サイコ・バションは己を知っている
それは、まだアローラ地方にポケモンリーグができる気配すらない頃。
あるインディー(メジャーではないの意)プロレス団体が、アローラ地方メレメレ島にやってきた。
その団体は、地元のレスラーと短期間の契約を結んで興行を成立させると言う手法で、世界を回っていた。経営という点から見れば、随分と無茶苦茶な方針だったが、彼等にはそれを可能にするだけのスターを武器として持っていた。
プロレスの二日間興行の初日を翌日に控えた日の夜、メレメレ島の外れ、大学を卒業したての新米博士だったククイの研究所の扉を、ノックする音があった。
こんな夜遅くに誰だろうと、ククイが扉を開くと、その向こうには、とんでもない巨躯を持った男が、右手に血まみれのニャースを摘んで、立っていた。ククイも、一般人という括りで見れば、割りとガタイもよく、身長も低いわけではない、だが、そのククイが思わず見上げてしまうほどに、その男はデカかった。
「おい」と、その巨人は言って、ククイにニャースを差し出す。
「こいつの怪我を、治してくれ」
ククイは、頭を混乱させながら、とりあえずニャースを手に取った。同族と喧嘩をしたのだろう、引っかき傷と噛み傷だらけで、息も絶え絶えだった。
「ここよりも、ポケモンセンターに行くほうが確実ですよ」
その言葉に、大男はやはり巨大な手のひらを振った。
「おいおい、悪役レスラーである俺が、傷だらけのポケモンを抱えてポケモンセンターに行けるわけ無いだろう。あんたも同業者なら、その位のことは理解できるだろう。なあ、ロイヤルマスクさんよ」
ククイは、普段ひた隠しにしている自分の正体を見抜かれていることに、さして驚きはしなかった。その男ならば、自らの正体を知っていてもおかしくはなかったし、何より、相手も同じプロレスラーならば、正体がバレて焦ることもない。
扉の向こうの巨大な男、その正体を、ククイはよく知っていた。否、メレメレ島の住民たちも、その男が島のいたるところに貼られているポスターの中心に描かれていることを、よく知っているだろう。
男の名はバション。かつて世界中にファンの存在する大規模なプロレス団体で、チャンピオンになったこともある超有名レスラー、サイコ・バションその人だった。
ククイは、バションを研究所の中に招いた。バションは如何にも当然といった風にソファーにドカリと座り込んだ。ソファーは軋むような音を立て、本来二人が座れるはずのソファーは、どれだけ頑張っても彼以外の人間が座れることはない。
ニャースの手当を終えたククイは、彼に茶を振る舞った。
「どうなんだ、助かりそうか」
「少し特殊な毒を食らっていますから、二、三日ほどかかるかもしれませんが、基本的には大丈夫でしょう」
その頃になるとククイはだいぶ混乱から冷めていて、今目の前にいる人間が、かつてブラウン管越しに見た、あのサイコ・バションであることに、少し緊張感を持っていた。
サイコ・バションは、強い悪役レスラーだった。彼は善玉レスラーをひねり、投げ、叩きつけ、流血させて、徹底的に痛めつけて勝利する。ずる賢く、小賢しく、善玉レスラーの格を下げずに勝利を積み重ねていくタイプの、オーソドックスな悪役レスラーとは真逆の存在だった。サイコ・バションはデカく、強く、怖い。リング上を支配し、自身がこの地球上で最強のレスラーである事をその残虐性のみでアピールし、数多くの善玉レスラーをマットに沈めていた。
だからククイは、そのバションが、このような行為を取ることに少し驚いていた。
勿論、レスラーがリングの上の顔とリングを降りた顔を使い分けていることはククイはよく理解している。悪役レスラーすべてが、その人格もその通り悪役であることは少ない。むしろ正常とはなんたるかを知っている常識人こそが、非常識を演じることができるという考え方もある。
だが、ククイの知る限り、サイコ・バションと言うレスラーは、リング上でも素をさらけ出しているような雰囲気があったような気がするのだ。
「明日、また様子を見に来てもいいか」
バションは立ち上がりながらそう言った。それを断ることは、到底出来ないだろうとククイは思った。
メレメレ島でのプロレス興行一日目、その日のメインイベントは、若手の悪役レスラーと組んだサイコ・バションと、ロイヤルマスクと同じくメレメレ島出身のレスラー、マスク・ド・ルガルガンによるタッグマッチだった。
この試合は翌日に控えられたサイコ・バション対ロイヤルマスクの前哨戦と言っても良かった。サイコ・バションの実際の強さとパワフルさをメレメレ島の住民に見せつける目的がある。
試合は、サイコ・バションに捕まったマスク・ド・ルガルガンが、片手で喉元を掴まれ、持ち上げられて叩きつけられると言う、サイコ・バションの得意技(技名:チョークスラム)でスリーカウントを奪われた。サイコ・バションとロイヤルマスクの直接的な対面を最小限に抑えながら、バションがルガルガンを、ロイヤルマスクが新人レスラーを圧倒することで、お互いの強さを観客に見せ付け、明日の期待を膨らませると言う、前哨戦としてはこれ以上ない出来の試合だった。ロイヤルマスクにも、サイコ・バションにも、惜しみない歓声が送られる。
しかし、試合後に、自体は一変する。
リングを降りたマスク・ド・ルガルガンを、バションが背後から強襲したのだ。
さらにバションは客席から持ち出したパイプ椅子でルガルガンを滅多打ちにすると、リングを支える鉄柱に頭から叩きつけ、流血させる。
更に彼はもう抵抗する気力すら無いルガルガンをリングに放り入れた。
それが明らかにプロレスという興行のラインを超えた攻撃であることは、関係者の中では理解されていた。
ロイヤルマスクであるククイは、それを阻止しようと再びリングに上ったが、バションの巨大な靴底を顔面に叩きつけられ(技名;ビックブート)マットに倒れる。
バションのタッグパートナーであったはずの若手レスラーもウィンダムの両腕を後ろから抱えて彼を止めようとしたが、瞬く間に投げ飛ばされたリングから降りた。
そして、バションは慌ただしくリングの周りに集まった関係者達を一睨みして牽制すると。マスク・ド・ルガルガンを天高く抱え上げて、思い切り反動をつけて背中からマットに叩きつけた(技名:パワーボム)
ほとんどん観客達が、それに動揺していた。マスク・ド・ルガルガンは体つきのだらしない弱いレスラーではあったが、マスクを脱げばトレーナーズスクールの教員として、子供たちから慕われていた。子供たちから慕われれば、自然と彼らの両親にも慕わられ、それは島全体にも広がる、つまり彼は、このメレメレ島における人気者の一人だったのである。
しかし、観客の一部には、それでもサイコ・バションに声援を送るものもいた。彼の全盛期を知るファンは、それでこそサイコ・バションだと彼にエールを送る。また、血気盛んな不良少年たちも、彼を支持していた。
リングに担架が運び込まれた、それは、本来使われるはずのない担架だった。
その夜、バションは再びククイの研究所に訪れた。
彼はノックも何もなく研究所の扉を開き、ククイの言葉を待つくこと無くソファーに座り込んだ。
それは、表現の方法によっては、例えば豪快だとか、恐れを知らないだとか、破天荒だとかと言えるかもしれない。
だが、ククイはバションのその行動を、礼儀を知らないと心の中で侮蔑した。あまりにも下品であると思った、賎しく、浅ましいと思った、道徳を知らぬ、粗暴な、低俗な、悪だと思った。かつての自分が、ブラウン管の向こうにいる彼に抱いた印象は間違いではなかったのだ、彼は、その残虐性こそが素なのだ。
もしくは、今この瞬間、自分も安全ではないのかもしれない、とククイは思っていた。見れば、バションは丸腰、ポケモンを持っている様子はない、いざという時には、自らの手持ちのポケモンを使って応戦すればいいが、果たしてそれで、本当にこの凶悪を絵に描いたような男を止めることができるのだろうか。
で、と、バションが切り出す。
「あいつの様子はどうなんだ」
本当は、その声も聞きたくも無かったし、それに答えることもしたくはなかった。だが、ククイには研究者として、ポケモンに携わるものとしてのプライドがあった。
「昨日あなたが帰ってから、ワクチンを投与しました。経過は順調で、今はぐっすりと眠っています」
そうか、とバションはククイの方を見ずに答えた。その表情に、安堵の感情があることに気付いたククイは、再び混乱し始めた脳内を、なんとか律しようとする。マスク・ド・ルガルガンにあれだけのことをした男が、何故。
バションも、ククイのその動揺と混乱に気づいているのだろう。彼は一つ笑って言う。
「すべてが善の人間が存在しないのと同じように、全てが悪の人間も存在しないんだ。極悪非道のギャングの親玉だって、構成員からすりゃ親の慈愛に満ちてるだろうし、機嫌がいい時には吸い殻を携帯灰皿にしまうだろう」
言っていることの理解が出来ないわけではない。
「俺はそれが大分悪に振れているだけだ。俺は『サイコ』だからな。だがまあ、リングの下で恩人を襲うような真似をするほど知性がないわけでもねえ」
その言葉を、ククイは完全に信用することはできなかった、目の前の巨人が、善か悪かの判断をまだしっかりと出来てはいなかったのだ。
だから彼は絞り出すように彼に質問して、彼を測ろうとした。
「リカルドさんは、全治二ヶ月だと」
リカルド、と言うのは、マスク・ド・ルガルガンの本名であった。彼は重度の打撲、切り傷、脳震盪を負っていた。
バションは、それを鼻で笑う。
「それが嫌なら、リングに上がらないことだ。俺はかつて全世界で中継されている試合中に右腕の肘がすっぽ抜けちまったことがあるが、それでも試合は成立させた。どんなに受け身が巧みな奴でも、一つ間違えばそのまま死ぬことだってある。そのリカルドってやつがもうそんな思いをしたくないと思うなら、このビジネスを続ける必要はねえ、無論、あんたもだ。学者がわざわざプロレスをするこたねえ」
その返答に、ククイは声を荒げる。
「試合中のリカルドさんは完璧だった。怪我の多くは試合後のあなたが原因だ、何故あそこまで執拗に彼を攻撃する必要がある」
至極まっとうな指摘だった。プロレスと言うものは、殺し合いではない。リング上のレスラーたちが戦いながら、時に協力し、時にお互いを引き立てる。プロレスに対するククイの考え方はそのようなものだったし、それは大きく道を外れた考え方ではないだろう。
「そりゃ仕方ねえよ、俺の気分がノッちまったんだ。だがロイヤルマスクには次の試合がある。組んでた若手はまだ青いが将来的には団体を背負う人材だ、あの中で無茶やれるとすれば、あの間抜けな覆面しかいないだろうが」
ククイは激昂した。バションの言葉はつまり、彼がリカルドに対し、明らかな悪意を持って、しかもそれによってリカルドが負傷することも十分に理解、否、プロレスの範疇を超えた負傷を負わせることを目的としていたことを意味していた。
「まあ、落ち着けよ」
ククイが明らかに激昂していることは見れば分かるはずであるのに、バションは笑っていた。ククイの激昂など取るに足らない、ククイが激昂したところで自らの身に危険が及ぶわけではない事を理解しているがゆえの余裕だった。
「あなたは、プロレスというものを理解していない」
吐いて叩きつけるようにククイがそう言ったが、バションはその言葉を聞いて大きく、大きく笑った。確かに、確かに場面とお互いの経歴だけを切り抜けば、明らかに滑稽な発言だった。バションはその唯一無二のサイズとカリスマ性で一時期は間違いなく業界の覇者、最も金を稼ぐことができた男、方やククイは、センスがあるとは言えド田舎の兼業レスラー、プロレスというもので身を立てているとは口が裂けても言えない、業界という枠組みの中に組み込まれているかどうかすら微妙なラインのレスラーだった。
「じゃあ聞くが、プロレスとは、なんだ」
「プロレスは、信頼と尊敬が生み出す芸術だ」
プロレスは美しい、ククイは本気でそう思っていた。そしてその美しさは、リング上のレスラー同士の信頼関係によって成り立っていると確信していた。プロレスの範疇を越えないための攻撃をし、プロレスの範疇を越えないためにそれを受ける。それら長時間の攻防は、観客の熱狂を呼び、勝敗ではなく、戦うことそのものが価値となる。それがプロレス、この世で最も平和で、最も美しい闘争。すべての闘争が最終的に価値を得るとするならば、その終着点こそがプロレスだとククイは信じているのである。それは人間同士の闘争だけではなく、信頼できるパートナーであるポケモン達と行う闘争もそうである。
だからこそ、ククイはバションの行為が許せないのだ。彼の行為は信頼関係の破壊だった。
「なるほど、悪い考え方じゃない」
バションの中では、不満のない答えだったのだろう。
「だが、それはあくまでプロレスというもの享受する側の理屈だ、レスラーの考え方としては、まだ中腹と言った所」
いいか、とククイを指差す。
「俺は学のある方じゃない、だがハッキリといえるのは、プロレスというものはつまり、巨大なサイコロジーであるということだ」
サイコロジー、心理学を意味する言葉がレスラーであるバションから飛び出したことに、ククイは驚き、血が登っていた頭が、少し冷える。
「レスラーって奴は、観客が居なけりゃ成立しねえ。観客が居なけりゃ、俺達は殺し合いをして、勝ったほうが負けた方の財産を奪うことでしか生活出来ねえだろう。芸術だという意見にも一理はあるが、結局のところそれは、観客がそれの価値に気づかなきゃ意味がねえんだ。プロレスってのは、いかにして観客の心理を読むかが重要なんだよ」
ククイは、それに反論することができなかった。サイコなチンピラが大言壮語なことを言っているわけではない、その言葉は、プロレスという枠組みでかつて最も金を動かしていた男の、理路整然とした正論だった。
「俺達は結局、観客が求めていることをするしかないのさ、だから俺はあのマヌケな覆面を襲った。あいつはプロレスというものがよくわかっていないから抵抗した、だから俺は無理やりあいつを叩き伏せるしか無かった。思うことはあるだろうが、筋は通っている」
「ならあなたは、メレメレの人々があれを望んでいたというのか」
「ああ、そうだよ」
バションは、如何にもそれが当然といった風にククイに返す。
「荒んでいる土地ほど、俺を求める。このアローラの地は、明らかに俺を求めている。しばらくはこの地方を拠点にしてもいいと思っているくらいだ」
「一体何を根拠に、この地が荒んでいると」
ククイは一度歯を食いしばってから言った。サイコ・バションがマスク・ド・ルガルガンを襲っている時に、それに歓声を送っていた観客も居たことを思い出していた。
「俺は歴史学者じゃねえんだ。そんなことまで分かるわけねえだろう。俺は空気と客の雰囲気でそれを感じているだけだ。むしろ、地元のあんたのほうが、それをわかっているだろう」
ククイは言葉に詰まった、そして、言葉に詰まった自分に気づき、猛烈に嫌悪した。
心当たりは、いくらでもあった。そしてその殆どは、島巡りとそれに絶対的な服従を置いているアローラ地方のシステムの限界であることを彼は十分に理解していたのだ。島巡りを挫折したトレーナーの無念も、我が子が闇に染まるかも知れぬ親の不安も、スカル団という悪に平穏な生活を侵されるかもしれないことを恐れる島民の恐怖も、それらが次第にアローラ地方全体に緊張を産んでいることも理解していたのだ。
しかし、このアローラ地方に生まれた男の一人として、この地が荒んでいるということを認めたくはなかった。しかし、それを否定することができなかった。だから彼は言葉をつまらせ、自らを嫌悪した。
「アローラは、荒んでなど居ない」
嘘だった、絞り出した嘘だった。
「荒んでなど、いない」
バションは、下を向いたククイにそれ以上を追求しなかった。それ以上の追求に意味がない事を彼は理解していた。
彼は「長居したな」と立ち上がる。
「また明日、会おうや」
彼はそう言って研究所を後にした。
翌日、興行最終日のメインイベントは、サイコ・バション対、ロイヤルマスクの一騎打ちだった。
メインイベント、サイコ・バションと一対一でリング上に相対したククイは、サイコ・バションの雄大さと、全身からあふれるカリスマ性に圧倒された。
全盛期の筋骨隆々な完璧な肉体と比べれば、多少肉は落ち、筋肉の上に贅肉も乗っているように見える。だが、それでもなお、その肉体の持つ説得力に衰えはない。
二メートルを超える体格、彫りの深い無骨な顔立ちは確かな狂気をはらみ、縮れたブロンドは汗と血がよく映える。それでいて手足はモデルのように長く、巨大な体格を、違和感なく映す。リングの上では自身が最強であるという自負は、何も恐れぬ男の風格を生んでいた。業界内で最も金を動かしていたレスラーの色気というものを、惜しみなく表してる。
ロイヤルマスクは、試合開始と共にバションを中心に円を描くようにリング上を回った。足を止めれば、たちまちバションに組み付かれてしまうだろう、イワンコのようにせわしなく動けば、自身が格下であることを認めることになるが、そんなことに拘る余裕など無かった。
ロイヤルマスクにパワーが無いわけではない、しかし、サイコ・バションでは相手が悪すぎる、組み付かれればあっという間に握りつぶされてしまうだろう。
ここはバションを焦らし、ロイヤルマスクが得意な打撃と空中戦に持ち込むしか無い。
試合中盤、二度、三度、ロイヤルマスクはサイコ・バションの顎に肘を打ち付ける。
ロイヤルマスクはその肘に全力を込めていた。上半身に、腰に、太ももに、両足にあらんばかりの力を込めていた。
そうでもしないと、目の前の巨人、サイコ・バションを倒すことは出来ないだろうと思っていた。
しかし、それでもバションは揺るがない。彼は淡々とロイヤルマスクの肘を受け続けていた。
攻撃し続けているのはロイヤルマスクで間違いない、だが、それを続ければ続けるほどに、ロイヤルマスクが精神的に追い詰められていく。バションは明らかに余裕を持ってそれを受けていた。
やがて、ロイヤルマスクに一瞬のスキが生まれる。彼は自身の打撃を疑い、その後どうすればよいのかということに一瞬思考を占領されてしまったのだ。
そのスキを、バションは見逃さない。
バションは、ロイヤルマスクの後頭部を左手で掴んだ。
しまった、とロイヤルマスクはそれをなんとか振りほどこうとするが、万力のような握力と腕力がそれを許してはくれない。
バションは右腕を振り上げて構える。ただ構えただけ、それだけでも、そのストロークの長さにロイヤルマスクは恐怖する。
逃げなくては、と思ったが、体は動かない。そして、右腕が振り下ろされた。
バションの肘が、ロイヤルマスクの顎に打ち付けられる。ロイヤルマスクは半ば叩きつけられるようにマットに倒れる。
これが同じ攻撃かよ、とククイはドロドロになっている思考の中で思った。そして、なんとかロープをつかもうともがく、自身がマットを舐めていることは分かるが、自身が今どのような状況でどこにいるのかは脳内から吹き飛んでいた。
バションはもがくロイヤルマスクを引きずりあげると、右腕で彼の頭を抱えて力を込めた、それはプロレスの中でも基本の基本技だった(技名:ヘッドロック)
ククイは思わず悲鳴を上げてしまう。これまでの人生で経験したことのない激痛だった。割れる、頭が割れてしまうと本気で思った。思わず降参の声を上げそうになるが、こんな基本技で負けるなどありえてはならない。
その激痛によってなんとか明朗になった思考と視界で、ククイはリングのロープに手を伸ばす。ロープに触れているレスラーへの五秒以上の攻撃は基本的に反則だからである。
バションの体をなんとかコントロールして、ロイヤルマスクはロープを掴む。バションはお構いなしにヘッドロックを続けるが、レフリーがカウントを数え始めると、その手を離した。
だが、バションはすぐさまロイヤルマスクの右腕を両手で握ると、そのままロイヤルマスクを対面のロープに向かって思いっきり振り込む。
ロープに背中から突っ込んだロイヤルマスクは、その反動に逆らいきれずに、パチンコの弾のようにリング中央にはじき出される。
そこに待っていたのはサイコ・バションの右腕だった。バションは右の二の腕を振り切るようにしてロイヤルマスクの喉元に叩き込む(技名:ラリアット)ロイヤルマスクは一回転してマットに倒れた。
倒れたロイヤルマスクにバションガ覆いかぶさる。この試合はワンフォール制、相手に覆い被せられた状態で両方が三秒マットに付けばそのまま勝負が決まる。レフリーがロイヤルマスクの両肩がマットについていることを確認し、リングを叩いてカウントを取る。
レフリーの手が三度目のカウントを取ろうとした時、ロイヤルマスクはなんとか右肩を上げた。まだここで負けるわけにはいかなかった。
更にバションは畳み掛ける、彼はロイヤルマスクとともにリングを降りると、リング下と観客席を仕切る鉄柵に向けて再びロイヤルマスクを振り込む、ロイヤルマスクは鉄柵に強かに腰を打ち付けうめき声を上げたが、振り返った彼が見たのは、バションの巨大な靴底だった。バションはロイヤルマスクの顔面に靴底を叩き込み(技名:ビックブート)彼を観客席に沈める。
観客席からは、悲鳴と、歓声がほとんどだった。しかしそのどちらにも共通しているのは、バションが次に何をするかに釘付けになっていることだ。
倒れているククイも、観客のその意志を感じていた。しかし、やはり彼はそれを認めたくはないのだ。
再びバションはロイヤルマスクを引きずり起こし、再び彼の右手を掴む。
自らとバションの延長線上に、リングを支える鉄柱が存在していることにロイヤルマスクは気づいた。狙いは自分を鉄柱にぶつけることか。
バションに大きく振られるその瞬間に、ロイヤルマスクは体を回転させて逆にバションの腕をつかむ。そして、自らを振ったバションの力をそのまま利用して、バションを鉄柱に向けて振り込んだ。
バションはそのまま頭から鉄柱に突っ込み、足元をふらつかせた。ロイヤルマスクの思わぬ逆襲に、観客席は湧く。
ロイヤルマスクはふらつくバションをリングに戻すと、自身はコーナーポストに登る。
そして、なんとか立ち上がったバションに、自らの体ごと飛び込んだ(技名:フライングクロスボディ)
バションはマットに倒れ、ロイヤルマスクがそのまま覆いかぶさる格好となる。レフリーはすぐさまバションの両肩を確認して、マットを叩く。
しかし、マットを二度叩いたところで、バションはロイヤルマスクを跳ね除けた。しかしその動きは鈍い、見れば、額からは出血し、ブロンドの一部分を赤く染めていた。
ククイはここで畳み掛けなければ勝機がないと覚悟を決めた。彼は起き上がるバションに狙いをつけて、一度ロープに走り込んで勢いをつける。
だが、バションもここでそう簡単に流れをロイヤルマスクに明け渡すわけがない。彼は自らを目標に走り込んでくるロイヤルマスクの喉元むかって右腕を振り上げ、ラリアットを狙う。
だが、それはククイの読み通りだった。それを予測さえしていれば、その右腕は、ゆっくりとククイに差し出されているも同じだった。
ロイヤルマスクはバションの右腕に飛びつくと、そのまま手足を右腕に絡めた。
バションは誘われたことを理解したが、もう遅い、彼は右腕に絡みついたロイヤルマスクにコントロールされ、マットに転がる。
ロイヤルマスクは全身に力を込めて、バションの右肘を伸ばしにかかる(技名:腕ひしぎ十字固め)脱臼経験のあるバションの右肘は、明確なウィークポイントのはずだった。だが、バションも同じように右肘に全身全霊を込めて、伸ばされることを阻止する。
バションは自身がいまリング上のどこにいるかを確認した。可能ならば、ロープに足を届かせればこの関節技を反則扱いにして解くことができる。
だが、彼はおよそリングの中央に倒れていた。恐らくそれもロイヤルマスクの計算の上だろう。体勢を考えればロイヤルマスクを引きずるのも難しい。ならば、力技でこの関節技を解くしか無い。
バションは左手と右手をクラッチして右肘の安全を確保し、体重差を利用してロイヤルマスクを押しつぶそうと体を起き上がらせる。
しかし、それもククイの策略の上だった。
ロイヤルマスクはバションが起きがろうとする動きを感じるやいなや右肘を諦めて、バションの首に自らの両足を絡める(技名;三角絞めもしくはトライアングルチョーク)
この連携は、ククイが今日の為に考えた特別な連携だった。サイコ・バション相手に勝つならばフォール勝ちよりも関節を絡めたギブアップもしくは気絶。打撃も、空中技も、そのための撒き餌にすぎない。
そして、頸動脈を締めるこの技ならば、たとえ相手がサイコ・バションであろうと確実にダメージが有るはずである。人間離れしているとは言え、生物であるならば、脳に血液を供給できなければ苦しいし、気も失う。
バションの額から流れる血が、ククイの胸に幾つかの血痕を作る。バションがそれを振りほどこうと暴れるば暴れるほどに、ロイヤルマスクの両足は確実に彼の頸動脈を締め上げる。
レフリーがバションの右手をニ、三度叩く、それに反応がなければ気絶したとみなされるが、その右腕は狂ったように空を掻いていた。
不意に、ククイはバションと目が合った。
その目は、真っ直ぐにククイを見据え、睨みつけていた。それは、いまだかつてククイが経験したことのない視線だった。
殺される、とククイは思った。今、この技をとけば、確実に殺される。否、もしかすれば、この技もいずれ振り解かれるのではないか、否、振りほどかなくても良い、バションがもう少し暴れてロープに足をかけてしまえば、そのままこの技を解かなければならなくなる、その後は、どうなる、どうなってしまう。
そう思った瞬間、ククイは本能的に関節技を切り替えた。両足で相手の頸動脈を締め上げる三角絞めではなく、自らの右スネで相手の喉を圧迫し、更に両腕で相手の後頭部を掴んで全体重をかけることで右スネをより食い込ませる(技名:フットチョークもしくはゴゴプラッタ)それは三角絞めよりも遥かに強力、直接首にダメージを与える危険な技だった。
バションの目が血走る、降参してくれ、とククイは願っていた。
だがククイはその時、バションの両手が自らの背中に回されていることに気づかなかったのだ。
地を割るような雄叫びが、メレメレ島に響き渡る、その中心は、リングの上、サイコ・バションだった。
そして、ロイヤルマスクの体が、浮き上がる。
馬鹿な、とククイは焦った。関節技は完璧に決まっている。自分を持ち上げるどころか、息をすることだって苦しいはずだった。
しかし、より高くなった視界は、自らが持ち上げられていることを物語っている。
そして、その体勢がサイコ・バションの得意技であるパワーボムの体勢であることにククイがようやく気づいた時、彼は思い切りマットに叩きつけられた。
人間じゃない。
チカチカと光が宙に舞うのを確認しながら、ククイは絶望的にそう思った。なんとか両手で受け身は取った、しかし、それだけでダメージが殺せるわけでもない。
自らの上に、バションが覆いかぶさる。レフリーが一度マットを叩く音が、ゆっくりと聞こえる。
これはもう無理だ、とククイは思っていた。もう体が動かないし、何より、あの関節技の連携を崩された時点で、もう自分に勝ち目はない。
二度目、レフリーがマットを叩く。ツー。精根尽き果てたククイの耳に、それまで聞こえていなかった観客たちの歓声が、ようやく届いてきた、それは、大きな、大きな歓声だった。
昨夜、バションが言っていた言葉を思い出す。アローラの地は、バションのような悪を求めている。このアローラの地は荒んでいるから。
歓声だ、その歓声はきっと、バションに向けられているのだろう。この地がバションを求めているから。
それは嫌だ、とククイは強く思った。
それは嫌だ、認めたくない。この地が荒んでいるという現実を、直視したくない。生まれた土地だった、育った土地だった、帰ってきた土地だった、愛した土地だった。
それを認めないために、目を背けるために。どうすればいい、何をすればいい。
三度目、レフリーがマットを叩く寸前、ロイヤルマスクの右肩が、僅かに上がった。プロフェッショナルなレフリーは、その手をすんでのところで止めた。
スリー、と言う掛け声をあげかけていた観客は大きくどよめいた、彼らはバションの勝利を疑っていなかった。バションが彼らに見せつけたパワーボムは、そう思わせるのに十分な迫力だったのだ。
何より最も動揺していたのはサイコ・バション本人だった。これまでのキャリアの中でもかなり完璧に近いパワーボムだった。
「スリーだろ」
レフリーの胸ぐらを掴んで、半ば振り回すように引き寄せながら叫ぶ。
だが、レフリーは指を二本立ててカウントツーであったことを強く主張する。リング上において、レフリーの存在は絶対である。バションもそれ以上は追求しない、それ以上を行えば反則負けになってしまう可能性があるし、何よりここでカバーを返したロイヤルマスクを警戒していた。
ロイヤルマスクが敢行した関節技の連携は、バションのスタミナを確かに奪っていた。あのパワーボムも、試合を決めるために無理をして放ったのである。もうバションも長く試合はできない。
リングに大の字になったままのロイヤルマスクにバションは再び覆いかぶさる。しかし、ロイヤルマスクはカウントワンで体を跳ね上げる。それに大歓声が沸き起こる。
すぐさまバションは右手でロイヤルマスクの喉笛を掴んで苦しめる。明確な反則にレフリーが注意するがそれでもやめない。レフリーが反則カウントを取り始める。
バションはロイヤルマスクの首を絞めたまま無理やり引き起こす、それはサイコ・バションの得意技の一つであるチョークスラムの体勢だった。
ククイがそれをマズいと思うより先に、ロイヤルマスクの体が動いていた。彼はバションの鳩尾を、ブーツの先で思い切り蹴り上げた。
スタミナが切れかけている所に、不意の鳩尾への攻撃、バションの体がくの字に折れ曲がる。
ロイヤルマスクはバションの頭を右腕で抱え、全体重をかけてバションの額をマットに叩きつけた(技名:DDT)
観客達は、この試合の勝敗が読めなくなっていた。経歴を考えれば、明らかにバションが勝利して当然の試合だったし、現に試合序盤から中盤にかけては、バションが圧倒していたのである。しかし、もはや勝負はわからない、どちらにもダメージが有り、最後のひと押しをどちらがするかという勝負だった。
観客たちは、歓声を上げていた。バションにでも、ロイヤルマスクにでもない、彼らは、この勝負そのものに歓声を送り始めていた。
ロイヤルマスクは、うつ伏せになったサイコ・バションをなんとか仰向けにする。マットはベットリと血に濡れていた。
カバーの体勢、レフリーもバションの両肩のチェックのために姿勢を低くする。
そして、ロイヤルマスクがバションに覆いかぶさろうとしたその時。
下から伸びてきたバションの右手が、再びロイヤルマスクの喉を掴んだのだ。どよめきが沸き起こる。
ロイヤルマスクは両手でそれを振り払おうとするが、それは敵わない。万力という表現すら生ぬるいと思った。
バションはゆっくりと息を整えながら体を起こす。彼は再びチョークスラムの体勢を作った。そして、ロイヤルマスクが足を動かすより先に、右手のみで彼を天高く持ち上げる。
もし、全盛期のバションならば、このまま難なくチョークスラムを決めていただろう。だが、ピークを過ぎた肉体は、右腕は、ロイヤルマスクに僅かばかりの自由を与えてしまったのである。
ククイも、意識は朦朧としていた。チョークスラムに対する返し技の知識がないわけではない、しかし、記憶の中にあるそれを探し出すことができるだけの余裕がない。
だから彼は、とにかく、ひたすらに暴れた。このまま死ぬよりも、がむしゃらに暴れることにかけた。
そして彼は、なんとかバションの体の何処かをつかもうと必死だった。バションの何処かを掴んでしまえば、ひとまずチョークスラムの脅威から逃れることができる。
それらのもがきが、奇跡的な返しを生んだ。
ロイヤルマスクが暴れたことによって、バションの右腕が力を失った。もし彼がもう片方の腕をロイヤルマスクに添えていれば、それは起こらなかっただろう、だが、ロイヤルマスクが与えたダメージは、バションに確かな焦りを与えていたのである。
そして、何かをつかもうともがいてたロイヤルマスクの右腕は、バションの頭を再び抱えることに成功した。
ロイヤルマスクは、地球の重力を味方につけながらマットに落下し、高角度のDDTをバションに炸裂させた。
その威力は絶大だった、バションは反動で仰向けに倒れ、目は虚ろで、起き上がる気配はない。
しかし、ロイヤルマスクはカバーにはいかなかった。これで決着はつかない、つくはずがない、先程のトラウマで、彼はバションを自らの予想を遥かに超える化物であることを認めていた。
観客の声に後押しされながら、ロイヤルマスクはコーナーポストに登る。時折ふらつく意識をなんとか踏ん張って、彼はトップコーナーの上に仁王立ちした。
リングも、バションも、観客席も見下ろせる。その誰もが自分に注目していた。
なんて素晴らしい光景なのだろうとククイは思った。自らの一挙手一投足に観客は釘付けだった。その殆どが、彼がそこからバションに飛んで、勝利することを望んでいることが彼にはわかった。
ククイは、それを不思議に思った。バションの言うとおり、この地は精神的に荒んでいるところがあるのかもしれない。ならば何故、今この観客たちは、自分が勝利することを望んでいるのだろう。単なる地元贔屓だけではない何かを、彼は感じていた。
そして、彼は飛んだ。それこそが観客の望みだったし、彼の望みでもあった。
ロイヤルマスク、決して巨大ではないが、鍛え上げられた肉体を持つレスラーは、リングに寝そべるサイコ・バションを、見事に押しつぶした(技名:フライング・ボディプレス)
そのままレフリーのカウントを待つ。
まず一つ、マットが叩かれる。観客達は声を合わせて「ワン」と叫ぶ。
そして二つ、マットが叩かれる、観客たちも共に「ツー」と叫んだ。
ククイは、まだわからないと思っていた。普通ならば、これで決着がつくだろう、だが、いま自らが戦っている男は、限りなく普通ではない、化物、遙かなる怪物なのだ。
頼むから、起き上がらないでくれ、と彼は願っていた。これ以上はもう無理、単純に自分が勝てないという浅い問題ではない、これ以上は、殺し合いになってしまう。プロレスにそれを願っている人間なんて誰一人としていやしないんだ。
三度目のマットを叩こうとするレフリーの腕に、観客たちは釘付けになっていた。
それは、彼等とククイにとって、最も長い、人生の中で最も長い一秒だった。
三つ、マットが叩かれて、観客たちも「スリー」と大合唱した。
途端に、これまで聞いたことのないような大歓声がメレメレ島に響き渡った。勝利だった。それは、勝利だったのだ。
「助かった」
ククイは、その言葉を心の底からひねり出した。彼は生き残った、なんとか生き残ったのだ。
「そうだ」
その声は、バションのものだった。恐らくその声が聞こえているのは、ククイだけだろう。
「それで良いんだ、それでこそだ」
血塗れの男は、少し笑っているようだった。
その夜、バションは再びククイの研究所に訪れた。
彼はノックも何もなく研究所の扉を開き、ククイの言葉を待つくこと無くソファーに座り込んだ。
ククイは、彼のそのような行動を何という言葉で表現すれば良いのかもうわからない。
見ると、彼の巨大な手にはビール瓶が二本。
「ま、飲めや」
内一本を、バションはククイに放り投げる。彼がそれを慌ててキャッチすると、既に開けられていた飲み口から少しビールが吹き出した。バションが持っている方の瓶にはまだ栓がしてあったが、彼は如何にも当然のようにそれを歯でこじ開ける。
バションが瓶を傾けるのにつられて、ククイもそれを口にした。口内のありとあらゆる傷にそれが染みて、思わず顔をしかめる。
お互いにボロボロだった。バションのエルボーを打ち付けられたククイの顔面は大きく腫れ、首元には大きな手形が跡になって残っている。バションの額にも新たな縫い傷ができており、ブロンドの一部には未だに血がまだらだった。彼の右肘にはテーピングがされている。
「いい試合だった」
バションは、笑っていた。
「記者共の評価も上々だ、お前さん、随分と名を上げたぜ」
バションは再び瓶を大きく傾ける。二度傾けただけのはずなのに、殆ど中身はなくなっていた。
「客の反応も良かったし、興行的には大成功だな」
随分と機嫌の良さそうなバションに、ククイはずっと不思議に思っていたことを打ち明ける。
「メレメレの住人は、あなたの勝利を求めているのではなかったんですか」
その質問に、バションは首を傾げる。
「何言ってんだ、そんなわけないだろう」
「だってあなたは、この地方が自分を求めていると言っていたじゃないですか」
ガッハッハ、とバションは大きく笑った。よく笑う男だ。
「お前はまだ観客というものがよくわかっていないんだな」
瓶の底の方に残っていたビールを吸い込むように飲み干してから続ける。
「客っていうのはな、どんなやつでも、最終的には善が勝つ事を望んでいるし、心の底ではそう信じている。悪が、純粋な善に屈服することを奴らは求めているんだ。それもただの悪じゃねえ、それまでの固定概念をすべて吹き飛ばすような、強烈で凶悪、何をするかわからないカリスマ性を持った悪だ」
それはまさにサイコ・バションそのものの事ではないかとククイは思った。
「だからこそ、荒んだ地方の奴らは俺を求める。そして、俺は奴らが求める悪そのものだ。俺はサイコ、力だけは人並み以上だが、社会から隔離された純粋な悪、いつ、どこに、どんな時代に出しても憎まれ、疎まれ、恐怖される男、それが俺だ。今日のように、俺が倒されりゃ誰もが歓声を上げるぜ。だがまあ、それが不満なわけじゃねえ、この仕事に巡り合ってなけりゃあ、俺は野垂れ死にしていたか、もしくは人を殺していただろうからな」
彼が絶対的な悪であることは、ククイも認めることだろう。だが、ククイは同時に、彼が傷ついたニャースをなんとか助けようとし、それを確認するために何度も研究所を訪れる男であることも知っている。やはり、何度彼を理解しようとしても、それをすることができなかった。
「あなたは、人は最終的に善が勝つことを望んでいると言った」
「ああ、言ったな」
ならば、とククイはバションに近寄る。
「あなた自身も、そう思っているのですか。絶対的な悪であるあなたも、最終的には善が勝つことを望んで、信じているのですか」
それは、バションの思想の矛盾を的確についている質問のはずだった。それを肯定することは、彼の存在を彼自身が否定することになるのだから。
だが、バションはあっけらかんとそれに答える。
「ああ、そうだよ」
ククイの背に悪寒が走る。
人間というものは、極力自らの思想から矛盾を消し去ろうとするものだ、思想に矛盾があることに気づく事ができる知性は、必ずそれを苦痛に思うはずだった。
だが、その矛盾をバションは涼しげな顔で晒したのだ。彼にとっては、自らの存在意義すらもどうでもいいことなのかもしれない。
「だがまあ、俺が善になることはないだろうな」
昔の話さ、と続ける。
「かつて、俺は世界最大のプロレス団体で、絶対的な悪役として君臨していた。俺は聞こえの良いことばかりいう奴らを全員叩きのめして、その団体のトップになった。するとどうだ、観客達は次第に俺に歓声を送るようになった、あいつら全員、俺の強さに惚れてたんだ」
ククイは無言で彼にその続きを催促した。
「悪が観客を支配したらどうなると思う? そいつはもう悪じゃなくなる、観客たちの新たなヒーローになり、今度はそいつが、悪と戦うことになる。勿論団体も、俺にそうなることを期待した。だが、俺はそれができなかった。客ってのは、あれでいて意外と敏感だ、俺に善としての資質がないことを真っ先に見抜いたのは観客だ。奴らは俺が本物のサイコであることを見抜いていたんだ、そうなると、イッシュにもカントーにもジョウトにもホウエンにもシンオウにもカロスにも、俺の居場所はない。平和な地は、それを乱すサイコを求めていないんだ」
さて、と、バションは膝を打つ。
「それ、飲まねえのかい」
彼はククイが持っている瓶を指差した。その中にはまだ半分ほど中身が残っていた。
「いえ」と、ククイがそれを否定する。
「ゆっくりと、飲ませてもらいます」
まだまだ、ククイはバションを理解しきれない。アルコールの力を借りながら、ゆっくりと考えて、それでも結論は出ないかも知れなかった。
そうかい、とバションは再びソファーに背もたれた。
「あいつは元気になったかな」
あいつ、と言う言葉は、マスク・ド・ルガルガンに向けられたものではなく、あの小さなニャースのことを指しているとうことはククイにも理解ができる。
彼はゲージの中からすっかりと元気になったニャースを抱えると、それを床にはなった。
「もう十分すぎるほど元気ですよ」
「そうかい、そりゃあ良かった」
ニャースは、小さく鳴いて一つノビをすると、すぐさまにバションの足にその体を擦り付け、甘えるように鳴いた。
「随分と、なついたようですね」と、ククイが言うと、バションは「そうだな」と、複雑そうに笑った。
「この後、この子はどうするつもりなんです」
「さあ、俺はポケモンなんて持ったこともねえし、持とうと思ったこともねえ。俺はある程度のポケモンよりかはつええし、ある程度のポケモントレーナーよりもつええからな」
それは間違いないだろうな、とククイは思った。野生のポケモンは、サイコには近づかないだろうし、トレーナーも、バションの目の前にして、果たして冷静な指示を出せるだろうか。無効にどれだけの覚悟があるのかは分からないが、バションは、きっと平気に彼等に攻撃を加えることができるだろう。
はあ、とバションはため息をつく。
「だから、本当は野性に返して欲しいんだが」
膝の上に飛び乗ってきたニャースの頭を一つ撫で、耳の裏を指でくすぐる。
「それをやっちゃダメなんだろうな、元々喧嘩に負けるような弱いやつだしな」
「モンスターボールをあげますよ」
ククイは本棚をガサガサと漁って、持て余していたボールを彼に差し出す。
「わりいな、使い方はまあ、団体の若手に聞くよ。ペラップとかいう派手なポケモンをえらく大事にしてるやつがいるんだ」
さて、とバションは立ち上がる。彼はニャースをぶっきらぼうに腕に抱えた。
「善っていうのはさ、常に責任が付き纏うんだよな」
彼はそう言って、研究所を後にした。
その後、サイコ・バションはアローラ地方を中心に何度か興行を興した。
彼と戦ったその経験が、ククイにどのような影響を与えたのかは、彼にしか分からない、しかし彼は、その数年後に、アローラ地方にポケモンリーグを設立した。