第九話
「ごめん、ごめんチマリ」
シンプルな謝罪だった、だがチマリにとってこれ以上の事はないだろう。チマリは先ほどのデンジの言葉を聞いているしこれ以上の言葉は言い訳になってしまう。二人が和解する事にめんどくさい手順は必要無い。
チマリはデンジの背に手を回し、思いっきり抱きしめた。彼女の体から緊張とプレッシャーが抜ける。
見ると、チマリは泣いていた、あれだけ泣いたのにまだ涙が出ることに少し驚いた。
「デンジさん。私強くなる」
「もう良いんだ」
「私強くなる、強くなるから、だから」
チマリはデンジから離れ、ジャケットの袖で涙を拭き、しっかりとデンジを見据えて言った。
「もうこんな事はしないで、いつも全力で戦って、わざと負けたりなんかしないで」
俺がナギサにきて始めてデンジにチマリが意見をするところを見た。
恐らく、これはチマリとデンジの主従関係が構築されて以降初めてのことだろう。むしろ、この最悪な形の主従関係は今終わったともとれる。
「あぁ、わかった」
デンジの顔は安らかだ、自分を縛っていた鎖が解けたのだから当たり前なのだろうが。
「勝手に解決されても困りますな」
扉の影から声がした。振り返って見るとロバートがいる。ハットを胸に当て、デンジに向かって軽くお辞儀をする。
驚いた、チマリがつけて来ている事には気づいていたがロバートには気づかなかったからだ。俺をつけてきたのか、それともチマリをつけてきたのかは分からない。
「盗み聞きしてしまった事は謝罪しよう。だが、それ以上の過ちをあなたは犯している。私の願い、聞き入れてもらえますかな」
デンジの影でチマリが怯えていた。無理もない、口調こそ大人しいもののデンジを責めるロバートは鬼気迫るものがあった、並のトレーナーなら戦う前から負けてしまうだろう。彼の気持ちも痛いほどに分かる、苦労して倒したと思えば、すべては弟子の為の狂言。だがロバートが怒りに感じているのはそこではないだろう。彼が怒りに感じているのは初めからデンジの視界に自分が入って居なかったという屈辱。
「ロバートさん、怒りに思うあなたの気持ちはよく分かる。申し訳ないことをした」
デンジは頭を下げる。
「私が欲しいのは謝罪でも偽りのジムバッジでも無い。このバッジはお返しする、だがすぐに取り返しますよ。私と再び戦ってもらいましょう、もちろん全力で。そして今度も私が勝つ」
もしロバートが並のトレーナーであったらこの事は見なかった事にするだろう、本気のデンジと戦って勝つなんてことは難易度が高すぎるからだ。いや、正直ロバートの実力ではデンジに勝つことは難しいかもしれない、一度手を合わせたから良く分かる。確かにジムリーダーと均衡する実力は持っているが相手が悪すぎる。それでも突っ走るということが彼がどれだけ高貴で勇敢で情熱的なトレーナーであるかを表している。
「わかりました、先ほどの試合の記録も抹消します。正式なジム戦を行うことを約束しましょう」
「再戦は今日だ。キリトさん、申し訳ありませんがお先に勝たせていただきますよ」
こちらを睨むロバートの目は、怖い。
「いえ、都合がいい。戦うなら夜が良いと言うところでした」
デンジはこれから二人のトレーナーと対戦することになる。ジム戦でトリプルヘッダーと言うのは非常に珍しい事例だ。しかも碌に仕事をしないことで有名なデンジが。
「無理よ! 今日はもう一回戦っているしこれから二人なんて」
俺たち二人に抗議するチマリをデンジが左手で制した。右手ではポケッチをいじっている。
「大丈夫だチマリ、簡単な事だよ、二回勝てばいいんだ」
その発言は余裕と言うより気持ちの切り替えの様に聞こえた。ロバートもそれを分かっているのだろう、その発言でイラついている様子はない。
「……今、午後三時三十二分です。ロバートさんの試合は四時からで宜しいですか?」
「いや、実はいろいろあってまだポケモンが瀕死のままなのです。回復と、作戦を練る時間を頂戴したい、朝と同じではあなたは倒せないのでしょう。五時からがいい」
ロバートがちらりと俺を見る、勘弁してほしい、戦いたいと言ったのは貴方だろうに。
「わかりました、キリトはどうする」
「六時以降ならいつでも、ロバートさんの試合が終わるのが遅けりゃその後でもいい」
デンジはチマリに何かを命じた、チマリが走って出て行く。急遽決まった対戦が二つに取り消せねばならぬ試合が一つ、さまざまな準備が必要なのだろう。
部屋の中は三人だけになった、デンジがもう一度頭を下げる。先ほどのものとは違い、本当に深々と。
「申し訳ない気持ちと、感謝したい気持ちがある。二人とも本当にすまない」
本当に誠意が込められている謝罪をされたら、恐らく今の自分たちのように返す言葉がなくなるのだろう。
「私は、再戦さえできれば後は言う事はありません。ただ、あの少女が救われたのは喜ばしい事だ。失礼する」
ロバートは手短に言うと出て行った。怒りが静まりそうになったのだろう。デンジに対する敵意が薄れてはまずいと判断したのだ。彼も自分の身の丈をある程度は理解しているようだ。怒りに身を任せ普段の自分以上のもの出そうとしている。
「ロバートさんは気の毒ですが俺は特に何も被害はないですから。まぁ必要以上に首を突っ込みましたけどね」
「君がいなければチマリは立ち直れなかった、本当にありがとう」
顔をあげたデンジの目には薄く涙が見える。なんて人だ、この人は弟子のために泣いているのだ。
「自分の目の前で女の子に泣かれりゃ深入りもしたくなりますよ。それに、彼女に強くなって貰う方が将来楽しみになる。それよりも、感謝の気持ちは戦いのときに出してもらいたい、あなたはチマリちゃんの事を考えすぎだ」
「わかってる、今日の戦いは俺のトレーナー人生で最も重要なものだ、フィールドで向き合う時目の前にいる人間がジムリーダーデンジだと思わない方がいい。八年前のシンオウ最強トレーナーデンジがロバートさんと君を迎え撃つ。ロバートさんにあのバッジを返す気はないし、君にバッジを渡すつもりもない、チマリにも約束したしな」
早速チマリの名前が出た。俺はこの二人に肩入れしてしまった事に少し後悔する。こんなことになるならば、デンジがこれほどの威圧感を持つようになるのならば肩入れしない方がよかったのかもしれない。
今すぐセンターに帰って作戦をなりなおさなければならない。この挑戦は予定よりもかなり早いものだし、ポールに入っているとっておきの準備はまだできてないし、今のままでは使い物にもならない。