緋姫物語
視界に迫り来る下卑た牙が、私が最後に見たものだろうと思っていた。
今思えば、彼とて事情があったのだろう、血肉を食らうことでしか生命を維持できぬ彼にとって、泣き声を出すことがやっとで、地を這うこともままならかったあの時の私は、都合の良い獲物でしかなかったのだろう。
私はその牙が、たとえその一撃で死に至らなくとも、時がたつにつれてじわりじわりと生きる気力を削いでいくものだと、生まれながらに知っていた。だから私は食らいつかれたその時に、天命を呪い、自らの境遇を憂いながら、目を閉じたのだった。
ふと気がつくと、私はフワフワと夢うつつにも似た感覚を覚えていた。これもあの時の牙の作用だろうかと思ったが、体の痛みを感じなくなっていることに気付いた。目を開けば、一筋の光も感じない、その頃の私に知識があれば、それは死に至った私の魂が亡骸を抜け、この世界から隔離されたまた別の概念に移動している最中なのだと勘違いしたかも知れぬが、幸いにも知識の無かったその頃の私は、手足をばたつかせることで不安と混乱を紛らわすことしか出来なかったのだ。
突然、ぶわっと頭上に光が差し込んだと思うと、光の中から巨大な手が私を掬い上げた。一面の光の中に引きずり出された私は、やはり不安と混乱、そして今度は眩しさから、激しくもがいて、その手の中から零れ落ちそうになった。
「おお、おおっと」
遥か頭上から声が響き、もう一つの手が落ちそうになった私を庇った。その声がする方に目を向けると、そこには髯面の大男。私はその時、目の前にいるこの無駄に巨大な生き物が、母から聞いていたヒトと言うものだと言う事を漠然と理解した。
恐らく、その男は虫の息であった私を保護し、毒抜きと傷の治療を施していたのだろう。呆気にくれていた私に男は微笑み「どうら、随分と元気になったようだ」と言って、私を再び暗闇の中に放り込んだ。その時、私は逃げると言う事を全く考えていなかった、もし今逃げたところで、非力な私が生き残れるとは思わなかったし、私を救ってくれたこの男に対して、たったの少しばかりであるが感謝の気持ちもあった。
その男はえらく空の近くを住処にしていた。幾つもの巨大な石を器用に詰み、気の遠くなるほどの段差を踏み越したその先にある城と言う空間は、どうやら選ばれた者しか入る事を許されていないようで、その中にいるヒト達はえらく小奇麗な者達ばかりであった。
男は、不器用ながらに気を使いながら私を籠に放り込むと、緊張した面持ちで、廊下と呼ばれているこれまた小奇麗な板の上を歩き、ある一室の戸を引いた。
「母上」
その部屋の中には、男に比べると年老いた女のヒトが鎮座していた。後から分かったことであるが、そのヒトは男の母であった。
男とその母は幾許かの間私を放っておいて二人で言葉を交わしていた。当時の私は分からなかったが、男の父はここら一体のヒトを支配しているヒトであり、男は彼の父の野望を叶える為、遠方にまで支配を伸ばす為に四苦八苦しているようであった。対して母は男の武勇に笑顔で頷きながらも、何処かその目は悲しげであった。
一通り話し終えたのだろう、男はふうと一息つくと、「母上に」と私が入っている籠を母に差し出した。
「西方にある妖が支配すると言う山に祈祷に寄った際、毒蛇に噛まれて瀕死だった所を保護しました」
母は物珍しそうに「ほう」と呟くと、躊躇うことなく籠を開き、私を取り上げた。歳こそ衰えていたが、彼女は一分の隙も無いヒトで、私は妙な安心感を覚えていた。
「何とも愛くるしい、それでいて何とも美しい赤い毛並みであろう」
「成長するにつれて六つの尾を持つ様になる事からロコンと呼ばれているようで、祈祷師の話によるとあの強力な妖であるキュウコンの子供だろうとのことですが、まだ幼く力も弱い上、ロコン自体は人に懐くそうですので、ぜひとも母上のお傍にと」
母は私を膝の上に置くと、首元を細く繊細な指で掻いた。
「これから私は城を空けることが多くなると思うので、私の代わりだと思って」
失礼な話だ、私は雌である。
そう、と母は目を伏せると、私の背を、いとおしげに撫でた。
それから私は成長し、一つだった尾が六つなる頃には、人語を理解するに至っており、自分が置かれている状況が大体分かる様になっていた。
男の名はトシチカと言い、母の名はヒノデと言うものだった。ヒノデは確かにその城の支配者の妻であったが、どうやらその妻と言うのは何人もいるらしく、彼女はその中で決して優先順位が高い方ではなかった。彼女は支配者との間に三人の子を儲けていたが、内二人は既にこの世にはおらず、トシチカのみが彼女の血を分けたものであったが、人を率いる才能があったトシチカは、勢力を広げるための戦いに参加する為に住処にいないことが多かった。ヒノデは口にこそ出さないものの、その現状を憂いていた、その立場ゆえ仕方が無いとは言え、血を分けたたった一人の息子が戦場に赴くことに心痛めていた。
その反動もあってか、ヒノデは私にそれはそれは大層に接してくれた。人にとって私は妖であるキュウコンの子であって、それを案じる声も数多くあったようだが、ヒノデは頑として私を手放さなかった、やがて私は記憶の片隅にも残っていない本物の母よりも、ヒノデを信頼するに至っており、ヒノデの元に連れてこられてから五年も経つころには、彼女の膝の上に身を任せ、眠りに付くようになった。
「緋姫(あけひめ)や、いらっしゃい」
緋姫、ヒノデは私の事をそう呼んでいた。後になって思えば、緋はともかく姫とは随分と大仰であったが、それもまた、彼女の気持ちなのであろう。
ヒノデは小さな桐の箱を小脇に抱えていた。傍に歩み寄ると彼女はその箱を私の前に置いた。
それはトシチカからヒノデに送られたものだった、トシチカはもう幾許もの間ヒノデと顔を合わせていなかった、他の人の話によると彼は何処か遠くの国の支配を任されており、時折こうして高価な品をヒノデに送っているようだ。
「トシチカ様は今度は何を?」
ヒノデの身の回りの世話をする若い侍女が物珍しそうに箱を覗き込む。
「焔石(ほむらいし)という宝石のようじゃ」
ヒノデが箱を開くと、中に入っているものを見て侍女が感嘆の声を上げる。
「これは、なんと美しい」
私も箱を覗き込んだ。そこには赤く煌びやかに光る石があった。石の中心から広がる波紋はまるで炎のようなそれであった。思わず身を乗り出す。
その時、私は心臓の高鳴りを感じ、身を翻した。その石は、私にとって力そのものであった。もし、私がそれを受け入れれば、たちまちの内に私の中に力漲り、二度と毒蛇の牙などに怯えずに済む様になるであろうと、本能が私に語りかけていたのだ。
しかし、私は怖かった、その力は、私にとって過ぎたものだった。無責任に力を与えられることが、怖くて怖くて仕方が無かった。その力を得れば、私は私では無くなってしまう、それは今の生活を捨てると言う事だった、獣である私に人の考えなどわからないが、そうなってしまえばきっとヒノデは悲しんでしまうだろうと思ったのだ。
それでいて、その石は妖艶に私に語りかける。私は怯えすくみ、じりじりと後ずさった。
「緋姫、どうした」
ヒノデは慌てて腰を上げ、私を抱きかかえた、私が焔石に怯えているのは、明らかだった。
はようそれをしまえ、とヒノデは侍女に命じた。震え続ける私を彼女は優しく撫でたが、私は一日、恐怖に震えっぱなしであった。
それからまた数年たった、石の事は忘れたわけではないが、ヒノデが気を使っているのだろう、あの恐怖がぶり返すような事はなかった。
ある程度自由が利く様になってきたのか、はたまたある程度の我侭を通すことができる様になってきたのか、トシチカは二年に一度ほどヒノデに合いに帰ってくるようになった。トシチカは合う度に風格を増しているが、私を見る表情は柔らかい。
ヒノデは随分と顔に皺が増え、指も細く骨ばったものになっていたが、相変わらず私を撫でる手は優しく温かい。
私のほうは、少しずつ体の自由が利かなくなりつつあった、まだそのような事が現れる歳ではなったが、幼少のころに毒蛇の牙をもらった影響か、はたまた本来私の体が弱いのか、どちらかは分からぬが、ヒノデはそんな私を疎く思うことも無く、むしろ今までより深く私を愛していた。
ある時、侍女が息を切らしながら部屋に飛び込んできた、普段はおっとりと気をやることが多い侍女だったので何か嫌な予感がした。
ヒノデも同じだったのだろう、しかし彼女はぐっと堪えて、何事かと短く問うた。
「トシチカ様が、トシチカ様が」
彼女は、感情に押し流され、目から涙こぼしながら、トシチカが絶命した事を伝えた。
トシチカの支配する国が隣国に攻め込まれ、トシチカは兵と民衆を守るため、その命を隣国に差し出した。
そうか、とヒノデは答えた。侍女と同じように、興奮し、取り乱している人はまだ多くいるだろう、彼らの前で狼藉するようなことがあってはならぬ立場にある事を、彼女は知っていた。
「立派な最期です。さがってよろしい」
それは、決して彼女の労をねぎらうための言葉では無かった、そして、侍女として付き合いの長い彼女もそれを理解していたのであろう。何も言わず、部屋を去った。
部屋には私とヒノデだけが残った。私も一旦この場から消えた方が良いのでは無いのかと思った、彼女は今一人になりたいだろうから。
身を捩る私を、ヒノデの手が拒んだ、それは何時もより少し強い力で、骨ばった指が、体に食い込む。
「お前だけに、なってしまったね」
震える声で、彼女はそう言った。私は、何をすることも出来ず。ただじっと、その身を彼女に委ねた。
ヒノデが体調を崩し始めたのは、それ後すぐだった。
それから一年経った、私の足はもはや少しずつ這うように前に進むのがやっとで、視界もぼやける様になっていた。
ヒノデと私は触れ合うことを禁止され、別々の部屋に隔離されていた。何でも私の毛が彼女の肺に負担を与えるのだそうだ、ヒノデがなんと思っているかは分からないが、私は不服だった。だがしかし例え不服を感じていても、私は部屋と部屋を区切る僅かばかりの段差も乗り越えられぬのだ。
私は、気力だけでこの世にしがみついていた、トシチカの様に、ヒノデより先に死ぬわけには行かぬと、それはもう執念で、私は死んでいない、死んでいないと自分に言い聞かせていた。やがて夜眠るのも恐ろしくなって、私は意識的に寝る事を止め、たまの居眠りから目覚める時にすら、強い気力が必要になっていた。
ある日、何者かが私を抱え上げた、鼻はまだ聞くので探ってみと、恐らく侍女であろう。
侍女はゆっくりと廊下を歩いた、彼女は緊張していた。
やがて、ヒノデの匂い、どうやら部屋に入ったらしい。
「ヒノデ様、緋姫です」
ゆっくりと、侍女は私を降ろした。
震える足を引きずるようにして、私は匂いの強くなる方へと這う。
「ああ、緋姫」
ヒノデの声、良く聞こえるようにと、身を捩った。それほど消え入りそうな、弱弱しい声だった。
その時、私は何故私がここに連れてこられたかを理解した、なるほど、その時が来たのだ。しかし、その時の私は、悲しみよりも、誇らしさの方が大きかった。私は、私が果たすべき使命を果たしたのだと、もう体も、心も、ボロボロだったのだ。
「可哀想に」
彼女はそう言った。
「私が縛り付けたばっかりに、この世に生けるものの喜びを知れずに、行きたいところにも行けず、やりたい事も出来なかっただろう」
そんなことは無いと、私は否定したかった。ヒノデの傍にいることが私の喜びであり、私の行きたい所はヒノデの傍だった。
鳴こうにも、喉がかすれ、何の鳴き声も出やしなかった。
布ずれの音、ヒノデの手が、弱弱しくゆっくりと私を撫でる。この匂いは、涙の匂い。
「あわよくば」
ヒノデが続ける。
「あわよくば、生きて欲しい、私の子供達や、彼らが残す筈であった一族の分まで、緋姫や、お前には自由に生きて欲しい」
それは無理だ、私は首を動かす。もう私は、気力だけ、常に蝕まれながら生きている身なのだ。
ふと、脳裏に、焔石が浮かんだ。あるいは、と思ったが、今更もう遅いと、諦めた。
ヒノデの指先が、小さく痙攣。うわ言の様に、侍女の名を呼ぶ。
「焔石、焔石を」
これまでと違って、強く、強く叫んだ。侍女をはじめその場に居る人すべてが慌てふためく。侍女の足音。
目先に置かれた焔石は、やはり異様な力を私に誇示していた。
しかしやはり、私は素直にそれを受け入れることはできないでいた、その力を得れば、たちまちの内に私は、ヒノデの手の届くことのない存在になるだろう。それで果たして良いのだろうか。
彼女の方に首を向ける、彼女は小さく、緋姫、と繰り返していた。
それを聞き、私は覚悟を決めた。ヒノデ、否、母にとって、私がこの力を得る事が、彼女の望みであるならば、私は、それを叶えなければならない。
痛みを堪え、最後の力を振り絞って、私は焔石に触れた。途端に全身が振るえ、カッと体が熱くなる。しかし、私はそれを受け入れ、目を閉じた。
全身に力漲り、頭が冴える、頭が冴えると同時に、私はようやくヒノデが置かれた立場やこの世の仕組みについて理解するに至った。怒りと、悔しさ、そして情けなさ。
やがて目を開くと、私の全身は金色に輝くに至っていた、ぼやけていた視界もはっきりとし、布団に寝かされたヒノデの変わり様に、驚きと、怒りを覚えた。
部屋にいたものが全員が、私を見て、妖だ、と慌てふためく。何人かの男は武器を取り、侍女は腰を抜かしていた。
私は彼らに哀れみすら感じて、ヒノデの頬を一つ舐めた。
ヒノデは目を開いて、私を見た。彼女は笑った。
「ああ、緋姫。なんと、美しい」
私の頬に伸ばされた手に、私は目一杯甘えた。この世でたった一人の、私の母に。
「緋姫、いきなさい。私は、幸せだった」
手が力を失い、布団に沈んだ。
私は再び彼女の頬を舐めた、しかし、もうそれは、人の肌ではなかった。
恫喝の声、何事かと部屋の入り口を見ると、老いた男が、大層な武器を片手に仁王立ちしていた。
その男は、支配者だった、トシチカの父、ヒノデの夫。
男は、外見だけは威圧、勇猛果敢を装っていたが、その内心が怯えと恐怖に苛まれていた。なんと稚拙なことか、この男は哀れである、少なくとも私にとって、この男は取るに足らない。我が母ヒノデは、騙されていたに違いない、例え人であれど、我が母ヒノデがそこまで哀れな訳あるまい。
私は怒りを携えて、男に歩み寄った。体中から熱気ほとばしり、九つに増えた尾は隙なく揺れる。
じりり、男はたじろいだ。もし男がその武器を私に振るえば、私は遠慮なく、この男の喉笛に食らいついてやろうと思った。しかし、もしそうでなければ、私はこの男に手を出さぬ、この男は、いずれ近いうちに死ぬのだ、我が母ヒノデの魂は、この男の魂とは遠く、遠くにあって欲しかった。
道を明けろ、言葉にせずとも、私は男の本能に語りかけた。男はじっと私の目を見る、偽りであろうと、その度胸はかってやる。
男は武器を下げ、道を明けた、がやがやと集まった人共がざわめく。しったことか。私はちらりヒノデの振り返る、未練などない、私はもうここにいるべきでないのだと言い聞かせ、ひらり、その場を後にした。
決して人の目の届かぬ場所で、カメールとキュウコンが対峙していた。
キュウコンの方はもう随分と高齢で、地面に体を預けていた。
「それから私は故郷の山に帰り、ヒノデの言葉通り自由に生きた、腹がへれば食い、寝たければ目を閉じ、気に入れば愛し、気に入らなければ殺した。やがて私はありとあらゆる生物から恐れられるようになっていたが、それも気にはならなかった。それこそが自由だと思っていたからだ」
少し、思い出すように間を開け。
「それから百年ほど経って、貴方に出会った。これまで貴方に話した事はなかったが、私の名は緋姫、私の母は、人だ」
ふふふ、と緋姫は笑う。
「貴方の息子と同じです。私もまた人に触れ、人によって自らを成長させた、貴方は嫌うかもしれないが、今の私は、人によってある」
カメールは腕を組んだままううむと唸った。
「分からぬ、私はこれまで、人と触れ合うなど考えたこともなかった、そんな事をするよりも成すべき事があったし、人は私と釣りあわないと思っていたからだ。キュウコン、否、緋姫よ、後悔はあるのか」
「まさか、これっぽっちもありはしない」
きっぱりと否定する緋姫に、カメールは頭を掻いた。
「ううむ、これは考えてみる価値がある、我々と人、人と我々だ。我々は森羅万象の掟に背いてまで、彼らと心通わす必要はあるのか。人にその価値はあるのか」
よし、とカメールは立ち上がる。
「少しばかりの間、里に降りてみようと思う」
緋姫は驚いて首を擡げた。
「まさか、貴方ほどの者が」
「疑問を疑問のままにしていても良いことは無い、ここより北に行った地に、生まれ落ちて半世紀もの間、人と共に生きたペラップがいると聞く、彼ならあるいは何かを知っているかも知れぬ」
「わ、私もぜひお供に」
ヨロヨロと立ち上がる緋姫をカメールは嗜める。
「体に負担がかかると思うぞ、案ずるな、百年もすれば帰ってくる」
「ならば、ボングリに入ってお供します。貴方の身に危機迫れば、たちどころに私の業火で焼き尽くしてしまいましょう」
その言葉にカメールは高らかに笑った。
「そこまで言うのなら構わん。共に行こう、人を見極めに」