び、と、サトルはアキラの言葉を復唱し「何を言っている」と、訝しむ。アキラは、それがごっこ遊びでは出来ないことを知っている側の人間のはずだった。
 それの答え合わせをするように、彼は続ける。
「ツワブキダイゴ、それが、あいつのフルネームだ。ツワブキ、どこかで聞いたことのある名前だと思って少し調べたらすぐにわかった。あいつの親父はホウエン地方で最もデカイ企業であるデボンコーポレーションの社長、そして、あいつはその御曹司だ」
 サトルは、アキラの説明に息を呑んだ。あのダイゴが、そのような立場の人間だったことに驚いていた。だが、わからないわけでもない、ダイゴは、年齢のわりにしっかりしているところがあった。
 その驚きはすでに経験していたのだろう、アキラは更に続ける。
「わかるだろう、あいつにとって夢ってのは、約束された現実を走るための休憩所だ、息抜きだ、遊びだ」
 興奮からか、アキラは立ち上がっていた。
 こいつは誰だ、と、サトルは目の前の男に対して思った。おそらく、それはアキラで間違いないのだろう。だが、それは明らかに支離滅裂で、自分の知っているアキラではなかった。
 屋根を叩く雨音がより強くなる、嵐が、山を迎えようとしている。
「だから」と、雨音よりも強く、アキラは叫ぶ。
「あいつに夢の現実を教えてやったんだ。立ちはだかる敵は、巨大で、怖くて、理不尽だ。世の中舐めてるガキにそれを教えて何が悪い」
 アキラの激昂を、サトルはなんとか理解しようとしていた。唯一無二の親友の激しい感情のうねりを、彼はなんとか理解しようとしていた。
 しかし、どうしてもそれができない、今の彼を理解しようとすればするほど、戸惑いが生まれるばかりだ。どうして、どうして生まれによって態度を変える必要がある、わからない、サトルにはそれがわからない。
 だから彼は、彼の思っていることそのままを、アキラにぶつけることにした。
「ダイゴは逃げない。あいつは戦う」
 アキラは興奮を維持したままそれに反発する。
「だから、逃げるに決まっているだろう。あんなもん見て、戦うわけがない、逃げるさ、逃げるに決まっている」
「どうしてそう思うんだ!」
 アキラより強く、サトルは叫んだ。アキラはそれに戸惑い、じっと彼の身を見て硬直する。サトルがこれほどまでに言葉を強めることなんて、経験したことがなかった。
「どうしてって」と一つつぶやき。アキラはサトルから一歩、一歩後ずさった。後ずさるほどに彼の頭の中は冷静になり、それを考える。
 そして、彼が壁に背をつけた頃に、その答えが出る。
 アキラは言葉を震わせながら言った。
「俺が、そうだったからだ」
 彼はサトルから目をそらした、冷静になった彼の頭は、自身が思わず嫌悪をするほどの発想をしていることに気づいた。
「チャンピオンになるつって、勇ましく島を飛び出した。そして、尻尾巻いて逃げ帰ってきた」
 気づけば、頬を涙が伝っていた。更に彼はしゃくりあげて続ける。
「逃げたんだよ、俺は逃げたんだ。逃げたんだよ」
 サトルは、声を上げて泣くアキラの姿に言葉を失っていた。
 彼がそのような感情を持っていることを、今日この日まで知ることがなかった。彼がそれに苛まれていることを今日この日まで知ることがなかった。
 どうしてそれを教えてくれなかった。どうして親友にそれを伝えてくれなかった、相談してくれなかった、痛みを分けてくれなかった。
 ぐるぐると、様々な事が頭の中を回っていた。そして、その中から真っ先に飛び出してきたのは、サトルがアキラに対して持っている、アキラの自己評価とは全く逆の感情だ。
「違う、お前は逃げてなんかいない」
 サトルは、アキラの心の苦しみを、否定する。
「お前は夢のために島を出た、お前は逃げていない、お前は戦った。お前は俺たちの誇りだ」
 ふと、自分が放ったその言葉が、サトルの心の奥底に眠っていた感覚を呼び起こす。
 それは、アキラと同じく、自分自身を苦しめる事実だった。
「お前は」と、もう一つ言って、心の奥底から湧き上がる後悔を押し込めながら続ける。
「お前は、俺とは違うんだ」
 不意に提示された比較にアキラは戸惑う。
「ダイゴも、夢のために本土からこの島に来た。お前と同じように、あいつはあのポケモンと戦うだろう。そして、おそらく、それはかなわない。だから、俺はあいつを助けに行く」
 アキラは、サトルの言葉を否定しなかった。反射的にそれを否定するには、今彼の中を駆け巡る感情は、あまりにも強大で、複雑すぎる。
 サトルの中にも、それはあった。だが、彼はアキラよりも優れた精神力でそれを制しながら、アキラに背を向ける。
「この島を、夢の終わる場所にしたくない」
 家の中に、強い雨脚の音がより鮮明に響いた。そして、扉の閉まる音。
 全身に強い雨を受けながら、サトルは船着き場に向かった。






「『つばさでうつ』!」
 雨を切り裂きながら巨大な敵の背後に回り込んだエアームドは、鉄の翼でそのポケモンを攻撃した。彼は自身の翼に痛みを感じるほどに、それを叩きつける。
 タイプの相性から言えば、その攻撃は、むしタイプであるそのポケモンに有効なはずだった。
 だが、その攻撃で六本足はびくともしない。だが、自分を攻撃しているうっとうしいポケモンが今どこにいるのかという情報は、しっかりと読み取っている。
 巨大な水疱の奥で光る目が、なんとか自分から距離を取ろうとするエアームドに、前足を向ける。
 そこから放たれた糸が、空中のエアームドを捕らえた。彼は翼や爪、嘴でそれを引き剥がそうともがくが、そのポケモンの『ねばねばネット』は彼がもがけばもがくほど彼を一つの塊に変貌させ、やがて彼は羽ばたけなくなり地面に落ちる。
 ダイゴはエアームドに防御の指示を出そうとした。だが、固められたエアームドは何もできない。ダイゴがそれに気づいた頃には、すでにそのポケモンが攻撃態勢に入っている。
 巨大な水疱から、地面に貯まる水をかき分けるように『バブルこうせん』が放たれた。それは濡れた地面に泡の道を作りながら、エアームドを飲み込む。
 エアームドの状態を確認するよりも先に、ダイゴは彼をモンスターボールに戻した。
 敵は強大だった。すいほうポケモン、オニシズクモ。ホウエン地方には存在せず、ダイゴも図鑑でしかその存在を知らない。
 しかも、ダイゴが知っているよりも、そのオニシズクモは遥かに大きな体格を持ち合わせていた。見上げるほどに大きく、まるで重機と戦っているようだった。
 船着き場にいたオニシズクモは、ダイゴを見るなり襲いかかってきた。まるで、自分の前に誰かが立っていることが許せないようだった。ダイゴは手持ちのポケモンたちと共に戦ったが、オニシズクモの巨大な手足は何の苦もなく彼等を振り払い、気づけば海が遠くなり、民家にも被害が及ぶ可能性すらある。
 オニシズクモの頭部を覆う水疱に、雨粒の波紋が広がっていた。悪しき化学物質など混入する筈のない自然の恵みは、天の許す限り、オニシズクモに降り注ぐだろう。
 残り一体だけになった手持ちを考えながら、ダイゴは、それでも自分が勝利するための戦略を考えていた。当然だ、勝つためにこの島に来たのだから。
 ダイゴは最後の一体、メタングを繰り出し「『こうそくいどう』!」と、叫んだ。
 超能力によって素早さを引き上げたメタングは、オニシズクモの周りを軽快に飛び回る。
 ダイゴは、初めて対峙するオニシズクモの能力を、ある程度見抜いていた。
 フィジカルもパワーも申し分ない。だが、巨大がゆえか足回りが弱点だと彼は考えていた。
「『サイコキネシス』」
 オニシズクモから距離をとったメタングが、強力な念波を送って攻撃する。オニシズクモはそれに少しだけ頭をのけぞらせた。
 この攻撃では、オニシズクモに大きなダメージを与えることはできないだろう。だが、追いつかれず、アウトボクシングに徹する事ができる自信があった、トレーナーとしてこれまで全ての戦いが、力で勝る相手だったわけではない、それでも彼は勝ち続けてきた。
 オニシズクモは攻撃された方向に振り向こうと足を動かす、それを見て、メタングは再び彼の背後をとるために移動を開始する。
 いける、と、ダイゴは思った。これまでの犠牲は、オニシズクモのこの動きを引き出すためのものだったとも考えることが出来る。
 ダイゴが勝利を確信し『サイコキネシス』の指示を出したその時、オニシズクモがそれまでとは比べ物にならないスピードで体を捻って向きを変えた。ちょうど、攻撃を放とうとしているメタングと向き合うように。
 それがまずいことだとには、ダイゴもメタングも気づいていた。しかし、攻撃はもう止まらない。
『サイコキネシス』が放たれ、それを正面から受けたオニシズクモは少しのけぞる。
 しかし、それはのけぞるだけだった。オニシズクモはすぐさま六本の足で地面を掴み、メタングに照準を合わせた。
 ダイゴの優れた戦術感と想像力は、最悪の状況を、すでに確信しつつあった。しかし、何がまずかったのか、何故その状況になったのか、まだたどり着けていない。
 オニシズクモの水疱から『バブルこうせん』が発射された。それは攻撃の反動で動きの遅れたメタングを的確に捉えた。
 タイプの相性的に、その攻撃がとてつもなく効くというわけではないだろう。だが、雨という状況、そして、水疱から繰り出されたその攻撃は、宙に浮いて移動するメタングを、泥と、泡の中に叩き落とすには十分だった。
 これが、神を倒したポケモンなのかと、ダイゴは絶望していた。彼は目の前のポケモンの強さに、人間の理知を越えたものを想像するしか無かった。
 しかし、それは彼が、野生のポケモンが持つ技術や戦略感を見誤っていたことにまだ気づいていない故の飛躍だった。
 彼は、野生の中で生き残るということの価値をまだ知らなかった。彼の思う、鈍重で鈍感で、戦いを知らないと言うイメージの野生は、いくらかは存在しているだろうが、それらは、自然に淘汰される。オニシズクモの持つ巨大な体から、ダイゴはそれに気づけなかった。
 泥と水たまりの中に、ダイゴは尻餅をついた。オニシズクモの強さに、彼は一瞬、足の力が抜けてしまった。
 もちろんオニシズクモは、ダイゴを見逃さない。情の無さは、彼がこの地を支配する事のできる力を得た要因の一つだ。
 一歩一歩、オニシズクモはゆっくりとダイゴとの距離を詰める、戦う気を失った獲物相手に、焦りを見せる必要はなかった。
 ダイゴは両手で地面をかきながら、なんとかオニシズクモから距離を取ろうとした。それこそが、彼が最後に見せることのできる抵抗だった。
 だが、それだけでこの窮地を切り抜けられるわけではない。オニシズクモの大きな一歩は確実にダイゴとの距離を詰める。
 ダイゴ少年はその時、誕生以来となる死を意識していた。その瞬間を、目に焼き付けたくなかったから、彼は神に祈りながら目をつむる。
 オニシズクモがダイゴに向かて頭を振り上げた。
「『ころがる』!」
 濡れた地面を跳ねる音と、オニシズクモの小さな悲鳴が、暗闇の中にいるダイゴに届いた。それに目を開くと、まるまったトドクラーが、オニシズクモの胴体に攻撃を与えていた。
 そして、太い腕にぐいと状態を起き上がらされる。
「逃げるぞ!」
 その腕は、サトルのものだった。
 状況の整理をするよりも先に、ダイゴは両足に力を入れようとした。だが、やはりまだ下半身に力が入らず、バランスを崩したサトルごと、彼等は泥にまみれた。
 体勢を立て直したオニシズクモは、無力そうな人間二人を一旦無視し、再び地面を『ころがる』トドクラーに向き合い、それを待ち構える。
 そしてオニシズクモは、その巨大な水疱を振りかざして、トドグラーを迎え撃った。丸くなったトドグラーが『アクアブレイク』によって、ピンポン玉のように地面をはねた。
 それを見て、サトルは全身に力を込めてダイゴと共にそこから逃げようとした。だが、ぬかるむ地面は、子供一人抱えたサトルの足をなかなか受け入れない。
 オニシズクモの視線が二人を捉え、サトルは、せめてダイゴだけは守ろうと彼に覆いかぶさる。
 その時、地面を蹴るいくつかの足音が、ダイゴには聞こえた。
「『かみくだく』!」
 サクリ、もしくはパキリと、硬い殻を砕いた音が、雨音の向こうから聞こえた。
「お前らは馬鹿かよ!」
 サトルとダイゴに駆け寄ったアキラが、彼等を睨みつけながら叫んでいた。
「こんなバケモンに勝てるわけ無いだろうが!」
 その後ろでは、オニシズクモの前足に噛み付いたグラエナが、それを振り払おうと暴れるオニシズクモ相手に振り回されながらも、なんとかそれに食らいついていた。
「もう大丈夫だ」
 ダイゴを抱きかかえたサトルは、ダイゴを安心させるためにそうつぶやいた。
「あいつが来たなら、もう大丈夫だ」
 励ましているだけだ、なんとか生きながらえたことに安堵しながらも、心の何処かで、ダイゴはそう思っていた。
 アキラとともに戦うグラエナと、オニシズクモとでは、タイプの相性が絶望的だった。
 自身の足ごとグラエナを地面に叩きつけようとするオニシズクモに気づき、アキラはグラエナに指示を出した。グラエナはキバをオニシズクモの足から離し、アキラのそばに水音を立てながら着地する。
 アキラは顔半分を覆うサングラスを外し、地面に放り投げた。わざわざ海外から取り寄せたブランド品だったが、雨粒が付着して視界を歪めるそれは邪魔でしか無かった。
 前衛的で都会的だった整髪剤まみれの髪型は、叩きつける雨に負け、不格好に垂れ下がっていた。彼は両手でそれをかきあげ、視界をより広くする。
「あぶない!」と、サトルの肩越しに戦況を確認していたダイゴが叫んだ。足の痛みに慣れたオニシズクモが、グラエナとアキラに向かって攻撃の体勢をとっていた。あれは『バブルこうせん』の体勢だ。
 アキラはそれとは別の方向に視線を送りながら「『バークアウト』!」と叫ぶ。
 無理だ、と、ダイゴは思った。確かに『バークアウト』は相手の集中力を見出して特殊攻撃力を下げる技。選択として問題はないかもしれないが、その程度で、オニシズクモの暴力的なまでの強さがブレるとは思わない。
 だが、その懸念は杞憂に終わる。
 その指示で動いたのは、アキラの横にいるグラエナではなかった。
 ダイゴは、オニシズクモの周りに、いくつもの黒溜まりができていることに気がついた。そして、雨脚の向こうに目を凝らせば、うごめくそれらの正体がわかる。
 それらはポチエナとグラエナの群れだった、何十、いや、百にも到達するかもしれないそれらの群れは、大小様々な口を開いて、彼等精一杯の『バークアウト』で、オニシズクモに攻撃している。
 それぞれは小さなポケモンだ、その攻撃力は乏しくとも、その数は、オニシズクモを戸惑わせるのに十分だった。発射された『バブルこうせん』は、グラエナをかすめるだけに終わった。
 ダイゴは、その光景に驚いていた。グラエナがポチエナ達のボス格のポケモンであることは知っている。だが、一人のトレーナーが、実質的に数十、もしくは百に近いポケモンを統率する技術を、彼は知らなかった。当然だ、その技術を誇るものは、少なくともホウエンにはいなかっただろうから。
 アキラの技術は、ルールに縛られた近代バトルにおいてはほとんど生かされることがないものだった。どれだけポケモンを従えようと、都会のバトルは、一対一が基本だから。
「『にらみつける』!」
 タイミングを見計らい、アキラが指示を出した。ポチエナたちはそれぞれが遠吠えでそれに返事を返すと、足を踏ん張り、オニシズクモを威嚇しようとする。
 だが、オニシズクモもまた、この不利な状況を察知し、動く。
 オニシズクモの水疱がぬかるんだ地面を叩く。すると、その衝撃を中心に泥水が跳ね上がり、オニシズクモを囲うポチエナ達に襲いかかる。
 ダイゴは、オニシズクモの行動の真意を理解し、そして、恐れた。泥水をかけるだけ、それは、大した攻撃ではない、ポチエナ達も、それではやられないだろう。目的は、攻撃ではない。
 その技は、おそらく『ワイドガード』だろう。範囲の広い攻撃技から身を守る防御手段。
 この状況において、その選択は限りなく正解に近く思えた。ポチエナの軍団さえ分断してしまえば、アキラとグラエナに集中できる。見くびっていた野生の、なんと研ぎ澄まされたことか。
 ダイゴが見たアキラの背中は、少しこの状況をまずく思っているように見えた。そして、それは正しいだろう。この一対一の状況は、作られたくなかったはずだ。
 ダイゴは地面に突っ伏すメタングを見た。微かに、腕が動いているように見える。まだ完全な戦闘不能ではない、だが、時間が足りない。
 同じようなことを思ったのだろう、サトルもトドグラーを見た。だが、そちらは地面に倒れたまま動かない。完全に気絶している。仕方のないことだ、そもそも彼は、戦うためのポケモンではないのだから。
 オニシズクモは一気にグラエナとの距離を詰めた。島を支配するそのポケモンの戦術感は、目の前の一人と一匹が、ポチエナ達のボスであることを理解していた。
 オニシズクモは水疱を振りかざした。遠慮はしない、一撃で仕留める、自身の持つ最大の攻撃手段を、目の前のグラエナにぶつける。
 防御の姿勢をとっていたグラエナを、振り下ろされた水疱が襲った。『アクアブレイク』、考えたくもない威力であろうそれは、地面を揺らし、泥水を跳ね上げ、人間たちにそれをふりかけた。
 ダイゴは最悪を想定した。
 だが、サトルはまだアキラを信じていた。もちろん目の前の現実が見えぬわけではない。だが、彼はまだ、アキラを信じている。
 頭から泥をかぶったアキラは、険しい目つきのままオニシズクモを睨みつけていた。そして、オニシズクモが頭を振り上げ、その目があった瞬間に、右手を振り上げて叫ぶ。
「『かみくだく』!」
 次の瞬間、ぬかるみの中からグラエナが現れ、オニシズクモの足関節に噛み付いた。意識がアキラに向かっていたオニシズクモは、それを防御できない。
 ダイゴは、その瞬間その光景に驚きながらも、鍛え上げられた戦術感から、その展開を逆算し、すぐさま答えを出した。
 オニシズクモが攻撃したグラエナは『かげぶんしん』で作られたダミーだったのだ。おそらくオニシズクモがポチエナ達に気を取られているスキにそれを作り出していた。アキラはオニシズクモがグラエナを潰すために全力の攻撃を打ってくることを予測し、その布石を打っていた。
 結果、オニシズクモの『アクアブレイク』は地面に激突した。どれだけオニシズクモの攻撃力が優れていようと、この島全体を破壊することはできない。アキラは『イカサマ』を使って、この島全てで、オニシズクモを攻撃したのだ。
 そして、追い打ちに関節を『かみくだく』グラエナの黒く長い毛並みは、泥に紛れて身を隠すのに優れていた。
 甲高い、オニシズクモの悲鳴が聞こえた。頭部にダメージ、更に足の関節を砕かれ、彼はぬかるみに身を任せた。
「どうだ!」と、アキラは天に向かって声の続く限り叫んだ。口に雨が入ろうと、頬を伝った泥が入ろうと構わなかった。
「俺が、この島の王だ!」
 彼は勝利を確信していた。
 そこにいる人間は、誰もそれを否定しなかった。
 だが、一匹のポケモンが、未だにそれに抗おうとしている。
 気合のように再び甲高い声を上げながら、オニシズクモが再び水疱を振り上げていた。せめて、せめてその人間を道連れにしようと、残った足でアンバランスに踏み込みながら、攻撃の姿勢を取る。
 アキラはそれに気づくが、反応に遅れていた。一度勝ちを確信した緩みは、簡単に戻らない。
 振り下ろされる水疱をゆっくりと目にしながら、いつもこうなんだよな、と、アキラは思っていた。詰めの甘さは、都会でさんざん指摘されてきたというのに。
「『とっしん』!」
 ダイゴの声と共に、最後の力を振り絞ったメタングが、噛み砕かれたオニシズクモの関節に向かって『とっしん』する。再び悲鳴を上げながら、今度こそオニシズクモは地面に伏す。同時に、力を使い切ったメタングも、水音を立てながら力尽きた。
 死を覚悟していたアキラは、その光景に、気の抜けた様なため息を付いた。少し遅れてアキラを守るように位置をとったグラエナも、同じ心境だろう。
 そして、まだ動く足を蠢かせながら、オニシズクモは身を反転させ、アキラ達に背を向けた。
 ずっ、ずっと地面を引きずりながら、彼は海に向かう。それは、彼の心が完全に折れ、敗走を選んだことを意味していた。
 息を荒くさせながら、アキラは振り返り、サトルとダイゴに歩み寄る。
「すまなかった」
 彼は右手をダイゴに差し出した。
「お前を、みくびっていた」
 ダイゴは両手でその手を掴み、なんとか立ち上がる。アレほど言うことを聞かなかった足腰に、嘘のように力が入った。
「まともに戦うわけがないと思っていたんだ、そんな覚悟も、勇気もないと、お前の生まれを偏見の目で見ていた」
 ダイゴは少し心の痛みを感じながら、アキラの謝罪を受け入れた。
 その偏見が、初めてのものだったわけではない、だが、それを面と向かって謝り、認めてくれた大人は、彼が初めてだった。
「すまない、そして、ありがとう。サトルもだ、目を覚ませてくれて、ありがとう」
 立ち上がったサトルに、アキラは言った。サトルは頷きながらそれを肯定し「今の髪型のほうが、似合ってる」と、言わずともいい冗談を小さく言った。
 気がつけば、雨脚が弱くなっているような気がした。



 嘘のような晴天が、島に訪れていた。雨がやめば晴れることは自然の摂理ではあるが、それでも、その晴天は、午前の嵐を、まるで夢であったのかと思わせるに十分だった。
「帰ったぞ」
 サトルの家の玄関を、アキラが無遠慮に開いた。あの後、ダイゴとサトルは体を温めるために家に戻り、アキラはポチエナやポケモンたちを、保存していたオボンとラムで回復させていた。
 すでに風呂を終えたサトルとダイゴは、机の上に残されていたデザートを堪能していた。ダイゴの一張羅は洗濯されて、今彼は明らかに大きなTシャツに身を包んでいたが、この天気だ、一張羅はすぐに乾くだろう。
「おかえりなさい!」と、ダイゴはアキラに笑顔を向けてそう言った。アキラは少し気まずそうにそれに笑顔を返し「風呂借りるぜ」と、靴を脱ぐ。
「ああ」と、サトルはそれに答え、濡れた靴下を脱ぐアキラと、それを見るダイゴとを交互にみやった。
 そして彼は、言った。
「お前らが、羨ましい」
 その言葉に、アキラとダイゴそれぞれがサトルを見る。
「羨ましいって、何が」
 アキラの問いに、彼は少し口を歪ませてから答える。
「憧れてた、お前に」
 サトルの視線の先には、アキラがあった。
 アキラはその言葉に少し戸惑いを見せる。もちろんそれに不快感があるわけではない、だが、憧れという単語に、違和感があった。幼少期を共に過ごした親友相手に、尊敬や敬愛の念はあれど、憧れなどという、ある意味平等性のない感情があることが、不思議だった。
「ポケモンバトルのチャンピオンになるなんて、途方もない夢だ。だが、お前はそれに挑戦するために、この島を出た。この島こそが世界の全てだった俺にとって、それは衝撃だった、だけど、それはとてもかっこいいことなんだとも思った。親父と二人、お前の勇気についてよく話し合った。俺は。お前のようになりたかった」
 ふふ、と、サトルは昔を思い浮かべながら笑った。そして「菓子職人に、なりたかったんだ」と続ける。
「俺も島を出るつもりだった。本土の菓子職人の元で修行を積むはずで、話も殆どついていた。だが」
 サトルはそこで一旦言葉を切った、アキラは、その先に続く言葉を、予測することが出来た、そして、一瞬、サトルから目をそらす。
「親父が死んだ」
 ダイゴは息をつまらせた。この広い家にサトル一人、それを察していなかったわけではないが、その経験のないダイゴには、その重さがわからない。
「怖くなった。夢を追うことも、この島を出ることも、怖くなった。だから俺は、それをやめた。逃げたんだよ、俺は」
 サトルが見せた笑みに、アキラは心を痛めた。どうして、どうして一言それを相談してくれなかった。自分が入れば、サトルは都会で生き抜けたはずだ、そして、サトルが居てくれたら、自分だって。
 だが、自分も、サトルに対して同じようなことをしていたことに気づき、沈黙する。
 ダイゴは、何も言えなかった。彼らの境遇に対して、自分が何を思うべきなのか、何を語るべきなのか、わからなかった。
「お前たちは、素晴らしいんだよ」
 瞬間的に、アキラはそれに対する自虐と皮肉の言葉が頭に浮かんだ。だが、親友であるサトルが、それを望んではいないことも理解し、それを飲み込む。
「俺が風呂から上がったら」
 袖から腕を抜きながら、アキラが言う。
「ダイゴを本土に返してやろう」
 サトルとダイゴは、それに頷いた。



 昼間を過ぎた魚市場は、やはり人の気配が殆どなかった。
 はしごを登り、波止に降り立ったダイゴは、車の排気ガスの匂いが、ツンと鼻をかすめるような気がした。彼は、空気が不味いということが、どういうことなのか、生まれて初めて、なんとなく理解した。
「これ、持ってけよ」
 ダイゴと共に波止に降り立ったアキラは、ビニール袋に詰められたオボンのみを、ダイゴに手渡す。
「何入ってるかわからねえ傷薬なんかよりも、ポケモンは喜ぶさ」
 ありがとうございます、と、ダイゴはそれを受け取った。そして、もう一度「ありがとうございました」と、アキラと、船の上にいるサトルに頭を下げて、続ける。
「本当に、お世話になりました。貴重な経験だったと、思います」
「なに、俺達も楽しかったよ、久しぶりに、俺達よりも若いやつと喋った」
 なあ、そうだろう。と、アキラはサトルに言い、サトルも「ああ、そうだな」とそれに返した。
「じゃあな」と、アキラはハシゴに足をかけようとした。
 だが、一つ動きを止めてから、再びダイゴに振り返る。
「賢い選択をしたと、思ってる」
 ダイゴは、それの言葉が何を意味することなのかわからず、少し表情を歪めることでそれを表現した。
 アキラはダイゴの肩をたたいて続ける。
「すげー奴らが集まって、それでもたった一人しかなれないのが、チャンピオンだろう。俺は、俺達がそれになるのは無理だと、早く見切りをつけ、島に帰った。それで、まあ、結構稼いでるし、生活も、悪くねえ」
 一拍置いて、続ける。
「だけどよ、やっぱ心の何処かに、引っかかってるものはあるんだ。本当に、無理だったのかなと思うときもある。それが苦しくないと言えば、まあ、嘘だわな」
 彼は、膝を折ってダイゴと同じ目線になった。サングラスの奥に見える瞳に、ダイゴは吸い込まれそうになる。
「お前がチャンピオンになれるかどうかはわからねえし、単純な確率から言えば、とても低いかもしれない。だが、悔いのないように、燃え尽きるまでやってみてもいいんじゃねえかなと、思うんだ。馬鹿になってもいいんじゃないかと、思うんだ。そうしなけりゃ、俺のように、何かをこじらせたまま、毎日を過ごすことになるかもしれねえ。それって、やだろ」


「名前を覚えとくよ」
 船に乗り込む直前に、アキラはダイゴにそう言い、サトルも、首を縦に振ってそれを肯定した。
 ダイゴは、彼らの船が豆粒のように小さくなるまで、ちぎれんばかりに右手を振った。船の上のアキラもまた、ずっと、ずっとダイゴに手を振っている。衰えの知らぬ少年の目は、アキラがずっと手を振っていることを、焼き付けているだろう。
 結果から言えば、その少年は、その島の神に勝つことは出来なかった。だが、それによって少年は、自分に足りぬものを知ったし、自分が、まだ強くなれることも知った。勝利することばかりが、成長ではないことを、その少年は、その後の人生を以て証明するだろう。





「なあ」
 魚市場から手を振り続ける少年が、完全に見えなくなった頃、アキラは、船を操縦しているサトルに声をかけた。
「どうした」
 すこし船の速度を落として、会話を続けやすくしながら、サトルが答える。
「お前、どのくらい溜め込んでんだ?」
 心に残る別れの後にあまりにも不釣り合いな、現実的で、不意な質問だった。
 沈黙してその続きを促せば、アキラが続ける。
「お互いに独り身で、大金のかかる趣味があるわけでもねえ。島の土地は安いし、店の一軒くらいは余裕で構えられるだろう」
 店、と言う言葉に、サトルは首をひねった。人よりもポチエナのほうが多い島に、一体今以上になんの店が必要なのか。
「菓子屋でも、やってみたらいいんじゃねえかなと、俺は思うんだ。新鮮なきのみはいくらでも作ることが出来るし、優秀な菓子職人だっているじゃねえか」
 アキラの無謀な計画に苦笑しながら「あの島の誰が、菓子なんて買うんだ」と、サトルが正論を言う
 しかしアキラは、挫けずに答える。
「本土の人間が俺たちの店目当てに島に来るような素晴らしい菓子を、お前が作ればいいのさ。そうだ、ダイゴがチャンピオンになったら、宣伝にあいつを使おう。俺たちはやつを食わせたんだぜ、そのくらいの恩は返してもらわねえとなあ」
 アキラの無茶苦茶な理屈にサトルは笑いながら、「何を無茶な」と、呟く。
 しかし、アキラの無茶苦茶な計画をのものを、否定はしなかった。
 嵐の後に、空に現れた架け橋をくぐろうとしながら、途方もない、新たな夢を載せた船は、ヨバシ島に向かってスピードを上げていた。

来来坊(風) ( 2020/03/14(土) 17:50 )