たとえば雪がとけるように
さらさらと、水が流れていくのが聞こえる。山はふもとの方から、上へと向かって少しずつその雪化粧をはがしていき、その下から本来のごつごつとした岩肌が顔を出す。汚い。見慣れていたはずの山が今のマニューラにはとても不愉快に映った。
その光景にマニューラはまた元の穴に帰って引きこもりたくなる。この山に雪が降り積もって何もかもを隠してくれている間は、マニューラも何も考えずにいられた。冬に備えて貯めておいた食料を時々口にするだけで、日がなうつらうつらとする生活。ひとりきりの洞穴で、ひざと傷ついた心を抱えていた。その間、マニューラの心を抉ったあのことを思い出すこともなかったというのに、マニューラの心に空いた穴はぽっかりと口を開けたまま全く塞がってはいなかった。ただマニューラがそこから眼を背けていたというだけで。
「あのこと」自体はすごく月並みで、ありがちなことで、はっきり言って平凡なことだった。マニューラも他のポケモンたちがそれを経験しているのを聞いたことも、目にしたこともあった。なのに、それらはまるで自分には降りかかってこないことのように思っていた。嘲笑すらしていたかもしれない。自分ならうまくやれると思っていた。
マニューラはふらふらと目的もなく歩き続けた。すれ違うポケモンにも、近づいている春にも目をくれず。足は自然と山の上へと向かっていた。まだ汚い山肌を覆い隠してくれる、雪が残っているところを目指して。
吹いている風はまだ冷たかった。でもそれが、自分はまだ痛めつけられているんだと実感できるようでむしろ嬉しく感じた。このまま風に切り裂かれてしまいたくて、マニューラはわざと風に向かって歩いた。
足元は雪に変わっていた。一歩進むたびに足が柔らかくなった雪に沈み込む。ざくざくと音を立てて雪を踏みしめるごとに、ふわふわと頭の中に思い出が浮かんでは消える。彼女と一緒に花を摘んで飾り付けた春の日。まばらに生えた草の間で遊びまわった夏の日。そして破滅の秋。それらすべてに背を向けて、マニューラは歩き続ける。
彼女を好きになったのはいつのことだったか。春? それとも夏? あるいは出会った時からすでに、マニューラは彼女に魅惑されていたのかもしれない。結局いつからその気持ちが芽生えていたのかはよくわからないが、ある時ふと彼女との別れ際に、もっと一緒にいたいと願っている自分に気がついた。その時にはもう、その気持ちはずいぶん遠きく育っていて、今にも咲きそうなつぼみをつけていた。
そうして、思いを秘めたまま何度か会って、他愛のないおしゃべりを楽しんで、一緒に遊んだあとで、マニューラが彼女に思いを伝えた時、彼女はきっとにっこり笑って受け入れてくれると思っていた。そう信じていた。
――ごめんなさい。
――どうして。
――だって。
マニューラは頭を振ってその先の言葉を頭から追い出した。その言葉はマニューラを深く傷つけた。目をぎゅっと瞑って、頭をぶるぶる振る。マニューラの育てていた花は去年の秋、咲く前に立ち枯れしてしまったのだ。
しばらく荒い息をついたあとで、顔を上げたマニューラは目の端に何かを見つけた。足跡のない雪の上にぽつんと、確かに見覚えのある印があった。拾い上げてみれば、それは石ころに刻み込まれた印だった。その印をマニューラは知っている。マニューラが仲間同士で合図を送るときに使う印がある。この印は狩りをする時に「一緒に行動しよう」と伝えるもの。まぎれもなくマニューラ自身が刻んだものだ。夏の終わり、彼女に思いを伝える前に、恋の成就を願ってこの印を刻んだのだ。これを作ったことをすっかり忘れていた。
もしや、と思いマニューラは深く積もった雪をかき分ける。
雪の中から現れたのは石ころの塔だった。願いを込めてひとつずつ積み上げたケルンは雪の重みに崩されることなく、相変わらず立ち続けていた。あの夏の終わりにここで積み上げてから、マニューラが冬の間泣き暮らしている間にも、こうして立ち続けていたのだろう。
マニューラのかたく食いしばった八重歯の間から嗚咽が漏れた。始めは小さく、徐々に大きく。あんなに好きだったのに。一緒にいたいと思っていたのに。願いをかけていたのに。冬の間一度も会うことはなかった。ただ泣いているだけだった。彼女に会いたい。声が聞きたい。彼女を思い出すだけで、胸が熱くなってどうしようもなくなる。
マニューラは思いのこもった印の石を強く握りしめた。彼女に会いに行こう。元通りの関係には戻れなくても、せめて友達でいたい。また仲良くしてほしい。彼女はまだマニューラのことを友達以上には受け入れてはくれないけど。それでも。
あの時彼女の言った言葉。
「だって、私たち女同士じゃない」
今は駄目でもいい。いいと思えた。無理に変える必要はない。待つんだ。春が訪れるのを。また新たな芽を出して、育てればいい。
水は上に向かっては流れない。時は後ろに向かっては進まない。ゆるゆると、ゆるやかに流れていくのがいい。たとえば、雪が融けるように。